卷之二百十一 列傳第一百卅八

將軍家臣廿一

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次6
  1. 山名時氏
  2. 山名師義
  3. 山名氏清
  4. 土岐賴遠
  5. 土岐賴直
  6. 土岐賴康

山名時氏

山名時氏(やまな ときうじ)は、やや小二郎とも称した。八代前の祖である義範(よしのり)は新田義重(にった よししげ)の子で、山名三郎と称した(注:尊卑分脈、山名系図による)。源頼朝(みなもとの よりとも)に従って平氏を討った功により伊豆守に任じられた(注:尊卑分脈、東鑑による)。父の政氏(まさうじ)は弥二郎と称した。時氏は伊豆守・弾正少弼を歴任し、左京大夫となった(注:尊卑分脈、山名系図による)。

元弘年間、政氏とともに足利尊氏(あしかが たかうじ)に従って竹下で戦い、また尊氏の九州落ちにも従った。興国元年、子の師義(もろよし)とともに塩冶高貞(えんや たかさだ)を出雲で追撃し、これを殺した(注:天正本太平記による)。侍所別当となり、因幡・伯耆の守護を務めた(注:山名系図による)。

興国六年、荻野朝忠(おぎの ともただ)が丹波の高山寺城に拠ったため、尊氏は時氏に兵三千を率いさせてこれを攻め降した。正平二年、細川顕氏(ほそかわ あきうじ)が楠木正行(くすのき まさつら)と河内で戦って敗退した。尊氏は再び時氏・顕氏を派遣し、兵六千を率いて瓜生野で戦わせたが、時氏は大敗し、自ら七か所の傷を負い、軍勢は顕氏の軍を守って退いた。弟の兼義(かねよし)は戦死した。

正平七年、師義とともに伯耆で挙兵して出雲に至り、佐々木高氏(ささき たかうじ)の代官吉田厳覚(よしだ げんかく)を追い払い、使者を吉野に走らせて朝廷に帰順した。翌年、時氏は師義とともに兵五千を率いて丹波から、大納言藤原隆俊(ふじわらの たかとし)・楠木正儀(くすのき まさのり)らは淀から、ともに京都へ向かった。足利義詮(あしかが よしあきら)は神楽岡に陣を敷いたが、時氏はこれを攻め破り、義詮は東へ逃走した。さらに高師詮(こう の もろあきら)の軍を吉峰で破った。時氏はここで兵力が十分に集まるのを待って美濃で義詮を討とうとしたが、味方の兵は集まらず、一族も多くが離散した。朝廷もまた藤原隆俊を派遣して諸事を取り仕切らせた。時氏は思うようにいかず、ついに兵を引いて伯耆へ戻り、官軍もまた解散して帰り、京都は再び足利方の手に落ちた。

そのころ足利直冬(あしかが ただふゆ)は安芸・周防の間を流浪していた。時氏は「兵が味方に来ないのは、頼みとする大将の声望が重くないからだ」と考え、朝廷に奏上して直冬を大将として奉じた。正平九年、諸軍を率いて進撃すると、山陰の兵は風になびくように従った。足利高経(あしかが たかつね)・桃井直常(もものい ただつね)もまた北陸で挙兵してこれに応じたため、尊氏はこれを聞いて近江へ逃れた。翌年、時氏は直冬とともに京都に入り、官軍もこれに合流したが、尊氏は兵を率いて引き返し攻めてきた。時氏・直冬らは軍を分けて神南でこれを防いだが勝てず、兵をまとめて西へ引き返した。

義詮が吉野を侵したと聞き、その矛先が自分たちに向けられることを恐れて兵を集め城を修築して備えた。ほどなく美作を攻め、柰義(なぎ)・能仙(のせん)・篠向(しのむき)・大見丈(おおみたけ)など九城を攻略したが、倉懸城だけは堅く守られて落とせなかった。赤松貞範(あかまつ さだのり)が国境に出兵して倉懸城の救援を図ったため、時氏は小林重長(こばやし しげなが)を派遣して星祭嶽に駐屯させてこれを阻み、急いで倉懸城を攻め取った。

正平十七年、兵五千を率いて美作に至り、子の師義らに兵を率いさせて備前・備中を攻略させ、富田直貞(とみた なおさだ)を派遣して備後を攻略させた。直貞は敗退し、師義は但馬・丹波を巡撫したのち兵を引き返した。

正平十九年、時氏は人を遣わして義詮に次のように申し入れた。「私と将軍との間には、もとよりわずかな遺恨もありません。今回挙兵したのは、佐々木高氏を討って将来の戒めとするためにすぎません。どうか将軍が私の勝手な挙兵の罪をお赦しになり、私が攻略・平定した諸国を私にお与えくださるならば、以前と同じように忠節を尽くしましょう。」義詮は喜んで「山名が降れば中国地方は平定され、官軍は衰える」と言い、これを赦した(注:太平記による)。こうして因幡・伯耆・丹波・丹後・美作の五か国の守護に任じられた(注:太平記、山名系図による)。

その後髪を剃り、道静(どうせい)と号した(注:尊卑分脈、山名系図による)。建徳二年に死去した(注:山名系図、花営三代記、常楽記による)。

子は師義・義理(よしまさ)・氏冬(うじふゆ)・氏清(うじきよ)・時義(ときよし)・義数(よしかず)・義継(よしつぐ)・氏重(うじしげ)・高義(たかよし)・義治(よしはる)・氏頼(うじより)である。義理は修理権大夫(注:尊卑分脈、山名系図による)、弾正少弼となり(注:山名系図、花営三代記による)、弟の氏清とともに和泉・紀伊を攻めて功があった(注:花営三代記による)。これにより紀伊守護を加えられた(注:山名系図による)。のちに氏清とともに反乱を起こし、足利義満(あしかが よしみつ)を攻めたが、義理は紀伊で兵を集めるうちに出撃する前に氏清が敗死したため降伏を願い出た。義満はこれを聞き入れず、大内義弘(おおうち よしひろ)に命じて討たせた。義理の軍は潰走し、逃亡して僧となり、その後の行方は知れない。氏冬は中務大輔・因幡守護となり、氏清とともに挙兵したが、ほどなく再び降伏した(注:明徳記による)。時義は兄師義の養子となり(注:尊卑分脈、山名系図による)、兄の義理らとともに和泉・紀伊を攻めた(注:花営三代記による)。義数は上総介となり、氏清とともに敗死した(注:山名系図、明徳記による)。義継は信濃守、氏重は右馬助となり(注:尊卑分脈、山名系図による)、義理に従って和泉を攻め、戦死した(注:明徳記による)。高義は修理亮、義治は駿河守となった(注:尊卑分脈、山名系図による。氏頼の事績は欠けている)。

山名師義

山名師義(やまな もろよし)は、初め師氏(もろうじ)と名乗り、右衛門佐となった(注:太平記、山名系図による)。

わずか十四歳のとき、父時氏に従って塩冶高貞を追撃し、疾走して湊川まで至ったが、日暮れとなったため止まった。師義は従者に「敵は昼夜兼行で逃げている。追いついてから夜明けを待つ余裕などない。私は夜のうちに追い討ちをかけたい。屈強な馬を持つ者は来い」と言い、時氏に告げないまま出発した。小林重長ら十二騎がこれに従った。十六里を駆け、明け方に賀古川(かこがわ)に至ると、高貞の弟六郎ら七人が対岸から矢を射て防いだ。師義はまっすぐ進んで自ら六郎を斬り、残りの兵をことごとく討ち取り、首を道端にさらした。高貞はその隙に逃れて小塩山まで至ったが、さらに追いつき、従う兵三人を斬った。高貞はまたも逃げ去り、師義は馬が疲れて追走できなくなったため、時氏の到着を待ってともに出雲に入り、高貞は自害した。

正平七年、足利義詮に従って男山を攻めた。官軍は淀橋を切り落として守っていたが、折しも雨で水かさが増していたところ、師義は浅瀬から軍を渡らせてこれを撃退し、諸将とともに進んで男山を陥落させた。

かつて足利尊氏は若狭の今積荘(いまづみのしょう)を師義に与えると約束していたが、果たされないまま尊氏は世を去った。このとき師義は、男山での戦功によってその地を得ようとした。当時、佐々木高氏(ささき たかうじ)は義詮に重用されており、その言うことに義詮が従わないことはなかった。師義はたびたび高氏のもとを訪れて願い出たが、高氏は師義の功をねたみ、そのたびに会おうとしなかった。師義は長らく立って待たされ、大いに怒って「私は将軍家の一族でありながら、頼み事があってお前を訪ねたのに、このような無礼を受けるとは。今こそ兵を挙げてお前たちを討ち滅ぼし、胸のすく思いをしてやろう」と言った。伯耆に馳せ戻って時氏にすべてを告げ、ともに謀って朝廷に帰順することを決めた。

翌年、時氏に従って官軍と合流し、京都で義詮を攻めてこれを敗走させた。正平十年、また時氏とともに京都に入った。義詮は高氏らを率いて神南山に陣を敷いた。師義は手勢と官軍数千を率い、険しい地形を踏み越えて進み、白兵戦で義詮の軍に迫った。高氏の旗印を望み見て大いに喜び、兵たちに「私が挙兵したのはもとより謀反を企てたのではない。ただこの老いぼれを斬って以前の恥をすすぎたいだけだ。急いでその首を取ってこい」と言うと、皆が我先にと攻めかかった。義詮は数騎を放って高所から攻め下ろさせ、師義の軍はついに大敗し、戦死者は数え切れなかった。

小林重長がただ一人で踏みとどまって戦っていたため、師義は従者とともに引き返して救おうとしたが、敵が矢を雨のように射かけ、矢が左目に当たって耳の後ろまで貫き、乗馬も傷ついて倒れたため、師義は自害しようとした。河村頼秀(かわむら よりひで)が駆けつけて師義を自分の馬に助け上げ、福間三郎(ふくま さぶろう)に手綱を引かせて逃がし、自らはその場に留まって戦死した。師義は血が目に流れ込んで方角も分からなくなり、しきりに「河村、河村」と呼んだ。福間が「河村は死にました」と答えると(注:「連呼」以下は西源院本による)、師義は「手綱を取っているのは誰だ。私を敵の中へ駆け入らせてくれ。河村と同じく死にたい」と言った。福間は「馬はまさに敵に向かっております」と偽って答え、そのまま本軍まで駆け戻った。

師義は使者を義詮のもとに送って頼秀の首を丁重に葬るよう願い出て、また戦死した兵士をことごとく記録し、因幡の仏寺で供養させた。

正平十六年、美作を攻略して数城を取った。翌年、二千余騎を率いて備前を攻略した。松田某らが城を守って出撃しなかったため、多治目某らを派遣して備中松山城を攻めさせ、秋庭某が内応した。高師秀(こう の もろひで)は城を捨てて逃げ、国中の兵士は次々と降伏して従った。師義はさらに兵を進めて播磨を巡撫しようとした。仁木頼勝(にっき よりかつ)が但馬に拠っていたため、但馬の人長某(ちょうぼう)・安保信禅(あぼ しんぜん)らと兵を合わせてこれを攻めた。小林重長を派遣して兵七百で丹波を攻略させ、仁木義尹(にっき よしただ)らと対峙したが、兵糧が尽きて引き返した。

後に時氏とともに義詮に降伏し(注:太平記による)、小侍所となり、髪を剃って道興(どうこう)と号した(注:山名氏清による)。天授二年に死去した(注:尊卑分脈、山名系図、花営三代記、常楽記による)。弟の時勢(ときよ)を養子として跡を継がせ、伊予守とした(注:尊卑分脈、山名系図による)。元中六年、時勢は死去した(注:尊卑分脈、山名系図、常楽記による)。師義の子は義幸(よしゆき)・氏幸(うじゆき)・義熙(よしひろ)・満幸(みつゆき)である(注:尊卑分脈、山名系図による)。

山名氏清

山名氏清(やまな うじきよ)は、民部少輔となり、陸奥守に任じられ、丹波守護となった(注:山名系図による)。兄の義理とともに吉野を攻め、その功により和泉守護を加えられた(注:花営三代記、明徳記による)。

弟の時義(ときよし)は但馬にあって欲望のままにふるまい、義満はこれを討とうとしたが、折しも時義が病死した。子の時熙(ときひろ)・氏之(うじゆき)らはますます横暴になり、氏清は義満にこれを讒言した。義満は氏清と満幸(みつゆき)に命じてこれを討ち平らげさせたが、時熙・氏之はひそかに京都に入り、「私どもには実際には罪はなく、一族の讒言による災いを受けただけです」と訴えた。義満はこれを憐れみ、折しも氏清が宇治で宴を設けて義満を招いたので、義満は氏清に時熙らとの和解を選ぶよう諭そうとした。

満幸はこれを聞いて氏清に「将軍が我々を非難しているというのに、聞き入れないわけにはいくまい。いっそ病と称して欠席しよう」と言い、氏清はこれに従った。満幸はほしいままに上皇の御領を掠め取り、義満は書状でこれを諭したが聞き入れなかった。上皇の使者が到着すると、満幸は人を遣わしてこれを追い返させた。義満は激怒し、守護職を奪おうとして本国へ帰るよう命じた。満幸は丹後に踏みとどまり、義満はついに時熙らを赦免した。

満幸は憤慨し、和泉に来て氏清に「先に将軍は私に彼らを討てと命じておきながら、今度はまた彼らを赦した。必ず次は我々を討つだろう。先手を打とう」と言い、氏清はこれを承知した。義満はこれを聞いて兵を発しようとしたが、氏清は偽って誓書を献じて謝罪し、そのまま紀伊へ赴いて義理に会い、この計画を告げたところ義理は不可としたが、強く説いてついに承知させた。

そこで氏清は和泉から兵を発し、満幸は丹後から兵を発した。氏清は男山まで進み、配下の小林某に「かつて新田左中将(新田義貞)は南朝を助け、その名は天下に鳴り響いた。私もその一族である。天下を取ることに何のためらいがあろうか。かつて私は錦の御旗を南朝から得たと言った。今こそこの旗を掲げよう」と語った(注:尊卑分脈には、氏清は南朝の詔を受けて挙兵したと称したが、これは一時の偽計にすぎないとある)。

小林は涙を流して「今日のこの企ては、必ず失敗すると分かっています。なぜなら、恩を裏切り主君をないがしろにして、どうして事が成るでしょうか。逃げれば勇に欠け、戦えば義に反します。私はむしろ戦って死にましょう」と言った。小林は義数(よしかず)とともに先陣を切って二条大宮まで至り、大内義弘と戦って互いに死傷者を出した。義数は小林に「なぜ将軍の陣を突かないのか」と言い、二人はともに進んだが勝てずに戦死した。氏清はこれを聞き、「私は必ずこの二人が死んだ場所で死のう」と言い、大宮まで進んで時熙らと戦い、これを破った。しかし一色詮範(いっしき あきのり)らが攻めてきて、氏清はついに敗死した。満幸は内野から進んだが敗れて逃走した(注:明徳記による)。

かつて時氏は常に子らを戒めて「我が子孫には必ず謀反を起こす者が出るだろう。元弘の乱の後、私は上野の山市に住み、農民に交じって苦難をなめ尽くした。今や身は安楽に暮らし、将軍の恩は深い。それでもなお驕りの心を持つ者がいるかもしれない。まして子孫の代になれば、もはや主君や父祖の恩を知らず、驕り高ぶってわがままにふるまい、必ず上から疑われる者が出るだろう」と語っていたが、後に果たしてその言葉の通りになった(注:難太平記による)。

土岐賴遠

土岐頼遠(とき よりとお)は、七郎と称し、その先祖は源頼光(みなもとの よりみつ)に出る。頼光の子頼国(よりくに)は美濃守となり、子孫は美濃に住んだ(注:尊卑分脈による)。頼遠の六代前の祖である光信(みつのぶ)は鳥羽上皇に仕え、いわゆる四天王の一人であった。左衛門尉となり検非違使を兼ね、出羽守に任じられて従五位上に至った。初めて土岐に住んだことから、これを氏とした。父の頼貞(よりさだ)は北条貞時(ほうじょう さだとき)の外孫で、弓馬に長け、和歌をよくし、伯耆守に任じられた。のちに髪を剃り、存孝(ぞんこう)と号した。

頼遠は弾正少弼に任じられ、美濃守護となった(注:尊卑分脈、土岐系図による)。建武二年、足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、官軍は道を分けて討伐に向かった。頼遠は足利直義(あしかが ただよし)に従って矢矧川(やはぎがわ)で防いだが敗れて退いた。官軍が迫っていると聞き、足利高経・佐々木高氏らとともに夜のうちに竹下まで馳せ参じたが、その勢はわずか百騎ほどであった(注:兵数は誅異本太平記による)。夜明け、尊氏が到着すると、頼遠らはそのまま先鋒となり、中務卿尊良親王(たかよししんのう)の軍を攻めて敗走させた(注:太平記による)。

延元元年、また尊氏の九州落ちに従い、直義に従って菊池武敏(きくち たけとし)を多々良浜(たたらはま)で防いで功があった(注:諸異本太平記による)。そのまま京都に入り、東寺に拠った。官軍が攻めてくると、尊氏は頼遠らにこれを防がせた。頼遠は大納言藤原師基(もろもと)・左衛門督藤原実世(さねよ)と五条大宮で戦い、これを破った。時に新田義貞(にった よしさだ)が東寺に迫っていたが、頼遠は引き返して諸軍とともに義貞の陣の背後を突き、幾重にも包囲したため、義貞はかろうじて逃れた。

延元三年、鎮守府大将軍源顕家(みなもとの あきいえ)が大軍を率いて西上した。上杉憲顕(うえすぎ のりあき)・桃井直常は美濃まで追撃し、頼遠は兵を率いて洲股(すのまた)に出て会した。諸将は「顕家の軍が宇治・瀬田に至るころには、将軍(尊氏)は必ず橋を落として防ぐだろう。我々が背後から挟み撃ちにすれば勝てないはずがない」と議論した。頼遠は「敵兵が目の前にいるのに、これを見逃して行かせ、その後を追い討ちにするなど、諸君は自分の都合だけを考えているのか。世間の人は何と言うだろう。私はただ戦って死ぬのみだ」と言った。直常は「よかろう」と言い、諸将の議はこうして定まった。

頼遠と直常は兵を合わせて青野原(あおのがはら)に陣を敷き、顕家と大戦したが敗れた。さらに敗残の兵を集め、少将源顕信(あきのぶ)の陣に突撃した。奮戦のすえ、頼遠・直常はともに傷を負い、従う兵はほとんど失われた。頼遠は退いて長森城(ながもりじょう)を守った。尊氏は兵を派遣して黒地川(くろぢがわ)で顕家を迎え撃たせた(注:太平記による)。頼遠はその背後を突いたため、顕家は前進できず、ついに伊勢路を通って去った(注:難太平記による)。

翌年、脇屋義助(わきや よしすけ)は越前にあって北陸の数十城を回復した。足利高経は黒丸城を捨てて逃げたため、尊氏は諸将を三方面から進ませてこれを救援させた。頼遠は美濃・尾張の兵を率いて大野郡から進み、高経らとともに杣山城(そまやまじょう)を攻めてこれを陥落させた。義助は美濃に逃れ、根尾城(ねおじょう)に籠もった。頼遠は甥の頼康(よりやす)とともにこれも攻め落とした。

頼遠はたびたび大功を立てたことで、勢いを頼んで驕り高ぶるようになった。興国三年、二階堂行春(にかいどう ゆきはる)とともに今比叡(いまびえ)の馬場で弓争いをし、一日中酒を飲み続け、夜になって馬を連ねて帰った。その途中、伏見殿から帰る途中の光厳院(こうごんいん)と出会った。行春は前駆の者が「警蹕(けいひつ)」と声を上げるのを聞いて、馬から下りて道の脇にひれ伏した。頼遠はひどく酔っていて、「今どき私に道を避けさせようとするのは誰だ」と罵った。前駆の者が「田舎者め、無礼な。院の御幸と知らぬのか」と言うと、頼遠は笑って「院か犬か(注:院と犬は音が近いことにかけた言葉遊び)。犬ならば射てくれよう」と言い、配下の者に命じて牛車を取り囲んで矢を射させ、軛(くびき)を折り、車の幌を破るなど、この上ない侮辱を加えた。

直義はこれを聞いて激怒し、「必ずこの者を極刑に処し、後の見せしめとせねばならぬ」と言った。頼遠と行春は恐れて、それぞれ本国へ逃げ帰った。直義は兵を派遣して討とうとしたが、行春は京都に戻って自首した。頼遠は自分が首謀者として罪を免れないと悟り、兵を挙げて抵抗しようと図ったが、一族の者は皆直義の命に従い、これに応じる者はいなかった。頼遠はひそかに京都に忍び入り、僧の疎石(そせき、夢窓疎石)を通じて助命を乞うたが、直義は聞き入れず、六条河原で斬った。

当時の武人は功をたのんで専横をきわめ、公家をないがしろにするのが習わしとなっていた。地方に住む者たちは、ただ尊氏がいることを知るのみで、上皇や天皇の存在すら知らない有様であった。頼遠が処刑されたと聞いて、人々は互いに戒め合い、無礼を働かなくなり、ようやく上下の分別をわきまえるようになった(注:太平記による)。

頼遠の子は氏光(うじみつ)・光明(みつあき)・直頼(なおより)・光行(みつゆき)である。氏光は今峰氏(いまみねし)と称し、左馬頭に任じられた(注:尊卑分脈による。太平記では「頭」を「助」に作る)。仁木義長(にっき よしなが)の養子となり、その勢力を借りて従兄の頼康の所領を奪おうと図ったため、義長と頼康の間に不和が生じた(注:太平記による)。光明は外山氏(とやまし)と称し、遠江守となった。直頼も外山氏と称し、近江守となった。光行は今峰氏と称し、駿河守となった。

頼遠の弟頼明(よりあき)は兵庫頭となり、髪を剃って法名を周済(しゅうさい)といった(注:尊卑分脈による)。頼遠が誅殺されたとき、頼明はその事件に関わっていなかったため美濃に帰った。正平二年、山名時氏・細川顕氏に従って楠木正行を攻めた。頼明は佐々木氏頼(うじより)とともに安部野(あべの)に別に陣を敷いたが、時氏が正行に敗退し、高師直(こう の もろなお)が四条畷(しじょうなわて)で正行を攻めると、正行は奮戦して諸軍は総崩れとなった。頼明も力戦して傷を負い、退いて師直の前を通り過ぎようとした。師直が「勇者もまた退くのか」と言うと、頼明は馬を返して敵陣に突入し、討ち死にした(注:太平記による。天正本太平記には、正平五年に周済は美濃で挙兵して足利義詮に叛いたが、義詮自ら兵を率いて攻め、周済は敗れて降伏した、義詮はこれを縛って京都に連れ帰り、六条河原で斬ったとあり、本書とは異なる。園太暦を調べると周済は「周請」に作り、祇園執行日記には「周清」に作る。そしてその注には「兵庫入道の子」とあるので、頼明とは別人であることは明らかであり、今はこの説を採らない)。

土岐賴直

土岐頼直(とき よりなお)は、悪源太(あくげんた)と称し(注:太平記による)、頼遠の兄である。蔵人となり、左衛門尉に任じられた(注:尊卑分脈、土岐系図による)。

父頼貞とともに足利尊氏に従って東寺に拠り、兵を率いて三条河原で官軍を防いだ。折しも中納言藤原隆資(たかすけ)が東寺を攻め、勢いに乗じて櫓を焼き払った。そのとき尊氏は諸方面に将士を分けて派遣しており、手元の兵はごくわずかで、ほとんど支えきれない有様であった。頼貞はかたわらにいて、「せがれがここにいれば、敵をこれほどまでに近づけさせはしなかったものを」と嘆いた。ちょうどそこへ頼直がやって来たので、頼貞は迎えて「事は急を要する。お前が行って敵を退けよ」と言った。頼直は返事をして駆け出したが、尊氏はこれを呼び止め、自らの佩刀を解いて与えた。頼直は羅城門のそばへ行き、矢を射かけて官軍数人を自ら斬り、官軍はこれによって退却した(注:太平記による)。

土岐賴康

土岐頼康(とき よりやす)は、頼遠の兄頼清(よりきよ)の子である(注:尊卑分脈、土岐系図による)。土岐氏は代々桔梗の花を旗印としており、一族は勢力が強く、出陣のたびに一隊を組んで「桔梗一揆(ききょういっき)」と呼ばれた(注:太平記による)。初め頼遠がその宗家の長としてこれを統率していたが、頼遠が処刑されると頼康がこれに代わった(注:尊卑分脈、土岐文書による)。美濃・尾張・伊勢の守護となり、美濃守に任じられた(注:尊卑分脈による。刊本の尊卑分脈では「伊勢」を「伊予」に作る)。

正平の初め、足利尊氏が弟の直義を鏡駅(かがみのえき)で攻めたとき、頼康は兵二千を率いてこれに従った。正平七年、官軍が京都を回復すると、足利義詮は近江へ逃れた(注:太平記による)。頼康は美濃・尾張などの兵を率いてこれに合流し、軍勢は大いに盛んになった(注:天正本太平記による)。そのまま義詮に従って京都に入り、諸将とともに男山を包囲してこれを陥落させた(注:太平記、園太暦による)。

翌年、山名時氏が官軍とともに京都で義詮を攻めたとき、頼康は山名師義と二条河原で戦い(注:「二条河原」は天正本による)、不利となって一族九十余人を失い、義詮に従って美濃へ逃れた。

正平十年、仁木義長とともに尊氏に従って京都を攻め、桃井直常・赤松氏範(あかまつ うじのり)と七条河原で戦い、一日に数十回も切り結んでこれを敗走させた。またこれに従って官軍と七条で戦い、細川清氏(ほそかわ きようじ)が奮戦して傷を負ったとき、頼康の兵五百騎が佐々木氏頼とともに進んで救援し、官軍を大いに破った。そのまま陣を進めて東寺に迫ると、官軍は勢いをくじかれて再び戦おうとせず、東寺を捨てて退いた(注:太平記による)。

尊氏が死去すると、頼康は髪を剃り、善忠(ぜんちゅう)と号した(注:尊卑分脈による)。

正平十四年、義詮に従って吉野を攻めた。かつて仁木義長は、頼遠の子である氏光を養子としていたが、氏光はひそかに義長の勢力を借りて頼康の所領を奪おうと謀っていたため、頼康は常にこれを恨んでいた。畠山国清(はたけやま くにきよ)が義長を除こうと図ったと聞くと、頼康はこれに賛同して協力した。義長はついに伊勢へ逃れた。頼康の一族である東(あずま)・池田(いけだ)両氏と小河中務丞(おがわ なかつかさのじょう)は、尾張の小河に拠って義長に呼応した。頼康は弟の直氏(なおうじ)に兵を率いさせてこれを攻め、中務丞を斬った。頼康はさらに佐々木氏頼とともに兵七千を率いて義長を長野城に包囲した。二年にわたって対峙したのち、義長はついに降伏した(注:太平記による)。

頼康は刑部少輔・大膳大夫を歴任し(注:尊卑分脈、土岐系図、太平記による)、従四位下に至って昇殿を許され、管領(かんれい)となった(注:尊卑分脈による)。天授五年、島田某が頼康を足利義満に讒言し(注:鎌倉大草子による)、義満は兵を発してこれを討とうとしたが、ほどなく疑いは解けた(注:花営三代記による)。元中四年に死去した。享年七十。建徳寺(けんとくじ)と称した(注:尊卑分脈、土岐聞書による)。

頼康には子がなく(注:土岐聞書による。尊卑分脈は満貞(みつさだ)を頼行(よりゆき)の子とするが、本書の説によれば土岐系図で満貞を頼雄(よりお)の子とする方が正しいと考えられるため、この説は採らない)、養子として蛭(頼行、ひる よりゆき)を跡継ぎとした。頼行は刑部大輔と称し、大膳大夫となった(注:尊卑分脈、土岐系図による)。のちに足利義満に叛いて敗死した(注:土岐系図による)。子の康政(やすまさ)は大膳大夫に任じられ、伊勢守護となった。

頼康の弟は頼雄(よりお)・頼忠(よりただ)・康直(やすなお)・直氏である(注:本書に記された名には異同があり、ここではすべては注記しない)。頼雄は揖斐(いび)と号し、出羽守となった。子の頼行が頼康の跡を継いだ。

頼忠は初め頼世(よりよ)と名乗り、池田(いけだ)と号して、美濃守・刑部少輔となり(注:尊卑分脈、土岐系図による)、弓馬に長けていた(注:尊卑分脈による)。頼行が乱を起こしたとき、頼忠は子の頼益(よります)とともにこれを討って功があり、義満は頼忠を土岐家の家督に命じた(注:土岐聞書による)。頼益は左京大夫に任じられ、尾張・美濃の間で戦ってしばしば敵を破り(注:尊卑分脈、土岐系図による。本書はその戦いがいつのことか記していないが、おそらく父に従って頼行を討ったときのことであろう)、その功により美濃守となった(注:土岐系図による)。これによって土岐氏は再び勢いを盛り返した(注:土岐聞書による)。

康貞(やすさだ)は弓の名手で、世に「悪五郎(あくごろう)」と呼ばれた(注:太平記、土岐系図による)。正平七年、頼康に従って官軍と荒坂(あらさか)で戦ったとき、山路が険しく官軍が雨のように矢を射かけたため、味方の兵は前進できなかった。康貞は身を挺して真っ先に進み、和田正忠(わだ まさただ)と斬り合ったが、正忠に討たれた(注:太平記による)。

直氏は伊予守・宮内少輔となった(注:尊卑分脈、太平記による)。足利義詮が吉野を攻めたとき、直氏は兄頼康に従った。直氏は細川清氏らとともに別動隊として龍泉城を攻めたが、諸将は城が険しいことを恐れて攻めかねており、数か月にわたって対峙していた。直氏は部下の戸蔵尚守(とくら なおもり)に「私が龍泉城を望むに、城の上に鳥や蔦が多く茂っている。これは必ず空城に違いない。兵法にいう『飛鳥驚かざれば、上に氛気(ふんき)なし』とはこのことで、敵が我々を欺くために作り物の人形を置いているに違いないと分かる。試しに部下だけでこれを攻め取ろう」と言い、急いで陣を引き払って馳せ向かった。細川清氏・赤松範実(のりざね)らも相次いで到着し、直氏の兵とともに柵を破って攻め入ると、案の定、守兵はすでに逃げ去っており、わずかに残っていた弱兵百人ほども戦わずして潰走した。そこで城に火を放って引き上げた(注:太平記による。戸蔵尚守の名は天正本による)。後に髪を剃り、信慶(しんけい)と号した(注:尊卑分脈による)。