卷之二百四 列傳第一百卅一
將軍家臣十四
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
北條泰家
¶北条泰家(ほうじょうやすいえ)は四郎と称し、北条高時(ほうじょうたかとき)の同母弟である(注:『太平記』による。同母弟であることは『保暦間記』による)。初めの名は時利といい、左近衛将監となった(注:『北条系図』による)。高時が執権を辞めた際、次に職を継ぐべきは泰家であったが、内管領の長崎高資(ながさきたかすけ)が独断で金沢貞顕(かなざわさだあき)をその職に就けた。泰家の母はこれを聞いて激しく怒り、泰家に髪を剃らせ、名を恵性(えしょう)と改めさせた(注:『保暦間記』による。恵性の号は『太平記』『北条系図』による)。元弘三年、名越高家(なごえたかいえ)が京都で戦死した。足利尊氏(あしかがたかうじ)が朝廷方に呼応すると、高時は武蔵・上野など六か国の兵を徴発して泰家に付属させ、西へ上らせようとした。まだ出発しないうちに、新田義貞(にったよしさだ)が兵を挙げて攻めてきた。高時は桜田貞国(さくらださだくに)・長崎高重(ながさきたかしげ)らを派遣して迎え撃たせたが敗れ、分倍(ぶばい)まで退いた。そこで泰家に兵を率いて援護させることとした。夜明け、弓兵三千人を並べて雨のように矢を射させた。義貞の軍は乱れ、これに乗じて兵を放って攻め立てた。義貞は大敗し、泰家は驕り高ぶり、敵軍の中には必ず義貞の首を斬って差し出す者が出るだろうと考えた。そこで陣を下げて休息をとった。兵はみな甲冑を脱ぎ鞍を外し、遊女を呼んで酒宴に興じた。ちょうどそのとき相模の三浦義勝(みうらよしかつ)が兵を集めて義貞に属し、翌朝、義貞は義勝を先鋒として旗を巻いて進軍させ、偵察の兵が報告に来た。泰家は「そういうこともあろう。三浦一族の者が徴兵されて出陣したのが、今ここに来ただけのことだ」と言った。兵たちはそれを信じて、もはや備えを固めようとしなかった。にわかに義貞・義勝が陣に迫り鼓を打ち鳴らして攻め寄せると、泰家は驚き慌てて陣を捨てて逃げた。義貞の追撃は激しく、関戸(せきど)にたどり着くころにはほとんど追いつかれそうになった。横溝某(よこみぞぼう)・安保道堪(あぼどうかん)ら(注:『太平記』本文、西源院本、『梅松論』では「堪」は「潭」に作る)数百人が引き返して戦い討ち死にし、泰家はそのおかげで逃げ延びることができた。義貞はついに鎌倉に入った。高時は葛西谷(かさいがやつ)に逃れ、泰家の家臣諏訪盛高(すわもりたか)は戦いに敗れて戻り、泰家に自害を勧めた。泰家は人払いをして語った。「これほどの敗乱に至ったのは、みな兄上の日頃の行いがみずから招いたことに過ぎない。しかし数代にわたる恩恵は人々の心に残っている。もし残された余慶が尽きていないならば、天がその子孫を永遠に絶やすことがあろうか。万寿(まんじゅ)は先に五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)に託してある。お前は亀寿(かめじゅ)を連れて行き、うまく隠して後日の再挙を図ってくれ」。盛高は泣いて別れを告げた。万寿・亀寿とは、高時の子である邦時(くにとき)・時行(ときゆき)の幼名である。泰家はそこで側近二十余人を呼び、こう戒めた。「お前たちは私が遠くへ逃げるだけの時間を稼ぎ、急ぎ屋敷に火を放って自害したように見せかけよ」。そうして駕籠に横たわり、血で汚した衣をかぶせた。南部太郎(なんぶたろう)・伊達六郎(だてろくろう)が駕籠かきの姿となってこれを担いだ。二人の兵は甲冑を着け馬に乗り、新田氏の軍の合言葉をまねて、護送の者を装って屋敷を出た。残った家臣たちは屋敷に火を放ち、外に出て「主君はすでに亡くなった」と叫んだ。二十余人の者たちはみな腹を切って果てた。兵士三百人も同じく命を絶った。泰家はついに陸奥へ逃れ、後にひそかに京都へ来て、権大納言藤原公宗(ふじわらのきんむね)の屋敷に身を隠し、髪を蓄えて名を時興(ときおき)と改め、刑部少輔(ぎょうぶのしょう)と称して、日々公宗と謀反を企てた。建武二年、公宗はついに時興に畿内の兵を率いさせ、北条時行に関東の兵を率いさせ、名越時兼(なごえときかね)に北国の兵を率いさせて、同時に京都を襲おうと謀った。しかしまもなく計画は露見し、公宗は誅殺された。時興は逃げ延び(注:『太平記』による)、その後の消息は分からない。
北條仲時
¶北条仲時(ほうじょうなかとき)は相模守基時(さがみのかみもととき)の子で、越後守となった。元徳二年、北条時益(ほうじょうときます)とともに六波羅(ろくはら)を守った。仲時は北方に、時益は南方に居した。時益は越後守時敦(ときあつ)の子で、左近衛将監となった(注:『平氏系図』『将軍執権次第』による。考えるに、『太平記』が元徳二年とするのは元弘二年の誤りである。元徳から元弘元年にかけて常葉範貞(ときわのりさだ)が両六波羅を兼ねて守ったとする説は誤りである)。元弘元年、北条高時は二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)および城越後守(じょうえちごのかみ)を派遣し、兵三千を率いて西へ上らせた(注:二人の将の名は天正本による)。仲時・時益に天皇を廃し護良親王(もりよししんのう)を害するよう命じた。その命令書はまだ開封されないうちに事が漏れ(注:『太平記』による)、天皇はひそかに宮中を抜け出し、大納言藤原師賢(ふじわらのもろかた)を天皇の乗る車と偽らせ、延暦寺(えんりゃくじ)へ向かわせた(注:『増鏡』『太平記』による)。仲時・時益はこれに気づかず、翌朝、貞藤らを遣わして天皇の車駕を六波羅に移そうとした。ちょうどそのとき延暦寺の僧豪誉(ごうよ)が来て、天皇が延暦寺に留まっていると告げた(注:『太平記』による。豪誉は異本では豪鑒あるいは豪芸に作る。『光明寺蔵書残篇』には、六波羅の役人神五左衛門(じんござえもん)が変事を告げたとある。どちらが正しいかは分からない)。仲時・時益はそこで小田時知(おだときとも)を派遣し(注:時知の姓は『尊卑分脈』による)、兵を率いて宮中を大々的に捜索させたが、天皇は果たしてそこにはいなかった(注:『増鏡』による)。そこで大納言藤原宣房(ふじわらののぶふさ)・中納言藤原公明(ふじわらのきんあき)・権中納言藤原実世(ふじわらのさねよ)・前参議平成輔(たいらのなりすけ)らを捕らえ(注:『光明寺文書残篇』『増鏡』による)、法皇・新院および皇太子量仁(かずひと)を六波羅に移し、近江守護佐々木時信(ささきときのぶ)および海東仲家(かいとうなかいえ)を派遣して(注:仲家の名は毛利家本・天正本による)、一万余の兵で延暦寺を攻めさせた。仲家は敗死し、時信らはかろうじて逃れて戻った。まもなく天皇が笠置(かさぎ)にいると聞き、楠正成(くすのきまさしげ)・桜山玆俊(さくらやましげとし)がともに義旗を挙げたので、さらに時信を大津(おおつ)に派遣して延暦寺に備えさせた。検断の糟谷宗秋(かすやむねあき)・隅田通治(すだみちはる)を派遣し(注:通治の名は今勝院本による。本書では「治」を「倫」あるいは「業」に作ることもある)、十万余の兵で笠置を包囲させたが、城は堅固で落とせなかった(注:『太平記』による)。ちょうどそこへ大仏貞直(おさらぎさだなお)・足利尊氏が東国の兵を率いて到着し、ただちに笠置攻めに向かわせた(注:『光明寺蔵書残篇』による。『元弘日記裏書』も参照した)。陶山義高(すやまよしたか)・小見山氏真(おみやまうじざね)ら(注:氏真の名は毛利家本・天正本の『太平記』による)五十余人が、夜に険しい崖を冒して藤蔓を伝って登った。ちょうど雨で辺りが暗く、ひそかに巡邏の兵の後ろについて諸陣を見て回ったが、誰何する者があった。すぐさま「夜回りだ」と答え、番兵をなだめて通り過ぎた。行宮(あんぐう)のそばに至ると、火を放って騒ぎ立てた。城外の兵は内応する者がいると思い込み、鼓を打ち鳴らして呼応し、その声は山谷を震わせ、官軍は驚いて崩れ潰えた。天皇は藤原師賢・藤原藤房(ふじわらのふじふさ)・源具行(みなもとのともゆき)らとともにひそかに包囲を抜け出し、赤坂(あかさか)へ行こうとした。貞直らはこれを追い、天皇および文武の諸臣・僧徒百六十人を捕らえた(注:『太平記』による。百六十人という数は毛利家本による。考えるに、本書には宗秋の部下陶山義高・小見山某が貞直らの来援を聞いて先に城に火を放って攻め登ったとあるが、『保暦間記』『元弘日記裏書』『光明寺蔵書残篇』『皇年代略記』『増鏡』によればそうではないので、本書の説は採らない)。仲時・時益は兵を率いて天皇の車駕を擁し、六波羅の南方に移した(注:『光明寺蔵書残篇』『皇年代略記』『増鏡』『太平記』による)。特に藤原藤房・源忠顕(みなもとのただあき)だけは近侍を許し、親王・公卿以下は諸将の家に拘禁した(注:『太平記』による)。大仏貞直・足利尊氏らに命じて、赤坂城の楠正成を攻めさせた(注:『光明寺蔵書残篇』による。『太平記』には、貞直らは途中で笠置陥落を聞き、そのまま赤坂へ向かったとある)。正成は城を焼いて死んだふりをし、桜山玆俊は兵が散り自殺した。仲時・時益は湯浅定仏(ゆあさじょうぶつ)に赤坂を守らせた。翌年、高時の意を受けて天皇を隠岐(おき)に移し、親王以下はことごとく配流あるいは殺害された。まもなく正成が定仏を攻めて降伏させ、進んで四天王寺に駐屯した。このとき近国の兵士が六波羅に大挙して集まった。仲時・時益はその強大な兵力を頼みにして正成を侮り、隅田通治および高橋宗康(たかはしむねやす)を派遣して(注:宗康の名は金勝院本による。本書では宗康を通俊に作ることもある。西源院本では兵数を七千とする)、五千余の兵で四天王寺を攻めさせたが、大敗して戻った。再び宇都宮公綱(うつのみやきんつな)を派遣して攻めさせたが、正成は軍を引いて退いた。このとき、護良親王は吉野(よしの)に城を構え、赤松則村(あかまつのりむら)は播磨(はりま)で挙兵し、楠正成は千剣破(ちはや)・赤坂の二城を守っていた。高時はそこで諸国の兵数万を発し、阿曽時治(あそときはる)(注:時治の名は『北条系図』による)・大仏高直(おさらぎたかなお)(注:高直の名は『保暦間記』による。本書に貞直とあるのは誤り)・二階堂貞藤らを、総督として京都へ向かわせた。翌年、仲時・時益は諸将を分けて派遣した。時治は赤坂へ、貞藤は吉野へ、高直は千剣破へ向かった。時治は十余日城を攻め、守将平野将監(ひらのしょうげん)は兵を率いて降伏した。仲時・時益はこれをことごとく斬って見せしめとした。諸城の官軍はこれを聞き、いっそう頑強に守りを固めた。貞藤はまもなく吉野を陥落させ、時治と兵を合わせ、高直と合流して、ともに千剣破を攻めた。あらゆる手段で攻撃したが軍はいつも不利で、士卒の死者は半数を超えた。吉野の義兵はさらに背後に集結し、兵糧の道を断った。軍中の士気は大いに沮喪した。仲時・時益は再び宇都宮公綱を派遣して助けさせたが、勝てなかった。そのころ山陽諸国の兵士を徴発していたが、途中で赤松則村に撃破され、その首将伊東惟群(いとうこれむら)ら(注:惟群の名は金勝院本による)は間もなく降伏した。則村はさらに備前(びぜん)三石山(みついしやま)に拠り、山陽・山陰の二道を扼したので、守護加治貞季(かじさだすえ)がこれを攻めたが(注:貞季の名は金勝院本による)、これも敗れた。則村の兵勢はいよいよ盛んになり、進んで摂津(せっつ)摩耶山(まやさん)に拠った。仲時・時益は四国の兵の到着を待って則村を攻める計画を立てた。ちょうどそのとき伊予(いよ)の土居通治(どいみちはる)・得能通言(とくのうみちとき)が挙兵し、長門探題(ながとたんだい)北条時直(ほうじょうときなお)を撃破した。これにより四国からの道が塞がれたので、佐々木時信および小田時知を派遣し、五千余の兵で則村を攻めさせたが(注:本書は天皇の船上山行幸を聞いてこの二人を派遣したとするが、この二人が則村を攻めたのは閏二月十一日であり、天皇の船上山行幸は二十八日のことである。よってここに記す)、大敗して戻った。仲時・時益は四方が騒然とし、緊急の知らせが日々届くのを見て、その混乱に乗じて天皇の車駕を奪う者が出るのを恐れ、隠岐守護佐々木清高(ささききよたか)に書状を送り、いっそう防備を厳重にさせた。まもなく天皇はひそかに海を渡って船上山(せんじょうさん)に行幸し、鎮西(ちんぜい、九州)がこれに呼応した。仲時・時益は再び兵一万を派遣して赤松則村を攻めたが、また敗れた。則村は勝ちに乗じて火を放ちながら進み、都の中は騒然となり、士卒はほとんど逃げ散った。仲時・時益は鐘を鳴らして兵を集めたが、集まったのは数百人に過ぎず、それも皆、兵事に不慣れな下級役人ばかりで、かろうじて馬にすがって走り回るだけであった。仲時は兵に戦う気力がないのを見て、座して敵を待つのは得策ではないと考え、隅田通治・高橋宗康を派遣し、二万余の兵で(注:天正本では五千とする)桂川(かつらがわ)で防がせたが、大敗した。則村は京都に進み入り、新帝および後伏見(ごふしみ)・花園(はなぞの)の二上皇は急ぎ六波羅に入り、北方に居を移した。仲時・時益は兵をすべて出し、七条河原(しちじょうがわら)に陣を布いた。則村は陣を整えて進まず、火を放って騒ぎ立てた。仲時らは敵の少ないのを見て、通治・宗康を派遣し、三千余の兵で八条(はちじょう)に陣を布かせた。陶山高通(すやまたかみち)(注:高通の名は天正本による。番馬蓮華寺過去帳では高通を清房に作る)・河野通治(こうのみちはる)の二千余人は蓮華王院(れんげおういん)に赴いた。高通は「率いている兵は寄せ集めで使い物にならない」と考え、そこで兵を分けて八条に駐屯させ、鼓を鳴らして声援とし、通治とともに精鋭の騎馬数百を率いて蓮華王院の東に出た。則村は八条の軍と戦おうとした。高通らは背後から不意打ちをかけ、則村の歩兵は疲れ果て、ついに敗走した。このとき通治・宗康は左衛門佐藤原忠俊(ふじわらのただとし)とともに(注:忠俊の名は金勝院本による)朱雀大路(すざくおおじ)で戦い、ほとんど退却しかけた。通治がこれを救おうとすると、高通は止めて言った。「今ここで助けに入って勝ちを得ても、彼らはついに我らの力を借りたとは言わず、かえって我らを欺いたと人に誇るだけであろう。勝敗がすでに決してから救っても遅くはない」。まもなく通治らは敗走し、高通・通治は駆けつけて救い、これを打ち破った。則村はさらに残兵を集めて戦いを督励した。高通・通治はまたこれを撃破した。通治・宗康の兵は勝手に住民を殺してその首を取り、功績を誇張して恩賞を求めることに務めた。翌日、これらの首をことごとく六条河原に晒したところ、「赤松円心(あかまつえんしん)」と札を立てられた首が五つもあった。円心とは則村のことである。京の人々はこれを評してこう言った。「人の首を借りて使ったところ、果たして子が生まれた。円心の分身であり、賊は尽きることがない」。則村はさらに散った兵を集め、八幡(やわた)・山崎(やまざき)に陣を布き、水陸両方の道を扼した。京都の商人の行き来が途絶え、糧食の運搬が日に日に困難になったので、仲時・時益は五千余の兵で山崎を攻めさせたが、うまくいかずに戻った。延暦寺の僧徒が再び蜂起し、護良親王の令旨を奉じて攻めてきた。その兵は十余万と号した。仲時・時益は、僧徒は徒歩で戦うから騎兵で破れると考え、七千騎を七隊に分けて前を撃ち後ろを掩い、退いては進みして僧兵を疲れさせた。疲れたところを見計らって矢を集中して射させると、僧徒は敗走した。仲時・時益はさらに十三の荘園を延暦寺に寄進した。そして僧の中でも高位の者には、それぞれ一、二か所の便利な場所を与えて、事態の鎮静を祈願した。実際には利益で餌付けをして、その謀略から引き離そうとしたのであり、これによって帰順する者がやや多くなった。それでもなお再び叛くことを懸念し、佐々木時信らに兵三千を率いさせ、糺河原(ただすがわら)に陣を布いて備えさせた。陶山高通・河野通治らは、京都の南で赤松則村を防ぎ、これを大破して八百余の首を斬った。左近衛中将源忠顕は、恒良親王(つねよししんのう)を奉じて攻めてきた。仲時・時益は京都の西に櫓(やぐら)を築き、兵士を城壁に立たせて防がせた。ちょうど町中の数か所から火が起こり、煙と炎が日を覆い、士卒は驚いて振り返り、官軍はこれに乗じて先を争って進んだ。時信らは五千の兵で防戦し、さらにこれを大破した。副将大田守延(おおたもりのぶ)は戦死し、忠顕は軍を引いて戻った。仲時・時益は戦勝を頼みにいくぶん気を緩めたが、ちょうど勇猛な将結城親光(ゆうきちかみつ)が、突如として官軍に寝返り、これ以降、将士の逃亡が相次いだ。仲時・時益はたびたび高時に急を告げ、高時はただちに名越高家・足利尊氏らを派遣して援護させた。しかしまもなく高家は赤松則村と久我畷(こがなわて)で戦って敗死した。尊氏は朝廷方に帰順し、則村および源忠顕らとともに兵を合わせて六波羅を攻め返した。これより先、諸将を派遣して千剣破を攻めさせていたが、長らく落とせなかった。六波羅の兵は少なく、救援の道は絶たれていた。仲時・時益は「平地は守りを固めるのに不便である」と話し合い、そこで堀を掘り砦を築き、六万の兵を三つに分けて、神祇官(じんぎかん)の前で尊氏を防ぎ、東寺(とうじ)で則村を、竹田(たけだ)で忠顕を防いだ。しかし戦いに敗れ、六波羅に退いて守った。官軍は砦に迫り、忠顕の兵は門に火を放って急襲したが、ちょうど僧兵が五条(ごじょう)で藤原雅忠(ふじわらのまさただ)を防ぎ、これを退けた。まもなく城内の兵は夜のうちに門を開いて先を争って逃げ出し、これを制止することができず、残った者はわずか千余人であった。糟谷宗秋は仲時・時益に言った。「城は守り切れません。幸い東側の包囲がまだ合わさっていませんので、天皇の車駕を奉じて鎌倉へ向かい、後の再挙を図るべきです」。仲時・時益はこれに従った。その夜、皇后以下城中の女性たちを城外に出し、新帝・上皇・新院・皇太子を守って東へ向かって走った。時益が先頭を進んだが、途中で兵士とはぐれ、糟谷時広(かすやときひろ)だけが従った(注:時広の名は金勝院本による)。土地の民兵が四方から雨のように矢を射かけ、流れ矢が時益の首に当たり、馬から落ちて死んだ。時広も自殺した。皇太子以下は四方に散り、その行方は分からない。新帝は流れ矢が左肘に当たったが、陶山高通がその血を吸い出し、馬に乗せて支えながら進んだ。まもなく夜が明け、さらに途中で民兵数百人に出遭い、戦ってこれを打ち破った。従う士は次々と逃げ去り、残った者は六百余人であった。糟谷宗秋が先導し、仲時は新帝を守り、佐々木時信が後方を防いだ。翌日、番馬嶺(ばんばみね)に至ると、民兵が道の両側で弓を引き絞って待ち構えていた。宗秋はその先鋒を撃ち破ったが、後続の軍数千が連なって嶺を占拠していた。宗秋は矢が尽き兵が疲れ果てているのを見て、なすすべもなく、道端の仏堂に入り、仲時が到着するのを待ってこう言った。「私にはまだ一戦する力が残っております。しかし土岐(とき)・吉良(きら)の一族はみな去って足利氏に従っており、我らが東へ下ると聞けば、必ず兵を出して邪魔をするでしょう。今、これほど寡弱な兵でこの危険な道を進むのは、とても切り抜けられそうにありません。時信と相談し、近江(おうみ)へ退いて要害に拠って守り、鎌倉からの援軍を待つことをお勧めします」。仲時は言った。「私もすでにそのことは考えていた。ただ、今の情勢ではたとえ時信であっても異心がないとは保証できない。しかし今日のことは、諸君の考えに従うほかあるまい」。そこで兵を留めて時信の到着を待った。ところが時信はたまたま後方に残っており、途中で仲時がすでに敗死したと聞いて、官軍に帰順した。仲時は時信がすでに叛いたと判断し、もはや逃れられる情勢にないと悟って、従う士たちに言った。「諸君は日頃の誼みを忘れず、ここまで付き従ってくれた。しかし私は命運も力も尽き果て、報いる術がない。ただ私の首を持って源氏に降り、罪を謝して咎めを免れてほしい」。そしてついに切腹して死んだ(注:『太平記』による)。享年二十八であった。糟谷宗秋以下、殉死した者は四百三十二人であった(注:『太平記』『蓮華寺過去帳』による。『東寺長者補任』では二百八十余人とする)。仲時の子友時(ともとき)は(注:『北条家譜』による)、その後の消息は分からない。