卷之一百六十三 列傳第九十
藤原藤房、藤原季房、藤原俊基、源具行ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
藤原藤房
¶藤原藤房(ふじわらのふじふさ)は、初め惟房(これふさ)と名乗った。権大納言・宣房(のぶふさ)の長男である。(注:『尊卑分脈』による。)後醍醐天皇に仕え、左大弁に任じられ、参議を経て中納言に至った。まもなく左兵衛督・検非違使別当を兼ね、正二位に至った。(注:『公卿補任』による。)元弘元年、北条高時が兵を派遣して京の都を攻めようとしたとき、護良親王(もりながしんのう)が夜、使者を走らせて変事を知らせた。藤房と弟の季房(すえふさ)、大納言藤原師賢(もろかた)が宿直しており、天皇は彼らを召して相談した。藤房は「事態は急を要します。速やかに宮中を出るべきです」と言った。そこで車を婦人の乗るもののように仕立て、天皇と三種の神器を載せ、表向きは「中宮が北山第へ向かわれる」と称して陽明門を出た。三条河原(さんじょうがわら)に至る頃、尊良親王(たかよししんのう)や公卿数人が追いついてきた(注:尊良については毛利家本・天正本『太平記』・『増鏡』による)。天皇はさらに肩輿(かたごし)に乗り換えられた(注:『増鏡』では馬に乗られたとする)。大膳大夫重康(しげやす)、蔵人清藤(きよふじ)(注:二人とも姓は不明)、楽人の豊原兼秋(とよはらのかねあき)、随身の秦久武(はたのひさたけ)らがこれを担いだ。藤房らはみな身分を隠した服装で従い、奈良へ向かい、ついに笠置(かさぎ)に至った(注:『太平記』による。清藤については毛利家本・天正本『太平記』による)。ところが賊が夜、行宮を襲って火を放ち、煙と炎が四方に満ち、折悪しく風雨も激しかった。諸王・公卿は道に迷ってはぐれてしまい、ただ藤房と師賢、権中納言源具行(みなもとのともゆき)(注:師賢・具行については『増鏡』による)だけが天皇を助けて昼は隠れ夜は歩いた。天皇の足取りは大変な難儀で、三日かかってようやく有三山(注:『増鏡』では高間山とする)に至った。賊の兵、深須三郎(みすさぶろう)(注:三郎については『光明寺蔵書残編』による。『増鏡』では太郎とする)と松井某が天皇を探し当てて迫ってきた。天皇は深須に「お前たちはどうして天恩を戴いて自分の栄達を望まないのか」と言った。深須は内心天皇を逃がしたいと思ったが、松井が後ろにいるのを憚り、結局天皇と藤房、具行らを取り囲んで連れ去った。天皇は六波羅(ろくはら)の南方に入られた(注:藤房・具行を伴い、南方に入られたことは『光明寺蔵書残編』・『増鏡』による)。北条高時は藤房と左近衛少将源忠顕(みなもとのただあき)を天皇のもとに仕えさせることを許した。元弘二年、高時は藤房を常陸(ひたち)に流した。三年、高時が誅殺され、藤房は京に帰った。当時すでに天下は平定されており、天皇は権中納言藤原実世(さねよ)に勅して、恢復の功に対する恩賞を論定させた。将士は先を争って功状を提出し、集まった者は数万に及んだが、その多くは軍功を詐り偽っており、実世には真偽を見分けることができなかった。旬月を経て、ようやく二十余人を選定し、恩賞を与えた。まもなくその選考が乱雑であったとして取り消され、天皇は藤房に命じてこの事務を代わって扱わせた。藤房はそこで勤惰を訪ね調べ、真偽を見分けて、授与すべき者をほぼ定めた。ところが宮中からは特別な綸旨が下り、恩賜が多く行われた。藤房は諫めても無駄だと悟り、病と称して朝廷に出仕しなくなった。天皇はさらに民部卿藤原光経(みつつね)にこれを代行させた。光経は諸将に問い合わせ、軍士の忠誠の有無を確かめ、奏上して実行に移そうとした。しかし宮中からの内旨では、高時の所領は御料に充て、大仏真直(おさらぎさねなお)の所領は寵姫藤原氏に与え、北条家の所領は護良親王に賜り、その他は衛府の諸司や宮中の女官、寺院、歌舞雑伎の徒に分け与えて、ほとんど残る土地がなかった。功のあった将士は手ぶらのままとなり、光経にもどうすることもできず、いたずらに歳月を引き延ばすばかりであった。
¶天皇は復位の当初、政治に鋭意取り組んでいた。郁芳門(いくほうもん)の外に決断所を置いて雑訴を裁定し、天下は次第に事なきに至った。天皇はもはや憂うべきことはないと考え、そのまま宮中の奥深くに籠もり、音楽と女色を楽しむようになった。近侍の寵臣たちが専ら請託を受け、天皇の聡明さを覆い隠して悪事をほしいままにした。巧みにへつらい賄賂を贈る者は、望外の恩恵を得たが、功労によって自負する者の多くは滞って報われず、役人はいたずらに職位を占めて追従するばかりであった。せっかく論議して定めても、内旨によってしばしば改められ、担当の役所を通さなくなり、担当者は主張することもできなかった。そのため互いに矛盾を来し、あるいは一つの所領を同時に数人に授けることもあって、それぞれが所有を争って紛糾し、大いに世を騒がせ、天下は再び乱を思うようになった(注:『太平記』による)。当時の政治を批判する匿名の書を作る者があり、まず綸旨の乱れをやり玉に挙げた(注:『建武二年記』による)。建武元年、群臣は宮中が手狭であり、百官が官司の異なる者を同じ局に同居させているのは帝王の制度に合わないと奏上し、そこで大内裏の造営を命じたが、費用が非常にかさみ、諸国の地頭から租税収入の二十分の一を徴収しても足りなかった。そこで紙幣を作り銭を鋳造して費用に充てた。また二条高倉に馬場殿を建て、しばしば車馬で行幸した。遊宴のついでに騎射を観覧して楽しみとした。出雲守護塩冶高貞(えんやたかさだ)が千里の馬を献上したが、その骨相は尋常でなく、朝に出雲国を出て夕方には京の都に着くほどであった。天皇は大いに喜び、左馬寮で飼わせ、天馬と呼んだ。ある日馬場殿に行幸し、内大臣藤原公賢(きんかた)に「天馬の出現は、これまで聞いたことがない。朕の御代に当たって、求めもせぬのにやって来た。これはどのような瑞兆か」と尋ねた。公賢は故事をいろいろ引いて、時の瑞祥として讃えた。群臣は祝賀を述べたが、藤房は遅れて到着し、天皇はまた彼に尋ねた。藤房は答えて言った。
¶「私はこう聞いております。『周の穆王(ぼくおう)は八駿の馬を愛して政治が衰え、漢の文帝、光武帝は千里の馬を退けて国が栄えた』と。この二つの取捨の跡を見れば、治乱の結果はおのずと明らかです。この聖なる御代に天馬が現れたことについて、愚かな私にはそれが何の瑞兆であるか知る由もありません。しかし密かに思いますに、これは時世に至らぬ政治が多いために、天がとりわけ珍しい物を生じさせて陛下の御心を惑わせようとしているのではないでしょうか。なぜなら、今、天下はようやく定まったばかりで、民の傷はまだ癒えておらず、これはまさに執政の者が食事の手を止めてでも人々の声に耳を傾け、諫言する臣が意見書を奉り、苦しむ民を撫で慰め、過ちを正すべき時であるからです。しかるに多くの重臣や役人はへつらって陛下の御機嫌を取ることばかりに努め、放縦の風潮が広まり、国家の安危は放置されて顧みられておりません。私はその一、二を粗く申し上げますので、どうか陛下にはご賢察くださいますよう。かつて天皇が都を追われて流離なされた折、天下の軍士で先を争って義に赴いた者たちは、功を立てて恩賞にあずかり、栄達富貴を図ろうという志があり、幸いにも世が治まるのを迎えました。人々は天恩に浴することを願って宮門のもとに群集し、日々紀録所や決断所に押しかけては、それぞれの功状を提出しました。当初、その門庭はほとんど市場のようになり、首を長くして恩命の下るのを待ち望みました。差し出された訴状は積もり積もって山のようになりましたが、担当者はいっこうに決裁せず、やがて恩賞が及んだのは近習の寵臣か、その配下の者ばかりでした。功のあった将士の多くは記録から漏れ、憤り恨んで望みを絶たれました。すでに訴状を提出した者でさえ、もはや返答を待たずに次々と故郷へ散り帰り、時の政治の不正を密かに嘆き、役人の不公平を恨む者は幾千人いるか分かりません。それなのに人々は訴える者が日々減っているのを見て、これは虞(ぐ)と芮(ぜい)の国が訴訟をやめたように、陛下の徳化によるものだと思っているとすれば、なんと見当違いなことでしょうか。政治を議する臣たちは、恩賞を行い所領を分け与えて、士卒の平らかならぬ心を慰めるべきです。それなのに顧みれば、急を要さない造営の労役を盛んに興し、大内裏を造営して、郡県の租税負担を倍にも課しております。乱後の兵と農民は重い困窮にあるのに、厳しい取り立てが行われているのです。諸国では国司が権力を握り、目代の身分低い役人がその勢いを頼んで、貞応(じょうおう)以来新たに建てられた荘園を横暴に奪い取っております。在庁官人、検非違使、健児所などは、思うままに権勢を振るっております。一方、守護は職を失った嘆きを抱いております。将軍の家人という称号は、源頼朝以来、代々受け継がれてきたものですが、この聖代に至って一切廃止されてしまいました。将門(いくさかど)の士たちは伍卒に落とされ庶民に編入され、恨みつらみが少なくないのは当然です。足利尊氏、新田義貞、楠正成、赤松円心、名和長年らは、功績において同等一体であり、優劣はないはずです。ところが円心一人だけが以前補任された守護職を剥奪され、わずかに本領を賜っただけです。円心にどのような罪があったのか分かりませんが、陛下の彼への処遇はこの通りなのです。古人は『恩賞がその功に見合っていれば、忠義の者は進んで仕え、刑罰がその罪に見合っていれば、咎ある者は退く』と申しました。今の政治は、ただ恩賞と刑罰が見合っていないだけでなく、綸旨がころころと翻ることへの謗りをも招いております。陛下の政治がこのようであるところへ、この馬がたまたま現れたのですから、私が見るところ、これはむしろ禍いの萌しであり乱の始まりであって、恐らく祥瑞ではないでしょう。そもそも徳の広まりは、早馬を置いて命を伝えるよりも速く行き渡るものであり、聖なる徳化が及ぶのに、このような物は必要ありません。もし不逞の輩が朝廷の綱紀の緩みに乗じて、天子のお膝元で乱を起こすようなことがあれば、この馬はまさに軍国の急を告げる道具として役立つだけでございましょう。伏してお願い申し上げます、珍奇な物を愛でるお心を改められ、広く民を救うご仁徳をお施しくださいますように。」
¶天皇は大いに不快がってその場を切り上げた。藤房はその後もたびたび意見を上奏したが、聞き入れられなかった。藤房は「臣たる者の道は、私において尽くした」と言った。この年の冬、夜に天皇のお側に侍った折、比干(ひかん)や伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)の故事になぞらえて諷諫し、明け方になって退出すると、そのまま車も供の者も返して、北山の岩蔵(いわくら)に入って僧となった(注:『太平記』による。この年の冬とするのは『公卿補任』『歴代皇紀』による)。天皇は大いに驚き、宣房に命じて藤房を捜させ、再び任用しようとした。宣房は使者を走らせて藤房を召したが、藤房は和歌で答えた(注:使者を走らせて召した、以下は天正本『太平記』による)。宣房は自ら岩蔵まで駆けつけたが、藤房はすでに立ち去った後であった。後に足利尊氏が謀反を起こすに及び、天皇は勅使に天馬を乗せて新田義貞を尾張に召そうとしたが、馬は道半ばで斃れてしまい、まさに藤房の言葉の通りとなった(注:『太平記』による。天正本『太平記』には、藤房は僧となって侃山子(かんざんし)と号し、諸国を巡り歩いて、土佐に至った際に船が転覆して亡くなったとある。『吉野拾遺』には次のようにある。後村上天皇の御代、ある牧童が藤原実世の門を訪ねて「今朝、西の郊外へ行きましたところ、やつれた様子の僧がおり、この書状を届けてほしいと頼まれました」と言った。書状には歌が記されていた。実世がこれを見て藤房のものだと分かり、朝廷に参内してこれを奏上した。諸国の関所の役人に詔して探し求めさせたが、見つからなかった。脇屋義助(わきやよしすけ)が越前から吉野に参上して言うには、「家臣の畑時能(はたときよし)がかつて鷹巣山に入り、戻ってきて『山中で僧に出会った。岩を住まいとして草の敷物を敷き、石の上に仏経を置いていた。試みに尋ねると、僧はかえって時能の名を確かめ、やがて「貧道は東国の者である」とだけ答え、経を読んでそれ以上何も言わなかった。その顔つきは藤房に似ていた』と申しました」とのことであった。義助はそこで藤原行実とともに急いでその庵に赴いたが、僧はすでにそこにはいなかった。石の上に書かれた歌を、行実が藤房の筆跡だと認めた。なおも捜し求めたが、ついに見つからなかった、という。禅林の諸祖の伝を調べると、妙心寺の二祖・授翁宗弼(じゅおうそうひつ)が、すなわち藤房であると記されている。しかし今、事跡を考えるに、藤房はすでに世を遁れ、主君や父にすらその居所を知らせなかったのであるから、どうして関山慧玄(かんざんえげん)の法を嗣いで、京の都の名刹に赴くことなどありえようか。仮にそこへ赴いたとすれば、朝廷に仕える臣たちの中で、誰がその顔を見知らぬ者があろうか。これは決してあり得ないことである。藤房の家系は代々続き、今に至るまで名族であるが、その家では、そのようなことがあったとは伝えていない。『園太暦』などの実録にも、いずれも記載がない。僧英朝が『妙心寺記』を著すに至って、初めて附会してこの説を作った。近頃、僧の伝記を編む者が、これを引いて証としているが、思うにこれは誤った説であろう。三書の記すところは、いずれも明確な根拠がないので、今はこれを採らない。)弟の季房。
藤原季房
¶藤原季房(すえふさ)は参議に任じられ、右大弁・中宮亮を兼ねた(注:『尊卑分脈』『公卿補任』による)。天皇が笠置へ行幸するに及び、藤原中宮は野宮(ののみや)のかたわらに身を隠し、季房はこれに従った。まもなく髪を剃り、外に出たところを捕らえられた(注:『太平記』には季房は藤房とともに笠置で天皇に従って捕虜となったとあるが、これは誤りであろう)。高時は季房を下野(しもつけ)に流し、季房は配所で亡くなった(注:『増鏡』による。『太平記』では常陸とする)。子に仲房(なかふさ)がおり、官は権大納言に至った(注:『尊卑分脈』による)。
藤原俊基
¶藤原俊基(としもと)は、大学頭種範(たねのり)の子である。対策(たいさく)に及第し、左近衛将監、少納言、大内記に任じられた。元亨三年、蔵人頭に補された(注:『公卿補任』による)。代々儒学を家業とし、才学に優れていたため、特に寵愛を受けた。中納言藤原資朝(すけとも)とともに、朝廷の復興を図る謀議に加わった。職務が多忙で暇がないことから、常に引きこもって大事を計画する機会を得たいと考えていた。あるとき延暦寺の訴状の一件があり、俊基はわざと訴状中の「楞」の字を「慢」と読み違えた。人々は目にして「『相』の字は『木』と『目』とから成るが、これも『木』と読むのか」と笑った。俊基は恥じ入った様子を見せ、病と称して半年間朝廷に出仕せず、密かに修験者に身をやつして畿内、関東、西国を歴遊し、要害の地や風俗を、目にした限りことごとく調べ尽くした(注:『増鏡』には、俊基は紀伊の温泉に入って病を治療すると称して諸国を巡り歩いたとある)。資朝は宴遊にかこつけて俊基らとともに謀議を練った。また僧の玄慧(げんえ)に講義をさせた。やがてこの事が漏れ、北条高時は俊基と資朝を捕らえ(注:『太平記』による)、役人に取り調べさせて、いわゆる「無礼講」について尋問させた。俊基は「兵乱に関わることは、公家の関わるところではありません。無礼講などというものに至っては、それが何であるかも存じません。私は儒官であり、暇があれば僧の玄慧を招いて文の講義をさせておりましたが、これが誤って伝わったのではありませんか」と答えた。高時はその言葉に理があると考え、また朝廷の近臣であり才華に優れていることから、拷問にかけず侍所に預けた(注:島津家本『太平記』による)。翌年、高時はこれを許して京へ帰した(注:『増鏡』『太平記』による)。元弘元年、位を重ねて右中弁に進んだ(注:『弁官補任』による)。僧の文観(もんかん)、忠円(ちゅうえん)が鎌倉(かまくら)で捕らえられて朝廷の謀議を詳しく白状するに及び、北条高時はまた人を遣わして俊基を捕らえさせた(注:『太平記』による)。俊基は逃げて宮中に身を隠したが、兵士が乱入してこれを捕らえ(注:『増鏡』による)、鎌倉へ送った。俊基は自分が逃れられないことを悟り、菊川(きくがわ)に至って宿駅の柱にこう記した。「いにしへも(以珥志倍毛)、かかる例を(加加流多迷志遠)、聞くがはの(岐玖我波能)、同じ流れに(於奈志奈我禮珥)、澪や沈めむ(美遠夜志豆迷牟)」。承久の乱の折、中納言藤原宗行(むねゆき)がこの地で北条氏に殺されたことがあったため、このように詠んだのである(注:『太平記』による。本書では宗行を光親としているが、今『東鑑』『承久記』によってこれを訂正した)。翌年、天皇が西国へ行幸するに及び、俊基は葛原岡(くずはらがおか)で殺された(注:『常楽記』による。『太平記』では俊基の死を元弘元年とする)。死に臨んで偈を作って言った、「古来一句、死無く生無し。万里雲尽きて、長江水清し」。たまたま俊基の臣下である後藤助光(ごとうすけみつ)が俊基の妻からの手紙を携えて京から刑場に至り、涙を流して訣別し、その遺体を火葬にして、遺骨を高野山(こうやさん)に葬った(注:『太平記』による)。子に俊孝(としたか)、俊業(としなり)がいる(注:『尊卑分脈』による)。娘は弁内侍(べんのないし)と称し、和歌に秀で、後醍醐・後村上の二代の朝廷に仕えた(注:『吉野拾遺』による)。
源具行
¶源具行(みなもとのともゆき)は、従三位師行(もろゆき)の子である(注:『尊卑分脈』『公卿補任』による)。文保年間、右近衛中将を歴任した(注:『公卿補任』による)。後醍醐天皇が即位前の潜邸にあった頃から、特に親しく重用された(注:『増鏡』による)。即位後は次第に昇進して権中納言となり、従二位に叙された(注:『公卿補任』による)。天皇が北条高時の誅伐を謀った際、元弘元年、具行に命じて密かに兵士を徴発させた(注:『増鏡』による)。事が露見して天皇が奈良へ行幸するに及び、具行はお供して笠置に至った(注:『増鏡』『太平記』による)。僧の良忠(りょうちゅう)と協議し、詔を発して諸国の兵を召集した(注:『太平記』による)。笠置が陥落すると、大納言藤原師賢、権中納言藤原藤房とともに天皇を助けて逃げた。北条高時は具行を捕らえて幽閉した。翌元弘二年六月、高時は佐々木高氏(ささきたかうじ)に命じて、近江の柏原(かしわばら)でこれを殺させた(注:『増鏡』『太平記』による)。死に臨んで硯を求めて偈を書いて言った、「生死に逍逢すること、四十三年。山河は一たび革(あらた)まり、天地は洞然たり」(注:『太平記』による。本書では四十三年を四十二年としているが、今『公卿補任』を推し量り、天正本『太平記』に従った)。
平成輔
¶平成輔(たいらのなりすけ)は(注:『光明寺蔵書残編』では「輔」を「資」に作る)、権中納言惟輔(これすけ)の子である。中宮亮、蔵人頭を歴任し、参議に任じられ、治部卿・弾正大弼を兼ね、正三位に進んだ(注:『平氏系図』『公卿補任』による)。天皇が北条高時の誅伐を謀った際、成輔らに命じて義兵を糾合させた(注:『太平記』による)。大判事中原章房(なかはらのあきふさ)がこれを諫めたため、天皇は事が漏れることを恐れ、密かに成輔に命じてこれを殺させた。成輔はそこで刺客を募ってこれを刺殺させた(注:島津家本・金川家本・金勝院本『太平記』による)。天皇が笠置へ行幸するに及び、六波羅は成輔を捕らえ(注:『太平記』には成輔は笠置の陥落に及んで捕らえられたとあるが、今は『増鏡』『光明寺蔵書残編』に従う)、相模の早河尻(はやかわじり)でこれを殺した(注:『平氏系図』『太平記』による。系図・『公卿補任』では相模を伊豆とし、『増鏡』では駿河とする)。子に行輔(ゆきすけ)がいる(注:『平氏系図』による)。
藤原資朝
¶藤原資朝(すけとも)は、権大納言俊光(としみつ)の子で、家は日野(ひの)と号した(注:『尊卑分脈』による)。才学は人に優れ、天皇は特に厚遇した(注:『太平記』による)。官は文章博士、蔵人頭、右中弁、左兵衛督を歴任した。元亨元年、参議に任じられた。三年、従三位に叙され、検非違使別当となった。勅命を奉じて鎌倉に使いし、帰京して権中納言となった(注:『公卿補任』による)。天皇は密かに朝廷の復興を図り、資朝と蔵人頭藤原俊基を謀議の中心とした(注:『太平記』による)。かつて修験者に身をやつして東国に潜行し、兵士を結集させた(注:『増鏡』による)。美濃の土岐頼貞(ときよりさだ)、多治見国長(たじみくになが)には勇名があり、資朝は縁を頼ってこれに会うことができた。折しも頼貞、国長が京で番直に当たっていたので、資朝は彼らを仲間に引き入れようとしたが、聞き入れられなければ事が漏れることを懸念し、そこで俊基および大納言藤原師賢、中納言藤原隆資(たかすけ)、左衛門督藤原実世、僧の游雅(ゆうが)・玄基(注:「玄」は一に「源」に作る)、武人の足助重範(あすけしげのり)らとともに、たびたび頼貞、国長を招いて深く交わりを結んだ。集まるたびに、皆髻(もとどり)を露わにし髪を乱して、無位の者も上座に着かせ、二十余人の婦女に薄絹の衣を着せて酒を注がせ、これを「無礼講」と名づけた。宴の語らいが親密になった頃合いを見て、ついに計略を打ち明けた。頼貞らは心を傾けて謀議に加わったが、また外聞を恐れた。僧の玄慧が唐の韓愈の詩集を講じ、「潮州に赴く」の詩に至ったとき、人々は皆「これは不吉な言葉だ。今はただ孫子・呉子の兵法を講じるべきだ」と言い、そこでこれを取りやめた。やがて事が漏れ、北条高時は人を遣わして資朝と俊基を捕らえ、鎌倉に至らせて侍所に預け、まもなく佐渡(さど)に流した(注:『太平記』による)。七年を経て、高時が天皇を隠岐(おき)に遷すに及び、佐渡守護本間山城入道(ほんまやましろにゅうどう)に命じて資朝を殺させた(注:『公卿補任』『増鏡』『常楽記』による。本間山城入道については『太平記』による。『太平記』では資朝の殺害を元弘元年とするが、『常楽記』の一説では元徳四年とする。いずれが正しいか分からない)。資朝はかつて仏法を学び参禅し、自ら和翁(わおう)と称した(注:毛利家本・天正本『太平記』による)。死に臨んで偈を書いて言った、「五蘊(ごうん)は仮に形を成し、四大(しだい)は今空に帰す。首を白刃に向かわせるは、一陣の風を断ち切るがごとし」(注:『太平記』による。この偈は晋の僧肇(そうじょう)が刑死に臨んで作った偈である。本書および金勝院本『太平記』、『増鏡』では互いに文言に異同があるが、古人の偈であるため、ここでは異同を注記しない)。かつて権大納言藤原為兼(ためかね)が北条氏を危うくしようと謀ったとして、高時に捕らえられ佐渡に流されたことがあった。資朝は一条でこれに出会い、その姿を見送りながら嘆じて「男子たるもの、世に処してこのようであれば本望だ」と言い、長く羨み嘆いた。かつて内大臣藤原実衡(さねひら)とともに宿直をしていたとき、西大寺の僧静然(じょうねん)が参内した。実衡はその腰や背が曲がり、眉毛が真っ白であるのを見て、敬う様子を見せた。資朝は「あれは単に老いて疲れているだけだ、何を敬うことがあろうか」と言った。後日、毛が抜け落ちてやつれた老犬の皮を持ってきて実衡に贈り、「これもまた敬うに値するものです」と言った。また資朝はかつて盆栽を愛し、枝や幹の曲がりくねったものを多く集めていた。ある日たまたま外出し、東寺の門で雨宿りをしていると、そばに物乞いの子供が数人おり、その多くは体の不自由な者や足の悪い者たちであった。資朝はその奇妙な姿かたちを面白いと思い、長い間じっと見つめていたが、その醜さがかえって嫌になり、そこで「世に奇怪と呼ばれるものは、みな物がその本性に反したものであって、結局は平易で正直なものの尊さには及ばない。私が近頃愛でていた盆栽の、曲がりくねって歪んだものも、これと何ら変わりはないではないか」と言った。家に帰る頃には、植えていた盆栽をすべて抜いて捨ててしまった。おおよそその志と節操は卓越しており、世の好悪にみだりに流されないことがこのようであった(注:『徒然草』による)。三人の子は朝光(とももつ)、邦光(くにみつ)、僧の慈俊(じしゅん)である(注:『尊卑分脈』による)。
藤原邦光
¶藤原邦光(くにみつ)は、幼名を阿新(くまわか)といった。元亨三年、北条高時が資朝を佐渡に流し、本間山城入道に命じてこれを殺させようとした。邦光はこのときようやく十三歳で、母とともに仁和寺のかたわらに身を隠していた。父の死期が近いと聞き、佐渡に赴いて会い、今生の別れをしたいと願った。母は泣いてこれを止めた。邦光は表向きは承知したふりをして、密かに家の従者と謀って行くことにした。母はやむを得ず、身支度をさせて送り出した(注:西源院本『太平記』による。刊本には、母がひどく止めたとある。邦光は泣いて「行かせてもらえないなら、川に身を投げて死にます」と言い、母はやむなくこれを行かせたという)。その年の五月、邦光はついに従者とともに徒歩で十数日をかけ、商船に乗って佐渡に到着し、本間の住まいを訪ねたが、しばらくためらっていた。たまたま僧が出てきて尋ねたので、邦光は「私は資朝の子で、京より参りました。どうか哀れみをかけて、一目会わせてください」と言った。本間はこれを聞くと、僧に命じて丁重にもてなさせたが、幾日たっても対面を許さなかった。役人が資朝に囚われの部屋から出て湯浴みをするよう求めると、資朝は殺されることを悟り、「わが子が遠方より来たと聞くが、ついに一目会うこともかなわぬとは、悲しいことだ」と言った。そして表情を正してそれ以上は語らず、偈を作って邦光に贈って言った、「天地に定まった主はなく、日月に定まった時もない。三才を挙げ、三綱を彊(つと)めるとはいうが、これを思えば夢幻泡影のごときものである。ここに和翁(わおう)は屈原が楚を思うがごとき心を抱き、八度の巡り会いを心のどかに過ごすことを思って、今日に至った。汝のために一言申そう、秋霜三尺の刃も、貞松を埋もれさせることは決してない。士たる者はこれを見て眼を大きく見開き、洒々落々として、天地の間にひとり立つべきである。咄(かつ)」(注:偈は毛利家本・天正本『太平記』による)。そしてついに殺害された。ある僧が遺体を収めてこれを火葬にし、遺骨を邦光に渡した。邦光は慟哭して地に伏し、「私にただ白骨を見させるだけなのか」と言った。従者に命じて遺骨を持ち帰らせて高野山に葬ると、病と称してその地に留まった。昼はいつも臥せって、夜になると出歩き、隙をうかがって本間を討とうとした。ある夜、風雨がひどいのを見計らって、その寝所まで行き、戸口に近づいて中をうかがったが、本間はあいにく留守であった。本間の子の三郎(注:三郎を本間の子とするのは天正本による)が灯りの下でぐっすり眠っており、枕元には二振りの刀が立てかけてあった。邦光は「聞けば、この者も父を手にかけた張本人だという。これもまた父の仇である。殺すには十分だ」と思い、その刀を奪って刺そうとした。しかし気づかれることを恐れ、しばらくためらった。折しも蛾が群れ飛んでいたので、唾で紙障子を破り、蛾を招き入れて灯りを消させた。そして忍び入って太刀を取り、その胸に突き立てようとした。そして「眠っている人はまるで死人のようなものだ」と思い、足で枕を蹴った。三郎は驚いて起き上がろうとしたが、その時にはすでに刃が腹を貫いて背に突き出ており、さらにその喉をかき切って殺し、外に出て竹藪に身を隠した。まもなく番人が気づき、松明をともして辺りをくまなく捜索した。邦光は自害しようとしたが、また思い直して「仇はすでに報いた。むだに死んでも益はない。それよりも主君のもとに馳せ参じて事を成し、先の志を遂げ、忠と孝の両方を全うするに越したことはない」と考えた。外に出て逃げようとしたところ、幅二丈ほどの堀があり、そのそばに大きな竹が多く生えていた。邦光はこれによじ登り、しなるのに任せて向こう岸に達した。歩き続けて夜が明ける頃、麻畑の中に身を伏せた。追手数十人が呼ばわりながら捜し歩いて通り過ぎた。夜になって、邦光はまた出て歩き、道中で修験者に出会い、哀れんで死を救ってくれるよう頼んだ。修験者は邦光を背負って港まで運び、たまたま出航しようとしていた商船があったので、頼んで乗せてもらった。追手がちょうど到着した時には、船はすでに岸を離れており、そのため難を逃れることができた。越後(えちご)に着き、そのまま京へ帰った(注:『太平記』による)。高時が誅殺されると、邦光は出仕して左兵衛権佐となった(注:『石清水臨時祭記』による)。後村上天皇の御代、左兵衛督に転じた。正平五年、勅命を奉じて鎮西(ちんぜい)に至り、宇治惟澄(うじこれずみ)を促して兵を発し敵を撃たせた(注:『阿蘇社文書』による)。後に中納言となった(注:『太平記』による)。正平十六年、中納言藤原隆俊(たかとし)や細川清氏(ほそかわきようじ)らとともに足利義詮(あしかがよしあきら)を討ち、これに勝った。まもなく軍を引き返した(注:毛利家本・天正本『太平記』による)。子は資茂(すけしげ)(注:『尊卑分脈』による)で、右少弁であった(注:『新葉和歌集』による)。