卷之二百二 列傳第一百廿九

將軍家臣十二

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次8
  1. 北條高時
  2. 金澤貞將
  3. 二階堂貞藤
  4. 安東聖秀
  5. 鹽飽聖遠
  6. 長崎高重
  7. 工藤某
  8. 五大院宗繁

北條高時

北条高時(ほうじょうたかとき)は、幼名を成寿丸といい、相模守北条貞時の子である。従四位下に叙せられ(注:『平氏系図』による)、左馬権頭となった。正和五年、北条基時に代わって執権となった。この時十四歳であった。文保元年、相模守に任じられた(注:『系図』『将軍執権次第』『保暦間記』による)。高時は人となり行動に節度がなく、ただ嫡流の家柄というだけで代々の職を継いだにすぎなかった(注:『増鏡』『保暦間記』による)。当初は政務を妻の父である秋田時顕(あきたときあき)と内管領の長崎円喜(ながさきえんき)(注:円喜は「基」とも書く)の二人に委ね、二人は心を合わせて協力し、ひたすら泰時の定めた法にしたがったので、世はおおむね平穏であった。しかし円喜が老いて職を退き、その子の高資(たかすけ)に代わらせると、高資は主君の暗愚に乗じて思うままに振る舞い、権勢をほしいままにして憚るところがなかった。国中は怒り憤り、人心は日に日に離れていった(注:『保暦間記』による)。一方、高時はますます愚かで乱れ、日夜酒色にふけった。あるとき庭で犬が闘うのを見てたいそう気に入り、諸将や役人の家から犬を取り寄せ、百姓にも割り当てて年貢の代わりに差し出させた。遠近から献上された犬は数千頭にも達し、上等な穀物や肉で飼い太らせ、真珠や刺繡で飾り立て、籠の輿に乗せて民に担がせた。道で行き会う者は馬から下りてひれ伏したという。毎月十二回、犬を二手に分けて闘わせ、諸将を集めて見物し楽しみとした。犬の群れの吠える声は地を震わすほどで、まるで人が争っているかのようであった。これを聞く者は皆眉をひそめた。京都では田楽の芸能が盛んであったため、高時は多くの役者を召し抱え、諸将にもそれぞれ一人ずつを養わせ、宴のたびに衣装をこらして演じさせた。高時をはじめ、皆こぞって衣服を脱いで祝儀として与え、これが宴席に積もって丘のようになるほどで、その浪費は際限がなかった。当時の人々は皆、北条氏は長くは続くまいと噂した(注:『太平記』による)。

元亨元年、後宇多法皇(ごうだほうおう)は使者を遣わして「政務を帝に譲る」と伝えさせ、高時は仰せを承ってこれに従った(注:『増鏡』による)。正中元年秋、帝(後醍醐天皇)は北条氏討伐を謀ったが、事がかなり漏れたため、高時は大いに驚き、使者を遣わして中納言藤原資朝(ふじわらのすけとも)と蔵人頭藤原俊基(ふじわらのとしもと)を捕らえて鎌倉に連行させた(注:『増鏡』『保暦間記』『太平記』による)。高時は帝の廃立まで謀ろうとしたが、帝はその難を解こうとして、中納言藤原宣房(ふじわらののぶふさ)を遣わし、誓書を下賜して叡慮に他意がないことを諭させた。高時はそこで前の議論を改め、「朝廷の事は、もとより臣らが議すべきことではございません」と謝罪し、帝はその誓書を持ち帰らせた(注:これについて『太平記』は次のように伝える。帝が誓書を下賜されたとき、高時は斎藤利行(さいとうとしゆき)に読ませようとした。二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)は「天子が武臣に誓書を賜るなど、古来例のないことです。固くお断りして受け取らぬのがよろしい」と諫めたが、高時は従わなかった。利行が読み終わらぬうちに目眩を起こして鼻血を出し、喉に瘡ができて死んだという。高時は大いに恐れ、前の議論を取りやめたとされる。しかし『常楽記』によれば利行は正中三年に死んだとあり、この話は誇張であるので、今は採らない)。翌年、俊基は赦されて京都に帰り(注:『増鏡』『太平記』による)、資朝は佐渡へ流された(注:『公卿補任』による)。

嘉暦元年春、高時は病にかかって危篤となった。長崎高資は執権を辞めるよう勧め(注:毛利家所蔵天正本『太平記』による)、高時は剃髪して崇鑑(すうかん)と号した(注:『系図』『保暦間記』『将軍執権次第』による)。高資はかねてより金沢貞顕(かなざわさだあき)と親しかったため、貞顕を推して執権に代えた。高時の弟泰家(やすいえ)は職を継げなかったことを恨み、みずから剃髪して出家した。ところが高時は病が癒えると、怒って貞顕を殺そうとした。貞顕は恐れて自らも剃髪し、政務に出なくなった。このとき家臣たちは競って髪を剃り、これに倣おうとしたため(注:『保暦間記』による)、頭を丸めた者が幕府の庭に満ちあふれ、当時の人々はこれを不吉な兆しとした(注:毛利家所蔵天正本『太平記』による)。高資はまた自分の考えで赤橋守時(あかはしもりとき)を執権に推し(注:『保暦間記』による)、北条維貞(ほうじょうこれさだ)を連署としたため(注:『将軍執権次第』による)、人々の不満はますます高まった(注:『保暦間記』による)。この春、皇太子が薨去し、朝廷は大納言藤原定房(ふじわらのさだふさ)を遣わして「皇位継承の順が絶えました。後嵯峨天皇の遺命に従うのがよろしいでしょう」と伝えさせたが、高時はこの仰せを承らず、ついに本院(後伏見院)の皇子量仁親王(かずひとしんのう、のちの光厳天皇)を皇太子に立てるよう奏請した(注:『神皇正統記』『増鏡』『梅松論』を参照した)。二年春、陸奥の藤原季長(ふじわらのすえなが)が一族の五郎と争って訴え出たが、高資は双方から賄賂を受け取って長らく裁決を下さなかったため、二人はついに互いに攻め合った。高時は兵を遣わしてこれを討たせたが功はなかった。これ以後、高時は高資の所業にいくらか不満を抱くようになった。元徳二年秋、ひそかに長崎高頼(ながさきたかより)に高資を除くよう命じたが、事が漏れたため、高時は罪を高頼に押しつけて陸奥に流した(注:『保暦間記』による)。これより先、帝は僧の円観(えんかん)・文観(もんかん)を宮中に召して高時を呪詛させていた。高時はこれを聞いて円観・文観・忠円(ちゅうえん)を捕らえて詮議し、事実であることを確かめた。ここに至って円観らを遠流に処した(注:『太平記』による)。

元弘元年、高時は再び藤原俊基を捕らえた。これにより帝はもっぱら護良親王(もりよししんのう)らとともに関東討伐の議をますます急がせた(注:『増鏡』『太平記』による。元弘元年の年次は『増鏡』による)。折しも後伏見法皇もまた使者を遣わして朝廷の謀を詳しく告げたので、高時は諸将を集めて対策を諮ったが、皆互いに顔を見合わせるばかりで、あえて発言する者はなかった。長崎高資は進み出て「先に貴殿が帝の廃立を果たされなかったために、この患いを残すことになったのです。今の策としては、速やかに帝を遷し、大塔宮(護良親王)を遠流にするに越したことはありません。あらかじめ公卿らの謀を調べ上げ、捕らえて斬罪に処せば、事は定まりましょう」と言った。二階堂貞藤は諫めて言った。「国の権が東国に移って、はや百六十年ほどになります。天下に威を服せしめ、栄華は代々受け継がれてきました。その理由は他でもなく、王室に忠貞を尽くし、庶民に恩恵を施してきたからです。今、朝廷の臣を拘束し、僧徒を流罪にするのは、行き過ぎというものです。その上さらに天子を追放し、座主を流罪にすれば、人は何と申しましょうか。神々が上にいらっしゃるというのに、恐れることはないのですか。かりに我らの兵威が実に強大であるとしても、朝廷に異なる処分があったと称するだけで、誰があえてこれに与しましょうか。古人は『君主が君主らしくなくとも、臣下は臣下としての道を欠いてはならない』と申しました。ますます臣下の節義を尽くし怠らなければ、天の怒りもどうして晴れないことがありましょうか」。高資は色をなして言った。「文と武の使い方には、事の緩急によって異なる勢いがあるものです。孔子や孟子の道は、今日論ずべきことではありません。訴えて決着をつけなければ、勅命によって我らが討たれることになりかねず、悔いても及びますまい。承久の乱の先例こそ、貴殿が範とすべきものです」。高時は結局高資の言に従った。秋、二階堂貞藤と城越後守(注:二人の名は異本による)を遣わし、兵三千を率いて京都に至らせたが、着いたときにはすでに帝は密かに御所を出て奈良へ行幸しており、御座所は延暦寺にあると布告されていた。高時はさらに大仏貞直(おさらぎさだなお)、金沢貞冬(かなざわさだふゆ)、足利尊氏(あしかがたかうじ)以下六十三人の将を出兵させ、武蔵・相模・伊豆・駿河・上野の五か国の兵二十余万をもって向かわせた(注:原本には「高時は正成らの挙兵を聞いて貞直・尊氏を遣わした」とあるが、ここでは光明寺蔵書残編に従った。金勝院本には「十七か国の兵」とある)。この時、帝は笠置(かさぎ)におられ、北条仲時(ほうじょうなかとき)・北条時益(ほうじょうときます)は兵を遣わして行在所を囲み、楠木正成(くすのきまさしげ)は赤坂に拠り、桜山玆俊(さくらやまこれとし)は備後で挙兵した(注:『太平記』による)。貞直らは笠置と赤坂を攻め落とし(注:『元弘日記裏書』『光明寺蔵書残編』による)、玆俊もまた自害した。高時は帝を六波羅に幽閉させ、二階堂貞藤・秋田高景(あきたたかかげ)を遣わして皇太子を即位させた。これが光厳院(こうごんいん)である(注:『増鏡』『太平記』を参照した)。二年春、高時は帝に僧服を献じて剃髪を願い出させようとしたが、帝はお聞き入れにならなかった(注:『太平記』による)。そこで長井高冬(ながいたかふゆ)を遣わして新帝の宣旨を求め、帝を隠岐(おき)に遷した(注:『増鏡』『太平記』による。長井高冬の名は『増鏡』による)。千葉貞胤(ちばさだたね)・小山秀朝(おやまひでとも)・佐々木高氏(ささきたかうじ)が兵五百でこれを護送し(注:『太平記』『増鏡』による)、守護の佐々木清高(ささききよたか)は本国および出雲の兵士を率いて交代で防衛にあたった(注:『太平記』『伯耆巻』による)。尊良親王(たかよししんのう)は土佐に、尊澄親王(そんちょうしんのう)は讃岐に遷された。夏、参議平成輔(たいらのなりすけ)を相模で、足助重範(あすけしげのり)を京都で、中納言藤原資朝を佐渡で、中納言源具行(みなもとのともゆき)を近江で、蔵人頭藤原俊基を鎌倉で殺した。大納言藤原師賢(ふじわらのもろかた)と僧聖尋(しょうじん)は下総に、前権大納言藤原公敏(ふじわらのきんとし)・参議藤原季房(ふじわらのすえふさ)は下野に、中納言藤原藤房(ふじわらのふじふさ)は常陸に、僧俊雅(しゅんが)は長門に遷された。このとき楠木正成は赤坂城を奪回し、四天王寺に出て陣を構えた。北条仲時・北条時益はほどなく兵を遣わしてこれを攻めたが、うまくいかなかった。高時は宇都宮公綱(うつのみやきんつな)を遣わして援護させた。護良親王は吉野に城を構え(注:『増鏡』『太平記』を参照した)、正成は千剣破(ちはや)に城を構え(注:『増鏡』『梅松論』による)、赤松則村(あかまつのりむら)は播磨で挙兵した。高時はさらに養子の阿曾時治(あそときはる)や大仏高直(おさらぎたかなお)・二階堂貞藤らに大軍を率いさせ、兵を分けてこれらを攻めさせた(注:『太平記』による)。また諸国の将士に書状を回して、それぞれの軍勢を集結させた(注:天正本『太平記』による)。

三年春、皇子恒性(つねなり)を越中に遷し、人を遣わしてこれを殺させた(注:『諸門跡譜』による)。時治は赤坂城を攻め落とした(注:『太平記』による)。貞藤は吉野を攻め落とし(注:『太平記』『吉水院真遍言上状』による)、高直と兵を合わせて千剣破城をひと月あまり包囲した。高時は使者を遣わして攻撃を促し、高直らは全力で急攻したが、落とすことができなかった。そのうちに帝は隠岐を脱出し、船上山(せんじょうさん)に御座を移されると、西国の将士は争って帰順した。左近衛中将源忠顕(みなもとのただあき)と赤松則村は兵を連ねて六波羅を討った。そこで高時は名越高家(なごしたかいえ)と足利尊氏に兵を率いさせて西上させ、半数で京都を守らせ、半数で行在所を攻めさせた。夏、高家は山崎で則村と戦って討ち死にし、尊氏は官軍に降った。尊氏が出陣するに際して、家族を連れて従軍させようとしたが、長崎円喜が高時に勧めて誓書を書かせ、尊氏の妻子と子の千寿王(せんじゅおう)を鎌倉に人質として留めさせていた。ここに至って尊氏は案の定帰順し、千寿王はひそかに逃亡した。高時は人を走らせて尊氏の動静を探らせたが、その途中で六波羅からの使者に出会い、尊氏の帰順を聞いて引き返した。これにより鎌倉の人心は動揺した。高時は武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野の六か国の兵を発し、泰家に属させて西上させようとした。そこで郡県から軍糧を徴発したが、新田義貞(にったよしさだ)の領邑がもとより富んでいたことから、銭六万貫を課し、役人を遣わして厳しく督促させた。義貞は先に官軍に内通していたため、その役人を斬ってさらし首にした。高時は大いに怒り、西征軍を取りやめて義貞の討伐に専念することを議した。しかし兵を出す前に義貞が挙兵し、まず武蔵野に至った。高時はさらに金沢貞将(かなざわさだゆき)を遣わし、上総・下総の兵を率いて下河辺(しもこうべ)に出させ、敵の後方を扼させた。桜田貞国(さくらださだくに)・長崎高重(ながさきたかしげ)らは武蔵・上野の兵で入間川を防いだが、貞国は義貞と戦って互いに死傷者が多く出て、久米川まで追い詰められて陣を構えた。翌日、また戦って敗れ、分倍河原(ぶばいがわら)まで退いた。高時はそこで泰家を遣わして援護させた。泰家は戦って義貞を打ち破ったが、翌日また戦って今度は大敗した(注:『太平記』による)。このとき小山秀朝・千葉貞胤はともに義貞に応じ、鶴見(つるみ)で貞将を迎え撃ってこれを敗った(注:『梅松論』による。小山秀朝の名は『太平記』による)。諸軍はついに鎌倉へ引き返した(注:『太平記』『梅松論』による)。折しも六波羅からの敗残兵が到着し、初めて仲時・時益が敗死し、京都が官軍に奪還されたことが知れた。上下ともに手の打ちようを失い、もはや支えきれないと悟った。一日を置いて義貞は火を放ち、三方から攻め寄せた。住民は財を持って四方に逃げ散った。高時は金沢越後将監某(かなざわえちごしょうげんなにがし)と北条基時(ほうじょうもととき)を化粧坂(けわいざか)に、大仏貞直を極楽寺坂に、赤橋守時を巨福呂坂(こぶくろざか)に遣わしてこれを防がせた。守時の軍がまず敗れて全滅し、義貞は単独で山内(やまのうち)に進入したが、貞直は激しく戦って敵将大館宗氏(おおだてむねうじ)を斬り、残兵は退却した。その夜、義貞は自ら精兵を率いて極楽寺に赴いたが、貞直は坂道に陣を構え、鹿角(逆茂木)を海岸まで並べ立て、多くの大船を浮かべて側面から矢を射させたため、敵は通過できなかった。ところが明け方、海水が俄かに二十余町も引いたため、船はみな流れ去ってしまった。義貞はこれによってまっすぐ鎌倉に馳せ入り、守備の兵はみな潰走し、諸軍は次々と進撃して至るところを焼き払った。折しも暴風が起こり、火はみな内側に向かって燃え広がり、煙と炎が空に満ちた。またたく間に高時の邸宅にまで燃え広がり、高時は自ら千余人で妻子を守りながら東勝寺(とうしょうじ)に逃げ込んだ。東勝寺は北条氏の先祖ゆかりの寺であったが、このときすでに諸軍は崩壊し、死傷者や降伏する者、逃亡する者がほとんどであった。高時はついに自害した。享年三十一(注:『北条系図』『北条家譜』はともに四十二とするが、ここでは『系図』の嘉元元年生まれとする記述、および『保暦間記』の応長元年に九歳とする記述に従った)。殉死した者は八百七十余人、鎌倉で自害した者は六千余人にのぼった(注:六は七とする本もある)。長子邦時(くにとき)は幼名を万寿麻呂といい、相模太郎と称したが、捕らえられて誅された。年十五であった(注:幼名と年齢は『家譜』による)。この月、筑紫探題北条英時(ほうじょうひでとき)を筑前で、淡河時治(おうごときはる)を越前で、越中守護名越時有(なごしときあり)を本国で誅した。長門探題北条時直(ほうじょうときなお)は出て降伏し、時道(ときみち)はほどなく病死した。これより先、大仏高直・二階堂貞藤・長崎高貞(ながさきたかさだ)らは千剣破城の包囲を解いて奈良に退いていた。七月、京都を襲おうと謀ったが、官軍が攻めてきたため高直らは追い詰められ、剃髪して降伏を乞い、ことごとく縛られて京都へ送られ、僧服を剥がれて阿弥陀峰(あみだがみね)で斬られた。貞藤だけは特に許されたが、まもなく謀反を企てて誅された。翌年、高時の一族である僧憲法(けんぽう)は飯盛城(いいもりじょう)に拠り、赤橋重時(あかはししげとき)は立烏帽子城(たてえぼしじょう)に拠った(注:『太平記』による)。家臣の本間某(ほんまなにがし)・渋谷某(しぶやなにがし)は鎌倉で挙兵し(注:『将軍執権次第』による)、規矩高政(きくたかまさ)(注:規矩は異本の『太平記』では上総とする。金勝院本には別に規矩時秋(きくときあき)を載せる)・糸田貞義(いとださだよし)(注:貞義は天正本『太平記』では義員、金勝院本では頼時とし、西源院本には別に貞義を載せる)は筑紫で挙兵したが、まもなく皆敗死した(注:『神皇正統記』『太平記』による)。

北条氏は義時(よしとき)・泰時(やすとき)の代より、上には天子を戴き、中には将軍を擁して、その権柄をあわせ移そうと図り、智謀と武力で朝廷と将軍とを挟み押さえ、代々その奸計を成し遂げてきた。ほとんど百年にもわたり、名だたる宿将や名族は威に畏れて命に従い、次第に臣下の礼をとって、あえて逆らおうとする者はなかった。北条氏の一族縁者は広く枝分かれして絡み合い、守護・地頭となった者はおよそ八百余人にのぼった。しかし勤王の軍が起こるに及んで、高時は首をとられ、前後して一族は滅ぼされ、ほとんど生き残る者がなかった。祖先が企てた謀は、成就したかと思うとたちまち崩れ去ったのである(注:『神皇正統記』『太平記』による)。次男の時行(ときゆき)には別に伝がある。

金澤貞將

金沢貞将(かなざわさだゆき)は、北条氏の一族である。父の貞顕(さだあき)は修理大夫となり、初めて金沢を称した(注:『北条系図』『北条家譜』による)。貞将は六波羅探題の南方となり、越後守に任じられ、のち武蔵守に転じた(注:『将軍執権次第』による)。のちに武蔵で新田義貞を迎え撃ったが、うまくいかなかった。また山内で戦い、身に七か所の傷を受け、鎌倉に戻って東勝寺で高時に会った。高時はその奮戦を賞し、相模守と長門・筑前両探題の職を授け、辞令状を与えた。両探題は重んじられる職であり、相模守は北条氏が代々受け継いできた官職名であった。貞将は感激し、辞令状の裏に「わが百年の命を投げ捨て、貴殿の一日の恩に報いん」と書きつけ、これを懐に敵陣に馳せ向かって討ち死にした(注:『太平記』による)。子の忠時(ただとき)は左近衛将監となり(注:『家譜』による)、越後守となった。義貞が鎌倉に攻め入ったとき、兵三万を率いて化粧坂で防いだが(注:『太平記』による)、軍は敗れ、父とともに戦死した(注:『家譜』による)。

二階堂貞藤

二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)は、藤原行政(ふじわらのゆきまさ)の子孫である(注:『二階堂系図』による)。才学をもって知られた(注:『太平記』による)。検非違使となり、出羽守を兼ねた。のちに剃髪して名を道蘊(どううん)と改めた(注:『系図』『太平記』による)。北条高時が帝の廃立を謀ったとき、貞藤は切実に諫めたが、高時は用いることができなかった。貞藤は護良親王を吉野城に攻めるよう命じられ、力戦すること七日に及んだが落とせなかった。部将に吉野執行の巌菊丸(がんぎくまる)という者がいて、もとより地形に詳しかったので、夜のうちに軍を回して背後を突き、挟み撃ちにすることを申し出、貞藤はこれに従った。城が陥落すると、村上義光(むらかみよしてる)が護良親王の身代わりとなって自害した。貞藤はその首を得て京都に送った。ほどなくその処置が誤りであったことを悟り、進んで高野山を襲い護良親王の捜索にあたったが捕らえられず、そこで兵を移して大仏高直と合流し、千剣破城を攻めてよくこれを陥落させた。後に高直らとともに降伏した。帝はもとよりその名を知っており、特に許して殺さず、旧領を食むよう命じた。しかしいくばくもなく謀反を企てて誅された(注:『太平記』による)。

安東聖秀

安東聖秀(あんどうせいしゅう)(注:聖秀は「賢」とも書く)は、新田義貞の妻の伯父にあたる人物で、義貞の軍と稲瀬川(いなせがわ)で戦って敗れて帰った。高時はすでに東勝寺に逃げ込み、幕府の建物は焼け落ち、将士はことごとく散り散りになっていた。聖秀は憤慨して「堂々たる百年の跡に、どうして節義に殉じて屍をとどめる者が一人もいないのか」と言い、残兵百余騎を従えて焼け跡に赴き、自害しようとした。ちょうどそこへ義貞の妻が書状を送って降伏を勧めてきたので、聖秀は怒って使者に言った。「危難に臨んで死を逃れるとは、これ以上の恥はない。姪は武家に生まれ、武家の妻となった身でありながら、廉恥を知らぬとは、これで子孫に何を教えられようか。もっとも、あの女のことはとやかく言うまでもない。義貞がもし義を知る者であれば、当然叱ってこれを止めるべきであろうに、どうして私に降伏を勧めるようなことをさせるのか。お前たち夫婦は、なんとよく似ていることか」。聖秀は書状とともに刀を握りしめて自害した(注:『太平記』による)。

鹽飽聖遠

塩飽聖遠(しあくせいえん)は、官軍が鎌倉に攻め入ったとき、養子の忠頼(ただより)(注:養子であることは異本による)に「お前はまだ仕官していないのだから、逃れて僧となり、私の冥福を弔うがよい」と言った。忠頼は「一家の暮らしはすべて主君の恩によるものです。仕えたかどうかなど、今さら言うべきことでしょうか」と答え、その場で自ら腹を刺して死んだ。聖遠はそこで椅子を用意して座り、偈(げ)を作って「五蘊(ごうん)は実在するものではなく、四大(しだい)はもとより空である(注:一本には『提持火毛、截断虚空』〈火を掲げ、虚空を断ち切る、の意〉とある)。大いなる火の中にあって、一筋の清風が吹き渡る」と唱え、首を差し伸べて次男の忠年(ただとし)に斬らせた。忠年もまた自害した(注:『太平記』による。忠年の名は金勝院本による)。

長崎高重

長崎高重(ながさきたかしげ)は次郎と称し、高資の子である。勇武にかけては並ぶ者がなく、諸将とともに武蔵で新田義貞を防ぎ、昼夜力戦して傷を負った。戦いに敗れると、討ち取った首級を持って鎌倉に馳せ帰り、高時に見せた。祖父の円喜はこれを見て喜び、「私はいつもお前が不肖の者ではないかと案じ、たびたび教え諭してきたが、今こそ自分の誤りを知った。ますます力を尽くして主君の恩に報いよ」と言った。ほどなく義貞の大軍が鎌倉に攻め入り、いくつもの道から一斉に攻め寄せたため、諸将は次々と戦死し、兵士は四方に散って隊列を失った。高重は身を挺して四方に馳せ突き進み、行く手を阻む者はみな打ち破られた。さらに馬を乗り換え刀を取り替えながら、自らの手でおよそ三十余人を討ち取った。北条高時のもとに戻ってこう言った。「戦いは力が及ばなかったわけではありませんが、諸将がみな敗れてしまってはどうしようもありません。主君におかれては、敵の手にかかって身を辱められることのないようになさいませ。私はこれよりもう一戦、心ゆくまで戦って死のうと思います。冥途で手を携えて語り合う話の種にいたしましょう。どうか死を忍んでお待ちください」。そして愛馬の兎雞(とけい)に乗り、僧の士雲(しうん)のもとを訪ねて庭先に立って一礼し、「勇士たる者はどのようにふるまうべきものでしょうか」と尋ねた。士雲は「切れ味鋭い刀も、以前ほどではない、というところでしょう」と答えた。高重は大いに喜んだ(注:『太平記』による)。門を出ると残兵に「お前たちはよく戦ってくれた。ここで別れよう」と告げたが、皆は聞き入れず、互いに死をともにしようと呼びかけて前へ進み出た(注:天正本『太平記』による)。そこで高重は旗印を捨て刀を鞘に収めるよう命じ、敵中に紛れ込んで義貞を刺し殺そうとした。しかし敵の中にこれと気づいた者があり、兵を指図して取り囲ませた。高重は事の成らぬことを悟ると、縦横に奮戦した。やがて従う兵は皆討ち死にし、残った兵はわずか八人となったが、彼らとともに高重は引き返した。敵の追撃が激しく、高重はなおも十数度戦いながら東勝寺にたどり着いた。着いてみると、高時はちょうど酒を酌み交わし、左右の者たちと今生の別れをしているところであった。高重はまっすぐに入り、三度杯を重ねると、摂津道準(せっつどうじゅん)(注:道準は「道集」とも書く)に杯をまわし、自ら腹を切って先に息絶えた。道準は笑って「これほどの肴があるからには、誰が量が少ないと辞退できようか」と言い、満たした杯を半分ほど飲み干すと、諏訪直性(すわちょくしょう)(注:直性は「真性」とも書く)に杯を伝え、自らも腹を切って死んだ。直性はゆっくりと三度杯を飲み干すと、高時に勧めて「年若い者たちが芸を披露して酒を勧めてくれました。私は疲れておりますが、いくらかなりとも応えぬわけにはまいりません。この肴をもって、順にお回しいたしましょう」と言い、腹を切って刀を抜き、高時の前に置いて死んだ(注:『太平記』による)。長崎円喜は「私は年老いた身であるから、主君のために先導を務めよう」と言い、自ら刺したがすぐには死ねなかった(注:諸本『太平記』による)。その孫の新右衛門某(しんえもんなにがし)が傍らからこれを刺し、自らも腹を切って円喜の亡骸に寄りかかって死んだ。新右衛門は高重の弟で、時に年十五であった(注:『太平記』による)。

工藤某

工藤某(くどうなにがし)は新左衛門(しんざえもん)と称した。常々「高時は政務を怠り、時勢は日ごとに悪くなっていく」と嘆き、たびたび諫めたが聞き入れられず、そこで高野山に去って隠れ、僧となり、二度と俗世には出ないと誓った。鎌倉が滅びるに及んで、その地に赴いて弔った。幕府の邸宅は丘のように荒れ果て、見渡す限り草が生い茂るばかりであった。そこで感慨をこめて懐旧の和歌を詠んだ。その後は諸国を巡り歩いた(注:天正本『太平記』による)。その最期がどうであったかは分からない。

五大院宗繁

五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)は右衛門尉(うえもんのじょう)であった。高時は宗繁の妹を側室として召し入れ、その間に子の邦時が生まれた。北条氏が敗れるにあたり、邦時は宗繁に託された。宗繁はこれを承知しながら、その日のうちに新田義貞に降伏を申し出た。ほどなく義貞が北条氏の残党に手厚い懸賞をかけたため、宗繁は「自分の手でこの子を斬って差し出せば、人々から白い目で見られるであろう。それよりも人の手を借りて始末させ、自分は密告の褒賞だけを得るほうがよい」と考えた。そこで邦時を欺いて言った。「若君の居場所を人に密告した者がいると聞きました。明日にも捕り手が参りましょう。急いで伊豆へお逃げください。私はここに留まり、何も知らぬと申し上げましょう。それが叶わなければ、自害して痕跡を消しましょう」。邦時はこれを信じ、下男一人を連れて夜に紛れて逃げた。宗繁は義貞の執事船田義昌(ふなだよしまさ)に急報し、軍勢とともに相模川で邦時を追捕した。義貞は宗繁のしたことを深く憎み、不忠の臣を懲らしめるために誅そうとした。宗繁はこれを聞いて逃げ隠れ、身を寄せる場所もなく、後についに路上で餓死した(注:『太平記』による。天正本を参照した)。