卷之二百三 列傳第一百三十

將軍家臣十三

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次10
  1. 北條時房
  2. 北條時直
  3. 北條朝時
  4. 北條重時
  5. 赤橋守時
  6. 北條政村
  7. 名越高家
  8. 淡河時治
  9. 大佛貞直
  10. 大佛高直

北條時房

北条時房(ほうじょうときふさ)は、初め時連(ときつら)と名乗り、五郎と称した。北条義時の弟である。元久年間、遠江守・駿河守を歴任し、武蔵守となり、従五位下に叙せられた(注:『北条系図』による)。和田義盛(わだよしもり)の乱では時房は力戦し、その功により上総国飫富荘(おぶのしょう)を食邑として与えられ、相模守に転じた(注:『東鑑』による)。承久三年、義時は泰時(やすとき)・時房に命じて兵を率い京へ向かわせた。遠江に至るころ、官軍の兵十余人が時房の軍の前を通り過ぎたので、時房はことごとくこれを斬り、その首をさらして道の左に晒した。山田重忠(やまだしげただ)らは延暦寺の僧兵とともに瀬田橋を撤去して防戦した。時房は先陣で戦ったが利あらず、たまたま泰時が宇治で官軍を破ったので、時房は泰時とともに勢いに乗じて一気に京へ攻め入り(注:『東鑑』『承久記』による)、六波羅の南方を鎮めた(注:『将軍執権次第』『系図』による)。あわせて伊勢守護を兼ねた。義時が没すると鎌倉に帰り、泰時とともに執権に連署した。ほどなく修理権大夫を兼ね、相模守を辞し、位階を重ねて正四位下に進んだ(注:『東鑑』『将軍執権次第』を参照して記す)。承久の役で恩賞にあずかれなかった戦士があり、時房はしばしばこれを訴えたが聞き入れられなかった。そこで自分の私領四か所を差し出すことを願い出て、功のあった者たちに分け与えた(注:『東鑑』の脱漏を補う)。かつて自邸で酒宴を催していたところ、泰時が急病になった。家人たちは皆「見舞いに行くべきです」と言ったが、時房は聞き入れず、「私が今日楽しんでいられるのは、武州(泰時)が健在だからだ。武州にもし万一のことがあれば、私は職を辞して遠く隠遁するつもりだ。どうしてまた愉快に酒を飲めようか」と言い、笑い興じて平然としていた(注:『東鑑補遺』による)。仁治の初め、没した(注:『関東評定伝』『東鑑補遺』による)。

時房はその邸宅にちなんで大仏(おさらぎ)と号した。子に時盛(ときもり)・時村(ときむら)・資時(すけとき)・朝直(ともなお)・時直(ときなお)がいる。時盛の事跡は子の淡河時治(おうごときはる)の伝にある。朝直は大仏を氏とした。建長元年、評定所に初めて引付頭人が置かれると、朝直がこれに任じられ、相模守・武蔵守などを歴任し、遠江守に転じ、正五位下に叙せられた。文永元年、没した(注:『関東評定伝』による)。子に朝房(ともふさ)・宣時(のぶとき)がいる。朝房は武蔵太郎と称した(注:『系図』による)。かつて父に追放されて隠棲していたが、三浦泰村(みうらやすむら)が乱を起こしたと聞くと、甲冑を着ける間もなく単騎で駆けつけた。泰村の兵が争ってこれを斬ろうとし、苦戦したが、味方の兵が救援に来て難を逃れた(注:『東鑑』による)。のちに備中守となった(注:『系図』による)。宣時は初め時忠(ときただ)と名乗り、武蔵守・陸奥守を歴任し、従四位下に叙せられた。弘安年間、執権の連署を務めた。宣時の子の宗実(むねざね)、孫の維貞(これさだ)も、嘉元・嘉暦の間、相次いで執権の連署を務めた(注:『将軍執権次第』『帝王編年記』を参照して記す)。

北條時直

北条時直(ほうじょうときなお)は遠江守であった。元弘の初め、北条高時(ほうじょうたかとき)によって長門探題に任じられたが、赴任してほどなく、厚東宗西(こうとうそうさい)・高淨道性(こうじょうどうしょう)らが攻め寄せたため、時直は手勢とともに船に乗って東へ逃れた(注:「之任」以下は天正本『太平記』による)。その道中、高時が誅殺されたと聞き、筑紫へ向かおうとしたが、たまたま筑紫探題の北条英時(ほうじょうひでとき)も少弐貞経(しょうにさだつね)に滅ぼされていたため、時直は窮地に陥り貞経に降った。島津貞久(しまづさだひさ)は僧の俊雅(しゅんが)の奏請によって時直の死罪を許した。俊雅は峰僧正(みねのそうじょう)と称し、天皇の外戚であった。笠置(かさぎ)が陥落した際、高時は俊雅を捕らえて長門に流したが、天皇が都へ還御されると、俊雅は九州の政務を代行することとなり、時直に「禍福は表裏一体、吉凶は定めなきもの。かつて私が流されていた日、そなたに辱めを受けたが、まさか今日このような日が来ようとは思わなかった。私はそなたに恩を返し、一命を助けよう」と語った。そこで使者を遣わして奏上したところ、天皇は俊雅のために特に時直を赦免し、その食邑を元に戻された(注:『太平記』による)。時直の孫の時俊(ときとし)は安芸守で、やはり高時の将として朝廷の軍を防いだ。高時が誅されると、時俊は子の左京亮貞俊(さきょうのすけさだとし)とともに一旦は降伏したが、まもなく誅殺された(注:『太平記』『系図』による)。

北條朝時

北条朝時(ほうじょうともとき)は泰時の弟であり、名越氏(なごえし)と称した(注:『北条系図』による)。権謀の才を持ち膂力(りょりょく)は人に勝っていたが、かつて源実朝(みなもとのさねとも)の妻の侍女を盗み出して駿河へ出奔した。一年余りのち、実朝はその罪を許し、鎌倉へ呼び戻した。和田義盛の乱に際しては、朝時は兵を率いて朝夷名義秀(あさひなよしひで)と交戦した(注:『東鑑』による)。ほどなく式部丞に任じられた(注:『関東評定伝』による)。承久の役では、結城朝広(ゆうきともひろ)・佐々木信実(ささきのぶざね)とともに兵四万を率い、北陸道を経て越後に至った。官軍の宮崎定範(みやざきさだのり)は蒲原(かんばら)の険を拠点とし、海沿いに鹿角の柵を設け、弩(いしゆみ)を伏せて待ち構えていた。朝時は牛七、八十頭を集め、その角に松明を束ねて夜陰に乗じて放ち、士卒を牛の後ろから声を上げて騒がせた。牛は怒って突進し、官軍はひどく驚いて敵が来たと思い、伏せていた弩をことごとく放った。牛は多く死傷し、弩の矢はもはや続かなくなったため、朝時の軍はその隙に通り抜けて西へ進んだ。朝時はさらに兵を督励して前進し、志保(しほ)・黒坂(くろさか)の柵を攻めていずれも攻め落とし、転戦して京へ攻め入った(注:『東鑑』『承久記』を参照して記す)。そこで泰時の軍と合流した。周防守・越後守・遠江守を歴任し、従四位下に叙せられ(注:『東鑑』『関東評定伝』による)、評定衆となった。ほどなく職を辞し(注:『関東評定伝』による)、剃髪して法名を生西(しょうさい)といった。寛元三年、没した(注:『東鑑』『関東評定伝』による)。七人の子があり、光時(みつとき)・時章(ときあき)・時長(ときなが)・時幸(ときゆき)・時兼(ときかね)・教時(のりとき)・時基(ときもと)という。光時は越後守となり(注:『系図』による)、将軍藤原頼経(ふじわらのよりつね)に寵愛されたため、次第に驕りの心が芽生えた。北条時頼(ほうじょうときより)が執権になると、光時は不満を抱き、「時頼は我が祖父義時から見れば曾孫にあたり、血縁は疎遠である。権勢の座に就くべきではない」と考え、ひそかに時頼を除こうと謀った(注:『保暦間記』による)が、事が発覚した。時頼は兵を遣わしてこれを誅しようとしたとき、光時はちょうど幕府にいた。逃れられないと悟り、髪を切って時頼に送り謝罪し、ついに伊豆に流された(注:『東鑑』『保暦間記』による)。時章は尾張守に任じられ、引付衆となった(注:『評定伝』による)。剃髪して法名を見西(けんさい)といった。文永九年、北条時宗(ほうじょうときむね)の兄時輔(ときすけ)が謀反を起こし、京で誅された。教時はこれと通謀していたため、時宗は兵士を遣わして教時を殺させたが、誤って時章までも殺してしまった。時宗はその死が無実の罪によるものであったことを哀れみ、その兵士五人を捕らえて誅した(注:『保暦間記』による)。時幸は修理亮となったが、光時が罪を得ると自殺した(注:『葉黄記』による)。

北條重時

北条重時(ほうじょうしげとき)は朝時の弟である(注:『平氏系図』による)。修理権亮・駿河守となった。寛喜年間、北条時氏(ほうじょうときうじ)に代わって六波羅北方にあり、相模守に転じ、位階を重ねて従四位上に進んだ(注:『東鑑』による)。宝治元年、鎌倉に帰り、執権の連署となった。陸奥守に転じ、ほどなく職を辞して剃髪し、法名を観覚(かんかく)といった。極楽寺(ごくらくじ)を創建し、そこに隠退した。弘長元年、六十四歳で没した。子に長時(ながとき)・時茂(ときしげ)・義政(よしまさ)・業時(なりとき)・忠時(ただとき)がいる(注:『北条系図』による)。

長時(ながとき)は左近衛将監となり、六波羅北方にあった。康元元年、鎌倉に帰り武蔵守となり(注:『将軍執権次第』『帝王編年記』『東鑑』による)、従五位上に進んだ(注:『将軍執権次第』による)。北条時頼が職を辞すと、時宗がまだ幼かったため執権の事務を代行し(注:『将軍執権次第』『東鑑』による)、侍所別当を兼ねた(注:『東鑑』による)。文永元年、没した(注:『関東評定伝』『将軍執権次第』による)。子の義宗(よしむね)は駿河守となり、六波羅北方にあった(注:『平氏系図』による)。文永年間、時宗の命により北条時輔を殺した(注:『帝王編年記』による)。義宗の子久時(ひさとき)は赤橋(あかはし)と号し、武蔵守となり、六波羅北方にあった。久時の子は守時(もりとき)である(注:『平氏系図』による)。

時茂(ときしげ)は常葉氏(ときわし)と称した(注:『北条系図』による)。陸奥守となった。康元元年、兄長時に代わって六波羅北方にあり(注:『将軍執権次第』による)、その任にあるまま没した(注:『一代要記』による)。

義政(よしまさ)は初め時量(ときかず)と名乗り、信濃の塩田(しおだ)を食邑としたことからこれを氏とした(注:『北条系図』による)。文永年間、引付衆、また評定衆となり、駿河守として執権の連署を務め、武蔵守に転じた。病のため職を辞し、剃髪して政義(まさよし)と改名し、信濃の善光寺に隠棲した(注:『関東評定伝』による)。

業時(なりとき)は越後守・駿河守・武蔵守を歴任し、評定衆となった。弘安年間、執権の連署を務め、陸奥守に転じた(注:『関東評定伝』による)。孫の基時(もととき)は正和年間、執権の事務を代行し(注:『平氏系図』による)、高時とともに自殺した(注:『北条系図』による)。子の仲時(なかとき)には別に伝がある。

忠時(ただとき)は左近衛将監であった(注:『関東評定伝』による)。

赤橋守時

赤橋守時(あかはしもりとき)は、嘉暦年間、北条高時に代わって執権となり、相模守となった(注:『将軍執権次第』『保暦間記』による。諸本の『太平記』では盛時とするが、今は本書の記述に従う)。妹を足利尊氏(あしかがたかうじ)の妻とした。元弘三年、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻めると、守時は兵六万を率いて巨福呂坂(こぶくろざか)に出て防戦した(注:巨福呂坂は諸異本による)。数十度戦い、士卒はほとんど死に絶えたので、残った兵に「戦には元より百敗して一勝することもある。今わが軍は敗れたとはいえ、北条氏の命運が必ずここに尽きるとは限らない。しかし私は尊氏の姻戚であるから、相州(北条高時)に疑われることを恐れる。すみやかに死んで、二心のないことを示すのが道理であろう」と告げ、自殺した。従って死んだ者九十余人であった(注:『太平記』による。毛利家本・北条家本・金勝院本・南都本では八十余人とし、西源院本では三百八十余人とする)。

北條政村

北条政村(ほうじょうまさむら)は四郎と称し(注:『東鑑』による)、重時の弟である。寛喜年間、式部少丞となり、位階を重ねて右馬権頭を歴任し、正五位下に叙せられ、評定衆となった(注:『東鑑』『関東評定伝』による)。康元元年、執権の連署となり、陸奥守として越後の国務を代行し、相模守に転じた。文永年間、北条長時に代わって執権の事務を代行し、左京権大夫に任じられ、正四位下に進んだ。北条時宗が執権になると、再び連署を務めた。文永十年、六十九歳で没した(注:『増鏡』『将軍執権次第』『関東評定伝』『帝王編年記』を参照して記す)。人柄は物静かで温雅であり、和歌を得意とし、公卿たちはこれを重んじて「東方の遺老」と称した。没すると、亀山天皇(かめやまてんのう)は使者を遣わしてその喪を弔われた(注:『吉続記』による)。  子に時村(ときむら)・宗房(むねふさ)・政長(まさなが)がいる。時村は初め時遠(ときとお)と名乗り、左近衛将監となった。文永年間、評定衆となり、陸奥守に転じた。建治三年、京に入り六波羅北方にあり、武蔵守となった。数年後、鎌倉に帰り、従四位下に進んだ(注:『関東評定伝』『将軍執権次第』による)。正安三年、執権の連署となった(注:『平氏系図』『将軍執権次第』『帝王編年記』による)。北条宗方(ほうじょうむねかた)が謀反を起こした際、時村は宗方を誅し、あわせて師時(もろとき)らをも除いて権力を独占しようとしたが、事を起こす前に宗方に襲われて殺された(注:『平氏系図』『保暦間記』『一代要記』による)。時村の孫の熙時(ひろとき)、曾孫の茂時(もちとき)は、いずれも執権の連署を務めた。高時が敗れた際、茂時は自殺した(注:『将軍執権次第』『平氏系図』を参照して記す)。宗房は四郎と称し、土佐守となった。政長は式部大輔・摂津守となった。二人とも評定衆となった(注:『平氏系図』『関東評定伝』による)。

名越高家

名越高家(なごえたかいえ)は、遠江守朝時の五世の孫で、遠江守貞家(さだいえ)の子である。高家は尾張守となった(注:『北条系図』による)。元弘の役で、北条高時は高家および足利尊氏らに命じて京へ向かわせ、朝廷方の軍を防がせた。高家は別働隊を率いて山崎(やまざき)へ向かい、赤松則村(あかまつのりむら)と久我畷(こがなわて)で戦った。高家は年若く、鎧や武具を華美に飾り立て、軍勢の先頭に立って進んだ。則村の兵はこれを見て大将であると見抜き、争ってこれに向かっていった。高家は自ら数人を斬り、やがて馬を下りて刀の血を拭い休息していたところ、則村の兵がひそかにこれを狙って射かけ、額に命中して死んだ。従っていた兵も皆死に絶えた(注:『太平記』による)。  子の高邦(たかくに)は左近衛将監となった。足利尊氏が朝廷に帰順して六波羅を攻めると、高邦は兵を率いて神祇官(じんぎかん)で防戦したが、戦いに敗れて退いた(注:天正本『太平記』による。神祇官は現行本に見える)。その後の消息は分からない。

淡河時治

淡河時治(おうごときはる)は北条時房の孫である。父の時盛(ときもり)は掃部権助・越後守となり(注:『東鑑』『将軍執権次第』による)、六波羅南方を統括した(注:『将軍執権次第』による)。邸宅が佐介谷(さすけがやつ)にあったことから佐介氏(さすけし)と称したが(注:『東鑑』による)、のちに今の氏(淡河)に改めた(注:『太平記』による)。時治は右京進となった(注:『北条系図』による。『太平記』では進を亮とする)。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が北条高時を討った際、時治はたまたま越前の牛原(うしがはら)の地頭であり、兵を集めて朝廷方の軍を防いでいた。六波羅が敗れたと聞くと、部下の多くは逃げ散った。平泉寺(へいせんじ)の僧兵がその隙に乗じて攻め寄せたため、時治は形勢に抗しきれないと悟り、妻に別れを告げ、二人の子を水に沈め、自ら腹を切って死んだ。妻もまた水に身を投げて死んだ(注:『太平記』による)。

大佛貞直

大仏貞直(おさらぎさだなお)は、陸奥守宗宣(むねのぶ)の孫、民部少輔宗泰(むねやす)の子である。右馬助・陸奥守となった(注:『北条系図』による)。後醍醐天皇が笠置(かさぎ)に行幸された際、北条仲時(ほうじょうなかとき)らが兵を遣わして攻めたが勝てなかった。北条高時は貞直および足利尊氏らに命じて兵を率いて救援に向かわせ、ついに笠置を陥落させた。転じて赤坂城(あかさかじょう)を攻め、これを攻略して帰還した(注:『保暦間記』『元弘日記裏書』『光明寺蔵書残編』『増鏡』を参照して記す)。新田義貞が鎌倉を攻めた際、貞直はまた大軍を率いて極楽寺坂(ごくらくじざか)で防戦したが、義貞の将大館宗氏(おおだちむねうじ)に敗れ、退いて陣営に入った。貞直の家臣の本間某(ほんまなにがし)は山城左衛門(やましろざえもん)と称し、かつて過失により罷免されて家に籠っていたが、貞直が兵を挙げて戦っていると聞き、手勢百余人を率いて奮戦し、ついに宗氏を斬ってその首を刃に貫いた。貞直に対面して「わずかながらの功により、以前の過ちを許していただきたいと願っておりました。黄泉に赴くことができれば、この上ない幸いです」と謝辞を述べ、そのまま自害した。貞直は大いに感奮し、翌日、再び出陣した。義貞の軍が稲村崎(いなむらがさき)から侵入すると、貞直の兵三十余人は抗しきれないと悟って相次いで自殺した。貞直は奮い立って「勇士たる者、死ぬなら戦死すべきだ。どうして自殺などするのか」と言い、二百余人を率いて縦横に敵陣へ突撃し、ついに脇屋義助(わきやよしすけ)の陣に攻め入って戦死した(注:『太平記』による)。

大佛高直

大仏高直(おさらぎたかなお)は、陸奥守維貞(これさだ)の子であり、右馬助となった(注:『保暦間記』による)。元弘の役で、大軍を率いて千剣破城(ちはやじょう、注:千早城)に楠正成(くすのきまさしげ)を攻めた。阿曽時治(あそときはる)・二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)もまた兵を率いて来援した。正成は城を守り抜き、高直らは戦うたびにことごとく敗れ、死傷者は数え切れなかった。そこで兵糧攻めにしようと陣営を巡らせて包囲した。そのため多くの遊女を集め、賭博や酒宴を催し、詩歌を詠んで軍士を慰めた。ある部将の叔父と甥の二人が槍を握って道を争い、互いに刺し合って死んだ。その配下二百余人もまた相次いで刺し違えて死んだ。これにより軍の士気はますます衰えた。まもなく出陣したが、また大敗した。たまたま近隣の郡の民兵が護良親王(もりよししんのう)の令旨に応じ、出没して兵糧の道を絶った。軍士はひどく困窮し、多くが密かに逃げ帰った。六波羅が敗れると、高直らは包囲を解いて退却したが、朝廷方の軍に挟撃され、奈良の般若寺(はんにゃじ)に逃げ込んで立てこもった。ちょうど天皇が都へ還御される途上、源定平(みなもとのさだひら)・楠正成が討伐に来た(注:『太平記』による。『梅松論』『保暦間記』を参照して記す)。高直らは皆僧衣をまとい、配下を率いて降伏した。定平はこれを縛り、京へ送って処刑した(注:『太平記』による)。