卷之二百六 列傳第一百卅三

將軍家臣十六

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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細川和氏

細川和氏(ほそかわかずうじ)は八郎と称した(注:『太平記』による)。その先祖は足利義康(あしかがよしやす)に出ており、義康の長男の義清(よしきよ)は信濃に住み、矢田判官代(やたほうがんだい)と称した(注:『尊卑分脈』による。信濃に住んだことは『源平盛衰記』による)。源義仲(みなもとのよしなか)が挙兵すると、義清は兵を率いて丹波(たんば)へ赴いたが、平忠度(たいらのただのり)は戦わずに退いた(注:『玉海』による)。平氏が屋島(やしま)に拠ると、義清は海野幸広(うんののゆきひろ)らと共に兵七千(注:『源平盛衰記』では五千とする)を率いて備中(びっちゅう)水島(みずしま)に屯し、屋島を攻めようとした。しかし平重衡(たいらのしげひら)らに敗れ、弟の義長(よしなが)らと共に力戦して死んだ(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。『盛衰記』はまた、義清は治承の乱で源頼政(みなもとのよりまさ)に従って戦死したというが、これは誤りである)。義清は義真(よしざね)を生み、義実(よしざね)は義季(よしすえ)を生んだ。義季は参河(みかわ)の細川に住み、細川二郎と称した。義季の曾孫を公頼(きみより)といい、和氏と頼春(よりはる)を生んだ(注:『尊卑分脈』による)。

和氏は阿波守(あわのかみ)となった(注:『尊卑分脈』による)。元弘(げんこう)の乱に際し、足利尊氏(あしかがたかうじ)が密かに朝廷への帰順を図ったとき、和氏は上杉重能(うえすぎしげよし)と共にその計画に賛成した。六波羅(ろくはら)を攻めるにあたり、尊氏は四方から包囲しようとした。和氏は「兵が窮すればかえって守りは固くなります。逃げ道を開けておくのが得策です」と述べた。尊氏はこれを良しとし、包囲の一角を緩めたところ、案の定、敵兵は先を争って降伏した。尊氏は和氏と弟の頼春らに兵を率いさせ、鎌倉で北条高時(ほうじょうたかとき)を討たせた。途中、新田義貞(にったよしさだ)が既に高時を誅して鎌倉を取ったと聞き、下野(しもつけ)に赴いて足利義詮(あしかがよしあきら)を奉じて鎌倉に入った。和氏は自分たちが後れを取り功がなかったことを恥じ、義貞を攻めようとした(注:『梅松論』による)。

そもそも義貞が鎌倉を取ったとき、鶴岡社(つるがおかしゃ)で首級を実検し、そのついでに神庫を開いて宝器を検分したところ、二引両(にひきりょう)の旗があった。二引両とは足利氏の旗印で、源義家(みなもとのよしいえ)の遺品と伝えられるものである。和氏らはこれを伝え聞き、義詮のためにこれを求めた。義貞は拒んで与えなかったので、和氏らはこれを口実に事を起こそうとした。しかし当時、関東は平定されたばかりで義貞に帰服する武士が後を絶たなかったため、たやすくは事を起こせず、そこで尊氏が朝廷の覚えめでたいことを盛んに喧伝し、これによって人心を煽り乱した。こうして将士は次第に義貞から離れ、義詮に帰服するようになった。和氏らは心を尽くして人心を懐柔し、そのまま留まって義詮を輔佐し鎌倉に居させた。義貞は大いにこれを怒り、これより新田氏と足利氏の間に初めて確執が生じた。

和氏は尊氏に従って北条時行(ほうじょうときゆき)を討ち功があった。尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、和氏はまた上杉重能と共にその謀主となり(注:『太平記』による)、そのまま従って京師(けいし、京都)に攻め入った。尊氏が筑紫(つくし)へ敗走した際には、和氏に一族を率いさせて讃岐(さぬき)に留め(注:讃岐については諸種の異本『太平記』による)、四国を攻略させた。数ヶ月後、尊氏は再び京師に攻め入った。和氏らは水軍を率いてこれに従い、兵庫(ひょうご)で戦い、また京師で戦い、共に功があった。その後、再び頼春・師氏(もろうじ)と共に義詮を輔佐して鎌倉に居させた(注:『梅松論』による)。

たまたま鎮守府大将軍(ちんじゅふだいしょうぐん)源顕家(みなもとのあきいえ)が討伐に来たため、和氏らは利根川(とねがわ)に出てこれを防いだが、戦いに敗れて退いた(注:『太平記』による)。興国(こうこく)三年に死去した。享年四十七(注:『尊卑分脈』による)。和氏はかつて『夢想記(むそうき)』を著し、当時の出来事を記した(注:『難太平記』による。思うに『梅松論』が細川氏の功績を記す様子はかなり誇張がある。同書は菅廟(かんびょう、菅原道真を祀る社)に宿った際に聞いた話を仮託しているが、これはおそらく『夢想記』のことであろう)。子は清氏(きようじ)・頼夏(よりなつ)。清氏には別に伝がある。頼夏は仁木頼章(にきよりあきら)の養子に出た(注:『尊卑分脈』による)。和氏の弟は頼春である。

細川賴春

細川頼春(ほそかわよりはる)は源九郎(げんくろう)と称し、刑部大輔(ぎょうぶたいふ)となり讃岐守(さぬきのかみ)に任じられた(注:『尊卑分脈』『細川系図』による)。足利尊氏が朝廷に反旗を翻すと、頼春は兄の和氏らと共にこれに従った。尊氏の軍が敗れて兵庫へ敗走した際、たまたま周防(すおう)・長門(ながと)の兵が到着したので、これを頼春らに統率させ、瀬河(せがわ)で官軍を防がせた。頼春は決死の覚悟で戦ったが、また敗れて傷を負った。尊氏はそのまま筑紫へ逃れた。頼春は和氏に従い、讃岐に留まった。尊氏が再び京師に攻め入ると、頼春は諸将と共に度々朝廷の軍を防いだ(注:『梅松論』による)。まもなく中務卿(なかつかさきょう)尊良親王(たかよししんのう)を金岐城(かなさきじょう)に攻めてこれを陥落させた。

興国(こうこく)の初め、脇屋義助(わきやよしすけ)が官軍を率いて伊予(いよ)を平定し、国府(こくふ)に入って守りについた。まもなく義助は病死した。頼春はこれを聞き、好機を逃してはならないと考え、直ちに兵七千余を率いて河江城(かわえじょう)を攻め破り、世田城(せたじょう)へ進んだ。官軍の別将金谷経氏(かなやつねうじ)は兵三百ほどでこれを千町原(せんちょうはら)に迎え撃った。頼春はこれを望み見て「これはみな精鋭であり、我々に決死の戦いを迫るつもりであろう。疲れさせてから討ち取るのがよい」と言った。そこで士卒を戒め諭し、軍勢を三隊に分けて自ら前隊を率いた。経氏の兵が来て突撃すると、頼春はわざと乱れて退いた。経氏がさらに一隊を撃ち破ったところで、後隊の兵が戦いを交え、ついに大いにこれを破り、首級二百余を斬った。経氏はわずか千余騎で脱出し、頼春はそのまま進んで世田城を陥落させた。守将の大館氏明(おおだてうじあきら)はこれに死んだ。

正平(しょうへい)三年、高師直(こうのもろなお)に従って楠正行(くすのきまさつら)と戦い、これを破った。頼春は当初足利直義(あしかがただよし)に属していたが、後に尊氏に従って直義を攻めた(注:『太平記』による。尊氏に従った以下は天正本『太平記』による)。尊氏は頼春を侍所(さむらいどころ)の長官に任じた。七年、足利義詮が東寺(とうじ)に拠ったとき、朝廷の軍が来襲したので、頼春は兵三百余を率いて救援に赴いた(注:この書ではあるいは五百とする)。途中、和田正忠(わだまさただ)・楠正儀(くすのきまさのり)と戦い、馬が驚いて落馬した。三人の兵が迫って斬りかかったが、頼春は倒れたまま二人を斬った。ようやく起き上がったところへ一人の下卒が追いついて槍で突き、喉に当たって死んだ(注:『太平記』による)。時に年五十四(注:『尊卑分脈』による。『細川家譜』では四十九とする)。頼春は弓の名手で、後醍醐帝(ごだいごてい)が射馬場殿(いばばどの)で弓術の講評をされた際、頼春を召して相手役に充て、十発すべて的を射抜いた。さらに騎射を命じられ、これも命中させた。衣類を褒美として賜った。頼春は和歌を奉ってこれに謝し、帝はますます褒め称えた(注:『細川家譜』による)。  子は頼之(よりゆき)・頼有(よりあり)・頼元(よりもと)・詮春(あきはる)・満之(みつゆき)。頼之には別に伝がある。頼有は右馬頭(うまのかみ)。頼元は兄頼之の養子となった。詮春は讃岐守・左近衛将監(さこんえのしょうげん)。満之は兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)・備中守護(びっちゅうしゅご)。頼春の弟は師氏で、掃部助(かもんのすけ)となった。従弟は顕氏(あきうじ)である。

細川顯氏

細川顕氏(ほそかわあきうじ)は小四郎(こしろう)と称した(注:この書ではあるいは頼氏(よりうじ)に作る)。父を頼貞(よりさだ)という(注:『尊卑分脈』による)。建武(けんむ)年間、足利直義に従って鎌倉に居た。たまたま北条時行が乱を起こし、武蔵(むさし)女影原(おなかげがはら)に至ったとき、頼貞は病をおして戦いに赴き、そこで没した(注:天正本『太平記』による。『梅松論』には、頼貞はそのとき病があって相模(さがみ)の温泉に浴していた、顕氏は直義に従って参河(みかわ)まで逃れ、人を走らせて事の次第を報告した、頼貞は「私は不幸にも病にかかり、賊が起こったと聞いても力を尽くすことができない。どうして残り少ない命惜しさに、お前たちの死節の志を煩わせてよかろうか」と言い終えると、使者の前で刃に伏して死んだ、とあるが、どちらが正しいかはわからない)。

顕氏は陸奥守(むつのかみ)・兵部大輔に任じられ(注:『尊卑分脈』『園太暦(えんたいりゃく)』『太平記』による。『分脈』では少輔とする)、引付頭(ひきつけのとう)となった(注:『尊卑分脈』による)。足利尊氏に従って京師を陥落させ、また従って筑紫へ奔り、多々良浜(たたらはま)で戦った(注:『太平記』による。『梅松論』には顕氏は讃岐に留まったとあるが、どちらが正しいかはわからない)。まもなく弟の定禅(じょうぜん)と共に京師に至り、新田義貞らと戦って功があった(注:『梅松論』による)。

正平二年、兵を率いて楠正行を河内(かわち)に攻めた。誉田(こんだ)に至ったところで伏兵に遭って大敗し、退いて天王寺(てんのうじ)を守った(注:『園太暦』には、顕氏は正行と教興寺(きょうこうじ)で戦い、夜に正行に襲われて敗れ京へ帰ったとあるが、どちらが正しいかはわからない)。尊氏は山名時氏(やまなときうじ)を遣わしてこれを助けさせたが、共に潰走して帰った(注:天正本『太平記』による)。顕氏は京師の錦小路(にしきこうじ)に邸を構えていたが、直義が高師直に訴えられて職を停められると、そこに移り住んだ(注:『太平記』『尊卑分脈』による)。直義が朝廷に帰順した際には、顕氏はこれに従い、共に尊氏を攻めた。和議が成ると直義に従って京師へ戻ったが、直義は越前(えちぜん)へ奔った(注:『太平記』による)。

顕氏は尊氏の意を受け、直義のもとへ行って兵を解くよう説き諭した(注:『園太暦』による)。しかし直義は顕氏を引き留めて帰さず、畠山国清(はたけやまくにきよ)・桃井直常(もものいただつね)と共に八相山(はっそうざん)で尊氏を防がせたが、うまくいかなかった。顕氏は国清と共にまた直義を諫め、尊氏と講和して政務を義詮に委ねるよう勧めた。直義は大いにこれを是とし、出て尊氏と会見した。しかし直常が頑なに反対したため、和議は再び失敗した(注:天正本『太平記』による)。顕氏は事がうまく運ばなかったことを恥じ、髪を剃って僧になろうとしたが、尊氏がこれを聞いて止めたので、そのまま従って京師へ帰った(注:『園太暦』による)。

七年、義詮が東寺に拠って官軍を防いだとき、和田正忠・楠正儀は七条(しちじょう)の坊市(ぼうし)に火を放って進撃した。顕氏は兵百余を率いてこれに赴き、戦って敗れ、わずか七騎と共に讃岐へ帰り、兵三千を得た(注:現行本『太平記』ではあるいは六千とする)。再び京師に至り、諸将と共に男山(おとこやま)を攻めた。諸将はちょうど園殿口(そのどのぐち)佐羅科(さらしな)で戦っていた(注:『太平記』による)。顕氏は民家に火を放って挟撃し、官軍は戦わずに退いた。そのまま細川清氏と共に如法経塚(にょほうきょうづか)に陣を進めた。湯川荘司(ゆかわのしょうじ)ら二百人が相率いて降伏し、男山は陥落して顕氏は帰還した(注:『園太暦』『太平記』による)。

七月、出家した。その翌日、死去した(注:『園太暦』『常楽記』による)。顕氏は和歌に巧みで(注:『尊卑分脈』による)、禅を好み、かつて軍事のことで甲斐(かい)に赴いた際、恵林寺(えりんじ)の僧疎石(そせき、夢窓疎石)を訪ね、深くこれに帰依し、ついに尊氏に推挙したという(注:『梅松論』による)。  四人の子がおり、繁氏(しげうじ)・業氏(なりうじ)・氏之(うじゆき)・政氏(まさうじ)という。繁氏は式部丞(しきぶのじょう)となった。正平年間、伊予守(いよのかみ)となった。足利義詮が九国(きゅうこく、九州)の鎮撫を命じ、まず讃岐に赴いて戦艦を整えさせ、崇徳院(すとくいん)の堂領(どうりょう)にも軍糧を課した。出発しないうちに急病で死去し、世間では崇徳院の祟りだと噂した(注:『太平記』による。堂領については『園太暦』による)。業氏は和氏の子で、顕氏の養子となり、兵部大輔・陸奥守となった。氏之は頼貞の末子で、これも顕氏の養子となり、伊予守となった。政氏は左近衛将監となった(注:『尊卑分脈』による)。顕氏の弟は定禅である。

細川定禪

細川定禅(ほそかわじょうぜん)は若くして髪を剃り、鎌倉若宮(わかみや)の別当(べっとう)となり、律師(りっし)に任じられ、卿律師(きょうりっし)と称した(注:『尊卑分脈』『太平記』による)。北条時行の乱に際し、定禅は兄の顕氏と共に足利直義に従い、武蔵狗庭原(いぬにわがはら)まで逃れたところ、付近の郡の兵が時行に応じて攻めて来て、その勢いは非常に鋭かった。定禅は士卒を督励して決死の戦いをし、これを破った(注:金勝院本『太平記』による)。その後、讃岐に赴いて住んだ。

足利尊氏が反旗を翻して京師に攻め入るにあたり、書状を送って定禅を招いた。定禅は直ちに兵を挙げてこれに応じ、鷺田荘(さぎたのしょう)に陣を布いた。高松(たかまつ)の持(たもつ)は舟木頼重(ふなきよりしげ)を将として討伐に来た(注:頼重の氏は『舟木系図』による)。次いで屋島に至ったところ、定禅は夜襲を仕掛けてこれを大破した。これにより四国の人々はことごとく定禅に帰服した。備前(びぜん)の人、飽浦信胤(あくうらのぶたね)・田井信高(たいのぶたか)もまた兵を挙げて定禅に応じ、備中(びっちゅう)福山城(ふくやまじょう)に拠り、定禅の勢いはますます盛んになった。

延元(えんげん)元年、兵を率いて東へ向かい、途中で赤松範資(あかまつのりすけ)に出会い、共に率いて進んだ。このとき尊氏は既に大渡(おおわたり)に至り、新田義貞と対峙していた。脇屋義助もまた山崎(やまざき)に陣を構えて尊氏を防いでいた。定禅と範資はまず義助を攻め、これを敗走させた。義貞はついに大渡を捨てて退いた。定禅はこれを追って新田義顕(にったよしあき)を破り、そのまま長駆して京師に入った。車駕(しゃが、天皇の乗り物)は既に延暦寺(えんりゃくじ)へ行幸されていたが、定禅らは直ちに火を放って宮闕(きゅうけつ、内裏)を焼いた(注:『太平記』による。『梅松論』も参照した)。

尊氏は定禅に兄の顕氏らと共に園城寺(おんじょうじ)へ赴くよう命じた。僧兵をもって行在所(あんざいしょ)を急襲するためであった。時に鎮守府大将軍源顕家(あきいえ)が陸奥の兵を発して行在所に馳せ参じ、その軍勢は非常に盛んで、まさに園城寺を攻めようとしていた。定禅らは大いに恐れ、たびたび使者を送って援兵を求めたが、尊氏はこれを許さなかった。定禅らは出て唐崎(からさき)で防戦したが敗れ、退いて園城寺で戦ったがまた敗れ、ついに退いて京師へ戻った。義貞らはこれに乗じて攻め寄せ、尊氏の軍は大敗し、京師を捨てて逃げた。

定禅は深くこれを憤り、士卒に「京師を守れなかったのは我々の責任である。一戦してこの恥をすすがずにいられようか。思うに新田氏の軍は既に疲れており、もはや戦えまい。その他の兵はみな金銀財宝に目がくらんでおり、必ず四方に散って略奪するはずだ。これを襲えば必ず勝てる」と語った。そこで夜、兵三百を選び、火を放って反撃した。義貞らは敗走し、追って部将数人を斬り、尊氏は再び京師に入った(注:『太平記』による)。これにより定禅の勇名は軍中に轟いた。その後、義貞と兵庫で戦い、また大いにこれを破り、そのまま尊氏に従って戦った。京師における戦いでは定禅の功が最も多かった。さらに兵を率いて阿弥陀峰(あみだがみね)を攻め、官軍を破って帰った(注:『太平記』『梅松論』による)。

弟に僧の皇海(こうかい)・直俊(なおとし)がいる。皇海は若宮別当となり(注:『梅松論』『清和源氏系図』も参照した)、三位房(さんみぼう)と称した(注:『尊卑分脈』による)。

細川直俊

細川直俊(ほそかわなおとし)は民部少輔(みんぶしょうゆう)となった(注:印本『尊卑分脈』による)。帯刀先生(たてわきせんじょう)と称した(注:『尊卑分脈』『梅松論』による)。延元年間、顕氏・定禅に従って京師で戦い、義貞が敗走すると、人々は阿弥陀峰を攻めようと評議した。直俊はこれに異を唱えて「阿弥陀峰の敵は皆、近畿の寄せ集めの軍にすぎません。城に拠って戦うのはまさに彼らの望むところです。まず竹田(たけだ)の敵を撃ち、そこから兵を回して木幡(こわた)・稲荷(いなり)を経て阿弥陀峰を襲い、前後から挟み撃ちにすれば、必ずこれを破れましょう。守殿(しゅでん、直義)は七条(しちじょう)に兵を出し、彼らの逃げ道を塞ぐべきです」と提案した。そこで顕氏らと共に竹田を攻めた。直俊は二騎と共に真っ先に進み、門を押し破って入り、その身に重傷を負った。味方が続いて進み急襲すると、官軍は水に落ちて、ほとんど溺死した。そこから引き返して阿弥陀峰に至り、陣の後方からこれを衝いた。直義もまた兵を進めてその前方に当たったので、官軍は狼狽し、戦わずに逃げた(注:『梅松論』による)。その後、大塚惟正(おおつかこれまさ)と河内で戦い、敗れて死んだ(注:『尊卑分脈』『和田系図裏書文書』による)。