卷之一百六十五 列傳第九十二

源親房、源顯信、源顯能、源顯時ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

Read this volume in English →

文字

源親房

源親房(みなもとのちかふさ)は、具平親王(ともひらしんのう)の子孫であり、権大納言師重(もろしげ)の子である。家系は北畠(きたばたけ)、あるいは中院(なかのいん)と称した。(注:尊卑分脈、北畠系図による。)永仁・延慶の間に、たびたび昇進して従四位下に叙せられ、右近衛中将・左少弁を歴任し、参議に任じられた。元応元年、中納言となり正二位に叙せられ、淳和院・奨学院の両院別当を兼ねた。元亨三年、大納言に昇った。(注:公卿補任による。)世良親王(ときよししんのう)の傅(もりやく)となった。(注:増鏡による。)元徳二年、世良親王が薨去した。親房は深く悲しみ、これによって剃髪した。(注:増鏡、公卿補任による。)法名を宗玄と号した。(注:公卿補任による。)親房は五代の朝にわたって仕え、もとより時の人望があった。彼が官を辞して退居すると、人々はみな朝廷のために惜しんだ。(注:増鏡による。五代の朝に仕えたことは公卿補任による。)元弘三年、天皇の御車が隠岐(おき)から都へ還ると、親房は再び出仕し、(注:太平記、梅松論による。)これによって従一位を授けられ、(注:園太暦、元弘日記、裏書、新葉和歌集による。)准大臣とされた。(注:尊卑分脈、薩戒記応永三十二年条による。分脈には「南朝の勅により大臣に准ぜられた」とあるので、この授与があったことは知られるが、その年月は記されていない。薩戒記は元弘二年のこととするが、当時天皇はまだ隠岐におられたのだから、どうしてこの授与がありえようか。そこで、ここに記して後の考証を待つこととする。)

冬、親房の子顕家(あきいえ)が陸奥守(むつのかみ)となり、義良親王(のりよししんのう)を奉じて陸奥・出羽に出て鎮守した。(注:神皇正統記、保暦間記による。)親房はこれを補佐し、(注:梅松論による。)のちに都へ帰った。(注:関城書、結城文書による。梅松論には、延元元年に親房が兵を発し、義良親王および顕家とともに都へ帰ったとある。関城書には、親房が都へ帰った後に顕家が陸奥を発したとあり、これは親房自身が記したものである。梅松論の記述はおおむね誤りである。)

足利尊氏(あしかがたかうじ)が北条時行(ほうじょうときゆき)を討った際、尊氏が異心を抱いているとの告げ口があった。天皇は初めて尊氏を疑い、これを誅殺しようとした。親房は中納言藤原公明(ふじわらのきんあき)とともに諫めて言った。「尊氏の功績は大きく、罪はまだ明らかではありません。にわかに公然と誅すべきではありません。しばらくその動静を見極めるべきです。」天皇はこれに従い、使者を遣わして問いただそうとした。使者が出発する前に、尊氏はついに反乱を起こした。(注:太平記による。異本太平記には親房・公明の名が載らず、諸卿が奏議したこととするものもある。)

延元元年、尊氏が都を侵すと、親房は天皇の御供をして延暦寺(えんりゃくじ)に入った。まもなく天皇は尊氏の降伏を受け入れて都へ還ったが、公卿や将士の中には尊氏に従うことを望まない者が多く、しばしば諸国へ逃れた。親房もまた伊勢(いせ)へ逃れた。(注:金勝院本太平記による。)

三年、顕家が安部野(あべの)で戦死すると、結城宗広(ゆうきむねひろ)が奏請して、再び親王を陸奥鎮守に遣わすこととなった。詔により、親房の子顕信(あきのぶ)が陸奥介・鎮守府大将軍となり、義良親王を奉じて赴くこととなった。親房もまたこれを補佐し、宗広らがこれに従った。(注:神皇正統記、元弘日記裏書、太平記を参照してまとめた。)海上で大風に遭い、親王および顕信とはぐれてしまった。親房の船は常陸(ひたち)の東条浦(とうじょうのうら)に漂着し、(注:神皇正統記、金勝院本太平記、烟田文書を参照してまとめた。)阿波崎(あわさき)・神宮寺(じんぐうじ)の二城に拠った。敵兵が攻めてきて、二城はほどなく陥落した。(注:烟田文書による。)

親房は小田治久(おだはるひさ)を頼って小田城(おだじょう)に入り、(注:結城文書による。)宮内大輔伊達行朝(だてゆきとも)に命じて伊佐城(いさじょう)に拠らせ、(注:関城書、結城文書を参照してまとめた。)近衛少将藤原実寛(ふじわらのさねひろ)を下総(しもうさ)に遣わして駒城(こまじょう)を守らせた。(注:鶴岡社務記による。)そして東北諸国の兵を招き集めた。(注:神皇正統記、結城文書による。)義良親王および顕信は伊勢まで帰り着いたが、ちょうど天皇が崩御されたため、親王が即位した。これが後村上帝(ごむらかみてい)である。(注:神皇正統記、太平記による。)当時、天皇はまだ幼く、みずから政務を執ることができなかった。親房は遠方から奏上し、権大納言藤原実世(ふじわらのさねよ)・権中納言藤原隆資(ふじわらのたかすけ)に機務を総括させるよう求めた。天皇はこれに従った。(注:太平記による。)

四年冬、高師冬(こうのもろふゆ)が兵を率いて駒城を包囲し、兵を分けて小田城を攻めた。(注:鶴岡社務記、結城文書、保暦間記を参照してまとめた。)興国元年夏、師冬は駒城を陥落させ、藤原実寛を捕らえた。しかしまもなく官軍が再び兵を起こし、駒城を攻めて奪い返し、勝ちに乗じて敵の数城を陥落させた。師冬は陣営を焼いて逃げた。(注:鶴岡社務記、結城文書、元弘日記裏書を参照してまとめた。)この年、顕信は陸奥の鎮所に到着した。(注:結城文書、元弘日記裏書による。)

翌年、親房は陸良親王(むつよししんのう)を小田城に迎え、これを奉じた。陸良親王は護良親王(もりよししんのう)の子で、親房の妹が生んだ子であった。(注:阿蘇社文書による。親房の妹が生んだことは保暦間記による。)夏、高師冬は再び大軍を率いて小田城を攻め、宝篋山(ほうきょうさん)の上に砦を築いて迫った。(注:結城文書、別府文書、税所文書による。)親房は兵を出して奮戦しこれを破り、陸奥の結城親朝(ゆうきちかとも)に援軍を求めた。親朝は宗広の子である。宗広の死後、親朝はひそかに足利尊氏と通謀しており、そのため援軍をなかなか送らなかった。(注:結城文書による。)

数か月にわたって対峙するうち、小田治久もまた師冬に叛いて降った。(注:結城文書、鶴岡社務記、別府文書による。)親房はそこで退いて関城(せきじょう)を守った。源顕時(みなもとのあきとき)は下妻(しもつま)へ逃れて大宝城(だいほうじょう)を守った。(注:結城文書による。)関城は民部少輔関宗祐(せきむねすけ)が守るところであった。(注:結城系図、結城文書、関城書による。)師冬は兵を率いて両城の間に駐屯したが、親房・顕時は兵を出してこれを撃ち破った。敵はさらに長い包囲柵を築き、持久策をとった。親房はたびたび親朝に援軍を求め、直筆の書状を懇切に送り、あの手この手で説き諭したが、親朝はついに動かず、城中はますます困窮した。(注:結城文書による。)

翌年の春、親房はさらに書状を送ってこう述べた。「去年の夏、賊軍と小田城で対峙し、守り抜くことはまことに苦しいものでした。頼みとするところはひとえに貴殿の領内の兵にありました。矢継ぎ早に檄を飛ばして援軍を乞い、以前いただいた返書では出兵して救援するとのことでしたので、仲冬(十一月)まで待ちました。ところが治久は臆病風に吹かれ、途中で賊に寝返ってしまいました。それから移動してさらに三か月、前後合わせて九か月になりますが、いまだ一人の援軍も見ておりません。形勢はますます切迫し、兵はますます減り、その苦しさは推して知るべしでしょう。

今、坂東(ばんどう)で官軍が保っている城は、下妻(しもつま)・真壁(まかべ)・中郡(なかごおり)・西明寺(さいみょうじ)・伊佐(いさ)・関(せき)の六城のみです。関城は宗祐(むねすけ)が力を尽くして防戦し、守備はほぼ保たれておりますが、賊の包囲がすでに長く、輸送路も駅路も絶たれ、白昼に外へ出ることもできません。兵は疲れ果て食糧も乏しく、馬を減らし甲冑まで売り払って、その日その日をしのいでいる有様です。骨を炊いて子を交換して食らうような惨状も、まもなく起こりましょう。

下妻は主将がまだ幼く、家臣が権を争っております。顕時朝臣(あきときあそん)は陸良親王を奉じて兵士を統率し、いくらか落ち着いてはおりますが、根も葉もない噂が絶えず、内側から乱れが起ころうとしております。真壁では法超(ほうちょう)がみずから節義に励んではおりますが、一族はみな心が離れ、中には密かに賊に通じる者もおります(注:法超は真壁城の守将の名で、その姓は伝わっていない。おそらく常陸平氏の一族である真壁氏の者であろう)。中郡は顕時朝臣がわずかに部下を分けて守らせているだけで、兵はすでに寡少なうえ、蓄えも日ごとに乏しくなっており、頼みにできません。西明寺は地勢が孤立しており、消息も通じません。以上の五城は、燕の巣が夕暮れにあるように危うい有様です。ただ伊佐城のみは、行朝朝臣(ゆきともあそん)の忠義が揺るがぬゆえに、堅く守り抜くことができましょう。しかし本城(関城)と下妻が守りを失えば、伊佐の孤城もまた支えきれなくなるでしょう。

貴殿はこれまで兵が少なく出陣しがたいと言い訳をされてきました。それゆえ私はたびたび書状で、『貴殿がみずから来られないのであれば、せめて国境まで兵を出して見せるだけでも、声援を張ることになる』と申し上げてきましたが、それでもなお聞き入れていただけません。これでは軍の士気が困窮し挫けないでいられましょうか。そもそも戦とは危険なもので、事の変化は瞬く間に起こります。援軍が間に合わなければ、兵がいくら多くても何の役に立ちましょうか。まして賊は国府に駐屯してすでに一年余り、力も尽き糧も乏しくなっているのですから、さらに十日や一月を過ぎれば、城兵はことごとく干物の魚のように干上がってしまうでしょう。その時になって川や海の水を注いだところで、何の益がありましょうか。

かつて贈一位(結城宗広)殿が陸奥の鎮所におられたとき、賊が挙兵したと聞くや袖を払って立ち上がり、わずかな兵を率いて危難に馳せ参じ、千里の道を踏み越えて大きな功を立てられました。再び援軍として入られたときは、人々は危惧を抱き、道は塞がれ、国府で敗れ、霊山(りょうぜん)で危機に陥りながらも、なお転戦して畿内へと至られました。もし不慮のうちに命を落とされたのだとしても、それは天の定めであって、戦の罪ではありません。忠孝の道はそれで悔いのないものとなりましょう。これを見れば、兵を出すか出さぬかは、志が至っているか至っていないかにかかっているのです。貴殿がもし奮い立って兵を分け馳せ参じてくだされば、伊達(だて)以西の郡県に、呼応する者がいないはずがありましょうか。

今日の情勢は、まさに火急のものです。私が願うのは、事態が鎮まるまでの間、守るべきものを失わず、余生をもって先の天皇にご恩を報いることだけです。大義を心に刻み、死をもってようやく終わるものです。鳥は死のうとするとき、その鳴き声は悲しく、人は死のうとするとき、その言葉は善いものになると申します。二度目の書状が続けられるかどうかもわかりませんので、あえて言葉を尽くしました。

そもそも我が国は、天祖(あまつみおや)が国造りを始められた地であり、日の神が統べ治められる国土です。代々の聖なる天皇が受け継がれ、すでに九十五代を経てまいりました。この誓いは永遠に及ぶものであり、これに背くことは許されません。おおよそ道に背く企てをする者は、たちまちのうちに滅び去るものです。尊氏がいったい何者であるというのでしょうか。その罪悪は極まり、これまでに例を見ないほどでありながら、中原(都)を盗み取ってからすでに七年になります。何と幸運なことでしょうか。

昔の逆臣、たとえば平将門は六年で滅び、安倍貞任(あべのさだとう)は十二年で平定されました。とすれば、尊氏の転落もまた、天が時を待って発動されることでありましょう。昔から大悪人が長らく命を保つことができるのは、まことに衆に優れた智勇があるからです。しかし尊氏には子孫を庇うに足るほどの偉大な度量も遠大な策謀もありません。それなのに家来の(高)師直(もろなお)は虎の威を借り、代々の名家や武門の子孫を踏みにじっております。その凶悪ぶりをたどれば、先日の(北条)高時の所業を上回るほどです。

いわゆる名家というものは、もともとみな王家に仕える臣でありました。保元・平治の乱以来、源氏・平氏の家に従属するようになり、承久の乱の後には、さらに陪臣にすぎない北条氏に従属するようになったのです。自らの家譜を見て、心に恥じないでいられましょうか。今まさに聖なる運が再び興り、本来の所領がもとどおりになるどころか、直々に綸言を賜り、朝廷の位を授けられるという、このような巡り合わせに遭いながら、利を貪り死を惜しんで逆賊に付き従い節を屈するのでは、文武の道は地に落ちたと言うべきでしょう。そのようなことで、いったいどんな顔をして地下の祖先にお会いできましょうか。

貴殿の先祖である(藤原)秀郷朝臣(ひでさとあそん)は、早くから国のために勲功を著し、後世の子孫は代々名門として聳え立ってきました。平清盛や源頼朝と比べても、家柄において決してその下に立つものではありません。それなのに、王命を奉じて将帥を指揮する立場にありながら、逆にこうべを垂れてこれに服従しているのは、たとえ情勢がやむを得ないものであったとしても、それを望んでのことではありますまい。だからこそ上野介朝臣(こうずけのすけあそん)は、天下を一統することを図って家の名声を振るわれたのです。その忠義の憤りは心の底から発したもので、上下に誠を尽くし、今に至るまで人々に忘れられておりません。親光朝臣(ちかみつあそん)もまた相次いで節義に殉じられました。貴殿父子はその嫡流でありながら、先人の志を継いで後の子孫にその名を輝かせるべきところ、なおも去就を決めかね様子見をする策を抱いておられます。先祖の御霊もきっと怒り、また罰を下されることでしょう。

近ごろ、あちこちの小人どもが集まって根拠のない議論をしております。ある者は、『城壁を固く守り、鋭気を蓄え力を養いながら、天下の形勢を見極めるべきだ。もし尊氏が勝てば、時機を見て降伏すれば、家門は保たれよう』と言い、またある者は、『たとえ関東の諸城が守りきれなくなったとしても、奥州の険阻な地に拠れば、なお年月を稼ぐことができる。賊の失策をうかがい、おもむろに立ってその後を図れば、大功も成し遂げられよう』と言い、またある者は、『興亡の際には天命というものがある。損得をよくよく考え、時機を待って動くべきだ。贈一位(結城宗広)殿のように、忠節は大きくとも功業を遂げられず、その二の舞となった例が近くにあるのだから、それを鑑とすべきだ』などと申しております。おそらく貴殿もこうした説に惑わされているのではありませんか。

私に親しい者たちの中にすら、こうした考えを抱いて私のやり方を危ぶむ者があるのですから、まして疎遠な人々においてはなおさらでしょう。それは本来気に留めるほどのことではありません。しかし大義を損なうものである以上、弁明せずにはいられません。私の家は皇族から出て、代々太平の世に恵まれ、朝廷の儀礼や典章を学んでまいりました。辺境の軍事のことについては、もとより不案内であります。したがって、その処置に道理にかなわぬところがあり、人を心服させるに足りないのももっともなことでしょう。

しかし顧みれば、この身は前の天皇の遺臣として、今上陛下を艱難のうちにお守りし、天皇が最期の際にお言葉を託されました。今まさに孤城に拠って坂東八州を制しようとしております。恐れるのは、ひとたび私が命を落とせば、四方が瓦解し、賊がその隙に乗じて奥州に攻め込むことです。そうなれば忠義の心もどうして崩れ去らずにいられましょうか。

また、三位中将(顕信)は陸奥に赴いて三年になりますが、いまだ功を立てられずにおります。生まれつき才が浅く劣り、そばに補佐する者もなく、人々の心も離れがちです。この危うく疑わしい有様は、薪を抱いて火の上に寝るようなものです。私が死んだ後、事を成し遂げてくれる者がいったい誰がおりましょうか。

今日、貴殿に別の企てがあるのならばそれまでのことです。しかし忠義を全うしたいと思うのであれば、遠い先のことまで考えぬはずがありましょう。天の光もここに臨み、鬼神にも霊験があります。私はただ天下のために申し上げているのであって、あえて余命を惜しんでのことではありません。」(注:関城書による。)

親朝はなおも兵が少ないことを理由に断った。親房は僧の宣宗を遣わして顕信に来援するよう命じ、また親朝を諭してその子弟を出陣させようとしたが、親朝はまたも聞き入れなかった。(注:結城文書による。)

四年の夏、敵将結城直朝(ゆうきなおとも)がその配下を率いて先陣を進めて攻めてきた。親房は兵を出してこれを迎え撃ち、直朝を斬り、残りの軍勢は散り散りに逃げ去った。(注:結城文書、結城系図による。)高師冬はさらに兵士に草を運ばせて堀を埋めさせた。また鉱夫を募って地を掘らせたところ、にわかに土が崩れ、人夫はみな圧死した。敵はさらに城下に幾重もの柵を築いた。城兵は打って出て争い、その柵をことごとく引き抜いたので、敵は近づくことができなくなった。しかしまもなく親朝はついに叛いて足利氏に降った。(注:結城文書による。)親房は城を捨てて吉野(よしの)へと逃れ帰った。(注:結城文書、税所文書、別府文書による。)

正平五年、足利直義(あしかがただよし)は楠正儀(くすのきまさのり)を通じて上書し罪を謝し、帰順を願い出た。朝廷の評議は決しなかったが、親房は「一時の方便としてこれを受け入れ、しばらくその功を利用すべきである」と述べ、天皇はその言に従った。(注:太平記による。楠正儀を通じたことは吉野事書案による。)

翌年、直義は約束を破り、朝廷の制に従わなくなった。天皇は親房に命じて書状をしたためさせ、直義に与えてその約束違反を詰問させた。直義もまた上書して弁明し、その書状では、天皇は都へ還るべきであり、国政は武家に委ねるべきであると主張した。(注:房玄法印記、吉野事書案を参照してまとめた。)楠正儀はその願いを聞き入れるべきだと考えたが、親房はあくまでこれに反対し、議論はついにまとまらなかった。(注:房玄法印記による。)

この年、勅命により准三宮(じゅさんぐう)とされ、(注:太平記、園太暦、常楽記による。)輦(れん)に乗って宮中に入ることを許された。(注:太平記による。本書に、親王や摂関家の者を除いて准三宮となった例としては平清盛があるが、これは清盛が国母の父であり天皇の外祖父であったためである。親房が准三宮となったのは、実にまれな例である。今、房玄法印記や園太暦などを調べてみると、長慶帝は後村上帝の長子で、正平五年に生まれ、六年に袴着の儀を行い、まもなく皇太子となった。ほどなく天皇は皇太子に譲位しようとする志を抱かれたが、実現しなかった。おそらく長慶帝は女御源氏の生んだ子であろう。とすれば、親房は皇太子の外祖父として、特にこの授与を受けたのであろう。年月もつじつまが合い、実際にそうしたことがあったように思われるが、確たる証拠は得られていない。ここに注記して、後の考証に備える。)

七年、天皇が男山(おとこやま)に行幸された際、兵を遣わして足利義詮(あしかがよしあきら)を討ち退けた。そこで親房とその子顕能(あきよし)に、先に都へ入らせて諸事を総決させた。(注:太平記による。)

九年、賀名生(あのう)で薨去した。(注:常楽記による。)著書には職原抄(しょくげんしょう)、古今集註(注:本書による)、東家秘伝、元元集、二十一社記などがある。(注:仁和寺書籍目録外録による。)世間ではその博識広学ぶりから、藤原宣房(ふじわらののぶふさ)・源定房(みなもとのさだふさ)と並べて「後の三房」と称された。(注:臥雲日件録による。)かつて宋の司馬光(しばこう)の資治通鑑(しじつがん)を読み、大義について見識を得るところがあった。(注:尺素往来による。)

天皇が行在所(あんざいしょ)で即位された当時、親房は中興が成し遂げられず、皇統が絶えかけていることを深く嘆き、そこで皇祖が国を建てられた根本の意を推し進めて、神皇正統記(じんのうしょうとうき)を著した。上は神代(かみよ)に始まり、下は興国の初めに終わり、すでに衰微していた皇統を掲げて、三種の神器がしかるべきところに帰することを明らかにした。この著述は、道理を明らかにして正義を助けるという点で、まことに春秋の遺旨にかなうものであるという。(注:神皇正統記による。)

子は顕家(あきいえ)・顕信(あきのぶ)・顕能(あきよし)・顕雄(あきお)という。(注:尊卑分脈による。)娘の一人は後村上天皇の後宮に入り、女御(にょうご)となった。(注:園太暦、太平記による。)顕家については別に伝がある。甥に顕統(あきむね)・家房(いえふさ)がいる。(注:尊卑分脈による。)顕統は正平の初めに左中弁に任じられ、左近衛少将を兼ねた。(注:顕統本職原抄による。)後亀山帝(ごかめやまてい)の朝には春宮大夫(とうぐうだいぶ)に任じられ、(注:南朝五百番歌合による。)ついに内大臣にまで至った。(注:新葉和歌集による。)家房は近衛少将に任じられ(注:左右いずれかは未詳)、冷泉少将(れいぜいのしょうしょう)と称された。建武年間には陸奥評定衆となり、顕家の陸奥赴任に従った。(注:建武二年記による。)また西上の軍にも従った。高師直(こうのもろなお)が顕信を男山に包囲した際には、家房は左近衛少将源持定(みなもとのもちさだ)とともに兵を率いて救援に赴いた。(注:元弘日記裏書による。)まもなく亡くなった。(注:結城文書による。本書の延元四年四月付の書状に「故冷泉羽林」とあり、これは家房が顕信を救援した翌年にあたる。これによれば、家房はおそらく男山の戦いで亡くなったのであろう。しかし確かな考証はない。)

源顯信

源顕信(みなもとのあきのぶ)は左近衛少将に任じられた。(注:神皇正統記による。)春日少将(かすがのしょうしょう)と称された。(注:北畠系図、太平記による。)延元元年、天皇が華山院(かざんいん)におられたとき、顕信は伊勢で兵を挙げ、ひそかに奏上して中興を図ろうとした。大江景繁(おおえのかげしげ)もまた、供奉していた将士が逃げ帰って義兵を挙げていると奏上した。天皇はそこでひそかに吉野へ行幸された。(注:保暦間記、太平記を参照してまとめた。)

三年の春、従兄の顕家とともに土岐頼遠(ときよりとお)と青野原(あおのがはら)で戦い、これを破った。顕家は堺浦(さかいのうら)に陣を進め、顕信は男山(おとこやま)に拠った。高師直(こうのもろなお)は顕家を攻め殺し、続いて顕信を包囲した。(注:太平記による。)左近衛少将源持定(みなもとのもちさだ)らが救援に来て、顕信は師直を撃って有利に戦い、(注:元弘日記裏書による。)数か月にわたって対峙した。(注:太平記による。)天皇は兵を遣わしてこれを救おうとし、(注:院家雑々跡文による。)また新田義貞(にったよしさだ)に勅して速やかに救援に赴かせようとした。義貞はまず(弟の)義助(よしすけ)を先発させたが、師直はこれを憂慮し、間者を放って山上の神社に火を放たせ、城中は騒然となった。敵兵はこれに乗じて先を争って登り、まさに柵を破ろうとした。城兵の松山九郎(まつやまくろう)は力は強かったが臆病で、足がすくんで戦えずにいた。高木十郎(たかぎじゅうろう)は刀を構え目を怒らせて言った。「城は今にも陥ちようとしている。お前が出て戦えないなら、私がお前を刺し違えて死なせてやろう。」松山はそこで奮い立ち、大きな石を抱えて十数個も投げつけ、敵は崩れ敗れて崖谷に転落し、城は陥落を免れることができた。当時の人々は「松山は力はあったが、実際に彼を働かせたのは高木だ」と評した。(注:太平記による。)

しかし兵糧はすでに焼き尽くされ、山麓の援軍もみな敗走し、糧道は絶たれてしまった。義助は男山が火に包まれたと聞いて、城がすでに陥落したのではないかと疑い、兵を進めなかった。顕信はついに城を捨てて河内(かわち)へと逃れた。(注:太平記による。院家雑々跡文を参照した。)

まもなく近衛中将に転じ(注:左右いずれかは未詳)、従三位に叙せられ、陸奥介・鎮守府大将軍を兼ねた。(注:神皇正統記、結城文書による。)親房とともに義良親王を奉じて陸奥に赴き鎮守し、東国の官軍を総督した。ところが海上で暴風に遭い、顕信は義良親王とともに船が伊勢の篠島(しのじま)に漂着した。親王はそのまま行在所へ帰られた。(注:神皇正統記、太平記、元弘日記裏書、新葉和歌集による。)天皇が崩御されると、後村上天皇は顕信に遺勅を伝え、中興の回復を図らせた。(注:太平記による。)

興国元年に奮起し、白河城(しらかわじょう)に居した。(注:元弘日記、元弘日記裏書、新葉和歌集による。)翌年、石塔義房(いしどうよしふさ)の城を攻めてこれを落とした。(注:阿蘇社文書による。)親房が関城を守るに及んで、使者を遣わして顕信に、結城親朝の子弟を率いて救援に来るよう命じたが、親朝はこれを引き留めて遣わさなかった。(注:結城文書による。)

四年、関城が陥落し、親房は西へ逃れた。(注:結城文書、別府文書による。)顕信は宇津峰宮(うつみねのみや)を奉じ(注:結城文書には宇津峰は「埋峰」とも作る。親王の名は伝わらず、その系譜も未詳である)、陸奥にとどまって霊山(りょうぜん)・宇津峰(うつみね)の二城を守った。正平二年、結城顕朝(ゆうきあきとも)・相馬親胤(そうまちかたね)らが攻めてきて、顕信は敗走した。(注:結城文書、相馬家伝を参照してまとめた。)

六年、再び宇津峰宮を奉じて兵を挙げた。伊達飛騨前司(だてひだのぜんじ)・田村荘司(たむらのしょうじ)らがこれに属し、国府に進撃した。敵将吉良貞家(きらさだいえ)と倉本河(くらもとがわ)・広瀬河(ひろせがわ)などの地で戦った。(注:相馬文書による。)まもなく尊氏が朝廷に帰順したとの報せが届いたため、兵を退いた。翌年、吉良貞家は結城・相馬らの兵を率いて攻めてきた。(注:結城文書、相馬家伝による。)顕信は戦いに敗れ、退いて宇津峰城を守ったが、敵はさらに迫ってきた。顕信は宇津峰宮とともに城を捨てて逃げた。(注:相馬家伝、国魂文書を参照した。)

その後、吉野へ帰った。正平の中頃、中納言となり、征西大将軍懐良親王(かねよししんのう)に従って、少弐頼尚(しょうによりひさ)を筑前(ちくぜん)の大原(おおはら)に討ち、戦死した。(注:北畠系図、太平記を参照した。桜雲記には信親のこととするが、その根拠は明らかでない。)子は信親(のぶちか)・守親(もりちか)・親統(ちかむね)という。(注:尊卑分脈、北畠系図による。)守親は大納言に任じられ、陸奥国司となった。(注:新葉和歌集による。)子に親能(ちかよし)があり、(注:尊卑分脈、北畠系図による。)その子孫で陸奥・出羽にいる者は波岡氏(なみおかし)と称し、国司の称号を代々受け継いだ。(注:関城書裏書による。)

源顯能

源顕能(みなもとのあきよし)は、あるいは源貞平(みなもとのさだひら)の子で、親房がこれを養子としたとも言われる。(注:北畠系図による。)義良親王に従って陸奥に赴こうとしたが、暴風に遭って伊勢へ引き返した。(注:吉野拾遺による。)中納言に任じられ、(注:吉野拾遺、祇園執行日記による。)伊勢国司(いせこくし)となった。(注:太平記、北畠系図による。)

正平六年、右近衛大将を兼ねた。七年の春、伊賀・伊勢の兵三千余を率いて四天王寺の陣営に至り、和田正忠(わだまさただ)・楠正儀(くすのきまさのり)とともに道を分けて足利義詮(あしかがよしあきら)を討ち、ついに都を回復した。(注:太平記による。)崇光院(すこういん)を男山の行宮(あんぐう)にお連れし、(注:太平記、祇園執行日記による。)親房に従って都に入り、諸事の決定に参与した。しかしまもなく義詮の大軍が迫ってきたため、顕能は退いて淀(よど)を守り、さらに退いて男山を守った。(注:太平記による。)義詮の兵が行営を犯すと、顕能は園殿口(そのどのぐち)で防戦した。敵は民家に火を放ち、煙と炎が四方を覆った。顕能は戦うことができず退いた。(注:園太暦、太平記による。)そして天皇の御供をして吉野へ帰った。(注:祇園執行日記による。)

まもなく伊勢へ戻った。土岐頼康(ときよりやす)が仁木義長(にっきよしなが)を長野城(ながのじょう)に包囲した際、顕能はしばしば兵を出してこれを攻撃した。(注:太平記による。本書はこれを誤って伊勢国司顕信としているが、諸書および本書の前後の文脈によれば、当時の伊勢国司は顕能であって顕信ではない。)

その後、右大臣に任じられ、従一位に叙せられ、准三宮となり、薨去した。(注:北畠系図による。諸書とも顕能の薨去の年は伝わっていない。)二子は顕俊(あきとし)・顕泰(あきやす)といい、ともに権大納言に任じられた。顕泰の子満雅(みつまさ)は大納言に任じられ、国司となった。正長元年、後亀山帝の皇子小倉宮(おぐらのみや)を奉じて伊勢で兵を挙げたが、世保持頼(よやすもちより)と戦って敗死した。(注:椿葉記、北畠系図による。)

顕能の子孫は繁栄し、代々伊勢国司を世襲した。南伊勢五郡、大和(やまと)の宇多郡(うだぐん)、紀伊(きい)の熊野(くまの)は、みな国司の支配を受けた。養う兵は一万六千人に及び、いわゆる木造(こつくり)・田丸(たまる)・大河内(おおこうち)・坂内(さかない)・岩内(いわうち)・藤方(ふじかた)・大阪(おおさか)・阿坂(あさか)・波瀬(はぜ)・八下(やしも)の諸氏は、みなその一族である。(注:北畠系図による。)親房の一族には、ほかに顕時(あきとき)・顕国(あきくに)がいる。

源顯時

源顕時(みなもとのあきとき)と顕国(あきくに)は、ともに親房との血縁の遠近が不明である。(注:尊卑分脈には持定(もちさだ)の子に顕時があるとするが、持定と顕時の年齢や経歴から考えると、とうてい親子ではありえない。そのためこの説はとらない。)

延元年間、近衛中将に任じられた。(注:結城文書、常陸吉田薬王院文書による。左右いずれかは未詳。)親房に従って小田城におり、中郡城(なかごおりじょう)を攻め落とし、部下の兵を残して守らせた。小田城が陥落すると、顕時は陸良親王を奉じて下妻(しもつま)へ逃れ、大宝城(だいほうじょう)を守った。(注:結城文書、関城書による。)高師冬の別将三戸師親(さんのへもろちか)が進んで城の南に迫ると、顕時は兵を率いて出撃し、多くの死傷者を出させた。(注:結城文書による。)関城・大寮城(たいりょうじょう)が相次いで陥落すると、顕時は吉野へ逃げ帰った。(注:別府文書、税所文書による。)正平年間、大納言に任じられ、顕信とともに大原で戦死した。春日大納言(かすがのだいなごん)と称された。(注:太平記、天正太平記による。)

源顯國

源顕国(みなもとのあきくに)は侍従(じじゅう)に任じられ、春日侍従(かすがのじじゅう)と称された。顕家の陸奥赴任に従った。延元二年、顕家が西上する際、下野(しもつけ)を経由する道をとった。これとは別に顕国を常陸(ひたち)から進ませた。小田治久(おだはるひさ)がこれに属した。佐竹義春(さたけよしはる)が兵を出して道をふさぐと、顕国はこれを撃退した。(注:烟田文書による。)そこで治久および楠正家(くすのきまさいえ)らとともに進み、道中で顕家と合流した。(注:今川記による。)

顕家が戦死すると、顕国は再び親房に従って常陸に至った。親房が西へ逃れると、顕国はただ一人残って小田城の傍らで敵を迎え撃った。翌年、再び兵を挙げて馴馬城(なれまじょう)に拠ったが、国の兵である宍戸某(ししどぼう)らが攻めてきて、顕国は敗走した。(注:鶴岡社務記による。)

さらに転じて大宝城(だいほうじょう)を襲い、民家に火を放った。敵勢はことごとく敗れ死に、顕国はそこで大宝城に拠った。(注:鶴岡社務記、常陸吉田薬王院文書による。)翌日、結城直光(ゆうきなおみつ)が北からその配下を率いて攻めてきて、夜に乗じて城を襲った。城は陥落し、顕国とその甥の右兵衛佐(うひょうえのすけ)は敵に捕らえられ、ついに殺害された。(注:鶴岡社務記、常楽記による。)

親房が吉野へ帰った後、東国にとどまっていた官軍はただ顕国一人のみであった。彼が敗死するに及んで、関東はことごとく敵の手に落ちたという。(注:諸書の大意を斟酌した。)