卷之一百六十六 列傳第九十三
源顯家、源忠顯
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
源顯家
¶源顕家(みなもとのあきいえ)は、大納言北畠親房(ちかふさ)の長男である。元応・嘉暦年間に従五位上に叙せられ、そこから昇進を重ね、侍従と左近衛少将を兼任した。元弘元年には参議に任じられて左近衛中将となったが、このとき顕家はまだ十四歳であった(注:『公卿補任』による)。この年の春、天皇は中宮・永福門院とともに権大納言藤原公宗(きんむね)の北山荘に行幸し、花を観賞した。天皇自ら笙(しょう)を吹き、顕家は舞楽「陵王」を舞った。その容姿は落ち着いて優雅で、身のこなしは拍子にぴたりと合い、見る者はみな感嘆して褒めたたえた。舞い終えて退こうとしたところ、天皇は彼を呼び戻してもう一曲舞わせ、褒美の品を賜った(注:『増鏡』『舞御覧記』による)。
¶元弘三年には彈正大弼を兼任した(注:『公卿補任』による)。天皇は天下がようやく定まったことを受けて東国の鎮撫を思い立ち、顕家を陸奥守(むつのかみ)に任じて陸奥・出羽(でわ)へ赴任させようとした。顕家は自分が政務や軍事に不慣れであることを理由に辞退したが、天皇はこれを許さず、こう述べた。「世は太平の代であり、文と武に別はない。昔から皇子・皇孫や執政大臣の子弟の多くが軍事全般を統括してきた。今後もそなたには武を修め、朝廷の藩屏となってもらいたい。」顕家はやむなく赴任することとなり、皇族の権威を借りたいと考えて義良親王(のりよししんのう)を奉じて同行した。天皇は自ら旗の銘を書いて顕家に賜り、さらに武具数点も授けた。当時、公家が任国へ赴く際の古い儀礼は久しく廃れていたが、顕家の出立に際してはことごとく古式にのっとって行われ、天皇は御前で衣服と馬を賜って送り出した(注:『神皇正統記』による)。
¶天皇はまた鎌倉幕府の旧制度を特別に踏襲することを認め、評定衆・引付衆や侍所の諸奉行を置いて陸奥の国政を補佐させた(注:『建武二年記』による)。もともと護良親王(もりよししんのう)は足利尊氏(あしかがたかうじ)が密かに天下の兵権を握ろうとする野心を抱いていることを嫌い、その党与を分散させて勢力を削ごうと考えていた。そこで顕家を東国の鎮守将として推挙し、東国の武士たちを彼に従わせることで尊氏を牽制させた。顕家の叔母は護良親王の妃であったため、こうした計らいがなされたのである(注:『保暦間記』による)。陸奥に着任してわずか二か月で、陸奥・出羽の両国は服従した(注:『神皇正統記』による)。
¶建武元年、その功により従二位に叙せられ、建武二年には鎮守府将軍を兼任した(注:『公卿補任』による。『太平記』はこれを延元元年のこととするが誤りである)。天皇の詔により義良親王を奉じ、新田義貞(にったよしさだ)とともに足利尊氏を鎌倉に攻めることとなった(注:『太平記』による)。顕家は陸奥国内で兵を集めたが時機に間に合わせることができず、手元の兵をそのまま率いて転戦しながら進軍した(注:『関城書』『太平記』を参照)。
¶延元元年、鎌倉に到着したときにはすでに尊氏は西へ向かった後であった。このとき東北の諸将である新田義興(よしおき)・千葉貞胤(ちばさだたね)が味方に加わり、兵はおよそ五万に達した。顕家は昼夜を分かたず尊氏を追い、近江(おうみ)に至ると大館幸氏(おおだちゆきうじ)に命じて佐々木氏頼(ささきうじより)の観音寺城を攻め落とさせ、五百余人を討ち取った。天皇は七百艘の船を遣わして顕家を迎え、琵琶湖を渡って延暦寺に至らせた(注:『神皇正統記』『梅松論』『太平記』を参照)。義貞とともに園城寺(おんじょうじ)を攻めてこれを陥落させ、さらに諸将とともに道を分けて尊氏を攻めた。顕家は二万の兵を率いて粟田口(あわたぐち)から火を放ちながら進軍した。これを望み見た尊氏は、「北畠殿が来たからには、自ら出て当たらぬわけにはいかぬ」と言い、数十万の兵を率いて防戦した。両軍は幾度も戦ったが、顕家の軍勢が寡兵ながらもよく戦い、尊氏はこれを打ち破ることができず、両軍はいったん兵を退いて休んだ。そこへ義貞が兵を放って突撃させたため、尊氏は敗走した。さらに豊島河原(としまがわら)に出兵して再び尊氏を攻めると、顕家が真っ先に攻め込み、諸将もこれに続いて大いに打ち破った。尊氏は西へ逃走し、顕家は義貞とともに軍を整えて京へ凱旋した(注:『太平記』による)。この功により右衛門督・検非違使別当を兼任した(注:『公卿補任』による)。
¶このころ尊氏の党与が各地で蜂起した(注:『太平記』による)。そこで顕家は義良親王を奉じて再び陸奥へ下った(注:『元弘日記裏書』による)。詔により常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の二国も併せて管轄することとなった(注:『保暦間記』による)。
¶顕家は次のような上奏文を奉った。「陸奥国は辺境の最重要地であり、蝦夷(えみし)の不測の事態に備える要地であります。弘仁三年には特別の勅符が下され、『鎮守府を建て、大将たる器量の者を選んで将軍の号を授け、位階は従五位上とし、本国とともに隣国の国司をも兼任させよ』とされました。私は今、官位は八座にまで昇り、位は二位に至っております。特別の勅命によって本国に赴任し、功績により鎮守府をも兼ねることとなり、御恩寵はまことに厚いものです。しかしながら位は高くとも官職は低く、その格式に背くことを恐れます。願わくは今後、三位以上の者がこの職に任じられる際には『大』の字を加え、これを永久の定めとしていただきたく存じます。時勢に応じて制度を定めるのは歴代の通例であり、親王が国司に任じられる際に特に『太守』と称するのも、これと同様の例であります。伏してご裁断を仰ぎます。」(注:『建武二年記』による)これにより顕家は鎮守府大将軍となり(注:『建武二年記』『職原抄』による)、まもなく権中納言に任じられた(注:『公卿補任』による)。
¶顕家は法華堂(ほっけどう)に相馬胤顕(そうまたねあき)を攻め、小高城(おだかじょう)に相馬光胤(みつたね)を攻めて、いずれも討ち取った(注:『相馬家伝』による)。
¶建武二年の春、陸奥の武士の多くが尊氏方に応じて顕家を攻めた。顕家の戦況は思わしくなく、結城宗広(ゆうきむねひろ)とともに義良親王を奉じて霊山城(りょうぜんじょう)に籠もって守りを固めた(注:『結城文書』『元弘日記裏書』『保暦間記』『太平記』を参照)。敵は再び包囲してきた(注:『結城文書』『保暦間記』による)。
¶これより先、天皇は吉野(よしの)に移っており、官軍の勢いは盛り返していた(注:『結城文書』『太平記』による)。新田義貞は顕家に書状を送り、兵を挙げて上洛するよう勧めた。顕家がまだ動かずにいたところ、天皇は修理亮(しゅりのすけ)江戸忠重(えどただしげ)を遣わし、顕家に勅を下してこう述べた。「朕は都へ帰ろうとしていたが、足利直義(あしかがただよし)が約束を破り、処置を誤ったため、朕の意にはなはだ背く事態となった。今は吉野に行宮を移し、諸国の義兵を促して回復を図っている。そなたは官軍を率いて速やかに都へ赴き、そなたの力によって天下を平定してくれることを願う。特に朕の意を宗広らに伝え、忠節を尽くさせよ。」顕家はこの勅を宗広らに示すと、皆感激し、士気はいっそう奮い立った(注:『結城文書』による)。
¶そこで檄を飛ばして兵を募ったところ、宗広の一族や伊達(だて)・信夫(しのぶ)・南部(なんぶ)・下山(しもやま)の一族など六千余人がこれに応じた。顕家は霊山を発って白川関(しらかわのせき)に至り、管内から集まった兵士は数十万にのぼり、下野(しもつけ)まで進軍した(注:『太平記』による)。宇都宮(うつのみや)に数日とどまり、兵馬を休ませてから出発した(注:『結城文書』『保暦間記』を参照)。
¶足利義詮(あしかがよしあきら)の軍は利根川(とねがわ)を押さえていたが、折しも長雨で川が増水し、渡ることができなかった。顕家の部下である斉藤実永(さいとうさねなが)とその弟の豊後次郎(ぶんごじろう)が激流をものともせず渡り始めると、残りの兵もこれに続いて渡り、水はあふれて西岸まで及んだ。敵は川の中ほどで防ごうとしたが、溺死する者は数え切れず、大いに崩れて敗走した。顕家は武蔵府(むさしふ)に入って五日とどまり、宇都宮公綱(きんつな)が味方に加わった。顕家は兵を遣わして芳賀禅可(はがぜんか)を攻めて降伏させ、北条時行(ほうじょうときゆき)・新田義興とともに鎌倉を攻めて義詮を敗走させた(注:『太平記』による)。敵将の斯波家長(しばいえなが)が杉本城(すぎもとじょう)に退いて立てこもったため、兵を遣わして攻め落とし、家長を討ち取った(注:『保暦間記』『室町家的始日記』『尊卑分脈』『鶴岡社務記』を参照)。
¶延元三年、兵を率いて京へ向かったが、兵士たちは行く先々で略奪をほしいままにし、通過する土地を焼き払った。尾張(おわり)にさしかかると藤原昌能(まさよし)・堀口貞満(さだみつ)が兵を率いて合流し、軍勢はさらに膨れ上がった。道中では敵の桃井直常(もものいなおつね)・土岐頼遠(ときよりとお)らがたびたび背後から追撃してきたが、顕家の兵は八万余りに達していた。顕家は青野原(あおのがはら)に陣を敷き、頼遠らと戦ってこれを退けた。折しも尊氏は高師泰(こうのもろやす)を遣わして黒地河(くろちがわ)で行く手を阻ませていた(注:『太平記』による)。頼遠らが再び現れたため、顕家は前後から敵を受けることとなった(注:『難太平記』による)。そこで伊勢(いせ)を経由する道を取り、吉野へ向かおうとした(注:『太平記』による)。師泰は雲津河(くもづがわ)まで追ってきて顕家を撃退した(注:『難太平記』『三刀屋文書』による)。
¶奈良で兵を休ませ、諸将を集めて策を問うたところ、結城宗広はこう述べた。「黒地の敵を突破できないなら、まっすぐ行宮(あんぐう)へ参るべきです。天皇に問われたとき、申し開きの言葉がなければ責めを塞ぐことができません。我が軍は疲れているとはいえ、まだ都を取り戻すには十分です。万一挫折することがあっても、都の下で屍をさらすことこそ、この無念を晴らす道となりましょう。」顕家はこれに従ったが、出発する前に尊氏が桃井直常を遣わして迎え撃たせた。顕家の兵は疲弊して戦うことができず、崩れて敗走した。顕家は河内(かわち)へ逃れ、散り散りになった兵をまとめて男山(おとこやま)に拠ったため、軍勢の勢いはいくらか持ち直した。尊氏は高師直(こうのもろなお)を遣わしてこれを攻めさせた。顕家は険しい地形と深い堀を頼みに守り、兵はみな力の限り戦った。敵軍は苦戦を強いられ、師直は河内・摂津(せっつ)の官軍が顕家と呼応して挟み撃ちにすることを恐れ、主力を残して城を包囲させる一方、自らは天王寺(てんのうじ)に陣を構えて援軍の道を断った。顕家は城から打って出て戦ったが大敗し、二十騎あまりを従えて包囲を突破し吉野へ逃れようとし、自ら白刃を交えて戦った。しかし敵兵に包囲され、ついに陣中で討ち死にした(注:『太平記』による)。享年二十一であった(注:『公卿補任』『北畠系図』による)。没後、従一位・右大臣を追贈された(注:『関城書』、高野金剛峰寺所蔵の親房自筆の願文による)。子は顕成(あきなり)といい(注:『尊卑分脈』による)、後村上帝(ごむらかみてい)に仕えて吉野の行在所(あんざいしょ)に伺候した(注:『園太暦』による)。その子は親成(ちかなり)という(注:『尊卑分脈』による)。
源忠顯
¶源忠顕(みなもとのただあき)は、内大臣有房(ありふさ)の孫で、権中納言有忠(ありただ)の子である(注:『太平記』による)。家名は六条(ろくじょう)、あるいは千種(ちぐさ)と称し(注:『尊卑分脈』『太平記』による)、また禅林寺(ぜんりんじ)とも称した(注:『保暦間記』による)。若いころから乗馬や弓を好み、賭け事や酒色にふけっていたため、父の有忠はこれをひどく嫌い、我が子として扱うことを断った(注:『太平記』による)。それでも仕官して左近衛少将となった(注:『公卿補任』『船上録』による)。
¶後醍醐帝(ごだいごてい)がひそかに笠置(かさぎ)へ行幸した際、忠顕もこれに従った。笠置が陥落して天皇が捕らえられると、天皇は六波羅(ろくはら)の南方に移された。北条仲時(ほうじょうなかとき)・北条時益(ときます)は特別に忠顕と中納言藤原藤房(ふじふさ)を釈放し、天皇の左右に仕えさせた。その後、天皇に従って隠岐(おき)へも赴いた。翌年、官軍が各地で蜂起し、隠岐の守護であった佐々木清高(ささききよたか)は非常事態に備えて昼夜行在所を巡回警備していた(注:『太平記』による)。しかし警護の武士の多くはひそかに天皇の脱出を助けたいと思っていた(注:『増鏡』『伯耆巻』による)。
¶富士名義綱(ふじなよしつな)は中門の警護にあたっていたが、天皇の命を受けて出雲(いずも)へ赴き兵を集めようとしたところ、塩冶高貞(えんやたかさだ)に引き留められてしまった。天皇は彼の帰りを何日待っても現れなかったため、忠顕と謀り、三位局(さんみのつぼね)の出産が近いことを口実にして外の宿舎へ移り、夕暮れに紛れて脱出することとした。道中では輿を捨てて徒歩となり、供をしたのは忠顕ただ一人であった。道端の民家の戸を叩き、千波湊(せんばみなと)への道を尋ねると、主人は天皇の姿をまじまじと見つめてこう答えた。「湊まではここから五十町ほどですが、道は分かれ道が多く迷いやすいので、私がご案内いたしましょう。」その者は天皇を背負って湊まで送り、船を探して乗せた。船頭もただ者ではないと感じ、「本日この大役を仰せつかることは一生の誉れです。恐れながら、どちらへ向かわれるのですか」と尋ねた。忠顕はひそかに「これは天下の主でいらっしゃる。急ぎ出雲と伯耆(ほうき)の間へ渡りたいのだ」と告げ、行き先を示して船を出させ、「事が成れば土地を与えて報いよう」と約束した。船頭は喜んで纜(ともづな)を解き、船を疾走させた。佐々木清高は追跡の船を出して迫ってきたため、船中の者は皆驚き、なすすべを知らなかった(注:『太平記』による)。
¶天皇は船頭に「恐れることはない。ただ釣り糸を垂れておればよい」と告げた。船頭は天皇と忠顕を船底に隠し、干し魚をかぶせて、舵取りと水手(かこ)たちをその上に並び立たせて櫓を漕がせ、自分は釣りをするふりをして座った。追手は御座船に乗り込んで隅々まで捜索し、船頭はゆっくりと「皆様は何をお探しですか」と尋ねた。追手は「主上が逃げ出された。必ずこの海のどこかにおられるはずだ」と答えた(注:『梅松論』『太平記』を参照)。船頭はこれを欺いて、「今夜の子(ね)の刻ごろ、湊を出た船がございました。一人は冠を、一人は烏帽子をかぶった、身分の高そうな方々でした。今ごろは五、六里ほど先へ進んでいるでしょう」と言い、遠くを指さして「あの船がまだあちらに見えましょう」と告げた。追手はこれを信じて舵を返し、去っていった。しばらくすると、今度は百艘余りの敵船が飛ぶような速さで追ってきた。折しも風がやみ、御座船は進むことができなくなった。天皇は仏舎利を海に投じて、ひそかに祈りを捧げた(注:『太平記』による。「遥かに指す」云々のくだりは天正本による)。
¶すると突然風が起こり、敵の船は西へ、御座船は東へと流され、数日にわたって漂った末、出雲を経て伯耆の大坂湊(おおさかみなと)にたどり着いた。忠顕は上陸すると、道行く人に「この土地に名の知れた武人はいないか」と尋ね、名和長年(なわながとし)という名を教えられた。忠顕は使者を長年の屋敷に遣わして天皇の意向を伝え、すべてを託した。長年はただちに兵を挙げ、天皇を船上山(せんじょうさん)へと迎え、軍勢は大いに勢いを増した(注:『太平記』『伯耆巻』を参照。毛利家本・天正本の『太平記』によれば、忠顕は天皇の侍女と通じ、彼女は身ごもっていたという。天皇はその出産が近いことを口実に彼女を外の宿舎へ移らせて脱出したとされ、天皇は忠顕に「生まれた子が男であれば、必ずそなたの跡継ぎとせよ」と頼み、実際に男子が生まれて後に家を継がせたと伝える。『梅松論』では、富士名義綱が天皇と忠顕を奉じて伯耆へ向かったとしている。また『伯耆巻』には後醍醐帝が播磨へ遷った経緯が記されているが、他の書物と食い違いがあるため、ここではすべてを採用しない)。
¶忠顕はこの功により蔵人頭(くろうどのとう)・左近衛中将となった(注:『公卿補任』『保暦間記』『太平記』による)。赤松則村(あかまつのりむら)が北条仲時・北条時益を六波羅に攻めたが戦況は思わしくなく、忠顕は命を受けて兵を率いて援護に向かった。道中で降伏兵を収容し、その数は三万近くにまで膨れ上がった(注:「三万」は諸異本による)。但馬(たじま)の守護大田守延(おおたもりのぶ)は恒良親王(つねよししんのう)を奉じて兵を挙げ、丹波(たんば)の篠村(ささむら)に至ったところ、たまたま忠顕と合流した。忠顕はそこで恒良親王を奉じ、西山(にしやま)の峰堂(みねどう)に陣を進めた。このとき僧の良忠(りょうちゅう)は男山に、赤松則村は山崎(やまざき)に陣を敷いていた。忠顕は自軍の数を頼みに功を独り占めしようとし、孤軍で都へ乗り込み、兵士たちの鎧の袖に「風」の字を書き付けて合印とした。六波羅の兵と戦ったが戦況は思わしくなく、守延は戦死した。忠顕は軍を引いて峰堂へ戻り、撤退を議論し始めたが、児島高徳(こじまたかのり)が強く諫めてこれを引き止めた。この経緯は高徳の伝に見える。忠顕はなお恐れをなし、その夜のうちに恒良親王を奉じて男山へ逃れた。
¶このとき足利尊氏は内野(うちの)から、赤松則村は東寺(とうじ)から都へ入った。忠顕もまた竹田(たけだ)から戦いに加わって大勝し、進んで六波羅を包囲した。忠顕は「攻めるのに手間取って日を重ねれば、千剣破(ちはや)の敵兵が城を捨てて救援に駆けつけ、我が軍は前後から挟み撃ちに遭うことになる。敵の来援より先に、急ぎ攻め落とすべきだ」と命じた。兵士たちは数百台の車をつなぎ、家屋の建材を取り壊して山のように車の上に積み上げ、城門の下まで押し寄せてこれに火を放ち、門楼を焼き払った。北条仲時・時益は光厳院(こうごんいん)を伴って東へと落ち延びた(注:『太平記』による)。
¶忠顕は北山荘(きたやまのしょう)で神鏡(しんきょう)を見つけ出し、これを宮中に安置した(注:『皇年代略記』による)。天皇の車駕が都へ帰ると、忠顕は従兵五百を率いて先駆けを務め、不測の事態に備えた。その功により三つの大国と数十か所の邑を食邑として賜った(注:『太平記』による。ただし本書には賜った国名が記されておらず、今となっては考証のしようがない)。忠顕は弾正大弼(だんじょうのだいひつ)となり、従三位に叙せられ、参議に任じられた(注:『公卿補任』による)。天皇の寵愛は並ぶ者がないほどであった。
¶これ以来、忠顕は際限なく贅沢にふけるようになった。家臣に順番で豪華な食事を用意させ、一日に一万銭を費やし、親しい者数百人を率いて酒宴にふけった。また大きな厩(うまや)を建てて数十頭の馬を飼い、酔うたびに錦の袴と虎皮の行縢(むかばき)を身につけ、馬を連ねて狩りに興じた(注:『太平記』による)。足利尊氏が御所を襲撃した際には、忠顕は結城親光(ゆうきちかみつ)・名和長年らとともにこれを防ぎ、勢多(せた)で激戦を交えた(注:『梅松論』による)。延元元年、忠顕は髪を剃って出家した(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。まもなく近衛少将藤原雅忠(まさただ)とともに西坂(にしざか)で足利尊氏を捕らえようとしたが、戦いに敗れて死んだ(注:『太平記』による)。
¶四人の子があり、具顕(ともあき)・長忠(おさただ)・忠方(ただかた)・顕経(あきつね)という(注:『尊卑分脈』による)。顕経は少納言・近衛少将となった(注:左近衛か右近衛かは不詳)。正平七年、諸将が京で足利義詮を攻めた際、顕経は五百の兵を率いて丹波路から都へ入り戦った(注:『園太暦』『太平記』を参照)。後に権大納言にまで至った(注:『新葉和歌集』による)。その子雅光(まさみつ)は従一位権中納言となった(注:『尊卑分脈』による)。