卷之一百九十 列傳第一百十七
將軍家族四
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
足利基氏
¶足利基氏(あしかがもとうじ)は、幼名を亀若丸(かめわかまる)といい(注:亀若は光王とも書く)、尊氏の子である。正平四年、尊氏は基氏を関東管領とし、鎌倉に住まわせた。当時まだ幼かったため、上杉憲顕(うえすぎのりあき)・高師冬(こうのもろふゆ)を執事として補佐させた(注:『喜連川系図』による)。足利直義(あしかがただよし)が帰順した際、憲顕はこれに遠く呼応して上野へ奔った。師冬は基氏を奉じてこれを討とうとしたが、兵はわずか五百で皆従軍を望まず、途中で基氏を奪い取って鎌倉へ連れ帰った。師冬は甲斐へ逃れ洲沢城に拠ったが、諏訪の祠官諏訪隆種(すわたかたね)に攻められ自殺した(注:『太平記』による。隆種の名は金勝院本による)。まもなく尊氏は直義を捕らえて鎌倉に至ったが、基氏がひたすら助命を願っても尊氏は聞き入れなかった。基氏はこれを憂い、安房へ出奔した。尊氏は人を遣わして呼び戻させた(注:『園太暦』『太平記』『喜連川系図』を参照併用)。崇光院(すこういん)より左馬頭に任じられ(注:『太平記』による)、のち左兵衛督に遷った(注:『公卿補任』による)。七年、尊氏は自ら出陣して新田義興(にったよしおき)・義宗(よしむね)・脇屋義治(わきやよしはる)を金井原に迎え撃った。まもなく義興・義治が鎌倉に迫ったため、基氏は敵が三浦にいると聞き、南宗継(なんそうけい)を遣わして兵を率いてこれを撃たせたが、敵軍を見ずに戻った。にわかに義興・義治が攻め寄せ、兵たちがまだ甲冑を身につけていないうちに、基氏は出て防戦したが大敗し、尊氏の石浜の陣営へ逃げ込んだ。尊氏は義宗と小手指原で戦いこれを破った。義興・義治は鎌倉を捨てて退き、河村城に立てこもった。尊氏・基氏はこれを攻めて敗走させた。翌年、尊氏は京へ戻り、畠山国清(はたけやまくにきよ)を基氏の執事として残した。尊氏が薨去すると、義興は喪に乗じて再び鎌倉を攻めようと謀った。基氏はこれを憂い、国清に義興を誘い出して殺させ、自らは入間川まで出向いて大いに兵威を示した。東国は静まった。当時、兄の義詮(よしあきら)が新たに将軍職を継いだが、人々は皆「基氏は長く関東にあって兵権を握っており、必ず義詮に疑われ忌まれるだろう」と噂した。畠山国清はそこで吉野攻めのため出兵することを願い出て、疑いを避けようとした。基氏はこれをもっともとし、東国の兵を大挙してこれに属させた。国清は京へ至り義詮に願い出た。義詮は喜び、共に行在所を攻め落として帰った。国清は軍中で無断で帰った者千余人を罰し、その俸禄と領地を没収した。人々は基氏のもとへ訴え出て怨みを述べる声が激しく、ほとんど反乱を起こしかねない有様であった。基氏はそこで人を遣わして国清を責めて言った。「そなたが先日の役で、名目は吉野攻めとしながら、実は仁木義長(にっきよしなが)を殺そうと図っていたのだ。今また勝手に軍士の俸禄・領地を没収し、その恨みと憤りを募らせている。これは兵乱を引き起こして国家を乱そうとしているのではないか。そなたの罪はすでに重なっている。速やかに罷免に応じるべきで、ぐずぐずと決断を先延ばしにして誅殺を招くことのないように」。国清はそこで伊豆へ逃れ、修禅寺城に拠った。基氏は兵三百余人を発してこれを攻めたが、逆に敗れ、さらに新田義一(にったよしかず)を遣わして兵を率いて攻めさせ、自らも箱根へ出陣した。国清は降伏を乞い、基氏は兵を引いて戻った。この時、上杉憲顕は信濃に身を隠していたが、基氏はその罪を許して招き寄せ、芳賀禅可(はがぜんか)に代えて越後守護に任じることを命じ、道中でこれを呼び戻して再び執事とした。禅可は兵を出して上野の板鼻でこれを遮ったため、基氏は激怒し、自ら兵を率いて宇都宮に禅可を攻めようとした。禅可の子、高貞(たかさだ)・高家(たかいえ)と武蔵の若林野で出会い交戦した。基氏は勇猛で力が強く、大刀を振るうのに巧みであった。数刻戦ううちに刀は鋸のように刃こぼれしたが、ついに高家を斬り、退いて兵を休ませたところ、寵愛する将木戸(きど)某氏が戦死したと聞き、大いに泣いて言った。「彼はいつも私と生死を共にすると約束していた。彼が今すでに死んだというのに、私がどうして前言を忘れて生き永らえられようか」。そこで刀を提げて進み出ると、皆が奮い立って従い、戦いはますます激しくなった。基氏の馬は傷を負って倒れ、敵兵はこれを見て我先にと進んで基氏を取り囲んだ。基氏は刀を振るって斬り殺し、向かうところ敵なしであった。大高重成(おおたかしげなり)が駆けつけ、その勇猛さを目の当たりにして称賛し、自分の馬を基氏に譲った。基氏は喜んで言った。「昔、源平の戦いで、後藤守長(ごとうもりなが)は主君の馬に乗って逃げた。そなたのしたことは、それとは正反対だ。そなたの姓を『大剛』と呼んでもよいのではないか」(注:剛と高は音が近い)。巌松直国(いわまつなおくに)が基氏に勧めて甲冑を交換させたところ、敵兵は基氏だと思い込み、われ先にとそちらへ殺到した。折しも日が暮れ、敵兵は引き上げた。基氏は追撃して大いにこれを破った。進んで小山に陣を進め、宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)を攻めようとした。折しも氏綱が陣中に来て謝罪し、あわせて禅可がすでに罪を恐れて逃げ去ったことを告げた。基氏はそこで鎌倉へ戻った(注:『太平記』『喜連川系図』を参照併用)。この戦役で、高貞の子八郎を捕らえたが、基氏はその幼く弱いことを憐れんで放免した。人々はその寛大さを称えた(注:『太平記』による)。十九年、従三位に叙せられた(注:『公卿補任』による。『喜連川系図』では五年とする)。この年、安藤九郎(あんどうくろう)ら二十余人が罪を犯し、府内でこれを誅殺した。それまで諸将は功績を頼みに驕り高ぶり、ともすれば謀反の心を抱く者が多かったが、これ以後は震え恐れない者はなかった(注:『太平記』『喜連川系図』を参照併用)。二十二年、基氏は薨去した。年二十八であった(注:『太平記』『常楽記』『尊卑分脈』『喜連川系図』による)。法名は同昕(どうきん)、瑞泉寺(ずいせんじ)と号した(注:『難太平記』『尊卑分脈』『喜連川系図』による)。
¶もともと尊氏は直義と相談して言った。「義詮は重責に堪えられず、わが家業を失墜させるのではないかと恐れる。しかし関東の諸国さえ叛かなければ、天下を失うことはないだろう。私は一人の子を関東に鎮めさせよう」。そこで基氏を東国に鎮座させたのである。尊氏が薨去すると、東国の諸将の多くが義詮に不満を抱き、しばしば基氏に謀反を勧めた。基氏はこれをきっぱりと拒んで受け入れなかった(注:『難太平記』による)。よくその職務を果たし、義詮に東方を顧みる心配をさせなかった。訃報が京に届くと、人々は皆これを哀惜した(注:『太平記』による。『難太平記』には、義詮は基氏を深く忌み嫌い、基氏は変事が起こるのを恐れて神に自らの死を祈り、間もなく亡くなった、とある)。子は氏満(うじみつ)。
足利氏滿
¶足利氏満(あしかがうじみつ)は、幼名を金王丸(こんおうまる)といった。基氏が薨去すると、氏満は跡を継いで管領となったが、年はわずか九歳であった。翌年、平一揆(へいいっき)が河越城に拠ったため、氏満は執事上杉憲顕を率いてこれを攻め滅ぼした。宇都宮でもまた乱が起こり、これを撃って平定した。まもなく新田義宗・脇屋義治が共に挙兵して南朝の復興を図ったため、氏満は上杉憲将(うえすぎのりまさ)・上杉能憲(うえすぎよしのり)らを遣わして兵を率いてこれを攻めさせた。義宗は敗死し、義治は出羽へ逃れた。建徳元年、義宗らの残党が武蔵・上野の間で再び蜂起したため、氏満は上杉朝房(うえすぎともふさ)および畠山基国(はたけやまもとくに)を遣わしてこれを撃退させた。文中二年、後円融院(ごえんゆういん)より左馬頭を授けられ、従五位下に叙せられた。天授五年、土岐康行(ときやすゆき)が兵を挙げて足利義満に叛いた。義満が氏満に出兵を求めると、氏満は上杉憲方(うえすぎのりかた)を遣わして赴かせたが、康行降伏の報を聞いて引き返した(注:『喜連川系図』による)。この頃、義満はかなり政務を怠り、次第に人心を失いつつあった。折しも義満が土岐頼康(ときよりやす)を誅伐しようとして諸国に兵を徴すると、氏満は上杉憲方に兵を率いて赴かせた。このとき氏満は機に乗じて義満に代わって天下を奪おうと考えたが、上杉憲春(うえすぎのりはる)が苦しく諫めて自殺したため、氏満は思いとどまった(注:『花営三代記』『難太平記』『鎌倉大草紙』『喜連川系図』を参照併用)。翌年、左兵衛督となり、従四位下に進んだ。小山義政(おやまよしまさ)が兵を挙げ、宇都宮基綱(うつのみやもとつな)が討伐に向かったが勝てずに戦死した。氏満はそこで上杉憲方を遣わして義政を攻めさせた。義政は僧衣を着て罪を請うたので、氏満はこれを赦した。弘和二年、義政は再び兵を挙げた。氏満は自らこれを討って斬った。元中三年、義政の子若犬丸(わかいぬまる)がまた兵を挙げ、陸奥の田村則義(たむらのりよし)と語らって小山城に拠った。氏満は兵を率いてこれを攻め、若犬丸は敗れて陸奥へ逃げた。氏満は上杉憲孝(うえすぎのりたか)を遣わしてこれを追討させた。氏満は白河まで進軍し、則義もまた敗れて自殺したため、そこで兵を引き返した。四年、小田五郎(おだごろう)が男体城に拠ったため、上杉朝宗(うえすぎともむね)を遣わしてこれを撃たせた。翌年、朝宗はこれを攻め落とし、小田氏を滅ぼした。八年、山名氏清(やまなうじきよ)が反乱を起こした。翌年の春、氏満は義満を助けようとしたが、氏清がすでに平定されたと聞いて中止した。義満は陸奥・出羽の統治を遠隔で氏満に授け、従三位に進めて叙した(注:本書ではこれを前年の出来事とするが誤りであり、今『明徳記』によって訂正する)。応永五年、薨去した。年四十であった(注:あるいは四十二とも)。法名は道全(どうぜん)(注:全は仙とも書く)、永安寺(ようあんじ)と称した(注:『喜連川系図』による)。
¶氏満は酒を好み、雨が降るたびに人を集めて酒を飲み、内外の臣僚を招いては必ず心ゆくまでもてなした。ある時大いに酔って側近に語って言った。「天子も人である。将軍もまた人である。私もまた人である。私に仕える者もまた人である。それなのに上に立つ者は下にいる者ほど苦しみを知らない。もし上下の立場を入れ替えたなら、世を治めることは難しくないだろう」。森元信光(もりもとのぶみつ)が進み出て言った。「殿のお言葉はよろしくありません。卑しい身分の者がどうして君主の務めに耐えられましょうか。どうか務めて物事を明察されますよう。そうでなければ民はその重責に耐えられません」。氏満は大いに喜び、手厚く物を賜った。人の言葉を受け入れることはこのようであった(注:『文禄清談』による)。
¶子は五人、満兼(みつかね)・満直(みつなお)・満隆(みつたか)・満貞(みつさだ)(注:原文では「満息」とする)・満秀(みつひで)である。満直は稲村殿(いなむらどの)と称し、甥の持氏(もちうじ)と共に自殺した。満隆は新御堂殿(しんみどうどの)と称し、甥の持仲(もちなか)と共に自殺した。満貞は篠川殿(しのかわどの)と称し、持氏の子義久(よしひさ)と共に自殺した。満秀は日光山別当となり、大御堂殿(おおみどうどの)に補せられた(注:『喜連川系図』による)。
足利滿兼
¶足利満兼(あしかがみつかね)は、左馬頭に任じられ、従四位下に叙せられた(注:『喜連川系図』『古河系図』による)。応永五年、跡を継いで管領となり、左兵衛佐に遷った。六年、陸奥・出羽を巡視して戻った。折しも大内義弘(おおうちよしひろ)が兵を挙げて堺浦に至ると、満兼は遠くこれに呼応し、軍を武蔵まで進めながら、表向きは義満を援助すると称していた。まもなく義弘が誅殺されたと聞き、進軍を止めた。翌年、義満は下野の足利荘を満兼に与え、その謀反の疑いを解いた。満兼はそこで鎌倉へ戻った。まもなく、宇都宮氏が下野で乱を起こしたが、斯波持詮(しばもちあき)がこれを討って斬り、その首を献上した。満兼はこれをねぎらい、氏広(うじひろ)に封地を与えた。九年、満兼は上杉氏広(うえすぎうじひろ)を陸奥に遣わし、伊達政宗(だてまさむね)を討って平定させた。十六年、卒去した。年三十三であった(注:『喜連川系図』による)。法名は道安(どうあん)(注:『古河系図』による)、勝光院(しょうこういん)と称した。子は持氏・持仲(注:『喜連川系図』による)。世に彼の家を鎌倉御所(かまくらごしょ)と呼んだ。