卷之一百八十七 列傳第一百十四

將軍家族一

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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源範賴

源範頼(みなもとののりより)は、蒲冠者(かばのかじゃ)と称された。(注:玉海・東鑑による。尊卑分脈によれば、範頼の母は遠江国池田駅の遊女で、範頼を蒲生御厨で産んだため蒲生冠者と称したという。しかし本書ではすべて「蒲殿」と記し「蒲生」とは書かない。省略した呼び方であろうが、他の書物には考証すべき記載がない。)左馬頭源義朝の六男である。(注:尊卑分脈による。)幼くして藤原範季に養育され、兄頼朝が挙兵するに及んでその許に馳せ参じた。治承五年、小山朝政を助けて志田義広を下野に攻めた。(注:東鑑による。)寿永二年、源義仲が謀反を起こした。翌年正月、頼朝は範頼・義経に兵六万を率いさせてこれを討たせた。(注:源平盛衰記・平家物語による。)範頼は三万五千を率い、東海道を進撃した。義仲は今井兼平に瀬田橋を落とさせて防がせた。範頼は稲毛重成・榛谷重朝らに供御瀬を渡らせ、国分寺前で大いに戦い、敵将山本義弘を斬った。(注:本書では「方等義弘」とするが、東鑑では山本義経の子とあり、今それに従う。東鑑には「三郎先生義広」とする箇所もあるが、義広の死はこの年の五月であるから、今は山本義弘と定める。)兼平は敗走した。(注:源平盛衰記による。)範頼は京へ進み入り、義経は宇治を破って、両軍は勢いを合わせて義仲を粟津で攻め殺した。(注:東鑑・源平盛衰記・平家物語を参照した。)二月、兵五万六千余を率いて一ノ谷へ向かい、播磨路をとって昆陽野に陣を進めた。(注:源平盛衰記による。兵数は東鑑による。)義経とは七日を期日と約した。五日、義経は平資盛の三草の陣を襲ってこれを破った。七日、範頼は城の東門生田森に向かい、河原高直は弟盛直とともに柵を越えて戦死し、諸将は次々と進んで戦を交えた。義経は別に土肥実平を西門へ向かわせ、自らは精鋭を率いて鵯越から進み、火を放って焼き払った。城中は崩れ乱れ、範頼らは東西の門から挟み撃ちにした。平氏は支えきれず、安徳帝を奉じて海へ逃れた。日中に城は陥落し、敵勢は逃げ散り、範頼はこれを追った。義経・実平は兵を合わせて海辺に攻め、その将である越前守平通盛・薩摩守平忠度・備中守平師盛・武蔵守平知章・皇后宮亮平経正・若狭守平経俊・散位平業盛・散位平敦盛・越中前司平盛俊らの首級千余を討ち取り、左近衛中将平重衡を捕虜とした。(注:東鑑には教経を討ったと記すが誤りである。詳細は教経の伝にある。)海で溺れ傷を負った者は数えきれなかった。軍を整えて凱旋した。(注:東鑑・源平盛衰記・平家物語による。)六月、従五位下に叙され、(注:尊卑分脈による。)参河守に任じられた。(注:東鑑・源平盛衰記による。)頼朝は酒宴を設けてその労をねぎらった。八月、頼朝は再び範頼に西海で平氏を討つよう命じ、宴を設けて送り出した。愛馬と鎧一領を与え、従軍する将士にもそれぞれ馬を賜った。出発に際して、頼朝は稲瀬川のほとりでその軍容を観閲した。範頼はまず京へ入り、追討の官符を賜った。(注:東鑑による。)九月、足利義兼・北条義時らの兵三万余を率いて播磨室津に至った。(注:平家物語による。源平盛衰記では十万余とする。本書および盛衰記はともに、範頼が討伐に意を用いず、室・高砂の遊女を召して宴楽に日を送り、官物を費やし民を煩わせ、逗留して十二月に至ったと記すが、これは誤りである。)十月、安芸に至り、将士の功を賞した。(注:源平盛衰記による。この月、範頼は備前・備中・安芸・周防を経て長門に至り、引島を攻めようとした。しかし門司・赤間の地勢を知らなかったため、緒方惟能を先鋒とし、使者を遣って事情を伝えさせた。惟能は船五百余艘で迎えに来たので、範頼はついに豊後へ向かった。今、本書によれば、範頼が豊後へ向かったのは実は翌年正月のことであるから、この説は採らない。)このとき範頼の軍中では兵糧が尽き、戦艦も足りず、兵士たちは東国へ帰りたいと思うようになった。範頼はこれを憂えた。十一月、使者を鎌倉に遣わして状況を報告すると、頼朝は返書して言った。「筑紫の州郡がどうして服さないことを心配することがあろうか。そなたはよくこれを安んじなだめ、人心を和合させ、静かに事を鎮め、左右で耳打ちして疑いを生じさせてはならない。筑紫の兵を敵の矢面に立たせ、坂東の兵をその両翼とせよ。敵の勢いは弱いといえども、これを軽んじてはならない。先帝(安徳天皇)の太后および二位尼(平時子)を決して侵し辱めることなく、謹んで護送せよ。二位尼に我が心を知らしめよ。さすれば帝を奉じて帰参することもあるいはあろう。そもそも帝王の尊さは、誰であろうと犯してよいものではない。先に義仲は二人の皇子を刃にかけ、それによって滅亡を招いた。平氏も高倉宮を殺し、同じく敗亡した。この意をもって将士によくよく諭すがよい。宗盛はもとより臆病で死を恐れる性質であるから、生け捕りにするべきである。兵が多く道が遠いため兵糧が尽きるのも道理であろう。二月頃までには、糧船を運んでこれを補給しよう。」十二月、佐々木盛綱は備前児島に平行盛を攻めてこれを破った。このとき平宗盛は屋島に拠って兵を集め、兵を遣わして西海の州郡を攻略していた。平知盛は長門引島に軍を置いていた。

文治元年正月、範頼は西海へ向かおうとして、周防から赤間関に至った。船と兵糧が乏しいため軍を留めて進めなかった。将士たちは東国へ帰りたいという思いがますます募ったので、周防へ引き返した。豊後の人、臼杵惟隆・緒方惟能はもとより源氏に応じようとしており、範頼もまた人を遣わして船を求めていた。そこで惟隆らは戦艦八十余艘を出して迎えに来た。周防の人、木上七遠隆もまた兵糧を贈った。範頼はそこで千葉常胤と謀って言った。「周防は要衝の地であるから、留守を任せる役目は重い。誰かを選んで任せなければならない。」常胤は「三浦義澄は勇敢で兵も多く、まさに適任です」と言った。範頼はこれに従い、豊後に至った。二月、原田種直を葦屋浦に攻めてこれを破った。これより先、頼朝は範頼が周防にいると聞き、方略を授けて言った。「土肥実平・梶原景時を遣わし、西海の兵を招き寄せよ。彼らが応じればそこへ赴き、応じなければ直ちに南海へ赴いて平氏を撃て。決して鎮西と兵を構えてはならぬ。」ちょうど範頼もまた再び使者を遣わし、兵糧の窮乏を告げていた。ここに至り、頼朝は範頼への返書で言った。「船と兵糧の必要については、私に別の手立てがある。そなたは苦しかろうが、しばらく待て。平氏は流浪の軍でありながら、なお資糧を確保できている。そなたは追討使でありながら功もなく帰るなら、どの面目があって再び人に会えようか。」(注:東鑑による。)熊野別当湛増が水軍を率いて義経に加勢した。(注:東鑑・源平盛衰記・平家物語による。)範頼はこれを聞き、鎌倉へ書状を送って言った。「範頼は軍を豊後へ移し、平氏を追い詰めております。しかし国の民は逃亡し、兵糧を徴収する術がありません。和田・工藤などの将士も皆、東国へ帰りたいと望んでおります。どうかお教えを賜りたく存じます。聞くところによれば、湛増は義経に議って追討の任を受けたとのこと。すでに讃岐に至り、さらに九国へ入ろうとしているとか。そもそも四国のことは義経がこれを統べ、九国のことは範頼がこれを領するはずです。もし聞いた通りであれば、ただ範頼の恥辱であるだけでなく、我が軍に人がいないことを示すことにもなりましょう。将軍にはどうかご賢察いただきたく存じます。」頼朝は湛増の件は事実ではないと返答し、さらに北条義時・中原親能・工藤祐経ら十二人への書状を送って将士を慰め励ました。ほどなく戦艦三十二艘で兵糧を西海へ運んだ。義経が屋島を攻めると平氏は海上へ逃れたが、範頼は豊後にいたため西へ向かうことができなかった。三月、義経は壇ノ浦で大いに戦い、平氏をことごとく滅ぼし、捕虜を連れて京へ帰った。範頼はなお豊後にとどまり、筑紫・九国を慰撫した。九月、京へ帰った。寿永の乱に際し、平氏は鵜丸剣を持って逃げたが、範頼はこれを鎮西で手に入れ、法皇に献上した。(注:保元物語によれば、上皇は鵜丸を源為義に賜ったが、平氏がこれを法住寺殿で奪ったとあり、その経緯の詳細は分からない。)ほどなく鎌倉に至った。(注:東鑑による。)このとき頼朝と義経の間に不和が生じ、頼朝は密かに土佐房昌俊に義経を討たせようとしたが、昌俊は逆に義経に殺された。そこで頼朝は範頼に義経を討たせようとした。(注:源平盛衰記・平家物語による。)範頼は討つことに忍びず、固く辞退した。頼朝は聞き入れず、範頼はやむを得ずこれに従った。(注:平家物語による。)頼朝に別れの挨拶に赴くと、頼朝は言った。「もうよい。私はそなたのことも深くは信じきれない。そなたもまた九郎(義経)に続いて二の舞になる者であろう。」(注:源平盛衰記・平家物語による。)範頼は恐れて身の置き所がなく、しばしば誓紙を差し出して異心のないことを述べた。(注:源平盛衰記による。)そもそも義経が西海にいたとき、功に頼って軍政をほしいままにしたため、頼朝は積もり積もった不満を鎮められずにいた。範頼はよく取り決めを守り、事あるごとに鎌倉に伺いを立てたので、それゆえかなり親しまれ愛されていた。しかし将領としての立場にある以上、猜疑を免れることは終いになかった。

建久四年五月、頼朝が富士野で狩りをした際、曾我祐成とその弟時致が夜、宿所に押し入り、父の仇である工藤祐経を殺害した。陣営の中は騒然となった。(注:東鑑による。)鎌倉では「将軍が殺害された」という誤った知らせが広まり、頼朝の妻北条氏は大いに驚き悲しんだ。範頼は慰めて言った。「範頼がおります。たとえ大事が起きても、憂えることはありません。」頼朝はこの言葉を聞き、深くこれを憎んだ。(注:保暦間記による。)八月、範頼に異心があるとの噂を聞き、その事情を問い質した。範頼はまた誓紙を作り、大江広元のもとへ赴いて弁明した。頼朝が自らその誓紙を読んだところ、「源範頼」と署名してあるのを見て怒って言った。「範頼は私と骨肉の分があるとでも思っているのか。どうして勝手に源の姓を名乗ってよいものか。」そこで広元に、範頼の使者である重能を叱責させた。(注:重能の姓は欠けている。)重能は言った。「参州(範頼)は実に故左馬頭殿(義朝)の御子であり、幕下(頼朝)の弟君であります。先に参州は追討使として西海へ赴かれた際、幕下は朝廷にも弟であると申し上げ、すでに官符にもその旨が記載されております。どうして僭称ということがありましょうか。」広元がこれを頼朝に申し上げると、頼朝はそれ以上何も言わなかった。重能が帰ってこの事を告げると、範頼は大いに恐れた。まもなく、頼朝は夜、寝所の床下に人の気配を聞き、密かに結城朝光らを召して捜索させたところ、一人を捕らえた。問い質すと、範頼が召し抱えていた勇士、当麻太郎であった。彼は「先頃、参州はしばしば誓紙を差し出しておられましたが、なかなか申し開きが認められず、日夜憂え恐れておられました。それゆえ私めは周囲の議論を聞き知ろうとして、ここに至った次第です。決して異心を抱いての謀ではありません」と述べた。何度も取り調べたが、最後まで異なる供述は出てこなかった。範頼を捕らえて問い質したが、範頼は固く知らないと述べた。頼朝は工藤宗茂・宇佐美祐茂に命じて、範頼を伊豆へ追放させた。(注:東鑑による。)修禅寺に幽閉した。(注:八坂本平家物語による。)その臣である橘太左衛門・江瀧口・梓刑部らは兵を整えて浜の館に立てこもった。頼朝は結城朝光・梶原景時・仁田忠常らを遣わしてこれを討たせた。(注:東鑑による。)景時は範頼を殺すよう勧めたので、景時とその子景季・景高に騎兵五百を率いさせ、修禅寺に範頼を攻めさせた。事は不意に起こったため、範頼は鎧をまとう暇もなく、弓を引いてこれを射て、殺傷する者が頗る多かった。しかしやがて矢が尽き、火を放って自ら命を絶った。景時は灰燼の中からその首を得た。(注:八坂本平家物語による。)

二人の子、範円と源昭は、ともに僧となった。範円は安達盛長の娘を娶り、為頼をもうけた。為頼は母方の家の跡を継いでその領地を受け、武蔵国吉見に住み、吉見二郎と称した。その子義春は太郎と称した。永仁四年三月、兵を起こそうと謀ったが、北条貞時に殺された。その子義世は孫太郎と称し、(注:尊卑分脈による。)同じく十一月に誅殺された。(注:保暦間記による。本書では義世を範頼の玄孫にあたる頼氏の子とするが、尊卑分脈および吉見系図によれば、頼氏は範頼の曾孫であり義春の弟にあたる。よってこの説は採らない。将軍執権次第によれば、義世の死は永仁五年五月のこととされる。)義世の子尊頼は吉野行宮に仕え、中務大輔となった。(注:尊卑分脈による。)

源義經

源義経(みなもとのよしつね)は、幼名を牛若(うしわか)といい、左馬頭源義朝の九男である。(注:尊卑分脈による。東鑑では六男とするが誤りである。本書によれば、義朝は九人の男子をもうけ、そのうち八人はしばしば諸々の実録に見えるが、四男義門(よしかど)だけは記載がない。おそらく早世して事跡がなかったためであろう。あるいは、義経は実は八男であり八郎と称すべきところ、九郎と称したのは叔父為朝の呼び名を避けたためだとも言われる。しかしこれは野史の伝えるところであり、信じるに足りない。ひとまずここに付記しておく。)人となりは体格が小柄で、色白で反っ歯であり、才気煥発、身のこなしは人並み外れて敏捷であった。(注:源平盛衰記・平家物語による。)母は常磐(ときわ)といい、もと近衛天皇の皇后藤原氏に仕えていた。かつてその皇后が入内した際、父藤原依通(よりみち)が美しく選び抜いた侍女の中でも、常磐はもっとも容姿に優れていた。後に義朝に嫁ぎ、三人の子を産んだ。長男は今若(いまわか)、次男は乙若(おとわか)、三男がすなわち牛若である。牛若は平治元年に生まれた。この年、義朝の一味であった藤原信頼が敗死し、常磐は三人の子を連れて大和国龍門の里に逃げ隠れた。平清盛が捜索しても見つからなかったため、常磐の母を捕らえた。常磐はこれを聞いて自ら六波羅に出向き、むせび泣いて事情を訴え、子どもたちとともに刑に服す代わりに母を赦免してほしいと願い出た。清盛はこれを憐れみ、また常磐の容色に心を惹かれて、三人の子の命もあわせて助けようとした。一族の者は皆、それはいけないと争って諫めたが、清盛は「すでに兄の頼朝を赦している。今、年長の者を許して幼い者を殺すのは、まことに道理に合わぬことだ」と言った。そうして三人の命を助け、常磐を側女とした。常磐は清盛との間に一女をもうけたが、その後寵愛は衰え、大蔵卿藤原長成のもとへ嫁に出された。今若と乙若は僧とし、牛若は鞍馬寺の僧覚日(かくじつ)に預けた。(注:平家物語剣巻では覚日を円乗とする。) やがて名を遮那王(しゃなおう)と改めた。齢わずか十一にして諸家の系譜を読み、憤然として「我は将軍の家柄の生まれでありながら、これほどまでに落ちぶれてしまった。必ずや平氏を滅ぼし尽くし、父祖の恥をすすがねばならぬ」と思うようになった。そこで昼は書物を読み、夜は武芸を習った。覚日が剃髪して出家するよう勧めても、聞き入れずに「二人の兄が僧となったことこそ、我が恥とするところだ。どうしてそれに倣うことがあろうか」と言った。覚日がしきりに勧めると、密かに「もし無理強いするなら、私は師の腹に刃を突き立てるつもりだ」と言った。常磐は常に憂え恐れていたが、どうすることもできなかった。遮那王は常々、陸奥へ赴いて藤原秀衡を頼り、その財力を借りて宿願を果たしたいと考えていたが、道のりは遥かに遠く、ともに行く者がいなかった。当時、金商人の吉次(きちじ)という者がおり、(注:平家物語剣巻では吉次を五条橘次末春とする。)陸奥へ往来するたびに京へ来ては鞍馬寺に参詣していた。遮那王はそこで密かに語りかけて言った。「そなたが奥州へ行くときに私を連れて行ってほしい。私が奥州に着いたなら、必ず厚く報いよう。」吉次は「あなたをお連れして行くこと自体は難しくありません。ただ、鞍馬の大衆の怒りを買うのではないかと恐れます」と答えた。遮那王は笑って「この驕り高ぶった子供がいなくなったところで、何の苦しみもあるまい。たとえば夏の日に打ち捨てられた死骸を誰かがひそかに持ち去ったとして、誰がそれを追いかけようか」と言った。吉次はそこで承知した。また、下総の人、深栖頼重(ふかすよりしげ)という源頼政の甥にあたる者が鞍馬に来ていた。遮那王はこれに会って親しく語り合い、三人で約束を交わした。承安四年三月、ついに三人そろって関東へ向かった。近江国鏡の宿に至って自ら元服し、名を義経と改め、源九郎と称した。時に十六歳であった。(注:平治物語による。頼重が頼政の甥であることは尊卑分脈による。)下総に着き、そこに数か月住んだ。あるとき馬を盗む者が現れ、土地の者たちがこれを取り押さえようとした。盗人は非常に屈強で、木に寄りかかって防ぎ、誰も捕らえることができず、ただ取り囲んで見張るばかりであった。義経は素手でこれを縛り上げた。また、群盗が民家に押し入った際、義経が駆けつけて即座に四人を斬り、残りは傷を負って逃げ散った。頼重はその勇猛さに感服したが、権勢を握る平氏がこれを聞き、大いに警戒した。(注:京師本平治物語による。)義経はそこで陸奥へ向かった。(注:源平盛衰記には、義経が陸奥へ向かう途中、上野を経て伊勢義盛の家に身を寄せ、その従者を借りて頼朝に書状を送り、返事を得てから鎌倉へ至ったとあるが、東鑑によればこの説は誤りであるため採らない。)吉次が秀衡にこのことを告げると、秀衡は平泉の館に招いて厚くもてなした。義経は秀衡に金を求めて吉次に与え、以前の約束を果たした。(注:平治物語による。)

治承四年、兄頼朝が挙兵し、義経はこれを聞いてそこへ馳せ参じようとしたが、秀衡は時勢を様子見して引き留め、行かせなかった。義経はひそかに平泉の館を抜け出し、秀衡は壮士佐藤継信とその弟忠信を追わせて従わせた。十月、頼朝は富士川で平氏を破り、黄瀬川に陣を敷いた。義経は二十余騎を率いて陣営に参じたが、部将の土肥実平らはこれを怪しんで取り次がなかった。頼朝はその年齢を尋ね知って「これはきっと奥州の九郎であろう。急いで召し入れよ」と言った。実平がこれを案内して謁見させた。頼朝は対面して大いに喜び、「昔、八幡殿(源義家)が清原武衡を討ったとき、新羅三郎(源義光)が宿衛の任にあったが、官を辞して軍に赴くことを願い出ても許されず、弓弦の袋を本陣に掛け残して密かに陸奥へと下った。八幡殿はこれを喜び、亡き父将軍が再び現れたかのようだと言ったという。今、私がここでそなたに会うのも、まさに頭殿(義朝)のお顔を初めて見るがごとくである」と言った。二人はともに感じ入って涙した。(注:東鑑・源平盛衰記を参照した。平治物語には、頼朝の挙兵に際して義経が赴こうとしたとき、白河の関がすでに閉ざされていたため、温泉に浴すると偽って百騎ほどを率い、那須山中を経て大庭野で頼朝に会ったとあるが、今はこの説を採らない。)寿永二年七月、平氏は安徳帝を奉じて西海へ逃れ、従兄の義仲がまず先に京へ入ったが、功をおごって驕り高ぶり、兵士をほしいままにさせて京中を騒がせたため、上下の者はみな厭い苦しんだ。頼朝は義経および斎院次官中原親義を遣わし、騎兵を率いて租税の輸送を監視させ、京へ入らせた。義仲は疑い恐れて、これを迎え撃とうとした。法皇は勅諭してほかに他意のないことを告げた。(注:玉海による。)十一月、義仲が謀反を起こした。このとき義経は熱田におり、院の北面の武士橘公朝らが赴いてその状況を告げた。これより先、義経は使者を鎌倉に遣わして異変を告げ、軍をとどめて返事を待っていたが、ここに至ってまた公朝を遣わした。三年正月、頼朝は兵六万を発し、範頼・義経に義仲を討たせた。範頼は瀬田から、義経は宇治から、道を分けて京へ入った。義経の兵はおよそ二万五千余、鈴鹿山から進んで伊賀に至った。義経は土地の者を召して道を尋ねた。土地の者は「青田山から首落の滝に至るのが近道です」と答えた。さらに「他に道はないか」と問うと、「あります。長田の里を過ぎ、花園村を経て、射手神社に至り、笠置のそばを通る道もよろしいでしょう」と答えた。義経は「青田・首落とは、軍を進める道としては地名が不吉である」と言った。(注:青田は「箯輿(へんよ)」と訓読が同じであり、箯輿は傷病人を載せるものであるから、こう言ったのである。)そこで射手社の前の道から進んだ。義仲はこれを聞き、根井幸親・楯親忠らに三百余騎を率いさせ、宇治橋を落として防がせた。義経の軍が川のほとりに至ると、家々が軒を連ねていて陣を布くのに不便であった。まず住民に命じてその財貨を運び出させ、それから火を放って焼き払った。川岸に高い櫓を組み、自らその上に立って四方を見下ろした。将士に号令を発し、筆を執って「先陣を駆けた者、勇敢に戦った者は、すべて書き留めて鎌倉へ報告する」と呼ばわった。士気はこれによって百倍し、みな奮い立って功を立てようとした。義経が軍中に号令を発したとき、諸隊が騒がしくて号令が聞き分けられなかった。そこで平等院の法鼓を取ってこれを打たせた。軍士は皆これに耳を澄ませた。そこで命じて言った。「危難に臨んで功を立てるのは、まさに今日である。見れば兵は二万余、必ず泳ぎに巧みな者がいるはずだ。まず渡って浅深を測れ。敵の弓を引く者四五百が岸に矢を集めて構えており、渡り終える頃には必ず射てくるだろう。そなたら壮士は橋の桁に上ってこれを防ぎ、泳ぐ者を射させるな。」そこで平山季重・佐々木定綱・渋谷重助・熊谷直実およびその子直家が、橋桁に上ってしきりに矢を射かけ、殺傷する者が頗る多かった。佐々木高綱・梶原景季は橘小島から単騎でまず川を渡り、畠山重忠は五百騎を率いて橋のそばから渡り、幸親らと戦ってこれを破った。義経は「大将が進んで戦うのに、副将の通った跡をたどるべきではない」と言い、道を変えて橘小島に至り、命じて「流れは速いが水は浅い。そなたらはここから渡り、皆に先立って進め」と言った。兵士は次々に渡り、敗走する敵を追って京師に至った。(注:平家物語・源平盛衰記を参照した。)兵士が些かも略奪をしないよう禁じた。(注:玉海による。)義仲が敗走したとき、法皇は大膳大夫大江業忠の六条第におられた。義経は重忠・高綱らを率いて六条に参じた。業忠は塀に登ってこれを望み見て、義仲がまた攻めて来たものと思い、驚いて声を震わせて叫んだ。宮中の男女は恐れおののき顔色を失ったが、業忠はさらに「その旗印を見るに義仲ではない。必ず東国の兵であろう」と報告した。やがて義経は馬を下りて「臣は源頼朝の弟義経です。今しがた賊兵を破り、この御所をお守りするために参りました。どうか速やかに門をお開きください」と言った。業忠は喜びに堪えず、塀から落ちて腰を痛めながらも、疲れきった様子でこれを奏上した。法皇は大いに喜び、中門にお出ましになってこれを御覧になり、出羽守藤原定長に命じてその労をねぎらわせ、義経以下の姓名・本貫・年齢を尋ねさせて、「まことに英傑の士である」と感嘆された。そこで義経に宮中の宿衛を命じ、兵を分けて義仲を追わせた。義仲は粟津まで逃げ、範頼と戦って敗死した。(注:平家物語・源平盛衰記を参照した。)この月、平氏は屋島から一ノ谷城に移って拠り、その勢は十余万、山陽・南海の十四か国もまたこれに従い、勢いは非常に盛んであった。法皇は範頼・義経に命じてこれを討たせ、勅して「神璽・宝剣・内侍所は神代からの秘宝であり、歴代の帝を鎮護する重器である。そなたらは謹んでこれを迎え取り、朝廷にお返しせよ」と仰せられた。範頼・義経は一ノ谷で平氏を討とうとし、あらかじめ攻撃の期日を定めるにあたり、二月四日は清盛の一周忌にあたる小祥、五日・六日は兵を用いることを忌む日であったため、七日と定めた。(注:源平盛衰記・平家物語を参照した。)二十九日、範頼は五万余騎を率いて播磨路から一ノ谷へ向かった。義経は二万余騎を率いて丹波路を昼夜兼行で進み、これと合流した。範頼は昆陽野に陣を敷き、義経は三草山の東に陣を敷いた。敵将平資盛・平有盛らは七千余騎を率いて山の西でこれを迎え、両軍の距離は三里ほどであった。(注:東鑑・源平盛衰記を参照した。)二月五日、義経は土肥実平に「今夜敵を襲うのと、明朝を待つのとではどちらがよいか」と尋ねた。実平がまだ答えないうちに、田代信綱が進み出て「我が軍は勢い盛んで、敵は我らが夜戦を望まないと思って甲を脱いで休息しているでしょう。今その油断をついて襲えば、どうして勝てないことがありましょうか」と言った。実平もまたこの議に賛成した。義経は「そなたの言うことはまさに私の考えと合っている。私はただ皆の意見を尽くさせたかっただけだ」と言い、兵を整えて敵へ向かわせた。夜は暗く道は険しく、人馬とも進むことができなかった。義経は武蔵坊弁慶を呼んで「大きな松明を掲げよ」と言った。皆その意図を解しなかったが、弁慶はすぐさま馳せて手近な良い家々に火を放ち、道は昼のように明るくなった。夜半、山の西麓に至り、鬨の声をあげて襲撃すると、資盛らは狼狽して武具を捨てて逃走し、首百八十級を討ち取った。(注:平家物語では五百級とする。)六日、信綱・実平に別に七千騎を率いさせて一ノ谷城の西門を攻めさせ、自らは熊谷直実・平山季重・片岡為春・佐原義連・後藤実基・佐藤継信および忠信・江田源三・熊井太郎・伊勢義盛・源八広綱・弁慶以下、精鋭三千騎を率いて鉢伏峰に登り、蟻の戸に進んだ。日はすでに暮れ、道が険しく悪くて進めなかったので、弁慶に案内人を探させると、弁慶は遠くの灯火を見つけてそこへ向かった。見れば老人と老婆が向かい合って座っており、老人に道案内を命じた。老人は「私はこの山に住み、狩猟を生業としており、摂津・丹波の山々をよく知っております。しかし今は年老いており、お役に立てません。息子がなかなか丈夫でありますので、お使いいただけましょう」と言った。弁慶はその息子を連れて戻り、義経に会わせた。義経はその者が住む山の名にちなんで鷲尾と名付け、鷲尾経春(わしのおつねはる)と命名し、刀・馬・甲を与え、道の険しさ易しさを尋ねた。経春は「この場所は鵯越といい、山中第一の絶険です。上の七、八段は石ころと砂地で草木も生えず、下の五、六段は切り立った崖がそびえ立ち、人馬の通れるところではありません」と言った。義経は「鹿でも通れないか」と尋ねると、「鹿だけは通ります」と答えた。義経はさらに「崖の下に落とし穴や蒺藜(まきびし)は仕掛けられているか」と尋ねると、経春は「敵は険しさを頼みとしており、そのような備えをしているとは聞いておりません」と答えた。そこで義経は将士に命じて「鹿には四本の足があり、馬にも四本の足がある。異なるのはたてがみの有無と蹄の丸みの違いだけだ。西国の馬のことは知らないが、東国の馬であれば、鹿の通れるところは馬も通れる」と言い、経春を先導とした。(注:平家物語によれば、たまたま日が暮れたため、しばらく山中に軍をとどめた。弁慶が一人の老人を連れて来て、義経が「何者か」と尋ねると、「この山の猟師です」と答えた。義経は喜んで攻め口を尋ね、かつ案内人にしようとした。老人は年老いて弱っていることを理由に辞退し、自らその子熊王、齢十八を推挙した。義経はすぐに元服させて名を与えた。そして「そなたの父は鷲尾荘司武久と称する。そなたは鷲尾三郎義久と称するがよい」と言ったという。)このとき夜はまだ明けておらず、しばらく山中で休んだ。実平はすでに西門へ向かい、範頼は東門を攻めていた。七日、義経は明け方に鵯越を下ろうとし、まず数頭の馬を先に下らせて試したところ、傷つく馬もあれば無事な馬もあった。義経はこれを見て「馬を自然に下らせてもこのようなものだ。乗り手が注意すれば、どうして転落して傷つくことを心配する必要があろうか。そもそも険しい地を馬で駆けるには四つの術があるが、その要は専ら心にある。そなたらは私の乗り方を手本にせよ」と言い、皆に先立って進んだ。皆は魚が連なるように次々と下り、一人も傷つく者はなかった。そこで兵を整え旗を掲げ、大声をあげて真っ直ぐに突き進んだ。このとき敵はもっぱら東西二つの門を防いでいた。城の後方は険しさを頼みとして備えを設けていなかったため、義経の軍が至ると、驚き乱れて統制を失い、味方どうしで殺し合う始末であった。義経はそこで敵の陣営に火を放ち、風は激しく火勢は強く、煙と塵で辺りは暗くなり、城兵は大いに乱れて東西の門も守れなくなった。範頼・実平の兵は城中に攻め入り、宗盛は安徳帝を奉じて海へ逃れ去り、残りの軍勢は総崩れとなって逃げた。これを海辺で追撃し、首二千余級を討ち取り、その将である越前守平通盛ら十人を討ち取った。(注:本書では九人とするが、今は玉海に従う。)平重衡を捕虜とし、そのほか捕らえられた者や溺死した者は数えきれなかった。九日、凱旋した。(注:本書では十日とするが、今は東鑑に従う。)範頼・義経は討ち取った首級を京師で獄門にかけることを願い出た。法皇は公卿を集めてこれを議させた。皆は「昔から公卿を斬って路頭にさらした例はない。まして平氏は先の朝廷の外戚であり勲功もある家柄であるから、さらすべきではない」と言った。義経はさらに奏上して言った。「亡き父義朝は保元の乱に際し、王室のために力を尽くしました。しかし後に藤原信頼にたぶらかされて誅殺され、その首はさらされました。平氏はかつて公卿として朝廷に仕えた家柄でありますが、今は逆臣として罪に服して誅されるのです。臣の亡き父と比べて、その軽重はいかがでしょうか。臣らが謹んで勅旨を奉じ、身を顧みず奮戦しましたのは、皇威を輝かせ、かつ父祖の恥をすすがんがためです。しかるにこの願いをお許しいただけなければ、この先どうして朝敵を討ち滅ぼすことができましょうか。」法皇はやむを得ずこれをお許しになった。(注:源平盛衰記による。玉海には、範頼・義経が「源義仲の死骸は路頭にさらされたのに、今平氏をさらさないのは、まことに道理に合いません」と奏上したとあり、朝議では「公卿の首を路頭にさらすべきではない。しかし平氏の罪は義仲とは異なり、まして先の朝廷の外戚であればなおさらである」とされたとあるが、その結末は詳らかでなく、今は考証のしようがない。)八月、義経は左衛門少尉に任じられ、検非違使に補された。(注:源平盛衰記・平家物語・山槐記・東鑑による。)義経はかつて頼朝のもとに赴き、朝廷に奏上して官職を一つ賜りたいと願い出たことがあった。頼朝は義経が軍中にあって専断することを嫌い、これを抑えて奏上せず、まず範頼を参河守に任じるよう奏上した。義経が任官するに及んで、急ぎ使者を頼朝に遣わして報告し、自ら「朝廷からの賜りものは、辞退できるものではありません」と弁明したが、頼朝は義経が自ら望んだのではないかと疑い、ますます不機嫌になった。(注:東鑑による。)この月、平信兼が平氏の残党を集めて伊勢の滝野に拠った。(注:源平盛衰記による。)このとき信兼の三人の子、兼衡・信衡・兼時が京に潜んでいたので、義経はこれを召し出して殺した。(注:山槐記・源平盛衰記による。)そして兵を遣わして信兼を攻め滅ぼした。(注:源平盛衰記による。)九月、義経は従五位下に叙され、検非違使は元のとおりとされた。(注:東鑑・山槐記による。)ほどなく院の昇殿を許された。(注:東鑑・源平盛衰記による。)

文治元年正月、義経は平氏討伐を願い出た。朝議では「平氏の残党はなお京師に潜んでおり、ひそかに不穏な謀りごとをしている。義経を留めて警衛にあたらせ、その将佐を四国へ遣わすべきだ」との意見もあった。義経はさらに奏上して「もし追討が遅れて二、三か月に及べば、西海の軍の食糧が続きません。範頼が京へ引き返せば、太宰府管内の兵士は次第に平氏に従うようになり、討伐はますます難しくなりましょう」と述べた。法皇はついにこれをお許しになった。(注:吉記による。)義経が出発しようとする際、法皇に「平氏が西へ逃れてより、すでに三年、諸国を侵し掠め、人民を虐げております。急いでこれを除かねばなりません。臣はこの賊を滅ぼさぬうちは、生きて都へは戻りません」と奏上した。兵を率いて南海道から向かおうとした。(注:源平盛衰記による。本書には兵十万余騎とあるが、長門本平家物語には判官の兵六千余騎、船百五十艘に乗ったとあり、実数はそれ以上であったと思われる。しかし本書の言うところは数が甚だ多く、誇張の疑いがある。東鑑の屋島合戦の記事の後段には、梶原景時以下の東国武士が百四十余艘で屋島に到着したとあるが、これにも兵数の記載がないため採らない。)渡辺の福島で船を整えたが、将佐の多くは東国出身で水戦に不慣れであり、群議はやかましく騒がしかった。梶原景時は軍監として従っており、船に逆櫓を設けようとした。義経が「逆櫓とは何か」と尋ねると、景時は「船尾にも櫓を設けることを逆櫓と申します。陸戦であれば馬に乗り、進退は思いのままです。しかし船戦はそうではなく、進むのはたやすいが退くのは難しい。今、逆櫓を設けようとするのは、敵が堅ければ艫(とも)を使って退き、敵が崩れれば舵を切って進むためです」と答えた。義経は「およそ戦に臨む者は、大将が勇猛に兵を励ましても、兵はなお退きたがるものだ。まして戦う前からあらかじめ逃げる算段をしていて、どうして勝てようか」と言った。景時は「進むことばかり知って退くことをわきまえないのを猪武者(いのししむしゃ)と申します。それは危険を招くもとです。将軍は年少で血気盛んゆえ、このようにおっしゃるのでしょう」と言った。義経は色をなして「私は自分では分からぬが、猪であろうと鹿であろうと、私はただ奮戦して敵を殲滅することを快しとするのみだ。敵に向かう者は必ず死ぬ覚悟をするものだ。もし我が身を惜しむのなら、主君にお仕えしない方がましだ。そなたがもし大将の任を受けるなら、逆櫓を千も百も設けるがよい。私はそのようなことはしない」と言った。景時はこれによって義経を恨むようになった。(注:源平盛衰記による。)二月十六日、義経は屋島へ向かおうとした。法皇は「義経が畿内を十日も離れれば、京師はますます手薄になる」とお考えになり、親臣の大蔵卿高階泰経を遣わして説き、これを留めようとされた。(注:玉海による。)泰経は旅宿を訪ねて「私は兵法を知らぬ身であるが、あなたに一言申し上げたい。大将たる者は重々しく構えて全軍を統率し、先鋒のようなことは副将に命じればよいのです」と語った。義経は「私には志願がある。士卒に先んじて命を落とすことができれば、それで本望である」と答えた。(注:東鑑による。)このとき南風が激しく吹き荒れ、二日経っても止まず、船の欄干が多く壊れたため、軍をとどめて修繕させた。夜になって風向きが変わり、風はさらに激しくなった。義経は「船を出せ」と命じた。船頭は風が静まるのを待つよう願い出た。義経は「風は激しいが順風である。もし風が静まり海が凪げば、敵は必ず警戒を固めるだろう。今その不意をつけば、必ず勝てる」と言った。そして「命令を聞かぬ船頭は斬れ」と命じた。伊勢義盛らが矢をつがえて船頭を脅したので、船頭は大いに恐れ、ついに船を出した。従う者はただ田代信綱らの船五艘、兵はわずか百五十騎であった。義経は「篝火は私の船にだけ灯し、他は用いるな。敵に我が兵の多寡を知られることを恐れるからだ」と命じた。船は飛ぶように速く進み、普段なら三日かかる行程を、丑の刻から卯の刻までで、ついに阿波の尼子浦に着いた。(注:東鑑・源平盛衰記・平家物語を参照した。平家物語には、やはり十六日に渡辺を出発し、翌日阿波に着いたとある。玉海の二月二十七日条および三月四日条も皆これと同じである。しかし盛衰記には、義経は二月十七日に纜(ともづな)を解き、翌日阿波尼子浦に着いたとある。二月十七日には義経は阿波勝浦で戦っており、一書の中でも矛盾がある。東鑑の二月十六日条には義経が纜を解いたとあり、十八日条には「昨日義経が渡辺を出発しようとしたところ、雨と大風が激しく起こった。丑の刻に船を出し、卯の刻に勝浦に着いた」とあり、これもまた一書の中で矛盾しており、諸書の記述が食い違って決めがたい。しかし東鑑の三月八日、義経が使者を鎌倉に遣わして報告した文によれば、十七日に出発し卯の刻に勝浦に着いたとするのが実情に近いと思われるので、今はひとまず東鑑に従う。)義経は海岸を望み見ると旗印がみな赤かったので、従者に「敵はすでに備えている。そなたらは支度をせよ。船中の馬は足がすくんで立っているから、そのまま岸に上げるのは急な用には堪えぬだろう。まず馬丁に泳がせて先に下ろすがよい」と言った。皆これに従った。義経は先頭に立って岸に上がり、士卒を督励して力戦し、敵の守将桜間良連を捕虜とし、進んで一つの砦に至り、守将桜間良遠を襲った。(注:東鑑では桜庭介とする。)良遠は砦を捨てて逃げた。そこで土地の者を召して地名を尋ねると、「勝浦です」と答えた。義経は喜んで「これは吉兆である。軍は必ず大いに利あるだろう」と言い、勇み立って進んだ。道中、甲冑をつけた兵百余人が来るのに出会ったが、いずれも旗印がなかった。義経は敵の奇襲かと思い、伊勢義盛に馬を馳せさせて問わせた。義盛はその将とともにやって来た。義経が「そなたは何者か」と問うと、「臣はこの州の者、近藤親家であります。近年天下が乱れ、いずれに属すべきか分からずにおりましたが、義軍の旗がこの州へ向かって来られると密かに聞き及び、麾下に加わって使役されたいと存じます」と答えた。義経はこれを道案内とし、田口成直の兵を勝宮で破った。その夜のうちに兵を進めて中山に至った。(注:平家物語では大坂越とする。)たまたま書状を携えて通りかかった一人の卒があった。義経は「そなたはどこへ行くのか」と尋ねると、「京師から屋島へ向かうところです」と答えた。さらに「誰の書状を携えているのか」と問うと、隠して答えなかった。義経は偽って「私は阿波の者で、招集を受けて屋島へ向かうところだ。九郎判官が淀川尻に船を並べ、近く屋島の内裏を襲おうとしていると聞く。そなたは京師から来たのだから、必ずその軍勢を見たであろう。兵はどれほどいるか」と言った。卒は義経と気づかぬまま、実を告げて「携えているのは六条摂政の北の政所から屋島の内府へ宛てた書状です」と言った。義経が「書状には何と書いてあるのか」と尋ねると、「どうして知りましょうか。ただ、九郎判官はすでに京師を発ったとのこと。九郎は鋭い将であり、木曾殿の勇猛さも鬼神のごとくであったが、一戦でこれを討ち滅ぼした。その兇猛な威勢は恐るべきものであるから、そちらでも塁壁を修め、兵を集めて備えられよとの言伝てを承っております。書状の文言もおそらく同様でしょう。私が先ほど淀川尻を通ったときには、兵は雲が連なるようでした。あなたも急いで屋島へお向かいなさい」と言った。義経はさらに「そなたは初めて屋島へ行くのか」と尋ねると、「政所様は内府の妹君にあたられます。平氏が西へ逃れてから、いつも京師の様子を報せております。私はしばしばその使者を務めております」と答えた。義経は「それならそなたは屋島の地形をよく知っているだろう。聞くところではその地には要害があるというが、実際はどうか」と尋ねた。(注:源平盛衰記による。)卒は「城下は潮が満ちれば船でなければ近づけませんが、潮が引けば水はわずかに馬の腹に及ぶ程度で、その険しさは頼みにするほどのものではありません」と答えた。(注:長門本平家物語による。)義経はそこでその書状を奪い取り、卒を木に縛りつけて立ち去った。翌朝、屋島へ軍を進め、牟礼・高松の民家に火を放った。宗盛は兵を留めてこれを防がせ、安徳帝および女院を奉じて海へ逃れた。義経が城に迫ると、城兵は防ぎ戦った。義経は「敵は多く我は少ない。城の外に火を放ち、一方から攻め込むのが有利である」と言い、兵士に民家を焼かせた。このとき西風が非常に強く、火は城にまで燃え広がり、煙と炎が天に満ち、城兵は驚き逃げ惑い、争って船に乗り込んだ。義経は重忠らわずか六騎でこれを追った。兵士たちが続いて到着し、勢いはいっそう奮い立った。敵は船の舳先に日の丸の扇を立て、美しい女房にこれを掲げさせて示した。船は岸から七段ほど離れていた。義経は重忠に「これは敵が我らを誘っているのだ。そなたが私のためにこれを射よ」と言ったが、重忠は辞退したので、那須与一宗隆に命じた。義経はさらに宗隆に命じ直した。このとき風が起こって船が揺れ、宗隆は弓を引き絞って狙いが定まるのを待った。両軍は戦いをやめて注目した。宗隆は一発でその扇の柄を射切り、海陸ともにどよめいて感嘆し、歓呼の声がやまなかった。やがて平氏は船を進めて矢を集中して射かけ、我が兵も奮戦してこれに当たった。敵軍はやや退き、諸将は勝ちに乗じて競って海へ馬を進めた。このとき義経はたびたび装いを変え、目立つ鎧を着けなかったので、人々には見分けがつかなかった。しかし上総景清らは義経に目をつけ、組み討とうとした。越中盛嗣は長い鉤(かぎ)で義経を引っかけようとした。義経は刀を振ってこれを防いだが、誤って手にしていた弓を落としてしまった。これを拾おうとするうちに、敵はさらに激しく攻め寄せた。従者の騎馬武者は口々に「将軍、弓をお捨てなさい」と叫んだが、義経は右手で防ぎながら左手で弓を引き寄せて拾い上げた。将佐たちは皆「将軍ともあろうお方が、どうして一張りの弓のために、掛け替えのない御身を軽んじられるのですか」と言った。義経は「私は何も弓を惜しんだわけではない。もし私の弓が叔父為朝殿の弓のようなものであれば、わざと落として敵に見せつけるのもよかろう。しかし私の弓は弱く、それを落とせば侮りを受けることになる。それゆえ危険を冒してまで拾ったのだ」と答えた。将佐たちは皆その言葉に感服した。(注:平家物語による。)宗盛は平教経に義経を狙撃させた。教経は強弓を引くことに巧みで、勇士三十余人を率いて上陸し、挑み戦った。義経は土肥実平・畠山重忠らにこれを防がせたが、麾下の精鋭の多くが矢に当たって死んだ。この夜、義経は牟礼・高松に陣を敷き、敵は屋島城の跡に車座に陣を敷いて、その距離は一里ほどであった。翌朝、義経は壮士七、八十騎を率いて陣営に迫って力戦し、平氏はついに志度浦へ逃れた。義経はこれを追撃し、平氏はさらに筑前の箱崎へ逃れたが、州人がこれを拒んで入れなかったため、船を移して壇ノ浦・赤間などの海上へ移った。熊野別当湛増が軍艦二百艘を率いて義経のもとに参じ、河野通信もその配下を率いて帰順した。こうして南海道はほぼ平定されたが、ただ田口成良のみは阿波を拠点として平氏に属していた。これより先、成良の子成直は三千騎を率いて伊予に通信を攻めたが、義経は伊勢義盛に命じてこれを誘って降伏させた。義盛は成直を志度に連れ帰り、義経は成直に自筆の書状を書かせて父成良に降伏を勧めさせた。成良は義経に降を通じ、こうして阿波の兵士は皆降伏した。(注:源平盛衰記による。)二十二日、梶原景時以下の水軍がすべて到着した。(注:東鑑・源平盛衰記による。)景時は先鋒となることを願い出た。義経は「私がいなければそれでもよいが、私がいる限り、どうしてそなたに後れをとろうか」と言った。景時は「あなたは大将軍でいらっしゃる。副将と先陣を争うべきではありません」と言った。義経は「いわゆる大将軍とは鎌倉殿のことだ。私は軍奉行であって、もとよりそなたらと変わらぬ立場だ。(注:平家物語による。)先の一ノ谷の戦いでは、鵯越の険を侵して、瞬く間に十万の敵勢を破った。渡辺を出発する際には、諸将は皆風波を恐れて従おうとしなかった。私は五艘の船の兵を率いて、真っ直ぐに屋島へ至り、たちまちのうちに塁壁を攻め落とした。今、敵は滅亡寸前である。そなたを先鋒にすることなどできようか。私自ら諸将に先んじて一戦を決し、鎌倉殿への報恩の実を挙げるつもりだ」と言った。(注:長門本平家物語による。)景時はなじるように「この人は将帥の器ではない」とつぶやいた。義経は大いに怒り、手ずから斬りかかろうとした。三浦義澄・土肥実平らがその間に割って入り、言葉を尽くして厳しく諫めた。義経は怒りを抑えて思いとどまった。(注:平家物語による。)三月二十四日の明け方、義経は戦艦八百余艘を浮かべ、海上の平氏へ進撃した。山峨秀遠および菊池隆直・原田種直は、五百余艘を率いて矢を連射し、我が兵はやや怯んだ。このとき空中に白旗のような気配が現れ、我が船の上に見えた。また二羽の白い鳩が飛んで旗竿に集まった。義経はこれを神のご加護と考え、手を洗い口をすすいで拝み、兵士は皆喜んだ。(注:東鑑・源平盛衰記・平家物語を参照した。)義経は兵を励まして血戦し、田口成良はひそかに人をやって義経に「御座船に乗っているのは皆身分の低い卒であり、貴族はことごとく戦艦に乗っています」と告げさせた。義経は兵を進めてこれに迫った。成良は三百余艘を率いてこれに応じた。敵軍は大敗し、我が兵は勝ちに乗じて敵船に乱入した。(注:源平盛衰記による。)そこで二位尼は按察局とともに神璽・宝剣を抱え、幼帝を抱いて海に身を投げて死んだ。母后もまた続いて身を投げた。渡辺昵(なずむ)は長い鉤でこれを引っかけた。大納言典侍は昵に「これは女院様です。あなた方は慎みなさい」と言った。昵は義経の船へ送り届けた。典侍は内侍所の唐櫃を持って海に入ろうとしたが、兵士が船に入ってこれを止めた。神璽もまた海に浮かび上がり、片岡経春がこれを収めた。(注:東鑑・平家物語による。)平氏の一族は挙げて海に沈んで死んだ。宗盛およびその子清宗・能宗を捕虜とし、そのほか平時忠およびその子時実、平信基・藤原尹明・源則清・源季貞・平継景・後藤信康・矢野家村・摂津判官盛澄、宮人帥典侍・大納言典侍・帥局、僧全真・忠快・能円・行明ら、また菊池隆直・原田種直は皆降伏した。(注:東鑑による。源平盛衰記・平家物語を参照した。諸書には名はあっても姓を欠く者があり、今は諸家の系図によった。)西海は平定され、義経は京師に戦勝を奏上した。法皇は大いに喜ばれ、(注:源平盛衰記・平家物語による。)使者を遣わしてその労をねぎらった。(注:東鑑による。)

四月、義経は神器および太后・二宮を奉じ、宗盛以下の捕虜を連れて帰京した。朝野はこぞってなびき従い、皆その功を称えたが、頼朝は内心これを憎んだ。かつて頼朝は範頼・義経に兵を率いて西へ上らせるにあたり、その態度を試そうとして、熱い湯を汲んで手水を捧げさせたことがあった。範頼はこれを捧げ持つことができなかったが、義経は進み出て平然と湯を注ぎ、顔色一つ変えなかった。頼朝は内心これを憚った。(注:源平盛衰記による。)やがて範頼は九州の軍事を統轄し、頼朝は千葉常胤・和田義盛にこれを監督させた。義経は四国の軍事を統轄し、梶原景時がこれを監督した。範頼は事あるごとに常胤・義盛に相談して決めたが、義経は事あるごとに景時の意見を退けて自ら専断した。景時は憤懣を溜め込み、ひそかに「義経は功をおごって権威をほしいままにし、将士はみな危惧の念を抱いております」と告げた。頼朝は怒り、景時および田代信綱に書状を送り、将士に義経の号令に従わぬよう密かに命じた。義経は亀井六郎を鎌倉に遣わし、誓紙を送って異心のないことを述べたが、頼朝はこれを受け取らなかった。(注:東鑑による。)五月、義経は自ら宗盛以下の捕虜を護送して鎌倉へ向かった。尾張の内海に至ったとき、宗盛父子に馬を下りさせ、義朝の墓の周りを七度めぐらせ、拝んで涙を流させてから通り過ぎさせた。(注:八坂本平家物語による。)義経はまず使者を遣わし、明日鎌倉へ入る旨を報告させたが、頼朝は北条時政を酒匂の駅に遣わして捕虜を受け取らせるにとどめた。義経は鎌倉の府に入ることを許されず、腰越の駅に留め置かれた。(注:東鑑による。)景時は頼朝に「先の一ノ谷の戦いで平重衡を捕虜にした際、その他の生け捕りは蒲殿(範頼)の手にありました。判官(義経)は怒って『今、蒲殿が人の手柄によって事を成しているのに、どうして自分だけが捕虜を率いてよいものか』と申され、危うく諍いになりかけました。私と土肥実平で取りなしてようやく収まりましたが、私が判官殿の振る舞いを見るに、終いには人の風下に立つような方ではございません」と告げた。頼朝はこれを聞いて大いに警戒心を抱いた。(注:平家物語による。)そこで義経は書状をしたため、大江広元を通じて弁明したが、頼朝はついに会おうとしなかった。(注:東鑑・平家物語による。長門本平家物語・源平盛衰記にはいずれも、義経が鎌倉に入って頼朝に会ったが、頼朝の言葉つきや表情が信を置けぬものであったとあるが、これはおそらく誤りであろう。)六月、義経に再び捕虜を監督させて京師へ帰らせた。義経は大いに失望し、悶々としたまま去った。頼朝はその言葉にかなり恨みが混じっていると聞き、義経の所領二十四か所を没収した。(注:東鑑による。)八月、義経は伊予守に任じられ、院の厩別当を兼ねた。頼朝は伊予に地頭を置き、義経が国務を執らせないようにした。(注:玉海・源平盛衰記を参照した。)このとき叔父の行家は頼朝と不仲であり、頼朝はこれを除こうとしていた。行家は京師に隠れ住み、義経とひそかに行き来していた。九月、頼朝は梶原景季を京師に遣わし、義経の邸に至らせて、面と向かって行家を討つよう命じ、あわせてその動向を探らせた。ちょうど義経は病で会わず、一、二日置いてから対面した。景季はその意向を残らず伝えた。義経は「たとえ強盗であっても罪人であれば、この義経が自ら捕らえに参りましょう。まして行家であればなおさらです。しかしこれは副将ごときが取り仕切れることではありません。私は病が癒えるのを待って、おいおい手立てを講じます。あなたはこの旨を持ち帰って報告なさるがよい」と答えた。頼朝はこの報告を聞いてますます怒り、義経は行家に与しているに違いないと考えた。景時はさらにこれに輪をかけて讒言を仕立てた。(注:東鑑による。)壇ノ浦の戦いの際、建礼門院が義経の船におられたことから、頼朝は義経がこれと密通しているのではないかと疑った。もともと頼朝は河越重頼の娘を義経に娶らせていたが、義経はさらに平時忠の娘をも娶り、また左衛門尉に任じられ検非違使に補されたことも、いずれも頼朝の意に沿わぬことであった。ここに至って恨みの隙間はますます深まり、頼朝は断固としてこれを除く決意をした。頼朝は重忠らに「義経はたびたび大功を立て、威名は輝かしい。しかもその任官叙爵は、弟でありながら兄である私に先んじている。その勢いはほとんど私を凌駕せんばかりだ。誰か行ってこれを討つ者はいないか」と言ったが、諸将は黙り込んで誰も答えようとしなかった。頼朝はそこで土佐房昌俊に命じ、京師へ遣わして密かにこれを謀らせた。(注:源平盛衰記による。)このとき関東の将士の中にはかねて頼朝を恨む者があり、しばしば密かに義経に心を通わせていた。また頼朝は勢いを頼んで次第に朝廷を軽んじるようになり、大いに法皇の御意に背いていた。義経はこれを察知し、かつて密かに奏上したことがあり、法皇はその多くをお許しになっていた。(注:東鑑・玉海を参照した。)ここに至り、義経は法皇の御所に参じて奏上した。「前備前守行家は頼朝と不仲であるため、頼朝はこれを除こうとしております。行家もまた兵を起こそうとしております。臣はこれを解こうとしましたが果たせず、臣自身もまた頼朝に忌み嫌われております。聞くところによれば頼朝は臣に兵を差し向けようと謀っているとのこと。臣はそれゆえ行家と手を結んだのです。臣はかつて頼朝に代わって勅命を奉じて賊を討ち、身を顧みず奮戦して、ついに大功を立てました。しかるに頼朝は臣をこのように扱うのです。臣はもはや逃れられぬと承知しております。洲股(すのまた)へ赴き、一矢の下に死を決するのみです。どうか宣旨を賜り、頼朝を討たせてくださいますように。」法皇は勅して「そなたはよく行家を諭し、事を起こさせぬよう努めよ」と仰せられた。義経はさらに願いを奏上したが許されず、鎮西へ赴くことを願い出た。法皇は玉座の移動を懸念され、大臣たちにこれを議させた。(注:玉海・東鑑・源平盛衰記を参照した。)やがて昌俊が京師に到着したが、義経のもとへは参上しなかった。義経は大いにこれを疑い、使者を遣わして呼び出した。昌俊はすぐに参上した。義経が「そなたは何用があって参ったのか」と尋ねると、昌俊は偽って「昌俊はもと奈良の僧であり、七大寺への参詣を長年の願いとしておりましたので、それで参ったのです」と答えた。義経はせせら笑って「そなたは七大寺へ参るような者ではあるまい。二位殿(頼朝)の命を受けて私を討ちに来たのであろう。今、私はそなたを捕らえてもよいのだが、そなたは兄上の使者であるから、先に手を出したくはない。それゆえ手荒なことはしない」と言った。昌俊はなおも固くそのようなことはないと弁明し、自ら誓詞を書いて、これを焼いてその灰を飲んだ。(注:源平盛衰記による。)その夜、昌俊は児玉党六十余騎を率いて六条堀河の館を襲った。ちょうど帳下(側近)の者たちは外出していて留守で、居合わせた兵はわずか七騎であった。義経はすぐに門を開いて突出し、縦横に奮戦し、敵兵は総崩れとなった。やがて帳下の者たちが次第に集まり、行家もまた駆けつけて救援した。(注:玉海・東鑑・源平盛衰記を参照した。)昌俊は敗走して鞍馬山に隠れたが、その山の僧はかねて義経と親しかったため、これを捜索して縛り上げ、義経のもとへ送った。義経は「そなたは誓詞に背いたのに、どうして神罰がこうも速やかに下らないのか」と責めた。昌俊は「私はただ二位殿の命を奉じたまでのこと。どうして神罰を受けようか」と言い、罵り続けてやまなかった。義経がその頬を打つと、昌俊は顔色一つ変えずに「この顔は私の顔ではない。二位殿の顔だと思っていただきたい」と言った。義経はその言葉を壮とし、これを生かしてやろうと思い、「そなたは鎌倉へ帰りたいか」と尋ねた。昌俊は「私は鎌倉を出発したときから、生きて帰ろうとは思っておりません。今、不幸にして囚われの身となったからには、速やかに死ぬことを栄誉と存じます。早く斬られよ」と答えた。義経はついにこれを斬った。(注:源平盛衰記・長門本平家物語による。)そして左右の者に「人としてその主に仕える者は、かくあるべきである」と言い、兵士たちは皆その言葉に感じ入り称え合った。(注:源平盛衰記による。)義経はついに行家とともに宣旨を強く願い求め、法皇はやむを得ずこれをお許しになった。(注:玉海・東鑑・源平盛衰記による。)かつて頼朝は安達清経を義経に付き添わせる際、「これは身分は低いが才幹のある者だ。そなたは使うがよい。しかし実のところは間者である」と言っていた。昌俊が幾度も敗れるに及び、清経は鎌倉へ駆け戻ってこれを報告した。(注:源平盛衰記・平家物語による。)そこで頼朝は自ら諸将を率いて行家・義経を討とうとし、兵を進めて黄瀬川に至った。(注:東鑑による。)義経は鎮西へ避難しようとし、高階泰経を通じて法皇に「臣が今ここに留まって東国の兵を防げば、京師を騒がせることになりましょう。それゆえしばらく鎮西へ避けたく存じます。どうか院宣を賜り、九州の人々にお示しくださいますように」と奏上した。法皇はまたこれをお許しになった。(注:玉海・源平盛衰記・平家物語による。)十月三日、行家および平時実、異父弟の侍従藤原良成、女婿の右衛門尉源有綱らとともに、ついに鎮西へ向かった。頼朝は義経がすでに京師を離れたと聞き、鎌倉へ引き返した。(注:東鑑による。)義経が京師の宿衛にあった間は、もっぱら慎み深く上を奉じ、威厳と恩情を兼ね備えていたため、士民はこれを称えた。義経が去るに及んで、京師の人々は皆これを惜しんだ。(注:源平盛衰記による。)摂津の河尻に至ると、その地の者、多田行綱らが兵を率いてこれを迎え撃とうとした。義経はこれを撃ち破り、進んで大物浦に至って船を出した。ところが大風が急に起こり、船は漂い揺れ動き、行家とはぐれてしまった。従う者は伊勢義盛および堀景光、弁慶、妾の静のみであった。(注:源平盛衰記による。玉海・東鑑を参照した。)法皇は頼朝の怒りを恐れ、美作国司に命じて行家・義経を討たせた。(注:玉海・東鑑・源平盛衰記による。)官符には、義経の名が右大臣藤原兼実の子良経の名に似て憚りがあるとして、義行と改められ、さらに義顕と改められて、所在を捜索し逮捕するよう命じられた。(注:玉海・東鑑による。)義経は西海へ赴くことができず、大和へ逃れて吉野山に隠れた。執行の覚範がこれに気づき、悪僧を率いて捜索させた。(注:東鑑・八坂本平家物語による。)義経は五日間そこに留まったが、ついに多武峰へ逃れ、十字坊に身を寄せた。主僧は非常に手厚くもてなし、義経に「この山は狭く僧の数も少なく、あなたのお姿を隠し通すのは難しいでしょう。十津川の地は険しく、人馬も容易には通れません。そちらへお行きなさい」と言い、その門弟八人に護送させた。(注:東鑑による。)義経はまた京師へ戻り、数か月身を潜めていた。三年二月、妻の河越氏および従者とともに修験者に身をやつし、北陸道を経て陸奥へ至り、再び秀衡を頼った。秀衡は衣川の館にこれを住まわせた。(注:東鑑・八坂本平家物語による。)その冬、秀衡が没した。臨終に際し、長子泰衡らに遺言し、義経を大将軍として推戴し、もっぱらその指図に国事を委ねるよう告げた。五年、頼朝は密かに泰衡に義経を討つよう仕向けた。閏四月晦日、泰衡は兵を遣わして衣川を襲わせた。(注:東鑑による。)鷲尾経春らは力戦して討ち死にした。ここに至り、義経は妻子を刺し殺してから自害した。時に年三十一であった。泰衡はその首を鎌倉へ送り、見る者は皆涙を落とした。(注:東鑑による。源平盛衰記・八坂本平家物語を参照した。世に義経記という書があり、その事跡をもっとも詳しく伝えているが、内容は煩雑で入り混じっており、付会の説が多く、必ずしもすべてが虚誕とも言い切れない。しかし他に証拠となるものがなく、真偽の判別が難しいため、一切これを採らない。世間では義経は衣川の館で死なず、蝦夷地へ逃れたと伝えられている。今、東鑑を考えるに、閏四月己未の日、藤原泰衡が義経を襲ってこれを殺した。五月辛巳の日、その知らせが届き、首を鎌倉へ送ろうとしたが、このとき源頼朝は鶴岡八幡宮の仏塔供養の慶事の最中であったため、使者を遣わしてこれを止めさせた。六月辛丑の日、泰衡の使者が首を携えて腰越に至り、漆塗りの箱に納め、美酒に浸してあった。頼朝は和田義盛・梶原景時に命じてこれを検分させた。己未の日から辛丑の日まで、四十三日を隔てており、季節は暑熱の頃であるから、箱に納めて酒に浸してあったとはいえ、どうして腐り崩れずにいられようか。誰がその真偽を見分けられたであろうか。そうであれば、義経は死んだと見せかけて逃げ去ったのであろうか。今に至るまで蝦夷の人々は義経を崇め奉り、これを祀って神としている。おそらくそれには何らかの理由があるのであろう。)

義経は用兵の速さにおいて、並ぶ者がなかった。それゆえ義仲を討ち滅ぼし、平氏を殄(ほろ)ぼし、その功績はまことに速やかであった。しかし頼朝に忌まれ、ついに命を落とすに至った。人々は皆その兵略を語り伝えている。

伊勢義盛

伊勢義盛(いせのよしもり)は、伊勢の人である。初めは江三郎と称した。かつて姑の夫を殺し、長らく獄に繋がれていたが、恩赦にあって出獄し、上野国荒蒔郷へ行って住み、追い剥ぎを生業としていた。義経が陸奥へ向かう途中、上野を経て義盛の家に身を寄せた。義経はその容貌を見て「これは奇士であり、用いるに値する」と言い、そこで互いに約束を交わして主従の関係を結んだ。(注:源平盛衰記による。平治物語には、義経が上野の松井田へ行き、ある家に身を寄せたところ、その主人が屈強な者であったので、平氏討伐の際にこれを麾下に引き入れ、義盛という名を与えて伊勢三郎と称させたとある。京師本には、義経が義盛の家が富み、かつ姿かたちが並外れているのを見て、これと縁を結ぼうとしたところ、義盛は無頼の博徒が自分を陥れようとしているのではないかと疑い、断って追い返した。後に義経が頼朝の挙兵を聞いて陸奥から馳せ参じる際、上野を通り、これを麾下の士として引き入れたとある。どちらが正しいかは分からない。)従軍してたびたび功を立てた。屋島の戦いでは、平教経が死を覚悟した兵を率いて挑み戦ってきたが、義盛は土肥実平らとともに力戦してこれを防いだ。たまたま日が暮れて双方が兵を退いたとき、諸軍は三日間眠っておらず、将卒は皆疲れ果てて深い眠りに落ちていた。義経は敵が偵察してこれに乗じて襲ってくることを懸念し、高所に登って見張った。義盛は片岡経春とともに夜通し軍中を巡回して警戒にあたった。この夜、教経らは義経を襲おうと謀ったが、ついに果たせなかった。(注:源平盛衰記による。平家物語を参照した。片岡経春の名は長門本による。)義経がすでに屋島を破ったのち、義盛に命じて田口成直を誘って降伏させようとした。これより先、成直は宗盛の命を受け、三千騎を率いて伊予に河野通信を破って帰る途中であった。義盛は十数騎を率いてこれに向かったが、いずれも甲冑を身につけず、まず兵卒を旅人に見せかけて先に行かせた。成直は軍勢を率いてこれを見て「そなたはどこから来たのか」と問うと、「屋島から伊予へ向かうところです」と答えた。「屋島では何が起きたのか」と問うと、「九郎判官が大軍を率いて屋島を攻め破り、内府以下の一族の多くが捕虜となりました。桜間大夫は勝浦で捕らえられ、民部大輔は戦い敗れて降伏しました。そのほかの者は戦死するか、あるいは溺死しました。熊野別当や河野四郎もまた水軍を率いてこれに従っております。このほかにも騎兵が四国・九州から続々と集まり、阿波・讃岐の沿岸には兵が雲のごとく満ちており、判官は軍を留めて服さぬ者を討っております。それ以外のことは私も存じません」と答えた。成直はこれを聞いて肝を潰し、嘆いて「我が父の騎兵が敵に降ったというのは、まさか私のせいではあるまいな。しかし道行く者の言葉をたやすく信じるわけにはいかぬ」と言った。琴造宮まで進んで義盛に出会った。義盛は「そなたは田内左衛門ではないか。私は源家の郎党、伊勢三郎である。私はそなたと戦おうというのではない。ある一つのことを直接お伝えしたいのだ」と言った。成直は馬を進めて近づいた。義盛は言った。「我が軍はすでに屋島を破り、内府以下の一族は皆捕虜となった。そなたの父はすでに降伏し、桜間大夫もまた捕らえられ、皆我が陣営に留め置かれている。そなたの父はそなたに一目会いたいと望み、日夜泣きながらそなたのことを語っている。親子の情愛とは、まことにこうしたものであろう。私はそれを聞くに忍びず、そなたに知らせようと思って参った次第だ。戦いたければ戦うがよい、降伏したければ降伏するがよい。もしそなたが再び父に会いたいと願うなら、私がそなたのために父の命乞いをしよう。」成直はこれを聞き、兜を脱ぎ弓を弛めて降伏した。義盛は「すでに降伏した者を、士卒とともに引き連れるのはよろしくない」と言い、その配下を皆解散させ、成直だけを連れて志度へ至った。義経はこれを称賛した。ほどなく成良もまた帰順した。(注:源平盛衰記・平家物語を参照した。)壇ノ浦の戦いでは、義盛は宗盛・清宗を生け捕りにした。(注:源平盛衰記・平家物語による。)義経が宗盛を護送する際、義盛も従って鎌倉へ赴いたが、その途中、後藤基清と従者のことで、危うく争いになりかけた。基清は藤原能保の従者である。能保は義経とともにこれを取りなして解決させたが、頼朝はこれを聞いて怒り、これによって義盛は頼朝に憎まれることとなった。(注:東鑑による。)義経が京師を去ろうとするに及んで、義盛は「臣はここでお別れいたしますが、あなた様が西海に着かれる頃には、必ず追いついてお供いたします」と言い、伊勢へ帰って守護の首藤経俊を襲ったが、勝つことができず、鈴鹿山に逃げ隠れた。経俊が追撃してくると、義盛は自害した。(注:源平盛衰記による。首藤経俊の名は東鑑による。東鑑の文治元年十月二十三日の記事には、山内経俊の従者が伊勢から来て「伊予守(義経)が宣旨と称して近国の兵を催促している」と述べたとあり、十九日には守護所を包囲したとある。これはおそらく義盛が包囲したものであろう。それゆえここに注記しておく。)

佐藤繼信

佐藤継信(さとうつぐのぶ)は三郎と称した。弟の忠信(ただのぶ)は四郎と称した。陸奥の人である。父の元治(もとはる)は信夫荘司であり、湯荘司と称した。(注:東鑑による。元治の名は佐藤系図による。)母は藤原清衡の末子である亘理十郎清綱の娘である。(注:尊卑分脈による。)継信・忠信は鎌田盛政・鎌田光政とともに義経に仕え、四天王と称された。(注:源平盛衰記による。平治物語には、義経が陸奥へ向かおうとして密かに伊豆に至り、頼朝に会って別れを告げた際、頼朝が「信夫小太郎の妻は上野大窪太郎の娘で、年は十三であった。かつて父に従って故殿(義朝)に拝謁したことがあり、父の死後は決して平氏の妻にはならぬと自ら誓い、陸奥へ行って小太郎に嫁ぎ二子をもうけたが、今はすでに寡婦となって尼となっており、かなりの財産を持っている。そなたはそこへ行って頼るがよい」と言い、書状を書いて授けたという。義経はその書状を持って尼に会い、尼は喜んで二人の子を出して会わせた。すなわちこれが継信・忠信であり、そのまま義経に仕えたという。しかし東鑑によれば、信夫荘司は文治五年に戦死しており、当時その妻はまだ寡婦になっていなかったはずである。また義経が伊豆で頼朝に会ったということも、諸々の実録には見当たらない。たとえ義経が実際に頼朝に会っていたとしても、頼朝がどうして勢力の強い秀衡を頼るよう教えず、寡婦や孤児を頼らせるようなことをしようか。よってこの説は採らない。)義経の奏請により、兄弟はともに兵衛尉に任じられた。(注:兵衛尉の任官は八坂本・如白本平家物語による。どちらが左兵衛尉でどちらが右兵衛尉かは詳らかでない。)屋島の戦いにおいて、平教経は強弓と長い矢でしきりに義経を狙い、麾下の勇士たちが馬前に立ちはだかってこれを防いだが、教経は十騎ほどを射殺した。(注:平家物語による。)継信・光政もまたその矢に当たった。教経の従者菊王が進み出て、継信の首を斬ろうとしたが、忠信がこれを射殺し、継信を抱え支えて陣へ帰った。義経が陣営に駆けつけ、継信の首を膝に乗せて「そなたは何か言いたいことがあるか」と尋ねると、継信は「臣は陸奥を出てより、この身をあなた様に捧げて参りました。今日あなた様に代わって命を落とし、その名を後の世に伝えることができるのは、名誉なことではございませんか。ただ心残りは、あなた様が平氏を滅ぼし尽くされるのを見届けられぬことです」と言い、言い終わるとともに息絶えた。時に年二十八であった。(注:年二十八は如白本・八坂本平家物語による。)義経は悲しみ嘆き、僧に命じて継信・光政を牟礼の林の中に葬らせ、自らの愛する名馬を飾り立てて手向けとした。軍中の者は皆これに感じ入って喜んだ。(注:源平盛衰記・平家物語を参照した。)土佐房昌俊が義経を襲った際には、忠信らが力戦してこれを破った。(注:東鑑による。)義経が京師を去って吉野山に隠れたとき、山の僧たちが相談してこれを攻めようとした。義経は窮地に陥り、自害しようとした。忠信は「兄の継信はあなた様に代わって命を落としました。今日は臣もまたあなた様のお名前を名乗って討ち死にいたします。あなた様はこの隙に乗じてお逃げください」と言った。義経はこれを許さなかったが、忠信がしきりに願い出るので、身につけていた甲を脱いでこれに与え、また甲冑をつけた兵十七人を分けて付けさせ、自らは十余人を率いてひそかに逃げ去った。忠信は源判官と偽って名乗り、従う兵とともに矢を放って防ぎ戦い、殺傷する者が頗る多かった。僧兵たちは驚き嘆いて「判官は剣術に優れていると聞いていたが、これほど弓の名手であったとは思いもよらなかった」と言い、あえて近づく者はいなかった。やがて矢が尽き、刀を振るって奮戦したが、従う兵は皆討ち死にした。そこで忠信は大声で「そなたたちは私を判官だと思っているのか。判官はすでに遠くへ去った。私は佐藤忠信である。勇者の死にざまをよく見るがよい」と叫び、自害するふりをして谷を飛び越えて逃げ去った。(注:伊藤本・八坂本平家物語による。)翌年、京師に住んでいたが、かつて情を通じた女にひそかに手紙を送ったところ、その夫がこれを訴え出た。九月、糟谷有季が兵を率いてこれを包囲した。忠信は従者二人とともに飛び出して力戦したが、ついに自害した。(注:東鑑・玉海による。)時に年二十六であった。(注:八坂本平家物語による。)その四年後、頼朝は藤原泰衡を攻めた。泰衡は精鋭の兵をことごとく発して熱借山を守らせた。元治は叔父の河海高経および伊賀良目重高とともに兵を率いて伊達郡石那坂に陣を敷き、堀を穿って阿武隈川の水を引き入れ、弓弩を並べて敵を待ち構えた。やがて藤原為宗らが甲冑を脱ぎ音を潜めて沢原から抜け出て奇襲をかけた。元治は力戦したが支えきれず、ついに親しく信頼する家臣十八人とともに討ち死にした。(注:東鑑による。本書にはまた佐藤荘司を放免して帰したとの記載もあるが、これは一書の中で矛盾しており、おそらくどちらか一方に誤りがあるのだろう。今はこれを考証することができない。)