卷之一百八十四 列傳第一百十一
將軍六
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
足利尊氏
¶足利尊氏(あしかがたかうじ)は、初めの名を高氏(たかうじ)といい(注:『尊卑分脈』による。)、又太郎(またたろう)と称した(注:『太平記』『足利家伝』による。)。下野国(しもつけのくに)の人である。その先祖は源義家(みなもとのよしいえ)に出る。義家は義国(よしくに)を生み、義国の長子義重(よししげ)は新田氏(にったし)となり、次子義康(よしやす)は足利氏となった。義康の子義兼(よしかね)は北条時政(ほうじょうときまさ)の娘を娶り義氏(よしうじ)を生んだ。義氏は泰氏(やすうじ)を生み、泰氏は治部大輔頼氏(よりうじ)を生んだが、これらもまた皆北条氏の出である。頼氏は式部丞家時(いえとき)を生み、家時は讃岐守貞氏(さだうじ)を生んだ。貞氏もまた北条氏の外孫であり、すなわち尊氏の父である(注:『尊卑分脈』による。)。尊氏は元応元年、従五位下(じゅごいのげ)に叙せられ、治部大輔(じぶのたいふ)に任じられた(注:『公卿補任』による。)。元弘元年、帝(みかど)が兵を起こして北条高時(ほうじょうたかとき)を討とうとしたとき、尊氏はちょうど父の喪に服していたが、高時は無理に彼を起用し、笠置(かさぎ)・赤坂(あかさか)を攻めさせた。尊氏はやむを得ずこれに赴き、城が陥落すると帰還した。帝が船上山(せんじょうさん)におられるに及び、高時はさらに尊氏と名越高家(なごえたかいえ)に命じて全軍を率いて西へ向かわせた。尊氏はちょうど病にかかっていたが、高時はしきりにこれを催促した。尊氏は怒って言った、「先に喪に服している最中であったのに、彼らはそれを顧みず、かえって出兵を急がせた。今また病がこのようであるのに、再び逼られている。人を虐げることが何とここまで至るものか」(注:諸種の異本『太平記』および『梅松論』を参照して取り合わせた。『常楽記』によれば尊氏の父貞氏は元弘元年九月に没したことが確かな典拠であり、『梅松論』が尊氏の父の喪を元弘三年のこととし、通行本『太平記』が喪に服したことと病にかかったことを同時の出来事としているのは、いずれも誤りである。)。ここに至って初めて帰順の志を抱いた。そもそも祖父家時と父貞氏は、源氏の嫡流でありながら北条氏に抑えつけられていることを憤り、常に北条氏を滅ぼす計画を持っていたが、ついに果たせなかった(注:『難太平記』による。)。尊氏はこの機に乗じて先人の志を遂げようと思い(注:『梅松論』による。)、そこで病をおして起ち上がり、一族を率いて西へ向かおうとした。高時の老臣長崎円喜(ながさきえんき)はこれを聞き、高時に言った、「足利氏は源氏の宗家であり、今回の出兵に一族を率いて随行させるとは、その意図が測りがたいものです。誓書を書かせ、妻子を人質に取ってはいかがでしょうか」。高時はそこで尊氏に言った、「東国は安定しており、もはや憂うることはないので、あなたは妻子を留め置き、鎌倉に残すのがよかろう。それに足利氏と北条氏は代々水魚の交わりであり、まして君はすでに赤橋相模守(あかばしそうしゅう)と姻戚を結んでいるのに、私がどうして疑いを差し挟もうか。しかし今は禍乱に遭い、人々が互いに疑心暗鬼になっている。どうか誓書を書いて、衆人の心を安んじてほしい」。尊氏は弟の直義(ただよし)にこれを相談すると、直義は言った、「無理強いされた誓いは神も受け入れません。今、大義を掲げて無道の者を討とうとしているのに、小さな義理立てなど気にするに足りません。幼い子は家臣に守らせ、兄嫁は相模守に預けておけば、それもまた心配するには及びません」。尊氏はこれをもっともとし、誓書を高時に送って言った、「軍事は目下切迫しており、どうして妻子を伴って行けましょうか。幼子は今ここに留めますので、万一のことがあれば、どうかお守りいただきたい。根拠のない噂など、どうして信じるに足りましょうか」(注:「軍事」以下は金勝院本による。)。高時は大いに喜んで宴を設け、義家(よしいえ)が用いたという白旗を尊氏へのはなむけとして贈り、鞍・馬・鎧・刀を添えて言った、「この旗はあなたの家に代々伝わる重宝であり、二位禅尼(にいのぜんに)が我が家に伝えたものである。今これをあなたに譲ろう」。尊氏は内心ひそかに喜び、直義および吉良(きら)・上杉(うえすぎ)・仁木(にき)・細川(ほそかわ)・今川(いまがわ)・荒川(あらかわ)の諸族とともに、兵三千を率いて鎌倉を出発し、名越高家より先に京へ到着した(注:『太平記』による。)。翌日、ひそかに海老名季行(えびなすえゆき)を船上山の行在所(あんざいしょ)に遣わし、帰順を願い出た(注:『毛利家本』『天正本太平記』による。)。詔(みことのり)で「賊を平定した暁には、望みどおりに褒賞を与える」との返答があった(注:『光明寺蔵書残篇』による。)。季行には備中井原荘(びっちゅういばらのしょう)が下賜された(注:『天正本太平記』による。『梅松論』には、尊氏が先に人を遣わして綸旨を求め、軍が近江に至ってこれを得たとあるが、どちらが正しいか分からない。)。高家(たかいえ)は後を追ってきたが、その謀略には気づかなかった。当時、左近衛中将源忠顕(みなもとのただあき)と赤松則村(あかまつのりむら)が六波羅(ろくはら)を攻めていた。六波羅の鎮守将である北条仲時(ほうじょうなかとき)と北条時益(ほうじょうときます)は、後伏見(ごふしみ)・花園(はなぞの)の両上皇および光厳院(こうごんいん)を迎え、兵を集めてこれを防いだ。忠顕と則村は男山(おとこやま)・山崎(やまざき)に陣を敷き、高家と尊氏は日時を定めてこれを攻めたが、高家は矢に当たって死んだ(注:『太平記』による。)。尊氏は兵を率いて大原野(おおはらの)に到り、しばらく酒宴を張った。そばに古い寺があり、勝持寺(しょうじじ)と名づけられていた。尊氏は大いに喜んで言った、「我はまさに勝ちてこれを持つのだ」(注:『天正本太平記』による。)。高家が敗死したと聞くと、丹波篠村(たんばささむら)に転じ、八幡廟(はちまんびょう)のかたわらの柳の木に旗を立て、初めて義兵を挙げた(注:『太平記』『梅松論』を参照して取り合わせた。)。本国(下野国)出身の久下時重(くげときしげ)が兵を率いていち早く駆けつけ、その旗印には「一番」の字が書かれていた。尊氏は執事の高師直(こうのもろなお)を呼んでこれを尋ねると、師直は答えた、「昔、右大将(源頼朝)殿が杉山で挙兵された折、その祖先である重光(しげみつ)が諸将に先んじて駆けつけたのをご覧になり、『我もし志を得れば、汝を賞の第一とする』と仰せられ、自らその場で『一番』の字を書いて与えられ、それによって旗に記すようになったのです」。尊氏は喜んで言った、「これは我が家が興隆する兆しである」。これより降伏して従う者が相次ぎ、二万余人を得たので、これを率いて京に入った。出発に際して廟に祈り、矢を一本ずつ供えた。直義以下の将士も皆これにならい、たちまち矢が積もって丘のようになった。進軍しながら降兵を収め、さらに三万人を得た(注:『太平記』による。)。大江山(おおえやま)を過ぎるころ、鳩が旗の上を飛んだ。尊氏はこれを瑞兆(ずいちょう)と考え、その向かう方向にしたがって行軍するよう命じた。神祇官(じんぎかん)の旧跡に至って止まり、そこに陣を敷いた。北条仲時と北条時益は兵二万を発してこれを防ごうとしたが、尊氏はこれと戦って打ち破り、ついに赤松則村・源忠顕と兵を合わせて六波羅を包囲した。賊軍は死守したが、尊氏は細川和氏(ほそかわかずうじ)の献策を用いて包囲の一角をわざと欠き、賊軍はついに多くが出て降伏した。仲時・時益は光厳院を奉じて東国へ逃げようとしたが、途中でいずれも敗死し、六波羅は平定された(注:『太平記』『梅松論』を参照して取り合わせた。)。ただちに使者を船上山に遣わして戦勝を奏上し、天皇の車駕は京に戻り、光厳院は廃された(注:『太平記』による。)。尊氏はその功によって鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)となり、従四位下に進み、左兵衛督(さひょうえのかみ)に任じられ、内昇殿(ないしょうでん)を許された。ほどなく従三位に叙せられ、武蔵守を兼ね、詔によって今の名(尊氏)に改めた。「尊」の字は天皇の御名の偏諱(へんき)であり、寵愛のしるしとして賜ったものである(注:『公卿補任』による。『太平記』は「尊」の字を賜ったのを北条時行(ほうじょうときゆき)討伐の時としているが、ここでは採らない。)。この年、上野太守成良親王(なりよししんのう)が東国管領となって鎌倉に下向し、直義が執権となった(注:『神皇正統記』『太平記』による。この年とするのは『神皇正統記』による。)。
¶建武元年、天皇親政回復の功績を改めて論じ、尊氏を第一とし、武蔵・常陸・下総の守護とした(注:『太平記』による。)。正三位に叙せられ、参議に任じられた(注:『公卿補任』による。)。当時、天下はようやく定まり、政治は朝廷に帰したが、朝臣たちはまさに親政回復の実を上げようとして、にわかに国々の兵馬の制度を改め、ひたすら古式に戻そうとした。武士を大いに抑え退け、中興の功臣を除いては、弓を引く者たちはしばしば職を失った。守護の威令は行われず、いたるところで将軍家の家人が一般の民に落とされた。そのうえ女性を通じての請託が公然と行われ、恩賞の沙汰も乱れていた。義兵を起こした元勲であっても、あるいは叙位録用から漏れる者があり、旧領の安堵を許された者も、まもなくまた取り上げられた。これによって人々の心は憤り怨み、天下の権力が再び武門から出ることを望み、多くが尊氏に期待を寄せるようになった。まさにこの時、文官と武官は互いに憎み合い、内実は水と火のようであった。尊氏はもとより大きな志を抱き、高貴な身分をもって自任し、寵愛と抜擢が急速に集まっても意に満たず、必ず源頼朝ほどの地位を得ようと期していた。常に時勢の隙をうかがい、かねての望みを遂げようと図っていた。直義はそのために策を練ったが、表向きは忠誠を示して朝廷に媚びていたので、帝はこれに気づかなかった。征夷大将軍護良親王(もりよししんのう)は才知武勇にすぐれ器量があり、尊氏の所業を深く憎み、しばしばこれを除くよう願い出た。しかし帝はお聞き入れにならなかった。護良がひそかに兵を集めてこれを図ろうとすると、尊氏は帝の寵姫藤原氏(ふじわらし)に取り入り、護良の謀反を訴えて、その謀反の証拠書を差し出させた。帝はこれを信じ、護良を鎌倉に流し、尊氏の家臣に護送させた。ここにおいて尊氏の奸計はますます甚だしくなった(注:『太平記』『梅松論』を参照して取り合わせた。)。建武二年、北条時行(ほうじょうときゆき)が乱を起こして鎌倉を攻めると、直義は戦って勝てず、人を遣わして護良親王を殺害させ、成良親王(なりよししんのう)を奉じて西へ逃れた。時行の兵勢は日に日に盛んになった(注:『太平記』による。二年とするのは『元弘日記裏書』による。)。尊氏は自ら討伐に赴くことを願い出て、詔によってこれが許された。さらに征夷将軍への任官と東国の管領を願い出た(注:『神皇正統記』による。東国の管領を願い出たことは『太平記』による。)が、朝廷はこれを聞き入れず、改めて征東将軍(せいとうしょうぐん)に任じた(注:『尊卑分脈』『吉野事書案』による。『神皇正統記』『保暦間記』が「征東」を「征夷」としているのは誤りである。)。尊氏は怒り、暇乞いもせずに出発した(注:『太平記』には、帝が使者を遣わして時行討伐を命じると、尊氏はそこで奏上して、「元弘の乱では、臣が真っ先に義兵を挙げ、将士は心を寄せ、天下統一を成し遂げましたが、その功は少なくありません。古来、征夷将軍は源氏・平氏が代わる代わるその任を受けてきました。どうかこの職を汚させていただきたい。上は朝廷を輔け、下は私の栄誉といたします。また乱を治めるには速やかな賞与に勝るものはありません。もし奏上の後に施行を待つとすれば、道は遠く、士卒は失望するでしょう。伏してお願いいたしますのは、臣に関東八州の管領をお任せいただき、便宜に従って事を行わせていただくことです。この二つがお聞き入れいただけないのであれば、臣はあえて東征をお断りいたします」と述べたところ、帝はそこで管領を許し、かつ勅して「征夷大将軍については賊を平定するのを待って許すべし」とされたとあるが、この説はおそらく誤りである。)。こうして職を失った武士たちは朝廷を怨み、一斉に奮い立って尊氏になびき従った(注:『梅松論』による。)。軍が矢矧(やはぎ)に到ると直義の軍と合流して進み、北条時行は兵を遣わして橋本(はしもと)で防がせたが、尊氏はこれを撃破した。転戦して相模鑽(さがみのきる)に至り、またこれを大いに破った。時行の兵はついに逃げ潰え、尊氏は進んで鎌倉に入った(注:『梅松論』『太平記』による。)。帝は遠く従二位を授け(注:『公卿補任』による。)、さらに蔵人頭源具光(みなもとのともみつ)を遣わして労をねぎらい、かつ軍を京へ引き上げるよう促した。尊氏は詔に従おうとしたが、直義が強くこれに反対したので、尊氏はそれに従った。そこで源頼朝の旧跡によって、政庁を開き設けた(注:『梅松論』による。『保暦間記』を参照した。)。自ら征夷将軍東国管領と署名し、功のあった者を抜擢して賞し、降伏し帰順した者を受け入れて安んじたので、人々は自ら力を尽くそうと思った。北条氏の残党でさえも、心を傾けて争って帰服した。当時、新田義貞(にったよしさだ)もまた源氏の嫡流であり、一族の声望は尊氏と互角であって、ともに中興の功臣であった。尊氏はもとより異心を抱いており、常にその功績を妨げ、深くこれを忌み嫌っていた。ここに至って、関東八か国の地に盤拠し、精兵数万を擁して勢いはとりわけ強大となり、自ら思うには、「この機に乗じて義貞を除けば、その勢いは朝廷を制圧するに十分であり、天下のことは掌中に運ぶことができ、かねての志を成し遂げられるだろう」と。さらに帝が自分を助けて義貞を討ってくれることを望み、上書してその罪状を列挙した。そして新田氏が東国に持つ領地をことごとく奪い取り、部下に分け与えた。直義はひそかに四方に書状を送り、兵士を招き集めた(注:『太平記』による。)。こうして諸国では党派が分かれ、親しい者も昔なじみの者も互いに疑い目で見合うようになった。朝廷に志を残す者は関東を捨てて西へ上り、尊氏に意を通じる者は都を離れて馳せ参じ、往来は入り乱れ、道は織物のようであった(注:『梅松論』による。)。公卿たちはしばしば尊氏の謀反の様子を奏上し、帝は僧恵鎮(えちん)に詔して、鎌倉に赴いて旨を諭し、かつその情勢を探らせようとした。まだ出発しないうちに、細川和氏が尊氏の書状を持って到着した。その大略は次のようであった。「元弘の初め、東国の賊臣は朝廷の憲法を蔑ろにし、国家を覆そうとしました。臣尊氏は不肖の身をもかえりみず、軍を起こして王事に勤め、士卒は義に応じる誠を励まし、賊は戈を倒す心を抱いて、瞬く間に勝利を得て、賊を畿外に追い払いました。義貞朝臣は租税を滞納した咎めから、ほしいままに鎌倉の使者を殺害し、自らその罪の大きさを知って逃げ場がなく、やむを得ず兵を挙げました。臣がすでに京師を平定したと聞くと、初めて賊討伐を名目としました。三戦して勝てず、退いて守りを固めようとしたのです。臣の子義詮(よしあきら)が幼くして下野で兵を挙げ、威勢が遠近に振るったことに頼って、義貞はその軍勢を借りて賊を破ることができました。この戦いは彼の地で行われたとはいえ、功績は実は我にあります。義貞はそれなのにあえて上は聖聴を蔽い、みだりに爵位や恩賞を求めており、世の残賊、国の害悪と言うべき者です。臣は今、残りの賊を平定すべく、久しく東国征伐に苦しんでいます。しかし朝廷にいる佞臣は義貞に阿り従い、讒言と誹謗が交々沸き起こっています。陛下がこれをお察しにならなければ、いわゆる趙高(ちょうこう)が内で権力を振るい、章邯(しょうかん)が楚に降った故事のようなことが、今日にも起こりましょう。そもそも乱の兆しをまだ表れないうちに消し止めることこそ、朝廷が務めるべきことです。伏してお願いいたしますのは、天の御心をもって下々をご覧いただき、速やかに詔許を賜り、逆賊を誅滅して四海を安んじられますように」。義貞もまた上書し、尊氏が直義に命じて護良親王を殺害させた事実を訴えた。南海道・西海道の諸国もまた、尊氏が挙兵を促す書状を差し出した(注:『太平記』による。)。そこで詔によって尊氏の身にある官位爵位が剥奪された(注:『公卿補任』による。)。義貞を遣わして尊良親王(たかよししんのう)を奉じさせ、尊氏を討たせた。東海道・東山道の両道から並び進んだ。直義は諸将とともに武装して尊氏に会い、兵を発して迎え撃つよう願い出た。尊氏はしばらく黙っていたが、やがて徐(おもむろ)に直義たちに言った、「我は源氏の宗家でありながら、承久の乱以来、北条氏に抑えつけられてきた。今日ようやく二位の位を得(注:「二品」は『公卿補任』による。本書では「三位」としている。)、方面軍の総帥という職を忝くしている。わずかな功によるものとはいえ、これもまた帝の恩であり、道義としてこれに背くわけにはいかない。今回譴責を受けたのは、まさに親王を殺害したことと兵を招集したことが理由である。しかしこの二つはいずれも我のしたことではない。事情を申し立てて訴え、疑いが解けることを願うのみだ。もし聞き入れられなければ、そのときは髪を剃って世を遁れ、罪のないことを自ら明らかにするまでのことだ。お前たちはよく身の振り方を考えるがよい。我はあえて王師に弓を引くつもりはない」。言い終わらぬうちに、色をなして立ち上がった。直義たちは互いに顔を見合わせ驚き惑ったが、諸将はひそかに直義と謀り、兵を発して迎え撃ったものの利あらず、直義も続いて出陣し、越河原(こしがわら)で戦って大敗した(注:『梅松論』には、尊氏は義貞の来攻を聞き、高師泰(こうのもろやす)に矢矧でこれを防がせたが、師泰は戦って利を得られず、また直義にこれを救援させたが敗れ、箱根に退いて陣を敷いたとあるが、どちらが正しいか分からない。)。官軍は追って伊豆府(いずのふ)に至った。尊氏は諸将が兵を発したと聞き、自らが謀反人の汚名を受けることを嫌い、軍事を直義に任せて建長寺(けんちょうじ)に逃げ込んだ(注:『梅松論』は浄光明寺(じょうこうみょうじ)としている。)。髻(もとどり)を切って僧になろうとしたが、側近の諫めによって思いとどまった。まだ剃髪しないうちに、直義たちが敗軍から戻ってくると、府の門はすべて閉ざされており、しばらく扉を叩いていると、須賀公能(すがきみよし)一人だけが出迎え、事の次第を詳しく告げた。上杉重能(うえすぎしげよし)は直義と謀り、諸道に下す綸旨と偽って文をつくり、「参議足利尊氏、左馬頭足利直義は、ほしいままに武威を誇り、朝廷を軽んじ蔑ろにした。よって六軍に命じて急ぎ出動させ、反逆の臣を征伐する。尊氏兄弟がたとえ仏門に身を投じ、山林に姿をくらませようとも、至るところで徹底的に討伐し、厳しく捕縛して朝廷の憲法を正すべし。逃げ延びさせてはならない」と記し、これを数十通書き写して建長寺まで持参し、尊氏に見せて言った、「これは手越(てごし)の戦いで捕獲したものです。上(かみ)の御意向はこの通りであり、あなたが仏門に逃れたとしても、逃れられないでしょう。どうか家門存続の方策をお考えください」。尊氏は奮然として立ち上がり、「生きるも死ぬもお前たちと共にする」と言った。そこで僧衣を脱ぎ、錦の直垂(ひたたれ)を着て姿を現した。軍勢は大いに喜び、皆が髻を切って尊氏と同じ姿をし、官軍に見分けがつかないようにした。逃亡していた兵士たちはこれを聞いて争って戻り、一日のうちに三十万と号するほどになった(注:『太平記』による。『梅松論』には、尊氏は東海道の軍が敗れたと聞き、諸将に「もし直義を死なせれば、我一人生き残ってもまた何になろうか。朝命に背くようなことは我が本意ではない。天が必ずそれを知っているはずだ」と言い、そこで兵を率いて戦いに赴いたとあるが、どちらが正しいか分からない。)。直義は先発して箱根山(はこねやま)へ向かった。尊氏は「兵を合わせて迎え撃てば、かろうじて支えることはできようが、大勝はできまい」と考え、別に険しい道を通って、まっすぐ竹下(たけした)に出た(注:『梅松論』による。)。足利高経(あしかがたかつね)らが先鋒となり、尊良親王の前軍を撃ってこれを退け、脇屋義助(わきやよしすけ)がさらに進んで奮戦した(注:『太平記』による。)が、結城某(ゆうきぼう)の部下七百余人が戦死した(注:『天正本太平記』による。)。折しも大友貞載(おおともさだとし)、塩冶高貞(えんやたかさだ)が来降し、これによって挟み撃ちにし、大いにこれを破った。義助は西へ逃走し、箱根の官軍はこれを聞くと皆夜のうちに潰走した。尊氏は義詮に鎌倉を留守させ、自らは直義とともに官軍の後を追って西へ上った(注:『太平記』による。)。
¶延元元年正月、近江(おうみ)に至り、伊岐洲城(いきすじょう)を攻め陥落させた(注:『太平記』による。)。官軍は要衝に立てこもり、橋を撤去して水柵を設けた。尊氏は諸軍を分けて派遣し、勢多(せた)・芋洗(いもあらい)を攻めさせ、自らは軍を率いて大渡(おおわたり)に向かい、義貞と川を隔てて対陣したが、進撃するたびに溺死する者が数百千人に及んだ。折しも細川定禅(ほそかわじょうぜん)が四国の兵を招集し、赤松範資(あかまつのりすけ)とともに進んで山崎を攻め、脇屋義助の軍を撃破し(注:『太平記』『梅松論』を参照して取り合わせた。)、長駆して京師に入った。義貞および各方面の官軍は皆潰走し、天皇の車駕を奉じて延暦寺(えんりゃくじ)に立てこもった。定禅らは火を放って宮殿を焼き、尊氏は諸軍を総べて京師に入った(注:『太平記』による。)。藤原公賢(ふじわらのきんかた)の邸に居を構えた(注:『梅松論』による。)。園城寺(おんじょうじ)と延暦寺は元来仲が悪く、尊氏は園城寺に書状を送り、僧徒を招き寄せ、摩耶(まや)戒壇の設置をもって誘惑した。僧徒は喜んで従った。尊氏はそこで細川定禅らを遣わし、園城寺に拠らせて行在所に迫らせた。鎮守府将軍北畠顕家(きたばたけあきいえ)が大軍を率いて援軍に入ると、定禅はしきりに増援を求めたが、尊氏はこれを許さなかった。まもなく顕家・義貞は定禅を攻め、これを大いに破った。尊氏は砂塵を望み見て言った、「園城寺が敗れたのだから、急ぎ救援を送るべきだ」。自ら三条河原(さんじょうがわら)に出て、将士を配置したが、義貞は敗走する敵を追ってすでに京師に入り、軍を分けて東山の麓に陣を敷き、ひそかに兵に園城寺の敗残兵の姿をさせて尊氏の麾下に紛れ込ませた。尊氏はこれに気づかず、これもまた大きく陣を布いて待ち、諸将に言った、「義貞は野戦を好む。今、山に拠って下りてこないのは、思うにその兵が必ず少ないからだろう」。高師泰に将軍塚(しょうぐんづか)の陣を攻めさせたが、かえって敗れてしまった。尊氏は義貞と数十合戦った。義貞が遣わした伏兵が突如左右から起こると、麾下は狼狽し、ついに大敗して西へ逃走した。官軍は勢いに乗って急追した。桂川(かつらがわ)に至るころには、尊氏は窮まって自殺しようとするほどであったが、たまたま日が暮れて追兵が引き返したため、かろうじて難を免れた。その夜のうちに、定禅が義貞を襲い破ってこれを敗走させ、尊氏は再び京師に入った。数日過ごすと、官軍は道を分けて攻め寄せた。足利高経および宇都宮公綱(うつのみやきんつな)らを遣わしてこれを防がせ、自らは源顕家と四条河原(しじょうがわら)で戦った。義貞の兵が三方から掩い襲うと、尊氏は大敗した。義貞は道を分けてこれを追った。里見(さとみ)・鳥山(とりやま)の一族二十六騎が本隊を離れて孤軍で進んだところ、尊氏の兵は桂川に取って返して戦い、これを殲滅した。夕暮れになって官軍が兵を引き揚げると、尊氏はまた京師に入った(注:『梅松論』が園城寺の敗戦以下に記す内容は『太平記』と大きく異なる。おそらく『梅松論』は尊氏の家臣の記したものであり、すべて信じることはできない。ここでは本書〔『太平記』〕による。)。翌日、楠正成(くすのきまさしげ)が間者(かんじゃ)を遣わして「義貞らは桂川で戦死した」と言わせた。尊氏はこれを信じ、敗残の敵が逃げるのを阻もうとして、兵を諸方面に分けて派遣したため、麾下は手薄になった。官軍はその隙をうかがい、火を放って急襲した。尊氏は大敗し、ついに丹波(たんば)に逃走した。敗残の兵が兵庫(ひょうご)に集まり、尊氏を迎えて再び京師を攻めようとしていると聞き、そこで赴いてこれに合流した(注:『太平記』による。)。赤松則村は「この地は地形が不利であるので、摩耶城(まやじょう)に入って立てこもるべきです」と言った。諸将の中には「これはただ自分の身を保つだけの策にすぎません。今、天下は二つに分かれ、彼我が対立しています。将軍がひとたび城に籠れば、諸国は失望するでしょう。官軍はその勢いに乗じてくるので、従うべきではありません」と言う者もいた。尊氏はそこで思いとどまった(注:『梅松論』による。)。折しも顕家・義貞が兵を率いて攻め来たので、直義は豊島河原(てしまがわら)で防ぎ戦ったが、利あらずであった。翌日、大友貞宗(おおともさだむね)、厚東宗西(こうとうそうさい)、大内弘世(おおうちひろよ)が戦艦五百余艘を率いて駆けつけ、直義がこれを率いて湊川(みなとがわ)で戦ったが、また敗れた(注:『太平記』による。)。まもなく尊氏は兵を進めて瀬川(せがわ)に至り、細川利氏(ほそかわとしうじ)らが貞宗らを率いて義貞と戦ったが、勝てなかった。則村は尊氏に説いて言った、「西へ行って九州の兵を頼み、再び京師を奪回すべきです」(注:『梅松論』による。)。貞宗もまた「我が船三百余艘を西行の資(たすけ)といたしましょう」と言った。尊氏はこれに従い、あわただしく海に船出したが、士卒は舟を争って互いに押しのけ合い、溺死する者二千人ほどにのぼり、鎧や馬はことごとく捨てられた(注:『太平記』による。)。播磨室津(はりまむろつ)に至り、軍を駐めて謀議した。ある者が「官軍は必ずや我らを追ってくるでしょうから、諸将を分け遣わし、国々に拠らせて備えるべきです」と言うと、尊氏は「よかろう」と言った(注:『梅松論』による。『太平記』にも同様の記述がある。)。そこで佐竹義敦(さたけよしあつ)を関東に、仁木頼章(にきよりあきら)を丹波に、細川和氏・細川定禅らを讃岐に、上杉憲顕(うえすぎのりあき)を石見に、今川範国(いまがわのりくに)を備中桃井に、小早川氏(こばやかわし)を安芸に、大内弘世を周防に、厚東宗西を長門に、石橋和義(いしばしかずよし)を備前に遣わし、赤松則村を播磨に留め、いずれも機をうかがって共に挙兵させることとした(注:諸種の異本『太平記』および『梅松論』を参照して取り合わせた。)。尊氏は直義とともに、わずかに手元の兵五百人ほどを率い(注:『太平記』による。)、赤間関(あかまがせき)に至ると、少弐頼尚(しょうによりひさ)が精鋭五百を率いて来会した。筑前芦屋(ちくぜんあしや)に至ると(注:『梅松論』による。)、宗像大宮司宗像政弼(むなかたまさすけ)が出迎えて館に泊め(注:『太平記』による。)、鎧や馬を提供したので、これによって軍勢はようやく落ち着きを取り戻した。菊池武敏(きくちたけとし)が兵数万をもって攻め来ると、諸将は尊氏と直義がともに進撃するよう勧めた。尊氏は言った、「我らが九州に至って、初めて敵と交戦するのだ。我ら二人が一斉に進んで、もし少しでもつまずくことがあれば、全軍が皆滅びてしまう。それよりも軍の後方に留まり、先鋒に頼るところがあるようにするのがよい。もし利あらずとなれば、そのとき徐(おもむろ)に麾下を率いて駆けつけても遅くはない」。まず直義を遣わして防がせ、多々良浜(たたらはま)で大戦した。直義の兵士は鎧や武具が十分でなく、徒歩で戦いに赴いた。皆が必死の覚悟を抱き、一人で百人に当たらぬ者はなかった。武敏は敗れて退いたが、直義が追って博多(はかた)に至ると、武敏は取って返して鋭く戦い、尊氏はそこで兵を指揮して前進し、武敏を大いに破った(注:『梅松論』による。)。松浦(まつら)・神田(こうだ)氏は尊氏の軍を望み見て、数万の大軍が到着したものと思い、旗を伏せて降伏してきた。武敏は肥後(ひご)へ逃げ帰り、菊池城(きくちじょう)に立てこもったので、一色頼行(いっしきよりゆき)・仁木義長(にきよしなが)にこれを攻め落とさせた。武敏は逃げ隠れ、さらに八代城(やつしろじょう)を攻め落とすと、九州は風になびくように降伏し従った。この時、仁木頼章は久下(くげ)・長沢(ながさわ)・荻野(おぎの)・波々(はば)・伯部(はかせ)の諸族を誘い、丹波高山寺城(こうざんじじょう)に拠った。赤松則村は播磨白旗城(しらはたじょう)に拠った。石橋和義は備前で挙兵し、甲斐河(かいがわ)・三石(みついし)の二城を築いた。田井(たい)・飽浦(あくら)・松(まつ)・田頓宮(たとのみや)の諸族がこれに従った。こうして美作(みまさか)・備中(びっちゅう)の土豪たちが一斉に蜂起し、ことごとく尊氏に応じた。帝は新田義貞に詔して西方を討たせ、義貞は大軍を率いて白旗城を包囲し、兵を分けて諸道に出し、奈義能仙(なぎのせん)・菩提寺(ぼだいじ)・三石城を攻めた(注:『太平記』による。)。尊氏が太宰府(だざいふ)に留まって月を越すと、人々の中には「勢いに乗じて急ぎ京師に入るべきだ」と言う者もあれば、「秋の実りを待つべきだ」と言う者もあり、議論はまとまらなかった(注:『梅松論』による。)。折しも赤松則村がその子則祐(そくゆう)を太宰府に遣わし、速やかに京師へ向かうよう勧めた(注:『太平記』による。)。石橋和義の使者もまた到着して急を告げたので、尊氏はそこで一色頼行・仁木義長に九州を守らせ(注:『太平記』は義長および大友・少弐を留めたとするが、本書〔太平記の別本〕に少弐が尊氏に従って京師に至ったとあるのが最も詳しく確かなので、これに従う。)、急ぎ太宰府を出発し、長門府(ながとのふ)に至って船を検分した。そもそも寿永(じゅえい)年間、源義経(みなもとのよしつね)は長門串崎(ながとくしざき)の舟十二艘をもって、壇ノ浦(だんのうら)で平氏を破り、そのため舟を出した水軍の家に命じて、永く課役を免除した。尊氏はこれを吉兆と考え、守護厚東宗西に命じてその舟をことごとく発進させた(注:『梅松論』による。)。厳島(いつくしま)に到ると、三日にわたって祈祷し祭った。そもそも尊氏が京師を陥落させたとき、後伏見帝(ごふしみてい)の子孫を擁立して帝にしようと謀ったが、皇子たちは皆行幸に従って延暦寺に入ってしまい、果たせなかった(注:『太平記』による。)。兵庫で敗れて逃走するに及び、赤松則村もまたこのことを進言した(注:『梅松論』による。)。当時、熊野別当道有(くまのべっとうどうゆう)〔注:『天正本太平記』は「道」を「通」に作る。〕が軍中に従っており、もとより藤原資名(ふじわらのすけな)と知り合いであった。尊氏は道有に「我が軍はしばしば敗れ、それによって王師に抗っている。我は持明院(じみょういん)上皇の院宣を請い、両統に国を争わせようと思う」と言った。そこで道有を遣わし、資名を通じてこれを請わせた。道有は承諾して去った(注:本書には持明院上皇を後伏見帝としている箇所があるが誤りであり、ここで訂正する。)。ここに至って三宝院(さんぼういん)の僧賢俊(けんしゅん)が持明院の廃帝(はいてい)〔光厳院〕の書状を持って到着した(注:『梅松論』には、尊氏が筑紫へ逃れる際、備後鞆津(びんごとものつ)で院宣を得たとあり、『保暦間記』には、筑紫に到着してからこれを得たとあるが、どちらが正しいか分からない。)。尊氏は喜んで「我が事は成った」と言った(注:『太平記』による。)。そこで日輪を貼りつけた錦の旗を作らせた。これによって四国・西国の兵士が大挙して集まり、軍勢はますます盛んになった。尊氏は少弐頼尚の議に従い、水軍七千艘を率い、直義は歩兵騎兵二十万を率いて、水陸並び進んだ。直義は進んで福山城(ふくやまじょう)を陥落させ、義貞は三石(みついし)・白旗(しらはた)の包囲を解いて兵庫に退いて陣を敷いた。尊氏・直義は進んで兵庫に至り、錦の旗は日に輝き、鉦や太鼓の音は大地を震わせた(注:『太平記』『梅松論』を参照して取り合わせた。)。脇屋義助は経島(きょうがしま)に陣を敷き、楠正成は湊川に屯した。義貞は兵二万五千を率いて和田岬(わだのみさき)に陣を布き、細川定禅の兵二百余人は、まず義助と戦って悉く討ち死にした。定禅はさらに水軍数百艘を率い、岸沿いに紺辺浜(こんべはま)へ向かった。義貞・義助は陣を空にして、舟を追って東へ向かった。尊氏の兵はそこで一斉に船を下り、和田岬に登った。直義はすでに湊川で正成を攻め破っていたので、そこで軍を合わせ、義貞と生田森(いくたのもり)で大戦してこれを破った。義貞は逃げて京師に戻り、天皇の車駕を奉じて延暦寺に行幸させ、法皇〔光厳院〕と持明院の廃帝に行在所に来るよう促した(注:『太平記』による。)。持明院の廃帝は病と称して行かなかった(注:『皇年代略記』『太平記』による。)。尊氏は進んで男山(おとこやま)に陣を敷き(注:『梅松論』による。)、法皇と持明院の廃帝を迎え、これを奉じて東寺(とうじ)に拠った(注:諸種の異本『太平記』による。)。公卿たちも次第に集まってきた。尊氏は吉良・石塔(いしどう)・渋川(しぶかわ)・畠山(はたけやま)氏を東坂本(ひがしさかもと)から、仁木・細川・今川・荒川氏を無動寺(むどうじ)から、高(こう)・南部(なんぶ)・巌松(いわまつ)・桃井(もものい)氏を西坂本から進ませ、延暦寺を攻めさせた。官軍はこれを防ぎ撃って破り、諸軍は大潰乱して互いに踏みつけ合い、死者は千を数えた。高師重(こうのもろしげ)が捕らえられ、官軍は勝ちに乗じて攻め寄せたので、尊氏は弱い兵を出しておびき寄せた。官軍が追って京師に入ると、そこで大軍を出動させ、街路を塞ぎふさぎ、縦横に攻撃して五百余人を殺した。官軍はさらに東西から東寺を挟撃しようと謀った。尊氏はその計略を探知し、そこで軍を三つに分け、一陣を東山七条河原に、一陣を船岡山(ふなおかやま)の麓に敷き、もう一陣を遊軍として西八条(にしはちじょう)に配置した。官軍は果たして大挙し、火を放って攻め寄せた。尊氏の諸軍は合わせて撃ち、これを大いに破った。このとき帝は延暦寺に詔し、興福寺(こうふくじ)に諜(しめ)し合わせて官軍を援けさせた。興福寺はこれに応じた。こうして近畿の兵の多くが立って官軍に属し、水陸の糧道を断った。尊氏の軍は大いに困窮し、初めのうちはまだ鎧や馬を売って食料に充てていたが、やがて長引いて賄いきれなくなり、そこで兵をほしいままに四方に放って食物を略奪し、衣服を剥ぎ取らせた。京師の住民はたびたび戦火に見舞われ、すでに生業を失った上にさらに残虐な仕打ちに遭い、しばしば物乞いに身を落とし、飢えて路上に倒れ伏した。公卿でさえも飢えと渇きにさすらうことを免れず、戦乱による惨状は極まった(注:『太平記』による。)。官軍はさらに阿弥陀峰(あみだがみね)・今比叡(いまびえい)に出兵し、盛んに炬火(たいまつ)を列ねて、攻め寄せようとした。尊氏は細川定禅、今川範国を遣わしてこれを撃退させた(注:『太平記』『梅松論』を参照して取り合わせた。範国のことは『難太平記』による。)。義貞はさらに諸軍と示し合わせ、日を定めて尊氏を攻め、火を挙げて合図とすることにした。折しも北白河(きたしらかわ)の民家が失火した(注:『金勝院本』には、尊氏が挙火の合図を偵知し、そのために民家を焼いたとある。)。権中納言藤原隆資(ふじわらのたかすけ)はこれを望み見て、そのまま真っすぐに進み、東寺の南門を攻めたが、高師直が迎え撃ってこれを破ると、隆資は勝ちに乗じて急に矢倉に迫った。このとき兵は皆外に出払っており、残っていたのは老人と弱者ばかりで、驚き怖れてどうしてよいか分からなかった。しかし尊氏は仏経を誦じ、少しも怖れる様子がなかった。折しも土岐頼直(ときよりなお)が変事を聞いて馳せつけ、羅城門(らじょうもん)の外で大いに戦った。師直もまた到着し、ともに奮撃してこれを退けた。まもなく義貞がまっすぐ東寺に迫り、尊氏と一騎打ちで決戦しようと申し入れた。尊氏は「我は国家を傾け覆そうとしているのではなく、ただ義貞を除きたいだけだ。単身での決戦は、まことに我の願うところである。速やかに門を開け、我はまさに出よう」と言ったが、上杉重能が強く諫めて思いとどまらせた。土岐頼遠(ときよりとお)らが義貞の背後に出て、これを幾重にも包囲した。義貞は包囲を突破して脱出した。尊氏は持明院の廃帝を再びその位に復そうとしたが、人々は「この主はかつて北条高時によって擁立された。一年も経たぬうちに、天下が乱れ覆り、北条氏は滅んだ。この方を立てるのは不吉である」と言った(注:『太平記』による。)。そこでその弟豊仁親王(とよひとしんのう)を奉じて帝とし、これが光明院(こうみょういん)であり、年号は建武を用いることとした(注:『皇年代略記』『公卿補任』による。)。民間ではこれを評して、「君王は幸運なことよ、自ら一戦も交えぬのに、将軍から王位を賜るとは」と語り合った。これより先、興福寺が官軍を援けていたので、尊氏は所領を与えてこれを誘った。ここにおいて興福寺は尊氏方に寝返った。そこで足利高経を遣わし、兵をもって北陸道を扼(おさ)えさせた(注:『太平記』による。)。小笠原貞宗(おがさわらさだむね)は甲斐・信濃の兵を率いて近江野路(おうみのじ)に屯し(注:『梅松論』による。)、官軍の兵糧輸送を妨げた。延暦寺の僧徒がしばしば来て争ったが、貞宗はこれを撃退した。尊氏は佐々木高氏(ささきたかうじ)を近江に遠く遣わし、高氏は三上(みかみ)に屯したが、脇屋義助が来て戦うと、高氏はこれを撃退した。官軍は内には食糧が乏しく、外への攻撃も利あらず、勢いは孤立し援軍も絶え、飢えと困窮はますます甚だしくなった。尊氏はひそかに使者を遣わし、僧忠円(ちゅうえん)に頼んで偽って降伏を乞わせ、誓いの文を作って奏上させて言った、「臣は先に讒言によって陥れられ、身に譴責を蒙りました。臣はすぐにも髪を剃って出家し、謹んで明らかな誅罰を待つつもりでおりました。しかし新田義貞兄弟は天の威光を借りて、私怨を果たそうと謀っております。臣はやむを得ず兵を挙げたのであり、あえて上に悖り逆らう心を抱いたわけではございません。まさに奸臣を誅して将来を懲らしめようとするだけです。伏してお願いいたしますのは、宸襟(しんきん)をもって臣に罪のないことをお察しいただき、鑾輿(らんよ)を都にお戻しいただき、皇統を万代にお伝えいただくことです。行幸に従ったすべての臣について、臣はあえて再び恨みを問おうとは思いません。その官位や領地は、すべて元通りに戻します。天下の政治はすべて朝廷にお任せいたします」。帝はこれをお許しになった。尊氏は大いに喜んで、「誰が君王を聡明だと言ったのか、すでに我が計略の中に陥っている」と言った。さらに行幸に従った諸将に書状を送って招き慰めた。冬、義貞は皇太子を奉じて北へ越前に逃れ、天皇の車駕は京に戻って法勝寺(ほっしょうじ)に到った。尊氏は直義に命じて出迎えさせ、ついに帝を華山院(かざんいん)に幽閉し、行幸に従った公卿の官位爵位をことごとく奪い、将士を捕らえて縛り、三種の神器を新帝に伝えるよう求めた。帝はそこで偽の神器をお授けになった。さらに帝の詔を偽って、足利高経・仁木頼章らを遣わし、金崎城(かねがさきじょう)に義貞を攻めさせた。まもなく、帝は夜に乗じて華山院を脱出し、吉野(よしの)に行幸された。京師は騒然となった(注:『太平記』による。)。諸将が馳せ参じると、尊氏は言った、「先ごろ帝が華山院にいらっしゃると聞き、諸将に代わる代わる警護をさせたのは、まことに煩わしいことであった。しかしもし先例に倣って海島にお遷ししたならば、それもまた安んじられることではない。我は甚だこれを憂えている。今、帝が自ら出られたことは、案外にも悪いことではないかもしれない。ただその御所在に応じて、追々これに対する方策を講じるまでのことだ」。これによって人々の心はようやく安らいだ(注:『梅松論』による。)。この年、光明院は尊氏を権大納言(ごんだいなごん)に任じた(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)。建武二年〔延元・暦応の並立期〕、足利高経は金崎城を陥落させ、皇太子を捕らえて京師に送った。尊氏はこれを幽閉した。義貞は杣山城(そまやまじょう)に入り、北国を経略したので、兵勢はまた盛んになった。尊氏は高経に命じてこれを攻めさせた。冬、源顕家は北条時行・新田義興(にったよしおき)とともに鎌倉を攻め、義詮は敗走した。三年、土岐頼遠・桃井直常(もものいただつね)らは源顕家と青野原(あおのがはら)で戦い、大敗した。尊氏は大いに驚き、高師泰・高師冬(こうのもろふゆ)・細川頼春(ほそかわよりはる)、佐々木氏頼(ささきうじより)、佐々木高氏らに命じて一万余人を率いて援軍とさせた。頼遠らは顕家の後を追って黒地(くろぢ)に至り、前後から挟み撃ちにした。顕家は道を伊勢に転じ、師泰は追って雲出川(くもずがわ)で戦ったが勝てなかった(注:「頼遠夾撃」以下は『難太平記』による。)。顕家は奈良に入り、直常および弟直信(なおのぶ)を急ぎ遣わしてこれを撃たせたが、またも勝てなかった。このとき義貞は越前府城(えちぜんふじょう)を攻め落とし、高経は大敗して足羽(あすわ)に逃げて立てこもった。そもそも高経が皇太子を捕らえたとき、義貞・義助の所在を誘い問うたところ、皇太子は「皆自害いたしました」と偽って答えたため、これによって杣山への攻撃が緩んでいた。ここに至って、尊氏は初めて欺かれたことを知り、直義と謀って、毒薬を進めて皇太子および成良親王を弑逆した。源顕家はしばしば和泉(いずみ)に出兵し、弟顕信(あきのぶ)に男山を守らせた。尊氏は高師直を遣わしてこれを攻めさせ、師直は兵を分けて男山を包囲し、自らは兵士を率いて顕家と安倍野(あべの)で戦った。顕家は敗死し、男山はほどなく陥落した。高経と義貞は互いに対峙すること久しく、義貞は矢に当たって死に、その首は京師に送られた。こうして諸国の官軍の勢いは日に日に衰え、将士は相次いで降伏してきた(注:『太平記』による。)。光明院は尊氏に正一位を授け、征夷大将軍に任じた(注:『公卿補任』『天正本太平記』による。通行本『太平記』が征夷大将軍に任じられたのを建武四年のこととしているのは誤りである。)。暦応四年、高経は義助と越前で戦い、敗れた。尊氏は高師治(こうのもろはる)、土岐頼遠、佐々木氏頼、塩冶高貞らの諸将を遣わして援けさせた。折しも高師直が高貞の妻を欲したことがもとで、高貞は出雲(いずも)へ逃れたので、山名時氏(やまなときうじ)およびその子師義(もろよし)を遣わしてこれを追い殺させた。高経と師治らはついに杣山城を攻め落とし、北国の諸城をことごとく奪取した。義助は根尾城(ねおじょう)に逃れたが、土岐頼遠がこれを攻め落とした。この年、後醍醐帝(ごだいごてい)が崩御され、後村上帝(ごむらかみてい)が即位し、遺詔を発して尊氏討伐を命じられた(注:『太平記』による。)。
¶興国六年、児島高徳(こじまたかのり)が備前で挙兵し、荻野朝忠(おぎのともただ)が丹波で兵を挙げると、尊氏は山名時氏にこれを攻めさせた。朝忠は降伏し、高徳は脇屋義治(わきやよしはる)を擁してひそかに京師に入った。尊氏は所司代都筑宥俊(つづきひろとし)〔注:「宥俊」は『金勝院本』による。〕を遣わし、兵を率いてこれを捕らえさせた。義治らは信濃(しなの)へ逃走した。正平二年、楠正行(くすのきまさつら)は摂津(せっつ)に出兵し、京師をうかがった。細川顕氏(ほそかわあきうじ)らを遣わしてこれを防がせたが、誉田林(こんだのはやし)で戦って敗れた。山名時氏を遣わして援けさせたが、瓜生野(うりゅうの)で戦い、また大敗した。さらに高師直・高師泰を遣わし、精兵数万を率いて赴かせた。翌年春、師直らは正行と四条畷(しじょうなわて)で大戦し、正行は敗死した。師直らは進んで吉野に迫り、帝は賀名生(あのう)に行幸され、師直は行宮(あんぐう)を焼いて引き返した。師泰は進んで楠正儀(くすのきまさのり)と石川(いしかわ)で対峙した。夏、紀伊(きい)で官軍が挙兵すると、尊氏は子の直冬(ただふゆ)を遣わしてこれを撃たせた。この年、光明院は皇太子興仁(おきひと)に譲位し、これが崇光院(すこういん)である。正平四年夏、直冬を備後(びんご)に遣わし、中国探題(たんだい)とした。直義は上杉重能・畠山直宗(はたけやまなおむね)と謀って高師直を殺害しようとしたが、事が漏れ、師直は怒って師泰を石川から呼び戻し、直義を攻めようとし、諸将の多くがこれに応じた。尊氏は大いに驚き、使者を遣わして直義に「師直兄弟は奢侈にふけり驕り悖(もと)り、もはや君臣の礼をわきまえず、変事は測り難い。急ぎ来て共に安危を分かち合うべきだ」と伝えさせた。直義はただちに出てこれに赴いたが、従っていた兵は途中で逃げ去り、宗清(むねきよ)・信近(のぶちか)ら手元に残った者はわずか千人ほどであった。翌日、師直・師泰は兵を率いて幾重にも取り囲んだ。尊氏は怒り、須賀清秀(すがきよひで)に師直を責めさせて言った、「お前は代々我が家の家臣である。今、恩を忘れ義に背き、ほしいままに兵を挙げるとは、事にかこつけて我が家を奪おうとするつもりか。そうでなければ、速やかに兵を退き、退いて訴えを申し立てるべきだ」。師直は答えて言った、「臣に他意はなく、ただ讒言をなす臣を捕らえたいだけです」。軍を指揮してなおも進めようとしたので、尊氏はますます怒り、自ら出撃しようとした。直義が強く諫めて、師直の要求を聞き入れるよう説いたので、尊氏はこれに従った。師直は包囲を解いて退き、尊氏はそこで直義を罷免し、義詮を京師に召し入れて軍政を掌らせ、重能・直宗を越前に流した。師直はこれを迫って殺させ、さらに直冬が備後にいることを忌み嫌い、ひそかに備後の兵士に命じてこれを殺させようとした。直冬は逃れて肥後に至った。正平五年、三角某(みすみぼう)がこれに応じ、直冬は石見(いわみ)で挙兵した。尊氏は師直・師泰を遣わしてこれを攻めさせた(注:『太平記』による。)。このとき土岐頼明(ときよりあき)が美濃(みの)で尊氏に叛いたので、尊氏は師直と義詮を呼び戻し、共にこれを討ち平らげた(注:『園太暦』『祇園執行日記』『天正本太平記』による。)。直冬の勢力は次第に強大となった。冬、尊氏は高師直らの騎兵八千を率いてこれを討ちに向かった。その夜のうちに、直義はひそかに脱出して逃亡した(注:『太平記』による。)。師直は留まってこれを捜索するよう求めたが、尊氏は聞き入れずに出発し(注:『園太暦』による。『祇園執行日記』を参照した。)、備前福岡(ふくおか)に軍を駐め、諸国の兵を催促した。折しも直義が帰順し、京師の奪還を謀っていると聞き、急ぎ兵を引き返した。正平六年、春に直義は男山に拠り、桃井直常は延暦寺に拠って、義詮を攻めようとした。義詮は京師を捨てて逃走した。直常が京師に入ると、尊氏は西の郊外で義詮に出会い、軍を分けて直常を攻めこれを敗走させた。さらに北白川(きたしらかわ)で迎え撃ち、再びこれを破った。尊氏は京師に入った。この夜、将士の多くが直義に降伏した。翌日、尊氏は師直とともに西へ逃走した。書写山(しょしゃざん)に至ると、師泰が三角(みすみ)の包囲を解いて到着した。直義は石塔頼房(いしどうよりふさ)を遣わして攻めさせ、尊氏は自ら兵を率いてこれを撃ったが利あらず、直義はさらに畠山国清(はたけやまくにきよ)、上杉義依(うえすぎよしより)を遣わして頼房を援けさせたので、尊氏は御影浜(みかげはま)で迎え撃ったが大敗し、狼狽して松岡城(まつおかじょう)に逃げ込んだ。夜になって師直を呼び、「兵の数はどれほど残っているか」と尋ねると、師直は「現在の兵は五百、その他は皆逃げ去りました」と答えた。尊氏は嘆いて「我が事は終わった」と言い、そこで甲(よろい)を脱いで座り込んだ。諸将も居並び、共に自害しようとした。折しも饗場氏直(あえばうじなお)が城の東門を叩き、大声で「和議はまとまりました。皆様、軽々しく命を捨てなさいますな」と呼ばわり、まっすぐに入って尊氏に会い、「将軍は臣が死んだものとお思いでしょうか。臣は軍勢の士気が沮喪しているのを見て、ひそかに国清の陣営に赴き和議を講じてまいりました。国清が申しますには、錦小路殿(にしきこうじどの、直義)は高兄弟の不義を懲らしめようとしておられますが、必ず誅殺しようという意図はないとのことです。かつ臣が国清に賜った書状を拝見いたしましたところ、情義の深く厚いことが言葉の端々に見えておりました。将軍、お疑いになりませんように」と言った。尊氏は喜んだ。そこで諸将を率いて京師に戻ったが、師直・師泰は道中で殺害された。直義は男山から、義詮は丹波から、それぞれ兵を退いて京に戻った(注:『太平記』による。氏直の名は『園太暦』による。)。そこで義詮を罷免し、再び直義に政務を掌らせた(注:『園太暦』による。)。しかし尊氏と直義は表向きは和解したものの、内実は穏やかならぬものがあった。まもなく仁木頼章、細川頼春(ほそかわよりはる)、土岐頼康(ときよりやす)、佐々木高氏と、石塔頼房、桃井直常らは、互いに猜疑し合い、それぞれ疑いと恐れを抱いた。こうして根拠のない噂が沸き立ち、争いの端緒が再び起こった。頼章・頼春らはそれぞれ自分の領国に逃げ帰り、直義はこれを聞いてやはり越前へ逃れ、将士の多くがこれに従った。義詮はかえって襲われることを恐れ、これに備えるよう願い出た。尊氏は「運は天にあり」と言って、平然と落ち着いていた。秋、崇光院の命を奉じて直義を討つべく、兵二百余を率いて近江鏡駅(かがみのえき)に至った。佐々木高氏および子の秀綱(ひでつな)、仁木義長、土岐頼康らが、それぞれ兵を率いて来会した(注:『太平記』による。)。直義の将である細川顕氏、畠山国清、桃井直常と八相山(はっそうやま)で戦い、これを破った。国清・顕氏は直義に講和を勧めたが応じなかったので、そこで配下の軍勢を率いて降伏してきた。直義は鎌倉へ逃走した。尊氏はそこで京師に戻ったが、再び自ら赴いて直義を討とうと謀った。しかし京師が手薄になり、官軍に襲われることを恐れ、しばしば使者を吉野に遣わし、崇光院の廃位を願い出て天皇の車駕を京へ迎えようとしたが、帝はこれをお許しにならなかった(注:『太平記』による。)。当時、赤松則祐(あかまつそくゆう)が吉野にいた。尊氏はまた則祐を通じて降伏を願い出た。帝は偽ってこれをお許しになり(注:『園太暦』による。)、直義討伐の詔書を賜った(注:『太平記』『寺長者補任』による。)。尊氏はそこで義詮に京師を留守させ、自ら諸将を率いて出発した。駿河(するが)に到ると、近隣の郡から兵を催促した。当時、東北の諸国はすでに多くが直義に属しており、わずかに兵三千を集められただけであった。進んで薩埵山(さったやま)に屯すると、宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)が下野で挙兵し、これを声援した。直義は兵十万を率いて伊豆府(いずのふ)に陣を敷き、上杉憲顕二十万〔注:『天正本太平記』は十万に作る。〕、石塔義房(いしどうよしふさ)十万〔注:『天正本太平記』は五万に作る。〕を遣わして、尊氏を薩埵山に包囲させた。桃井直常が氏綱を防いだが、氏綱は連戦して皆勝ち、進んで古宇津(こうづ)に至った。憲顕・義房は潰走した。仁木義長が追って伊豆府に至ると、直義は伊豆山(いずさん)に逃げ隠れた。尊氏は畠山国清、仁木頼章らを遣わし、書状を送ってこれを招き寄せた。正平七年春、尊氏は鎌倉に入り、直義を幽閉し、まもなく毒殺した。これより先、新田義興、新田義宗(にったよしむね)、脇屋義治が上野(こうずけ)・武蔵(むさし)で挙兵していた。諸将は兵力の多寡から敵しがたいとして、まず安房(あわ)・上総(かずさ)へ赴き、諸国の兵を招いてから撃つよう願い出た。尊氏は「敵を避けてから後に勝ちを制するというのは、千に一つあるかないかだ。今ひとたび鎌倉を去れば、坂東はことごとく敵の手に落ちるだろう。まずこちらから先んじて敵を制するに越したことはない」と言い、子の基氏(もとうじ)を鎌倉の守りに残し、自らは五百騎を率いて出撃した。久米川(くめがわ)に至るころには、集まった兵はほとんど一万に及んだ。これを五隊に分け、義興らと金井原(かないがはら)で大戦し、死傷者は互角であった。饗場氏直は児玉党(こだまとう)と戦って大敗し、尊氏の中軍に逃げ込んだ。諸軍は乱れ敗れ、義宗に乗じられて石浜(いしはま)まで逃げた。尊氏は自殺しようとしたが、親衛の兵二十余騎が防ぎ戦って戦死した。折しも日が暮れ、義宗もまた退いたので、尊氏は水を渡って難を免れた。仁木頼章、仁木義長は、義興・義治と戦ってこれを破った。義興・義治はまた敗残の兵を集め、転じて鎌倉を攻めた。基氏は敗走した。このとき義宗は笛吹峠(ふえふきとうげ)に屯していた。尊氏は「まず義宗を破れば、義興らは自ずと崩れるだろう」と考え、そこで兵を率いて笛吹峠に赴き、義宗と小手指原(こてさしがはら)で遭遇し、数十合の激戦を交えた。義宗は越後(えちご)へ逃走し、兵士はことごとく尊氏に降伏した。義興・義治は果たして逃げ去り、尊氏は鎌倉に入った。正平八年夏、山名時氏が官軍に帰順し、京師で義詮を攻めた。義詮は後光厳院(ごこうごんいん)を奉じて美濃へ逃れた。尊氏は基氏を鎌倉に留めて関東管領とし、自らは諸軍を率いて西へ向かった(注:『太平記』による。本書は尊氏の入京を翌年春のこととしているが、ここでは『園太暦』『異本太平記』『歴代皇紀』『皇年代略記』『続神皇正統記』に従う。)。鏡駅で義詮と落ち合い(注:『園太暦』による。)、ともに後光厳院を奉じて京師に入った(注:『園太暦』『続神皇正統記』による。)。仁木頼章を執事とした。正平九年、これより先、直冬は帰順し、山名時氏とともに詔を奉じて尊氏討伐に向かった。足利高経、桃井直常は北国の兵を率いてこれに応じ、兵勢は甚だ盛んであった。尊氏は義詮に播磨斑鳩駅(はりまいかるがのえき)に屯させ、時氏に備えさせた。冬、直冬・時氏らは進んで丹波に至った。尊氏は京師の兵が少なく守りきれないと考え、そこで後光厳院を奉じて、近江武佐寺(むさでら)に逃れて立てこもった(注:この年のこととするのは『歴代皇紀』による。)。正平十年春、直冬らは京師に入った。仁木義長、土岐頼康、佐々木氏頼らは兵を率いて武佐寺で尊氏に合流し、そこで義詮と日を定めて、東西から京師を挟撃し、神南(かんなん)で山名時氏を破った。尊氏は東山に、仁木頼章は嵐山に、義詮は山崎に屯し、諸方の道を塞いだ。直冬らは糧道と援軍が絶たれ、尊氏が諸将を遣わして急襲すると、直冬らはついに敗走した(注:『太平記』による。)。尊氏は後光厳院を迎えて京師に入った(注:『園太暦』による。)。正平十三年四月、尊氏は癰(よう、悪性の腫れ物)を患って薨去した。享年五十四(注:『公卿補任』『太平記』による。『長楽記』は五十九としている。)。法号は等持院(とうじいん)、また長寿院(ちょうじゅいん)とも称した(注:『足利家伝』による。)。法名は仁山妙義(にんざんみょうぎ)(注:『園太暦』による。)。後光厳院は従一位左大臣を贈った(注:『公卿補任』『太平記』による。)。長禄(ちょうろく)の初め、太政大臣を追贈された(注:『尊卑分脈』『足利家伝』による。)。妻の平登子(たいらのとうこ)は赤橋久時(あかばしひさとき)の娘で、これもかつて従一位を追贈された(注:『尊卑分脈』による。)。
¶尊氏は器量が広く大きく、その計略は遠大であった。事に臨んでは緩慢で間に合わないかのようでありながら、実は段取りはすでに明らかで、あらかじめ組み立てが敷かれており、時に権謀術数を用いても、その真意を窺わせなかった。人を用いるにあたっては疑わず、金銀財宝を土や石のように見なしていた。かつて八朔(はっさく)の祝いに際し、将士が献上した品物は巨万にのぼったが、その場ですべて分け与えて残さず散じてしまった。かつて筑紫から帰る途中、新田義貞が白旗城の包囲を解いたため、赤松則村がそこに残されていた旗百余流を持って室津に到着した。尊氏はそれを見て、旧部下の旗印が多く含まれているのに気づいて「この者たちは一時的に難を避けただけであろう。おそらく日を置かずしてまた来るだろう」と言ったが、後に果たしてその言葉のとおりになった。尊氏は常々源頼朝の治績を慕い、口を開けば必ずこれを引き合いに出した。かつて直義および高師直に語って言った、「昔、右大将(頼朝)は伊豆にあって、心を砕き計略をめぐらすこと、およそ二十年に及んだ。平氏の罪悪が満ち満ちるに及んで、初めて兵を挙げ義を唱えた。前後五年にして四方を平定した。その信賞必罰のあり方は、人心を畏れ服させるものであり、今に至るまで美談として伝えられている。しかしその刑罰の運用は苛烈で、猜疑心が強く、果断に人を殺戮した。肉親でさえ非業の死を免れなかったのは、遺憾とすべきことである。我はそうではない。仮に降伏し従う者があれば、深い恨みのある大敵であろうとも問わず、その領地を移すことなく、もとのままに安堵する。まして功のある臣においては、必ず手厚い禄と褒賞をもって報いるつもりだ。お前たちは我を輔けて政治を行うにあたり、この心構えをよく体得してほしい」(注:『梅松論』による。)。僧の是円(ぜえん)・玄慧(げんね)に命じて、十七条から成る法令を定めさせ、これを建武式目(けんむしきもく)と呼んだ(注:『建武式目』による。)。当初、順逆に背いて兵を挙げたため、人心が服さないことを恐れ、表向きは光明院を尊び、事あるごとに必ず伺いを立てていた。しかし志を遂げるに及ぶと、もはや憚るところがなくなり、その主君を無用の飾り物のように見なし、廃立はすべて自分の手によって成し遂げられた。天下の国々において、神社の封戸(ふこ)であろうと公卿の食邑(しょくゆう)であろうと構わず、強引に奪い取って独り占めにし、ことごとく配下の将佐に分け与え、五十分の一を租税として賦課し、軍事の費用に充てた。その主君への供御(くご)でさえ、時には欠乏しても顧みなかった。一族で高位高官に列する者は、およそ四十三人に及び、守護や吏務に就く者は数え切れないほどであった。由緒ある名家の公家たちも、その侵害と侮りを受け、かえってその従僕にまで媚びへつらう始末であった。衛府(えふ)や北面の武士に至るまで、こぞって坂東(ばんどう)の衣服や言葉遣いを学び、それによって侮り笑われるのを免れようとした。兵乱が起こって以来、前後二十余年、京師は争戦の場となった。宮門や殿舎はことごとく焼き尽くされた。飢饉と疫病が相次ぎ、盗賊が横行し、死者は重なり合うほどであった。しかし尊氏の将士は、日々闘茶(とうちゃ)や賭博・酒宴にふけり、こぞって贅沢と華美を競い合った。銭や絹、器物や玩具は、ことごとく歌舞の女や芸人に散じ与えられた。一度の遊興にかかる費用は、褒賞にも値しないほど莫大であった。四方から徴発を行い、百姓から搾り取った。冤罪の訴訟が頻発し、賄賂が公然と行われ、上も下も疲弊した。ついには父子兄弟が日々戈を交えるに至り、天下は騒然として、二度と安穏な年を迎えることはなかった。興国の初め、京師や諸国で大疫病が流行し、災異がしきりに現れた。尊氏・直義は平然としてこれを眺め、「これは天災であって、人の力で救えるものではない」と言った(注:『太平記』による。)。僧夢窓疎石(むそうそせき)は初め禅教をもって尊氏・直義に崇め信じられていたが(注:『太平記』『梅松論』『禅林諸祖伝』による。)、その力を借りて寺を創建しようと謀った。天災の機会に乗じて、こう説いた、「近ごろしばしば夢に、吉野の先帝(後醍醐帝)が金の龍に乗って大堰川(おおいがわ)を渡られるのを見ますが、それと時を同じくして異変が現れております。これは思うにその祟りでございましょう。どうか寺を建てて冥福を薦め、その怒りをお慰めください」。尊氏はこれを信じ、そこで安芸(あき)・周防(すおう)に課税し、二国の租税を用いて、亀山殿(かめやまどの)の旧跡に寺を創建した。さらに人を遣わして財宝を携えさせ、元(げん)との交易に赴かせ、多くの巨材や珍しい品物を得た(注:この六字は『善隣国宝記』による。)。そして交易によって得た利益もまた数倍にのぼり、ことごとく費用に充てた。およそ六年を経て、正平元年に至り、ようやく完成した。経費は巨万を累ね、天龍寺(てんりゅうじ)と名づけ、僧千人を置いて、疎石にこれを主宰させた。光明院に親臨してこれを祝うよう請い、勅願寺(ちょくがんじ)に准ずることとした。光明院はすべてこれをお許しになった。延暦寺の僧徒は、禅教が盛んになることが天台の教えにとって不利であるとして、「天龍寺を廃し、疎石を遠く追放せよ。もしこの言葉が聞き入れられなければ、神輿(しんよ)を奉じて京に入るであろう」と請うた。尊氏・直義は怒って言った、「寺を建て仏法を崇めることは、上下ともに仏に帰依することである。おおよそ僧衣をまとい頭を丸めた者であれば、随喜すべきことだ。かつこの寺は我らが建てたものであり、お前たちに何の関わりがあろうか。もし神輿を奉じて至るのならば、兵を差し向けてこれを防ぐまでのことだ。あるいは神輿を道端に打ち捨てられたならば、京にいる山門の徒の資財を没収して、それで寺を改築するまでのことだ」。僧徒は激怒し、この件を興福寺(こうふくじ)・平泉(ひらいずみ)諸大寺に牒(ちょう)し、必ずその要求を遂げようと謀った。大臣の藤原氏(ふじわらし)もまた光明院に願い出てその要求を許させたので、勅願寺に准ずるという命令は取りやめとなった。そこで尊氏・直義はそれぞれ八葉車(はちようのくるま)に乗り(注:「八葉車」は『園太暦』および二階堂道本(にかいどうどうほん)『天龍寺供養記』による。本書には尊氏が八葉車に、直義が小八葉車(しょうはちようのくるま)に乗ったとあるが、西源院本(さいげんいんぼん)は尊氏が小八葉車に乗ったとしている。)、一族や将士を率いて赴きこれを祝った。翌日、花園・光厳の二上皇も同じく参詣された。法会の盛大さは、近古いまだかつてなかったほどであった(注:『太平記』による。)。また、かつて文をつくって後醍醐帝を祭り、帝の恩を極めて述べ、その悲哀の情を言葉にした(注:『金沢称名寺所蔵尊氏祭後醍醐帝文』による。)。
¶子には直冬、竹若丸(たけわかまる)、義詮、基氏、聖王(しょうおう)〔注:「聖王」は『常楽記』による。〕がいた。竹若丸は幼くして叔父の僧良遍(りょうへん)に従い伊豆山に住んでいた。尊氏が帰順した際、良遍はひそかに竹若丸を連れて京師へ向かったが、途中で北条高時の兵に殺害された(注:『太平記』による。『名僧略伝』は南禅寺の僧海寿(かいじゅ)を尊氏の子としているが、他に考証すべき典拠がないので採らない。)。聖王は興国六年、七歳で夭折した。光明院はこれがために七日間朝政を廃した(注:『園太暦』による。)。直冬・義詮・基氏には、それぞれ別に伝がある。