卷之一百卅七 列傳第六十四

藤原利仁、藤原忠文、小野好古、紀淑人ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次9
  1. 藤原利仁
  2. 藤原忠文
  3. 小野好古
  4. 紀淑人
  5. 源經基
  6. 源滿政
  7. 平貞盛
  8. 藤原秀鄉
  9. 藤原為憲

藤原利仁

藤原利仁(ふじわらのとしひと)は、左大臣魚名(うおな)の六世の孫である。祖父の高房(たかふさ)は越前守を務めた。父の時長(ときなが)は民部卿・鎮守府将軍であった。時長は越前の人・秦豊国(はたのとよくに)の娘を娶り、利仁が生まれた。(注:『尊卑分脈』による。)越前国敦賀(つるが)に有仁(ありひと)という者がおり、(注:姓は伝わっていない。)資産が非常に豊かであった。利仁はその娘婿となり、そのままそこに住み着いた。(注:『今昔物語』による。)利仁は沈着勇敢で謀略に富み、(注:『鞍馬寺縁起』による。)身のこなしは飛ぶように敏捷であった。(注:『尊卑分脈』による。)兵法に通じ、将帥としての器量を備えていた。(注:『鞍馬寺縁起』による。)若くして都に上り、摂関家に仕えた。(注:『今昔物語』による。)延喜年間には上野介・上総介・武蔵守を歴任し、鎮守府将軍に任じられ、位は従四位下に至った。(注:『尊卑分脈』による。)

下野国高座山(たかくらやま)の賊、蔵宗(ぞうそう)・蔵女(ぞうにょ)らが千余人を集め、貢調(こうちょう)の物資を略奪していた。朝廷では勇将を選んでこれを討たせようと議論し、皆が利仁を推したので、利仁に討伐を命じた。利仁は高座山の麓まで進んだが、折しも真夏で暑さが激しかったにもかかわらず、士卒に橇(そり)を多く作らせた。兵たちはその意図が分からなかった。夜になって一人の兵卒を呼び、「今夜は雪が降るだろうか」と尋ねると、「いいえ、これほど晴れているのにどうして雪が降りましょうか」と答えた。利仁は大いに怒ってこの兵卒を斬り殺した。しばらくしてまた別の兵卒を呼び、同じように尋ねた。その兵卒は恐れて、偽って「雪が降ります」と答えた。利仁は大いに喜んだ。果たして夜半に大雪が降り、明け方にやんだ。利仁は士卒に橇に乗って攻め進ませた。賊は飢えと寒さで再び戦うことができず、利仁が兵を放って奮い撃たせ、これを大いに打ち破った。斬った首、捕らえた者が多く、これによって利仁の威勢は大いに振るった。(注:以上『鞍馬寺縁起』による。○『東鑑』によれば、文治五年(1189年)、源頼朝が藤原泰衡を征伐した帰路、陸奥の田谷窟(たやのいわや)を通ったが、これはかつて将軍坂上田村麻呂と利仁らがそれぞれ勅命を奉じて蝦夷を征討した際、賊将・悪路王(あくろおう)および赤頭(あかがしら)が砦を構えた窟であるという。『義経記』にも、利仁が賊の首領・赤頭を誅したとある。これによれば利仁は鎮守府在任中に蝦夷の俘囚の叛乱があり、これを誅したということであろう。しかし実録その他の諸書には見えないため、本文には記さない。また『今昔物語』によれば、文徳天皇の御代、新羅が命に叛いたため、朝廷は利仁に討伐を命じた。利仁は命を聞いて奮い立ち、兵を整え船を用意して出発しようとしたが、山崎に至って急に病を得、天を仰いで踊り上がり、剣を抜いて虚空を斬ること数回に及び、ついに倒れて死んだという。『古事談』では文徳朝を宇多朝としているが、いずれも利仁の経歴と符合しないため採らない。○浦木按ずるに、田村麻呂と利仁は実は別人である。俗説がこの二人を混同しているのは、いわゆる「田村説話」によるものである。この事は『田村草子』『鈴鹿草子』などの諸書や謡曲に見える。)

利仁の子には、象為(しょうい)・公統(こうとう)・与善(よぜん)・叙用(のぶもち)らがいた。象為は下野守となり、鎮守府将軍に任じられて中将軍と号した。公統は内舎人となった。与善は越後介となった。叙用は斎宮寮頭(さいぐうりょうのかみ)に任じられ、その職名により世に斎藤(さいとう)と称された。叙用の子の吉信(よしのぶ)、孫の忠頼(ただより)は、共に加賀介となった。その一族は加賀国で繁栄し、加賀斎藤氏と称された。富樫(とがし)・林(はやし)などの諸氏は、みなその子孫である。大束(だいそく)は越前権守となり、久紀(ひさのり)は壱岐守となった。(注:以上『尊卑分脈』による。)

藤原忠文

藤原忠文(ふじわらのただふみ)は、左大臣緒嗣(おつぐ)の曾孫である。父の枝良(えだよし)は陽成・光孝・宇多・醍醐の四代の天皇に仕え、功労を重ねて従四位上参議に至った。忠文は延喜・延長年間に修理少進・左馬頭・左衛門権佐を歴任し、右近衛少将となり春宮大進を兼ね、播磨介・讃岐介に任じられ、摂津守・丹波守に転じ、従四位下に叙せられた。承平年間には大和守となり修理大夫に任じられ、功を重ねて正四位下に進んだ。天慶二年(939年)、参議に任じられた。(注:『公卿補任』による。)平将門(たいらのまさかど)の反乱に際して右衛門督に任じられ、征東大将軍を拝命した。(注:『日本紀略』『公卿補任』による。○『公卿補任』では「征夷」とするが、ここでは『日本紀略』に従う。)忠文はちょうど食事の最中に任命を聞き、箸を投げ出して出立した。節刀(せっとう)を賜り、自邸に戻ることなく出発した。(注:『東鑑』による。)弟の刑部大輔・忠舒(ただのぶ)、右京亮・藤原国幹(くにもと)、大監物・平清基(たいらのきよもと)、および源経基(みなもとのつねもと)らがこれに従った。(注:『扶桑略記』『古事談』による。○弟については『尊卑分脈』による。)しかし道中で将門が誅殺されたと聞き、引き返した。(注:『十訓抄』による。)特に忠舒と下総権少掾・平公連(たいらのきみつら)を下総に遣わし、残党を捜索させたところ、賊徒は逃げ隠れた。(注:『将門記』による。)まもなく備前守を兼任した。(注:『公卿補任』による。)

藤原純友(ふじわらのすみとも)が大宰府を襲うと、忠文は再び征西大将軍を拝命したが、純友が誅殺されたため出征には至らなかった。(注:『日本紀略』による。)民部卿を兼任した。(注:『日本紀略』『公卿補任』による。)天暦元年(947年)、紀伊権守を兼任した。(注:『公卿補任』による。)まもなく七十五歳で没した。(注:『日本紀略』『公卿補任』による。)中納言正三位を贈られた。(注:『公卿補任』による。)

忠文は近衛府に勤めていた頃、規律を守って怠ることがなく、宿直のたびに馬寮(めりょう)の馬を寝床の傍らに繋ぎ、馬が秣(まぐさ)を噛む音で眠りを覚まし、不測の事態に備えた。(注:『古事談』『十訓抄』による。)天皇が貢馬をご覧になった際、二頭の馬が噛み合って誰も制止できなかったが、当時馬寮頭であった忠文がまっすぐ進み出て手綱を執り、これを引き分けたので、見る者は皆感服した。天皇はかつて忠文に昇殿を許そうとしたが、忠文は固く辞退してこれを止めた。晩年、上表して致仕(ちし、辞職)を願い出たが、朝廷はその勤勉ぶりを惜しみ、丁重な詔をもって許さなかった。(注:『外記日記』『公卿補任』による。)忠文は生来暑さを苦手とし、宇治(うじ)に別荘を構え、毎年盛夏になるとそこに赴いて過ごした。世に宇治民部卿と称された。(注:『扶桑略記』『今昔物語』『公卿補任』による。)

はじめ将門が誅殺された際、諸将は等しく恩賞を受けたが、忠文もまた自ら上奏して自身の功労を訴え、朝廷はこれを公卿の議に付した。大納言藤原実頼(さねより)は「忠文の軍勢が到着する前に、賊はすでに誅伏されていた。功がないのだから賞するには及ばない」と述べた。中納言藤原師輔(もろすけ)は「勅命を奉じて討伐に赴いたのだから、労がなかったとは言えない。昔から『賞は疑わしきをば重きに従う』という。忠文一人だけを除外してはならない」と述べた。実頼は「功がないのに賞を与えるのは、いわゆる濫賞(らんしょう)である」と反論し、朝廷はついにその議に従った。(注:『古事談』『十訓抄』『源平盛衰記』を参考にした。)忠文はこれによって深く実頼を恨んだ。(注:『古事談』『十訓抄』による。)忠文の死後、実頼の娘で女御(にょうご)の述子(じゅっし)、および息子の左近衛少将・敦敏(あつとし)が相次いで早世した。世間はこれを忠文の祟りとみなし、忠文を悪霊民部卿と称した。(注:『帝王編年記』による。)

忠文は鷹狩りを好み、重明親王(しげあきらしんのう)がわざわざその別荘を訪れ、鷹を一羽譲ってほしいと頼んだことがあった。親王が帰路でその鷹を幾度か試してみたが、いたって凡庸な鷹であった。親王は帰る途中で改めて別の鷹を求めた。忠文はそこで一羽の鷹を腕に据えて差し出し、「本来はこれを献上するつもりでしたが、お気に召さないのではと案じておりました。どうかお試しください」と言った。親王が道中で鳥を見つけてその鷹を放つと、鷹はまっすぐ雲間に飛び込んでいった。世間ではこの鷹について、五十丈(じょう)以内で鳥に出会えば必ず撃ち、扱う者が凡庸だと知れば飛び去ってしまうのだと言い、人々は忠文の鑑識眼の確かさを称えた。(注:『江談抄』『今昔物語』による。)子の滋望(しげもち)は従五位上備前守となった。(注:『尊卑分脈』による。)

小野好古

小野好古(おののよしふる)は、大宰大弐・葛絃(くずお)の子である。(注:『公卿補任』による。)生まれつき勇武の性質であった。(注:『大槐秘抄』による。)延喜・延長年間に讃岐権掾・春宮権少進・右京亮・大蔵少輔・中宮大進・右衛門権佐を歴任した。承平年間に昇殿を許され、従五位上に叙せられ、備前権介・中宮権亮を兼任し、右近衛少将に任じられた。天慶の初め、正五位下に叙せられ、近江権介を兼任した。(注:『公卿補任』による。)

藤原純友(ふじわらのすみとも)が反乱を起こすと、好古は山陽道追捕使に任じられ、(注:『日本紀略』『扶桑略記』による。)南海道追捕使も兼任した。(注:『日本紀略』『外記日記』による。)大宰権少弐・源経基(みなもとのつねもと)、右衛門尉・藤原慶幸(よしゆき)、右衛門志・大蔵春実(おおくらのはるざね)らがその指揮下に入った。戦艦二百余艘を造り、まっすぐ伊予(いよ)に向かった。これより先、賊は讃岐介・藤原国風(くにかぜ)に打ち破られ、大宰府に逃げ込んでその管内を略奪していた。(注:『扶桑略記』による。)好古は早馬でその状況を朝廷に奏上した。(注:『日本紀略』による。)そこで好古は兵を二手に分け、自らは精鋭を率いて陸路を進み、慶幸と春実は海路を進んで、筑前博多津(はかたのつ)で合流した。賊は陣を並べて待ち構え、幾度も戦いを交えた。春実は肌脱ぎになり髪を振り乱して短刀を執り、大声を上げて陣に突入し、多くの首級を挙げた。賊は退いたが、さらに船に乗って逆襲してきた。官軍は勝ちに乗じて船を奪い、火を放ってこれを攻めたので、賊は大敗した。死傷者は数百人に上り、溺死する者も甚だ多く、戦艦八百余艘を得た。純友は一艘の小舟で逃げ延びたが、まもなく捕らえられ、残党もことごとく平定された。(注:『扶桑略記』による。)好古には遠く離れた地にいながら従四位下が授けられた。(注:『公卿補任』による。)まもなく軍を引き揚げた。(注:『日本紀略』による。)左中弁に任じられ、備前守・山城守を兼任した。大宰大弐に任じられたが、赴任はしなかった。天暦の初め、参議に任じられ、讃岐権守・備中権守を兼任した。天徳年間に累進して正四位下となり、弾正大弼・左大弁を兼任し、再び大宰大弐に任じられた。応和二年(962年)、従三位に叙せられた。康保四年(967年)、致仕した。安和元年(968年)、八十五歳で薨去した。(注:『公卿補任』による。)

紀淑人

紀淑人(きのよしひと)は、中納言・紀長谷雄(きのはせお)の次男である。(注:『紀氏系図』『古今和歌集目録』による。)延喜・延長年間に蔵人・左近衛将監・右兵衛佐・左衛門権佐を歴任した。承平年間に河内守となり、(注:『古今和歌集目録』による。)累進して従四位下に至った。(注:『紀氏系図』による。)承平六年(936年)、南海に賊が起こり、数千人の党を集めて千余艘の船に乗り、海上を横行して商船を略奪した。(注:『扶桑略記』による。)朝廷は勅命により淑人を伊予守に任じ、(注:『日本紀略』『古今和歌集目録』による。○『扶桑略記』では伊予大介とする。)海賊を追捕させた。賊徒は淑人の寛大さを聞き、その評判を慕って帰順した。首領の小野氏彦(うじひこ)・紀秋茂津(あきもつ)・時成(ときなり)ら三十余人が、二千五百余人を率いて降伏してきた。淑人は衣服と食糧を与え、田畑を分け与えて農耕に帰らせたので、海辺は平穏になった。(注:『扶桑略記』『日本紀略』による。)天慶の初め、藤原純友が反乱を起こそうとした際、淑人は繰り返しこれを諭したが、純友は聞き入れず、ついに反乱を起こして誅殺された。(注:『外記日記』による。)天慶六年(943年)、丹波守に転じた。天暦の初め、河内守に任じられ、まもなく没した。(注:『古今和歌集目録』『作者部類』による。)

源經基

源経基(みなもとのつねもと)は、貞純親王(さだずみしんのう)の長男である。親王は清和天皇の第六皇子であったため、世に経基は六孫王(ろくそんのう)と称された。後に源朝臣(みなもとのあそん)の姓を賜った。武略に優れ、弓馬に長じ、和歌も巧みであった。(注:『尊卑分脈』による。)承平年間に武蔵介となった。(注:『日本紀略』『将門記』による。)平将門(たいらのまさかど)が異心を抱いていることを予知し、(注:『日本紀略』『今昔物語』による。)密かに都に上ってこれを奏上したが、朝廷は疑って取り上げなかった。まもなく将門は果たして反乱を起こした。(注:『今昔物語』による。)そこで経基の先見が評価され、従五位下を授けられた。(注:『日本紀略』による。)藤原忠文(ふじわらのただふみ)に従って将門討伐に赴いたが、(注:『扶桑略記』『古事談』による。)道中で将門が誅殺されたと聞き、引き返した。(注:『十訓抄』による。)まもなく大宰権少弐に任じられ、(注:『扶桑略記』『外記日記』による。○『尊卑分脈』では大弐とするが誤りである。)追捕凶賊使となった。(注:『外記日記』による。)

小野好古(おののよしふる)に従って藤原純友を討伐した。(注:『扶桑略記』『外記日記』による。)好古が軍を引き揚げると、経基には特に残党の捜索が命じられた。当時、純友の腹心である佐伯是行(さえきのこれゆき)・桑原生行(くわばらのなりゆき)がまだ誅殺されておらず、なお残党を集めて西方の辺境を侵略していた。官軍が是行と戦い、日向(ひゅうが)でこれを破った。藤原貞包(さだかね)が是行を捕らえた。まもなく生行が海部郡(あまべぐん)を侵したので、経基は自ら兵を率いて幾度か交戦し、ついにこれを打ち破って生行を生け捕りにし、また馬・船および武具雑具を獲得した。生行は傷が悪化して獄中で病死したので、その首を斬り、是行の首と併せて都に送った。賊党はことごとく平定された。(注:『外記日記』による。)

経基は前後して式部丞・左衛門権佐・内蔵頭・兵部少輔、および筑前・信濃・美濃・但馬・伊予・武蔵などの国守、鎮守府将軍を歴任した。(注:『尊卑分脈』による。)天暦年間に上野介となり、(注:○上野は一説に上総ともする。)正五位下に進んだ。(注:『作者部類』『佐竹系図』による。○『尊卑分脈』では正四位上とする。)応和元年(961年)、四十五歳で没した。(注:『尊卑分脈』による。○本書では四十一歳とする説もある。『足利系図』『山県系図』では天徳二年(958年)没とするが誤りである。)

経基には八人の子があった。長男は満仲(みつなか)で、別に伝がある。次に満政(みつまさ)、(注:○『日本紀略』『藤原道長記』では満正とする。)次に満季(みつすえ、治部丞・兵庫助・武蔵守)、次に満実(みつざね、陸奥掾・下野掾)、次に満快(みつよし、左衛門尉・相模介・下野守)、次に満生(みつなり、上総掾)、次に満重(みつしげ、出羽介)、次に満頼(みつより、下野守・上野掾)がいた。経基の子孫は東国で繁栄し、最も有力な豪族となった。(注:『尊卑分脈』による。)

源滿政

源満政(みなもとのみつまさ)。満政は八島大夫(やしまのたいふ)、あるいは村岡大夫(むらおかのたいふ)と称された。(注:『尊卑分脈』による。)武略に優れ、兄の満仲(みつなか)と並び称された。(注:『続往生伝』による。)家に翡翠(ひすい)という名馬がおり、(注:『法成寺摂政記』『源平盛衰記』による。)これを朝廷に献上した。(注:『法成寺摂政記』による。)正暦年間、都に盗賊が多かったため、朝廷は満政および甥の頼親(よりちか)・平維時(これとき)らに勅して捜索させた。(注:『日本紀略』による。甥については『尊卑分脈』による。)満政は兵部丞・治部少輔、および陸奥・伊予・武蔵などの国守を歴任し、検非違使となり、鎮守府将軍に任じられた。

子には忠重(ただしげ)・忠隆(ただたか)・忠国(ただくに)がいた。忠重は従四位下刑部権大輔となった。忠重の孫の重宗(しげむね)は佐渡守となり、美濃で源義家(みなもとのよしいえ)と戦って敗死した。重宗の子の重実(しげざね)は鳥羽上皇に仕え、弟の重時(しげとき)および源光信(みつのぶ)らとともに四天王と称された。重実の甥の重国(しげくに)、甥孫の重知(しげとも)・重季(しげすえ)らは、承久の乱(じょうきゅうのらん)でみな討ち死にした。重実の子の重遠(しげとお)は重宗の養子となり、源義家の娘を娶った。重宗が尾張に移り住むと、その曾孫の山田重忠(やまだしげただ)には別に伝がある。重遠の弟の重成(しげなり)は式部丞となり、保元の乱(ほうげんのらん)では源義朝(よしとも)に従って朝廷方についた。(注:『尊卑分脈』による。)平治の乱(へいじのらん)では義朝の身代わりとなって死んだ。(注:『平治物語』による。)重成の弟の重定(しげさだ)は源為朝(ためとも)を捕らえ、その功により筑後守となった。忠隆は駿河守となった。

その子の斉頼(なりより)は、(注:『尊卑分脈』による。)蔵人となった。天喜年間、盗賊が禁中に押し入り、刃を構えて御座に迫った際、斉頼はこれを捕らえ、その功により検非違使となった。(注:『扶桑略記』『百錬抄』による。)まもなく源頼義(よりよし)に従って安倍頼時(あべのよりとき)を討伐した。(注:『尊卑分脈』による。)頼義は出羽守・源兼長(かねなが)が職務に堪えないとして罷免を奏上し、代わりに斉頼を推挙した。(注:『陸奥話記』による。)後に出雲守となった。(注:『尊卑分脈』による。)

平貞盛

平貞盛(たいらのさだもり)は、葛原親王(かずらわらしんのう)の玄孫である。父の国香(くにか)は鎮守府将軍・常陸大掾で、貞盛はそれにより常平太(じょうへいた)と称された。(注:『平氏系図』による。○按ずるに『源平盛衰記』は上平太とするが誤りである。)承平年間、国香は甥の将門(まさかど)に殺された。(注:『平氏系図』『将門記』による。○『神皇正統記』は将門に攻められて自害したとする。)貞盛はその時左馬允であったが、都でこの父の死を聞き、仇を討とうと思い、(注:『今昔物語』による。)官を辞して東国に帰り、常陸大掾となった。(注:『今昔物語』『将門記』による。)貞盛は自分の力では将門に敵わないと考え、耐え忍んで事を起こさなかった。(注:『今昔物語』による。)

叔父の下総介・良兼(よしかね)は、もとより将門と不和であったので、貞盛を諭して言った。「一族の多くが将門に殺され、財産も奪われたというのに、いまさら将門に仕えようというのか。私と力を合わせて仇を討とうではないか」。貞盛はついに良兼に従った。しかし将門との戦いに敗れると、貞盛は「いつまでも賊の勢力圏にとどまっていては、同じ悪事の罪に問われかねない。それよりも朝命を奉じて公然と罪を鳴らして討伐する方がよい」と考えた。天慶元年(938年)、密かに山道を取って都に向かった。将門はこれを聞いて軽騎兵を率い、信濃(しなの)まで追撃した。貞盛は苦戦のすえ大敗し、辛うじて身一つで逃れた。武具や兵糧はことごとく奪われ、単騎で都に入った。まもなく朝廷は貞盛に官符を与え、常陸に戻って将門の罪を糾問させた。(注:『将門記』による。)

将門は貞盛が到着したと聞き、迎え撃とうとしたが、貞盛は身を潜めて姿を現さなかった。将門は数日にわたって軍を駐めたが、貞盛らの所在がつかめなかったため、軍勢を解散させ、千人ほどを率いて下野(しもつけ)に出た。(注:『今昔物語』『将門記』による。)貞盛はこれを聞き、下野押領使・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)とともに四千余りの兵を発してこれを急襲した。将門は敗走し、下総の幸島(さしま)に立てこもった。貞盛らは勝ちに乗じて追撃し、火を放って陣営を焼いた。将門が迎え撃つと、貞盛らは奮戦してこれを再び打ち破り、貞盛自ら矢を射て将門を討ち取り、賊党はことごとく平定された。(注:○以上、『扶桑略記』『今昔物語』『将門記』を参考にした。)この功により従五位上に叙せられ、(注:『扶桑略記』『今昔物語』による。○『日本紀略』は従五位下、『将門記』は正五位上、『神皇正統記』は正五位下とする。)右馬助を授けられ、(注:『扶桑略記』『今昔物語』『古事談』による。)鎮守府将軍に任じられた。(注:『日本紀略』『平氏系図』による。)天禄・天延年間に丹波守・陸奥守を歴任し、(注:『類聚符宣抄』による。)従四位下に叙せられた。(注:印本『尊卑分脈』『平氏系図』による。)

かつて貞盛が都にいた頃、式部卿・敦実親王(あつみしんのう)と親しかったが、あるとき将門もまた親王のもとを訪ねて辞去する際、従者五、六人を連れていた。貞盛は門でこれに出くわし、中に入って親王に「手元に兵がないのが悔やまれます。今、将門を殺すことができませんが、後日天下の患いとなるのは必ずやあの男でしょう」と語った。後に果たしてその言葉の通りになった。(注:『古事談』による。)

貞盛には維敘(これのぶ)・維将(これまさ)・維敏(これとし)・維衡(これひら)の子があった。維敘は右衛門尉に任じられ、上野権守・常陸権守・陸奥権守を歴任した。維将は常陸介、筑前守・肥後守などを務めた。維敏は上野介・常陸介・陸奥守を務めた。(注:『平氏系図』による。)維衡は勇猛にして比類なく、平致頼(むねより)・源頼信(よりのぶ)・藤原保昌(やすまさ)と並び称された。(注:『続往生伝』『十訓抄』による。)上野介・常陸介、および伊勢・陸奥・出羽・伊豆・下野・佐渡などの国守を歴任した。(注:『平氏系図』による。)維衡は伊勢に住み、(注:『小右記』による。)子孫はそのまま伊勢に住み着いた。世に伊勢平氏(いせへいし)と称された。(注:『平家物語』『源平盛衰記』による。)

藤原秀鄉

藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、左大臣魚名(うおな)の後裔である。祖父の豊沢(とよさわ)は下野守となった。父の村雄(むらお)は下野権大掾であった。(注:『帝王編年記』『尊卑分脈』による。)秀郷は田原藤太(たわらのとうた)と称され、(注:『帝王編年記』による。○『源平盛衰記』は俵藤太(たわらのとうた)とする。)勇猛で計略に富んでいた。(注:『源平盛衰記』による。)延喜の末、罪を犯して配流された。後に下野掾となり、(注:『日本紀略』による。)押領使となって、(注:『扶桑略記』『今昔物語』による。)六位に叙せられた。(注:『百錬抄』による。)

天慶年間、平将門(まさかど)が反乱を起こして関東諸国を陥れ、その勢いは非常に激しかった。(注:『扶桑略記』『古事談』による。)秀郷は将門の招きに応じ、その陣営に赴いて面会した。将門はその来訪を大いに喜び、ちょうど髪を梳いていた最中で結い上げる暇もなく、急いで帽子をかぶって出迎えた。秀郷は「彼は今大事を企てていながら、その振る舞いがこれほど軽々しいのでは、討ち取ることなど容易いことだ」と考えた。(注:『東鑑』治承四年条による。○『源平盛衰記』によれば、秀郷が将門の招きに応じて門前に至り面会を求めた。秀郷は大軍を擁して勇名を東国に轟かせていたので、将門はこれを聞いて驚き喜び、髪を振り乱したまま迎え入れ、親しげに語り合った。秀郷は将門の軽率さに人君としての度量がないと見て、大いに失望した。やがて将門が酒肴を設けてもてなしたが、食事の最中に食べ物を袴にこぼし、手で払うような仕草をした。秀郷はますますこれを卑しみ、ついに将門と手を切った。ここでは本文の記述に従う。)遂に平貞盛(さだもり)と計略を合わせて力を協せ、将門を攻めてこれを破った。その謀略の多くは秀郷によるものであった。(注:『今昔物語』『将門記』『源平盛衰記』による。)将門が矢に当たって馬から落ちると、秀郷が進み出てその首を斬った。(注:『扶桑略記』『古事談』による。)この功により特に従四位下を授けられ、(注:『日本紀略』『扶桑略記』『百錬抄』による。○『神皇正統記』は正四位下とするが、恐らく誤りである。)功田(こうでん)を賜って子孫に代々伝えることを許され、下野・武蔵両国の国守に任じられ、(注:『扶桑略記』『古事談』による。)鎮守府将軍を拝命した。(注:『尊卑分脈』『梅松論』による。)

子の千時(ちとき)は鎮守府将軍となった。千晴(ちはる)は、(注:「晴」の字は『日本紀略』による。○本書では「晴」を「春」に作る。)相模介となった。(注:『尊卑分脈』による。○『日本紀略』は権介とする。)安和年間、橘繁延(たちばなのしげのぶ)・僧蓮茂(れんも)とともに廃立を謀った罪に連座し、子の久頼(ひさより)は投獄され、千晴は隠岐(おき)に流されたが、数年後に召還された。(注:『日本紀略』による。○『尊卑分脈』はこれを千時の事とするが誤りである。)千常(ちつね)は鎮守府将軍となり、その後三代にわたって皆この職を襲い、(注:『尊卑分脈』による。)世に五代将軍と称されて栄誉とされた。(注:『梅松論』『結城文書』による。)子孫は繁栄し、関東の有力な豪族となった。(注:『尊卑分脈』による。)

藤原為憲

藤原為憲(ふじわらのためのり)は、右大臣是公(これきみ)の後裔である。父の維幾(これちか)は常陸介・讃岐守であった。(注:『尊卑分脈』『天野系図』『工藤二階堂系図』による。)天慶の初め、為憲は父に従って常陸にいた。平将門の叛乱の際、将門勢が常陸国庁を包囲し、国府の中は騒然となった。為憲は国兵三千を率いてこれに抵抗したが、勝てずに逃れた。後に平貞盛・藤原秀郷と力を合わせて将門を討ち、大いに功があったので、維幾はこれによって解官を免れることができた。(注:『将門記』による。○『扶桑略記』『帝王編年記』を参考にした。)為憲は遠江権守に任じられ、木工助となり、従五位下を授けられて工藤大夫(くどうのたいふ)と称された。子孫は駿河・遠江・伊豆などの地に繁栄した。(注:『尊卑分脈』『工藤二階堂系図』『相良系図』による。)