卷之一百卅六 列傳第六十三

藤原道綱、藤原惟成

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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藤原道綱

藤原兼家(ふじわらのかねいえ)は、右大臣藤原師輔(もろすけ)の三男である。わずか十歳で童殿上(わらわてんじょう)を許された。村上天皇の御代に累進して左京大夫(さきょうのだいぶ)(注:『尊卑分脈』では「右京大夫」とする)となり、東宮亮(とうぐうのすけ)を兼ねた。冷泉天皇が即位すると蔵人頭(くろうどのとう)・左近衛中将となり、兄の兼通(かねみち)を超えて従三位に叙せられ中納言に任じられた。天禄元年、右近衛大将を兼ね、のち大納言に転じたが大将はそのまま留任した(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。兼通は自分より兼家の位が上になったことを不満に思っていた。かつて円融天皇の母后の手書きを得ており、そこには関白の地位は兄弟の順に継がせるべきだと記されていた。兄の伊尹(これただ)が重病になったとき、兼通はこの手書きを円融天皇に献上し、これによって内覧を許され、まもなく関白となった(注:『愚管抄』『大鏡』による)。もともと兼家の娘の超子(とうし)は冷泉上皇の後宮に入り、のちの三条天皇を生んでいたので、兼通はこれを快く思っていなかった。さらに兼家が次女の詮子(せんし)を後宮に入れようとしたため、兼通の怒りはいっそう募った(注:『栄花物語』による)。貞元二年、兼通が病床に伏すと、兼家はもう起き上がれまいと見込んで急いで参内した。これを聞いた兼通は大いに怒り(注:『愚管抄』『大鏡』による)、病身のまま輿に乗って参内し、関白の地位は左大臣藤原頼忠(よりただ)に譲る一方、内心では兼家の官職を奪って遠方に左遷しようとした。しかし兼家に罪がなかったため、思うように怒りをぶつけることができず、結局は大将の職を解いて治部卿に任じるにとどめた(注:『栄花物語』による)。兼家は不満やる方なく、長歌に思いを託して天皇に哀訴した。天皇は「稲舟の歌」を以て答えたが、これはしばらく耐え忍ぶよりほかないという意であった(注:『大鏡裏書』『拾遺和歌集』による)。兼通が薨去して頼忠が政務を執るようになると、頼忠は兼家が不遇に沈んでいるのを憐れみ、たびたび朝廷に取りなした。天元元年、兼家は右大臣に任じられた。詮子はついに後宮に入り、頼忠の娘の遵子(じゅんし)とともに女御となって、大いに寵愛を受けた。まもなく堀河中宮が崩御し、詮子は東三条第で皇子懐仁(やすひと)を生んだ。兼家は「詮子は必ず中宮になるだろう」と考えていたが、詮子は天皇の寵愛を受けていたにもかかわらず、天皇は頼忠への配慮から表向きは詮子を疎んじる態度を示した。天元五年、ついに遵子が中宮に立てられると、兼家は大いに失望し、以後は朝廷への出仕をやめて子どもたちとともに家に籠もった。詮子もまた実家にとどまった。天皇はたびたび使者を遣わして機嫌をうかがい、その心を慰めようと、宮中で皇子に袴着の儀を行わせた。永観二年七月、相撲節会が催され、天皇は皇子にこれを見せようと兼家を召したが、兼家は病と称して参内しなかった。たびたび催促されて、やむを得ず参内すると、天皇はこう諭した。「朕は天下を治めて十六年、しだいに政務が煩わしくなってきた。近く東宮に位を譲ろうと思う。懐仁を皇太子とするのがよかろう。朕はかねてよりそう考えていたのに、そなたたちはその本意を知らず、動もすれば不満げな顔をする。それも人情というものであろう。誰しも我が子は可愛いものだが、まして朕にとってはただ一人の子なのだ。」兼家はこれを聞いて大いに喜んだ。まもなく花山天皇が即位し、懐仁は皇太子となった(注:『栄花物語』による)。兼家は自分こそ関白になるべきだと考えていたが、頼忠が依然として関白の座にあり、天皇の外舅である中納言藤原義懐(よしちか)が朝政を専断していた。兼家はなおも家に籠もって出仕せず、子の蔵人道兼(みちかね)が天皇に取り入っていた。折しも女御忯子(しし)が亡くなり、天皇はこれを深く悲しんで、帝位を捨てようとする意向を抱いた。道兼はこれに乗じて出家を勧めた(注:『愚管抄』による)。寛和二年六月、天皇はついに宮中を出て花山に赴き、譲位した(注:『栄花物語』『愚管抄』による)。皇太子が即位して一条天皇となると、兼家は大いに志を得て、藤原良房(よしふさ)の先例にならって摂政となり(注:『日本紀略』『一代要記』による)、藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ)となった(注:『公卿補任』による)。内舎人(うどねり)と左右近衛の番長(ばんちょう)を賜り(注:『日本紀略』『一代要記』による。番長については『公卿補任』による)、まもなく右大臣を辞して従一位に叙せられ(注:『公卿補任』『一代要記』による)、三宮に准ぜられ(注:『日本紀略』『公卿補任』『一代要記』による)、食封三千戸を賜り(注:『日本紀略』による)、その地位は三公の上に置かれた(注:『公卿補任』『一代要記』による)。永延二年、兼家は六十歳を迎えた。天皇は常寧殿(じょうねいでん)で祝賀の宴を賜り(注:『日本紀略』『扶桑略記』『百錬抄』『公卿補任』による)、兼家は六十の社に幣帛を奉り、東三条第で宴を催した(注:『日本紀略』『扶桑略記』による)。輦車(れんしゃ)での宮門への出入りも許された(注:『扶桑略記』『一代要記』『公卿補任』による)。また新たに造営された二条京極第を賜った。この秋、公卿以下を集めて盛大な宴を催した(注:『日本紀略』『百錬抄』による)。東宮大進の源頼光(よりみつ)は馬三十頭を贈って賓客に配り、河陽(かよう)の遊女を招いて酒の相手をさせ、米や絹を与えた。当時の宴の盛んなことは、かつて例を見ないほどであった(注:『日本紀略』による)。兼家はかつて東三条第を造営した際、西の対の造りを清涼殿(せいりょうでん)になぞらえたため、世間はその驕奢を暗に非難した(注:『大鏡』による)。永祚元年、頼忠が薨去すると、兼家がこれに代わって太政大臣を拝命した(注:『日本紀略』『公卿補任』『一代要記』による)。正暦元年、兼家は病床に伏した。これより先、京極第にはたびたび怪異が起きていたため(注:『大鏡』『栄花物語』による)、東三条第に住まいを移していた(注:『栄花物語』による)。摂政の辞退を上表し、関白となった(注:『日本紀略』『一代要記』による。○『公卿補任』『栄花物語』では太政大臣も併せて辞したとするが、これは誤りであろう)。まもなく剃髪して法名を如実(にょじつ)と称した。得度する者百人を賜り(注:『日本紀略』『一代要記』『公卿補任』による。○『紀略』では百人を千人とする)、天下に大赦を行い、庸調(ようちょう)を免除し、賑給(しんごう)を加えて、その病の平癒を祈った(注:『日本紀略』による)。勅により領地の封はそのまま改めず(注:『公卿補任』による)、三宮への准位や、任じた人への叙爵もすべて従前どおりとし、さらに食封二千戸を加えられたが、兼家は固く辞退して受けなかった(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。ついに東三条第で薨去した(注:『公卿補任』『栄花物語』による)。享年六十二。法興院(ほうこういん)と号した(注:『愚管抄』による)。世に法興院大臣、あるいは東三条と称された(注:『大鏡』による)。左中弁藤原有国(ありくに)、右中弁平惟仲(これなか)を信任し、何事も必ず二人と相談して「これぞ我が左右の眼だ」と言った(注:『栄花物語』による)。また府中に出入りする一人の巫女(みこ)がいて、吉凶を説き、時にはよく当たった。人が物事を尋ねるたびに、うつぶせになって答えたので、当時の人々は「打臥神子(うちふしのみこ)」と呼んだ。兼家はこれを深く信じ、日々の動静はすべてその言葉に従い、衣冠を授けて、膝を枕にさせてまで問うほどであった(注:『大鏡』による)。かつて納言であったころ、逢坂(おうさか)を過ぎる際に雪に遭う夢を見た。目覚めてこれを不吉に思い、占い師に尋ねたところ、「吉夢です。あなたはまだらの牛を得るでしょう」と言われた。果たしてある人がまだら牛を贈ってきた。兼家はその占いの腕前に感心し、手厚い贈り物をして帰した。このことを大江匡衡(おおえのまさひら)に語ったところ、匡衡は「その占いは的中していません。そもそも逢坂は『関』であり、雪は『白』です。あなたはきっと関白になられるでしょう」と言った。果たして翌年、兼家は関白となった(注:『江談抄』による)。子には道隆(みちたか)、道綱(みちつな)、道兼(みちかね)、道長(みちなが)がいる(注:『大鏡裏書』による)。道長については別に伝がある。

藤原惟成

藤原道隆(ふじわらのみちたか)。道隆は永観二年、次々と昇進して従三位に叙せられ、春宮権大夫(とうぐうのごんのだいぶ)に任じられた。寛和年間には権中納言、権大納言を歴任し、正二位に叙せられた。永祚元年、内大臣に任じられ、まもなく左近衛大将を兼ねた。正暦元年、兼家が病により摂政を辞したため、これに代わって関白となり、まもなく摂政ともなって、随身を賜り牛車の使用を許された(注:『公卿補任』による)。かつて兼家がひそかに藤原有国(ありくに)、平惟仲(これなか)、国平(くにひら)(注:姓を欠く)に、「わが子のうち誰に跡を継がせるべきか」と尋ねたことがあった(注:『江談抄』『古事談』による)。有国はかねてより道兼(みちかね)と親しかった(注:『栄花物語』による)。そのうえ兼家が政権を握っていたころ道兼はかなり力を尽くしていたので、有国は道兼がよいと述べた。ところが惟仲と国平は「嫡庶の別をどうして乱してよいものか」と答え、兼家はこれに従った。道隆はこれを聞いて、「私が政権を得たのは実力によるものではなく、ただ嫡長子であったからにすぎない。何を誇ることがあろうか。ただ有国の恩に報いることをこそ喜びとしよう」と言った(注:『江談抄』『古事談』による)。ところが職に就くと、真っ先に有国父子の官職を奪った(注:『栄花物語』『江談抄』『古事談』による)。正暦二年、内大臣を辞した(注:『日本紀略』『公卿補任』『尊卑分脈』による)。天皇の年齢がしだいに長じて親政を行うべき時期になったためである(注:『栄花物語』による)。正暦四年、ついに摂政を辞し、あらためて関白となったが(注:『日本紀略』『公卿補任』『尊卑分脈』による)、除目や官奏についてはなお摂政に準じて扱われた(注:『公卿補任』による)。長徳元年、病を得て、たびたび上表して辞職を願い出たが許されなかった(注:『日本紀略』『公卿補任』による)。そこで子の伊周(これちか)に摂政の職務を代行させたいと願い出て、これが許された(注:『大鏡』『栄花物語』による)。この年、剃髪し、まもなく薨去した(注:『日本紀略』『公卿補任』『大鏡』『栄花物語』による)。享年四十三(注:『日本紀略』『公卿補任』『大鏡裏書』による)。世に中関白(なかのかんぱく)と称され(注:『公卿補任』『尊卑分脈』『大鏡』『栄花物語』による)、また二条、あるいは南院とも称された(注:『尊卑分脈』による)。道隆が薨去すると、弟の道兼、道長が相次いで摂政となったので、当時の人々はこれを「三道(さんどう)」と呼び、藤原昭宣公(基経)の三人の子が「三平(さんぺい)」と呼ばれた故事になぞらえた(注:『大鏡』による)。道隆は容姿端正で立ち居振る舞いも整い、在職中に大きな過失はなかったが、妻の父である高階成忠(たかしなのなりただ)を二位に進め、そのほかも多く妻の一族を登用したため、当時の人々はこの点を軽んじた(注:『栄花物語』による)。ひどく酒を好み、いつも藤原済時(なりとき)、藤原朝光(あさてる)を酒の相手としていた(注:『古事談』による)。三人はいつも同じ車に酒を積んで出かけ、酔うと髪を振り乱し衣服を脱いで興じるのを楽しみとしていたが、ついにはそれが病のもとになって起き上がれなくなった。臨終に際し、人々が西方に向けて念仏を唱えさせようとすると、道隆は「もし済時や朝光が極楽にいるのなら、私も往生したいと思う。そうでなければ、望みはしない」と言った(注:『大鏡』『古事談』『愚管抄』による)。子の伊周(これちか)、隆家(たかいえ)については別に伝がある。長男の道頼(みちより)(注:『公卿補任』『大鏡』による)は資質が清らかで穏やかであり、早くから評判が高かった(注:『大鏡』による)。祖父の兼家に養われ、官は大納言にまで至った。長徳元年に薨去し、世に山井大納言(やまのいだいなごん)と称された(注:『公卿補任』『尊卑分脈』『大鏡』による)。

藤原道綱(ふじわらのみちつな)。道綱は長徳年間に官は大納言に至り(注:『尊卑分脈』による)、右近衛大将、東宮傅(とうぐうのふ)を兼ねた。寛仁四年に薨去し(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)、享年六十六(注:『公卿補任』『大鏡』による)。世に傅大納言(ふのだいなごん)と称された(注:『尊卑分脈』による)。性格は欲深く卑しいところがあった。後一条天皇の幼い頃、道綱がそばに仕えていて、「殿下は砂金をまき散らすところをご覧になったことがありますか」と尋ねた。天皇が「まだない」と答えると、道綱は「これほど見事な眺めはありません」と言い、蔵人に命じて内蔵寮の砂金百両を取り寄せ、自ら撒いてみせた。天皇はこれを見て大いに喜んだ。道綱はそれを拾い集める役目を買って出て、表向きは捨てるふりをしながら、実は懐に入れて退出した(注:『続古事談』による)。子には、参議となった兼経(かねつね)、武蔵守となった兼宗(かねむね)、右近衛少将となった兼綱(かねつな)がいる(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。

藤原道兼(ふじわらのみちかね)。道兼は人となり雄々しく髭が多く(注:『栄花物語』による)、性質は荒々しく強情であった(注:『大鏡』『栄花物語』による)。花山天皇が即位すると、中納言藤原義懐(よしちか)が天皇の外舅として朝政に関与した(注:『愚管抄』『十訓抄』による)。兼家はこれを快く思わず、天皇に早く譲位させて自らが摂政になろうと図った。道兼はその意図を察知し、あの手この手でこれを実現しようとした(注:『愚管抄』による)。当時、道兼は蔵人左少弁として天皇に近侍していた。折しも女御忯子(しし)が亡くなり、天皇は悲しみに沈んで慕い続けた。道兼は僧の厳久(ごんく)とともに仏典を説いて、天皇に譲位を勧め、「陛下がまず先に出家なさるなら、私も従ってお供いたしましょう」と言った。天皇はついに決意した(注:『愚管抄』『古事談』による)。寛和二年六月の夜、天皇は道兼とともにひそかに宮中を出て花山を目指したが、いざとなると迷いが生じて「もう少しよく考えたい」と言った。道兼は「三種の神器はすでに東宮にお渡ししました。もはや事を中止することはできません」と急き立てた。天皇はついに花山の元慶寺(がんぎょうじ)に入って落飾した。道兼もともに剃髪するはずであったが、天皇を欺いて「私は父に告げずに出家すれば、永遠に不孝の子となってしまいます。どうか先に家に帰って、父に別れを告げさせてください」と言い、衣を払って立ち去った。天皇はここで初めて自分が謀られたことに気づいた(注:『大鏡』『愚管抄』『古事談』を参照)。一条天皇が即位して兼家が摂政となると、道兼もまた登用され、半年もたたぬうちに次々と昇進して権中納言に至った。永祚元年、権大納言を拝命し正二位に叙せられた。正暦元年、右近衛大将を兼ね、翌年には内大臣に任じられ、正暦五年には右大臣に転じた(注:『公卿補任』による)。道隆が薨去すると、その子の伊周(これちか)は道兼の地位と声望が高まるのを妬み、ひそかに外祖父の高階成忠(なりただ)に呪詛させた。ちょうどそのころ道兼は病にかかっており、占わせたところ、住居を移すのがよいとの卦が出た(注:『栄花物語』による)。そこで親しくしていた藤原相如(すけゆき)の邸に移り住んだが、間もなく詔があって関白に任じられた(注:『大鏡』『栄花物語』による)。まもなく薨去し、享年二十五(注:『公卿補任』『愚管抄』『大鏡裏書』による)。太政大臣正一位を追贈された(注:『公卿補任』による)。在職はわずか七日であったため(注:『栄花物語』による)、世に七日関白(なぬかかんぱく)と称された(注:『公卿補任』『愚管抄』による)。また粟田(あわた)、あるいは二条、町尻(まちじり)とも称された(注:『公卿補任』による)。道兼はつねづね「私は父に功績があった。関白は私でなくて誰がなるというのか」と言っていた。道隆が跡を継ぐと、道兼はひどくその地位を望み、そのため父の喪中にあっても悲しむ様子を見せず、賓客を集めて遊興にふけったので、当時の人々はこれを卑しんだ(注:『大鏡』による)。子の兼隆(かねたか)は正二位中納言となり、兼家に養われた。次男の兼綱(かねつな)は右近衛中将、紀伊守となった。  兼隆の子の兼房(かねふさ)は、中宮亮(ちゅうぐうのすけ)、右近衛少将を歴任し、備中(びっちゅう)、讃岐(さぬき)などの国守を務め、正四位下に叙せられた(注:『尊卑分脈』による)。和歌を好んだが、際立った才は見えなかった。柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)に祈願し、久しく真心を尽くしていたところ、ある夜、花の下に座る老翁の夢を見た。烏帽子をかぶり直衣(のうし)を着て、左手に紙を持ち、右手に筆を執って、何やら思案しているようであった。兼房が不思議に思って近づいて尋ねようとすると、翁は「そなたは常々人麻呂を慕い、その真心はまことに深い。それゆえ姿を見せたのだ」と言った。兼房は目覚めると、絵師にその姿を描かせたが、どれも意に満たなかった。何度も描き直させて、ようやく満足のいく絵ができた。朝夕にこれを拝んでいると、これより和歌の才が日ごとに進んだ。臨終に際してこの絵を白河天皇に献上したところ、天皇はこれを大変珍重し、烏羽(からすば)の宝庫に秘蔵した。藤原顕季(あきすえ)が願い出てこれを模写したことから、初めて世間に伝わるようになった(注:『十訓抄』による)。兼房には二人の子があり、長男の兼仲(かねなか)は左近衛少将、次男は僧となり宗円(そうえん)といい、下野(しもつけ)の宇都宮別当(うつのみやべっとう)となった(注:『尊卑分脈』による)。

藤原義懐(ふじわらのよしちか)は、摂政伊尹(これただ)の五男である(注:『公卿補任』『大鏡』による)。天延・永観の頃、侍従、蔵人頭を務めた(注:『公卿補任』による)。学識はなかったが、機知に富み鋭敏で、朝廷の典礼によく通じていた(注:『大鏡』による)。花山天皇が即位すると、外舅として朝政を執ることになったが、まだ声望が浅く、たちまち大臣の地位に就くことは難しかった。それでも内外の政務は、もっぱら義懐に帰した。頼忠が関白であったとはいえ、実際の権勢はかえって義懐の下にあった(注:『愚管抄』による)。左中弁藤原惟成(これしげ)とともに力を合わせて政治を助け、綱紀はかなり引き締まった(注:『大鏡』による)。参議に任じられ、権中納言に昇進し、従二位に至った(注:『公卿補任』による)。ある日、天皇が近臣たちを集めて馬を馳せさせ、自らも馬に乗ろうとしたところ、義懐がちょうどそこに来合わせ、天皇は恥じ入って顔色を変えた。義懐はこれを諫めようと思ったが、近習たちが周りを取り囲んでいたためやめ、かえって意を曲げて自ら馬に乗り、乗りこなして見せた。それを見て天皇の心は落ち着いた(注:『大鏡』による)。やがて天皇は左少弁藤原道兼に誘われて出家しようとした(注:『愚管抄』による)。義懐と惟成はこれを深く憂え、たびたび天皇のそばに伺候して様子をうかがっていた。ある夜、天皇がひそかに宮中を出たので、義懐は悲しみのあまり泣きながら守宮神(すぐうじん)の前でもだえ苦しみ、人を遣って山林をくまなく捜させた。翌日、惟成とともに花山まで追いついたが、天皇はすでに剃髪していた。もはやどうすることもできず、惟成は義懐に「あなたは外戚として重い信任を受けてきた。今、天皇が世を出られたからには、どうしてなお朝廷の列に加わり、俗世に身を置いていられましょうか。どうか早く剃髪なさってください」と言った。義懐は「もとよりそう望んでいた」と答え、そのまま出家した(注:『大鏡』『十訓抄』『古今著聞集』『袋草子』による。○『古事談』では惟成の言葉を義懐の言葉とする)。法名を悟真(ごしん)といい、のちに寂真(じゃくしん)と改めた(注:『公卿補任』『大鏡裏書』による)。当時の人々は、その出家が人に唆されたもので、みずから堅く決意したものではないと見ていた。それでも義懐は飯室(いむろ)の安楽寺に籠もり、勤行に励んだ(注:『大鏡』『十訓抄』『古今著聞集』による。安楽寺については『愚管抄』による)。寛弘五年、薨去した。享年五十二(注:『公卿補任』による)。子には成房(なりふさ)、信懐(のぶちか)がいて、ともに近衛中将となった。伊成(これなり)は左兵衛佐、教忠(のりただ)は左少将となった(注:『尊卑分脈』による)。

藤原惟成(ふじわらのこれしげ)は、初め惟賢(これかた)と名乗り、のちに今の名に改めた(注:『尊卑分脈』による)。左大臣魚名(うおな)の子孫である。父の雅材(まさき)は文才があり、かつて「鶴鳴九皐(かくめいきゅうこう)」の詩の序を作った。村上天皇はこれをご覧になって大変気に入られた。蔵人頭源延光(のぶみつ)がちょうど寵愛を受けていたが、ある日天皇の顔色がすぐれないので、延光は恐れて退出しようとした。天皇は延光を呼び戻して、「朕はそなたを耳目として、人材を探し求めさせている。今、学生の雅材は文辞が豊かだという。なぜこれを推挙しないのか。朕みずから抜擢しよう。蔵人に任じよう」と言った。延光は大いに驚き、探し出そうとしたが、雅材は貧しくて参内できる身なりがなかった(注:『十訓抄』による)。そこで特別に内蔵寮(くらりょう)に命じて衣服を賜わらせた(注:『十訓抄』『禁秘抄』による)。雅材はのちに右少弁にまで進んだ(注:『尊卑分脈』による。以上、雅材について)。惟成は式部権少輔(注:『尊卑分脈』では「権大輔」とする)に任じられ、蔵人左中弁となった(注:『日本紀略』『尊卑分脈』による)。円融天皇の晩年、朝政は乱れ綱紀もすたれていたが、花山天皇が即位すると、惟成は義懐とともに沈滞した政治を立て直し弊害を改めたので、世の風俗は再び質朴に戻った。人々は「惟成の力によって、世はその恩恵を受けている」と称えた(注:『江談抄』による。『大鏡』を参照)。天皇が花山に出家すると、惟成もまた僧となり寂空(じゃくくう)と名乗り(注:『扶桑略記』による)、のちに悟妙(ごみょう)と改めた(注:『江談抄』『日本紀略』による)。ある日、天皇が東坂本(ひがしさかもと)を通りかかった際、紅梅が満開なのを見て心を寄せた。惟成は、出家の身でありながら小さな物事に執着していると諫めた。天皇はこれを尤もだとして、歌を詠んで立ち去った(注:『古今著聞集』による)。永祚元年、惟成は没した。享年三十七(注:『尊卑分脈』による)。惟成の家はもとは貧しかったが、妻がよく家事を切り盛りし、人にその窮乏を悟らせなかった。惟成が世に出て出世すると、あらためて源満仲(みつなか)の娘を妻に迎えたので、当時の人々はこれを軽んじた(注:『古事談』による)。