卷之一百八十一 列傳第一百八

將軍三

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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源賴家

源頼家(みなもとのよりいえ)は幼名を一万(いちまん)といい、初めは万寿(まんじゅ)と称した(注:『東鑑』による。『将軍執権次第』『帝王編年記』は十万とする)。頼朝(よりとも)の長男である。わずか七歳で甲冑を身につけて騎馬を習い、九歳で下河辺行平(しもこうべゆきひら)に弓術を学んだ(注:『東鑑』による)。成長するにつれて動作は機敏で武芸に優れていた(注:『愚管抄』による)。建久六年、頼朝に従って京へ上った(注:『東鑑』による)。建久八年、従五位上に叙せられ、右近衛権少将となった。建久九年、讃岐権介(さぬきごんのすけ)を兼ねた(注:『公卿補任』による)。正治元年正月、頼朝が薨去(こうきょ)した。同月、左近衛権中将に転じ(注:『公卿補任』『東鑑』による)、諸国の守護・地頭を統轄することは頼朝の時と変わらぬよう詔があった(注:『東鑑』『百錬抄』による)。三月、後藤基清(ごとうもときよ)が罪を得て讃岐守護を罷免され、近藤国平(こんどうくにひら)がこれに代わった。四月、問注所(もんちゅうじょ)を郭外(かくがい)に移した。頼家の母の政子(まさこ)は、頼家が自ら訴訟を聞くことを禁じ、北条時政(ほうじょうときまさ)・義時(よしとき)・大江広元(おおえのひろもと)・三善康信(みよしやすのぶ)・中原親能(なかはらのちかよし)・三浦義澄(みうらよしずみ)・八田知家(はったともいえ)・和田義盛(わだよしもり)・比企能員(ひきよしかず)・安達盛長(あだちもりなが)・遠元(とおもと)・梶原景時(かじわらかげとき)・藤原行政(ふじわらのゆきまさ)の十三人に命じて、事の大小を問わずこれに参画・決裁させ、他の者が直接申し上げることを禁じた。当時、小笠原長経(おがさわらながつね)・比企三郎(ひきさぶろう)・和田朝盛(わだとももり)・中野能成(なかのよしなり)・細野郎(ほそのろう)らはへつらいによって寵愛を受けており、頼家は梶原景時らに命じて布告させ、「この五人の家族がたとえ横暴な振る舞いをしても、士庶(しじょ)はこれに逆らってはならない。違反する者はその名を記録し処罰する」と言い、さらに「この五人以外は、命令がなければ拝謁してはならない」と告げた。七月、安達景盛(あだちかげもり)を遣わして参河(みかわ)の賊、室平重広(むろのひらしげひろ)を討たせ、重広は逃走した。もともと頼家は景盛の妾(しょう)が美しいと聞き、たびたび手紙を送って言い寄っていたが、応じられずにいた。この機に乗じて景盛の外出を窺い、中野能成を遣わしてその妾を奪い、九条良経(くじょうよしつね)の邸に住まわせ、間もなく北向御所(きたむきごしょ)に移して、寵愛は当代随一であった。ただし長経ら五人だけは出入りを許された。八月、景盛が帰還すると、景時は「妾を奪われたことを恨んで不満を漏らしている」と景盛を讒言(ざんげん)した。頼家は五人を召して景盛を誅殺する謀議をし、幕府内は騒然となった。政子は急いで景盛の父・盛長の邸に赴き、人をやって頼家を叱責させて言った。「亡き父君が世を去り、三幡(さんまん)も相次いで亡くなった。それなのに悲しみを忘れて武力を弄ぶとは、これは禍乱の源である。景盛はもとより深い縁があり、亡き父君は特に厚遇されていた。もし本当に罪を犯した証拠があるのなら、私が自ら取り調べて罪名を定めよう。今、事の真偽も明らかにせぬまま、みだりに誅殺しようとしている。もし事実無根であったなら、悔いても及ばぬではないか。それでもなお兵を差し向けるというなら、私がまず先にその矢を受けよう。」頼家はそこで思いとどまった。政子はまた諍いが再燃することを恐れ、翌日、景盛から誓紙を取り、これを頼家に送るとともに戒めて言った。「昨日のことは、あまりにも軽率であった。おおよそお前の行いを見るに、政務を怠って民の苦しみを顧みず、歌舞音曲に耽って世の謗りを恐れず、忠義の者を退けて邪(よこしま)な媚びへつらう者を寵愛している。このような振る舞いで、どうして天下を鎮め治めることができようか。亡き父君は親族を篤く睦(むつ)まじくし、その恩恵は姻戚にも及び、源氏一門や北条氏は常に厚遇を受けていた。ところがお前の代になってからは恩義や礼遇が薄くなり、人々は恨みを抱いている。お前がこのことを心に留めておけば、禍を免れることもできよう。」しかし頼家は改めなかった。十月、諸将が連署して梶原景時が讒言を用いて人を陥れたことを訴えた。景時は一宮(いちのみや)へ逃れた。十二月、小山朝政(おやまともまさ)が播磨(はりま)の守護となった(注:『東鑑』による)。正治二年正月、頼家は従四位上に進み、禁色(きんじき)の着用を許された(注:『公卿補任』『東鑑』による)。景時が謀反を企て京へ向かおうとしたので、頼家は三浦義村(みうらよしむら)・糟谷有季(かすやありすえ)らを遣わしてこれを討たせた。景時は駿河(するが)まで進んだところで、土地の者に殺された。五月、念仏僧を禁じ、その袈裟を剥ぎ取って焼かせた。伊勢の僧、称念(しょうねん)という者があり、大言して「冠帯(かんたい)も緇衣(しい、僧衣)も、それぞれの用があるだけのこと。どうしてこれを剥ぎ取る必要があろうか。それに今の政治のありさまを見れば、仏法も世法もともに滅びようとしているではないか」と言った。陸奥(むつ)の新熊野社(いまくまのしゃ)の僧たちが、寺領の境界を争い、文書と地図を持ってきて訴え出た。頼家は筆を取って地図の中央に線を引き、「土地の広い狭いは、命令一つでどうにでもなる。使者を送って詳しく調べさせるまでもない。今後、土地の訴訟を裁くときは皆これに倣うように。もし納得しないなら、あえて争ってはならぬ」と言った。八月、佐々木経高(ささきつねたか)が罪を得て阿波(あわ)・淡路(あわじ)・土佐(とさ)の守護を罷免された。もともと頼朝は「陸奥・出羽(でわ)の郡郷(ぐんごう)の地頭は、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)父子の取り決めを守るように」と命じていたが、それでもしばしば境界を争う者があった。この月、留守所(るすどころ)に命じて、境界の範囲はすべて秀衡が示した通りにするよう通達させた。これより先、たびたび陸奥に使者を送り、芝田二郎(しばたじろう)を召したが、病と称して参上しなかった。そこで宮城四郎(みやぎしろう)に命じてこれを討たせ、芝田(しばた)は敗走した(注:『東鑑』による)。十月、左衛門督(さえもんのかみ)に遷り、従三位に叙せられた(注:『公卿補任』『東鑑』『将軍執権次第』による)。建仁元年正月、城長茂(じょうのながもち)が兵を率いて京に入り、東洞院(とういん)に小山朝政を襲った。朝政はこのとき行幸に供奉(ぐぶ)しており、留守を守る家兵がこれを防いだ。長茂は退いて上皇の御所に赴き、頼家追討を願い出たが許されず、吉野(よしの)に逃げ隠れた。二月、捜索されて誅殺された。まもなく長茂の甥の資盛(すけもり)が越後(えちご)の鳥坂(とっさか)に拠って挙兵し、近隣は震え恐れた。佐々木盛綱(ささきもりつな)を遣わしてこれを討たせ、五月、資盛は敗走した(注:『東鑑』による)。この年、里見義直(さとみよしなお)を遣わして京の警固に当たらせた(注:『帝王編年記』による。○『武家補任』は大友能直(おおともよしなお)とする)。建仁二年五月、「兄弟で争い訴える者は、理非を問わずこれを和解させよ」との命令を下した。七月、重ねて従二位に叙せられ、征東大将軍を兼ねた(注:『一代要記』『東鑑』による)。閏(うるう)十月、諸国の守護が職分を越えて吏務に干渉することを禁じ、違反者は罷免するとの命令を重ねて下した。建仁三年正月、子の一幡(いちまん)が鶴岡社(つるがおかしゃ)に参詣したところ、神がかりした巫女が「今年、鎌倉には変事があり、跡継ぎはその地位を継ぐことができないであろう。たとえば岸の上の木が根元からすでに枯れているのに、人はそれを知らずにその梢によじ登るようなものだ」と告げた。これを聞いた者は皆不安を覚えた。五月、叔父の僧、全成(ぜんじょう)を常陸(ひたち)に流し、間もなく殺した。また全成の子の頼全(よりぜん)を京で殺した。八月、三浦義村を土佐守護とした。この月、頼家の病が重くなり、政子は頼家に「関西三十八か国の地頭職を弟の千幡(せんまん)に分け与え、関東二十八か国の地頭職と天下総守護の職は子の一幡に譲るように」と命じた。この処分が決まると、一幡の外祖父の比企能員(ひきよしかず)は、一幡の母を通じて頼家にこう告げさせた。「今、地頭職を分けて千幡君に伝えれば、叔父と甥とが並び立ち、これで無事が保たれるように見えます。しかし権威が両方に分かれれば、かえって争いの種を生むだけです。北条氏を滅ぼしてその脅威を除くのでなければ、跡継ぎの安泰を望むことなどできましょうか。」頼家は驚き、能員を寝室に呼んで密議し、決行を決めた。政子はその謀略を知り、密かに時政に知らせ、能員をおびき出して殺させた。能員の一族は一幡を擁して小御所(こごしょ)に立てこもった。政子は義時に命じてこれを攻めさせ、和田義盛・畠山重忠(はたけやましげただ)以下の諸将も皆従った。能員の子や甥は死に物狂いで防戦し、諸将はやや押され気味となったが、重忠が代わって攻めた。守る者は支えきれず、火を放って自害し、一幡もまた焼け死んだ。姻戚や交友のあった者の多くも死亡または流罪・逃亡となった。頼家は病の合間に一幡と能員の死を聞き、大いに怒り、堀親家(ほりちかいえ)に書状を持たせて和田義盛・仁田忠常(にったただつね)に時政を討つよう命じた。義盛は表向き承知したふりをして、その書状を時政に示した。時政は親家を捕らえて殺し、忠常は加藤景廉(かとうかげかど)に殺された。頼家はこうして時政と対立するに至り、政子は頼家がもはや政務の重責に堪えられないとして、無理に出家させ、伊豆の修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉し、千幡を奉じて朝廷に将軍宣下を願い出た。これが実朝(さねとも)である(注:『愚管抄』には、九月、頼家の病が重くなり、時政がこれを大江広元の邸に移させ、また人を遣わして一幡を殺そうとしたところ、一幡の母がこれを抱いて逃げた、十一月に従者の藤馬(とうま)なる者に命じて一幡を殺させた、とあり、本書とは異なる)。頼家は政子と実朝に書状を送り、「昔からの側近を身近に置き、幽閉の寂しさを紛らわせたい。また安達景盛を得たならば、それで満足だ」と願い出た。政子は三浦義村を遣わして「その願いは許すことができない。今後は二度と書状をよこすな」と伝えさせた(注:『東鑑』による)。翌年七月、時政は密かに人を遣わして頼家を殺そうとした。頼家は体が敏捷で近づくことができなかったため、浴室にいる隙をうかがい、縄を投げて首にかけ、これを刺し殺した(注:『保暦間記』『承久記』による。○『愚管抄』も参照し、年月は『東鑑』による。○『愚管抄』には義時が一幡を殺した事が記され、それに続けて頼家も殺したとあるので、義時が時政の意を受けて殺したのではないかとも疑われるが、その文が明確でないため、ここでは触れないでおく)。享年二十三(注:『東鑑』『帝王編年記』による。○『保暦間記』は三十三とするが、これはおそらく『東鑑』の元久元年の条に享年三十三と書かれているのを誤って受け継いだものであろう。今は『東鑑』の寿永元年八月の頼家誕生の記事によって推定し定めた)。

初め頼朝は軍政に深く意を用い、統率の仕方も的確であったが、頼家が家督を継ぐと、驕(おご)り高ぶって道理に暗く怠惰で、家の規律を守ろうとせず、将佐(しょうさ、家臣)に親しみ庶務を処理することにも関心を持たず、ただ自分の気の向くままに、際限なく遊興にふけった。とりわけ蹴鞠(けまり)を好み、後鳥羽上皇に願い出て紀行景(きのゆきかげ)を師として得、日夜その場に興じていた。災害や異変に遭っても警戒することを知らなかった。綱紀は乱れ、人心は離れ、ついには身を滅ぼすに至った(注:『東鑑』による)。子は三人あり、長男は一幡、次男は僧公暁(こうぎょう)、三男は千寿丸(せんじゅまる)である(注:『尊卑分脈』による。○千寿丸は『保暦間記』による。○本書では「千寿」を「千手」とし、千手の弟に僧禅暁(ぜんぎょう)があるとするが、禅暁については諸書に見当たらない。また『東鑑』では千寿丸は尾張中務丞(おわりのなかつかさのじょう)に養われたとあるが、この「中務」はおそらくその乳母の夫であって、養子としたわけではないと思われる。しかし今はこれ以上考証する材料がない)。建保元年、信濃(しなの)の泉親衡(いずみちかひら)が千寿丸を擁して義時を誅殺しようと謀り、その一味は次第に広がり、僧の安念(あんねん)を遣わして諸将を誘った。安念は千葉成胤(ちばしげたね)の甘縄(あまなわ)の邸に至ったが、成胤はこれを捕らえて義時に送り、一味は皆捕らえられた。企ては露見し、親衡は逃亡した(注:『東鑑』による。○千寿丸を擁したことは『保暦間記』による)。千寿丸は出家して僧の栄西(えいさい)に師事し(注:『愚管抄』による)、名を栄実(えいじつ)と改めた(注:『尊卑分脈』『諸門跡譜』による)。翌年十一月、和田義盛の残党が京にあって栄実を擁し、六波羅(ろくはら)を攻めようと謀った。大江広元の家来たちはこれを聞いて一条(いちじょう)の旅宿でこれを襲った。一味は逃げ散り、栄実は自害した。時に年十四(注:『東鑑』による。○年十四は『愚管抄』による。○本書は「禅師」と書き、『百錬抄』は「僧」と書くが、いずれも名を記していない。『帝王編年記』は「禅師の童名を千手という」とし、『諸門跡譜』もまた「栄実の童名は千手」とする。これによれば本書すなわち『愚管抄』のいわゆる禅師とは、千寿丸に相違ない。また『尊卑分脈』『諸門跡譜』はいずれも栄実の死を建保七年十月とするが、今はこれを採らない)。

僧公曉

僧の公暁(こうぎょう)は、幼名を善哉(ぜんざい)といった(注:『東鑑』による)。頼家が禍にあったとき、公暁は四歳であった(注:『承久記』による)。政子は実朝の猶子(ゆうし)として彼を養わせた。僧の定暁(じょうぎょう)に師事し、その後今の名に改め、のちに髪を剃り落として園城寺(おんじょうじ)に入り、明王院(みょうおういん)の僧正公胤(こういん)について学び、鶴岡(つるがおか)の別当(べっとう)に補任された(注:『東鑑』による)。公暁は常に、父が廃されて非業の死を遂げたことを憤り、実朝と義時を殺してその仇を報いようとしていた(注:『愚管抄』『保暦間記』『東鑑』を参照して総合した)。すでに別当に補任されると、宿願があると称して鶴岡社に千日の祈願をかけた。これより髪を蓄えて坊舎に帰ろうとせず、使者を遣わして伊勢大神宮や諸社に祈らせた。人々はこれを不審に思った(注:『東鑑』による)。実朝が右大臣を拝したとき、鶴岡社で拝賀の礼を行った。礼が終わって石段を下りようとしたところ、公暁が飛び出してこれを斬り、大声で「別当公暁、父の仇を討つ!」と叫んだ。このとき実朝の従者たちは皆外にいて、変事を聞いて駆けつけたが、日は暮れて闇夜であったため、賊がどこにいるか分からなかった。ある者が「公暁が上官(じょうかん)の座で自ら己の名を呼んだ」と告げ、人々は初めてそれが誰の仕業か知った(注:『東鑑』『愚管抄』による。○『承久記』も参照した)。追って雪ノ下(ゆきのした)の坊舎を包囲したが、公暁は実朝の首を提げて、まっすぐ備中阿闍梨(びっちゅうあじゃり)の宿舎に向かった。食事の膳を勧められている間も、首はなお手の中にあった(注:『東鑑』による)。三浦義村(みうらよしむら)は公暁の乳母の夫であり、その子の駒若丸(こまわかまる)は公暁の弟子であった(注:『東鑑』『承久記』による)。公暁は義村が自分に味方すると思い、使者を遣わして「今、将軍の地位は空いている。私がその任に当たるべきだ。お前は私のために計らってくれ」と告げさせた。義村はこれを聞いて驚き泣きながら、偽って「まずは私の家にお入りください。人を差し向けてお迎えいたします」と答えた。そしてただちにこの様子を義時に告げ、義時は政子の命を受けて人を遣わし公暁を討たせようとした。そこで義村は一族を集めてこれを相談した。皆は「公暁は勇武絶倫であるから、軽々しく手を出してはならない」と言った。義村はそこで長尾定景(ながおさだかげ)を選び、定景は屈強の兵五人とともに向かった。公暁は義村が来ないのを待ちきれず、鶴岡を越えて義村の家に向かおうとした。その途中で定景と出会い、定景の従者たちと格闘となった。定景は傍らからこれを斬り、その首を義時に送った。時に年十九(注:『東鑑』による。○『愚管抄』も参照した。年十九は『承久記』による。○『承久記』には、公暁が義村の家に向かおうとして、夜に大雪をついて鶴岡を越えたところ、足を踏み外して屋根の上に転落し、家の主人が盗賊と思って撲殺した、とある。また『保暦間記』には、公暁が義村の家に至ると義村がこれを殺したとし、また鶴岡山中で餓死したともいう。今はいずれも採らない)。以前、幕府に怪異があり、その姿は婦人のようで、飛ぶように素早く、誰もその正体を突き止めることができず、見た者は皆これを物の怪(もののけ)だと思っていた。この事件に至って、人々は初めてそれが公暁であったことを知ったという(注:『承久記』による)。

源實朝

源実朝(みなもとのさねとも)は、幼名を千幡(せんまん)といい(注:本書では「千万」とするものもある)、頼家の同母弟である。建仁三年九月、頼家が廃されると、政子は父の時政らと議を定め、朝廷に願い出て実朝を主将に迎えた(注:『東鑑』による)。従五位下に叙せられ、征夷大将軍を拝命した(注:『公卿補任』『一代要記』『東鑑』による。○『愚管抄』はこの年の十二月に征夷大将軍を拝したとする)。十月、元服し、時に年十二であった(注:『東鑑』による)。朝廷は「実朝」の名を賜った(注:『愚管抄』による)。武蔵守(むさしのかみ)平賀朝雅(ひらがともまさ)を遣わして京を警固させ(注:『帝王編年記』は正治元年のこととする)、西国に地頭職を持つ家人たちは皆これに従わせた。また使者を遣わして京畿(けいき)にいる家人たちを安撫し、忠誠を尽くして二心を抱かぬよう論(さと)し、誓紙を取った。この月、右兵衛佐(うひょうえのすけ)に任じられた。十一月、関東諸国のその年の租税を減じ、民の負担を休めた。十二月、「士庶の訴訟は、訴状を提出してから三日を過ぎても裁断を下さない場合、担当の役人を怠慢として処罰する」との命令を下した。元久元年二月、諸国の荘園については、すべて頼朝の旧例に従うよう命令を下した(注:『東鑑』による)。三月、右近衛少将に任じられた(注:『公卿補任』『将軍執権次第』による)。この月、平基度(たいらのもとのり)・平盛時(たいらのもりとき)らが伊賀(いが)・伊勢(いせ)の間で蜂起し、鈴鹿関(すずかのせき)を塞いで旅人の往来を断った。守護の首藤経俊(すどうつねとし)は逃亡し、平賀朝雅がこれを撃滅した。朝雅は伊勢守護に補任された。五月、国司の訴えにより、地頭による山海の漁猟の課税は国衙(こくが)の裁量に従うこととし、塩戸(えんこ)の三分の一を地頭に分け、科料の焼米(やきごめ)は国司に納めさせ、それぞれ土地の実情に従い、旧来の慣行を乱してはならないとした。この月、頼朝が諸将に与えた手書(てがき)を取り寄せ、当時の制度・処置を検討した。七月、頼家が伊豆で薨去し、その家人たちが密かに挙兵を謀った。北条義時は金窪行親(かなくぼゆきちか)らを遣わして彼らを皆殺しにした。十月、国司・領家が「地頭が勲功の賞と偽って制度を越え租税を奪い取っている」と訴えたので、地頭に対し「名田(みょうでん)の租税収入はすべて元の下司(げす)の伝来通りとし、違反する者は職を剥奪する」との命令を下した。元久二年正月、右近衛権中将に遷り、加賀介(かがのすけ)を兼ねた(注:『公卿補任』『東鑑』による)。六月、北条時政が畠山重忠を讒言し、兵を遣わして討ち殺させた。「関東諸国の守護は地頭の身分を検断するにあたり、制度を越えて多く取り立ててはならない」との命令を出した。七月、重忠の縁者の所領を功臣に分け与えた。閏(うるう)七月、これより先、実朝は時政の邸にいたが、時政の妻の牧氏(まきのし)が実朝を弑逆(しいぎゃく)して婿の平賀朝雅を立てようと謀った。政子は諸将を遣わして実朝を義時の邸へ移させた。時政が集めていた兵士たちは皆、時政のもとを去って実朝に従った。翌日、時政を北条に幽閉し、義時に命じて軍政を代行させ、京にいる諸将の佐々木広綱(ささきひろつな)・後藤基清らに命じて朝雅を京で殺させた。この月、河野通信(こうのみちのぶ)がしばしば戦功があったことから、伊予守護所(いよしゅごしょ)が指揮する家人三十二人の任を解き、通信に付属させた。九月、藤原季時(ふじわらのすえとき)を遣わして京を警固させた(注:藤原は『武家補任』による。○『帝王編年記』は七月とするが誤りである)。建永元年正月、「頼朝の時代に地頭職を授けられた諸将は、大罪を犯した場合を除き、みだりに職を奪ってはならない」との命令を下した。七月、これより先、朝雅が伊勢の乱を平定した際、近隣で徴発に応じなかった将士は地頭職を剥奪されていたが、この時に至ってそれぞれ理由を訴え、正当な証拠のある者には元通り返した(注:『東鑑』による)。承元元年正月、従四位上に叙せられた(注:『公卿補任』『東鑑』による)。三月、武蔵の地頭に荒れ地の開墾を命じた(注:『東鑑』による)。承元三年四月、従三位に進み叙せられた(注:『公卿補任』『東鑑』による)。十一月、国衙が「諸国の守護が職務を怠り、群盗がたちまち起こって荘園や田畑を侵し掠める」と訴えた。議論する者は「守護を一人に専任させれば、かえって前例に頼って怠慢になりがちである。番を組んで年ごとに交代させ、心を尽くして職務に当たらせるのがよい。それでもなお改まらないならば、諸国を巡察し、不忠な者を改めて任じ直すべきである」と述べた。議論は決着せぬまま、守護に補任された者の書状を取り寄せて、恩沢によるものか勲功によるものかを見分けようとした。

建暦(けんりゃく)元年正月、正三位に叙せられ、美作権守(みまさかのごんのかみ)を兼ねた。建暦二年十月、使者を関東諸国に分けて遣わし、民の冤罪や苦しみを調べさせた(注:『東鑑』による)。十二月、従二位に叙せられた。建保元年二月、閑院(かんいん)の修造の功により、正二位に叙せられた(注:『公卿補任』『東鑑』『増鏡』による)。泉親衡が北条義時の誅殺を謀ったが、事は露見して逃亡した。五月、和田義盛が北条義時を滅ぼそうと謀り、兵を挙げて幕府を包囲した。北条義時・大江広元は実朝を法華堂(ほっけどう)に避難させ、北条泰時(ほうじょうやすとき)・足利義氏(あしかがよしうじ)にこれを防がせた。義盛は敗死し、一味はことごとく平定された。建保二年夏、日照りが続いた。実朝は斎戒して法華経を転読し、まもなく雨が降った。関東諸国に「幕府の所領の租税は、今年の秋から三分の二を段階的に減じるように」と命じた。十一月、頼家の子の僧栄実(えいじつ)を殺した。十二月、「官位を望む諸将は、その家の当主が勤労の程度を考慮し、文書に具(つぶさ)に記して申請せよ。庶子(しょし)が直接申請することは許さない」と命じた。建保三年二月、「諸国の関所・渡し場は、旅人の通行を妨げてはならない」と命じた。四月、京にいる家人の警衛が法にかなっていないことが多いとして、戒めの命令を下した。以後、忠実であるか否かを見分けて賞罰を行うこととした。七月、鎌倉の商人の員数を定めた(注:『東鑑』による)。建保四年六月、権中納言に任じられた。七月、左近衛中将を兼ねる職に転じた(注:『公卿補任』『東鑑』による)。十二月、問注所に赴き、その日のうちに民事の訴訟を裁くよう命じた(注:『東鑑』による)。建保六年正月、権大納言に遷った(注:『公卿補任』『東鑑』による)。平正重(たいらのまさしげ)が密かに白河(しらかわ)に潜んで謀反を企てたが、後藤基清がこれを討ち斬った(注:『東鑑』による)。二月、実朝はしばしば京に使者を遣わし、左近衛大将を兼任することを願い出た。朝廷の議論では頼朝の先例にならって右大将にとどめようとしたが、実朝の懇願が強かったため、藤原道家(ふじわらのみちいえ)に左近衛大将を辞退させ、実朝がこれを兼ねることとなった(注:『東鑑』『愚管抄』『公卿補任』を参照した)。家臣たちにもそれぞれ官位が授けられた(注:『東鑑』による)。その日のうちに使者が遣わされ、勅命により左馬寮御監(さまりょうのぎょかん)を兼ねることとなった(注:『東鑑』『公卿補任』を参照した)。後鳥羽上皇はかねてより関東の権勢が重く制しがたいことを嫌い、その驕り高ぶって自ら滅びることを望んでいたため、実朝が官位を願い出るたびに、特に高い位を授け、その望みをはるかに超えることが多かった(注:『承久記』による)。もともと実朝が大将の位を求めたとき、北条義時は大江広元に「亡き幕下殿(頼朝)は官職を授けられるたびに、恐れ慎んでこれを辞退し、その慶事を子孫のために残そうとしておられた。ところが今の将軍はまだ壮年にも達しないのに、昇進があまりにも速い。その上、諸将も京に上ることなく座して官位を授かっており、これは分を超えていると言うべきである。私はこのことを申し上げたいのだが、自分の愚かさを顧みると、うまく将軍のお考えを変えることができない。あなたからどうか申し上げてほしい」と言った。広元は「その通りです。私も久しく思い悩んでおり、ただ心を痛めるばかりでした。亡き幕下殿は事に臨むたびに私にご相談くださいましたが、今はそうではなく、誠意を尽くす機会もありません。将軍は自ら勲功をお立てになったわけでもなく、ただ先代の余光を受け継いでおられるだけであり、諸国を統轄するにとどまらず、中納言・中将にまで昇進されるのは、摂関家の子弟でなければあり得ないことです。高い位や栄誉ある官職は、かえって満ち溢れることによる災いを免れないのではと恐れます。試みに、ゆるやかにこのことを申し上げてみましょう」と答えた。そして実朝を諫めて、「慶事を子孫に残すというのには由来がございます。他の官職は辞退なさり、ひとえに征夷大将軍の任のみを帯びられるのがよろしいでしょう。年齢を重ねられてから、大将を望まれてはいかがでしょうか」と言った。実朝は聞き入れず、「言うことはまことにもっともである。しかし源氏の正統は、今日ほど危うい時はない。どうして子孫による継承を望むことができようか。だからこそ、この身のうちに至高の位を極め、それによって家門の誉れを世に示したいのだ」と言った。広元は何も言わずに退いた。六月、鶴岡社で拝賀の礼を行った。朝廷は檳榔毛(びろうげ)の半蔀車(はじとみぐるま)二両、九錫(きゅうしゃく)の彫弓(ほりゆみ)、装束、随身、鞍などの品を賜った。朝廷の臣下たちが訪れて饗応にあずかった。七月、北条泰時・山城行村(やましろゆきむら)・三浦義村・大江能範(おおえのよしのり)・伊賀光宗(いがみつむね)を侍所(さむらいどころ)の司(つかさ)に任じた(注:『東鑑』による)。十月、内大臣を拝し、大将の任は元のままとした。十二月、右大臣に転じた(注:『公卿補任』『東鑑』による)。承久元年正月、大饗(だいきょう)を催した。権大納言藤原忠信(ふじわらのただのぶ)・権中納言藤原実氏(ふじわらのさねうじ)ら、およそ姻戚関係にある者は皆鎌倉に来た(注:『増鏡』『承久記』による。官職は『公卿補任』による)。上皇は特に車馬や衣服を賜って手厚くもてなし、実朝は鶴岡社で拝賀の礼を行った。朝廷の臣下たちが供奉(ぐぶ)し、随兵一千騎が並んで警固は非常に厳重であった。社の楼門に至って随兵を退け、ただ文章博士(もんじょうはかせ)源仲章(みなもとのなかあきら)だけが剣を持って従った。礼が終わって朝廷の臣下に会釈し、石段を降りたところで、甥の公暁に殺害された。享年二十八(注:礼が終わって朝廷の臣下に会釈したというのは『愚管抄』による)。翌日、勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の傍らに葬られたが、公暁が首を持ち去ったため、実朝から賜った秦公氏(はたのきんうじ)の髪を代わりに納めた(注:『愚管抄』には、実朝の首は雪の中から見つかったとあるが、『東鑑』には記載がない。参考までに記しておく)。家臣で悲しみのあまり出家した者は百人余りに及んだ(注:『東鑑』による。○『愚管抄』は七、八十人とする)。拝賀の日時を選ぶにあたり、当初は二十七日の戌(いぬ)の刻(こく)と定められていた。広元は「夜は思いがけない危険がないとも限りません。昼日中に儀式を行うのがよろしいでしょう」と言ったが、仲章は「先例では必ず夜に行うものです」と言った(注:『承久記』による)。出立に際し、広元は前に進み出て諫めて言った。「私はこれまで人前で涙を流したことはございませんが、今日参上するにあたっては、思わず涙がこぼれました。これはきっと理由のあることでございましょう。昔、亡き将軍(頼朝)が東大寺の落慶供養に臨まれたときは、鎧を下に着て万一に備えられました。どうかその先例に倣ってください。」仲章は「大臣・大将という重い地位に昇った者が、鎧を下に着た例は聞いたことがございません」と言った。実朝はついにその言葉に従い、秦公氏に髪を梳(す)かせ、自ら髪を抜いて彼に与え、戯れて「これを記念とせよ」と言った。庭の梅を見て和歌を詠んだ。「出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな」南門に至ると、鳩が異様な鳴き声を上げ、車を降りる際に誤って剣の柄を折ってしまい、人々はこれを不吉の兆しと思った(注:『東鑑』による)。

実朝には子がなく、義時は政子の意を受けて諸将と議し、左大臣藤原道家(ふじわらのみちいえ)の子の頼経(よりつね)を将軍として迎えることを朝廷に願い出た(注:『東鑑』『愚管抄』『保暦間記』による)。実朝は生まれつき温和で優雅な性質であり、頼朝が猜疑心の強かった時代の後を受けて、事にあたっては寛大で簡明であったため、将士たちから親しまれ慕われていた(注:『増鏡』による)。しかし優柔不断で、人々の心を服従させることができなかった(注:諸書の大意を参照した)。常に文学を好み、武事には疎く、源仲章に史書を講義させた(注:『東鑑』『愚管抄』による)。また学問所(がくもんじょ)に近侍の才芸ある者を選んで番を組んで詰めさせ、古(いにしえ)の事柄を語らせてこれを聞いた。藤原定家(ふじわらのさだいえ)に和歌を学び(注:『東鑑』による)、著書に『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』がある(注:『金槐和歌集』による)。また蹴鞠を好み、かつて宋(そう)の仏師陳和卿(ちんなけい)を召し見た。和卿は後ずさりして拝伏し、「昔、亡き将軍(頼朝)のお召しを辞退いたしましたのは、その方が多くの人命を絶ち、罪業が甚だ深かったからでございます。将軍は権化(ごんげ)としてこの世にお生まれになった方で、前世は育王山(いくおうざん)の長老であらせられました。私はかつてその門弟に列しておりましたので、今こうして宿縁によりお目にかかるのでございます」と言った。実朝はこれを喜んだ。これより先、実朝はある僧が前世のことを告げる夢を見ており、それがたまたま和卿の言葉と符合したため、実朝はますますこれを信じた。そして宋に渡って前世の地を見ようと思い立ち、和卿に命じて船を造らせ、随行する者六十余人を定めた。北条義時・時房(ときふさ)らが諫めたが、聞き入れなかった。船が完成すると、由比ヶ浦(ゆいがうら)で試みに浮かべたが、船が大きすぎて浮かばず、それきりとなった。実朝は幼い頃から母方の一族に頼りきりであり、何かを願い出られるたびに、自らの意向を曲げてこれに従った。そのため義時はますます政権を思うままにし、権勢は下に移り、禍(わざわい)は身内から起こって、その身も家も保つことができず、頼朝の築いた事業もついに衰えてしまった(注:『東鑑』による)。