卷之一百八十 列傳第一百七
將軍二
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶文治元年正月、源範頼(みなもとののりより)は使者を派遣して「食糧が尽き、戦艦が不足し、兵士たちは帰郷を望んでおり、これ以上の進軍は困難です」と報告した。源頼朝(みなもとのよりとも)はこれに返書を送って方策を指示し、将兵に先帝や皇太后、二位尼(にいのあま)を辱めることのないよう厳しく戒めた。二月、範頼は豊後(ぶんご)まで進軍し、原田種直(はらだたねなお)を攻撃してこれを大いに打ち破った。同月、中原久経(なかはらのひさつね)と近藤国平(こんどうくにひら)を京都に派遣し、院宣を求めた。兵士による略奪を禁じ、近畿諸国および西海道・南海道を巡察させるためである(注:『吾妻鏡』による)。源義経(みなもとのよしつね)は京都を発ち、四国方面の軍事を総督して屋島(やしま)を攻め、これを敗走させた。平宗盛(たいらのむねもり)は養和帝(ようわてい)を伴って長門(ながと)の壇ノ浦(だんのうら)へと逃れた(注:『玉葉』『吾妻鏡』『源平盛衰記』を参照して記す)。三月、義経は兵を進めて平氏を攻撃し、これを大いに打ち破った。養和帝は海上で崩御した。神鏡と神璽、および皇太后と二宮(にのみや)を確保し、平宗盛・平時忠(たいらのときただ)らを捕虜とした。平氏一族は討たれ、あるいは捕らえられ、あるいは海に溺れて、ほとんど生き残る者がなかった(注:『玉葉』『吾妻鏡』『百錬抄』『源平盛衰記』『平家物語』を参照して記す)。四月、義経は神鏡・神璽と皇太后・二宮を奉じ、捕虜を伴って京都に凱旋した(注:『吾妻鏡』『源平盛衰記』『平家物語』による)。範頼は豊後にとどまって筑紫(つくし)を鎮撫した。このとき、西征に従った将士の中には、頼朝の奏請を経ずに衛府の諸官職を拝任する者が多かった。頼朝は書状を下してこれを叱責し、朝廷と直接取引した者たちについては、東国への帰還を許さなかった。諸国の兵は長年にわたり軍糧の調達を口実に荘園を侵し、官物を奪ってきたため、朝廷はかつて頼朝に勅してこれを取り締まらせたことがあった。その後、頼朝は土肥実平(どひさねひら)・梶原景時(かじわらのかげとき)を近畿総追捕使に任じたが、彼らが配置した代官の横暴がとりわけひどかった。そこで頼朝は書状を下してこれを厳しく咎めた(注:『吾妻鏡』による)。同月、宗盛を捕らえた功により、頼朝は位階を飛び越えて従二位に叙せられた(注:『公卿補任』『吾妻鏡』『増鏡』による)。頼朝は義経が独断専行することを憎み、両者の間の確執は日に日に深まっていった。五月、義経は平宗盛とその子清宗(きよむね)を伴って鎌倉に向かったが、頼朝は義経を鎌倉に入れず、北条時政(ほうじょうときまさ)を酒匂駅(さかわのえき)に派遣して宗盛らを引き取らせた(注:『吾妻鏡』による)。そして再び義経に命じて宗盛らを京都へ護送させ、その途中で斬らせた(注:『玉葉』『吾妻鏡』『源平盛衰記』『平家物語』による)。七月、中原久経・近藤国平に院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)を持たせて大宰府(だざいふ)に赴かせ、兵士が侵していた国衙(こくが)・荘園をことごとく元に復させた(注:『吾妻鏡』による)。八月。これより先、頼朝は義経を伊予守に任じるよう奏請するとともに、一族の中で功のあった者を諸国の国守に推挙していた。山名義範(やまなよしのり)を伊豆守、大内惟義(おおうちこれよし)を相模守(注:『源平盛衰記』は越中守とする)、足利義兼(あしかがよしかね)を上総介、加賀美遠光(かがみとおみつ)を信濃守、安田義資(やすだよしすけ)を越後守とする案であったが、この時になって朝廷はこれを許可した。十月、範頼が筑紫より帰還した。これより先、源行家(みなもとのゆきいえ)は京都に潜んでいたが、頼朝は義経が行家と結託して自分に抵抗しているのではないかと疑い、梶原景季(かじわらのかげすえ)を派遣してその動向を探らせた。そしてついに土佐坊昌俊(とさぼうしょうしゅん)を派遣して義経を襲わせたが、逆に討たれてしまった。行家と義経は、ついに宣旨を得て頼朝を討とうとした。後白河法皇(ごしらかわほうおう)はこれに難色を示した。左大臣藤原経宗(ふじわらのつねむね)は「ひとまずその願いを許して二人を畿外へ出し、その後で使者を送って頼朝に事情を説明するのがよいでしょう」と奏上し、公卿たちも皆この意見に同調した。ただ一人、右大臣藤原兼実(ふじわらのかねざね)だけは「頼朝の罪状はまだ明らかではないのに、安易に宣旨を下すのは、天子の統治のあり方にふさわしくありません」と主張した。しかし法皇は義経に迫られることを恐れ、結局宣旨を下した(注:『玉葉』『吾妻鏡』による)。このとき頼朝は勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の落成を祝う法会の最中であったが、この知らせが届いても顔色ひとつ変えず、そのまま二日間とどまって法会を執り行った。法会を終えて帰った後、将士に「明日京都へ向かう。先発する者を選べ」と命じた。小山朝政(おやまともまさ)とその弟の朝光(ともみつ)ら五十余人が、直ちに出発することを願い出た。夜明けに至って頼朝は「私が京都に着く前に、速やかに行家・義経を誅殺せよ。もし二人がすでに京都を出ているならば、ひとまず私が到着するのを待て」と命じた。その五日後、頼朝は鎌倉を出発し、諸道に書状を回して沿道で軍勢を集めさせた。十一月、黄瀬川(きせがわ)まで至ったところで、行家・義経が西へ逃走したと聞き、引き返した。義経の姻戚であったという理由で、河越重頼(かわごえしげより)・下河辺政義(しもこうべまさよし)の所領を没収した。頼朝は行家・義経に自分を討てとの宣旨が下されたことを恨み、しばしば朝廷にその無実を訴えた。朝廷は窮地に追い込まれ、急遽諸国に院宣を下して行家・義経の捜索・逮捕を命じた(注:『吾妻鏡』による)。頼朝は北条時政を京都守護に派遣し、大江広元(おおえのひろもと)の献策を用いて、時政に次のように奏上させた。「行家・義経は逃亡しており、たやすくは捕らえられません。噂を聞くたびに兵を発していては、諸国が疲弊し、その費用も莫大なものとなります。どうか私に命じて諸国に守護を、荘園に地頭を置かせてください。そうすれば、その所在地で捕らえることができ、労せずして自然に事は治まりましょう」(注:『吾妻鏡』。『源平盛衰記』『平家物語』も参照)。「その兵糧については、五畿および山陰道・山陽道・南海道・西海道の二十六か国において、田一段につき米五升を課してこれに充ててください」(注:『玉葉』『吾妻鏡』『源平盛衰記』『平家物語』を参照して記す)。さらに頼朝は自ら総地頭となることを求めた(注:『保暦間記』による)。法皇は内心これを難じたが、公卿たちは皆、頼朝の意向に逆らうことなく従ったため、結局これを許可した(注:『平家物語』『保暦間記』による)。頼朝はこうして総地頭となり、諸国の地頭にはすべて自らの家臣を任命した(注:『承久記』『増鏡』を参照して記す)。こうして国司の権限は守護へと移り、荘園領主(領家)はみなその実質的な支配権を失い、朝廷の勢力はますます衰えていった(注:『神皇正統記』。『保暦間記』も参照)。十二月、頼朝は藤原兼実に書状を送って次のように述べた。「先には平氏が道に背いて横暴を極め、その罪悪は満ち満ちておりました。頼朝はそのころ遠く流されていた身であり、いまだ明確な詔を賜ってはおりませんでしたが、身を奮い起こして義兵を挙げ、これを討ち滅ぼすことを志しました。天の助けと皇運のおかげで賊徒は討ち取られ、その福運を朝廷にお返しすることができました。天下はこぞってこれを喜ばぬ者はありませんでした。その間、二人の使者を派遣し、近畿十一か国を巡察させて略奪を禁じさせましたが、すべては院宣を奉じて行ったことであり、独断で行ったことは一切ございません。続いて両使に院宣を奉じさせて鎮西(九州)四か国を鎮撫させ、原田種直・菊池隆直(きくちたかなお)らのように所領の郡邑を没収された者については、慣例により代官を置いて統治させるべきところですが、それでもなお私は独断することを避けました。まして他の州郡においてはなおさらのことです。事の大小を問わず、すべて院宣に従って凶賊を除こうとしてまいりましたのに、今になって朝廷が急遽、義経を九か国の地頭に、行家を四か国の地頭に任命なさいました。これでは前後の措置が食い違い、何に従えばよいのか分かりません。二人の凶徒は武力を頼んで騒乱を起こし、相率いて西へ向かいましたが、自ら風波の難に遭い、船が漂流・転覆して従者は滅び、身一つで逃げ去り行方も知れなくなりました。これはまさに天の譴責によるものではないでしょうか。そこで軍勢を発して四方をあまねく捜索させておりますが、この奔走の間には多少の混乱も生じましょうが、二人を捕らえてしまえば、やがて自然と平穏に帰することでしょう。ただ懸念されるのは、悪賢い民が賊に誑かされたり、あるいは各地の武士が事にかこつけて姦計を謀ったりすることで、そうなれば禍の根源となり、その先は測り難いことになりましょう。どうか諸国の荘園に地頭職を置き、頼朝にこれを統轄させてください。これは私一身のための策謀ではなく、国家のために乱を治め賊を鎮めるための良策なのです。伊予国についてもこれに準ずるべきであり、正税・雑役について百姓の中に従わない者があれば、厳しく督責いたします。今日施行すべき事柄については、謹んで案をしたため院に奏上いたします。今こそ天下とともに新たな時代を始めるべきときであり、その処置については特にその根本を究めねばなりません。天道の与するところであり、ためらうべきではございません」。そして頼朝は法皇に奏上して言った。「どうか議奏公卿(ぎそうくぎょう)を置き、右大臣藤原兼実・内大臣藤原師家(ふじわらのもろいえ)以下十人をこれに任じてください。天下のことは、神祇に関することから諸々の政務に至るまで、すべて朝務の合間にこの十人が奏上して決裁するようにしてください。兼実には内覧(ないらん)を勅許し、権右中弁藤原光長(みつなが)と源兼忠(かねただ)を蔵人頭(くろうどのとう)の補佐とし、権中納言藤原朝方(ともかた)を再び院御厩別当とし、伯耆守藤原宗頼(むねより)を大蔵卿とし、蔵人藤原親経(ちかつね)を弁官とし、侍従藤原公佐(きんすけ)を右馬頭とし、日向守小槻広房(おづきのひろふさ)を左大史としてください。兼実には伊予国の知行を、実定(さねさだ)には越前国を、宗家(むねいえ)には石見国を、権中納言藤原光隆(みつたか)には越中国を、実家(さねいえ)には美作国を、通親(みちちか)には因幡国を、雅長(まさなが)には近江国を、光長には和泉国を、兼忠には陸奥国を、それぞれ知行させてください。義経・行家の党与の多くは豊後国におりますので、私にこの国の知行を命じ、鎮撫の便を図らせてください。その他、官職に欠員があれば、その人物にふさわしい器量を選んで授けるべきです。蔵人頭藤原光雅(みつまさ)は私を討てとの宣旨の奉行を務め、左大史小槻隆職(たかもと)がこれを書きましたが、これから制度を改めるにあたり、この者たちを用いるのは不吉ですので、その官職を停止すべきです。参議平親宗(ちかむね)、大蔵卿高階泰経(たかしなのやすつね)、右大弁藤原光雅、刑部卿藤原頼経(よりつね)、右馬頭高階経仲(つねなか)、左馬権頭平業忠(なりただ)、左大史小槻隆職、左衛門尉平知康(ともやす)、藤原信盛(のぶもり)、中原信貞(のぶさだ)、藤原時成(注:姓は『源平盛衰記』による)、兵庫頭藤原章綱(あきつな)らは、いずれも姦悪な者を援けて騒乱を醸成しましたので、官職を解いて追放すべきです。その他の凶悪の徒についても、その罪状を調べ諭し、官職にある者はこれを剥奪してください。また僧侶や陰陽師の類で賊と関わりのあった者は、一切追放してください」。朝廷はことごとくこの求めに従い、叙任や処罰は非常に多くに及んだ(注:『玉葉』『吾妻鏡』による)。このとき藤原基通(もとみち)が摂政であったが、あらためて内覧の職を置いてその権限を分けさせた(注:『玉葉』による)。二年二月、頼朝は藤原親光(ちかみつ)を対馬守に再任させ、源邦業(くになり)を下総守に、藤原季光(すえみつ)を豊後守に任じるよう求めた。また、久しく京官を帯びていた家臣八人にその官職を辞退させた。続いて、摂政基通が追討の議を奏上・裁決していることを理由に、兼実にこれを代わらせるよう求めた(注:『吾妻鏡』による)。朝廷はこれに従った(注:『公卿補任』による)。三月、頼朝は次のように奏上した。「治承年間以来、戦乱がたびたび起こり、民は労役に苦しみ、農事に手が回らぬありさまで、関東の疲弊はとりわけ甚だしいものがあります。私が知行する相模・武蔵・伊豆・駿河・上総・下総・信濃・越後・豊後の九か国については、昨年以前の未納の租税をすべてすでに免除いたしました。今年からはあらためて民の力を見計らって徴収いたします。伏してお願い申し上げますが、諸国の賦税もすべてこれに準じ、百姓を安んじていただきたく存じます」。その後、頼朝は北条時政を鎌倉に呼び戻し、北条時定(ときさだ)らを京都に残して警護に当たらせた。妹婿である左馬頭藤原能保(よしやす)を京都に遣わし、雑務を統轄させて情報収集に当たらせた。そして議奏公卿に書状を送って言った。「天下の政は、諸公の議奏によって太平をもたらすべきです。これこそ頼朝が建議した所以です。どうか公平無私に、諸々の政務を正していただきたい。頼朝は武家の子として長らく軍旅に従事し、久しく辺境の地におりましたため、朝廷の政務にはまだ慣れておりません。私が諸々奏請することについても、どうか繰り返し審議し、適切に処置していただきたい。ひたすら公道に従うことを心がけていただきたいのです。たとえ勅旨や院宣であっても、もし政道を損ない百姓に害を及ぼすようなものがあれば、それぞれが心を尽くして意見を述べ、再三にわたって奏上し直していただくことを、諸公に望むものです。知りながら言わないのは、どうして忠臣の道と言えましょうか」。五月、北条時定は和泉国で源行家とその子光家(みついえ)を捕らえてこれを殺した。同月、鎌倉では黄色い蝶が群れをなして飛び、とりわけ鶴岡(つるがおか)で多く見られた。六月、民力が疲弊していたため、相模国に物資を支給して救済した。十二月、天野遠景(あまのとおかげ)を筑紫奉行に任じた(注:『吾妻鏡』による)。この年、中原親能(なかはらのちかよし)を京都守護として派遣した(注:『帝王編年記』による)。三年二月。これより先、平氏の時代に、大夫属(たいふのさかん)定康(さだやす)(注:姓は不明)が源氏に加担したとして所領を没収されていた。定康が訴え出たので、頼朝は奏上してその所領を回復させた。六月、大江広元を京都に派遣し、閑院(かんいん)を修繕させた。八月、頼朝は鶴岡八幡宮に参詣し、初めて放生会(ほうじょうえ)を執り行い、流鏑馬(やぶさめ)を観覧した。これ以後、これが恒例となった。このころ京都には盗賊が満ち溢れ、至る所で略奪が行われていたため、朝廷は頼朝に勅して兵士を派遣し、これを捕らえ取り締まらせた。頼朝はただちに千葉常胤(ちばつねたね)・下河辺行平(しもこうべゆきひら)を派遣するとともに、箇条書きにして次のように奏上した。「北面(ほくめん)の武士を検非違使(けびいし)に任じることは、古来より難しいこととされてきました。その人物を厳選して補任すべきです。功臣の子孫がみな不遇に沈んでいるのは、担当官の責任であり、選び抜いて登用すべきです。諸国の地頭については、私がすでに厳しく戒めを申し渡してあります。もし私の指図に従わない者があれば、勅を承ってこれを取り締まります」。法皇は温かい言葉でこれを了承した。行平らは盗賊を捕らえて斬り、京都は静粛になった。四年二月。これより先、義経は陸奥国に逃れて藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼っていたが、間もなく秀衡は死去した。この時になって頼朝が奏請し、朝廷は秀衡の子泰衡(やすひら)に勅して義経を捕らえて差し出させることとした。六月、六条殿(ろくじょうどの)を造営した。同月、坂東(ばんどう)の諸国に命じて、「春秋二回の彼岸の放生会の日には殺生を禁じ、また火を用いた狩猟や毒を用いた漁のような行為も、永久に停止せよ」とした。さらに奏請して、諸国にも一律にこれに準じるよう勅を下すこととし、朝廷はこれに従った(注:『吾妻鏡』による)。この年、中原親能が京都守護を辞任し、前中納言藤原能保がこれに代わった(注:『帝王編年記』による)。天野遠景らを派遣して鬼界島(きかいがしま)を攻め、これを降伏させた(注:『吾妻鏡』による。『古今著聞集』は高麗を攻めたとするが、これは誤りである)。五年正月、頼朝は正二位に叙せられた(注:『公卿補任』『吾妻鏡』による)。二月、頼朝は奏請して言った。「義顕(よしあき)は逃亡したままで、いまだ徹底した捜索が行われておりません。これでは後患を防ぐゆえんではないかと恐れます。藤原泰衡は義顕を匿っておりますので、私は勅を奉じてこれに天誅を加えたく存じます」。義顕とは、すなわち義経のことである。三月、内裏を修繕した。閏四月、泰衡は義経を襲って殺し、その首を鎌倉に送った。七月、頼朝は泰衡討伐を求め、繰り返し奏上してやまなかった。朝廷は、義経がすでに死んで天下がほぼ治まった以上、民を休ませるべきであるとして、これを難色を示した。頼朝は大庭景能(おおばのかげよし)の策を用い、朝廷の返答を待たずに出兵し、軍を三方面に分けて進軍させた(注:『吾妻鏡』による)。畠山重忠(はたけやましげただ)を先鋒とし、頼朝自らが諸将を率いて中路(なかつみち)より進軍し、武蔵・上野(こうずけ)の兵をこれに従わせた。千葉常胤・八田知家(はったともいえ)は常陸(ひたち)・下総の兵を率いて岩城(いわき)を経由し、阿武隈川(あぶくまがわ)を渡って合流することとした。比企能員(ひきよしかず)・宇佐美実政(うさみさねまさ)は武蔵・上野の兵を率いて、越後より出羽の念種関(ねずのせき)へ出ることとした(注:『吾妻鏡』。『保暦間記』も参照)。三善康信(みよしやすのぶ)らは鎌倉に留守として残った。八月、陸奥国の見沢(みさわ)まで至った。泰衡は熱借山(あつかしやま)(注:「熱借」は本書では「阿津賀志」と表記されるが、訓読が通じるため、ここでは『保暦間記』の表記に従う)に城を築いていた。泰衡は庶兄の国衡(くにひら)と金剛別当秀綱(ひでつな)に二万の兵を率いさせて防がせ、自らは国分原(こくぶんがはら)の鞭楯(むちだて)に陣を敷き、兵を分けて出羽を守らせ、秀綱は数千人を率いて山の麓に陣を敷いた。頼朝は畠山重忠らを派遣してこれを攻めさせ、秀綱は敗走した。佐藤元治(もとはる)は石名坂(いしなざか)に陣を敷いていたが、常陸冠者為宗(ためむね)がこれを撃破し、その首を斬って熱借山に晒した。三浦義村(みうらよしむら)・葛西清重(かさいきよしげ)らは夜のうちに山を越え、敵の城に直接攻めかかって多くの死傷者を出させた。翌日、頼朝は自ら軍勢を率いて戦いを督励したが、城は堅固で陥落しなかった。諸将は決死の覚悟で戦い、その喊声は山谷に響き渡った。ちょうどそのとき、小山朝光(おやまともみつ)・宇都宮朝綱(うつのみやともつな)配下の兵が、ひそかに険しい山道を越えて敵の背後に出て、「射よ」と大声を上げた。城内の兵は動揺して、それ以上戦うことができなくなった。国衡は逃走したが、道中で追撃されて殺された。敵兵はさらに新たな将を立て、根無藤(ねなしふじ)に砦を築いて防戦したが、安藤四郎(あんどうしろう)らが連戦してこれを打ち破った。泰衡は国衡が敗れたと聞き、軍を捨てて逃走した。頼朝は国府(こくふ)まで進み、常胤・知家らが来て合流した。このとき、「泰衡は物見岡(ものみがおか)にいる」とも、「玉造(たまつくり)にいる」とも言われた。頼朝は自ら玉造へ向かい、小山朝政らを物見岡に派遣して包囲させた。泰衡はすでに立ち去っていたが、残った兵士たちが応戦し、朝政はこれを攻め破った。頼朝は玉造に至り、多加波波城(たかはわじょう)を包囲した。泰衡はまたも逃亡し、城兵はことごとく降伏した。頼朝は先鋒の諸将を諭して言った。「我が軍が津久毛橋(つくもばし)に到達すれば、敵は必ず精鋭を平泉(ひらいずみ)に退避させ、態勢を整えて待ち構えるであろう。少数の兵で軽々しく進撃を図ってはならぬ。全軍を整えてから残賊を討つべきである。深く思案を巡らせ、決して一兵たりとも無駄に死なせてはならぬ」。進軍して平泉に迫ると、泰衡の将は栗原(くりはら)・三迫(さんのはさま)の険しい地形を守って防戦したが、頼朝はことごとくこれを打ち破った。ついに平泉に至ると、泰衡はすでに城に火を放って逃亡していた。そこで国司藤原基成(もとなり)を呼び出すと、基成は諸子とともに出頭して降伏した。泰衡は窮地に陥って哀れみを乞うたが、頼朝はこれを聞き入れなかった。九月、追撃して志波郡(しわぐん)に至ると、泰衡の従叔父にあたる樋爪俊衡(ひづめとしひら)は噂を聞いて逃走した。三浦義澄(みうらよしずみ)らを派遣してこれを追跡させた。頼朝は陣岡(じんのおか)に宿営し、比企能員・宇佐美実政はすでに出羽を平定して来て合流し、その軍勢はおよそ三十万に達した。泰衡の部将河田次郎(かわだじろう)は泰衡を殺し、その首を持って陣岡に赴き降伏した。頼朝はこれを咎めて言った。「泰衡はもとより我が掌中にあった者だ。これを誅するのに、どうして他人の手を借りる必要があろうか。お前は主君を弑して功としようとしたが、その罪は八虐(はちぎゃく)に該当する」。そして河田次郎を斬るよう命じ、泰衡の首を晒し首にした。ちょうどそのとき、泰衡討伐の宣旨・院宣がようやく到着した。そこで頼朝は、戦乱で流浪していた奥羽(おうう)二か国の民を慰撫し、それぞれ本土に帰らせ、特に老人には衣服や馬を支給した。また二か国の省帳(戸籍・租税台帳)や田籍を探し求めたが、いずれも戦火で失われていた。そこに、この地の土豪で豊前介実俊(ぶぜんのすけさねとし)とその弟橘藤五実昌(たちばなのとうごさねまさ)という者があり、二か国の事情に詳しかった。そこで彼らを召し出して面会し、記憶していることを図面にまとめて献上させた。二か国の諸郡の税額・戸口、郷里・山川がほぼ完備された。頼朝はこれを喜び、二人を登用した。そして名所旧跡を巡覧し、僧侶たちを慰問して、寺領を元の通りに与えた。さらに進んで厨川(くりやがわ)に宿営した。俊衡とその弟季衡(すえひら)は諸子とともにやって来て降伏し、頼朝は俊衡の所領を元の通りに許した。泰衡の弟本吉高衡(もとよしたかひら)もまた降伏し、奥羽二国はことごとく平定された。捕らえた者の多くはこれを釈放した。そこで京都に戦勝を報告し、朝廷の許しを得ずに独断で出征した罪を謝した。葛西清重を平泉検非違使所の管領として残し、陸奥にいる家臣には清重の指図に従わせ、将士の功を評定して二か国の土地を分け与えた。国府に至ると、地頭らを諭して「租税・賦役を公平にし、無駄な費用を省き、民力への負担を緩めよ」と命じた。そして政庁の壁に掲示を出し、政務はすべて秀衡・泰衡の旧来のやり方に従い、変更しないこととした。この戦役に際して、上野・下野に命じて「年貢米を輸送し軍資を供給するにあたっては、住民に負担をかけてはならぬ」とした。人々は皆これに心服した。十月、鎌倉に帰還し、出羽の留守(るす)に命じて郡邑を巡検させた。留守は間田(あいでん、遊休地)を廃止しようとしたが、地頭たちはこれを憂えた。頼朝は留守に書状を下して言った。「出羽・陸奥は東夷の地であり、それぞれの土地の風俗には固有の事情がある。以前に新しい制度を頒布した際にも、この二国は除外しておいた。まして間田をどうして廃止できようか。すべて旧来のしきたりに従い、改めてはならぬ」。十一月、院宣が下って泰衡討伐の功を褒め、あわせて「降伏した者たちの処分はすべて卿(頼朝)の裁量に任せ、京都へ送る必要はない。卿への恩賞については、その願いの通りとする。功のあった将士については、その名を上申せよ」と勅した。頼朝は大江広元を京都に派遣して恩賞を辞退し、結局将士の名は上申しなかった。そして、平定後に施行すべき事柄を箇条書きにして奏上した。この年、陸奥では稲の実りが悪く、そのうえ戦乱も重なって、民は生業に安んじることができなかった。同月、葛西清重に命じて困窮する民を救済させた。磐井(いわい)・胆沢(いさわ)・江刺(えさし)の三郡には北方より農料(食糧)を運ばせ、和賀(わが)・部貫(へぬき)の二郡には秋田郡より順次種子を支給させた。十二月、院宣によって頼朝に伊豆・相模の両国が永く子孫に伝えるものとして下賜され、あわせて入朝するよう召された(注:『吾妻鏡』による)。この年、土肥実平を京都守護として派遣した(注:『帝王編年記』による)。
¶建久四年正月。これより先、泰衡の将であった大河兼任(おおかわのかねとう)が出羽国で挙兵し、その軍勢は数千人に及び、転じて陸奥国に向かった。由利維平(ゆりこれひら)は小鹿島(おがしま)から出撃してこれを迎え撃ったが、敗死した。兼任の勢いは非常に盛んであった。ちょうど葛西清重から急を告げる使者が来て、「兼任が乱を煽り、橘公成(たちばなのきみなり)らは戦死し、由利維平は逃亡しました」と報告した。頼朝はこれを聞いて、「その使者の言うことは間違っている。維平が戦死し、公成が逃亡したのだ。私は平生の人となりからそれが分かる」と言ったが、果たしてその言葉の通りであった。頼朝は信濃・上野の兵を発し、足利義兼を追討使とした。千葉常胤は東海道より、比企能員は東山道より、ともに兼任を討つこととした。その他、陸奥に所領を持つ将士は皆この軍に加わった。相模より西の兵は、軍備を整えて鎌倉での命令を待たせた。使者を陸奥に派遣し、将士を戒めて「互いに謀り協議し合い、軍を合わせて進み戦え。功を貪って軽々しく進み、戦力を分散させて敗北を招くことのないように」と命じた。数日後、また使者を派遣して陸奥の軍を監督させ、千葉胤正(たねまさ)らを諭して、敵の砦の所在を偵察し、歩兵を間道から出して襲撃させるよう指示した。あわせて「将士の中に臆病で勇気のない者があれば、自ら赴いてこれを討つ」と戒めた。翌日、また使者を派遣して諸将を諭して言った。「陸奥・出羽二か国の兵は、兼任に脅迫されて従っている者たちであり、実のところは降伏したいという気持ちを抱いている。賊軍の中で帰順する者があれば、罪を許すと呼びかけるべきである。もし彼らが刃を免れられないと思い込めば、必ず死に物狂いで戦うことになり、我が方の利益にはならない。前の留守・新しい留守で兼任を匿った者は、その罪は反逆と同じであるから、当然誅すべきである。ただし今のところは葛西清重のもとに拘留し、鎧二百領を罰として徴収せよ」。二月、諸将は進んで泉田(いずみだ)に至り、兼任は栗原の一迫(いちのはさま)で迎え撃ったが、大敗した。諸軍はこれを追撃し、たびたび打ち破った。兼任は身一つで逃走したが、村人によって殺された。十月、頼朝は京都に参内するため出発した。その供の騎馬は非常に盛大であった。尾張(おわり)を経て野間荘(のまのしょう)に到着すると、父義朝(よしとも)の墓に参り、僧を招いて法会を営んだ。美濃国の青墓(あおはか)に至ると、駅長の娘である大炊(おおい)の女延寿(えんじゅ)を見舞った。十一月、京都に入り、六波羅第(ろくはらてい)に滞在した(注:『吾妻鏡』による)。まず後白河法皇に拝謁し、その後で天皇に参内した(注:『玉葉』『吾妻鏡』による)。勅によって直ちに権大納言に任じられ、続いて右近衛大将を兼任した(注:『玉葉』『公卿補任』『吾妻鏡』『愚管抄』による)。法皇は頼朝を非常に厚く遇し、引見するたびに数刻にわたって語り合い、あるいは終日そばに控えさせることもあった(注:『玉葉』『吾妻鏡』による)。十二月、頼朝は上表して権大納言・右近衛大将の両職を辞退した(注:『玉葉』『公卿補任』『吾妻鏡』による)。慣例では官職を辞した者は牛車に乗ることを許されなかったが、院宣によって特別にこれが許可された(注:『玉葉』『吾妻鏡』による)。大功田(だいこうでん)百町を賜った(注:『玉葉』『愚管抄』による)。法皇は勅によって頼朝配下の中から特に功のあった者二十人を推挙するよう命じたが、頼朝は固く辞退したものの許されず、結局十人を推挙して衛府の官を授けさせた(注:『吾妻鏡』。『玉葉』も参照)。これより先、朝廷はしばしば追捕使を諸国に派遣して盗賊などの取り締まりを行わせていたが(注:『朝野群載』による)、頼朝もまたかつて家臣を総追捕使として近畿諸国を巡察させたことがあった(注:『吾妻鏡』による)。この時になって、頼朝は天下総追捕使となることを願い出て、朝廷の議によりこれが許された(注:『平家物語』『増鏡』『保暦間記』『太平記』『明恵伝』を参照。この年のこととするのは『増鏡』『保暦間記』による。『平家物語』は文治元年のこととするが、おそらく誤りである)。こうして兵馬の権はことごとく頼朝に帰し、朝廷はもはやこれに関与することができなくなった(注:『承久記』『増鏡』『保暦間記』『太平記』を参照して記す)。頼朝は鎌倉に帰り、甥にあたる藤原高能(たかよし)に六波羅を留守させた(注:『吾妻鏡』による)。二年正月、政所(まんどころ)を設置し、大江広元を別当とした(注:考えるに、本書では寿永三年に公文所(くもんじょ)を設置し広元を別当としたとあるが、思うにこの時になって公文所を改めて政所としたのであろう)。藤原行政(ゆきまさ)を令(れい)とし、藤井俊長(としなが)を案主(あんじゅ)とし、中原光家(みついえ)を知家事(ちかじ)とし、中原親能・藤原俊兼(としかね)・三善康清(やすきよ)・三善宣衡(のぶひら)・平盛時(もりとき)・中原仲業(なかなり)・清原実俊(さねとし)を公事奉行(くじぶぎょう)とした(注:本書には梶原景時が侍所司(さむらいどころのつかさ)であったと記され、文治元年の条にも景時が侍所司であったと記されているので、これより先にすでに任じられていたのであろう。しかしその年月は考証できないため、ここには記さない)。二月、勅を奉じて法住寺殿(ほうじゅうじどの)を修繕した(注:『吾妻鏡』による)。
¶三年三月、後白河法皇が崩御した。法皇は前年の冬から体調を崩されており、頼朝は斎戒して日々法華経を読誦し、また剣と馬を石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に奉納して懇ろに祈願した。崩御に際しては、盛大に法会を営むとともに、湯屋を設けて旅人や住民に百日間自由に入浴させた(注:『吾妻鏡』による)。七月、朝廷は使者を派遣して頼朝を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じた(注:『吾妻鏡』『公卿補任』『帝王編年記』を参照して記す。『源平盛衰記』『平家物語』はいずれも寿永二年のこととするが、これは誤りである)。これより先、鎮守府(ちんじゅふ)には将軍が置かれていたが、頼朝が征夷将軍となって以降、朝廷はその職の重さを考慮して、鎮守府将軍を廃止した(注:『職原抄』による)。この年、牧国親(まきのくにちか)を京都の警衛に派遣した(注:『帝王編年記』による。「牧」は本書では「杉」とするが、ここでは『武家補任』に基づいて訂正した)。四年正月、初めて御家人の席次を定めた。四月、那須野(なすの)で狩猟を行った(注:『吾妻鏡』による)。五月、富士野(ふじの)で大規模な狩猟を行い、関東の御家人がすべて参集した。曾我祐成(そがすけなり)とその弟時致(ときむね)は、父の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を殺して仇討ちを果たし、そのまま幕府の陣所に突入した。将士が出て戦い、祐成を殺し、時致を捕らえて斬った(注:『吾妻鏡』『曾我物語』『保暦間記』による)。八月、弟の範頼を伊豆の修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉し、ついにこれを殺した。五年八月、安田義定(やすだよしさだ)が子の義資の一件で頼朝を怨んでいると聞き、これを殺した(注:『吾妻鏡』による)。この年、三条有範(ありのり)を京都の警衛に当たらせた(注:『帝王編年記』による)。六年三月。これより先、後白河法皇は僧重源(ちょうげん)に勅して東大寺を修造させ、頼朝も米一万石・黄金千両・絹千匹を援助していたが、久しく完成しなかった。頼朝はさらに播磨国の租税を東大寺に与え、僧文覚(もんがく)に工事を監督させた。この時になって工事が竣工し、落慶供養の日が定められたので、頼朝は妻子を伴って奈良に赴きこれを見物し、馬千匹を施し、京都に至ってはたびたび参内した。七月、鎌倉に帰った。武蔵の地頭平賀義信(ひらがよしのぶ)に治績があったため、書状を下してこれを褒めた。八月、東国の荘園および陸奥・出羽などに命じて、「今後、地頭の中で強盗・窃盗の二盗や、これに与する者を匿う者があれば、一切その職を罷免し、これを捕らえた者にその職を与える」とした(注:『吾妻鏡』による)。七年六月、平知盛(たいらのとももり)の子知忠(ともただ)が京都に潜伏し、兵を集めて藤原能保を襲おうとした(注:『明月記』異本『平家物語』による)。能保は後藤基清(ごとうもときよ)らを派遣してこれを包囲攻撃し、知忠は自殺した(注:異本『平家物語』による。考えるに、建久七年から九年にかけては『吾妻鏡』が欠落しており、詳しくは考証できない)。これより先、平氏の遺臣である平忠房(ただふさ)・盛嗣(もりつぐ)・盛久(もりひさ)・宗助(むねすけ)・藤原忠光(ただみつ)・藤原景清(かげきよ)らは、あるいは徒党を組んで挙兵し、あるいは姿を変えて頼朝を狙撃しようとしたが、いずれも失敗に終わり、相次いで捕らえられ殺された。この時になって、その党与はことごとく平定された(注:考えるに、『平家物語』の諸本では、知忠が敗れた後に盛嗣・景清・忠光らが身を逃れて逃亡したとするが、今『吾妻鏡』を考証すると、忠光らが殺されたのはいずれも知忠の死より前のことであるので、ここにまとめて記した)。この年、中原親能を京都の警衛に派遣した(注:『帝王編年記』による)。九年十二月、稲毛重成(いなげしげなり)が相模川(さがみがわ)に橋を架けてその落成式を行い、頼朝はこれに臨席したが、帰路に落馬して急に発病した(注:『吾妻鏡』建暦二年の条、岡崎本『平治物語』『尊卑分脈』による)。正治元年正月、病が重くなったため出家し、薨去した。享年五十三であった(注:『公卿補任』『明月記』『増鏡』『百錬抄』による。『保暦間記』には次のようにある。頼朝は相模川から帰る途中、八的原(やつまとがはら)に至ったところで、恍惚として義広(よしひろ)・義経・行家らの怨霊を見、さらに稲村崎(いなむらがさき)を過ぎたところで安徳帝の怨霊を海上に見て、そのために病を得て薨去した、と。また『真俗雑記』には次のようにある。正治元年正月、頼朝は鶴岡八幡宮に参詣して七日間斎戒祈祷を行い、安達盛長(あだちもりなが)に宿所の留守を命じた。ある夜、白衣をまとって部屋に入ってくる者があり、盛長はこれを捕らえて刺したところ、見れば頼朝であった。盛長は大いに驚いて自殺しようとしたが、頼朝はこれを固く押しとどめ、この一件を秘するよう命じた。世間には急病と告げ、その夜のうちに薨去した、と。この話は甚だ下品で卑猥である。『吾妻鏡』はこの月の記事が欠けており、考証のしようがない。しかし建暦二年二月の条に、相模川からの帰路で発病しそのまま起き上がれなかったと記されており、この事実は否定できない。思うに、物好きな者が妄りにこのような説を作り上げたのであろう。今はこれを採らない)。ちょうどそのとき、後鳥羽上皇は蓮華王院(れんげおういん)に行幸しようとしていたが、頼朝の薨去を聞いて中止した(注:『玉葉』。『明月記』も参照)。頼朝は和歌を好み、弓の腕も優れており、しばしば将士に流鏑馬・牛追物(うしおいもの)・笠懸(かさがけ)を稽古させ、自らその優劣を試した。常に節倹をもって家臣を率いた。あるとき藤原俊兼を召したところ、その衣服が華美であった。頼朝は俊兼の刀を取らせ、自らその裾を切り落として戒めて言った。「お前には才能があるのに、どうして質素倹約を守らないのか。千葉常胤や土肥実平のような武辺一辺倒の者たちは、礼儀作法にはうとく、その所領の大きさもお前とは比べ物にならないほど大きいが、それでもなお質素に身を持し、それによって家を富ませ、多くの兵を養い、功を立てることを志している。お前はどうしてこれを考えないのか」。頼朝が京都にいて四天王寺(してんのうじ)に参詣した折、藤原能保らが所領の郡邑に課役を課し、それぞれ酒食を献上しようとしていた。頼朝はこれを聞くと、民を煩わせ財を浪費することを懸念し、これを止めさせた。この話は遠近に称賛された(注:『吾妻鏡』による)。そもそも頼朝は、かつて敗走の身であったところから身を起こし、平氏を殲滅して、功に報い恩に報いることに努めた。平氏が西海に敗走した際、頼朝は特に奏上して平頼盛(たいらのよりもり)を赦し、その位階・俸禄を回復させ、鎌倉に招いて手厚くもてなしたが、これは池禅尼(いけのぜんに)への恩に報いるためであった。また平宗清(たいらのむねきよ)を召し、手厚く報いようとしたが、宗清は病と称して応じなかった(注:『吾妻鏡』『源平盛衰記』による)。丹波藤三国弘(たんばのとうさんくにひろ)・纐纈源五盛安(こうけつのげんごもりやす)にも、いずれも旧恩があったため、所領を分け与えた。頼朝は常々「私の首がつながっているのは池殿(いけどの)の恩のおかげであり、私の髪が剃られずに済んだのは盛安の忠義のおかげである」と語っていた(注:『平治物語』による)。頼朝の人となりは、顔が大きく身の丈は低く、物腰は温雅で、声はよく通り朗らかであった(注:『源平盛衰記』『平治物語』による)。沈着剛毅で度量があり、事を起こす前には必ず綿密に計算し、見通しの立たないままに事を起こすことはなかった。そのため軍勢が敗れることはなく、将士は皆これを畏れ敬服した。しかしその一方で猜疑心が強く恩情に乏しく、肉親や功臣の多くが殺戮の憂き目に遭った。そもそも頼朝の祖先は代々戦功があり、関東の将士は久しく源氏を主君として仰いできた。頼朝の代になって鎌倉に幕府を開き、天下に号令すると、兵馬の権はことごとくこれに帰した。世にこれを鎌倉右大将(かまくらのうだいしょう)、あるいは鎌倉殿(かまくらどの)と称した(注:諸書の大意を斟酌して記す)。
¶頼朝には三人の男子があった。頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)についてはそれぞれ別に伝がある。庶子の僧貞暁(じょうぎょう)については、頼朝は妻政子(まさこ)の嫉妬深さを憂慮し、ひそかに仁和寺(にんなじ)の僧隆暁(りゅうぎょう)に弟子として預け、高野山(こうやさん)に住まわせた(注:『明月記』『吾妻鏡』による。『尊卑分脈』には、頼朝の子で僧の能寛(のうかん)は権大僧都(ごんのだいそうず)となり、高野山に住んで自殺したとあるが、これは貞暁と経歴が似ており、別人ではないのではないかと疑われる。印刷本の『尊卑分脈』では、島津忠久(しまづただひさ)・大友能直(おおともよしなお)を並べて頼朝の子とするが、古写本にはいずれもこの記載が見えず、かえって頼朝には子孫がないと書かれている。印刷本に載っている記述が何に基づくものかは分からない。『島津家伝』には、比企能員の妹丹後局(たんごのつぼね)が頼朝の寵愛を受けて懐妊し、政子の嫉妬を避けてひそかに西国へ赴き、住吉社(すみよししゃ)に立ち寄った際に子を産んだ、これがすなわち忠久である、惟宗広言(これむねのひろこと)の婿となって惟宗の姓を名乗った、建久七年に近衛殿(このえどの)に拝謁して藤原と称することを許された、とあるが、『三長記』建久九年の条や『吾妻鏡』安貞元年の条には、いずれも惟宗忠久と記されており藤原とは称していない。この説はすでに疑わしく、また『吾妻鏡』は忠久の事蹟をおおよそ記しているが、頼朝の子であるとは述べていない。『除目大成抄』によれば、久寿(きゅうじゅ)二年に忠久は藤原頼長(よりなが)の推薦によって播磨少掾(はりまのしょうじょう)に任じられたとある。このとき頼朝はわずか八歳であり、忠久が頼朝の子でないことは明らかである。『吉見家譜』は忠久を広言の子とするが、この説はほぼ正しいと思われる。『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』では忠久を義朝の子とするものもあるが、保元・平治の乱の当時すでに忠久は成長していたはずであり、義朝の他の子は皆従軍したのに忠久の名は見当たらず、これもまた疑わしい。『大友系図』には、大友経家(つねいえ)の娘利根局(とねのつぼね)が頼朝の妾となって懐妊し、それを斎院次官(さいいんのじかん)藤原親能に下賜し、生まれたのが能直である、親能の姓を冒して藤原と称し、母方の祖父の氏によって大友と称した、とあるが、『吾妻鏡』もまた能直を頼朝の子とは述べていない。『尊卑分脈』には、能直は藤原秀郷(ひでさと)の子孫で、近藤能成(よしなり)の子であり、親能の養子となったとあるが、この説は先の説と合致しない。『島津家伝』にはまた、忠季(ただすえ)もまた頼朝の子で丹後局の生んだ子であるとするが、一方『若狭国税所今富領主次第(にゅうふりょうしゅしだい)』では頼朝の乳母の子であるとしており、これもまた説が合致しない。『結城家譜』には、結城朝光(ゆうきともみつ)もまた頼朝の子であるとするが、この説もまたその母を頼朝の乳母とするものであり、やはり疑わしい。『本堂家譜』には、頼朝の子千鶴(ちづる)は実は死んでおらず、その子孫が本堂氏になったとあるが、この事はなお曖昧であり、考証することができない。おおよそ諸書に頼朝の子孫として載っているものは、このように入り乱れて食い違っており、いずれも確かな根拠がないため、今はすべて採らないこととする)。頼朝には二人の娘があった。長女は志水冠者義高(しみずのかんじゃよしたか)に嫁いだ。次女は三幡(さんまん)といい、乙姫(おとひめ)とも称された。幼くして女御(にょうご)となる宣旨を受けたが、入内する前に亡くなった(注:『吾妻鏡』『尊卑分脈』を参照して記す)。