卷之一百五十九 列傳第八十六

藤原基通、源通親、藤原道家、藤原公經ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次6
  1. 藤原基通
  2. 源通親
  3. 藤原道家
  4. 藤原公經
  5. 藤原實氏
  6. 藤原公繼

藤原基通

藤原基通(ふじわらのもとみち)は、摂政基実(もとざね)の長男である(注:尊卑分脈、公卿補任)。容貌は物静かで上品であり、後白河法皇に大変寵愛された(注:玉海)。嘉応(かおう)・承安(じょうあん)年間、従四位上・侍従、右近衛中将を歴任した。治承三年(1179)、内大臣に任じられ、関白となった(注:公卿補任)。近衛中将から参議・納言を経ずに、一気に大臣の位に昇ったのは、古来例のないことであった(注:愚管抄、平家物語)。安徳帝が譲位を受けて即位するに及び、摂政基通は従一位に昇進した(注:公卿補任)。

源義仲(みなもとのよしなか)が京畿に迫ると、平氏は法皇を擁して都を落ちようと図った。基通はその計画を聞き、ひそかに法皇に奏上した。法皇はこっそりと延暦寺に行幸した(注:玉海)。平氏は安徳帝を奉じて西海へ向かった。平宗盛(たいらのむねもり)は基通にも同行を促した。基通は七条大宮まで来ると、供の武士である進蔭高直(しんのかげたかなお)(注:源平盛衰記では高範とする)にひそかに告げて言った。「御車は西へ向かっているが、法皇はまだ京にとどまっておられる。これをどうしたものか。」高直は目配せして牛車の御者に車を引き返させ、基通はついに逃れることができた(注:源平盛衰記、平家物語を参照)。

京には主がいなくなり、法皇は廷臣を集めて誰を立てるかを議論した。義仲は以仁王(もちひとおう)の子を立てようとしたが、基通が強く反対してこれを止めた(注:玉海)。まもなく義仲は戦功を頼みに日ごとに横暴を極めるようになり(注:源平盛衰記)、基通の摂政を止めさせ、権大納言藤原師家(もろいえ)にこれを代えさせた(注:公卿補任、源平盛衰記)。義仲が敗れると、師家もまた罷免され、基通は摂政に復帰した(注:公卿補任)。

当時、世間では「基通は罷免されるはずだ」と噂されていた。源頼朝(みなもとのよりとも)は法皇に奏上して言った。「基通は平氏と縁を絶ち、ひとり京にとどまりました。その心中は明白であります。もとの職にとどめるのがよいでしょう。」やがて頼朝は右大臣兼実(かねざね)に基通の職を代えさせようとし、法皇は人を遣わして基通に告げさせた。「頼朝が右府(兼実)に卿(基通)の職を代えさせよと願い出たことは何度もある。朕は許さなかった。しかし後日また願い出れば、朕もこれに逆らうことはできまい。卿のために考えるなら、自ら身を退くのがよかろう。」基通は心穏やかでいられなかった。

このころ法皇は次第に政務を厭うようになり、基通はこれを深く憂え、ひそかに奏上して言った。「静穏に身を養われるようお勧め申し上げる者があると聞きますが、それは奸臣の言葉です。お聞き入れになりませぬように。」法皇は言った。「朕は時運に恵まれず、久しく安閑としていたいと思っていたのであって、人に唆されたわけではない。朕が政務を聞かずとも、摂政の地位に他の変わりはない。深く心配することはない。」(注:玉海)ほどなく法皇は頼朝の言葉に従い、兼実に内覧の宣旨を授けた(注:玉海、東鑑)。翌年、基通はついに罷免された(注:公卿補任)。

頼朝はまた奏上して言った。「摂政で荘園を領しない者はないと聞きます。今の摂政(兼実)には荘園がなく、前摂政(基通)の所領はたいそう多く、はなはだ穏当ではありません。どうか高陽院(かやのいん)の地を前摂政に与え、京極殿の地を今の摂政に与えていただきたい。」(注:玉海、東鑑)

建久七年(1196)、基通は再び関白となった。土御門帝(つちみかどてい)が即位すると、再び摂政となった。建仁二年(1202)、罷免された。承元二年(1208)、剃髪して法名を行理(ぎょうり)と称した。天福元年(1233)、薨去した(注:一代要記)。享年七十四(注:尊卑分脈)。普賢寺(ふげんじ)と号した(注:尊卑分脈)。

子は家実(いえざね)、道経(みちつね)、兼基(かねもと)、基教(もとのり)である。家実は従一位太政大臣となり、猪隈関白(いのくまかんぱく)と称された。道経は正二位右大臣。兼基は正二位大納言。基教は従二位右近衛中将。家実の子兼経(かねつね)は従一位太政大臣となり、岡屋関白(おかのやかんぱく)と称された。基平(もとひら)は従一位左大臣となり、深心院関白(じんしんいんかんぱく)、また西谷(にしたに)とも称された(注:公卿補任、尊卑分脈)。文永年間、意見十二か条を奏上した(注:吉続記)。兼経の弟兼平(かねひら)は関白・太政大臣となり、家は鷹司(たかつかさ)と称された(注:尊卑分脈)。

もともと基通の家は近衛(このえ)と称し、子孫もこれを称した。基通の叔父兼実は基通に代わって摂政となり、九条(くじょう)と称した。その曾孫の教実(のりざね)・良実(よしざね)・実経(さねつね)は兄弟が相次いで摂政となった。関白教実は家名を九条と襲い、良実は二条(にじょう)、実経は一条(いちじょう)と称した。その後、この五家がそれぞれ代々摂籙(せつろく)の職を世襲し、これを五摂家(ごせっけ)という。

源通親

源通親(みなもとのみちちか)は、太政大臣雅実(まさざね)の曾孫、内大臣雅通(まさみち)の子である(注:尊卑分脈、公卿補任)。後白河から土御門まで七代の天皇に仕えた。治承年間、蔵人頭に任じられ、参議となった(注:公卿補任)。

平清盛(たいらのきよもり)が新都(福原)の造営を計画した際、通親は大納言藤原実定(さねさだ)、左中弁藤原経房(つねふさ)らとともに輪田(わだ)の地を検分したが、土地が狭く、坊(まち)を置くとしても一条から五条までしか設けられなかった(注:百錬抄、源平盛衰記)。通親は言った。「第三条を広く開いて十二の門を建てるのがよい。異国にもこのような例がある。今、五条まで開いたところで、何の不足があろうか。」しかし議論はまとまらず、この案は立ち消えとなった(注:源平盛衰記)。

文治元年(1185)、権中納言に任じられた(注:公卿補任)。この年、源頼朝は議奏公卿(ぎそうくぎょう)を定めるよう奏上し、通親もその一人に選ばれた(注:東鑑、玉海)。文治三年、従二位に昇り、まもなく淳和(じゅんな)・奨学(しょうがく)両院の別当となった。文治六年、左衛門督を兼ね、検非違使別当に任じられた。建久六年(1195)、権大納言に転じた(注:公卿補任)。

はじめ、刑部卿藤原範兼(のりかね)の娘範子(はんし)は法勝寺執行(ほっしょうじしぎょう)能円(のうえん)に嫁ぎ、娘の在子(ざいし)を生んだ。能円は平時忠(たいらのときただ)・平時子(たいらのときこ)と、父を異にしながら母を同じくする兄弟であった(注:尊卑分脈、愚管抄を参照)。この縁により、範子は宮中に入り、後鳥羽帝(ごとばてい)の乳母となって刑部卿三位(ぎょうぶきょうのさんみ)と号した。平氏が西海に落ちのびると、能円もこれに従った。範子の伯父にあたる範季(のりすえ)は、かつて後鳥羽帝を養育しており、帝の即位にも力があった。範子はそこでこの範季を頼った。

このころ、頼朝は自分の娘を宮中に入れようとしていたが、ちょうど通親は範子と密通しており、通親もまた在子を宮中に入れようとして、承仁法親王(じょうにんほっしんのう)や上皇の女房高階栄子(たかしなのえいし)と謀り、言葉で中宮を揺さぶり、あわせて中宮の父である関白兼実を讒言して罷免に追い込み、兼実の弟慈円(じえん)に天台座主を辞めさせて承仁にこれを代えさせた。頼朝は大いに怒った。

在子はついに宮中に入って皇子を生み(注:愚管抄)、通親はこれを自邸で養育し、今宮(いまみや)と称した(注:増鏡。今宮の呼称は五代帝王物語による)。通親は次第に権勢をふるうようになり、外戚の名を借りて権力を専らにしようとした。世人はこれを「源博陸(げんはくりく)」と呼んだ。

やがて通親は帝(後鳥羽帝)に譲位を勧めた。帝はこれを頼朝に相談したが、頼朝は幼い主君は国のためにならないとして、強くこれに反対した。帝が重ねて使者を遣わして懇ろに説くと、頼朝もついにこれを承知した。そこで皇位継承者を占うと、今宮が吉と出た。議論する者たちは、これまで出家した者の外孫が皇位に就いた先例はないと述べたが、通親はその議論をしりぞけ、関白基通もこれに賛成した(注:玉海)。

帝は通親に勅して在子を養子とさせ(注:尊卑分脈、五代帝王物語、増鏡)、鎌倉に使者を遣わして今宮を立てる意向を伝えさせた。使者がまだ戻らないうちに(注:玉海)、今宮を皇太子に立て、その日のうちに譲位が行われた。これが土御門帝(つちみかどてい)である(注:明月記、毘沙門堂所蔵記、三長記)。譲位した帝(後鳥羽院)は院中で政務を執り(注:増鏡)、通親を後院別当(ごいんべっとう)とした(注:公卿補任、玉海)。頼朝はこれを聞いて歯ぎしりして悔しがった。

これより先、頼朝は自分の娘をぜひとも宮中に入れようとしていたが、その娘が亡くなると、また別の娘を入れようと図った。しかしこれも果たせぬうちに頼朝は死去した。通親は右近衛大将の地位を得ようとし、権大納言藤原頼実(よりざね)を奏請して、内大臣藤原良経(よしつね)を超えさせて右大臣に任じ、大将の職を辞めさせて、自らこれを兼ねた。良経は兼実の子である(注:「大将を得ようとし」以下は公卿補任による)。

はじめ、後藤基清(ごとうもときよ)、中原政経(なかはらのまさつね)、小野義成(おののよしなり)は、頼朝の妹婿である藤原能保(よしやす)に仕えていた。能保が死去すると、この三人は通親を殺害しようと図った。通親は法皇の御所に身を隠し、人を遣わして源頼家(みなもとのよりいえ)に願い出て、三人を捕らえて流罪に処させた(注:東鑑には基清の讃岐守護職を奪ったとあるが、流罪については記されていない。おそらく頼家は表向き流罪を許すと言いながら、実際には遣わさなかったのであろう。しかし今はこれを考証する術がない)。

参議左近衛中将藤原公経(きんつね)、右近衛中将藤原保家(やすいえ)、右京大夫藤原隆保(たかやす)らは、かつて頼朝や能保と親しかったため、この件でみな咎めを受けた(注:公経・保家の官職は公卿補任による。本書には公経・保家は朝参を停止され、隆保は流罪に処されたとあるが、補任にはその記載が見えないため採用しない)。当時の人々は、上皇にはもともと偏った考えはなく、通親が事を起こして君主を誤らせたのだと評した。

数か月して、通親は内大臣となった。このころ範季の娘重子(じゅうし)もまた宮中に入って寵愛を受け、皇子を生んだ。上皇はこの皇子をことのほか愛し、他の皇子たちとは違う扱いで養育し、これを皇位に就けようとした(注:愚管抄、増鏡を参照)。通親はこれを察知すると、また上皇に勧めて、この皇子を皇太弟に立てさせた。これがのちの順徳帝(じゅんとくてい)である(注:愚管抄)。通親は東宮傅(とうぐうのふ)を兼ねた。

建仁二年(1202)十月、通親は急死した。享年五十四(注:公卿補任。急死については愚管抄、一代要記による)。上皇はもともと通親を快く思っておらず、その死に際して、当時の人事の昇進や降格が多くは天皇自身の考えから出たものではなかったことを人々に知らしめようと考え、藤原良経を内覧・氏長者とし、まもなく摂政とした。世人はこれを喜んだ(注:愚管抄)。通親は和歌に優れ(注:作者部類)、その家は土御門(つちみかど)と号した(注:尊卑分脈、玉海)。

子は通宗(みちむね)、通具(みちとも)、通光(みちみつ)、定通(さだみち)、通方(みちかた)、通行(みちゆき)である。通宗は参議・右近衛中将となったが、父に先立って死去した。娘の通子(みちこ)は土御門帝の宮中に入り、後嵯峨帝(ごさがてい)を生んだ(注:尊卑分脈、増鏡)。この縁により、通宗には正二位左大臣が追贈された。通具は正二位大納言となり(注:増鏡には従一位とある)、家は堀川(ほりかわ)と号した(注:尊卑分脈)。かつて勅を奉じて藤原定家(ふじわらのさだいえ)らとともに『新古今和歌集』を撰した(注:増鏡、尊卑分脈)。

能円の幼い娘は藤原能保に嫁ぎ、土御門帝の乳母となった。通具はこの女性と密通し、具実(ともざね)が生まれた。具実は正二位内大臣となった。その子基具(もととも)は従一位太政大臣となった。通光は従一位太政大臣となり、久我(こが)と号した(注:尊卑分脈)。通光の一門は栄華を極め、かつて鳥羽殿(とばどの)で法華八講を修した際、世人は「その盛んなことは御八講にも劣らない」と評した(注:増鏡)。

定通は正一位内大臣となった(注:尊卑分脈)。その子顕定(あきさだ)は建長年間、正二位権大納言となった(注:公卿補任)。顕定は近衛大将を兼ねようとし、後嵯峨上皇にこれを願い出た。上皇はほぼこれを許そうとしたが、まもなく藤原公基(きんもと)が大将を兼ねることになり、顕定は恥じ恨んで、髪を剃って高野山に隠棲した。のちに上皇が高野山に行幸し、顕定に会おうとして人を遣わして様子を探らせたところ、室内には誰もおらず、ただ白砂が散らばっているばかりであった。上皇は心楽しまなかった(注:増鏡)。世人はこれを高野入道(こうやにゅうどう)と呼んだ(注:尊卑分脈)。

通方は、後嵯峨帝がまだ即位前であったころ、心を尽くしてその世話をし(注:増鏡、五代帝王物語)、のちに検非違使別当となり、正二位大納言に至った。通行は正二位権大納言で終わった(注:尊卑分脈)。

藤原道家

藤原道家(ふじわらのみちいえ)は、摂政良経の長男である。土御門・順徳両朝において、侍従・左近衛中将、権中納言を歴任し、従二位に叙され、左近衛大将を兼ね、左大臣に進んだ(注:公卿補任、摂関伝)。

承久元年(1219)、征夷大将軍源実朝(みなもとのさねとも)が薨去し、源氏の血統が絶えた。北条義時(ほうじょうよしとき)は道家が源氏と縁続きであることから、その子頼経(よりつね)を迎えて将軍職を継がせた(注:承久記、東鑑)。承久三年四月、九条帝(くじょうてい)が即位すると、道家は帝の外舅として摂政となった。七月、義時が京を制圧し、帝を廃立して、道家の氏長者の地位を止めた(注:公卿補任)。

安貞年間、関白となった(注:一代要記)。寛喜元年(1229)、たびたび辞職を願い出たが、許されなかった(注:玉蘂)。寛喜三年、長男の左大臣教実(のりざね)が父に代わって関白となったが、道家はなお政務に関与した(注:公卿補任、五代帝王物語)。

文暦元年(1234)、後堀河上皇(ごほりかわじょうこう)が崩御し、四条帝(しじょうてい)がまだ幼かったため、道家・教実父子がともに政治の実権を握った。頼経は将軍となり、外舅の前太政大臣公経(きんつね)は後院別当となって、一門は権勢並ぶ者なく、その勢いは朝野を圧した(注:五代帝王物語)。嘉禎元年(1235)、教実が薨去し、道家は再び摂政となった(注:公卿補任、五代帝王物語)。

暦仁元年(1238)、三宮(太皇太后・皇太后・皇后)に准ずるとの詔が下ったが、辞退して受けず、髪を剃った(注:公卿補任、尊卑分脈、東鑑)。名を行恵(ぎょうえ)と改めた(注:百錬抄、摂関伝、尊卑分脈の一説による。摂関次第などの書には行祚、また行祐ともある)。それでも朝廷への参内はもとのままであった(注:五代帝王物語、東鑑)。

四条帝が崩御し、後継がなかった。道家は順徳帝の皇子忠成(ただなり)を立てようとし、なお朝政に関与しようとした。しかし北条泰時(ほうじょうやすとき)はこれを聞き入れず、土御門帝の子邦仁(くにひと)を立てた。これが後嵯峨帝である(注:神皇正統記)。帝が即位した当初、事の大小を問わず道家・実氏(さねうじ)に相談した(注:五代帝王物語)。

建長四年(1252)、薨去した(注:東鑑には「道家の死は、おそらく武家の謀略によるものであろう」と世人が評したとあるが、その詳細は明らかでない。考えるに、寛元年間、頼経が京に戻り、三浦泰村(みうらやすむら)が敗れた際、光村(みつむら)は死に臨んで、「将軍が鎌倉にあった日、禅定殿下(道家)の言葉に従って速やかに大事を挙げていれば、一門はみな顕位にあったろう。若狭守(泰村)がためらったためにこうなったのだ」と言った。これから見れば、道家がかつて泰村らをそそのかし、北条氏を滅ぼして自らその職に代わろうとしたのではなかろうか。おそらくその企てが発覚し、北条時頼(ほうじょうときより)がひそかに道家を殺したのであろう。しかし事の真相は曖昧で、確かめる術がないため、ここには記さない)。享年六十。光明峰寺(こうみょうぶじ)と称し(注:公卿補任、尊卑分脈、五代帝王物語)、また東山入道(ひがしやまにゅうどう)とも称した(注:五代帝王物語、摂関伝)。京の東に寺を建て、東福寺(とうふくじ)と名づけ、東大寺・興福寺の二寺になぞらえた(注:元亨釈書)。僧円爾(えんに)をここに住まわせた(注:元亨釈書、五岳前住籍)。その日記を『玉蘂(ぎょくずい)』という(注:玉蘂)。

子は教実、良実(よしざね)、頼経、実経(さねつね)、僧法助(ほうじょ)である。教実は後堀河朝において正二位権中納言を歴任し、左近衛大将を兼ね、左大臣に任じられて関白となった。四条帝が即位すると摂政となった。嘉禎元年、職を辞し、まもなく薨去した。享年二十六。洞院摂政(とういんせっしょう)と号し、家は九条と称した。良実は正二位権中納言を歴任し、左近衛大将を兼ね、左大臣・関白となった(注:公卿補任、尊卑分脈)。文永七年(1270)、剃髪して名を行空(ぎょうくう)と改めた。まもなく薨去した。享年五十五。普光園院(ふこうおんいん)と号し、家は二条と称した(注:尊卑分脈)。頼経には別に伝がある。実経は四条朝において正二位権大納言を歴任し、左近衛大将を兼ね、右大臣となった。寛元年間、左大臣に転じ、関白となった。弘安七年(1284)、病により剃髪して名を行祚(ぎょうそ)と改めた。まもなく薨去した。享年六十二。円明寺(えんみょうじ)と号した(注:公卿補任、尊卑分脈)。家は一条と称した(注:尊卑分脈、社官次第)。法助は道家にもっとも愛された(注:五代帝王物語)。仁和寺(にんなじ)の御室(おむろ)は親王の所領であったが、道家は法助を道深法親王(どうしんほっしんのう)の弟子とし、仁和寺に住まわせて、勅により三宮に准じさせ、開田准后(かいでんじゅごう)と称させた。僧が三宮に准じられたのは、これに始まる(注:五代帝王物語、仁和寺御伝)。

藤原公經

藤原公経(ふじわらのきんつね)は、内大臣実宗(さねむね)の子である。左近衛中将、蔵人頭を歴任した。承元年間の初め、正二位権大納言に昇進した(注:公卿補任)。

公経の妻は、源頼朝の妹婿である中納言藤原能保の娘であり、公経はその勢いを頼んで驕り高ぶった。後鳥羽上皇はかつて公経に近衛大将を許すと約束していたが、建保五年(1217)、大将の職が空くと、太政大臣頼実がその子師経(もろつね)を推挙し、上皇はやむを得ず使者を遣わして公経にその旨を伝えさせた。公経は大いに怒り、恨んで言った。「私はもう朝廷に仕える意志はない。髪を剃って世を捨て、源実朝のもとに身を寄せよう。」使者がこれを上皇に報告すると、上皇は怒って公経の朝参を止めさせた。実朝がとりなして事なきを得た(注:愚管抄)。

承久元年、右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任)。承久三年、上皇は北条義時を討とうとしたが、公経が鎌倉と姻戚関係にあることを忌み嫌い、まず公経を殺そうと議した。群臣はみな口をつぐんで何も言わなかった。内大臣藤原公継(きんつぐ)が懸命に諫めた(注:承久記)。それでも上皇は公経とその子実氏(さねうじ)を召し出し、公経の妻の弟である僧尊長(そんちょう)に命じて二人を校書殿(きょうしょでん)に幽閉させた(注:東鑑)。

公経は召し出された時、身に難が及ぶことを悟り、人を遣わして義時が京に置いていた守護伊賀光季(いがのみつすえ)に報せて言った。「上皇からお召しがあっても、決してこれに応じてはならぬ。」光季はそこで自邸に立てこもって戦い、討ち死にした(注:承久記)。大豆渡(まめのわたり)の戦いで官軍が敗れ、上皇が延暦寺に行幸した際、公経父子もまた連れて行かれた(注:東鑑)。尊長は幾度も公経を害しようとしたが、実氏が奔走して守ったため、ついに難を免れた(注:承久記)。

これより先、公経は上皇の計画をひそかに光季に告げ、光季はこれを鎌倉に報せていた。北条泰時(ほうじょうやすとき)が京を制圧すると、公経はひそかに人を遣わしてこれを迎えた。深草河原(ふかくさがわら)で泰時に会うと、泰時は喜んで、兵を遣わして公経の家を警護させた(注:東鑑)。

後堀河帝が即位すると、内大臣に任じられた。翌年、太政大臣を拝命し、まもなく従一位に叙されて、上表して職を辞した。寛喜三年(1231)、病にかかって剃髪し、名を覚勝(かくしょう)と改めた。寛元二年(1244)、薨去した。享年七十四(注:公卿補任)。

公経は関東(鎌倉幕府)との縁組を興しただけでなく、その娘は関白道家にも嫁いで将軍頼経を生んだ。孫娘は一人が後嵯峨帝の中宮となり、一人が後深草帝(ごふかくさてい)の中宮となり、その権勢は並ぶ者なく盛んであった。かつて北山の別荘に仏堂を構え、西園寺(さいおんじ)と名づけた。庭園と堂宇は壮麗で広壮を極め、天下の壮観であった(注:増鏡。尊卑分脈も参照)。これにより西園寺と称された(注:公卿補任、尊卑分脈)。

もともと太政大臣公季(きんすえ)の子孫の家は閑院(かんいん)と号し、公経の曾祖父通季(みちすえ)が乗った車には鞆絵(ともえ)の紋が描かれ、子孫がこれを伝えて、閑院の嫡流でなければ用いることができなかった(注:尊卑分脈)。公経はこれを受け継いで乗り(注:愚管抄)、世人はこれを鞆絵大将(ともえのだいしょう)と呼んだ(注:承久記)。

子は実氏、実有(さねあり)、実雄(さねお)、実藤(さねふじ)、実材(さねき)である(注:尊卑分脈)。実雄は後堀河・四条・後嵯峨・後深草・亀山の五朝に仕え、内大臣に任じられ、右大臣に転じ、皇太子傅となり、従一位左大臣に至った(注:公卿補任、尊卑分脈)。文永十年(1273)、薨去した。享年五十七。山階(やましな)と称した(注:尊卑分脈)。その子公雄(きんお)は権中納言正二位となった(注:公卿補任、尊卑分脈)。若くして後嵯峨帝に仕え、格別の寵愛を受けて寝所にまで出入りを許された(注:増鏡)。帝が崩御すると、悲しみに堪えず、髪を剃って法名を顕覚(けんかく)とした。公雄の弟公守(きんもり)は正安年間の初め、太政大臣に至った(注:公卿補任)。文保元年(1317)、薨去した。山本(やまもと)、また洞院(とういん)と称した(注:尊卑分脈、園太暦)。

藤原實氏

藤原実氏(ふじわらのさねうじ)は、土御門・順徳・後堀河・四条・後嵯峨・後深草の六朝に仕え、次々と要職を歴任して内大臣を拝命し、皇太子傅・後院別当となり、右大臣に転じて従一位に叙された。寛元四年(1246)、太政大臣となった(注:公卿補任)。

実氏は二代の天皇の外戚として、世に重んじられた。その子公基(きんもと)・公相(きんすけ)は、そろって左右の近衛大将となった(注:五代帝王物語、増鏡)。これは平重盛(たいらのしげもり)以来、例のないことであった(注:五代帝王物語)。

実氏は伊予国宇和郡(いよのくにうわぐん)を得ようとし、北条泰時に願い出た。橘公業(たちばなのきんなり)は悲しんで訴えて言った。「私の祖先遠保(とおやす)は、勅を奉じて藤原純友(ふじわらのすみとも)を討伐し、以来宇和の地に住んでまいりました。子孫に罪はなく、その領地を奪うべきではありません。」泰時はこれを困ったことと思った。実氏は重ねて書状を送って言った。「私も老いた。求めるものが得られなければ、深く恥辱と思う。今から鎌倉に赴いて直接話をつけよう。」泰時はやむを得ずこれを許した(注:東鑑)。

文応元年(1260)、剃髪して名を実空(じっくう)と改めた(注:公卿補任、尊卑分脈)。京極の常盤井第(ときわいてい)に住み(注:増鏡)、世に常盤井入道(ときわいにゅうどう)と称された(注:公卿補任、尊卑分脈、増鏡)。文永六年(1269)、薨去した。享年七十六(注:公卿補任、尊卑分脈)。

実氏は和歌に優れ、その死に際して藤原為家(ふじわらのためいえ)はことのほかこれを惜しみ、人に語って言った。「相国(実氏)はかつて『寛元六帖(かんげんろくじょう)は俗に近く、『古今集』には及ぶような秀逸な歌がない』と言われた。これは確かな評論である。」(注:清案抄)

かつて道で北面の武士が勅書を持って通りかかった際、実氏を見て馬を下りて敬意を示した。実氏はこれを弾劾して奏上して言った。「勅書を持つ者は、馬を下りるべきではない。北面の某は礼を知らぬ。このような者をどうして朝廷に仕えさせてよいものか。」そしてこれを退けた。実氏が物事の道理をわきまえていたことは、このようであった(注:徒然草)。

子は公基、公相である。公基は右大臣に至った。文永十一年(1274)、薨去した(注:公卿補任、尊卑分脈)。妻の貞子(ていし)は大宮院(おおみやのいん)と東二条院(とうにじょういん)の二后を生んだ。大宮院は後深草帝・亀山帝の二帝を生んだ。貞子は外祖母として二品に叙され、三宮に准じられた。弘安八年(1285)、帝(後宇多天皇)と与仁上皇(よにんじょうこう)・皇太子が貞子の邸を訪れ、九十歳の賀を祝った。その尊重されたことはこのようであった(注:増鏡)。公相は従二位太政大臣となった(注:公卿補任)。文永四年(1267)、薨去した(注:公卿補任、尊卑分脈)。性格は短気で情に薄く、死に際しても人々にあまり惜しまれなかった。世に伝えられるところでは、公相は顔の上半分が長く下半分が短かったといい、埋葬の後、妖術を使う者が墓を暴いて首を斬り去ったという(注:増鏡)。子の実兼(さねかね)もまた従一位太政大臣に至った(注:公卿補任、尊卑分脈)。

藤原公繼

藤原公継(ふじわらのきんつぐ)は、左大臣実定の第三子である。寿永二年(1183)、侍従となった(注:公卿補任)。幼くして聡明であった。十一歳の時、右大臣藤原兼実に謁見した際、諸卿が集まって連句を詠んでいたところ、公継は琵琶を弾じ、扇に連句を書きつけ、その筆法は見事なもので、兼実は驚き感嘆して、琵琶を贈った(注:玉海)。

建久年間、参議に任じられ、従三位に叙され、次第に昇進して大納言となり、正二位に進んだ。まもなく右近衛大将を兼ねた。承元三年(1209)、内大臣に任じられた。建暦元年(1211)、右大臣に転じた(注:公卿補任)。

右近衛大将藤原公経は、姻戚関係により鎌倉と親しくしていたが、後鳥羽上皇が北条義時を討とうと謀った際、まず公経を殺そうとした。公継は諫めて言った。「彼(公経)は武人ではなく、命令の実権はこちらにあります。たとえ罪があったとしても、じっくりと議論すべきです。まして今日の企ては、私にはその是非がわかりません。かつて後白河帝が義仲を討たれた際、命を頼朝ではなく、軽率で粗雑な知康(ともやす)にお与えになりました。その結果、官軍は敗れ、御所は血に染まりました。これは近い過去の明白な教訓です。まして関東の兵力は官軍の百倍にも及びます。今、その多寡を計らずに、にわかに天誅を加えるのは、ほとんど無謀な策と申せましょう。どうかお考え直しください。」上皇は快く思わなかったが、公経もこれによって死を免れることができた。その後、官軍は敗北し、まさに公継の言葉の通りとなった(注:承久記)。

元仁元年(1224)、左大臣に任じられた。翌年、従一位に叙された。安貞元年(1227)、薨去した。享年五十三。野宮(ののみや)と称した(注:公卿補任)。

公継が幼かった頃、その母は公継を抱いて人相見のもとへ連れて行った。人相見は言った。「この子はいずれ一上(いちのかみ、大臣の最高位の意)となるでしょう。」母はわざと偽って言った。「この子の父は武士です。どうして一上になれましょうか。」人相見は言った。「もし父が武士であるならば、必ず検非違使になるでしょう。しかし私の見るところでは、これは大臣の相です。」果たしてその言葉の通りになった(注:古今著聞集)。

子の実基(さねもと)は寛元四年(1246)、内大臣に任じられた(注:公卿補任)。建長五年(1253)、太政大臣となった(注:一代要記)。文永十年、薨去した(注:公卿補任。本書には十二年とあるが、本書に薨去時の年齢を七十二とし、また十年に子の公孝(きんたか)が喪に服したという記載があることから、これにより十年に訂正する)。