卷之一百五十八 列傳第八十五

藤原長方、藤原經房

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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藤原長方

藤原長方(ふじわらのながかた)は、初め名を憲頼(のりより)といい、権中納言顕長(あきなが)の長男である(注:公卿補任、尊卑分脈による)。学才に優れ(注:玉海による)、官位を重ねて従二位権中納言に至った(注:尊卑分脈による。公卿補任には正二位とあるが誤りである)。人となりは剛毅で、事に当たっては敢えて直言し、少しも回避することがなかったため、実直な人物として知られた(注:玉海による)。

平清盛(たいらのきよもり)が都を福原(ふくはら)に遷したとき、長方は不満を抱いて行幸に従わず、京に留まった。当時の人々は彼を「留守中納言」と呼んだ(注:源平盛衰記による。ただし長方はこのとき参議であり、ここで中納言と呼ぶのは後の官位で追って称したものである)。

これより先、清盛は法皇を離宮に幽閉し、関白基房(もとふさ)を備前に流すなど、その凶暴ぶりは日ごとに激しくなっていた。人々はその威勢を恐れ、あえて意見を言う者はいなかった。源頼朝(みなもとのよりとも)が兵を挙げるに及んで、上皇は群臣を召して対応を議論させた。長方は進み出て言った。「頼朝は孤立無援の身で兵を挙げましたが、数か月の間に呼応する者は十数か国に及んでいます。これは人心が乱れを望み、なびいて彼に従っているからにほかなりません。他でもなく、政治が天意にかなっていないことがその原因です。どうか法皇に元のように政務を執っていただき、基房を京に呼び戻し、徳政に努めるべきです。そうすれば天意も改まり、兵乱も鎮まることでしょう。」その場にいた者は皆顔色を失った。清盛はこれを聞いて内心恐れ、法皇を元の通りに奉じ、基房を京に呼び戻した。長方の功績によるところが大きかった(注:玉海、古今著聞集による)。

清盛が百官を集め、福原と京、両都のどちらが良いかを問うたとき、人々は口を閉ざして誰も言おうとしなかったが、長方だけは理を分けて指摘し、新都の不便な点を極言した。周りの者は皆長方の身を案じた。まもなく京へ戻す方針が決まると、ある人が長方に言った。「新都は清盛(静海)が最も気に入っていたところなのに、あなたはなぜあれほど激しく非難したのですか。清盛があなたの言を聞き入れたのは思いがけない幸運にすぎません。もし彼の怒りに触れていたら、どうするおつもりでしたか。」長方は答えた。「そうではありません。人の常として、自分が正しいと思うことは思うままに行い、後先を顧みないものです。そして疑いや後悔が生じて初めて、人に相談するようになります。清盛(静海)が問いを発したのは、私はすでに彼の心が内心では都を戻すことに傾いていると分かっていたので、それに従って導いたまでのことです。もとより彼の怒りを冒すつもりはありませんでした。」これを聞いた人々は感服した。清盛は長方を大いに重んじ、除目のたびに必ず「この人は才識が広く優れており、他の者に位を越えさせてはならない」と言った(注:続古事談による)。

寿永二年(1183年)、平維盛(たいらのこれもり)・通盛(みちもり)らが源義仲(みなもとのよしなか)を討ったが、軍は敗れて引き返した。京は騒然となり、法皇は群臣を召して防御の方策を議論させた。長方は言った。「源氏が兵を起こしてより、その勢いは日ごとに猖獗を極め、官軍はたびたび敗れ、もはや支えきることができません。国家の危急として、これほどのものはかつてありませんでした。昔、漢が匈奴に苦しめられ、力で防ぐことができなかったとき、和親を結んで急場をしのいだのは、時宜にかなった処置と言えるでしょう。多少朝廷の法を曲げることになっても、民の命を失うことに比べれば、その利害の軽重は明らかです。早く朝廷の使者を遣わし、その罪を赦して一方の地を救うべきです。」しかしこの意見は聞き入れられなかった。義仲は延暦寺に進み拠り、京は守りを失い、内大臣平宗盛(たいらのむねもり)は養和帝(ようわてい)を奉じて西海へ逃れた。義仲らは京に入って法皇に謁見した(注:源平盛衰記による)。

法皇が恩賞を行おうとした際、議論する者たちは「戦功を論じれば義仲が第一の賞を受けるべきだが、頼朝こそ挙兵の首唱者であり、義仲に劣後させるわけにはいかない」として、議論は長らく決しなかった(注:玉海による)。長方は言った。「漢が諸呂を誅して文帝を立てたとき、陳平(ちんぺい)が謀略の中心でした。しかし周勃(しゅうぼつ)は戦功によって陳平を超える恩賞を受けました。これを先例とすれば、義仲の恩賞が頼朝を超えることもありえます。しかし故事を調べますと、平将門(たいらのまさかど)を討伐したとき、乱を平定した功があったのは藤原秀郷(ふじわらのひでさと)ですが、実際に戦って功を立てたのは平貞盛(たいらのさだもり)でした。当時は秀郷を功第一としました。これに照らせば、頼朝こそ第一の恩賞を受けるべきです。」この意見に従うことになった(注:源平盛衰記による)。

義仲は法皇を奉じて西海へ赴こうとし、諸社の中でも石清水社(いわしみずしゃ)への参詣を勧めた。人々は皆これを危ぶみ恐れた。長方は使者を遣わして義仲に告げさせた。「法皇には穢れに触れられたことがあり、いまだ神を拝することはできません。たとえ自ら参拝の礼をなさらなくとも、なお神宮に近づくべきではありません。」義仲はもっともだと思い、参詣の期日を延ばした。義仲はまもなく討たれた(注:玉海による)。

文治元年(1185年)、源頼朝が総追捕使に任じられることを求めたとき、法皇は群臣に意見を問うた。長方は不可であると強く主張したが、法皇はこれを聞き入れなかった(注:八坂本平家物語による)。この年、長方は髪を剃り、名を中印(ちゅういん)と改めた(注:公卿補任による)。右大臣藤原兼実(ふじわらのかねざね)は常々一代の名士を推挙してきたが、このときに至って嘆いて言った。「朝廷がこの臣を失ったことは、公家にとって大きな損失であり、まことに惜しむべきことである。」(注:玉海による)

文治三年(1187年)、朝廷は群臣に意見を上申させる勅を下した。その中で長方にも意見が求められたが、長方は朝廷の事がもはやどうにもならないことを悟り、二度と意見を述べようとしなかった。建久二年(1191年)、薨去した(注:玉海、尊卑分脈、公卿補任による)。享年五十三(注:公卿補任による)。世に梅極小路(うめのこうじ)中納言と称され、また八条とも称された(注:玉海、源平盛衰記による)。長方は詩をよくし(注:玉海による)、著作に『新選秀句』がある(注:仁和寺書籍目録による)。

子に宗隆(むねたか)・長兼(ながかね)・兼高(かねたか)がいる。宗隆は権中納言従二位。長兼は初め名を頼房といい、文才があり、権中納言正二位に至った。兼高は参議正三位であった(注:公卿補任、尊卑分脈による。文才があったことは尊卑分脈による)。

藤原經房

藤原経房(ふじわらのつねふさ)は、右中弁光房(みつふさ)の子である(注:公卿補任、尊卑分脈による)。勘解由小路(かでのこうじ)と称し、また吉田(よしだ)とも称された(注:尊卑分脈、源平盛衰記による)。内外の官職を歴任した。養和・寿永年間には参議に任じられ、近江守を兼ね、従三位に叙せられ、権中納言を拝命した。建久年間には民部卿を兼ね、正二位権大納言に至った(注:公卿補任による)。

当初、平氏が政権を握っていた頃、大きな議論があるたびに、決まって経房に諮問した(注:源平盛衰記による)。平氏が滅び源頼朝が興ると、頼朝もまた経房の人柄を聞き知り、たびたび懇ろに音信を通わせた。そのため経房は深く自ら頼朝に結びつき、内心では頼朝が自分を推挙してくれることを望んでいた(注:東鑑による。源平盛衰記・平家物語の二書はいずれも、経房は人となり廉直で節操を持ち、平氏が滅んで頼朝が遠く朝政を掌握するようになると、廷臣の多くが頼朝に取り入り敬意を通わせ、たとえ平氏の姻戚であってもそうしない者はなかったが、経房だけは節を守って阿ることがなかったとする。本書の記述とは大きく異なるため、ここでは採らない。)

文治の初め、頼朝が天下の総追捕使となることを望んだ際、経房はこれに賛成し、実現に力があった(注:源平盛衰記、平家物語による)。これ以来、頼朝が何かを申し請おうとするたびに、事の大小を問わず経房を通じて奏上させた(注:東鑑による)。ついに経房は議奏に推挙された(注:玉海、東鑑による)。ある人が頼朝に経房のことで異論を唱えたとき、頼朝は聞き入れずに言った。「経房はもとより良臣の誉れがあり、そのうえ私が申し請うことは、すべて彼を通して奏達させており、不都合なところを見たことがない。このような言葉は二度と口に出してはならない。」(注:東鑑による)

正治二年(1200年)、薨去した。享年五十八(注:公卿補任、尊卑分脈による)。その日記は『吉記』という(注:仁和寺書籍目録による)。