卷之一百五十七 列傳第八十四

藤原兼實、藤原良經

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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藤原兼實

藤原兼実(ふじわらのかねざね)は、関白藤原忠通(ふじわらのただみち)の三男である。家号は九条(くじょう)。保元3年(1158年)、正五位下に叙せられ、累進して左近衛中将に至った。平治年間、従三位権中納言となった。応保元年(1161年)、権大納言に転じ、右近衛大将を兼ねた。長寛2年(1164年)、内大臣となった。仁安(にんあん)の初め、東宮傅(とうぐうのふ)を兼ねた。まもなく右大臣に転じた。承安(じょうあん)の末、従一位に叙せられた。(注:『公卿補任』による。)

兼実は先例・故実に博く通じており、朝廷に疑義が生じるたびにしばしば意見を求められた。治承4年(1180年)、帝は安徳天皇(あんとくてんのう)に譲位した。数か月後、平清盛(たいらのきよもり)が都を福原(ふくはら)に遷したが、都の規模がまだ定まらなかったため、これを離宮と称していた。ところがその年は大嘗祭(だいじょうさい)を行うべき年に当たっており、上皇は宮室が未完成であることを憂い、大礼が滞っていた。群臣の中には旧来の建物を修理して続けるべきだと言う者もあれば、里内裏(さとだいり)を造ってそこで行おうとする者もあり、上皇は決めかねていた。兼実は旧都(京都)にとどまっており、召されて問われた。兼実は答えて言った。「祭祀と宮闕(きゅうけつ、宮城)は、どちらも疎かにはできません。もし宮城を造営してから祭祀を行おうとすれば、莫大な費用がかさみ、造営の目処が立たなくなります。しばらく旧都に戻って祭祀を行い、その後徐々に宮城について議するべきです。敬虔の心を失わなければ、民もそれに応えて慶事を期待するでしょう。」上皇はそこで大嘗祭を中止した。

養和元年(1181年)、上皇が崩御した。帝はまだ幼く、法皇(後白河法皇)が自ら政務を執った。この頃、客星(彗星のような異常な星)が現れ、炎暑による干魃と飢饉が起こった。法皇は災いを払う方法を兼実に尋ねた。兼実は答えて言った。「そもそも人の行いが下で誤れば、災いの前兆が上に現れるものです。君主は広く卿大夫を召し、面と向かって直言させるべきです。国は民を根本としており、根本が揺らげば国はどうして立ちゆきましょうか。ここ数年炎暑と干魃が続き、穀物が実らないのに、四方に兵を出して疲弊した民に課役を課し、兵糧の供出を求め、その上に東大寺・興福寺両寺の修造まで行わせているため、百姓は嘆き苦しみ、休む間もありません。豊年でさえ堪えがたいのに、まして凶作の巡り合わせにおいてはなおさらです。今、天の譴め(とがめ)を消し去り人々を救おうとするならば、祈りによる祓いと徳による教化にかかっています。古来、祈祷祭祀の方法は効験がまちまちで、朝廷が既に行っているものであっても、通常の修法だけでは事態を覆すことはできません。特に幣使(へいし)を遣わして伊勢大神宮や崇敬する諸社に事情を告げるべきです。また顕教・密教の僧を選び、秘法を丹念に修めさせ、懇ろに祈りを捧げて訴え請えば、災いの兆しはきっと消えることでしょう。今の時勢において徳政を行おうとしても、征討を軽々しく止めるわけにはいかず、土木工事も廃するのは難しいものです。しかし国が疲弊し民が消耗している以上、たとえ賊の首魁を捕らえたとしても益はありません。いくらか寛容の心を持ち、民の心に従うべきです。征討についてはもっぱら将帥に委ね、ただ兵糧の支給を適正にし、無駄な出費を省くよう努めれば、民の怨みを鎮めることができるでしょう。土木工事もまた節度をもって制限し、下々への恵みの仁を施すべきです。そもそも訴訟は明君が慎重に扱うべきものです。理官(りかん、裁判を司る官)に命じて、訴訟を審理し囚人を記録させ、真偽を究明して公平に処するよう努めさせるべきです。災異によって大赦を行った先例は非常に多くあります。寛弘年間(1004~1012年頃)、客星が現れた際には囚人を赦免し、たちまち妖しい気配を消し去ったといいます。これは従うべき先例です。もし伊勢大神宮の神官の訴えや諸寺の悪徒についても、首謀者を懲らしめ、その他の者は皆罪を洗い流して新たに出直させれば、天の意を取り戻し霊験にあずかることができるでしょう。」法皇はこれを用いることができなかった。

源義仲(みなもとのよしなか)が近畿に迫ると、平氏は帝(安徳天皇)を奉じ、神器(三種の神器)を携えて西海(さいかい)へ逃れた。京では主(あるじ)が不在となり、そこで「帝の還幸を待つのと、神器なしで別に主を立てるのと、どちらが吉か」を占わせた。官人らは「帝の還幸を待つのが吉」と奏上した。法皇は改めて官人数人にそれぞれ議論させたが、意見は一致しなかった。兼実は上言した。「天下は一日たりとも主なしではいられません。しかし帝位が空いたままとなって今に至り、万民は心のよりどころを失っています。近頃盗賊による略奪がしばしば起こり、村里が動揺しているのも、主がいないためです。これが早く主を立てるべき理由の一つです。平氏は帝を擁して号令していますが、こちらに主がいないままそれを討伐しては、大義名分のない出兵となってしまいます。これが早く主を立てるべき理由の二つ目です。祖宗の法では、剣璽(けんじ、剣と璽)がなければ即位できないとされています。しかし国史を調べると、継体天皇(けいたいてんのう)は即位前に天皇と称し践祚(せんそ)したとされ、剣璽を得てから初めて大位に即いています。これは今の事情とちょうど同じであり、先例とすることができます。これが早く主を立てるべき理由の三つ目です。この三つの道理がある以上、早く方策を定めなければ、どうして乱の源を塞ぎ、姦悪の企てを防ぐことができましょうか。」法皇はこれを喜び、そこで後鳥羽天皇(ごとばてんのう)を立てた。

そのとき群臣の中には「安徳帝は紫宸殿(ししんでん)で即位したのに、その帝位を全うできなかったのだから、別の御殿を用いるべきだ」と論じる者もあった。兼実は上言した。「先の御代のとき、私は南殿(なでん、紫宸殿の異称)を用いるよう勧めました。今、群臣は忌み事にとらわれ、その咎を建物のせいにしています。明君はまず物事の是非の理を考えるものであり、先例の吉凶を問うものではありません。大極殿(だいごくでん)で即位し、豊楽殿(ぶらくでん)で祭祀を行う、というのが本来の古い定めです。豊楽殿が廃れてからは、祭祀も併せて大極殿で行うようになりました。大極殿は正殿であり、紫宸殿は正寝(せいしん、天皇の常の御所)です。今、大極殿は火災に遭い未だ再建されていないので、紫宸殿で行うのが至当です。正殿がすでにない以上、どうして動かすべきでない正寝を差し置いて、格を下げて諸司の庁で行うことがありましょうか。それに剣璽がまだ還っていないのですから、即位は剣璽の還るのを待って停止すべきです。剣璽を伝えずに大位に即いた例など、私はこれまで聞いたことがありません。」

義仲が命を受けて平氏を討とうとしていた時、源頼朝(みなもとのよりとも)が弟の義経(よしつね)を遣わし、兵を率いて西上させたと道々聞き、そのため義仲もまた京へ引き返し、日に日に横暴の度を増して、もはや西征する意志を失っていた。法皇はしばしば人を遣わして督促したが、義仲は命に従わなかった。この頃、都では浮説が沸き立ち、義仲が謀反を起こすだろうと噂されていた。法皇はこれを憂慮し、法住寺殿(ほうじゅうじどの)に兵を集めて備え、また密かに帝を法住寺殿に移そうとした。兼実に諮ったところ、兼実は答えて言った。「私が聞くところでは、およそ臣下に罪があれば、その軽重を見極め、法に基づいて裁くべきものです。それを御殿の階の下に兵を集めて雌雄を決しようとするのは、王者が君臨する姿と言えるでしょうか。とはいえ義仲が命に従わないのも、理由がないわけではありません。私の考えでは、使者を遣わしてその狂暴で道理に外れた実情を確かめ、それによって浮説の出所を調べ、もし首謀者の名がわかれば、それを捕らえて法に照らすべきです。義仲もあるいは服従するでしょうから、どうして征討の労を煩わす必要がありましょうか。私はまた、義仲が防戦しようとしているのは、ひとえに東国の軍勢の多さを嫌ってのことだと聞いています。陛下がもし義仲に兵馬を減らさせれば、義仲は必ず出発するでしょう。彼が京を出れば、迫られる恐れは除かれ、朝廷は外にあってこれを徐々に制することができます。今、この策を取らずに、急いで主上を他所へお移ししようとするのは、決してよくないことと存じます。」法皇はこれを用いることができなかった。

法皇はまた即位について議論し、蔵人頭(くろうどのとう)藤原光雅(ふじわらのみつまさ)を遣わして兼実に問わせた。「時期を選んで即位の礼を行おうと思う。しかし即位すれば大嘗祭も行わないわけにはいかない。この年は戦乱で世が荒れ、小事すら手配しがたいのに、まして巨額の費用が相次ぐことなどできようか。即位は先延ばしにできないが、大嘗祭を行わなければ即位も無駄になってしまう。」兼実は答えて言った。「天位の授受にあたっては、今日禅譲を受け、明日即位するのが、古今を通じての通例です。去年践祚がありながら即位を行っていないのは、多難な世がそうさせたものであり、本来は通常の例ではありません。もし適当な時機を得れば、速やかに行うべきです。しかし神祖の約束では、剣璽を伝えた者を国主とすると定められています。剣璽なくして大位に即いた例は、昔から今に至るまでありません。先には天下が一日たりとも主なしではいられないという理由で、まず主を立てました。しかし即位については、必ず剣璽の還るのを待った上で議論すべきです。今、神鏡・剣璽はまさに賊の手中にあり、その存否すらわかりませんが、それでも必ずその還りを待つべきだと申せば、時の世論には受け入れられないでしょう。それでも私がなお憂え憤ってやまないのはなぜでしょうか。神器が奪い取られてから、すでに一年余りが過ぎましたが、いまだ策を立て、祈祷を修めてこれを迎え取ろうと図ったという話を聞きません。速やかに天地の神々に祈りを捧げ、直ちに征討を行って神器を取り戻すべきです。国運がまだ衰えていなければ、神器は必ず無事に還ってくるでしょう。それを奉じて即位すれば、これに勝る慶事はありません。もし万一時運が尽き、神器が失われるようなことがあれば、それが取り戻せないことを見極めた上で、改めて即位を議論すべきです。今、なすべきことを尽くさぬまま、いい加減に即位しようとすれば、神器を重んじない誹りを受けるおそれがあります。たとえ私の言葉が用いられず、大位に即くことが決まったとしても、精鋭の兵を励まし、意を尽くして失われた宝物を取り戻すよう努めるべきです。そうすれば神々もどうして助け守らないことがありましょうか。成否もどうして果断に決しないことがありましょうか。」

法皇はまた光雅を遣わして言わせた。「奏上の内容はまさに朕の意にかなうものである。しかし議論する者の中には、『即位や大嘗祭を中止すれば、逆賊がかえって勢いを得て、ますます朕を侮り笑うことになろう。また神器が還るかどうかは、あらかじめ期すことはできない。早く即位して賊の望みを絶つべきだ』と言う者もいる。朕は大いに迷っている。卿、再び議論せよ。」兼実は答えて言った。「議論する者が上策を勧めるならば、速やかにそれに従うべきです。」光雅が強いてこの議論を推し進めようとしたので、兼実は言った。「これは国家の大事であり、私がどうして独断の見解に固執して、広く意見を聞く道を塞ぐことができましょうか。神器と賊徒とどちらが重いか、日夜苦心し精魂を傾けて神器を取り戻す策を講じたという話は聞かず、ただ賊徒の猖獗(しょうけつ)を憂えているだけでは、たやすく即位を行えば、ますます天下に神器を軽んじる姿を示すことになりましょう。今、神器を奉じずに即位すれば、後世の口実となり、僭窃(せんせつ、身分をこえて位を奪うこと)が絶えなくなることを私は恐れます。これはひとり当今の国体だけに関わることではありません。」摂政の基通(もとみち)、左大臣の経宗(つねむね)らは、「早く大礼を行うべきだ」と述べた。法皇もまた衆議に引きずられ、ついに帝を太政官庁(だいじょうかんちょう)で即位させた。

兼実は長年の名望をもちながら久しく大臣の地位にあったが、国政の実権を握ることができなかった。甥の基通が早くから摂政の座にあったが、これといった建言もなかった。頼朝は兼実を賢才とみなし、それとなくその意向をほのめかして、基通を罷免し兼実に代えようとした。しかし法皇は基通を寵愛しており、これを許さなかった。

義経は平氏を討伐した功があり、法皇に寵愛されていた。頼朝はこれを深く忌み嫌い、義経を殺そうと図った。義経は頼朝討伐の宣旨を賜るよう乞い、内外は恐れおののいた。法皇は高階泰経(たかしなのやすつね)を遣わして兼実に諮らせ、「義経の願いを拒んで許さなければ、事態は測りがたいことになろう。どう対処すべきか」と尋ねさせた。兼実は答えて言った。「追討の宣旨は慎重を要するものです。八虐(はちぎゃく、律における八種の重罪)に当たる罪でなければ、みだりに下すべきではありません。今、頼朝の犯した罪はそこまでには至っておらず、たやすく宣旨を下すことは、私の理解の及ぶところではありません。かつて清盛や義仲が頼朝討伐を求めた際にも、いずれも宣旨が下されました。それは本来叡慮(えいりょ)から出たものではなく、やむを得ず出されたものでした。それなのに近頃反乱がやまないのは、まさにそれが原因なのです。今、たとえ目前の危難を避けるためとはいえ、どうしてその過ちを繰り返すことができましょうか。しかしこれは私が敢えて決めることではなく、ただ陛下の御心が判断されることです。」

泰経は言った。「法皇はもとより頼朝に反意がないことを察しておられ、ただ義経を安心させたいだけなのです。あなたの言葉の様子を見ると、頼朝に味方しているように見えます。頼朝はひそかにあなたを推挙しています。叡慮では、あなたがその言葉に恩義を感じて頼朝のために計らっているのではとお疑いになるやもしれず、それではあなたにとって不利になります。頼朝はすでに先の宣旨が清盛や義仲の求めから出たものであると察しているのですから、今回の宣旨もまた朝廷の本意ではないと察さないはずがありましょうか。これを下したところで何の害がありましょう。」

兼実は言った。「これは朝廷の大事です。どうして私情を挟んで公事を忘れることができましょうか。及ばずながらの忠義ゆえ、嫌疑を避けはしません。義経の頼朝に対する立場は、清盛や義仲の場合と同じでしょうか。あなたは先の一件で頼朝が怒らなかったことをもって、今回も何事もないと保証できるのですか。今の策としては、義経を諭してその企てを緩めさせ、使者を遣わして頼朝に問うべきです。『義経はしばしば勲功を立て、あなたの代官でもある。それゆえ朝廷はこれを頼みとしてきた。近頃あなたが義経を殺そうとしていると聞くが、その罪は何なのか。あるいは讒言によって陥れられ、そのために害しようとしているのなら、冤罪ではないか。それとも罪状が明白なのか。それならば鎌倉に送って法に処すべきである。今、兵を差し向けて京を騒がせようとするのは、朝廷の法をあまりに蔑ろにするものだ。』このように戒め敕(みことのり)しても、なお頼朝が争おうとするならば、その時こそ勅命に背いたものとして処し、速やかに征伐を行うべきです。今、罪科もはっきりしないうちに、たやすく宣旨を下しては、後悔しても及びません。」泰経は承諾して退出した。兼実は嘆じて言った。「天倫(骨肉の情)は失われてしまった。兄弟が互いに悖逆(はいぎゃく)をほしいままにするとは、乱れの極みである。」

このとき左大臣経宗らは、「今、宮中の守りは手薄であり、朝廷が頼みとするのはただ義経だけである。その願いを拒んで、いったん変事が起これば、誰がこれに当たれようか。ひとまずこれを許すに越したことはない」と論じた。その夜、頼朝が差し向けた僧昌俊(しょうしゅん)が義経の邸を襲い、御所の中は騒然となった。翌日、ついに宣旨が下された。

まもなく頼朝は上書して自らの立場を述べ、義経に関わった者を列挙して、あるいは流罪に、あるいは罷免にするよう求め、さらに朝廷の官人を淘汰し、人事の異動を計画して、議定に加わる公卿十人を奏上し、その筆頭に兼実を挙げて、内覧(ないらん)の宣下を求めた。法皇は兼実が頼朝に自分を推挙させたのではないかと疑い、基通にあらかじめ職を避けるよう戒めた。兼実は内覧を辞退して言った。「今、幼い主上が即位されたばかりで、万事が旧に復そうとしています。頼朝は朝廷を粛正し、刷新の政治をもたらそうとしています。しかし摂政のほかに、さらに内覧を置くことは、治世を求めるものではなく、かえって乱を招くものです。醍醐天皇(だいごてんのう)は帝王の中でも第一と称されながら、菅原道真(すがわらのみちざね)を追放したことで過ちを犯しました。鳥羽天皇(とばてんのう)は世を治めた賢君でありながら、藤原頼長(ふじわらのよりなが)を用いたことで過ちを犯しました。これらはある者に権威を分け与えようと謀ったため、あるいは邪な者を寵愛したためです。保元の乱以降、世が不穏なままであるのは、その始まりを尋ねれば、仁平(にんぺい)の頃の誤った処置に他なりません。帝王が治世を図るには、子孫のための計を残すことに努めるべきです。延喜(えんぎ)や仁平の故事は、世を挙げて明らかな戒めとされています。今また同じ過ちを繰り返せば、どうして後世に模範を示すことができましょうか。そもそも天子が親政を行う場合、献上された文書をまず委任した臣下に示す、これを内覧と言います。今、幼い主上はまだ万機を親裁しておらず、摂政が仮に南面して万機を摂行しています。それなのに別に内覧を置き、摂政に示すべき文書をまず内覧に示すとなれば、摂政と内覧との間に、ほとんど君臣の礼があるかのようになってしまいます。今、私を内覧としても、その立場は摂政と対等ではありません。位階の叙任や除目(じもく)、官奏(かんそう)は、長らく摂政の直廬(じきろ、御所内の詰所)で行われてきました。私を内覧としても、やはりその直廬において職務を分けて行うことになるのでしょうか。すべて物事には、まず理を正した上で先例とすべきものがあります。これは古い先例でもなく、また理にも背いています。どうして末代の誤った処置を踏襲して、理に背くことを行うことができましょうか。伏してこの奏上を差し止められますようお願い申し上げます。」

法皇はこれを聞き入れず、「先例の有無に、もはやこだわるべきではない。黜陟(ちゅっちょく、官の進退)や人事の去就は、頼朝が思うままに定めたものである。どうして先例などあろうか」と言った。兼実はすでに内覧を拝命していたが、もとより法皇に好まれてはいなかった。基通は摂政ではあったが、その名声は兼実に及ばなかった。法皇はそのたびに不快に思っていた。讒言や誹謗が日々行われ、猜疑と嫌悪はますます深まった。兼実は寵姫の丹後局(たんごのつぼね)に拝謁して自ら弁明しようとしたが、かなわなかった。頼朝はついに兼実を摂政に推挙して言った。「兼実は私が引き立ててくれることを望んでいるわけではなく、私もまた兼実を私的に贔屓しているわけではありません。衆望が一致するところであり、まことに適当な人事です。」

文治2年(1186年)、兼実は摂政となり、右大臣を辞した。法皇は左少弁(さしょうべん)藤原定長(ふじわらのさだなが)に言った。「そなたの兄光長(みつなが)は学問があり、かなり人望を得ている。近頃、摂政に近づいて、事あるごとに朕をそしっていると聞く。中でも『法皇は天下のことを知る立場にはふさわしくない』という言葉があったという。摂政が光長に頼朝へそう伝えさせたとすれば、朕は甚だ怨めしく思う。」兼実はこれを聞いて、ますます不安になり、門を閉ざして出仕しなくなった。定長を通じて奏上して言った。「私は自らを省みるに過失はないと思っておりますのに、かえって徒党を組んでいるとの汚名を被っております。どうして枢機の要職にとどまることができましょうか。讒言と誣告の言葉は、弁明して晴らすことができません。どうか速やかに罷免していただきたく存じます。もしお許しをいただけるならば、密かに叡旨(えいし)を関東に伝えたく存じます。私自身の心情をもって頼朝を諭したいと思います。しかし私の登用が頼朝の推挙によるものである以上、頼朝が態度を決めかねるのではないかと恐れております。」

法皇は黙り込み、後悔の色を浮かべて言った。「朕は光長に腹を立て、密かに侍臣に語っただけであり、事がここまで至るとは思わなかった。」その後数日して、定長を遣わして兼実に言わせた。「先に朕は光長についてただ聞いたことをそのまま口にしただけであり、必ずしもそれを信じていたわけではない。それなのに、そなたが思い悩んで辞職しようとするとは、まったく道理に合わない。関東に報せることについても、朕の命令とそなたの言葉と、どちらが重いというのか。そなたの願いはすべて朕の意には沿わない。そもそも摂政の任は、春日大明神(かすがだいみょうじん)がお裁きになることであり、それぞれに定まった運命がある。どうして急いで辞職することがあろうか。前の摂政(基通)はしばしば忠節を表しており、朕はそれを常に思っている。すでにその職を罷免し、さらにその家領を削ったことを朕は甚だ気の毒に思い、しばしば関東にもそう伝えているが、これもまたそれぞれの定めなのであろう。今後は、そなたも基通をよく見て、平静な心で接し、両者の間にわだかまりを持たないようにすることを、朕は深く喜ばしく思う。およそ朕が可否を判断するのは、ただ世論を採用するだけであり、他意があるわけではない。今年は豊作であり、これは政治が天意にかなった証であろう。卿はどうか畏れて避けることのないように。」兼実はそこで辞職を思いとどまった。

まもなく、兼実は法皇の御所に参上して議して言った。「近頃、諸国からの貢賦(こうふ)は、願い出るままに免除されています。諸司(役所)は財が尽き果て、蓄えが見当たりません。神事・仏事、および諸々の儀礼は、どこから供給を取ればよいのでしょうか。少しでも督促を加えなければ、次々と互いに真似をするようになり、諸社の修造を担うべき国々もまた、免除を望むようになるでしょう。時宜を斟酌して、免除の法を定めるべきです。一年の間に必要な物については、あらかじめ諸司に品目を上申させるべきです。もしその費用が足りなければ、節減に努めるべきです。上卿(しょうけい)を一人選んで全体の会計を統括させ、事前に議定して、国家の礼典が時機に遅れることのないようにすべきです。」

この頃、諸国が亀を献上しなかったため、御体御卜(おんたいのみうら、天皇の身体安泰を占う神事)が停止された。兼実は奏上して言った。「賞罰は国家の大綱です。今、諸国がこのように命令を怠っています。元暦(げんりゃく)年間には、戦乱を理由に御卜が停止されましたが、それを除けばこれまで前例がありません。朝廷が一言も発しないままでは、どうして政治が行えましょうか。」また徳による教化を施し、風教を崇めるよう求めた。法皇は返答して言った。「卿が職に就いた当初、朕は流言に惑わされていた。しかし今はすっかり氷解している。政務を補佐して以来、公正で私心がない。皆が仰ぎ見る名望は、時を経るごとにますます高まっている。奏上した内容はまことに善い。今後も政治の経綸を頼みとするので、卿は知りながら言わずにおくことのないように。神祇はすべてを見ておられるのだから、もはや疑う余地はない。」このように懇ろに慰め励ましたが、結局両者の心は通じ合わなかった。

文治5年(1189年)、太政大臣となったが、まもなくこれを辞した。建久2年(1191年)、関白となった。建久3年(1192年)、法皇が病に伏し、伊勢大神宮に奉る告文(こうぶん)を兼実に示したが、その中に「朕もまた儚いこの世を慕わず、いっそ早く蓮台(れんだい、極楽往生)を期したい」という句があった。兼実は答えて言った。「御心の広大さは、愚かな私の及ぶところではありません。しかし退いて考えてみますと、なお不安に思われることがあります。主上が次第に成長され、天下の政を自ら総覧されるようになれば、そのようなお考えを持たれることもよろしいでしょう。しかし今、主上はまだ幼く、政はひとえに陛下にかかっております。万一陛下に万一のことがあれば、天下をどうなさるおつもりでしょうか。近い世では白河法皇(しらかわほうおう)が七十七歳の長寿を保たれ、万民がこれを喜び戴きました。寿命の長短は必ずしも同じではありませんが、天下のために、皇孫が成長するのを待つ間、あと数年の御寿命を乞い願うべきです。また私はこう聞いております。『国家の治乱は、たとえば人の身体に病があるようなものである』と。およそ病には急激なものもありますが、いったん治癒すれば、その後に患いを残すことはありません。かつての世の情勢はそのようなものでした。しかしもし病が身体に絡みつき、年月を重ねて長引けば、五臓六腑にまで深く浸みわたり、必ず倒れて命を落とすことになります。今日の情勢はまさにこれに当たります。なぜなら、清盛や義仲がもたらした禍(わざわい)、行家(ゆきいえ)や義経がもたらした難は、その患いが急でなかったわけではありませんが、誅討が時宜にかなっており、あえて時をおかずに片付いたため、後患を残しませんでした。ところが今、頼朝の雄傑ぶりには、誰も刃を交えて争おうとする者がありません。大きな難を切り払い、名目上は太平と称されています。しかし民の戸口は疲弊し、悪事は日ごとに増しています。天下の富をもってしても、貢賦は不足し、諸事がうまく運ばず、禍いはほとんど測り知れません。宗廟の御霊も、憂え嘆いておられるのではないでしょうか。私どもがおりましても、ただ黙って員数に備わっているだけです。陛下がこの民のことを深く案じられるのでなければ、誰がこの傾いた世を支え立て直すことができましょうか。どうかこのような趣旨を告文にお加えください。」(注:『玉海』による。)

建久7年(1196年)、関白を罷免された。(注:『公卿補任』による。)初め、兼実の娘は入内して中宮(ちゅうぐう)となったが、まもなく皇女を生んだ。兼実は大いに失望した。ちょうどその頃、承仁法親王(じょうにんほっしんのう)や権大納言源通親(みなもとのみちちか)らが兼実を憎み、帝と頼朝との間を離間させた。この頃に至って兼実は辞職し、中宮は宮中を退いた。この事情は后妃伝(こうひでん)に見える。兼実が辞職した際、通親はなおもその罪を探し出して兼実を追放しようと図った。しかし帝はもとよりそのような意向がなく、兼実はついに難を免れた。(注:『愚管抄』による。)

建久9年(1198年)、帝は土御門天皇(つちみかどてんのう)に譲位した。通親は外戚の権勢に拠り、もっぱら威福(いふく)をほしいままにした。兼実は朝政に関与していなかったが、そのたびにこれを憤った。(注:『玉海』による。)建仁2年(1202年)、剃髪して法名を円証(えんしょう)といった。(注:『一代要記』による。○『公卿補任』では円隆(えんりゅう)とする。)承元元年(1207年)、薨去した。(注:『公卿補任』『明月記』による。)享年六十。(注:○本書および『愚管抄』では五十九とし、『一代要記』の建仁2年五十四歳とする記述と合致する。今、『公卿補任』が応保元年に十四歳とすること、および『要記』の一説である文治5年に四十二歳とする記述に従う。)世に月輪関白(つきのわのかんぱく)と称された。(注:『尊卑分脈』による。)その日記を『玉海(ぎょくかい)』という。(注:『玉海』による。)

兼実はもとより公輔(こうほ、大臣として天子を輔弼する器量)の名望があった。摂政となってからは、善政を行い、言路を開き、廃れた典礼を修めることを志とした。天下は彼を良相と称えた。(注:『愚管抄』による。)子には良通(よしみち)、良経(よしつね)、良輔(よしすけ)、良平(よしひら)がおり、その他は出家して僧となった。(注:『尊卑分脈』による。)良通は幼くして聡明であり、かなりの才学があり、官を重ねて内大臣に至った。文治4年(1188年)、薨去した。享年二十二。良輔は要職を歴任し、左大臣に至り、八条(はちじょう)と称された。(注:『公卿補任』による。○八条と称することは『尊卑分脈』による。)多くの書物に通じ、世に尊ばれた。(注:『愚管抄』による。)建保6年(1218年)、薨去した。(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)良平は兄の良経の養子となり、これも左大臣に至ったが、病のため辞した。(注:『公卿補任』による。)その後再び起用されて太政大臣となり、従一位に叙せられた。仁治元年(1240年)、薨去し、醍醐(だいご)と称された。(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)

藤原良經

藤原良経(ふじわらのよしつね)は、権中納言を歴任し、正二位に叙せられた。文治5年(1189年)、権大納言に転じた。建久6年(1195年)、内大臣となった。正治元年(1199年)、左大臣に転じた。建仁2年(1202年)、内覧の詔を受けた。一月余りで摂政となり、当時の人々はこれを名誉なこととした。(注:『公卿補任』による。○『愚管抄』を参照し補った。)

これより先、権大納言源通親が権勢を振るい、朝廷の官職を大きく変更していた。この頃になって通親が薨去し、そこでこの人事があったのである。良経は多くの芸能に博く通じ、とりわけ和歌に長じていた。上皇(後鳥羽上皇)はこれを重んじ、詩歌を詠む折にはいつも良経を引き連れて共にした。その待遇は厚く手厚いものであり、世は執柄(しっぺい、摂政・関白)にふさわしい人物を得たとした。(注:『愚管抄』による。)

建永元年(1206年)、良経は夜、就寝中に急死した。ある説では「盗賊に刺された」ともいう。(注:○ある公卿の家に伝わる文書によれば、良経の十一世の子孫にあたる関白政基(まさもと)が、菅原在数(すがわらのありかず)から書物を借りたところ、その中に「京極殿(きょうごくどの)を殺害した経緯」を記した数文字があり、それによって菅原為長(すがわらのためなが)の仕業であったと知った。そこで在数を召して殺し、祖先の讎(あだ)に報いたという。今考えるに、為長と在数はともに菅原道真の子孫から出ているとはいえ、血縁は疎遠であり、これは著者の関知するところではない。藤原親長(ふじわらのちかなが)の日記によれば、明応5年(1496年)に関白政基が在数を召し、その無礼を責め、子の尚経(ひさつね)と謀って自らの手で殺したという。これは良経・為長の一件とは大きくかけ離れている。おそらく良経の死については伝説が入り乱れており、真実を得ることはできない。伝えるところによれば、良経が為長を抑え、『新古今和歌集』の序文を作らせなかったため、為長がこれを恨み、人を遣わして殺させたともいう。それゆえこの説に付会されたのであろう。今はこの説を採らない。)良経は後京極(ごきょうごく)と称された。(注:『尊卑分脈』による。)その日記を『殿記(でんき)』という。(注:『殿記』による。)子には道家(みちいえ)、教家(のりいえ)、基家(もといえ)がいる。教家は左大臣藤原良輔の養子として出て、正二位大納言に至った。基家は正二位内大臣となり、鶴殿(つるどの)と号した。(注:『尊卑分脈』による。)道家については、別に伝がある。