卷之一百七十九 列傳第一百六
將軍一
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶将軍という任務は、古来より重んじられてきた。軍を統率して規律を保ち、都の外にその威光を示し、瞬時に決断を下す。国家の安危がそこにかかっているのだから、いかに重い任務であることか。昔の征伐は、天皇自らが親征する場合を除けば、皇子を派遣して敵を討たせ、その軍が向かうところ、たちまち敵は誅殺された。これとは別に将軍を派遣して遠方を鎮めるようになったのは、崇神天皇(すじんてんのう)に始まる。応神天皇(おうじんてんのう)の代になると、任那(みまな)に内官家を置いて韓地の諸国を鎮撫した。斉明天皇(さいめいてんのう)の代には、蝦夷(えみし)に政所を建てて粛慎(しゅくしん)を統制した。それ以後、征夷や征東といった官は、設置のあり方が一定しなかった。事が起これば任命し、事が治まれば廃止するというものであった。ただ陸奥(むつ)・出羽(でわ)は遠く辺鄙な土地で、辺境の要衝であったため、鎮守府将軍だけは代々才能のある者が選ばれ続けた。源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任じられてからは、父子三代にわたってその職を継承し、朝廷は鎮守府を別に置くことなく、この職を重んじた。そもそも頼朝は兵を率いて平氏を滅ぼしたが、平氏という元凶が滅び去った後も、盗賊や姦悪の徒がなお各地に並び起こっていた。そこで強力な藩鎮を置いて経略・防御を行い、統治の綱紀を引き締めようと考え、天下総追捕使になることを求め、朝廷はこれを許した。頼朝は鎌倉(かまくら)に本拠を構えて民を撫育し、屈強で制しがたい者たちも皆頭を垂れて命に従った。こうして兵馬の権はことごとく関東に帰し、天下の情勢はこれより一変したのである。藤原頼経(ふじわらのよりつね)から守邦親王(もりくにしんのう)に至るまでの将軍は、みな北条氏(ほうじょうし)によって擁立された者であった。政治は自らの意志では行われず、ただ名ばかりの地位を擁するのみで、家臣である北条氏が兵権を専断した。元弘・建武の頃には、世が乱れて流離し、混乱が沸き立つようであった。護良親王(もりよししんのう)・成良親王(なりよししんのう)が相次いで征夷大将軍に任じられ、懐良親王(かねよししんのう)は征西将軍となり、源顕家(みなもとのあきいえ)は鎮守府大将軍となった。大将が軍を進めるさまはそれぞれであり、将軍職は廃止されてはまた置かれるということが、その時々の制度であった。この頃、足利尊氏(あしかがたかうじ)は旗を翻して朝廷に帰順し、新田義貞(にったよしさだ)と東西で呼応して義兵を挙げ、北条氏を掃討したので、天子はその功に報いて鎮守府将軍に任じた。しかし尊氏の欲望には際限がなく、次第に専横の度を強めていった。いわゆる征夷将軍や関東管領といった地位は、彼が自ら名乗ったもので、朝廷の命によるものではなかった。やがて尊氏は兵を挙げて朝廷を犯し、天皇の乗物を南へ移らせ、表向きは光明院(こうみょういん)を尊びながらも、実際には無用の飾り物のように扱った。自らは征夷大将軍の号を保持し、京都に幕府を開いて権勢を誇り、幼い子の基氏(もとうじ)を鎌倉に留めて管領とし、兵馬の元帥としての地位を占め、諸国の節度使の権をも併せ持った。天下の情勢は、ここに至ってまた大きく変わったのである。当時、征夷・征西の号は朝廷がすでに将軍に授けていたものであったが、尊氏の号は朝廷の命によらないにもかかわらず、これもまた将軍の列に加えられている。これはその時代の変化を示すためである。足利義満(あしかがよしみつ)は父祖の事業を受け継ぎ、傑出した才能をほしいままにし、人臣として極位に上り、将相の任を兼ねた。たまたま南北朝が合一する機会に乗じて、子孫が末永く続く基盤を固めた。天下はこれを室町将軍と称したが、なんと幸運なことであろうか。しかし尊氏の権謀術数に満ちたやり方は、功と罪とが互いに覆い隠せぬものであり、一時は世を丸め込むことができても、後々の天下を欺くことはできない。果たして足利氏が志を得たというべきか、それとも新田氏が志を得られなかったというべきか。天の定めもまた人の力に勝るということが、まことにそうであると分かる。その家族・家臣についても、それぞれの類に従って付し、将軍伝を作る。
¶源頼朝は、幼名を鬼武者といい(注:『帝王編年記』『源平盛衰記』による)、左馬頭(さまのかみ)源義朝(みなもとのよしとも)の第三子である(注:『東鑑』『増鏡』『平治物語』『源平盛衰記』による)。幼い頃から器量があり、義朝はこれを非凡だと思い、他の子供たちよりも格別に愛した(注:『平治物語』による)。保元三年(1158年)、皇后宮権少進(ごんのしょうじょう)に任じられた。平治元年(1159年)には右近衛将監(うこんえのしょうげん)、上西門院蔵人(じょうさいもんいんくろうど)を経て、蔵人に改め任じられた(注:『公卿補任』『将軍執権次第』による)。藤原信頼(ふじわらののぶより)が反乱を起こした際、頼朝は従五位下・右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)を授けられた(注:『愚管抄』『公卿補任』を参照してまとめた)。父の義朝や兄たちとともに大内裏に立てこもった。年はわずか十三歳であったが、義朝に「敵がまもなくやって来ます。座して待つよりも、いっそ急ぎ六波羅(ろくはら)を攻めるべきです」と進言した。人々はその言葉の勇ましさに感じ入った。まもなく平頼盛(たいらのよりもり)が郁芳門(いくほうもん)を攻めてくると、頼朝は矢を射てそのうち二人を倒した。
¶軍が敗れて東へ逃れるうちに疲労が甚だしくなり、馬上で居眠りをするほどで、父や兄たちに遅れをとった。夜、近江(おうみ)の森山駅(もりやまのえき)を通りかかったところ、村人たちが群がり集まって頼朝を捕らえようとしたので、頼朝は二人を斬り、残りの者はあえて近づかなかった。義朝は鎌田政家(かまだまさいえ)を引き返させて頼朝を捜させ、安河(やすかわ)で出会った。折しも大雪で、一同は馬に乗ることができず、甲冑を捨てて徒歩で進んだ。頼朝はひどく難儀し、また父や兄たちとはぐれてしまい(注:『平治物語』による)、行方も分からなくなった。たまたま土豪の大夫属定康(たいふのさかんさだやす)に出会い、助けられて仏寺に匿われ、僧に頼んで保護させてもらった。まもなく定康の家に身を寄せた(注:『東鑑』による。『平家物語』剣巻には、近江東部の草野荘司(くさのしょうじ)という人物が、自分の居室の天井裏に頼朝を匿ったとある。考えるに、定康は姓が欠けており、草野は名が欠けており、その事情もよく似ているので、同一人物ではないかと疑われる。『平治物語』には、頼朝が再び一行とはぐれ、夜に道に迷って小平山(こひらやま)に出て、浅井北郡(あざいきたぐん)を通り過ぎたとある。たまたま老婆に出会い、そのままその家に至ると、老夫婦は心をこめて厚くもてなした。一月あまり留まり、また出立して小平を経ると、ある漁師が頼朝を見て、ただ者ではないと知り、事情を尋ねた。頼朝が実情を告げると、漁師は頼朝に婦人の衣服を着せ、菅の苞に太刀を包んで自ら肩に担ぎ、美濃(みの)の青墓駅(あおはかのえき)まで送り届けたという。異本の『平治物語』の中には漁師の家に匿われたとするものがあり、『東鑑』の記述と食い違うが、参考のために付け加えておく)。
¶翌年、美濃の青墓に至り、駅長大炊(おおい)の家に身を寄せた。さらに東国へ向かおうとしたが(注:『平治物語』による)、途中で平頼盛の家臣平宗清(たいらのむねきよ)に捕らえられた(注:『愚管抄』『平治物語』による。『平治物語』には次のようにある。義朝が挙兵した際、頼朝に鎧を授けた。名を源太産衣(げんたのうぶぎぬ)という。また宝刀を授けた、名を鬚切(ひげきり)という。この二つは源氏の重宝であり、嫡子でなければ伝えられないものであった。義朝は嫡男義平(よしひら)には授けず、頼朝に与えた。頼朝が青墓を去るにあたり、鬚切を大炊に預けた。その後頼朝が捕らえられると、清盛(きよもり)は鬚切の所在を尋ね、頼朝は事実を告げたので、清盛は人を遣わしてこれを探させた。大炊は思った。「いま源氏の宝器をたやすく平氏に渡すのは惜しいことだ。義朝には子が多く、たとえ頼朝が死んでも、他の子が家を興し再興することもあり得ないとは言えない。それならば別の刀にすり替えて頼朝に見せ、これが鬚切かと尋ねよう。もし本物だと言えば我が計略は成った、もし違うと言えば婦人には見分けがつかぬのだと詫びればよい」と。そこで泉水(せんすい)という別の刀を鬚切と同じ拵えにして差し出した。頼朝がこれを見ると、はたしてこれだと答えた。清盛は喜んでこれを宝物とし、ついに法皇に献上した。平氏が滅びた後、法皇はこれを頼朝に返し与えたが、本物の鬚切はすでに以前に大炊から頼朝の手に渡っていた。『平家物語』剣巻には、頼朝は青墓に着いた時、自分がさすらいの身で孤立無援であり、明日をも知れぬ命だと考え、草野荘司を通じて鬚切を外祖父にあたる熱田大宮司藤原季範(あつたのだいぐうじふじわらのすえのり)のもとへ送り、神殿に納めさせたとある。いずれが正しいかは分からない)。頼朝は連行されて六波羅に至り、平清盛は彼を宗清の家に拘束した。宗清は内心頼朝を哀れみ、清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)に願い出て、死罪を許してもらうよう頼んだ。禅尼はあらゆる手を尽くして助命に努め、頼朝はついに釈放されて伊豆(いず)の蛭島(ひるがしま)に流された(注:『平治物語』による)。禅尼は戒めて、「これから先はもっぱら経を読むことに専念し、騎射や漁猟にふけって人に疑われるようなことをしてはならない」と言った。義朝の旧臣たちは頼朝が死罪を免れたと聞くと、皆、出家して僧になり平氏を安心させるよう勧めた。ただ纐擷盛安(こうけちのもりやす)だけは、そっと耳打ちして「若君が助かったのは神のご加護によるものです。この身を全うして将来に備えるべきです」と言った。頼朝はこれにうなずいた。流罪の旅路につくと、士人も庶民も集まって見物し、「この者は容貌が並外れている。これを遠方に流すのは、虎を野山に放つようなものだ」と言った。伊豆に着くと、清盛は伊東祐親(いとうすけちか)と北条時政(ほうじょうときまさ)にその監視を命じた(注:異本の『平治物語』による)。
¶頼朝は祐親の家に身を寄せていたが、その娘と通じて男子をもうけ、千鶴(ちづる)と名付けた。祐親は激怒してこの子を川に沈めて殺し、娘を江間小二郎(えまのこじろう)に嫁がせ、頼朝をも殺そうとした。祐親の子祐清(すけきよ)がひそかにこれを頼朝に告げたので、頼朝は逃れて時政のもとに身を寄せ、今度はその娘政子(まさこ)と通じた。時政は表向き何も知らぬふりをして、娘を目代(もくだい)の平兼隆(たいらのかねたか)に嫁がせようとしたが、政子は夜に逃げ出して頼朝のもとへ奔った(注:『源平盛衰記』による。目代であったことは『平家物語』による)。
¶治承四年(1180年)、以仁王(もちひとおう)が平氏討滅を謀り、諸国に令旨(りょうじ)を下して源氏を招集した(注:『東鑑』『源平盛衰記』『平家物語』による。考えるに、『源平盛衰記』には以仁王が特別に令旨と、それを諸国に触れ広める移文とを賜ったことが記されているが、他の書物には見当たらないので、これは採らない)。令旨が届くと頼朝は大いに喜び、ひそかに時政に示して、共に挙兵を謀った。まもなく以仁王は敗死し、三善康信(みよしのやすのぶ)が京から知らせて、「聞くところによれば、平氏は以仁王の一件のために源氏を除こうと謀っているとのことです。あなたは源氏の嫡流ですから、ひそかに北国へ逃れるべきです」と言った。頼朝はこれを聞いて、いよいよ急いで平氏打倒を図った(注:『東鑑』による)。僧の文覚(もんがく)もまたこれを勧めた(注:『愚管抄』『源平盛衰記』による)。頼朝はついに決意して事を起こし、安達盛長(あだちもりなが)を遣わして東国で兵を集めさせた。東国の武士たちはかつて源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)に従っており、代々源氏を主君として仰いでいたので、伊豆・相模(さがみ)の豪傑で頼朝に味方する者が多かった。
¶頼朝は側近と相談し、まず兼隆を討つことにした。兼隆は山木(やまき)の要害に拠っていたので、頼朝はひそかに京の人である藤原邦道(ふじわらのくにみち)を遣わして兼隆と交際させ、日を重ねて親しく交わらせ、その地形をことごとく調べ上げさせた。そして勇敢な武士を選び、それぞれ密室に招いて、「この事はそなたとだけ相談しており、他に知る者はいない。どうか力を貸してほしい」と諭した。人々は喜び、皆奮い立った。しかし機密に関わることは、頼朝はただ一人時政とだけ決めていた(注:『東鑑』による)。八月、時政に八十余人を率いさせて夜襲をかけ、兼隆を斬った(注:『東鑑』『源平盛衰記』を参照してまとめた)。兼隆の一族である知親(ともちか)は蒲屋御厨(かばやのみくりや)の役人であったが、愚かにも百姓を害していた。頼朝は以仁王の令旨と偽って知親を罷免させ、あわせて「東国のことは荘園領主の別なく、すべて頼朝が取り仕切る」と称した。頼朝が関東を専制するようになったのはここに始まる。
¶翌日、三浦義澄(みうらよしずみ)らがまだ到着していなかったので、頼朝は相模の土肥(どひ)へ出向いた。兵はわずか三百であったが、以仁王の令旨を旗に結びつけ、石橋山(いしばしやま)に陣を敷いた。大庭景親(おおばかげちか)が兵三千を率いて攻めかかり、祐親も別に三百人で頼朝軍の背後を襲った。景親は夕暮れが迫るころに挑みかかり、頼朝の麾下の者たちは皆決死の覚悟で戦った。折しも大風と激しい雨で、寡兵の頼朝軍は多勢に敵せず、明け方についに敗走した。景親は勝ちに乗じて敗走する頼朝軍を追い、矢や刃がまさに頼朝に及ぼうとした。景親の部下であった飯田家義(いいだいえよし)が、六騎を率いて逆に矛先を返し景親を防いだ。頼朝はその隙をついて杉山(すぎやま)に逃げ込んだ。景親が迫ってくると、加藤景員(かとうかげかず)・光員(みつかず)・景廉(かげかど)、大見政光(おおみまさみつ)・実政(さねまさ)、佐々木高綱(ささきたかつな)、天野遠景(あまのとおかげ)らが刀を振るって防ぎ戦った。頼朝自らも矢を射て、人馬がその矢に当たって倒れた。矢が尽きると、頼朝は土肥実平(どひさねひら)とともに険しい道を越えてひそかに逃れた。景員・実政ら六人もまた付き従った。やがて頼朝は実平の進言を用いて、皆を四方に散らせ、自分は実平とだけともに身を隠した。景親は兵を率いて捜索したが、梶原景時(かじわらかげとき)が偽ってよそへ誘導したので、頼朝はついに逃れることができた(注:考えるに、『源平盛衰記』には、この時頼朝に従った者は土肥実平・遠平(とおひら)、新開忠氏(しんかいただうじ)、土屋宗遠(つちやむねとお)、岡崎義実(おかざきよしざね)、安達盛長の六人であったとある。盛長は「かつて先祖の源予州(みなもとのよしゅう、源頼義)が奥州の夷地を討った折、兵は敗れ従う者はわずか七人でしたが、ついに大功を成し遂げました。今日のことはまさにそれと同じです」と言い、頼朝は喜んだという。田代信綱(たしろのぶつな)もほどなく駆けつけたが、敵兵が迫って逃げ場がなかった。たまたま大きな倒木があり、朽ちてうつろになっていたので、皆でその中に身を隠した。景清(かげきよ)が兵を率いて追ってきて、その木の穴だけを怪しんだ。景時が先に中を覗き、頼朝と目が合った。頼朝はもう逃れられぬと思い自害しようとしたが、景時はあわててこれを押しとどめた。ちょうど蜘蛛が巣を張っていたので、それを取って弓や甲冑にからませ、外に出て「この中には何もいない、ただ蝙蝠がいるだけだ」と告げた。景親は信じず、弓で穴の中を探ったが、頼朝の鎧兜に触れながらも気づかなかった。鳩が二羽飛び出したので、景親はなおもその木を割って中を見ようとしたが、にわかに雷雨となって昼なお暗くなったため、ついに兵を引き揚げて去ったという。この説は今は採らない)。
¶箱根別当(はこねべっとう)の行実(ぎょうじつ)は、頼朝の祖父為義(ためよし)や父義朝と旧知の間柄であったので、弟の僧永実(えいじつ)を遣わして食糧を送り届け、迎え入れて永実の住まいに匿った。僧良暹(りょうせん)もまた行実の弟であったが、平兼隆と親しかったので、頼朝を襲って兼隆の仇を討とうと謀った。永実がこれを頼朝に告げたので、頼朝は土肥へ向かい、真鶴岬(まなづるみさき)から小舟に乗り、安房(あわ)の猟島(りょうじま)に至った(注:考えるに、『源平盛衰記』には、頼朝は木の穴を出た後、地蔵堂に走り込み、僧の開嗣(かいし)が堂の床下の穴蔵にこれを匿ったとある。景親が追ってきて捜索したが、僧はついに何も言わず、頼朝はそのため逃げおおせた。真鶴岬から安房へ向かい、海上で三浦一党と出会ったとあり、行実・良暹の事は記されていない。『源平盛衰記』にはまた、頼朝が土肥へ向かう際、一同は皆兜を失い、髪も乱れてだらしない有様であったため、人に怪しまれることを恐れたとある。烏帽子(えぼし)を手に入れようとして、道すがら帽子職人の大太郎(だいたろう)に出会い、求めたところ、大太郎は急いで八つの帽子を作ったが、そのうち一つだけ誤って左折れに作ってしまった。頼朝はたまたまその一つを手に入れ、大いに喜んで「従者たちの帽子は皆右折れなのに、私だけが左折れを得た。かつての祖先である八幡殿(はちまんどの、源義家)以来、代々の将軍は皆左折れの帽子を着けてきた。今、私が逃亡の身でありながらこれを得たのは、天の配剤ではないか」と言ったという。思うに『源平盛衰記』では頼朝は実平・忠氏ら七人とともに木の穴に隠れたことになっているため、それに合わせてこの話が作られ、八つの帽子の説が生まれたのであろう。本書によれば、頼朝はただ実平とだけ山中に隠れたのであり、その説は前に見えるとおりであるから、ここでは採らない)。
¶時政や三浦義澄らと落ち合い、勢いはやや盛り返した。九月、檄文を回して兵を募り、小山朝政(おやまともまさ)、下河辺行平(しもこうべゆきひら)を召し、そのほか敵地に挟まれている者たちには海路を取って参陣するよう命じた。頼朝は上総(かずさ)へ向かい、平広常(たいらのひろつね)のもとに身を寄せようとした。一日進んで民家に宿を取ったところ、長狭常伴(ながさのつねとも)が不意を突こうと謀ったが、義澄が逆に迎え撃ってこれを破った。安西景益(あんざいかげます)が頼朝に「道中には危険が多く、また変事が起こるおそれがあります」と言ったので、頼朝は途中で引き返し、使者を遣わして広常や千葉常胤(ちばつねたね)を促し、時政を甲斐(かい)へ行かせ、諸源氏の兵とともに信濃(しなの)を巡らせて、従わぬ者は臨機に討たせることにした。ちょうどそのころ従弟の義仲(よしなか)が信濃で挙兵し平氏を攻めていた。頼朝は数日留まり、精兵三百余を得た。しかし広常はまだ到着しなかったので、頼朝はまっすぐ下総(しもうさ)へ向かった。常胤は三百余騎を率いて国府に出迎えた。頼朝が隅田川(すみだがわ)に至ると、広常が二万の兵を率いて合流した。
¶頼朝は土屋宗遠を甲斐へ遣わして諸源氏に、「房総の軍勢はことごとく私の麾下に集まった。私はさらに武蔵(むさし)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)の兵を率いて、駿河(するが)で敵を迎え撃とうと思う。諸君は時政を先導として黄瀬川(きせがわ)で合流されたい」と告げさせた。また使者を武蔵へ遣わし、江戸重長(えどしげなが)に「石橋山の一件は、すでに恨みを解いた。速やかに令旨に従い、兵を率いて参陣せよ」と諭させた。十月、石橋山で敗れ散った兵たちも次第に集まり、頼朝は兵三万余を率いて武蔵へ向かった。広常・常胤らは大井(おおい)・隅田(すみだ)に舟をそろえて頼朝を渡らせた。葛西清重(かさいきよしげ)・足立遠元(あだちとおもと)らが出迎え、頼朝は常胤に命じて兵を上総へ遣わし、伊北常仲(いほくつねなか)を討って斬らせた。畠山重忠(はたけやましげただ)、川越重頼(かわごえしげより)、および重長らが出迎えて降伏し、そのほかにも味方に付く豪傑が日ごとに増えていった。そこで重忠を先鋒とし、常胤を後備えとして、ついに相模へ進んだ。やがて時政や武田信義(たけだのぶよし)らは、駿河目代の橘遠茂(たちばなのとおもち)や長田入道(おさだにゅうどう)と戦ってこれを破り、遠茂を捕虜とし、長田父子を斬って晒し首にした(注:『平治物語』には、頼朝が挙兵すると長田忠致(おさだただむね)父子が降伏してきたので、頼朝はその罪を許し、範頼(のりより)・義経(よしつね)に付き従わせて西へ平氏を討たせたとある。建久元年(1190年)、頼朝が上洛した折、尾張(おわり)の野間駅(のまのえき)に立ち寄り、義朝の墓を祭り、忠致父子を墓前で誅殺したとある。しかし『東鑑』にはこの事は見えない。考えるに、忠致は義朝を討った父の仇であるから、これほど長く処断を先延ばしにするのは不自然であり、信じるに足りないのではないか。ここに言う長田入道とは忠致その人ではないかと疑われるが、本書には名が欠けており、判断の材料がない)。
¶頼朝はついに鎌倉に本拠を定め、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)を小林郷(こばやしごう)に遷し、これより事あるごとにここに祈願するようになった。この月、清盛は孫の維盛(これもり)、弟の忠度(ただのり)らを遣わし、二万余騎を率いて攻めさせ、富士川(ふじかわ)に陣を敷いた。頼朝は兵二十万を率いてこれを迎え撃った。黄瀬川に至り、日を定めて交戦することとした。信義らが五万余人を率いて合流したので、賀島(かじま)に進軍した。信義がひそかに兵を夜のうちに敵の背後に出したところ、維盛の軍は驚き乱れて潰走した。頼朝は敗走する敵を追って西へ進もうとしたが、広常・義澄らは「佐竹義政(さたけよしまさ)(注:考えるに、『尊卑分脈』および『佐竹系図』では義政は忠義(ただよし)に作る。ここでは本書に従う。詳しくは秀義伝を参照)とその甥は、大勢を擁して常陸(ひたち)にあり、そのほかにも従わぬ強者がなお多くおります。まず東国を平定してから、あらためて西進のことを議するべきです」と言った。頼朝はこれに従い、信義に駿河を守らせ、安田義定(やすだよしさだ)に遠江(とおとうみ)を守らせ、軍を返して相模国府に至り、時政・信義ら二十余人の功に応じてそれぞれ恩賞を与えた。大庭景親が降伏してきたが、これを斬った。そのほか景親に与した者たちについては、おおむね不問に付して許した。
¶十一月、兵を率いて常陸へ向かい、佐竹義政を誘い出して殺した。義政の甥秀義(ひでよし)は金砂山(かなさやま)に拠っていたので、頼朝は兵を遣わしてこれを攻めた。秀義は逃走し、頼朝はその領地を割いて将士に与え、鎌倉へ戻ると、和田義盛(わだよしもり)を侍所(さむらいどころ)の別当に任じた。この月、山本義経(やまもとよしつね)、柏木義兼(かしわぎよしかね)が近江で挙兵して頼朝に呼応した。十二月、義経らは平知盛(たいらのとももり)に敗れ、身一つで逃れて頼朝のもとへ帰参した。これより先、大倉郷(おおくらごう)に新しい館を造らせていたが、この頃に館が完成し、頼朝はそこに移り住んだ。もともと鎌倉の土地は辺鄙で狭苦しく、あるのはただ漁師と農家だけであったが、これ以後、将士たちが競って邸宅を建て、街路が通じ、町名が付けられるようになった。市場の店が軒を連ね、人民は日ごとに繁栄していったので、東国の人々はついに頼朝を鎌倉殿(かまくらどの)と称するようになった。
¶養和元年(1181年)二月、菊池隆直(きくちたかなお)、緒方惟能(おがたこれよし)が鎮西(ちんぜい、九州)で挙兵し、平氏に抵抗して水陸の交通を断った。そのほかにも頼朝に帰服する者が日ごとに増えていった。閏二月、清盛が死んだ。臨終に際して子孫に、意を強くして東国征伐にあたるよう戒めた。子の重衡(しげひら)が東海道の兵を率いて攻めてきたので、頼朝は和田義盛らを遠江へ遣わして安田義定を助けさせ、地の利に拠って厳重に守りを固めさせた。頼朝の叔父義広(よしひろ)が鎌倉を襲おうとして、兵三万を率いて下野に至ったが、小山朝政がこれを撃退した。三月、頼朝の弟で僧である義円(ぎえん)が、叔父の行家(ゆきいえ)とともに洲股川(すのまたがわ)で重衡を迎え撃ったが、大敗し、義円は戦死した。七月、鶴岡若宮(つるがおかわかみや)を新たに造営した。八月、平宗盛(たいらのむねもり)は藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に院宣を下すよう求め、兵を発して頼朝を牽制させようとした(注:『東鑑』による)。しかし秀衡はどっちつかずの態度をとり、あえて兵を出そうとはしなかった(注:『源平盛衰記』による)。
¶寿永二年(1183年)三月、行家は頼朝と折り合いが悪くなり、信濃へ行って義仲を頼った。頼朝は両者が結びつけば制しがたくなると考え、自ら十万余騎を率いて義仲を攻めた。義仲はこれを避けて越後(えちご)へ退き、頼朝は臼井坂(うすいざか)(注:『平家物語』は善光寺(ぜんこうじ)とする)に至って義仲が兵を引いたと聞くと、頼朝もまた退いて武蔵に留まり、行家を差し出すよう義仲に責め立てた。義仲は和睦を願い出て、子の義高(よしたか)を人質として送ってきたので、頼朝はこれを許し、義高を鎌倉へ連れ帰り(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)、自分の娘を嫁がせた(注:『東鑑』による)。七月、義仲は平氏と戦って連勝し、ついに京に迫った。宗盛は帝(安徳天皇)を伴い、一族を挙げて西へ逃れた。法皇(後白河法皇)は延暦寺(えんりゃくじ)に避難し、まもなく京へ戻った。八月、後鳥羽帝(ごとばてい)が即位し、法皇が万機を専断するようになった(注:『玉海』『源平盛衰記』『平家物語』による)。
¶これより先、法皇は中原康定(なかはらのやすさだ)を遣わして頼朝を招き入朝させようとした(注:『百練抄』『帝王編年記』による。中原の名は『東鑑』による)。この時、法皇は義仲の功に報いようとしたが、頼朝の功がより大きいために頼朝が怨みを抱くことを恐れ、頼朝の入朝を待って同時に恩賞を与えようとすると、今度は義仲が憤りをつのらせることを恐れた。公卿たちは協議して、「頼朝はまだ入朝しておりませんが、先に義仲と同時に恩賞を与えましょう。もし頼朝が不満を持つようなことがあれば、入朝を待ってその求めに応じて改めればよいでしょう」ということにした(注:『玉海』による)。やがて義仲が先に官を拝命し、京に留まった(注:『百練抄』による。『源平盛衰記』も参照してまとめた)。九月、康定が京へ戻ると、頼朝はこれに託して三つのことを奏上した。その一つは、「近年、平氏が国政を掌握し、神田(しんでん)や寺戸(じこ)を横領いたしましたので、神仏がその威罰を下し、一族が逃げ滅びるに至りました。これは決して臣の力によるものではありません。神田・寺戸を元に返し、その功徳に報いるべきです」というものであった。その二は、「王公・卿士の荘園で平氏に奪われたものは、もとのとおりに安堵すべきです。禍を払い福を招くには、人の愁いや怨みを鎮めることに勝るものはありません。もし今、臣もまたその土地を利得とするならば、これは平氏と同じ轍を踏むことになります。どうか朝廷の議によって適切な措置をお選びください」というものであった。その三は、「平氏の党類で、逆心を捨てて帰順する者は、たとえ死罪に当たる罪があっても、できる限り軽くすべきです。臣もかつて刑罰の網にかかりましたが、幸いにも赦しを蒙ったからこそ、朝敵に当たって今日の功を立てることができたのです。今、その刑を緩め、その死罪を許すならば、後になってその者たちの力を頼ることにならないとどうして分かりましょうか。刑の軽重の判断は、朝廷のご裁定によるべきです」というものであった。朝廷の議はこれに従い、東海道・東山道の二道に勅を下し、その田戸・荘園はすべて元の持ち主に返させ、頼朝に命じてこれを検分させた。
¶この時、義仲は法皇が頼朝を召したと聞いて不快に思い、兵を発してこれを阻もうとした。十月、頼朝は使者を遣わして、「もし臣が軍勢を率いて召しに応じれば、藤原秀衡や佐竹隆義(さたけたかよし)が必ずその隙をうかがい、虚に乗じて襲ってくるでしょう。また数万の軍勢が一度に入朝すれば、都を騒がすことになりましょう」と奏上して謝辞を述べ、ついに入朝しなかった(注:『玉海』による)。この月、勅により頼朝は本位に復せられた(注:『玉海』『公卿補任』『百練抄』による)。十一月、源義仲が京で反乱を起こした(注:『玉海』『百練抄』による)。この冬、頼朝は上総介広常(かずさのすけひろつね)を殺した(注:『愚管抄』による。考えるに、本書には年月の記載がない。『東鑑』は寿永二年の記事が欠けているが、翌年正月の条に「去年の冬、広常の一件によって陣中に穢れが生じた」という文がある。今、この二書を参考にして、ここに配した)。
¶寿永三年(1184年)三月、弟の範頼・義経を遣わして義仲を討たせ、これを誅殺した。二月、範頼・義経は摂津(せっつ)の一ノ谷(いちのたに)で平氏を攻めてこれを破り、平通盛(たいらのみちもり)・忠度らを斬り、平重衡を捕らえた。平宗盛は養和帝(ようわてい、安徳天皇)を奉じて、逃れて讃岐(さぬき)の屋島(やしま)に拠った(注:『東鑑』『源平盛衰記』『平家物語』による)。この頃、戦乱が何年も続き、住民は離散して、租税も滞っていた。東北の諸国は次第に平定に向かっていたが、中央の畿内や四国では騒乱がやまなかった(注:『源平盛衰記』による)。
¶頼朝は上疏して、「およそ政事は先例を尊び、徳恵を施すことに努めるべきです。諸国の受領(ずりょう)は、とりわけ精選すべきです。東北二道は戦乱と凶作のために、民が安んじて暮らせずにおりましたが、この春、流民も次第に田里へ戻りつつあります。秋の収穫の頃には国司に有能な官吏を任じるべきです。また畿内・近畿の武士で武芸に優れた者は、すべて義経に従わせて西へ平氏を討たせるよう、勅を賜りたく存じます。功のあった者への恩賞については、臣がその都度上奏いたします。また、神田・寺戸はすべて元のとおりに戻し、祭祀を絶やさず、念誦も怠りなく行われるようにしていただきたく存じます。もし堂社に破損しているものがあれば、国司に修繕させてください。近年、僧徒が学問を怠り武器を弄ぶことがあちこちで見られます。厳しくこれを禁じるべきです。もし武具を蓄えている者があれば、臣に命じてこれを収めさせ、官軍に支給させてください。さらに、みだりに勝手な行いをする者には、朝廷への訴えを許さないようにしていただきたく存じます」と述べた(注:『東鑑』『源平盛衰記』による。『源平盛衰記』ではこれを十一月の事とする)。上疏が奏上されると、法皇はこれをもっともなことと認めた(注:『源平盛衰記』による)。
¶三月、頼朝は西国へ書状を送って、「平氏が叛いた際、私は遠江守(とおとうみのかみ)および左馬頭を遣わし、東海・北陸の兵を率いて京へ入らせた。ところが思いがけない変事が起こり、義仲が謀反を起こして平氏と結んだので、私は院宣を奉じて直ちにこれを誅した。しかるに平氏は南海に出没し、略奪をやめようとしないので、私は官軍を海陸から並び進めて、速やかに天誅を加えようと思う。今、院宣を奉じて申し伝える。そなたたち国の者は、帰順して所領を保つか、あるいは従軍して戦功を立てるがよい」と告げた。また北条時政に命じて、土佐(とさ)の名望ある一族国信(くにのぶ)・国元(くにもと)(注:この二人は姓が欠けている)に書状を送らせ、力を合わせて平氏を討伐させた(注:『東鑑』による)。この月、頼朝は源義仲を誅した功により、正四位下(しょうしいのげ)に叙せられた(注:『公卿補任』『東鑑』『源平盛衰記』による)。頼朝は将士たちと約して、「およそ武家に仕える者は、法皇の御旨によって処分される。事の是非にかかわらず、これを一切尊び奉じよ。もし不当な扱いを受けた者があれば、追って朝廷に奏上して事情を申し立て、道理を明らかにしよう」と告げた。
¶四月、人質であった源義高が逃亡したので、追ってこれを殺した。五月、叔父の義広を伊勢(いせ)で殺した。六月、一条忠頼(いちじょうただより)を陣営に呼び寄せて殺した(注:『東鑑』による)。七月、関信兼(せきのぶかね)、平田家継(ひらたいえつぐ)が兵を集め、伊賀(いが)の平田に拠った(注:『東鑑』『山槐記』『源平盛衰記』を参照してまとめた)。大内惟義(おおうちこれよし)がこれを撃破し、家継を殺した。八月、範頼に命じて九州の軍事を総督させ、平氏を討たせた(注:『東鑑』による)。この月、俑兼(ようかね)が再び兵を集め伊勢の滝野(たきの)に拠ったが、義経がこれを撃滅した(注:『源平盛衰記』による)。十月、先例を調べたうえで公文所(くもんじょ)を設置し、大江広元(おおえのひろもと)を別当とし、中原親能(なかはらのちかよし)らを寄人(よりゅうど)として、事務を司らせた。また問注所(もんちゅうじょ)を設置し、三善康信を執事として訴訟の裁決に当たらせた(注:本書には康信に裁決させたとあるが、執事に任じたとは記されていない。建久二年(1191年)の条には康信を執事と記すが、いつ任じられたかは記されておらず、詳細は考証できない。今、ひとまずここに記しておく)。
¶二月、佐々木盛綱(ささきもりつな)が備前(びぜん)の児島(こじま)で平行盛(たいらのゆきもり)を破った(注:『東鑑』による)。