卷第七十一 本紀七十一

長慶天皇、後龜山天皇

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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長慶天皇

長慶天皇(ちょうけいてんのう)は、諱を寛成(ゆたなり)といい、後村上帝の第一子である(注:帝王系図による)。生母がだれであるかは分からない。

正平二十三年三月、後村上帝が崩じ、天皇は行宮で即位した(注:諸書には譲位・即位の記事が載っていない。しかし後村上帝が崩じたとき、その皇統を継いだのは天皇である。それゆえここに書き記す。ほかにも本来書くべきでありながら書かれていない例があるが、それは南朝が吉野以南に遷って以後、記録が十分に整っていないため、考証のしようがないからである)。皇弟熙成親王(ひろなりしんのう、後の後亀山天皇)を皇太弟とした(注:新葉和歌集・嘉喜門院集には、正平二十三年八月に東宮と門院が和歌を詠み交わした記事がある。新葉集にある福恩寺関白と後亀山帝が詠み交わした歌にも、東宮の子について触れたものがある。これによって熙成親王が皇太弟であったことが分かる。今はこれに従う)。

夏四月、彗星が東北に現れた。五月十一日庚辰、石清水で雹(ひょう)が降った(注:鳩嶺雑事記による)。秋七月、新田義宗・脇屋義治は越後・上野で挙兵し、上杉憲将(のりまさ)らと戦ったが、勝てなかった。義宗は戦死し、義治は出羽に敗走した(注:喜連川系図による)。

正平二十四年己酉、春正月二日戊戌、楠正儀が足利義満に降った(注:花営三代記による)。この月、石清水で雹が降った(注:皇年代略記による)。三月、楠氏の一族が正儀を討とうとした(注:後愚昧記・花営三代記による)。夏四月十二日丙子、桃井直常が松倉城(まつくらじょう)を陥落させた(注:花営三代記による)。秋七月二十八日庚申、京師で大地震があった(注:後深心院関白記・後愚昧記・東寺長者補任による)。九月二日甲午、大風があった(注:後愚昧記による)。辛酉晦、桃井直常は戦いに敗れ、松倉城に退いて拠った。冬十月十日辛未、赤松則祐・赤松光範は弾正少弼赤松氏範を摂津中島に攻めた。氏範の軍は敗れ、四天王寺に敗走した(注:花営三代記による)。十一月二十二日癸丑、雷があった(注:後深心院関白記による)。この年、河野通直が伊予を回復した(注:予章記による)。

建徳元年庚戌、春正月、脇屋義治らは武蔵・上野に出兵し、上杉朝房(ともふさ)らと戦ったが、勝てず、信濃に敗走した(注:喜連川系図による)。三月十六日乙巳、桃井直和(ただかず)は越中で軍を進め、斯波義将(よしゆき)と長沢(ながさわ)で戦って戦死し、残兵は潰走離散した(注:花営三代記による)。秋八月二十日丙子、駿河以東の諸国で大風があり、稲の作柄が損なわれた。相模国では洪水があり、飯島(いいじま)の人家三百余戸が漂流し水没した(注:後愚昧記による)。冬十月八日癸亥、赤い気が北方に現れた。十一月七日壬辰、白黒の気があり、また北方に光が現れた(注:鳩嶺雑事記による)。この月、和田氏の一族が楠正儀の城を攻めた(注:花営三代記による)。この年、改元した(注:和漢合運による)。

二年辛亥、春二月、肥後守菊池武光は征西大将軍懐良親王を奉じて挙兵し、筑紫の回復を図った。今川貞世(いまがわさだよ、了俊)と鎮西で戦った(注:花営三代記・吉川家伝を参照して採った)。三月十九日癸卯、京師で大地震があった(注:鳩嶺雑事記による)。二十三日丁未、また震動した(注:後愚昧記・後深心院関白記による)。後光厳院はその子緒仁親王(おひとしんのう)に譲位した。これが後円融院(ごえんゆういん)である(注:後深心院関白記・後愚昧記・花営三代記・歴代皇紀・椿葉記・鳩嶺雑事記による)。夏五月六日戊午、大水があった(注:後深心院関白記による)。秋七月、桃井直常は越中で戦ったが、不利であった。八月、兵を発して楠正儀を討った。細川頼元(よりもと)が正儀を援護した(注:花営三代記による)。九月、赤い気が現れた(注:鳩嶺雑事記による)。冬十一月、官軍は引き揚げた。湯浅氏の一族百余人が戦死した(注:花営三代記による)。

文中元年壬子、春正月二十六日乙亥、熒惑と歳星が相犯した(注:後愚昧記による)。二月、菊池武政(たけまさ)は今川貞世と肥後で戦い、これを破った(注:菊池武朝(たけとも)申状による。本書はただ「文中年中」とのみ記し、年月を明示していない。花営三代記を考えるに、この年の二月にしばしば九州で事変があり、おそらくこの戦いを指すと思われる。それゆえここに置く)。夏四月二十八日乙巳、天野山金剛峯寺に勅して、乱の平定を祈らせた(注:天野山金剛寺文書による)。六月二十七日癸卯、京師で地震があった(注:後深心院関白記による)。この年、改元した(注:和漢合運による)。

二年癸丑、春正月二十八日辛未、京師で雷があった(注:後深心院関白記による)。三月、細川氏春が行宮を犯そうとした(注:花営三代記による)。夏四月癸酉朔、大地震があった(注:後深心院関白記による)。五月十一日壬子、京師で雹が降った(注:後深心院関白記・和漢合運による)。この夏、疾疫が流行した(注:大乗院年代記による)。秋八月二日辛未、天皇は皇太弟に譲位し、吉野を離れて(注:花営三代記による)玉川宮(たまがわのみや)に移った(注:古本帝王系図・諸門跡譜による)。太上天皇と称された。

元中二年、自ら願文を書き、高野山に祈りを捧げた(注:高野山所蔵文書による)。

明くる年、なお院宣をもって紀伊の将士に号令した(注:吉野二見氏所蔵文書による)。薙髪(ちはつ、剃髪)して法名を覚理(かくり)といい、長慶院法皇と号した(注:皇胤紹運録による)。崩御された場所は分からない。

後龜山天皇

後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、諱を熙成(ひろなり)といい、後村上帝の第二子である(注:皇胤紹運録による)。母は嘉喜門院(かきもんいん)(注:嘉喜門院集・新葉和歌集を按ずるに、後亀山帝は家喜門院と和歌を詠み交わした作が数首あり、親子の情愛がそこに見える。あるいは姑射山(こやさん)に門院の長寿を祝い、あるいは後村上帝の崩御を「円月、半ばを失う」と詠んでいる。これによって嘉喜門院が母であることは疑いない)。

幼少のころ、菜摘川(なつみがわ)で鷹狩りを見物していたとき、大きな岩に松の木が生えているのが目にとまった。侍臣を顧みて、「あれを内裏に持ち帰り、献上させよ」と仰せられた。ところが御所に戻ってからそれを尋ねると、いつまでも泣き止まなかった。侍臣は小さな石を一つ取り、松の枝を添えて捧げ持ってくると、いかにも重そうな様子をして進上した。皇子は「これは違う」と仰せられた。侍臣は偽って申し上げた。「先ほどあの岩を運ぼうといたしましたところ、道が狭くて通せませんでした。ちょうど通りかかった修験者がこれに呪(まじな)いをかけると、岩はたちまち小さくなりました。私がもう一度もとの大きさに呪い直すようお願いしたところ、修験者は『この先の道はいっそう狭く、大きいままではとても通せない』と申しましたので、私もその言葉にうなずき、そのまま持ってまいりました。」皇子は表情をやわらげてこう仰せられた。「残念だ、もう一度その修験者を呼んでほしかった。呪いでお前を小さくしたという話は、大方作り話であろう。」人々はその聡明さに感服し、みな「いずれ徳業を成し遂げられるであろう」と語り合った(注:吉野拾遺による)。

長慶帝が即位すると、皇太弟に立てられた(注:嘉喜門院集・新葉和歌集による)。

文中二年癸丑、八月二日辛未、皇太弟は行宮で譲位を受けた(注:花営三代記による)。長慶帝を尊んで太上天皇とした(注:高野山所蔵長慶帝願文による)。皇弟太宰帥泰成親王(やすなりしんのう)を皇太弟とした(注:宗良親王千首和歌の跋文に、天授二年、天皇の東宮が千首の歌を詠んだとあり、帝王系図は泰成を東宮とする。今はこれに拠る)。十日己卯、内大臣藤原隆俊は天野に駐屯し、夜、細川氏春の陣営を襲ったが、勝てず討ち死にした(注:花営三代記による。内大臣の官職は新葉和歌集による)。九月二日庚子、大風があり、家屋が倒壊した(注:後深心院関白記・歴代皇紀・皇年代略記による。花営三代記は十月二日とする)。冬十月五日癸酉、賀茂奈良社(かもならしゃ)が焼失した(注:大乗院年代記による)。六日甲戌、伊豆の三島社が焼失した(注:花営三代記による)。閏月二十二日己未、京師で地震があった(注:後深心院関白記・大乗院年代記による)。十一月丁卯朝、冬至であった(注:後深心院関白記・後愚昧記・皇年代略記による)。三日庚子、賀茂神宮寺が焼けた(注:大乗院年代記による)。この年、大館氏清は仁木義長と鈴鹿で戦い、これを破って仁木義信(よしのぶ)を斬った(注:関岡家始末による)。

三年甲寅、春正月二十五日辛卯、彗星が現れた(注:大乗院年代記による。後深心院関白記は晦日とする)。この月、疱瘡が流行した(注:皇年代略記による)。夏五月二十六日辛卯、菊池武政が死去した(注:花営三代記による)。

天授元年乙卯、春二月九日己亥、延暦寺が焼失した(注:歴代皇紀による)。夏六月二十一日庚戌、太白と歳星が相犯した。二十六日乙卯、大織冠(たいしょくかん、藤原鎌足)の像が破裂した。秋七月己未朔、日食があった(注:後深心院関白記による)。八月、和泉土九城の守将宮内少輔橋本正督(まさただ)が足利義満に降り、紀伊を攻めた。九月二十五日壬午、橋本正督は紀伊の諸城を陥落させた(注:花営三代記による)。この年、行宮で歌合(うたあわせ)を行った(注:新葉和歌集による)。改元した(注:和漢合運による)。

二年丙辰、春三月十一日乙丑、如意輪寺(にょいりんじ)に行幸し、法会を設けて後村上天皇の冥福を祈った(注:新葉和歌集・嘉喜門院集による)。夏六月二十三日丙午、彗星が東北に現れた(注:花営三代記・鳩嶺雑事記による)。この年、菊池武朝は今川貞世と鎮西で戦った(注:吉川家伝・阿蘇宮文書による)。

三年丁己、春二月十八日丙寅、御霊社(ごりょうしゃ)が焼失した(注:後愚昧記別記による)。秋七月七日癸未、七夕の宴を催した(注:新葉和歌集・嘉喜門院集による)。八月六日壬子、京師で火災があった(注:後愚昧記別記・花営三代記による)。十二日戊午、征西大将軍懐良親王は大内義弘(おおうちよしひろ)と鎮西で戦い、敗れた。菊池氏の一族百余人が戦死した。二十日丙寅、大風があり、家屋が倒壊した(注:後愚昧記別記による)。

四年戊午、秋七月、疾疫が流行した。八月十三日癸丑、大風があり、木々が折れた(注:後愚昧記による)。九月、征西大将軍懐良親王・菊池武朝・左近衛将監清原親善(きよはらちかよし)は今川貞世と託麻原(たくまばる)で戦い、これを破った(注:菊池武朝申状・清原観音申状を参照して採った)。冬十一月二日辛未、民部大輔橋本正高(まさたか)が紀伊で挙兵し(注:正高の名は天野金剛寺文書による)、細川業秀(なりひで)を討った(注:花営三代記・関岡家始末による)。七日丙子、足利義満は将士を遣わして業秀を援護させた(注:花営三代記による)。大館氏清は挙兵して正高に応じ、赤松義則(よしのり)と戦い、これを破った(注:関岡家始末による。本書には日付の記載がない)。十七日丙戌、官軍は敗退した(注:花営三代記による)。

五年已未、春正月二十二日庚寅、山名義理(よしまさ)・山名氏清(うじきよ)・山名時義(ときよし)は土丸城(つちまるじょう)を攻めた。二十三日辛卯、城は陥落した。二月九日丁未、義理らは紀伊に入り、藤波城(ふじなみじょう)を陥落させた。十一日己酉、石垣城(いしがきじょう)を陥落させた(注:花営三代記による)。三月二十一日戊子、阿波の日置荘(ひおきのしょう)を熊野新宮に寄進し、乱の平定を祈った(注:熊野山新宮文書による)。冬十一月六日己亥、河野通直は細川頼之と伊予で戦い、敗死した(注:予章記による)。十二月四日丁卯、東寺の西院が焼失した(注:後深心院関白記・東寺長者補任・皇年代略記による)。この年、彗星が現れ、天下は大いに飢えた(注:和漢合運による)。

六年庚申、夏五月五日丙申、下野の人小山義政(おやまよしまさ)が挙兵した(注:鎌倉大草子による)。十六日丁未、義政は宇都宮基綱(うつのみやもとつな)と裳原(もはら)で戦い、これを斬った(注:花営三代記・鎌倉大草子による)。六月十三日壬申、官軍は土岐某・原某らと伊勢で戦い、これを破った。秋七月十七日乙巳、民部大輔橋本正高は山名氏清を攻めたが、勝てず討ち死にした。八月二十三日辛巳、高野政所(こうやのまんどころ、姓名は欠けている)・隅田(すだ)某らは山名氏清と紀伊で戦ったが、敗走した。九月七日甲午、山名氏清は生地城(おんじじょう)を陥落させた(注:花営三代記による。案ずるに、新葉和歌集には、この年の冬、帝は狭城山(さきやま)行宮にいたとあるが、その事情は詳らかでなく、他書にも考証の手がかりがない)。

弘和元年辛酉、冬十月壬子朔、日食があった(注:後愚昧記による)。十二月三目甲寅、中務卿宗良親王が新葉和歌集を奉った(注:新葉和歌集序による)。この年、改元した(注:和漢合運による)。

二年壬戌、春正月二十四日甲辰、これより先、楠正儀は帰順していたが、ここに至って山名氏清と河内の平尾(ひらお)で戦い、敗れた(注:河内通法寺文書・三刀屋文書・和漢合運暦を参照して採った)。閏月二十三日癸酉、春日社が焼失した(注:皇年代略記・和漢合符による)。夏四月十一日庚寅、後円融院は太子幹仁(もとひと)に譲位した。これが後小松天皇である(注:歴代皇紀・皇胤紹運録・皇年代略記による)。十三日壬辰、小山義政は足利氏満(うじみつ)の軍と戦い、敗死した(注:鎌倉大草子による)。この年、菊池武朝は反乱を起こした一族の者を守山(もりやま)に討ち、これを平定した(注:菊池武朝申状による)。

三年癸亥、夏四月十九日壬辰、京師で地震があった。二十四日丁酉、大地震があった。二十六日已亥、また震動した。二十八日辛丑、またも大地震があった(注:後愚昧記による)。

元中元年甲子、改元した(注:和漢合運による)。

三年丙寅夏六月、小山若犬丸(おやまわかいぬまる)と田村荘司則義(のりよし)が挙兵し、それぞれの城に拠った。秋七月、小山若犬丸・田村則義は足利氏満と下総の古河(こが)で戦い、敗死した(注:喜連川系図による)。九月二日乙卯、赤松氏範は足利義満の軍と播磨の清水(しみず)で戦って敗れた。氏範および子の氏春(うじはる)・家則(いえのり)・祐春(すけはる)・季則(すえのり)は自害した(注:赤松系図による)。

四年丁卯、春三月、小田五郎が常陸で挙兵し、宍戸(ししど)の男体城(なんたいじょう)に拠った(注:喜連川系図による)。この年、疾疫が流行した(注:和漢合運による)。

五年戊辰、夏五月、上杉朝宗(ともむね)は男体城を攻め陥落させ、小田五郎は戦死した(注:喜連川系図による)。

七年庚午、秋七月、大雨が一月にわたって降り続き、止まなかった。この年、疾疫が流行した(注:和漢合運による)。

八年辛未、冬十月十六日己巳、京師で大地震があった(注:明徳記による)。この年、大飢饉があり、疾疫が流行した(注:常楽記・和漢合符を参照して採った)。

九年壬申、冬閏十月二日己卯、これより先、足利義満が講和を協議し、天皇を京師に迎えようとしていた。ここに至って天皇は腰輿(ようよ)に乗って行宮を発ち、関白以下がみな従い、群臣の多くは戎衣(じゅうい)を着けていた(注:続神皇正統記による。案ずるに、皇年代略記は鳳輦(ほうれん)に乗ったとするが、どちらが正しいかは分からない)。車駕は大覚寺(だいかくじ)に至った(注:続神皇正統記・歴代皇紀による)。五日壬午、天皇は三種の神器を後小松帝に伝えた(注:続神皇正統記・歴代皇紀・皇年代略記・東寺長者補任による)。

応永元年二月、尊号を奉り太上天皇とした(注:皇年代略記による)。薙髪し、法名を金剛心(こんごうしん)といった(注:古本帝王系図による)。

三十一年四月十二日丁己、法皇が崩じた。後亀山院と称した(注:和漢合運による。葬地は考証のしようがない)。

嘉吉三年九月、前権大納言藤原有光(ありみつ)らが兵を挙げて禁中に乱入し、神璽(しんじ)・宝剣を奪い取り、王子で万寿寺の僧である金蔵主(こんぞうす)なる者を擁して延暦寺に拠った。金蔵主と有光は敗死し、宝剣は清水寺のそばに捨てられた(注:天地根元歴代図・続神皇正統記・護正院文書を参照して採った)。吉野の遺民は神璽を奉じ、二人の王子を擁して吉野に拠った。円満院の僧円胤(えんいん)もまた還俗して名を義有(よしあり)と改め(注:義有の名は薩戒記永享九年八月八日の条による)、紀伊で挙兵した。

長禄元年十二月、赤松家の家臣が偽って吉野に降ったふりをし、二人の王子を殺害して神璽を奪い、京師に持ち帰ったという(注:諸門跡譜・上月記・赤松略譜・応仁外記による。案ずるに、二人の王子の名や続柄は、今は考証のしようがない。吉野の高峰山福源寺(こうほうざんふくげんじ)には一つの古い位牌があり、そこには「一宮自天親王(じてんしんのう)、二宮忠義大禅定門(ちゅうぎだいぜんじょうもん)」と記されている。紀伊の色川氏所蔵の文書には、「色川郷は先皇の旧地であり、その龍孫(皇孫)はすでに大河内(おおこうち)行宮に行幸され、まもなく錦幡(にしきばた)の下に赴かれる。乙亥八月六日、忠義」とある。那智山実方院所蔵の文書にもまた、「乙亥七月十八日、忠義」とある。おそらく忠義とはここでいう二宮のことであろう。しかし乙亥は康正元年にあたり、吉野ではまだ改元が及んでいなかったため、甲子の元号で記したものであろうか。いずれも詳らかではない。楠氏系図の正理の項にもまた、「このときの南帝は後醍醐帝の四代の孫である。赤松が反乱を起こして神器を奪った後、十津川の皇居は破られ、北山高野の上、高福寺で崩じた」とある。ここにいう南帝とは一宮を指すのであろうか。系図は脱落が多く、根拠とするには足りない。今はひとまずこれを付記し、後日の考証に備える)。