卷第七十 本紀七十

後村上天皇

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、諱を義良(のりよし)といい、初名を憲良(のりよし)といった(注:神皇正統記による)。後醍醐醐帝(ごだいごてい)の第八子である(注:神皇正統記・太平記による。案ずるに、本書の一説および天正本には、いずれも第七子とあるが、誤りである)。

母は新待賢門院(しんたいけんもんいん)で、夢に日を抱いて身ごもったという(注:神皇正統記による)。嘉暦三年、お生まれになった(注:諸書とも生年の記載がない。今は元弘日記裏書に、延元四年の践祚のとき12歳とあること、鳩嶺雑事記に、正平二十三年の崩御のとき御年41歳とあることによって推算した)。

元弘三年十月、陸奥(むつ)・出羽(でわ)に出鎮した。参議陸奥守源顕家(みなもとのあきいえ、北畠顕家)がその補佐となった(注:元弘日記裏書・神皇正統記による)。

建武元年夏、親王となった(注:神皇正統記による)。

二年十月、足利尊氏(あしかがたかうじ)が反乱を起こしたため、詔を下して兵を発し、これに当たらせた。

延元元年正月、陸奥・出羽の兵を率い、尊氏の後を追って西上した(注:神皇正統記・太平記を参照して採った。案ずるに、太平記には天皇に関する記事が載っていないため、ここでは神皇正統記に基づいてこれを天皇の事績とした。以下も同様である)。二月、宮中で元服し、三品(さんぽん)に叙せられ、陸奥太守として陸奥に帰り鎮守した(注:神皇正統記・元弘日記裏書による)。

二年正月、国人(こくじん、地元の武士)の多くが離反した。そのため、鎮守府大将軍源顕家とともに霊山城(りょうぜんじょう)に立てこもった(注:元弘日記裏書・太平記を参照して採った。保暦間記には、賊が霊山を陥落させ、顕家は宇都宮に逃れた、とある)。国人たちは、天皇の車駕が吉野に行幸したと聞いて、再び帰順した。八月、源顕家を率いて陸奥を発した。十二月、鎌倉で足利義詮(あしかがよしあきら)を討ち、これに勝った。

三年、正月に京師(けいし、京都)に向かった(注:神皇正統記は二月とする)。青野原(あおのがはら)に至り、足利尊氏の軍と戦ってこれを敗走させた(注:太平記による)。二月、奈良に向かったが戦いは不利となり(注:元弘日記裏書・太平記による)、ついに吉野に入った(注:元弘日記裏書による)。閏七月、陸奥の鎮所に還った(注:神皇正統記・元弘日記裏書・太平記を参照して採った)。密かに詔があり、皇太子となることを許され(注:神皇正統記・吉野拾遺による)、前大納言源親房(みなもとのちかふさ、北畠親房)がその補佐となった(注:元弘日記裏書・太平記による)。左近衛中将源顕信(あきのぶ)は鎮守府大将軍陸奥介となり、東国はみなその指揮に従った(注:神皇正統記による)。九月、伊豆碕(いずのさき)に至ったが(注:元弘日記裏書・神皇正統記・関城書裏書による。太平記・李花集には天龍灘とある)、折しも大風が暴に起こり、船はみな漂い、御座船はほとんど沈みかけた。しかしまもなく風向きが急変し、伊勢の篠島(しのじま)に引き返して至った(注:元弘日記裏書・神皇正統記・太平記・関城書裏書による。篠島の名は新葉和歌集による。太平記には神風浜とある)。勅命により僧頼意(らいい)を遣わして慰問させた(注:新葉和歌集による)。

四年三月、吉野に還った(注:神皇正統記による)。皇太子に立てられた(注:新葉和歌集による。日付は欠けているが、僧頼意の和歌によれば、この月のことであろう)。八月十五日辛丑、皇太子は左大臣藤原経忠(つねただ)の邸で譲位を受けた(注:元弘日記裏書・神皇正統記・関城書裏書・吉野拾遺による。経忠の邸であることは吉野拾遺による。当時の旧記は失われており、摂関・三公・大将が誰であったかは考証できない)。十六日壬寅、後醍醐天皇が崩御した(注:歴代皇紀・関城書裏書・神皇正統記・元弘日記裏書・東寺長者補任による)。この月、後醍醐天皇を葬った(注:太平記・毛利家本天正本太平記による)。九月、足利高経(たかつね)が杣山城(そまやまじょう)を陥落させ、右衛門佐脇屋義助(わきやよしすけ)は美濃に敗走した。根尾城(ねおじょう)をはじめ北国の諸城はみな陥落したが、畑時能(はたときよし)は鷹巣城(たかのすじょう)を守り抜いた(注:太平記による)。冬十月五日庚寅、天皇は吉野行宮で即位した。時に12歳(注:関城書裏書による。元弘日記裏書を参照して採った)。権中納言藤原隆資(たかすけ)・権大納言藤原実世(さねよ)が、ともに政務を執った(注:太平記による)。当時は軍事・国政ともに多事多難で、行宮は手狭であったため、種々の儀式を行うことができなかった(注:太平記・関城書裏書による)。わずかに使者を伊勢に遣わして大神宮に幣を奉り、即位を告げ、また神器を拝することができただけであった。二十二日丁未、畑時能は足利高経と地伊山(いじやま)で戦い、戦死した。この月、土岐頼遠(よりとお)・土岐頼康(よりやす)が根尾城を陥落させ、脇屋義助は吉野に敗走した。十二月十七日辛丑(注:十七日は異本による)、遺詔を宣して勤王を促した。このとき楠正行(くすのきまさつら)・和田正朝(わだまさとも)はともに兵を率いて行宮を警衛した。征東将軍中務卿宗良親王(むねよししんのう)は遠江(とおとうみ)におり、征西大将軍式部卿懐良親王(かねよししんのう)は筑紫におり、鎮守府大将軍源顕信、左近衛少将新田義宗(にったよしむね)、左兵衛佐新田義興(にったよしおき)、その一族の江田・大館(おおだて)氏、および土居(どい)・得能(とくのう)・菊池(きくち)・三角(みすみ)・桜山(さくらやま)氏らは、それぞれ国郡に拠って回復を図っていた。この年、かつての征夷大将軍護良親王(もりよししんのう)の子である陸良(たかよし)を征夷大将軍とした(注:太平記による。陸良の名は細々要記による)。この月、京師に水銀の雨が降った(注:如是院年代記による)。

興国元年庚辰春二月、高師泰(こうのもろやす)が遠江(とおとうみ)の井伊城(いいじょう)を陥落させた(注:鶴岡社務記による)。三月、伊予の南朝方の軍勢が将帥の派遣を奏請し、ちょうど備前の飽浦信胤(あくらのぶたね)が帰順したことで、瀬戸内の交通路が初めて開けた。刑部卿脇屋義助を遣わして四国・九国(九州)の諸軍を統督させた。夏四月二十三日丙午、脇屋義助は伊予に至り、官軍は大いに勢いを振るった(注:太平記による)。二十八日辛亥、改元した(注:元弘日記裏書による。関城書裏書は、改元を延元四年十月五日庚寅の即位の記事の下に置く。和漢合運もまた延元四年のこととする)。五月五日丁已、刑部卿脇屋義助が死去した(注:印本尊卑分脈による。太平記には、五月四日に発病し、七日を経て死去した、とある)。十九日壬寅、鎮守府大将軍源顕信が鎮所に赴いた(注:元弘日記裏書による)。二十七日庚戌、高師冬(もろふゆ)が下総の駒城(こまじょう)を陥落させた(注:元弘日記裏書・鶴岡社務記・保暦間記による)。二十八日辛亥、源顕信は駒城を攻め、これを大いに破った。高師冬は陣営を焼いて逃げた(注:結城文書による)。この月、修理大夫金谷経氏(かなやつねうじ)が鞆城(とものじょう)を攻め落とし、細川頼春(よりはる)が河江城(かわのえじょう)を陥落させた。経氏は頼春と千町原(せんちょうがはら)で戦ったが敗れた。秋九月三日癸丑、頼春は世田城(せたじょう)を陥落させ、左馬助大館氏明(うじあき)が戦死した(注:太平記による)。

二年辛己春二月、准大臣源親房が職原抄(しょくげんしょう)を著して奉った(注:関城書裏書による)。夏六月十六日丙辰、高師冬は小田城(おだじょう)に源親房・近衛中将源顕時(あきとき)を攻めた(注:関城書・結城文書・常陸税所文書を参照して採った)。二十三日癸亥、源親房は兵を出して高師冬を撃ち、これを破った(注:結城文書による)。この月、大いに旱魃(かんばつ)があった(注:禅林諸祖伝による)。冬十一月、小田治久(はるひさ)が高師冬に降った。源親房は関城(せきじょう)に走って拠り、源顕時は大宝城(だいほうじょう)に走って拠り、修理権大夫結城親朝(ゆうきちかとも)に援軍を請うたが、果たされなかった(注:結城文書・関城書を参照して採った)。

三年壬午、春三月二十日辛卯、法勝寺(ほっしょうじ)が焼失した(注:太平記・和漢合運・東寺長者補任・興福寺略年代記鈔出・皇年代略記による)。夏五月七日丁丑、永福門院(えいふくもんいん)が崩じた(注:歴代皇紀・女院小伝による。諸書とも葬儀の記事を欠く)。六月十九日己未、征西大将軍懐良親王が薩摩に島津貞久(しまづさだひさ)を討ち、これを破った(注:阿蘇社文書による)。この年、天変地異がしきりに現れ、疱瘡(ほうそう)が流行した(注:皇年代略記・和漢合運・公卿補任による)。

四年癸未、秋七月、旱魃があった(注:祇園修行日記による)。この年、関城・大宝城が陥落し、准大臣源親房らは吉野まで敗走した(注:別府文書・常陸税所文書による)。結城親朝は足利尊氏に降った(注:結城文書による)。

五年甲申、夏五月、河内の観心寺(かんしんじ)が焼失した(注:観心寺文書による)。秋九月丁亥朔、日食があった。冬十一月二十日丙午、石清水宮(いわしみずぐう)が鳴動した(注:園太暦による)。

六年乙酉、春、伊豆の三島社が焼失し、下野(しもつけ)に石が降り、鎌倉に光の怪異があり、鶴岡宮が鳴動した(注:本書は月日を記していないため、今は考証のしようがない)。秋七月、彗星が東北に現れた(注:園太暦による)。八月十七日戊辰、京師で地震があった(注:皇年代略記による)。この年、児島高徳(こじまたかのり)・荻野朝忠(おぎのともただ)が式部大輔脇屋義治(わきやよしはる)を上野(こうずけ)に迎えて挙兵した。朝忠は山名時氏(やまなときうじ)と丹波で戦って敗れ、朝忠は出て降伏した。義治と高徳は京師に入り、足利尊氏を討とうと謀ったが、事は失敗して信濃に敗走した(注:太平記による)。

正平元年丙戌、秋八月四日庚戌、京師で中御門堀河(なかのみかどほりかわ)から大宮大路にかけて羽蟻(はあり)が大量発生した。九月十三日戊子、京師で大風が吹き、家屋が倒壊した(注:園太暦による)。この年、改元した(注:太平記による)。

二年丁亥、春正月十五日戊午、京師で地震があった。二十日癸亥、辰星(しんせい、水星)と歳星(さいせい、木星)が相犯した(注:園太暦による。案ずるに、本書には、二月二日乙亥、太白(金星)が星を犯した、とあるが、脱誤があると思われるため採らない)。夏五月六日戊申、京師で大地震があった(注:園太暦・皇年代略記による)。秋八月八日戊寅、太白が軒轅女主星(けんえんじょしゅせい)を犯した。九日己卯、また犯した。九月庚子朔、太白が太微右執法(たいびうしっぽう)を犯し、熒惑(けいこく、火星)が輿鬼(よき)に入って積尸(せきし)を犯した。十一日庚戌、太白が太微左執法を犯した。十三日壬子、また東蕃上将(とうばんじょうしょう)を犯した。十四日発丑、また犯した(注:園太暦による)。十七日丙辰、河内守楠正行が細川顕氏(あきうじ)と誉田林(こんだばやし)で戦い、これを破った(注:太平記は、藤井寺の戦いの条を明年八月十四日とし、住吉の戦いの条を明年九月十七日とするが、今は今川家本・毛利家本・天正本太平記、園太暦、佐々木系図に従う)。冬十一月二十六日甲子、楠正行は山名時氏・細川顕氏を瓜生野(うりゅうの)に迎え撃ち、大いにこれを破った(注:園太暦・太平記による)。

三年戊子、春正月五日壬寅、高師直(こうのもろなお)・師泰が攻め入った。河内守楠正行および楠正時(まさとき)・和田正朝・和田賢秀(かたひで)は四条畷(しじょうなわて)で防戦し、戦死した。天皇は師直の軍を避けて穴太(あのう)に行幸した(注:太平記による。日付は天正本・毛利家本によった。園太暦にも見える。本書が賀名生(あのう)行宮の記事を明年の条に置くのは誤りである)。二十五日壬戌、師直は吉野行宮に火を放った。神社・仏寺はことごとく焼き尽くされた(注:園太暦・太平記による。日付は園太暦による)。楠正儀(まさのり)は師泰と石川で対峙した(注:太平記による)。夏五月、旱魃があった(注:園太暦による)。紀伊の官軍は足利直冬(ただふゆ)と戦って敗れた(注:園太暦・太平記を参照して採った)。秋八月甲午晦、太白が房宿(ぼうしゅく)第二星を犯した。九月二日丙申、心宿(しんしゅく)前星を犯した。三日丁酉、心宿大星を犯した(注:園太暦による)。冬十月二十七日庚寅、光明院(こうみょういん)が太子興仁(おきひと)に譲位した。これが崇光院(すこういん)である(注:園太暦・公卿補任・皇胤紹運録・皇年代略記による)。十一月四日丁酉、京師で雷があった(注:園太暦による)。十一日甲辰、花園天皇(はなぞのてんのう)が崩じた(注:園太暦・公卿補任・皇胤紹運録・常楽記による)。

四年己丑、春正月、客星(かくせい)が現れた。二月二十六日丁亥、将軍塚(しょうぐんづか)が鳴動し、空中に兵馬の声があった(注:太平記による)。二十七日戊子、清水寺が焼失した(注:園太暦・如是院年代記・皇年代略記による)。夏六月十九日已卯、京師で地震があった(注:皇年代略記による)。二十六日丙戌、太白・歳星・辰星が相犯した(注:太平記は十日のこととする)。二十八日戊子、月・太白・歳星・辰星が東井(とうせい)に集まった(注:園太暦による)。閏月三日壬辰、石清水宮が鳴動し、鳴鏑(なりかぶら)の音が宮の北から出て空中を飛んだが(注:園太暦・毛利家本太平記による。現行本太平記は六月三日のこととするが、誤りである)、光があって稲妻のように相闘った(注:園太暦による。太平記は五日のこととし、毛利家本太平記は二十五日のこととする)。この年、畠山国清は高師泰に代わって石川に屯し、楠正儀と対峙した(注:太平記による)。

五年庚寅、春正月十六日壬申、京師で雷雨と雹があった(注:祇園執行日記による)。二月二十三日戊申、京師に物が雨のように降り、その形は貝子(ばいし、子安貝)のようで色は赤かった(注:園太暦による)。夏五月二十日甲戌、京師で大地震があった(注:天正本太平記による)。二十三日丁丑、京師で大地震があった(注:醍醐雑録・祇園執行日記による)。二十五日己卯、また大地震があった。二十八日壬午、京師で大水があった(注:祇園執行日記による)。癸未晦、京師で地震があった(注:祇園執行日記・皇年代略記による)。六月十日癸巳、また震動した。十一日甲午、また震動した。二十日癸卯、また震動した。二十二日乙巳、また大地震があった。二十五日戊申、また震動した(注:祇園執行日記による)。秋七月二日乙卯、また震動した。将軍塚が鳴動した(注:皇年代略記による)。八日辛酉、京師で大風があった。八月十一日甲午、京師で火災があった(注:祇園執行日記による)。十七日庚子、春日社および若宮の神殿の柱に金花・銀花が生じた(注:園太暦による)。冬十一月六日丁巳、京師で雷があった(注:祇園執行日記による)。十二月九日庚寅、足利直義(あしかがただよし)が帰順した。これにより将士で帰順する者が多くなった(注:太平記による)。十三日甲午、詔して左馬頭足利直義に足利尊氏を討たせた(注:太平記・醍醐雑録・吉野事書案による)。畠山国清は石川の包囲を解いて退き、桃井直常は越中で挙兵し、いずれもこれに呼応した(注:太平記・園太暦による)。この月、京師で地震があった(注:皇年代略記による)。

六年辛卯、春正月七日丁巳、左馬頭足利直義らは兵を率いて男山(おとこやま)に進み拠った。桃井直常(もものいただつね)は直義と通謀して北国の兵を率いて延暦寺に至り、足利尊氏を京師に迫った。十三日癸亥、上杉朝定(ともさだ)は足利直義に応じ(注:朝定の名は園太暦による)、備後・備中・安芸・周防の兵をもって高師泰と備中の勢山(せいざん)で戦ったが、敗れた(注:太平記による)。十五日乙丑、足利義詮は出奔した。桃井直常は京師に入り、義詮は足利尊氏とともに還って直常を攻め、直常は敗走した。十六日丙寅、足利尊氏の軍は潰え、ついに義詮とともに西へ奔った(注:園太暦・太平記・東寺長者補任による)。桃井直常は京師に還って守った。十七日丁卯、上杉能憲(よしのり)は上野で挙兵し、遠く官軍に呼応して、高師冬を甲斐に攻め、これを殺した(注:十七日は常楽記による)。二月四日甲申、石塔頼房らは光明寺に軍を駐めた。尊氏が来攻すると、頼房らは連戦してこれを破った。足利直義は石塔義基(よしもと)・畠山国清らを遣わして頼房を救援させた。十七日丁酉、石塔頼房・畠山国清は足利尊氏と御影浜(みかげはま)で戦い、これを破った(注:太平記による)。十九日己亥、京師で大地震があり、将軍塚が鳴動した(注:皇年代略記による)。己酉晦、足利直義・畠山国清はふたたび離反した(注:園太暦・太平記・東寺長者補任を参照して採った)。三月十七日丙寅、京師で地震があった。夏四月十一日庚寅、また震動した(注:皇年代略記による)。五月己酉朔、日食が予測されたが、雨曇りのため見えなかった。六月六日癸未、冬のように寒かった。秋七月、伊勢神宮の松の木が理由もなく倒れ、賀茂社の松の木も数千株が枯れた(注:園太暦による)。赤松則祐が帰順し、征夷大将軍陸良親王を奉じて挙兵し足利尊氏を討つことを願い出たので、これを聴き入れた(注:太平記による)。八月、伊勢外宮が鳴動し、空中に馬の轡(くつわ)が鳴るような音がした。外宮および荒祭宮(あらまつりのみや)で鳴鏑の音があった(注:続神皇正統記による)。足利尊氏が降伏を請うたが、聴き入れなかった(注:園太暦による)。九月七日癸丑、賀茂御祖社(かもみおやしゃ)が震動し、鳴鏑の音があった。冬十月、足利尊氏および義詮がふたたび降伏を請うたので、これを許した。二十四日庚子、詔して足利尊氏に足利直義を討たせた(注:園太暦・太平記による。二十四日は園太暦所載の綸旨による。東寺長者補任は二十五日、異本太平記は二十三日とする)。十一月四日庚戌、足利尊氏は兵を率いて関東に赴いた(注:園太暦・東寺長者補任による。現行本太平記は十四日、異本太平記は二十四日とする)。義詮は京師に留守し、車駕を都に還すことを請うたので、詔してこれを許した(注:太平記による)。七日癸丑、足利義詮は崇光院および太弟直仁を廃した。観応の年号を廃し、正平の年号を奉じた(注:公卿補任・歴代皇紀・皇年代略記・東寺長者補任・続神皇正統記を参照して採った)。九日乙卯、多武峯(とうのみね)が焼失した(注:園太暦による)。十三日己未、これより先、藤原公賢は崇光院に仕え、かつて太政大臣であった。この日、左大臣に任じられた(注:公卿補任による)。十九日乙丑、京師で地震がたびたびあり、二十四日庚午、今年は方忌(かたいみ)の定めにより、来春を待って車駕を京師に還すことを協議した。この月、藤原教忠(のりただ)が左近衛大将を兼ね、中納言源顕能(あきよし)が右近衛大将を兼ねた(注:園太暦による。顕能の本官は吉野拾遺・祇園執行日記による。教忠の本官は欠けており、考証のしようがない)。十二月二十三日戊戌、左近衛中将源具忠(ともただ)に勅して、新たな剣・璽・鏡を収め、行宮に送らせた(注:園太暦・皇年代略記・皇胤紹運録による。太平記は明くる年の閏二月二十三日とし、公卿補任は二十五日とするが誤りである)。二十六日辛丑、日吉(ひえ)の臨時祭を行った(注:案ずるに、天皇の即位このかた、軍事・国政ともに多事多難で、朝廷恒例の典礼はことごとく廃されて行われなかった。ここに至って京師の回復が近づき、諸儀式がようやく行われるようになった。通例は書かないところであるが、今は特にこれを記す。以下も同様とする)。二十八日癸卯、内侍所(ないしどころ)の神祭を行った(注:園太暦による)。准三宮藤原廉子(かどこ)を新待賢門院と号した(注:園太暦・女院小伝・太平記による)。光厳院・崇光院を、ともに太上天皇と号した(注:歴代皇紀・皇年代略記による)。前左大臣藤原師基を関白とし(注:園太暦・公卿補任による)、源親房を准三宮とし、車駕に従った群臣に等級に応じて褒賞を頒った(注:太平記による)。この月、崇光院のもとで署していた関白藤原良基以下の公卿百官は、みな行宮に参上した(注:太平記・公卿補任による)。勅して官位をそれぞれ一等降した(注:太平記による)。この年、疾疫が流行した(注:園太暦による)。

七年壬辰、春正月丙午朔、四方拝(しほうはい)を行った(注:太平記・園太暦による)。京師で地震があった。五日庚戌、叙位を行った(注:園太暦による)。八日癸丑、真言院で修法を行った(注:太平記による)。十五日庚申、京師で地震があった(注:園太暦による)。足利義詮は黄金三千両・馬十匹を献上し、後宮・百官に金帛(きんぱく)・馬匹をそれぞれの身分に応じて贈った(注:太平記による)。二月辛亥朝、長楽門院(ちょうらくもんいん)が崩じた(注:女院小伝による)。五日乙卯、大原野祭を行った。十三日丁亥、京師で釈奠(せきてん)を行った。二十三日丁酉、詔して京師の地子銭(じしせん)の課税を停止した(注:園太暦による)。二十三日庚子、車駕は賀名生(あのう)を発って東条(とうじょう)に至り、百官は戎衣(じゅうい、軍装)をまとった(注:園太暦・太平記による)。これより先、穴生(あなふ)を改めて賀名生とした(注:園太暦による)。二十八日壬寅、住吉に至り、神主津守国夏(つもりくになつ)の邸に入った(注:園太暦・太平記による。太平記は二十七日とする)。左衛門尉楠正儀・和田正忠(まさただ)、および真木野(まきの)・三輪(みわ)・湯浅(ゆあさ)・山本氏、熊野八荘司(くまのはっしょうじ)、吉野十八郷の兵七千余人が警衛にあたった(注:左衛門尉の官職は園太暦による)。甲辰晦、住吉社に幣(みてぐら)と馬を奉った。社前の松の木が理由なく折れた。この月、由良信阿(ゆらしんあ)・児島高徳がともに密旨を奉じて東国に赴き、左近衛少将新田義宗、左兵衛佐新田義興、式部大輔脇屋義治らに挙兵して足利尊氏を討たせようとした(注:太平記による)。閏月十五日己未、四天王寺に行幸した(注:祇園執行日記・太平記による。園太暦は十六日とする)。右近衛大将源顕能は伊賀・伊勢の兵を率いて行在所に至った(注:太平記・園太暦による)。新田義宗・新田義興・脇屋義治は兵を発して上野・武蔵を巡り、将士が呼応した(注:太平記による。日付は園太暦による。本書は八日とする)。十九日癸亥、車駕は男山に至った(注:園太暦・太平記・祇園執行日記による)。御法印定清(じょうせい)の家勢は、兵をもって赤井大渡(あかいのおおわたり)を塞いだ(注:太平記・園太暦・祇園執行日記・五壇法略記抄による。定清の名は天正本太平記による。善法寺文書は十五日とする)。二十日甲子、源顕能は鳥羽から、近衛少将源顕経(あきつね)は唐櫃越(からとごえ)から、楠正儀・和田正忠ら諸将は桂川から、ともに京師に入り、細川顕氏・細川頼春と戦ってこれを破った。頼春を斬った。足利義詮は近江に敗走した(注:日付は今川家本・北条家本・毛利家本・金勝院本・西源院本太平記、および園太暦・東寺長者補任・祇園修行日記・常楽記・五壇法略記抄による。本書は二十七日とし、天正本太平記は二十二日とする)。準三宮源親房と源顕能に勅して、京師の諸事務を統轄させた。征東将軍宗良親王は信濃で挙兵し、新田義興・新田義宗・脇屋義治らと合流して、足利尊氏と武蔵の金井原(かないはら)で戦い、大いにこれを破った(注:金井原の地名は鶴岡社務記・喜連川系図による。本書は小手指原(こてさしはら)とする)。二十一日乙丑、源顕能・右衛門権佐藤原光資(みつすけ)を遣わし、左大臣藤原公賢(きんかた)に詔して光厳院(こうごんいん)・光明院・崇光院および直仁親王(なおひとしんのう)を迎えさせ、男山行宮に至らせた(注:二十一日は園太暦・東寺長者補任・祇園執行日記・五壇法略記抄による。本書は二十七日とし、椿葉記・皇代略記は二十日とする)。二十三日丁卯、新田義興・脇屋義治は鎌倉を攻め、足利基氏(もとうじ)を敗走させた(注:二十三日は北条家本・南都本による)。二十八日壬申、足利尊氏は宗良親王・新田義宗を笛吹嶺(ふえふきみね)に襲った(注:太平記による)。宗良親王・義宗は小手指原に迎え撃ったが、敗れた(注:太平記・新葉和歌集を参照して採った)。この月、陸奥国司源守親(もりちか)が兵を率いて白河(しらかわ)に至った(注:園太暦による。姓名は新葉和歌集・結城文書による)。三月三日丙子、光厳院・光明院・崇光院・直仁親王を東条に移した(注:園太暦・皇年代略記による。皇代記・東寺長者補任は三日を四日とし、太平記は東条を賀名生とする)。四日丁丑、新田義興・脇屋義治は鎌倉を捨て、河村城(かわむらじょう)に拠った(注:太平記による)。十五日戊子、足利義詮は東山に陣を敷いて男山に迫り、源顕能は軍を淀川(よどがわ)に退いて橋を撤去しこれを防いだ(注:太平記による。皇代記・東寺長者補任・五壇法略記抄・天正本太平記を参照して採った)。二十一日甲午、足利義詮は東寺に拠り、源顕能は軍を男山に退いた。赤松則祐(そくゆう)は義詮に離反して降った(注:太平記による。日付は祇園執行日記による。本書は十七日とする)。二十四日丁酉、斯波氏経(うじつね)・斯波氏頼(うじより)・斯波詮経(あきつね)が東条路を塞ぎ、男山に迫った(注:毛利家本・天正本太平記による)。二十七日庚子、楠正儀・和田正忠は、細川清氏(きようじ)・細川顕氏・土岐康貞(やすさだ)と荒坂山(あらさかやま)で戦った。正忠は康貞を斬り、ついに軍を退いて男山に拠った(注:太平記による)。この春、飢饉があった(注:園太暦による)。夏四月二十一日癸亥、左兵衛督藤原康長(やすなが)は山名師氏(もろうじ)と淀川で戦ったが、不利であった(注:日付は園太暦による)。二十五日丁卯、足利義詮は男山を攻めた。源顕能・楠正儀・和田正忠らは園殿口(そのどのぐち)・佐羅科(さらしな)で防戦した(注:太平記による)。敵は民家に火を放ち、官軍は引き揚げた(注:園太暦・太平記を参照して採った)。二十七日己巳、宗良親王は信濃から、新田義宗は越後から、桃井直常は越中から、吉良満貞(きらみつさだ)・石塔義房(いしどうよしふさ)は駿河から、土居得能は伊予から、それぞれ兵を率いて勤王した(注:太平記による)。二十九日辛未、春日山(かすがやま)の木々の多くが枯れた(注:園太暦による)。五月四日丙子、藤原康長は夜、細川顕氏の陣営を襲い、これを破った。楠正儀・和田正忠は河内に還り、兵を集めて男山の敵を追い払おうと図った。和田正忠が死去した(注:本書には日付の記載がないが、ひとまずここに置く)。十日壬午、矢野某・湯川荘司(ゆかわのしょうじ)ら二百余人が(注:祇園執行日記は、湯川荘司を湯浅入道とする)、足利義詮に離反して降った(注:園太暦・太平記による。矢野某の名は太平記により、二百人は園太暦による。太平記は二百を三百とする)。十一日癸未の夜、天皇は甲冑を着けて馬に乗り、包囲を突破して奈良に行幸した。敵が前後から迫り、権大納言藤原隆資ら三百余人が戦死した(注:園太暦・太平記を参照して採った。太平記には、某宮および円明院大納言・三条中納言雅賢(まさかた)もみな死んだとあるが、園太暦が引く藤原公泰(きんやす)の書状には、隆資のほかに命を落とした者はいないとある。これによれば太平記の記述はおそらく誤りである)。一宮有種(ありたね)が天皇に迫ったが、藤原康長がこれを撃ち倒した。木津川(きづがわ)に至ると、敵はまた包囲して矢を射かけ、矢は御鎧に達したが、康長は単騎で防戦した。たちまち百余の兵が来援して敵を撃つと、敵は敗走した(注:太平記による)。十二日甲申、唐招提寺(とうしょうだいじ)を経て賀名生の行宮に還った(注:園太暦・太平記・細々要記による)。この月、宗良親王・新田義宗らは男山が陥落したと聞き、兵を引いて還った(注:太平記による)。六月二日癸卯、光厳院・光明院・崇光院・直仁親王を賀名生の別宮に幽閉した(注:園太暦・太平記を参照して採った。吉野拾遺は春のこととする)。秋八月十二日壬子、蚩尤旗(しゆうき、彗星の一種)が西方に現れた(注:園太暦による)。十七日丁已、足利義詮は光厳院の子彌仁親王(いやひとしんのう)を奉じて京師で帝と称させた。これが後光厳院(ごこうごんいん)である(注:園太暦・皇胤紹運録・今川家本毛利家本太平記による。太平記は二十七日とするが誤りである)。九月、山名時氏・山名師義(もろよし)が伯耆(ほうき)で挙兵し、出雲・因幡・隠岐を巡って帰順させた(注:太平記による)。冬十一月、楠正儀・吉良満貞・石塔頼房(よりふさ)は摂津守護代某を撃ち、これを敗走させた。足利直冬が帰順した(注:園太暦による。太平記は正平九年のこととする)。

八年癸已、春三月二十三日辛卯、吉良満貞・石塔頼房らは土岐頼康と吹田(すいた)で戦ったが、不利であった。この月、鎮西(ちんぜい、九州)の諸将は右兵衛佐足利直冬に応じ、その兵勢は大いに振るった。伊豆守山名時氏は美作(みまさか)を収めた(注:園太暦による)。夏四月五日壬寅、京師で大風があり、真言院が壊れた(注:東寺長者補任による)。五月七日癸酉、山名時氏らは伯耆を発した。大納言藤原教忠、大納言藤原隆俊(たかとし)、左兵衛督藤原康長、左馬頭楠正儀、和泉守和田正武(まさたけ)、弾正少弼赤松氏範(うじのり)らに勅し、和泉・河内・大和・紀伊の兵を率いて時氏と合流させた(注:太平記による。教忠の官職は園太暦による)。六月九日乙巳、諸将は足利義詮と神楽岡(かぐらおか)で戦い、これを破って敗走させた。官軍は京師を回復した(注:園太暦・太平記・東寺長者補任・常楽記による。皇年代略記は六日、今川家本・北条家本・南都本太平記は七日、続神皇正統記は二日とする)。十三日己酉、掃部助堀口貞祐(さだすけ)は足利義詮を真野浦(まののうら)に迎え撃った(注:太平記による)。その将佐々木秀綱(ひでつな)を斬った(注:園太暦・太平記による)。十七日癸丑、詔して、「後光厳院の践祚に関わり、これに従って東に逃れた公卿は、一切官を解いて邸宅を没収せよ」とした。中納言藤原宗房(むねふさ)・前大蔵卿師治(姓は欠けている)を遣わしてこれを検分させた(注:園太暦による)。秋七月二十四日已丑、足利義詮および赤松則祐は京師に進み迫った(注:園太暦・太平記による。二十四日は園太暦による)。山名時氏は軍を引いて伯耆に還り(注:太平記による)、諸軍はみな退いた(注:園太暦・太平記・東寺長者補任による。皇年代略記は二十五日とする)。二十六日辛卯、足利義詮は京師に入った(注:園太暦による)。九月二十一日乙酉、足利尊氏は後光厳院を奉じて京師に入った(注:東寺長者補任・歴代皇紀・皇年代略記・園太暦による)。二十四日戊子、石清水宮で羽蟻が大量発生した。この月、右兵衛佐足利直冬を総追捕使(そうついぶし)とした。この年、旱魃・長雨・洪水があった(注:園太暦による)。

九年甲午、夏四月十七日己酉、準三宮源親房が薨じた(注:常楽記による)。冬十一月戊子朔、冬至であった(注:園太暦・公卿補任による)。四日辛卯、太白が哭星(こくせい)を犯した(注:園太暦による)。十二月十三日庚午、右兵衛佐足利直冬・伊豆守山名時氏は、伯耆の兵を発して足利尊氏を討とうとした。足利高経は播磨守桃井直常とともに、北国の兵を率いて直冬に応じた。二十四日辛已、足利直冬らは進んで丹波に到った。足利尊氏は後光厳院を奉じて近江に敗走した(注:太平記による。二十四日は歴代皇紀・皇年代略記・東寺長者補任・毛利家本天正本太平記による。本書はこれを明年正月十二日のこととする)。

十年乙未、春正月十日丁酉、播磨守桃井直常が京師に至った(注:園太暦による。太平記は十三日、天正本太平記・東寺長者補任は十六日とする)。十六日癸卯、尾張守足利高経が京師に至った(注:天正本太平記による)。二十二日己酉、右兵衛佐足利直冬・伊豆守山名時氏が京師に至った(注:園太暦・東寺長者補任による。時氏の名は毛利家本太平記による。現行本太平記はこれを九年のこととするが誤りである)。足利尊氏は延暦寺に拠った(注:東寺長者補任による。太平記は二月四日のこととする)。二月四日辛酉、足利直冬・足利高経・桃井直常らは東寺に拠った。大納言藤原隆俊・左兵衛督藤原康長を遣わして男山に拠らせた。山名時氏・右衛門佐山名師氏は足利義詮と神南山(こうなんやま)で戦ったが、敗れた。この月、足利高経・桃井直常らはたびたび京師で戦った。三月十二日戊戌、諸軍は足利尊氏と七条で大いに戦ったが、敗れた(注:太平記による。十二日は園太暦・東寺長者補任・北条家本・西源院本・南都本・天正本太平記による。本書は十三日とする)。十三日己亥、足利直冬および諸将は住吉・四天王寺・界浦(さかいのうら)に退いて拠ったが、ついにそれぞれ引き揚げた(注:園太暦・東寺長者補任・太平記を参照して採った)。二十二日戊申、足利尊氏・足利義詮は京師に入った。この月、興福寺の金堂に羽蟻が大量発生した。夏六月十九日己酉、京師で大風があり、家屋が倒壊した。この月、神泉苑(しんせんえん)の池の水が涸れた(注:園太暦による)。秋八月八日辛酉、光明院が京師に還ることを許された(注:園太暦・皇年代略記による)。この月、征東将軍宗良親王は信濃で挙兵し、諏訪祝(すわのはふり)某・仁科(にしな)某らがこれに応じた(注:園太暦による)。

十一年丙申、春正月九日庚寅、京師で大風・雷があった。足利高経が離反し、足利尊氏に降った(注:園太暦による)。二月十七日戊辰、興福寺に落雷があり、東金堂と塔が焼けた(注:園太暦・興福寺略年代記による)。秋七月三日辛巳、京師で大地震があった(注:園太暦による)。八月十四日壬戌、京師で大風があり(注:皇年代略記・興福寺略年代記による)、洪水があった。太政官庁の門が倒れ、宇治橋が壊れた(注:園太暦・東寺長者補任による)。この年、京師に盗賊が多かった(注:園太暦による)。

十二年丁酉、春二月十八日癸亥、光厳院・崇光院・直仁親王が京師に還ることを許された(注:園太暦・太平記・皇年代略記・皇胤紹運録を参照して採った)。秋閏七月二十二日甲午、広義門院(こうぎもんいん)が崩じた(注:歴代皇紀・常楽記による。後宮伝は二十一日とする。諸書とも葬儀の日付を欠く)。冬十一月二十二日壬戌、太白が哭星を犯した。二十五日乙丑、熒惑が天江(てんこう)第二星を犯した。二十九日己巳、なおも犯した。十二月八日戊寅、太白と歳星が相犯した(注:園太暦による)。この月、前関白師基(もろもと)の邸で方忌みを避けた(注:新葉和歌集による)。

十三年戊戌春、肥前守菊池武光(たけみつ)は一色直氏(いっしきなおうじ)らと戦い、これを敗走させた(注:太平記による)。五月二十四日壬戌、京師で大地震があった(注:歴代皇紀による)。六月戊辰朔、日食が予測されたが、曇天のため見えなかった(注:園太暦・東寺長者補任による)。秋八月十九日乙酉、左大臣藤原実世が薨じた(注:案ずるに、正平七年に藤原公賢が左大臣に任じられており、実世がその後を継いで任じられた年月は考証できない)。九月四日庚子、京師で大地震があった(注:園太暦による)。冬十月十日乙亥、左兵衛佐新田義興は足利基氏に誘い出されて殺された(注:太平記・井伊系図による)。

十四年己亥、春正月十日甲辰、京師で雷があった(注:園太暦による)。三月、肥前守菊池武光は畠山国久(くにひさ)を撃ち、三股(みつまた)・六笠(むつかさ)の二城を陥落させた。少弐頼尚(しょうによりひさ)と阿蘇大宮司宇治惟時(これとき)が離反すると、武光はその九つの砦を攻め落とした(注:太平記による。年月は今川家本・毛利家本・北条家本・金勝院本・西源院本・南都本による。本書はこれを十三年十一月のこととするが、おそらく誤りである)。夏四月二十九日辛卯、新待賢門院が崩じた(注:源通冬(みちふゆ)願文・女院小伝による。太平記はこれを前年四月十八日のこととする。諸書とも葬儀の日付を欠く)。天皇は三年の諒闇(りょうあん、喪に服す期間)に入った(注:新葉和歌集による)。六月、春日社の鳥居前の地面が十五丈ほど陥没し、興福寺の仏像の左脇から血が流れた。秋七月二十三日甲寅、真木島(まきしま)の川の水が涸れた。二十四日乙卯、もとに戻った(注:園太暦による)。この月、征西大将軍懐良親王は菊池武光らを率いて少弐頼尚を討った。八月十六日丙子、大原(おおはる)で大いに戦った。権大納言藤原親弘(ちかひろ)以下、卿相・将士の多くが戦死した。菊池武光は奮戦し、ついに敵を大いに破った。頼尚は宝満嶽(ほうまんだけ)に走って拠った(注:太平記による)。冬十一月、畠山国清(くにきよ)は関東の兵を率いて京師に入った(注:月は園太暦による)。十二月、足利義詮は兵を発し、国清とともに南下して侵攻した。この冬、賊が行宮に迫ろうとしたため(注:園太暦・太平記による)、車駕は天野(あまの)から移り、金剛山に入って観心寺に御した(注:太平記による。案ずるに、これより先、賀名生から天野に移った年月は、諸書とも考証のしようがない)。

十五年庚子、春正月、左馬頭楠正儀・和泉守和田正武は赤坂(あかさか)に城を築き、福塚(ふくつか)某・河辺(かわべ)某らは平石(ひらいし)に城を築き、真木野某・酒辺(さかべ)某らは八尾(やお)に城を築き、大和・河内の兵は竜泉峯(りゅうせんみね)に城を築き、大納言藤原隆俊は紀伊の最初峯(さいしょみね)を守った。二月十三日辛未、畠山国清は軍を津々山(つつやま)に進めて屯し、丹下(たんげ)・股野(またの)・誉田(こんだ)・酒勾(さかわ)・水速(みずはや)・湯浅・志貴(しき)の諸氏が離反して国清に降った。夏四月五日辛酉、藤原隆俊は畠山義深(よしふか)と竜門山(りゅうもんざん)で戦い、これを大いに破った。紀伊守護代伊勢守塩谷(しおのや)某が戦死した。十一日丁卯、藤原隆俊は畠山義熙(よしひろ)らとまた竜門山で戦ったが、敗れて阿瀬川城(あせがわじょう)に退いて拠った。十二日戊辰、住吉社が鳴動し、社前の楠(くすのき)の木が理由なく折れた。住吉・日吉(ひえ)の神を行宮に祀り、百日にわたり修法を行ってこれを祓った。征夷大将軍陸良親王に勅して、弾正少弼赤松氏範らを率いて畠山国清を討たせた(注:「敕」以下、本書には日付の記載がないが、藤原隆俊が敗れた後の記事として出ているため、ここに置く)。二十五日辛巳、陸良親王が反乱を起こし、賀名生行宮および公卿の邸宅を焼いた。二十六日壬午、前関白師基を遣わしてこれを討たせた。陸良親王・赤松氏範は敗走した。閏月乙卯晦、土岐直氏(なおうじ)・細川清氏・赤松範実(のりざね)が竜泉城を陥落させ、今川範氏(のりうじ)・佐々木氏頼(うじより)・佐々木信詮(のぶあき)が平石城を陥落させると、八尾の守将真木野某らは城を捨てて逃げた。五月三日戊午、畠山国清らは軍を合わせて赤坂城を攻めた。八日癸亥、和田正武は夜、敵陣を襲ったが、不利であった。正武と楠正儀は退いて金剛山に拠った。秋七月、楠正儀は杉原(すぎはら)某の水速城を攻め、これを陥落させた。恩地(おんじ)某・牲川(にえかわ)某は根来(ねごろ)の僧徒を春日山城に攻め、これを破った。阿瀬川定仏(じょうぶつ)・山本某・田辺別当某は湯川荘司を鹿瀬蕪坂(かせかぶらざか)に撃ち、これを敗走させた。伊豆守山名時氏は赤松貞範(さだのり)を攻め、その六城を陥落させた。仁木義長(にきよしなが)が帰順した(注:太平記による)。九月、住吉社に行幸した(注:新葉和歌集・李花集による)。征東将軍宗良親王に詔して兵を率いて敵を討たせようとしたが、北国の道が凍結していたため、果たされなかった(注:李花集による)。刑部卿石塔頼房と仁木義住(よしずみ)は伊賀・伊勢の兵を率い、佐々木氏頼を近江に撃ったが敗れた。義住は離反して足利義詮に降った。この年、旱魃・飢饉があり、疾疫が流行して、道には餓死者が相次いだ(注:太平記による)。

十六年辛丑、春三月庚辰晦、京師で火災があった(注:太平記による)。夏四月辛巳朔、日食が予測されたが、曇天のため見えなかった(注:後愚昧記による)。六月二十日己亥、大地震があった(注:後愚昧記・皇年代略記による。太平記は十八日とする)。阿波の雪港(ゆきのみなと)で海が溢れ、住民の家屋千七百余戸が漂流し水没した(注:太平記による)。二十一日庚子、京師で大地震があった(注:後愚昧記による)。二十二日辛丑、京師で雪が降り、人畜が凍死した(注:太平記による)。二十四日癸卯、京師で大地震があった。二十五日甲辰、また震動した(注:後愚昧記による)。二十七日丙午、またも大地震があり、四天王寺の金堂と奈良の堂舎の多くが壊れた(注:如是院年代記・歴代皇紀・皇年代略記による。日付は後愚昧記による)。秋七月三日壬子、また大地震があった。二十四日癸酉、また大地震があった(注:後愚昧記による)。難波浦(なにわのうら)で海が溢れ、死者数百人を出した。阿波の鳴戸(なると)は潮が涸れ、大きな太鼓のようなものが岩の上に現れた。この月、伊豆守山名時氏は美作の八城を降し、但馬(たじま)の人長信綱(ながのぶつな)と阿保信禅(あぼしんぜん)が時氏に応じ、その兵勢はふたたび振るった(注:太平記による)。八月己卯朔、京師で地震があった(注:後愚昧記による)。六日甲申、肥前守菊池武光は松浦党(まつらとう)と飯盛山(いいもりやま)で戦い、これを破って敗走させた。七日乙酉、菊池武光は香椎(かしい)の陣営を攻め、大友氏時(うじとき)・少弐頼尚は潰走した(注:太平記による)。十九日丁酉、京師で大風があった(注:歴代皇紀による。北条家本・南都本太平記は十七日とする)。二十四日壬寅、大地震があった。紀伊で地面が裂け、諸国の堂舎の多くが倒壊した。四天王寺の金堂を修造した(注:案ずるに、本書には、二匹の龍が四天王寺に飛び入って金堂が壊れたため、勅して修法を行いこれを祓った、とあるが、今はこれを採らない。後愚昧記によれば、金堂が壊れた月日も異なっている)。九月二十八日丙子、左馬頭楠正儀・和泉守和田正武は佐々木秀詮(ひであき)・佐々木氏詮(うじあき)を摂津に撃ち、これを斬った(注:太平記による)。冬十月、細川清氏が帰順した(注:後愚昧記・太平記による。冬十月は後愚昧記による)。細川氏春(うじはる)は淡路を巡り、松山某は摂津の香下城(かしたじょう)に拠って官軍に応じた。十一月四日辛亥、山名時氏は倉懸城(くらかけじょう)を攻め落とした(注:太平記による)。十四日辛酉、京師で大地震があり、月が畢宿(ひつしゅく)を犯した(注:後愚昧記による)。前関白師基、大納言藤原隆俊、中納言藤原邦光(くにみつ)、刑部卿石塔頼房、相模守細川清氏、楠正儀、和田正武らに勅して、大挙して足利義詮を討たせた。十二月三日庚辰、細川氏春は淡路の兵を率いて界浦に至った。これより先、赤松範実が帰順しており、ここに至って兵を率いて官軍に合流した(注:藤原邦光の名は毛利家本天正本太平記による)。八日甲申、諸将はともに進んだ。佐々木高秀(たかひで)・今川貞世(さだよ)らは風聞を聞いて逃げた(注:太平記による)。足利義詮は後光厳院を奉じて近江に敗走した(注:太平記・皇年代略記・東寺長者補任による)。官軍は京師に入り(注:東寺長者補任は七日とする)、義詮の邸を焼いた。右京大夫仁木義長は土岐頼康と伊勢で戦い、中務少輔仁木頼夏(よりなつ)は仁木義住を丹波に攻めたが、ともに敗退した。山名時氏は美作から軍を引いて伯耆に還った。赤松範実はまた離反して播磨に還り、東西の道が塞がれて諸将が来援できなくなった。足利義詮の軍勢はふたたび盛んになった。二十六日癸卯、足利義詮は勢多(せた)に至り、赤松氏範は水路から行宮を犯そうとしたため、前関白師基は諸将を率いて軍を還した。二十九日丙午、足利義詮は京師に入った(注:太平記による)。

十七年壬寅、春正月十三日庚申、落雷により東大寺が焼失した(注:興福寺年代記による)。十四日辛酉、相模守細川清氏は阿波に至り、伊予・土佐・讃岐を巡った。二月、彗星と客星がともに現れた。夏六月、伊豆守山名時氏は兵を分けて備前・備中を巡り、高師秀(もろひで)は潰走した。時氏は富田直貞(とみたなおさだ)に備後を攻略させた(注:直貞は今川家本では真貞とする)。右兵衛佐足利直冬は兵を率いてこれを援護し、宮兼信(みやかねのぶ)と宮内(みやうち)で戦ったが、敗走した。直貞は軍を引いて還った。右衛門佐山名師義は丹波・但馬の兵と対峙したが、兵糧が乏しくなり引き揚げた。播磨守桃井直常は越中を巡ったが、敗走した。秋七月二十四日丁卯、相模守細川清氏は細川頼之(よりゆき)と讃岐の白峰(しらみね)で戦い、敗死した。伊予・土佐・阿波・讃岐はふたたび失われた。八月十七日庚寅、左馬頭楠正儀・和泉守和田正武は佐々木高氏(たかうじ)の兵と神崎(かんざき)で戦い、これを破って敗走させた。九月十六日己丑、楠正儀・和田正武・刑部卿石塔頼房は赤松光範(みつのり)の多田部城(ただべじょう)を攻め、兵庫に火を放って還った。二十七日庚子、菊池武義(たけよし)は斯波氏経と長者原(ちょうじゃばる)で戦い、これを破って敗走させた。ついに菊池武光とともに豊後まで進み、大友氏時・少弐頼尚らを包囲した。この年、大旱魃があった。冬十一月、近江の湖(琵琶湖)が涸れた(注:案ずるに、天正本は四、五尺涸れたとし、本書は三丈余とするが、どちらが正しいかは分からない)。諸国で大飢饉があった(注:太平記による)。

十八年癸卯、秋八月十六日壬子、荘厳浄土寺(しょうごんじょうどじ)で法華八講(ほっけはっこう)を修した(注:新葉和歌集による)。この年、河野通直(こうのみちなお)が帰順した(注:予章記による)。

十九年甲辰、春三月、住吉社に行幸した(注:新葉和歌集による)。この春、大内弘世(おおうちひろよ)は周防・長門をもって足利義満に離反して降り、肥前守菊池武光・厚東(こうとう)某は弘世と豊後で戦い、これを破った。この年、山名時氏・山名師義・仁木義長・石塔頼房・上杉憲顕(のりあき)はみな相次いで離反した(注:太平記による。頼房・憲顕の名は毛利家本・天正本による。両書はいずれも桃井直常もまた降ったとするが、今はこれを採らない。説は本伝に見える)。

二十年乙巳、春正月二十六日乙酉、前関白師基が薨じた。この月、京師でたびたび火災があり、疱瘡が流行した(注:大乗院年代記による)。夏五月二十四日壬午、四天王寺金堂の落慶を祝った(注:新葉和歌集による。皇代記はこれを前年のこととする)。秋八月十七日癸卯、行宮で火災があった。冬十一月、疾疫が流行した(注:大乗院年代記による)。

二十一年丙午、春二月十七日己巳、荘厳浄土寺で法華八講を修した(注:新葉和歌集による)。夏六月十三日甲子、京師で大風があり、真言院が壊れた(注:皇代記・大乗院年代記による)。この月、京師で飢饉と疫病があり、死者が街に満ちた(注:大乗院年代記による)。

二十二年丁未、春三月三日己卯、北野社が焼失した(注:如是院年代記による)。

二十三年戊申、春三月十一日辛巳、天皇は住吉殿(すみよしどの)で崩じた(注:花営三代記・鳩嶺雑事記による。案ずるに、住吉殿に移った年月は考証のしようがない)。御年41歳。観心寺に葬り、後村上院と称した(注:鳩嶺雑事記による。本書には葬地の記載がないが、廟陵記によれば観心寺の山陵は現存する)。

天皇は幼くして東国の藩鎮を治め、やがて皇位を継いだ。吉野の一隅に偏り安んじていたとはいえ、おおよそ旧来の典礼を修め、常に旧都恢復を心に懸けていた。自ら艱難危険を経験し、将士は力を尽くして強敵を抑え、在位三十年、その間、戦いのない日はほとんどなかったといってよい(注:諸書の大意を参照して採った)。