卷第七十二 本紀七十二 上卷
後小松天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶後小松天皇(ごこまつてんのう)は、諱(いみな)を幹仁(もとひと)といった。
¶天皇の曾祖父にあたる光厳帝(こうごんてい)は、諱を量仁(かずひと)といい、後伏見帝(ごふしみてい)の第一子である。母は広義門院(こうぎもんいん)(注:以上は皇胤紹運録・続神皇正統記・皇年代略記による)。
¶正和二年七月九日乙未、花園天皇(はなぞのてんのう)の養子となった。八月、親王となった(注:歴代皇紀は九月のこととする)。
¶後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が即位すると、嘉暦元年七月、皇太子に立てられた。
¶元徳元年十二月二十八日庚戌、元服した(注:皇胤紹運録・皇年代略記による)。
¶元弘元年秋八月、天皇(後醍醐天皇)は三種の神器を奉じて笠置山(かさぎやま)に行幸した(注:太平記による)。九月二十日癸巳、皇太子(幹仁親王)は花園上皇の詔により、土御門殿(つちみかどどの)で践祚した(注:皇胤紹運録・皇年代略記による。太平記は践祚を十月十三日のこととするが、誤りである。今は本書および歴代皇紀・公卿補任に従う)。儀式は後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の故事にならった(注:皇年代略記・皇代略記による)。そのため元徳の年号をそのまま用いた(注:元弘日記裏書・将軍執権次第による)。関白冬教(ふゆのり)、左大臣藤原基嗣(もとつぐ)、右大臣源長通(ながみち)、内大臣藤原季衡(すえひら)、権大納言兼左近衛大将藤原経通(つねみち)、権大納言兼右近衛大将藤原道教(みちのり)は、いずれも留任した(注:公卿補任・歴代皇紀による)。冬十月、天皇(後醍醐天皇)は笠置山から帰還した(注:歴代皇紀・皇年代略記・皇胤紹運録・光明寺蔵書残篇による)。六日戊申、帝(光厳天皇)は天皇(後醍醐天皇)から剣・璽・鏡を受けた(注:太平記による。日付は元弘元年剣璽渡御記・皇年代略記・皇胤紹運録による)。二十五日丁卯、亡き皇太子邦良親王(くにながしんのう)の子・康仁(やすひと)を親王とした(注:歴代皇紀による)。この日、禖子内親王(ばいしないしんのう)を崇明門院(すうめいもんいん)と号した(注:女院小伝・歴代皇紀による)。十一月八日己卯、康仁親王を皇太子に立てた(注:歴代皇紀・皇年代略記・増鏡による。元弘日記裏書は八日を七日とするが、おそらく誤りである)。右大臣源長通を東宮傅とした(注:公卿補任・増鏡による)。
¶正慶元年三月七日丙子、天皇(後醍醐天皇)を隠岐島(おきのしま)に遷した(注:増鏡・太平記・梅松論による)。二十二日辛卯、帝(光厳天皇)は太政官庁で即位した。時に20歳(注:歴代皇紀・皇年代略記による。太平記は19歳とするが、今は本書の正和二年七月生誕の記述によって訂正した)。四月二十八日丁卯、改元した(注:公卿補任・増鏡・元秘別録・天正本太平記による)。五月二十日戊子、中宮の号を上(たてまつ)り、礼成門院(れいせいもんいん)といった(注:女院小伝・歴代皇紀による)。七月十三日辛巳、右大臣兼皇太子傅の源長通が辞した(注:公卿補任による)。十月十四日庚戌、内大臣藤原季衡が右大臣となり、大納言藤原通顕(みちあき)が内大臣となった(注:公卿補任・歴代皇紀による)。二十八日甲子、御禊(ごけい)を行った(注:歴代皇紀・皇胤紹運録・太平記による)。十一月八日甲戌、前右大臣藤原兼季(かねすえ)が太政大臣となった(注:公卿補任・歴代皇紀による)。十三日己卯、大嘗会(だいじょうえ)を行った(注:歴代皇紀・皇年代略記・皇代略記・増鏡・太平記による)。
¶二年閏二月二十八日辛卯、天皇(後醍醐天皇)は伯耆(ほうき)の船上山(せんじょうさん)に行幸した(注:後醍醐帝が名和長年(なわながとし)に賜った宸翰による)。三月十二日乙巳、赤松則村(あかまつのりむら)が六波羅(ろくはら)を攻め、鎮将の北条時益(ほうじょうときます)・北条仲時(ほうじょうなかとき)はこれを防いだが利あらず。帝(光厳天皇)および皇太子、後伏見・花園の二上皇は六波羅に行幸し、帝は自ら軍を励ました。五月、六波羅の軍勢は足利尊氏(あしかがたかうじ)らと戦って敗れた。七日己亥、北条時益・北条仲時は帝および二上皇・皇太子を奉じ、剣璽および歴代の宝器を携えて東へ向かった(注:太平記による)。宮人は神鏡を奉じ、権大納言藤原公宗(きんむね)の北山第に安置した(注:皇年代略記による。太平記は帝が三種の神器とともに東へ向かったとするが、誤りである)。北条時益は敵の矢に射殺され、流れ矢が帝の左肘にも当たった。九日辛丑、近江の番馬(ばんば)に至ったとき、守良親王(もりよししんのう)が兵を出して行列を要撃し、北条仲時および従う兵はことごとく自害した。帝は二上皇・皇太子とともに太平護国寺(たいへいごこくじ)に入り、剣璽および諸々の宝器を守良親王に渡した(注:皇年代略記・皇代略記・神皇正統記・皇胤紹運録・太平記・梅松論を参照してまとめた)。二十二日甲寅、北条高時(ほうじょうたかとき)は新田義貞(にったよしさだ)と鎌倉で戦い、敗死した(注:増鏡・太平記・梅松論による)。二十五日丁巳、帝は位を退いた(注:歴代皇紀による)。二十八日庚申、帝および二上皇・皇太子は太平寺から都へ帰り、兵を置いて護衛させた(注:皇年代略記による)。後伏見上皇は帝に出家を勧めたが、帝はあえてその命に従わなかった(注:増鏡による)。六月五日丁卯、天皇(後醍醐天皇)は都の宮中に還った(注:皇胤紹運録・公卿補任による)。十二月十日庚午、(光厳帝を)尊んで太上天皇と号した(注:歴代皇紀・皇胤紹運録による)。
¶延元元年四月六日壬午、後伏見上皇が崩じた(注:皇胤紹運録・帝王編年記・神皇正統記による)。これより先、足利尊氏が反乱を起こし、その軍は敗れて西へ奔った。この月、尊氏は筑紫(つくし)から兵を率いて東へ上った。二十七日壬申、天皇(後醍醐天皇)は延暦寺に行幸し、検非違使の大田全職(おおたぜんしょく)を遣わして、帝(光厳院)および花園法皇・豊仁親王(とよひとしんのう)を迎えさせた。帝は北白河に至ったところで病を得て、しばらく駕を止めた。足利尊氏の迎えの兵が到着すると、そこで法皇および豊仁親王とともに六条殿に還った(注:太平記による)。六月三日丁丑、男山(おとこやま)に行幸した。十四日戊子、足利尊氏の東寺の陣営に行幸した(注:皇年代略記・諸異本太平記による。現行本太平記は帝が自ら東寺に居を移したとするが、誤りである)。八月、皇太弟豊仁親王が践祚し、帝(光厳院)は庶務を総攬して、持明院(じみょういん)に居を移した(注:神皇正統記・皇胤紹運録・歴代皇紀・皇年代略記・天正本太平記を参照してまとめた。現行本太平記は光厳帝が重祚したとするが、誤りである)。崇光院(すこういん)が即位すると、光明院(こうみょういん)と称し、新院(しんいん)といった(注:皇代記・続神皇正統記による)。帝(光厳院)は改めて一院(いちのいん)と称し、なお従来どおり政務を聴いた(注:毛利家本・今川家本・天正本太平記による)。
¶正平七年八月、帝(光厳院)は賀名生(あのう)にあって剃髪した(注:公卿補任・園太暦による)。法名を勝光智(しょうこうち)といった。十一年、「勝」の字を除いて光智とした。この年、天野(あまの)の行宮(あんぐう)に赴いた。翌年、都に還って伏見殿(ふしみどの)に居を構えた(注:皇胤紹運録・皇年代略記による)。師僧の疎石(そせき、夢窓疎石)のもとで禅の奥義を究め、これより世俗をますます厭うようになり、二度と人と交わろうとせず、小倉山(おぐらやま)のふもとに隠れ住んだ。やがてまた伏見に還り、光厳院御所に住んだ。都に近いため、臣下の見舞いの訪れが絶えなかった。そこでことごとく侍従を退け、ただ僧の順覚(じゅんかく)(注:「順」はある本に「道」に作る)のみを従え、四方を雲水のごとく巡り歩いたので、当時の人々もはじめはそれと気づかなかった。かつての戦乱の地を巡り歩き、深く生きとし生けるものの罪を悔い、多くの場面で慙愧の念を抱いた。紀伊川(きいがわ)に至ったとき、危うい橋があってたやすくは渡れず、しばらくためらっていた。そこへ数人の武人が後から追いつき、叱りつけて帝を突き落とし、水中に落とした。順覚は身を投げてこれを助け上げたが、衣服はずぶ濡れとなり、手足を傷めた。順覚は涙を拭い、帝を助けて野辺の亭に入り、着物を着替えさせた。そのまま高野山(こうやさん)に至った。すると二人の僧が追いついてきて、跪いて罪を謝し、罪滅ぼしに使役されたいと願い出た。彼らこそ先日帝を水に突き落とした者たちであった。帝は諭してこれを帰したが、二人は固く願って去ろうとしなかった。夜になって、帝は二人に水を汲みに行かせ、その隙に順覚とともに急いでその場を出て伏見に戻った。途中、賀名生の行宮を通りかかり、後村上天皇(ごむらかみてんのう)に拝謁し、ともに語り合ううちに話は戦乱のことに及び、後村上天皇は涙を流して悲しんだ。辞去するにあたって厩の馬を与えられたが、受けなかった。都に戻ると、再び光厳院御所に住んだ。その後も見舞いに訪れる者はなお多かった。そこで丹波(たんば)の山国(やまぐに)に出て、庵を構えて住んだ。貞治三年七月己巳、崩じた。御年52歳。その地に葬られた(注:太平記による。御年52歳は皇胤紹運録・皇年代略記による)。遺骨は金剛院(こんごういん)に納め、御影は大光明寺(だいこうみょうじ)に安置した(注:後深心院関白記による)。遺命により光厳院と称した(注:皇胤紹運録・皇年代略記による。諸書とも葬った日は記載がない)。
¶光明帝(こうみょうてい)は、諱を豊仁(とよひと)といい、光厳帝の同母弟である。
¶元亨元年十二月二十三日壬戌に生まれた。二年二月、親王となった(注:皇胤紹運録・歴代皇紀・皇年代略記による)。
¶延元元年八月十五日戊子、元服した。権大納言藤原良基(よしもと)の押小路第(おしこうじてい)で践祚した(注:皇年代略記・天正本太平記による)。延元元年を改め、建武三年を用いた(注:公卿補任・皇年代略記による)。左大臣藤原経忠(つねただ)を関白とし、右大臣藤原公賢(きんかた)・内大臣藤原経通・権大納言兼左近衛大将藤原道教・権大納言兼右近衛大将藤原師平(もろひら)は、いずれも留任した(注:歴代皇紀・公卿補任による)。二十二日乙未、帝は足利尊氏の東寺の陣営に行幸した。十一月二日甲辰、帝は後醍醐天皇から剣・璽・鏡を受けた。天皇(後醍醐天皇)に尊号を奉り、太上天皇といった(注:皇胤紹運録・皇年代略記による)。十四日丙辰、太上天皇(後醍醐天皇)の第七子・成良親王(なりよししんのう)を皇太子に立てた(注:皇年代略記・歴代皇紀による)。内大臣藤原経通を東宮傅とした(注:公卿補任による)。十二月十日壬午、藤原経通の室町第(むろまちてい)に行幸した。二十一日癸巳、太上天皇(後醍醐天皇)は吉野(よしの)へ出幸した(注:皇胤紹運録・皇年代略記による)。まもなく皇太子は廃された(注:歴代皇紀・皇年代略記による)。四年正月十六日戊午、珣子内親王(しゅんしないしんのう)を新室町院(しんむろまちいん)と号した。二月七日戊寅、壽子内親王(じゅしないしんのう)を徽安門院(きあんもんいん)と号した(注:貴女抄・女院小伝による)。四月五日乙亥、関白経忠は吉野の行宮に赴いた。十六日丙戌、前左大臣基嗣(もとつぐ)を関白とした。七月十二日庚戌、内大臣藤原経通が左大臣に移り、右大臣藤原公賢は辞し、権大納言兼左近衛大将藤原道教が右大臣となり、権大納言兼右近衛大将藤原師平が内大臣となった(注:公卿補任・歴代皇紀による)。十二月二十八日甲午、帝は太政官庁で即位した。御年17歳(注:続神皇正統記・皇年代略記・毘沙門堂所蔵記による)。
¶暦応元年四月甲午晦、准三宮藤原実子(さねこ)を宣光門院(せんこうもんいん)と号した(注:女院小伝による。歴代皇紀・貴女抄は二十八日のこととする)。五月十九日癸丑、関白基嗣が辞した。左大臣藤原経通を関白とした(注:公卿補任・歴代皇紀による)。七月六日戊戌、石清水宮(いわしみずぐう)が火災にあった(注:石清水回禄記・後愚昧記応安四年による)。十七日庚戌、石清水宮の火災により、五日間朝政を止めた(注:石清水回禄記による)。閏月二十八日庚寅、石清水宮の火災について軒廊(こんろう)で占わせた。八月十一日癸酉、石清水に使者を遣わした(注:後愚昧記応安四年による)。征東将軍権大納言足利尊氏を征夷大将軍とした(注:公卿補任・喜連川系図による)。十三日乙亥、皇甥の益仁親王(ますひとしんのう)を皇太子に立てた(注:歴代皇紀・皇年代略記・皇胤紹運録による)。右大臣藤原道教を東宮傅とした(注:公卿補任・歴代皇紀による)。二十八日庚寅、改元した(注:皇年代略記・皇代記・公卿補任による)。壬辰晦、右大臣藤原道教が左近衛大将を辞した(注:公卿補任による)。十月十九日庚戌、内大臣藤原師平が右近衛大将を辞し、権大納言藤原良基が左近衛大将を兼ね、大納言源具親(ともちか)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・歴代皇紀による)。二十八日已未、御禊を行った(注:歴代皇紀・皇年代略記による)。十一月十九日己卯、大嘗会を行った(注:公卿補任・歴代皇紀・皇年代略記による)。二年正月十六日丙子、前右大臣藤原兼季が薨じた(注:尊卑分脈・園太暦による)。八月十六日壬寅、後醍醐天皇が吉野の行宮で崩じた(注:神皇正統記・皇胤紹運録・常楽記・元弘日記裏書による)。十月五日庚寅、後村上天皇が吉野の行宮で即位した(注:関城書裏書による)。十二月二十七日辛亥、関白経通が左大臣を辞し、右大臣藤原道教が左大臣に転じ、内大臣藤原師平が右大臣に移り、大納言源具親が内大臣となった。この冬、春日の神木(しんぼく)が長講堂(ちょうこうどう)に遷座したため、京官の除目(じもく)を停止した(注:園太暦による)。三年七月八日已未、内大臣兼右近衛大将源具親が辞した。十九日庚午、権大納言兼左近衛大将藤原良基が内大臣となり、大納言藤原実忠(さねただ)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・歴代皇紀による)。十月六日丙戌、佐々木高氏(ささきたかうじ)が放火して妙法院(みょうほういん)を焼き、亮仁法親王(すけひとほっしんのう)を鞭打った(注:太平記による。十月六日は金勝院本による)。十二月二十七日丙午、前右大臣源長通が太政大臣となった(注:公卿補任・歴代皇紀による)。四年四月二十五日壬寅、佐々木高氏を上総(かずさ)に流した(注:太平記による)。八月十九日甲子、春日の神木が本座に還った。
¶康永元年正月二十六日戊戌、関白経通が辞した。二十七日己亥、左大臣藤原道教が関白となった。三月二十九日庚子、太政大臣長通が辞した(注:歴代皇紀は二月十九日のこととする)。辛丑晦、関白道教が皇太子傅を辞した。内大臣藤原良基を皇太子傅とした(注:公卿補任による)。四月二十七日戊辰、改元した(注:公卿補任・皇代記・毘沙門堂所蔵記による)。九月三日壬申、光厳上皇が伏見殿に行幸し、伏見天皇(ふしみてんのう)の冥福を修した。土岐頼遠(ときよりとお)が酒に酔って行列を犯した。十月己亥朔、土岐頼遠が誅に伏した(注:太平記による。朔日は常楽記による)。十一月已巳朔、関白道教が左大臣を辞した。十二日庚辰、関白道教が辞した(注:歴代皇紀は道教が関白・左大臣を辞したのをいずれも十三日のこととする)。十八日丙戌、右大臣藤原師平が関白となった。十二月二十一日己未、内大臣藤原良基が左近衛大将を辞した。二年三月十九日乙酉、大納言兼右近衛大将藤原実忠が辞した。二十七日癸己、関白師平が右大臣を辞した。四月十日乙巳、前右大臣藤原公賢が左大臣となり、内大臣藤原良基が右大臣に移り、前大納言藤原実忠が内大臣となり、大納言藤原冬信(ふゆのぶ)が左近衛大将を兼ね、大納言藤原公清(きんきよ)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・歴代皇紀による。皇紀は冬信・公清が大将を兼ねたのを三月十九日とするが、今は補任に従う)。三年八月十五日壬申、東大寺八幡宮(はちまんぐう)の神輿が入京した。二十日丁丑、神輿が在京しているため、釈奠(せきてん)の宴と穏座(おんざ)を罷めた。十月二十三日己卯、持明院に上皇(光厳上皇)を訪ねた。二十六日壬午、宮中に還った。
¶貞和元年正月丙戌朔、元会(がんえ)を行った。七日壬辰、白馬節会(あおうまのせちえ)を行った。十六日辛丑、踏歌(とうか)を行い、いずれも音楽を止めた。二月二日丁巳、釈奠の宴と穏座を罷めた。五日庚申、盗賊が東宮に入り、内侍局(ないしのつぼね)の衣服を奪った。十一日丙寅、大学頭紀行親(きのゆきちか)が盗賊に傷つけられて死んだ(注:姓は康永歌合による)。三月七日辛卯、奈良の白乳社(しらちしゃ)の社殿が倒れた。二十九日癸丑、方忌(かたいみ)を避けて新殿(しんでん)に移った。甲寅晦、宮中に還った。四月十二日丙寅、延暦寺中堂の長明灯(じょうみょうとう)が理由もなく消えた。これを占わせた(注:園太暦・皇年代略記による)。七月、彗星が東北に現れた。二十六日戊申、五畿七道(ごきしちどう)に仁王経・般若経の二経を転読させ、彗星の災いを祓った。八月壬子朝、足利聖王(あしかがせいおう)が没したので、七日間朝政を止めた。八日己未、使者を発して金原(かねがはら)・浄金剛院(じょうこんごういん)・深草(ふかくさ)などの五陵に遣わし、彗星の災いを祓った(注:園太暦による。聖王の名は常楽記による)。この月、足利尊氏が創建した天龍寺(てんりゅうじ)が完成した。帝は詔してこれを勅願寺に准じたが、延暦寺の僧徒が訴えたため、その命を取りやめた(注:園太暦・太平記による)。九月八日己丑、内大臣藤原実忠が辞し、大納言兼左近衛大将藤原冬信が内大臣となった(注:公卿補任・歴代皇紀による)。十月二十一日辛未、改元した(注:公卿補任・園太暦・皇代記による)。二年正月辛巳朔、小朝拝(こぢょうはい)を罷め、国栖奏(くずのそう)の笛を止めた。七日丁亥、白馬節会の笛を止めた。二十一日辛丑、東大寺八幡宮の神輿が本座に還った(注:園太暦による)。二月十八日丁卯、内大臣兼左近衛大将藤原冬信が辞し、大納言藤原公清が内大臣となった。二十九日戊寅、関白師平が辞し、右大臣藤原良基が関白となった(注:公卿補任・歴代皇紀による)。五月二十五日癸卯、前右大臣藤原季衡が薨じた(注:園太暦による)。六月十一日戊午、左大臣藤原公賢が辞した(注:公卿補任による)。閏九月十四日己未、持明院に行幸した。十五日庚申、広義門院の新殿に行幸した。十六日辛酉、宮中に還った(注:園太暦による)。十月十六日庚寅、内大臣藤原公清が右近衛大将を辞し、権大納言藤原経教(つねのり)が左近衛大将を兼ね、権大納言藤原道嗣(みちつぐ)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・歴代皇紀・園太暦による)。三年正月四日丁未、前内大臣藤原実忠が薨じた(注:尊卑分脈・公卿補任による)。二月十三日丙戌、方忌を避けて持明院に移った。五月辛未晦、方忌を避けて長講堂に移った(注:園太暦による)。八月十六日丙戌、内大臣藤原公清が辞した。九月十六日乙卯、関白右大臣良基が左大臣に転じ、権大納言兼左近衛大将藤原経教が右大臣となり、権大納言兼右近衛大将藤原道嗣が内大臣となった。四年三月二十八日乙丑、右大臣藤原経教が左近衛大将を辞した。四日月二十八日甲午、内大臣兼右近衛大将藤原道嗣が左近衛大将に転じ、大納言藤原公重(きんしげ)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・歴代皇紀による)。五月十七日癸丑、諸社に幣帛(へいはく)を奉り、雨を祈った。二十八日甲子、大雨で洪水が起きた。七月八日癸卯、興福寺(こうふくじ)の僧徒が春日社(かすがしゃ)の回廊修造のことを訴え、神木を移殿(うつしどの)に遷した(注:園太暦による)。八月十二日丙子、内大臣藤原道嗣が左近衛大将を辞した(注:公卿補任による)。九月十九日癸丑、方忌を避けて持明院に移った。二十日甲寅、宮中に還った(注:園太暦による)。十月七日庚午、大納言兼右近衛大将藤原公重が左近衛大将に転じ、権大納言藤原長定(ながさだ)が右近衛大将を兼ねた。二十二日乙酉、前左大臣藤原公賢が太政大臣となった(注:公卿補任・歴代皇紀による)。二十七日庚寅、帝は皇太子に位を譲り、土御門殿に移り住んだ(注:園太暦・皇胤紹運録・公卿補任・歴代皇紀・太平記・皇年代略記・皇代略記による。土御門殿は園太暦による)。十一月、尊号を奉り、太上天皇といった(注:園太暦・皇胤紹運録・歴代皇紀・皇年代略記・皇代略記による)。
¶観応二年十二月、剃髪した。法名を真常恵(しんじょうえ)といった(注:椿葉記・園太暦・皇胤紹運録・皇年代略記・皇代略記による。法名は紹運録以下三書による)。
¶文和元年、崇光院とともに賀名生に遷された。帝は出発にあたり、右近衛大将源顕能(あきよし)に向かってこう言った。「朕はもともと即位する気持ちはなく、ただ武人に強いられたにすぎない。位を退いてからは、速やかに都を辞し、遠く宇多法皇(華山)の足跡を追いたいと思っていたが、それもまだ叶わなかった。今まさに国家が再興され、万物がことごとくその本来のあり方を遂げようとしている。朕はどうか格別のご恩を受けて、墨染めの衣をまとい、辺境の地で生涯を終えたいと願う。卿はどうかこれを奏上してくれ。」顕能はあえてその命を受けなかった。後に天皇(後村上天皇)はこれを聞いて心を痛めた(注:太平記による)。四年八月、帝は僧服をまとい、法名を真恵(しんえ)と改めた。天野の行宮に赴いた。まもなく都に還り、伏見殿に住んで仏道の奥義を研究した。大光明寺および保安寺(ほうあんじ)に居を移し、また深草の金剛寿院(こんごうじゅいん)に遷り、のちに長谷寺(はせでら)に住んだ。
¶康暦二年六月、崩じた。御年60歳。遺命により光明院と称した(注:皇胤紹運録・皇年代略記・皇代略記・園太暦・椿葉記・太平記を参照してまとめた。太平記・椿葉記は帝が光厳院とともに都へ還ったとするが、誤りである。諸書とも葬った地の記載はない)。
¶崇光帝(すこうてい)は、諱を興仁(おきひと)といい、初名を益仁(ますひと)といった。光厳帝の長子である。母は陽禄門院(ようろくもんいん)。
¶建武元年四月二十二日己卯に生まれた。光明院が即位すると、暦応元年八月、親王となった。十三日甲午、皇太子に立てられた(注:皇胤紹運録・歴代皇紀・皇年代略記による。後愚昧記は立太子を十五日とする)。
¶貞和四年十月二十七日庚寅、皇太子は関白左大臣良基の押小路第で践祚した(注:園太暦・公卿補任・皇年代略記・皇代略記による)。関白左大臣良基・太政大臣公賢・右大臣藤原経教・内大臣藤原道嗣・大納言兼左近衛大将藤原公重・権大納言兼右近衛大将藤原長定は、いずれも留任した(注:公卿補任・歴代皇紀による)。花園上皇の皇子直仁親王(なおひとしんのう)を皇太弟に立てた(注:歴代皇紀・皇年代略記・園太暦による)。内大臣藤原道嗣を東宮傅とした(注:公卿補任による)。十一月十一日甲辰、花園法皇が崩じた(注:園太暦・皇胤紹運録・皇年代略記・皇代略記・常楽記による)。十三日丙午、花園天皇を葬った(注:園太暦による)。二十五日戊午、光明帝を尊んで太上天皇といった(注:園太暦・皇年代略記・皇胤紹運録による。歴代皇紀は二十八日のこととする)。五年正月癸巳朝、春日の神木が移殿にあるため、元会でも殿に出御しなかった。九日辛丑、方忌を避けて持明院に移った。十日壬寅、宮中に還った(注:園太暦による)。七月六日乙丑、前関白道教が薨じた(注:公卿補任による)。九月十三日辛未、関白良基が左大臣を辞し、右大臣藤原経教が左大臣に転じ、内大臣藤原道嗣が右大臣となり、大納言兼左近衛大将藤原公重が内大臣となった(注:公卿補任・歴代皇紀による)。十二月二十六日壬子、帝は太政官庁で即位した。御年16歳。この年は、後村上天皇の正平四年にあたる(注:歴代皇紀・皇年代略記・太平記による。公卿補任は二十七日とする)。
¶観応元年二月二十七日壬子、改元した(注:園太暦・公卿補任・皇年代略記による)。三月十八日癸酉、太政大臣公賢が辞した(注:公卿補任・園太暦による)。五月十六日庚午、盗賊が参議菅原在登(すがわらのありとう)を殺した(注:公卿補任・祇園執行日記抄・太平記・菅原系図・常楽記による)。八月二十七日庚戌、左馬頭足利義詮(あしかがよしあきら)が美濃(みの)で土岐頼明(ときよりあき)を攻めてこれを殺した(注:園太暦・祇園執行日記抄による)。十一月八日已未、内大臣藤原公重が左近衛大将を辞した(注:公卿補任による)。十二月九日庚寅、足利直義(あしかがただよし)が吉野の行宮に帰順した(注:太平記による)。二十三日甲辰、足利直義の兵がまさに都へ入ろうとしていたため、土御門殿に行幸した。二十八日已酉、宮中に還った。二年正月辛亥朔、元会には殿に出御せず、国栖奏・小朝拝以下の諸儀を罷めた。十四日戊子、足利直義の兵を避けて持明院に行幸した。十六日丙寅、春日の神木が本座に還った(注:園太暦による)。二月二十七日丁酉、征夷大将軍足利尊氏が高師直(こうのもろなお)・高師泰(こうのもろやす)を誅した(注:東寺長者補任・長楽記による。園太暦は二十五日、太平記は二十六日のこととする)。四月十日已丑、内大臣藤原公重が辞した(注:公卿補任・歴代皇紀による)。十六日乙未、権大納言藤原冬通(ふゆみち)が左近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による)。六月二十六日癸卯、大納言兼右近衛大将藤原長定が内大臣となった。九月十九日乙丑、内大臣兼右近衛大将藤原長定が辞した(注:公卿補任・歴代皇紀による)。十一月七日発丑、左近衛中将足利義詮が帝(崇光帝)および皇太弟直仁を廃し、正平の年号を奉じた(注:皇胤紹運録・皇年代略記を参照してまとめた)。十二月二十三日戊戌、帝は剣・璽・鏡を後村上天皇に奉った(注:園太暦による)。二十八日癸卯、後村上天皇は帝を尊んで太上天皇といった(注:皇胤紹運録・皇年代略記・椿葉記による)。翌年、帝および光厳・光明の二上皇、直仁親王は、ともに男山(おとこやま)の行営(あんえい)に赴いた(注:皇年代略記・椿葉記・園太暦・東寺長者補任による)。このとき事態は急に起こったため、乗るべき輿(こし)がなかった。前太政大臣公賢が一台の車を差し出し、四人がともに一つの車に同乗した。近臣で北面(ほくめん)して供奉(ぐぶ)する者はわずか三人だけであった。夜になって東寺(とうじ)に着いたが、朝になっても食事が供されず、侍女が飯を探し出して差し上げた。男山に留まり、月を越えて河内(かわち)の東条(とうじょう)に行幸し、まもなく賀名生に遷され、荒れた屋敷に幽閉され、いばらで囲まれた。兵士を置いて固く守らせ、ただ侍女と妾をそれぞれ一人ずつあてがって世話をさせた(注:園太暦による。椿葉記・吉野拾遺・東寺長者補任・太平記を参照した)。
¶延文二年二月、帝は伏見殿に還御した(注:皇胤紹運録・皇年代略記・椿葉記・園太暦・続神皇正統記による)。
¶明徳三年十一月、剃髪した。法名を勝円心(しょうえんしん)といった。
¶応永五年正月十三日辛酉、伏見殿で崩じた。御年65歳(注:皇胤紹運録・皇年代略記による)。遺命により崇光院と称した(注:皇年代略記・椿葉記による。諸書とも葬った地の記載はない)。帝の在位中は世が騒乱に見舞われ、御禊・大嘗会の儀式はついに行われずに終わった(注:皇年代略記・続神皇正統記による)。
¶後光厳帝(ごこうごんてい)は、諱を弥仁(いやひと)といい、崇光帝の同母弟である。
¶暦応元年三月二日丁酉に生まれた(注:皇胤紹運録・皇年代略記・皇代記による)。
¶貞和二年二月、着袴(ちゃっこ)の儀を行った(注:園太暦による)。
¶観応二年、崇光帝が廃された。外祖母の藤原氏は、帝を僧にして世を避けさせようとした。広義門院は北斗堂(ほくとどう)の僧・実算(じっさん)に命じてこれを占わせたところ、天子となる兆しが出た。そこで右大弁藤原時光(ふじわらのときみつ)の家に匿い養わせた(注:太平記による)。
¶文和元年二月二十六日庚子、足利尊氏が弟の直義を殺した(注:皇年代略記・常楽記・太平記による)。閏月二十日甲子、右大臣藤原道嗣が皇太子傅を辞した(注:公卿補任による)。二十一日乙丑、光厳・光明・崇光の三帝、および直仁親王は賀名生に赴いた。帝(弥仁)もまた本来ともに赴くはずであったが、実現しなかった。八月、これより先、足利尊氏は都に主(あるじ)がいないため、広義門院に請うて帝(弥仁)を皇位に就けようとした。群臣は神器が伝わっておらず、かつ天皇からの譲位の命もないことから、これを難しいこととした。尊氏はこれを聞き入れなかった。前太政大臣公賢は継体天皇(けいたいてんのう)の故事にならうべきだと論じ、これに従った。十七日丁巳、広義門院は帝を親王とし、元服の儀を加えた(注:園太暦による)。土御門殿で践祚した(注:園太暦・毘沙門堂所蔵記・公卿補任・皇胤紹運録・皇年代略記による)。関白良基・左大臣藤原経教・右大臣藤原道嗣・権大納言兼左近衛大将藤原冬通は、いずれも留任した(注:公卿補任・歴代皇紀による)。九月二十七日丁酉、改元した(注:公卿補任・皇年代略記・皇代略記・園太暦・続神皇正統記による)。十月二十九日己巳、准三宮藤原秀子(しゅうし)を陽禄門院(ようろくもんいん)と号した(注:園太暦・女院小伝による。貴女抄は二十七日とする)。十一月二十七日丁酉、前権大納言藤原公秀(きんひで)が内大臣となった(注:公卿補任・歴代皇紀・園太暦による)。二年二月四日壬寅、持明院が火災にあった(注:皇年代略記・園太暦・太平記による)。三月、都で尼が幼児数十人を殺害する事件が起きた。これを捕らえて誅した(注:園太暦による)。四月五日壬寅、大風が吹き、真言院(しんごんいん)が倒れた(注:東寺長者補任による)。六月九日乙巳、足利義詮が山名時氏(やまなときうじ)と戦って敗れた。義詮は帝を奉じて東坂下(ひがしさかもと)に行幸した。十三日己酉、美濃に至った(注:園太暦・太平記による)。七月二日丁卯、内大臣藤原公秀が官を棄てて僧となった。八月六日乙丑、前関白師平が薨じた。二十七日壬戌、前太政大臣長通が薨じた(注:公卿補任による)。九月二十一日乙酉、帝は美濃から還り、土御門殿に入った(注:園太暦・皇年代略記・皇代略記による)。十二月十一日甲辰、盗賊が前参議藤原実益(さねます)を殺した(注:公卿補任による)。二十七日辛酉、帝は太政官庁で即位した。御年16歳(注:皇年代略記・皇代略記による)。三年四月八日庚子、前関白基嗣が薨じた(注:公卿補任による)。十五日丁未、権大納言源通相(みちすけ)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・歴代皇紀による)。閏十月二十八日丙戌、御禊を行った。十一月十六日癸卯、大嘗会を行った(注:皇年代略記・皇代略記による)。十二月二十四日辛己、帝は足利直冬(あしかがただふゆ)の兵を避けて近江の武佐寺(むさじ)に移った(注:皇年代略記・皇代略記・毛利家本天正本太平記による)。四年二月八日乙丑、延暦寺に行幸した。三月二十八日甲寅、都に還り土御門殿に入った(注:皇年代略記・皇代略記・園太暦による)。詔して、「都に留まって吉野の官職を受けた公卿の封邑(ほうゆう)を奪う」とした。七月二十六日庚戌、盗賊が後宮に入って衣類を盗んだ(注:園太暦による)。八月八日辛酉、光明院が賀名生から都に到着した(注:皇年代略記・皇代略記・園太暦による)。この月、左近衛中将足利義詮の求めにより、公卿の封邑を回復した。九月五日丁亥、春日の神木が移殿に遷座した。
¶延文元年正月壬午朔、元会を行った。神木が遷座しているため、小朝拝を罷め、国栖奏の音楽を止めた。十三日甲午、春日の神木が本座に還った(注:園太暦による)。三月二十八日己酉、改元した(注:公卿補任・歴代皇紀・皇年代略記・園太暦による)。七月十三日辛卯、興福寺は春日社の封戸(ふこ)のことを訴え、神木を金堂(こんどう)に遷した。十八日丙申、東大寺の僧徒が八幡宮の神輿を奉じて入京し、伊勢守護(いせしゅご)が神人(じにん)を殺したことを訴えた(注:園太暦による。伊勢守護の姓名は記載がない)。二十一日己亥、権大納言兼右近衛大将源通相が内大臣となった(注:公卿補任・歴代皇紀による)。八月十四日壬戌、大風で洪水が起きた。二十一日己巳、諸社に幣帛を奉り、晴天を祈った。十月丁未朔、盗賊が禁中に入り、御物(ぎょぶつ)を盗んだ。二年正月丙子朔、元会を行った。八幡宮の神輿が在京しているため、小朝拝を罷め、国栖奏の笛を止めた。十六日辛卯、踏歌節会では御簾(みす)を垂れ、音楽を止めた(注:園太暦による。大風は東寺長者補任による)。二月十八日癸亥、光厳院・崇光院・直仁親王が賀名生から到着した(注:園太暦・皇年代略記・皇胤紹運録による。直仁親王は椿葉記・太平記による)。三月四日己卯、春日の神木が本座に還った。八日癸未、一乗院(いちじょういん)の僧徒と大乗院(だいじょういん)の僧徒が奈良で合戦した。十月二十五日丙申、一乗院の僧徒が奈良の禅定院(ぜんじょういん)を焼き、火は数百軒に延焼した。三年正月庚子朝、元会では小朝拝を罷め、国栖奏の歌笛を止めた。七日丙午、白馬節会では音楽を止め、国栖坊家(くずぼうけ)の奏楽を罷めた(注:園太暦による)。四月戊戌晦、征夷大将軍権大納言足利尊氏が薨じた(注:尊卑分脈・東寺長者補任・常楽記・足利系図による)。十二月十八日壬午、左近衛中将足利義詮を征夷大将軍とした(注:公卿補任・太平記による)。二十九日癸已、関白良基が辞した。左大臣藤原経教を関白とした(注:公卿補任・歴代皇紀による)。四年正月乙未朔、元会の諸儀を罷めた。四月二十八日庚寅、新千載和歌集(しんせんざいわかしゅう)が完成した(注:園太暦による)。五年四月六日壬戌、前太政大臣公賢が薨じた(注:尊卑分脈による)。六月八日癸已、前内大臣藤原公清が薨じた。九月甲申晦、関白経教が左大臣を辞し、右大臣藤原道嗣が左大臣に転じ、権大納言兼左近衛大将藤原冬通が右大臣となり、内大臣兼右近衛大将源通相が辞し、権大納言藤原公忠(きんただ)が内大臣となった。十一月十七日庚午、右大臣藤原冬通が辞し、左近衛大将権大納言藤原実夏(さねなつ)が左近衛大将を兼ね、権大納言藤原実俊(さねとし)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による。冬通が大将を辞したことについて本書は日付を記さない。今はひとまず十七日としておく)。
¶康安元年三月庚辰晦、改元した(注:公卿補任・皇年代略記・後愚昧記・太平記による)。六月二十八日丁未、これより先、都で地震が頻発していたので、この日最勝講(さいしょうこう)を修した。八月十三日辛卯、熾盛光法(しじょうこうほう)を修し、いずれも地震の災いを祓った(注:後愚昧記・太平記による)。九月二十三日辛未、新熊野(いまくまの)に行幸した。この日、宮中に還った(注:歴代皇紀・後愚昧記・東寺長者補任による。還宮は補任による)。十一月九日丙辰、関白経教が辞し、左大臣藤原道嗣が関白となった(注:公卿補任・歴代皇紀による)。十二月八日乙酉、細川清氏(ほそかわきようじ)の兵を避けて近江の武佐寺に移った(注:皇胤紹運録・皇年代略記・太平記による)。
¶貞治元年正月五日壬子、延暦寺に行幸した。二月十一日丁亥、延暦寺から還り、権大納言藤原実俊の北山第(きたやまてい)に入った。四月二十一日丙申、土御門殿に入った(注:皇年代略記による)。九月二十三日乙丑、改元した(注:公卿補任・皇年代略記・皇代略記による)。十月四日丙子、関白道嗣が左大臣を辞した(注:公卿補任・歴代皇紀による)。十二月二十日辛卯、内大臣藤原公忠が辞した(注:歴代皇紀・後愚昧記による)。二十七日戊戌、右大臣藤原冬通が左大臣に転じ、前内大臣源通相が右大臣となった(注:公卿補任・歴代皇紀による)。二年三月己亥晦、権大納言兼左近衛大将藤原実夏が内大臣となった(注:公卿補任・歴代皇紀・後愚昧記による)。六月十七日乙卯、石清水の神輿が入京した(注:皇年代略記・後愚昧記・東寺長者補任による)。二十七日乙丑、関白道嗣が辞した。前関白良基を関白とした(注:公卿補任・歴代皇紀・後愚昧記による)。七月十七日甲申、伊勢大神宮の井戸水が涸れたことと、吉田社(よしだしゃ)の神像が軒廊で紛失したことを占わせた(注:後愚昧記による)。八月二日戊戌、前内大臣藤原公秀が薨じた(注:尊卑分脈・後愚昧記による)。二十九日乙丑、石清水の神輿が本座に還った(注:後愚昧記による)。三年二月七日壬寅、内大臣藤原実夏が左近衛大将を辞した。十九日甲寅、内大臣藤原実夏が辞した(注:公卿補任による)。三月十四日戊寅、権大納言兼右近衛大将藤原実俊が内大臣となった(注:公卿補任・後愚昧記による)。二十九日癸巳、権大納言藤原師良(もろよし)が左近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・歴代皇紀による)。七月七日己巳、光厳帝が崩じた(注:皇胤紹運録・歴代皇紀・皇年代略記・後愚昧記による)。十二月二十一日庚戌、興福寺の僧徒が春日の神木を担いで入京し、越前守護(えちぜんしゅご)足利高経(あしかがたかつね)が春日社の封戸である河口荘(かわぐちのしょう)を奪ったことを訴えた。神木を長講堂に移すよう命じた(注:月日は歴代皇紀による)。四年三月十日戊辰、前関白経通が薨じた(注:公卿補任・尊卑分脈による)。十月九日癸亥、方忌を避けて内大臣藤原実俊の邸に移った。十一月四日丁亥、宮中に還った(注:後愚昧記による)。五年三月十六日戊戌、東大寺八幡宮の神輿が本座に還った(注:歴代皇紀による)。八月十二日壬戌、春日の神木が本座に還った(注:公卿補任・皇年代略記・太平記による)。二十三日癸酉、内裏の修繕のため、方忌を避けて六条の長講堂に移った。二十四日甲戌、宮中に還った(注:後愚昧記による)。己卯晦、右大臣源通相が太政大臣となり、内大臣藤原実俊が右大臣となり、権大納言兼左近衛大将藤原師良が内大臣となった(注:公卿補任・後愚昧記による)。六年正月十六日癸巳、右大臣藤原実俊が右近衛大将を辞した。二月十三日庚申、権大納言藤原忠基(ただもと)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による)。十四日辛酉、元(げん)の皇帝の使者が来て、我が国の民でかの国の辺境を侵略する者を禁じるよう求めた(注:善隣国宝記による。太平記は五年九月のこととする)。三月十八日甲午、長講堂に行幸し、自ら仏経を誦し、後白河天皇(ごしらかわてんのう)の冥福を三日間修した(注:太平記による)。二十六日壬寅、内大臣藤原師良が左近衛大将を辞した(注:公卿補任による)。二十九日乙巳、清涼殿(せいりょうでん)で和歌の会が催された。この日、天龍寺が火災にあった(注:歴代皇紀・太平記による)。四月二十六日壬申、左兵衛督足利基氏(あしかがもとうじ)が薨じた(注:太平記・足利系図による)。六月丙午朔、前内大臣藤原実夏が薨じた(注:尊卑分脈・公卿補任による)。二十九日甲戌、権大納言兼右近衛大将藤原忠基が左近衛大将に転じた(注:公卿補任・歴代皇紀による)。八月十八日壬戌、興福・延暦・東大の三寺に詔して紫宸殿(ししんでん)で最勝講を修させたところ、僧徒が殿の庭で互いに争い、死傷者が数十人に及んだ(注:太平記による。続神皇正統記を参照した。皇年代略記は七月のこととするが、どちらが正しいかは分からない)。二十七日辛未、関白良基が辞し、左大臣藤原冬通が関白となった。九月癸卯晦、右大臣藤原実俊が辞し、内大臣藤原師良が右大臣となり、前権大納言藤原実継(さねつぐ)が内大臣となった(注:公卿補任による)。十二月七日己酉、征夷大将軍権大納言足利義詮が薨じた(注:公卿補任・皇年代略記・足利系図による)。
¶応安元年二月十七日戊午、改元した(注:公卿補任・歴代皇紀による)。三月十一日辛巳、後村上天皇が崩じた(注:花営三代記・鳩嶺雑事記による)。二十一日辛卯、太政大臣通相が辞した(注:公卿補任による)。四月、彗星が東北に現れた(注:鳩嶺雑事記による)。五畿七道の神社・仏寺に仁王経を読ませ、彗星の災いを祓った(注:建内記永享十一年による。本書は月日を記さないため、今はひとまずここに置く)。五月十一日庚辰、石清水で雹(ひょう)が降り、大きさは桃や李(すもも)ほどであった。使者を法住寺(ほうじゅうじ)・大原(おおはら)の浄金剛院に遣わし、この異変の災いを祓った(注:後愚昧記による。鳩嶺雑事記を参照した)。八月二十八日丙申、延暦寺の僧徒が日吉(ひえ)の神輿四基を奉じて入京し、南禅寺(なんぜんじ)の山門を破却するよう求めた(注:皇代記による)。十二月丙申晦、左馬頭足利義満(あしかがよしみつ)が征夷大将軍となった(注:後愚昧記・後深心院関白記による)。二年正月、石清水で雹が降り、大きさは柚子(ゆず)ほどであった。これを占わせた(注:皇年代略記による)。三月、都の万里小路(までのこうじ)で女子が子を産んだが、その姿は三歳児のようで、頭に肉の塊があり、大きさは頭ほどもあった(注:後愚昧記による)。四月二十日甲辰、日吉の神輿四基がまた入京した。佐々木氏頼(ささきうじより)がこれを防ぎ戦ったところ、僧徒は神輿を棄てて逃げた。神輿を祇園社(ぎおんしゃ)に移すよう命じた(注:皇代記・後愚昧記・後深心院関白記による。皇年代略記は八月のこととする)。八月三日乙丑、日吉の神輿が本座に還った(注:後愚昧記・後深心院関白記・歴代皇紀による。皇年代略記は四日とするが、誤りである)。九月二日甲午、大風が吹き、太政官庁の東門が倒れた(注:後愚昧記による)。十月辛卯晦、方忌を避けて長講堂に移った。十一月壬辰朔、宮中に還った(注:後愚昧記・後深心院関白記による)。四日乙未、関白左大臣冬通が辞した。右大臣藤原師良を関白とした。十二月十九日庚辰、大納言藤原公直(きんなお)が右近衛大将を辞し、権中納言藤原師嗣(もろつぐ)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・歴代皇紀による)。二十九日甲寅、石清水の神輿が本座に還った(注:皇年代略記・後愚昧記による)。四年三月二十一日乙巳、権中納言藤原忠光(ただみつ)の柳原第(やなぎわらてい)に行幸した(注:後深心院関白記・後愚昧記による)。二十三日丁未、皇子の緒仁(おひと)に位を譲った(注:皇胤紹運録・皇年代略記・後愚昧記・後深心院関白記による)。閏月、尊号を奉り、太上天皇といった(注:皇胤紹運録・皇年代略記・後深心院関白記による)。新院(しんいん)と号し、なお政務の決裁にあずかった(注:後深心院関白記・続神皇正統記を参照した)。七年正月二十九日乙未、剃髪した。法名を光融(こうゆう)といった。この日、崩じた。御年37歳(注:皇胤紹運録・花営三代記による)。泉涌寺(せんにゅうじ)で火葬し、遺骨を深草の法華堂(ほっけどう)および金剛院に分けて納め、後光厳院と称した(注:後深心院関白記による。皇年代略記を参照した)。帝はしばしば使者を遣わして即位を伊勢の大神宮(だいじんぐう)に告げようとしたが、道が塞がれて果たせなかった。群臣は他の道を取って幣帛を奉ることを議したが、これもついに果たせなかった(注:園太暦による)。
¶後円融帝(ごえんゆうてい)は、諱を緒仁(おひと)といい、後光厳帝の第一子である。母は崇賢門院(すうけんもんいん)(注:皇胤紹運録・皇年代略記・皇代略記・続神皇正統記による)。
¶延文三年十二月十三日丁丑に生まれた(注:皇年代略記による)。
¶応安四年三月、着袴の儀を行った。二十一日、親王となった(注:皇年代略記・皇代略記による)。二十三日丁未、元服して権中納言藤原忠光の柳原第で践祚した。この日、土御門殿に移った(注:皇年代略記・皇代略記・後深心院関白記による)。関白左大臣師良・右大臣藤原忠基・内大臣藤原経顕(つねあき)・権大納言兼左近衛大将藤原師嗣・権大納言兼右近衛大将藤原兼定(かねさだ)は、いずれも留任した(注:公卿補任・歴代皇紀による)。閏月六日己未、後光厳帝を尊んで太上天皇といった(注:皇年代略記・後深心院関白記による)。五月五日丁巳、石清水の邑人(ゆうじん)が石清水宮に入って自害し、その血が軒廊の神殿を汚したことを占わせた(注:後愚昧記による)。八日庚申、石清水宮が穢れたため、五日間朝政を止めた(注:後愚昧記・後深心院関白記による)。七月、内大臣藤原経顕が辞した(注:本書は日付を記さず、今は考証できない)。十四日甲子、前太政大臣通相が薨じた(注:公卿補任による)。十二月二日辛巳、興福寺の僧徒が春日の神木を奉じて入京した(注:歴代皇紀・皇年代略記による)。一乗院の僧実玄(じつげん)、大乗院の僧教信(きょうしん)、三宝院(さんぽういん)の僧光済(こうさい)、覚王院(かくおういん)の僧宗録(そうろく)を流罪にするよう求めた(注:春日神木入洛記・花営三代記を参照した)。五年正月庚戌朔、元会には殿に出御せず、国栖奏の歌笛を止めた(注:後愚昧記による)。五日甲寅、叙位(じょい)を停止した(注:後深心院関白記による)。二十二日辛未、僧実玄を伊豆(いず)に、僧教信を土佐(とさ)に流した(注:後愚昧記・後深心院関白記による)。夏四月二十三日乙未、賀茂社(かもしゃ)の怪異を軒廊で占わせた(注:後深心院関白記による)。九月二日庚子、大風が吹き、太政官庁および土御門殿の東門が倒れた(注:皇年代略記・後愚昧記・後深心院関白記による。太政官庁は関白記による)。二十八日丙寅、天龍寺が火災にあった(注:歴代皇紀・鳩嶺雑事記・後深心院関白記・花営三代記による)。戊辰晦、盗賊が新院(後光厳院)の柳原殿に入った。ことごとく捕らえて斬った(注:後愚昧記による)。十一月十三日己卯、赤松性準(あかまつしょうじゅん)を上総に(注:後深心院関白記は上総を下野(しもつけ)に作る)、赤松範顕(あかまつのりあき)を越後(えちご)に流した(注:後愚昧記・花営三代記による)。七年正月、都で疱瘡(ほうそう)が流行した。二十九日乙未、新院(後光厳院)が崩じた。二月二日戊戌、後光厳帝を葬った(注:後愚昧記・後深心院関白記・花営三代記・皇年代略記による)。六月二十日甲寅、日吉七社の神輿が入京した(注:歴代皇紀・後愚昧記・後深心院関白記・花営三代記による)。十二月十日辛未、前参議平行知(たいらのゆきとも)を美濃に(注:公卿補任は播磨(はりま)に作る)、儀俄元奇(ぎがげんき)を遠江(とおとうみ)に、僧光済を播磨に、宗録を備中(びっちゅう)に流した(注:花営三代記による。公卿補任は十二月九日とする)。十七日戊申、春日の神木が本座に還った(注:皇年代略記・花営三代記による)。二十八日己未、帝は太政官庁で即位した。御年17歳(注:皇年代略記・皇代略記による)。
¶永和元年正月十七日戊寅、前参議平行知を美濃から召還した(注:後深心院関白記による)。二月九日己亥、延暦寺が火災にあった(注:歴代皇紀による)。二十七日丁巳、改元した(注:公卿補任・皇年代略記・皇代記・鳩嶺雑事記・花営三代記による)。十月二十八日乙卯、御禊を行った(注:皇胤紹運録・皇年代略記・永和大嘗会記・後深心院関白記による)。十一月十八日甲戌、関白師良が左大臣を辞し、右大臣藤原忠基が左大臣に転じ、権大納言兼左近衛大将藤原師嗣が右大臣となり、権大納言藤原兼嗣(かねつぐ)が内大臣となった(注:公卿補任による)。二十三日乙卯、大嘗会を行った(注:歴代皇紀・皇年代略記・皇代略記・後深心院関白記・永和大嘗会記による)。十二月二十七日壬子、関白師良が辞し、左大臣藤原忠基が関白となった。二年正月丙辰朔、前関白良基が准三宮となった。六日辛酉、右大臣藤原師嗣が左近衛大将を辞し、内大臣藤原兼嗣が左近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による。師嗣が大将を辞したことについて、本書は日付を記さない。今はひとまず六日としておく)。三年二月十八日丙寅、柳原殿が火災にあった(注:歴代皇紀・後愚昧記による)。五月二十二日己亥、内大臣藤原兼嗣が左近衛大将を辞した。四年四月二十七日己巳、権大納言兼右近衛大将藤原兼定が左近衛大将に転じ、権大納言藤原実時(さねとき)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による)。七月庚子晦、権大納言兼左近衛大将藤原兼定が薨じた(注:歴代皇紀・公卿補任・後愚昧記による)。八月二十七日丁卯、関白忠基が左大臣を辞し、右大臣藤原師嗣が左大臣に転じ、内大臣藤原兼嗣が右大臣となり、前権大納言藤原公直が内大臣となり、権大納言兼右近衛大将藤原実時が左近衛大将に転じ、征夷大将軍権大納言足利義満が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・歴代皇紀による。忠基が大臣を辞したことについて、両書とも日付を記さない。今はひとまず二十七日としておく)。
¶康暦元年三月二十二日己丑、改元した(注:公卿補任・後愚昧記・花営三代記による)。六月八日壬申、日吉七社の神輿が本座に還った(注:花営三代記による)。八月十四日戊寅、春日の神木が入京した(注:皇年代略記・後深心院関白記による)。二年六月二十四日戊子、光明帝が崩じた(注:皇胤紹運録・歴代皇紀・皇年代略記・皇代略記・花営三代記による。諸書とも葬った日の記載はない)。十二月十五日壬申、春日の神木が本座に還った(注:皇年代略記・花営三代記による)。
¶永徳元年二月二十四日庚辰、改元した(注:皇年代略記・公卿補任・元秘別録による)。七月二十三日丙午、准三宮良基が太政大臣となり、内大臣藤原公直が辞した(注:公直が大臣を辞したことについて、本書は日付を記さず、ひとまずここに置く)。征夷大将軍権大納言兼右近衛大将足利義満が内大臣となった。九月四日丙戌、前権大納言藤原兼綱(かねつな)が准大臣となった。五日丁亥、准大臣藤原兼綱が辞した。二十六日戊申、前准大臣藤原兼綱が薨じ、三日間朝政を止めた(注:公卿補任による)。二年四月十一日庚寅、持明院の北中園第(きたなかぞのてい)に行幸し、皇子の幹仁(もとひと)に位を譲った。尊号を奉り、太上天皇といい(注:皇年代略記による)、新院と号した(注:歴代皇紀・後愚昧記による)。十一日庚寅、関白師嗣が辞した(注:公卿補任による)。
¶明徳四年四月二十六日辛丑、故内大臣藤原経顕の小川第(おがわてい)で崩じた。御年36歳。泉涌寺で火葬し、遺骨を深草の法華堂に納め、遺詔により後円融院と称した(注:皇年代略記による)。
¶後小松天皇は、後円融帝の長子である。母は通陽門院(つうようもんいん)(注:皇胤紹運録・皇代略記・皇年代略記による)。
¶永和二年六月二十六日壬申に生まれた(注:皇胤紹運録・皇年代略記による)。
¶永徳二年四月、着袴の儀を行った(注:皇代略記は四月三日、親王となったとする。しかし皇年代略記は、親王とならなかったとする。そのため今はこれを取らない)。十一日庚寅、土御門殿で践祚した(注:皇年代略記・皇代略記による)。太政大臣良基を摂政とし、征夷大将軍左大臣兼右近衛大将足利義満・右大臣藤原兼嗣・内大臣兼左近衛大将藤原実時は、いずれも留任した(注:公卿補任・歴代皇紀による)。十九日戊戌、前権大納言藤原仲房(なかふさ)が准大臣となった(注:公卿補任による)。二十五日甲辰、後円融帝を尊んで太上天皇といった(注:皇胤紹運録・歴代皇紀・皇年代略記による。皇代略記は二十八日とする)。十二月二十八日壬寅、天皇は太政官庁で即位した。時に御年6歳(注:歴代皇紀・皇年代略記による)。この年は、後亀山天皇(ごかめやまてんのう)の弘和二年にあたる。三年三月五日己酉、石清水宮の火災により、使者を宇佐(うさ)に遣わした(注:後愚昧記による)。十月二十二日壬辰、御禊を行った。十一月十六日乙卯、大嘗会を行った(注:皇胤紹運録・歴代皇紀・皇年代略記による)。十二月、権中納言藤原為重(ためしげ)が新後拾遺和歌集(しんごしゅういわかしゅう)を撰進した(注:拾芥抄による)。
¶至徳元年二月二十七日乙未、改元した(注:歴代皇紀・皇年代略記・公卿補任による)。三月十日戊申、左大臣足利義満が右近衛大将を辞した。二十三日辛酉、内大臣藤原実時が左近衛大将を辞し、権大納言藤原経嗣(つねつぐ)が左近衛大将を兼ね、権大納言源具通(ともみち)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による)。二年二月十五日丁未、盗賊が前権中納言藤原為重を殺した(注:公卿補任・拾芥抄による)。
¶嘉慶元年正月三日乙卯、天皇が元服した(注:皇胤紹運録・公卿補任・皇年代略記・皇代略記による)。八日庚申、摂政太政大臣良基が辞した(注:公卿補任・歴代皇紀による。補任は摂政を辞した月日を記さない。皇紀は正月とするが日を記さない。今は両書が太政大臣を辞したとする日によって、ひとまずここに置く)。二月七日戊子、右大臣藤原兼嗣を摂政とした(注:公卿補任による。歴代皇紀は四日とする)。八月二十三日甲戌、改元した(注:皇年代略記・公卿補任による)。十二月八日甲寅、前権大納言源善成(よしなり)が准大臣となった(注:公卿補任による)。二年三月二十六日庚子、摂政右大臣兼嗣が薨じた。四月八日乙丑、前太政大臣良基を摂政とした。五月二十六日己亥、征夷大将軍足利義満が左大臣を辞し、内大臣藤原実時が左大臣となり、権大納言兼右近衛大将源具通が右大臣となり、権大納言兼左近衛大将藤原経嗣が内大臣となった(注:公卿補任・歴代皇紀による)。六月二日甲辰、准大臣藤原仲房が薨じた(注:公卿補任による)。十二日甲寅、摂政良基が辞し、藤原師嗣を関白とした。十三日乙卯、前摂政良基が薨じた。
¶康応元年正月五日乙亥、右大臣源具通が右近衛大将を辞した(注:歴代皇紀による。公卿補任は具通が大将を辞したのを二月のこととする)。二月九日己酉、改元した(注:公卿補任・皇年代略記・東寺長者補任による)。四月二十日己未、権大納言藤原宗実(むねざね)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・歴代皇紀による)。
¶明徳元年三月二十六日庚寅、改元した(注:公卿補任・皇年代略記・皇代略記による)。四月癸亥朔、内大臣藤原経嗣が左近衛大将を辞し、権大納言藤原宗実が右近衛大将を辞し、権大納言藤原実直(さねなお)が左近衛大将を兼ね、権大納言藤原通定(みちさだ)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による)。三年、征夷大将軍前左大臣足利義満は大内義弘(おおうちよしひろ)を吉野の行宮に遣わして講和させた(注:応永記による)。十月二十八日丙子、後亀山天皇は三種の神器を奉じて行宮を発った。閏月二日己卯、後亀山天皇は都に還り、大覚寺(だいかくじ)に入った(注:歴代皇紀・皇年代略記・続神皇正統記による)。