卷第七十三 本紀七十三 下卷

後小松天皇

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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明徳三年、冬閏十月五日壬午、天皇は土御門殿(つちみかどどの)において三種の神器をお受けになった(注:歴代皇紀・皇年代略記・続神皇正統記による)。十二月二十六日壬寅、左大臣藤原実時(ふじわらのさねとき)が辞任した。征夷大将軍で前左大臣の足利義満(あしかがよしみつ)を左大臣とした(注:公卿補任・歴代皇紀による)。四年癸酉、夏四月二十六日辛丑、新院(後円融院)が崩御した(注:公卿補任・椿葉記による)。乙巳の晦日、後円融帝(ごえんゆうてい)を葬った(注:東寺長者補任による。○皇年代略記では二十七日とする)。秋七月、六月以来雨が降らず、この月まで続いた(注:如是院年代記による)。八月二十二日乙未、南禅寺(なんぜんじ)が火災にあった(注:歴代皇紀・皇年代略記・和漢合符・如是院年代記による)。この月、洪水があった(注:皇代略記による)。九月十七日己未、征夷大将軍足利義満が左大臣を辞任した(注:公卿補任による)。

応永元年甲戌、春二月二十三日癸巳、後亀山天皇(ごかめやまてんのう)を太上天皇と尊んだ(注:皇年代略記による)。三月二十八日丁卯、右大臣源具通(みなもとのともみち)が辞任した。前内大臣藤原公直(ふじわらのきんなお)を右大臣とした。夏六月五日癸酉、前左大臣藤原実時を太政大臣、内大臣藤原経嗣(ふじわらのつねつぐ)を左大臣、准大臣源善成(みなもとのよしなり)を内大臣とした(注:公卿補任による)。秋七月五日癸卯、改元した(注:公卿補任・和漢合符・元秘別録による)。九月二十四日辛酉、相国寺(しょうこくじ)が火災にあった(注:皇年代略記・如是院年代記・和漢合符による)。冬十一月六日壬寅、関白師嗣(もろつぐ)が辞任した。左大臣藤原経嗣を関白とした(注:公卿補任・歴代皇紀による)。十二月十七日壬午、前左大臣足利義満が征夷大将軍を辞任した。左近衛中将足利義持(あしかがよしもち)を征夷大将軍とした(注:足利家伝による)。二十五日庚寅、太政大臣実時、右大臣藤原公直、内大臣源善成が辞任した。前左大臣足利義満を太政大臣、権大納言藤原実直(ふじわらのさねなお)を右大臣、権大納言藤原通定(ふじわらのみちさだ)を内大臣とした(注:公卿補任による)。

二年乙亥、春正月二十八日癸亥、右大臣藤原実直が左近衛大将を辞任し、内大臣藤原通定が右近衛大将を辞任した。権大納言藤原公定(ふじわらのきみさだ)が左近衛大将を兼務し、権大納言藤原実冬(ふじわらのさねふゆ)が右近衛大将を兼務した。三月二十四日戊午、右大臣藤原実直が辞任した。内大臣藤原通定を右大臣とし、権大納言藤原公定を内大臣とした(注:本書では通定が右大臣になったのを二十七日とするが、ここでは歴代皇紀に従う)。夏四月、関白藤原経嗣が左大臣を辞任した。七日庚午、前右大臣藤原公直を左大臣とした(注:公卿補任による)。二十九日壬辰、京師(けいし、都)が火災にあった(注:和漢合符による)。この月、太政大臣義満の邸に行幸した(注:足利家伝による)。六月三日乙丑、太政大臣義満が辞任した。前右大臣源具通を太政大臣とした。六日戊辰、左大臣藤原公直が辞任した。二十日壬午、前内大臣源善成を左大臣とした(注:歴代皇紀では、善成が左大臣となったのを三日とする)。二十一日癸未、右大臣藤原通定が辞任した。秋七月二日甲午、内大臣藤原公定が左近衛大将を辞任した。八月二十九日庚寅、左大臣源善成が辞任した。九月十二日癸卯、内大臣藤原公定を右大臣、前権大納言藤原公豊(ふじわらのきんとよ)を内大臣とした。冬十一月二十八日戊子、内大臣藤原公豊が辞任した。十二月二十七日丁巳(注:原文は「二十日七日」とあるが、干支の丁巳と符合せず、二十七日の誤記とみて訳した)、権大納言藤原実冬を内大臣とし、左近衛大将に転じさせた(注:公卿補任による)。

三年丙子、春二月三日辛卯、太政大臣具通が辞任した。夏四月二十日丁未、権大納言藤原教嗣(ふじわらののりつぐ)が右近衛大将を兼務した。五月十五日辛未、前右大臣藤原実直が薨去した(注:公卿補任による。○歴代皇紀では、実直の薨去を六月とする)。秋七月二十四日己卯、天皇を生んだ准三宮藤原厳子(ふじわらのいつこ)を通陽門院(つうようもんいん)と号した(注:院号定部類記・歴代皇紀・皇年代略記による)。右大臣藤原公定を左大臣、内大臣藤原実冬を右大臣、前権大納言藤原嗣房(ふじわらのつぐふさ)を内大臣とした。冬十月五日庚寅、内大臣藤原嗣房が辞任した。二十一日丙午、権大納言藤原教嗣を内大臣とした。十二月、右大臣藤原実冬が左近衛大将を辞任した(注:公卿補任による)。

四年丁丑、春三月二十九日辛巳、内大臣藤原教嗣が左近衛大将に転じ、権大納言藤原良嗣(ふじわらのよしつぐ)が右近衛大将を兼務した(注:公卿補任による)。冬十一月十八日丙寅、建仁寺(けんにんじ)が火災にあった(注:如是院年代記による)。十二月六日甲申、客星(かくせい、彗星に似た新星)が西北に現れた(注:東寺長者補任による)。二十日戊戌、前関白左大臣忠基(ただもと)が薨去した(注:公卿補任による)。

五年戊寅、春正月十三日辛酉、崇光帝(すこうてい)が崩御した(注:椿葉記・歴代皇紀・皇年代略記・皇代略記による。○諸書には葬儀の記載を欠く)。三月九日丙辰、関白経嗣が辞任した。前関白師嗣を関白とした(注:公卿補任による)。夏五月、直仁親王(なおひとしんのう)が薨去した(注:椿葉記による)。冬十二月、左大臣藤原公定が薨去した(注:公卿補任による)。

六年己卯、春正月、内大臣藤原教嗣が左近衛大将を辞任した(注:公卿補任による)。二月二十二日癸亥、右大臣藤原実冬を左大臣、内大臣藤原教嗣を右大臣、権大納言藤原良嗣を内大臣として左近衛大将に転じさせた。権大納言藤原満基(ふじわらのみつもと)が右近衛大将を兼務した。夏四月十七日丁巳、関白師嗣が辞任した。十九日己未、前関白経嗣を関白とした(注:公卿補任・歴代皇紀による)。二十二日壬戌、内大臣藤原良嗣が左近衛大将を辞任し、権大納言藤原満基が左近衛大将に転じ、権大納言藤原公行(ふじわらのきんゆき)が右近衛大将を兼務した(注:良嗣が大将を辞任した日について、本書には記載がない。今はひとまずここに配した)。六月十五日甲寅、前左大臣藤原公定が薨去した(注:公卿補任による。○歴代皇紀では二十五日とする)。秋九月、客星が南方に現れた。冬十月十三日庚戌、大内義弘(おおうちよしひろ)が反乱を起こし、兵を率いて界浦(さかいのうら)に至った。前太政大臣義満は細川頼元(ほそかわよりもと)・京極高詮(きょうごくたかのり)・赤松義則(あかまつよしのり)らを遣わしてこれを防がせた。十一月八日甲戌、義満は兵を率いて東寺に至り、ついで軍を男山(おとこやま)に進めた。二十九日乙未、義満は諸将を遣わして大内義弘を攻撃させ、これを破った(注:応永記による)。十二月二十一日丁巳、義満の軍は界浦で大内義弘を攻め破り、義弘は自殺した(注:皇代略記・喜連川系図・応永記・神明鏡による)。

七年庚辰、夏四月、大和国(やまとのくに)で旱魃(かんばつ)があった(注:醍醐枝葉抄による)。五月二十一日乙酉、前関白左大臣経教(つねのり)が薨去した。冬十一月二十二日癸未(注:原文は「発未」とあるが、干支として成り立たないため癸未の誤記とみて訳した)、前関白左大臣師嗣が薨去した(注:公卿補任による)。

八年辛巳、春二月二十九日戊子、土御門殿が火災にあった(注:歴代皇紀・寺社雑事記による。○和漢合符では二十八日とする)。天皇はこれを避けて前太政大臣義満の室町第(むろまちてい)にお移りになった(注:皇年代略記・続神皇正統記による)。秋七月四日辛卯、伏見殿(ふしみどの)が火災にあい、代々の御記・文書・楽器がことごとく失われた(注:椿葉記による)。八月三日己未、土御門殿を造営した(注:歴代皇紀・和漢合符による)。

九年壬午、春正月十九日癸卯、彗星が西方に現れた(注:歴代皇紀・和漢合符による)。夏六月、大旱魃があった(注:和漢合運による)。四日丙辰、雨乞いを行った(注:仁和寺御伝による)。秋八月二十二日癸酉、左大臣藤原実冬を太政大臣、内大臣藤原良嗣を左大臣、権大納言藤原公行を内大臣とした(注:公卿補任・歴代皇紀による)。九月四日甲申、前左大臣源善成が薨去した(注:歴代皇紀による)。十七日丁酉、内大臣藤原公行が右近衛大将を辞任し、権大納言藤原公俊(ふじわらのきんとし)が右近衛大将を兼務した(注:公卿補任による)。冬十一月十九日戊戌、土御門殿の造営が成り、天皇はそこにお移りになった(注:歴代皇紀・寺社雑事記による)。

十年己未、秋八月十九日甲子、右大臣藤原教嗣が辞任し、内大臣藤原公行を右大臣、権大納言藤原満基を内大臣とした(注:公卿補任による。○按ずるに、教嗣の辞任はこの年にあったが、諸書には月日の記載を欠くため、今はここに付した)。

十一年甲申、春二月二十七日己亥、前太政大臣実時が薨去した。秋八月十五日甲申、前右大臣藤原教嗣が薨去した(注:公卿補任による)。

十二年乙酉、春二月十三日己卯、若狭(わかさ)で大風があり、遠敷(おにゅう)二宮の楼門と八幡宮の鳥居が倒れた(注:若州守護次第・若州今富名領主次第を参照して採った)。夏五月二十二日丙辰、春日山(かすがやま)で樹木が六千余株枯れた。六月九日癸酉、洪水があった(注:和漢合運・和漢合符による)。祇園社の鳥居が倒れ、圧死者が二十余人出た(注:和漢合符による)。

十三年丙戌、春正月十二日癸卯、太白(たいはく、金星)が歳星(さいせい、木星)を犯した(注:醍醐寺応永十三年暦裏書による)。十五日丙午、日吉(ひえ)二宮十禅師社が火災にあった(注:醍醐寺応永十三年暦裏書・和漢合符による)。二十八日己未、雷があった。二十九日庚申、禁中で七日間懺法(せんぼう)を修し、後光厳院(ごこうごんいん)の冥福を祈った(注:醍醐寺応永十三年暦裏書・後崇光院御記による)。秋八月、内大臣藤原満基が左近衛大将を辞任した。十七日甲辰、権大納言藤原公俊が左近衛大将に転じ、権大納言足利義持が右近衛大将を兼務した(注:公卿補任による)。二十四日辛亥、大風があり、北野社の林木が倒れ、拱北楼(きょうほくろう)が倒壊した(注:和漢合符による。○東寺長者輔任ではこれを十四年のこととする)。九月二日戊午、晴天を祈った(注:仁和寺御伝による)。

十四年丁亥、春正月五日庚申、地震があった(注:和漢合運による)。二月六日辛卯、太政大臣実冬が辞任した(注:公卿補任による)。三月五日己未、准三宮藤原康子(ふじわらのやすこ)を北山院(きたやまいん)と号した(注:貴女抄・院号定部類記・歴代皇紀・尊卑分脈による)。冬十一月十八日戊辰、平岡八幡宮(ひらおかはちまんぐう)が火災にあった(注:和漢合符による)。

十五年戊子、春二月六日乙酉、権大納言足利義持の邸で蝦蟇(がま、ひきがえる)が争う怪異があった(注:和漢合運・和漢合符による)。三月八日丁巳、前太政大臣義満の北山第(きたやまてい)に行幸した(注:北山行幸記・東寺長者輔任・和漢合運・和漢合符による)。二十八日(注:原文の干支表記「丁廿」は判読しがたく、干支不詳のまま訳した)、還宮した(注:藤原雅緣「悼鹿苑義滿詞」・東寺長者輔任による)。夏四月二十日戊戌、関白経嗣が辞任し、左大臣藤原忠嗣(ただつぐ)を関白とした(注:公卿補任による)。五月六日甲寅、前太政大臣義満が薨去した(注:公卿補任・椿葉記・藤原雅緣「悼鹿苑義滿詞」・喜連川系図による)。六月二十二日己亥、南蛮(なんばん)が黒象・孔雀・鸚鵡(おうむ)を貢いだ(注:若州今富名領主次第による)。秋七月二日戊申、熊野本宮(くまのほんぐう)が火災にあった(注:和漢合符による)。

十六年己丑、春正月十九日癸亥、関白忠嗣が左大臣を辞任した。二月二十一日甲午、関白忠嗣が辞任した(注:公卿補任による)。三月四日丁未、内大臣藤原満基を関白とした。二十一日甲子、関白満基を左大臣とした。秋七月二十三日癸巳、権大納言足利義持を内大臣とした(注:公卿補任・歴代皇紀による)。

十七年庚寅、春三月十三日庚辰、鹿が宮中に入り込んだ(注:和漢合符による)。冬十二月二十七日己未、関白左大臣満基が薨去した(注:公卿補任による)。壬戌の晦日、前関白経嗣を関白とした(注:公卿補任・歴代皇紀による)。

十八年辛卯、夏四月十一日辛丑、右大臣藤原公行を左大臣、前権大納言藤原冬家(ふじわらのふゆいえ)を右大臣とした(注:公卿補任・歴代皇紀による)。五月六日丙寅、大地震があった(注:和漢合符による)。秋七月二十八日丁亥、征夷大将軍足利義持は兵を遣わして飛騨国司(ひだのこくし)某を討たせた(注:和漢合運による)。冬十一月戊午朔、冬至(とうじ)であった(注:歴代皇紀による)。二十五日壬午、皇子躬仁(みひと)を親王とした(注:歴代皇紀・皇年代略記による)。

十九年壬辰、夏五月癸丑の晦日、内大臣足利義持が右近衛大将を辞任した(注:足利系図・公卿補任を参照して採った)。六月二十一日甲戌、南蛮が使者を遣わして朝貢した(注:若州今富名領主次第による)。秋七月二十九日壬子、権大納言藤原満教(ふじわらのみつのり)が右近衛大将を兼務した(注:公卿補任・歴代皇紀による)。八月壬午の晦日、天皇は躬仁親王に位を譲った(注:椿葉記・公卿補任・歴代皇紀・皇胤紹運録・皇年代略記による)。九月、尊号を奉って太上天皇とした(注:歴代皇紀・皇代略記による)。院中にあって政務を聴いた(注:後小松帝升遐記・椿葉記・続神皇正統記による)。薙髪(ちはつ、剃髪)し、法名を素行智(そぎょうち)といった(注:皇胤紹運録・皇年代略記による)。

永享五年十月二十日己未、崩御した(注:後小松帝升遐記・椿葉記・歴代皇紀・皇年代略記・皇代略記による)。御年57歳(注:歴代皇紀・皇年代略記・皇代略記・皇胤紹運録による)。泉涌寺(せんにゅうじ)に葬った(注:後小松帝升遐記・椿葉記・皇代略記による)。遺詔により後小松院と称した(注:椿葉記跋・歴代皇紀・皇胤紹運録・皇年代略記・皇代略記による)。

そもそも後醍醐天皇が南方へお移りになって以来、明徳三年に至るまで、およそ五十七年の間、皇統は二つに分かれ、京畿の地も隔てられていた。後小松天皇が三種の神器をお受けになるに及んで、海内(かいだい、天下)はようやく一つにまとまり、車軌・文字が統一され、代々受け継がれて、宝祚(ほうそ、皇位)は限りなく続くこととなった(注:続神皇正統記による)。