卷之一百三十二 列傳第五十九
藤原時平、藤原敦忠、藤原保忠、藤原顯忠ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
藤原時平
¶藤原時平(ふじわらのときひら)は、関白基経(もとつね)の長男である。光孝天皇(こうこうてんのう)は仁寿殿(じじゅうでん)で元服の儀を行うよう命じ、自ら加冠を行った。主殿助(とのものすけ)藤原末兼(すえかね)が理髪を務め、冠や頭巾はすべて天皇が身につけていた衣服を賜った。ここに正五位下を授けられ、参議橘広相(たちばなのひろみ)に命じて祝いの文を作らせた。(注:『三代実録』による。)その文には「伯禽(はくきん)は魯に封じられ、辟疆(へききょう)は侍中となった。ああ時平よ、名高い父の子であり、功臣の嫡子である。この佳き日に、汝に元服を加える。鳳凰の羽毛にも似た資質を持ち、爵位と官命もまた格別であるべきだ」とあった。(注:『本朝文粋』『朝野群載』による。)天皇は自らこれを書いて時平に賜り、公卿・大夫に勅して基経の直廬(じきろ、詰所)に参じさせ、祝宴を催させた。雅楽寮が音楽を奏し、五位以上の者にはそれぞれ品物を賜った。数日後、基経は酒肴や衣服を献上し、仁寿殿の東廳に並べ、供御の器皿は金銀を鏤(ちりば)め、贅を尽くした。これより先、天皇は貞数親王(さだかずしんのう)や四位以上の子弟十数名に舞を習わせており、この時にこれを披露させ、夜通し歓を尽くし、時平には御衣一襲を賜った。(注:『三代実録』による。)ほどなく従四位下に叙され、左近衛権中将となった。(注:「左近衛」は『扶桑略記』による。)宇多天皇(うだてんのう)の即位に際し、蔵人頭(くろうどのとう)に補された。(注:『公卿補任』による。)特に勅により、左大弁橘広相ら三人とともに殿上に侍することを許された。(注:『扶桑略記』による。)寛平の初め、讃岐権守を兼ね、参議、左右衛門督、検非違使別当を歴任した。寛平五年、中納言に任じられ、右近衛大将・春宮大夫を兼ね、ほどなく大納言に転じ、左近衛大将を兼ね、蔵人所別当に補され、正三位に叙された。(注:『公卿補任』による。)時平は好色な人物で、伯父の藤原国経(くにつね)と結んでその妻を奪った。(注:『今昔物語』『十訓抄』による。)宇多上皇は譲位に際し、醍醐天皇(だいごてんのう)を戒めて次のように言った。「時平は功臣の子孫であり、年は若いが政務に習熟している。かつてその私生活が慎み深くないと聞いたが、朕はあえて問わずにおいた。去年の春以来、しばしば激励を加え、公事に習熟させ、顧問として補佐の任に当たらせようとしている」と。(注:『寛平遺誡』による。)こうして権大納言菅原道真(すがわらのみちざね)とともに政務を執ることとなった。(注:『大鏡』『一代要記』『歴代皇紀』による。)昌泰二年、左大臣となり、大将は元のままであった。延喜元年、従二位に叙された。(注:『公卿補任』による。)時平は年若く気性が鋭く、自分の思うままに任せて事を行ったため、裁決には妥当を欠くことが多かった。道真は事を荒立てて美名を求めることを好まず、常にひそかにこれを嘆いていた。ある時、時平が政務を執っていると、その意気は甚だ峻厳であった。道真は憂いの色を浮かべていた。ある史官が道真に「私に策がある。今日、あなたに代わって裁断させてみせよう」と言い、わざと文書を捧げ持って進み出て、作法を失うふりをした。時平には笑い癖があり、これを見て大笑いし、自分を抑えることができなくなった。そこで道真に代わって政務を執らせた。(注:『大鏡』による。)道真は徳望があり時の人望を集めていたので、上皇はこれを重んじ、ひそかに天皇と相談し、道真に政務を専断させようとした。時平はこれを聞いて心穏やかでいられなかった。(注:『神皇正統記』『扶桑略記』『北野縁起』による。)そこで源光(みなもとのひかる)・藤原定国(さだくに)・藤原菅根(すがね)の力を借りて、道真を讒言によって陥れた。道真はついに左遷され官位を奪われた。(注:『北野縁起』『太平記』による。)当時、世の風俗は奢侈に流れ、衣服は華美であったため、制限を設けたが、これを犯す者が多かった。天皇はこれを憂い、時平と密かに謀って、自ら華美な服を着て参内した。天皇はわざと怒ったふりをして役人を召し、「朕は近ごろ奢侈を禁じたのに、左大臣は百官の長でありながら、真っ先に国の禁令を破った。大臣たる者の振る舞いが、どうしてこのようであってよいものか」と言い、時平を退出させ帰宅させた。時平は恐れ入り、供の者を退けて徒歩で自邸に帰り、門を閉ざして客を謝絶した。一月余りして許され、これより奢侈の風潮はにわかに改まった。(注:『大鏡』による。)延喜二年、封戸三千戸を賜った。(注:『公卿補任』『歴代皇紀』による。)延喜七年、正二位に叙された。(注:『公卿補任』による。)延喜九年、薨去した。年三十九。正一位太政大臣を贈られた。(注:『日本紀略』『公卿補任』による。)勅により固関(こげん)の警固が行われた。(注:『日本紀略』による。)本院第に住んでいたため、本院大臣と称され、(注:『大鏡』による。)また中御門(なかのみかど)とも呼ばれた。時平と道真はともに左右の大臣であったが、道真は左遷され、時平は薨じたため、当時「右は流され左は死す」という言葉があった。(注:『江談抄』による。)和歌をよくし、(注:『古今和歌集』による。)学問を好み、大蔵善行(おおくらのよしゆき)に師事した。かつて別荘の水石亭で宴を設け、一時の文人を集めて詩を作り、善行の七十歳の賀を祝った。自ら門人と称し、礼を尽くして敬った。(注:『雑言奉和』による。)延喜の初め、勅を奉じて『三代実録』五十巻を撰し、(注:本書の序による。)『延喜格』十巻を撰した。(注:『日本紀略』『本朝文粋』による。)子に保忠、顕忠、敦忠がいる。(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)
藤原敦忠
¶藤原敦忠(あつただ)。敦忠は和歌を好み、音律にも通じ、源博雅(みなもとのひろまさ)と並び称された。(注:『大鏡』による。)官は従三位権中納言に至った。天慶六年に薨去した。年三十八。世に本院中納言と称された。(注:『公卿補任』による。)
藤原保忠
¶藤原保忠(やすただ)は、延喜年間に右大弁を歴任し、参議に任じられ、従三位に叙され、権中納言となった。延長年間、左衛門督を兼ね、正三位に進み、大納言に転じた。承平三年、右近衛大将を兼ねた。翌年、陸奥出羽按察使を兼ねた。承平六年、薨去した。年四十七。(注:『公卿補任』による。ただし『大鏡裏書』は四十六とする。)保忠は音楽に通じ、幼少より笙を吹くのを得意とした。醍醐天皇がその技量を試そうと召したところ、曲調は精妙で、天皇は大いに褒め称え、橘皮笙(きっぴしょう)を賜った。(注:『体源抄』が引く醍醐天皇の御記による。)性格は慈悲深く、冬の朝に参内する際には焼き餅を懐に入れて暖を取り、少し冷めると従者に分け与えてその空腹を救うことを常としていた。(注:『大鏡』による。)世に賢人大将と称された。その邸宅は八条にあったため、八条大将とも称された。(注:『公卿補任』『大鏡』による。)
藤原顯忠
¶藤原顕忠(あきただ)は、延長・承平年間に左右中弁を歴任し、従四位上に叙され、参議に任じられた。天慶年間、従三位に進み、権中納言に任じられ、左衛門督・検非違使別当を兼ねた。天暦年間、大納言正三位に昇進し、陸奥出羽按察使・右近衛大将を兼ねた。天徳元年、左近衛大将に転じた。天徳四年、従二位に叙され、右大臣に任じられた。康保二年、薨去した。年六十八。勅により正二位を贈られ、富小路右大臣(とみのこうじのうだいじん)と称された。(注:『公卿補任』『大鏡裏書』による。)性格は節倹を尊び、邸宅や調度は極めて質素で、手や顔を洗う際にも盥(たらい)を使わず、自ら柄杓で水をすくって洗った。大臣という身分でありながら、外出の際には前駆(先払い)を立てず、供回りの者もごくわずかであった。(注:『大鏡』『古事談』『十訓抄』による。)大饗(たいきょう)の宴を設ける際にも、支度は簡素で、堂や広間には何ら飾りを施さなかった。(注:『今昔物語』『古事談』による。)時平の子らはみな壮年で世を去り、世間では道真の霊の祟りであると噂した。(注:『大鏡』による。)顕忠はこれを深く恐れ、毎夜広間で拝礼し、災いを免れるよう祈った。(注:『十訓抄』『古事談』による。)兄弟の中でただ顕忠だけが官位が高く昇り、最も長く朝廷に立ったのは、人々がその慎み深さによるものだと考えた。(注:『大鏡』による。)
藤原菅根
¶藤原菅根(すがね)、字(あざな)は右生(ゆうせい)。(注:『公卿補任』『桂林遺芳録』による。)父は良尚(よしひさ)といい、清和天皇(せいわてんのう)の朝で従四位上右兵衛督に至った。容姿が美しく、胆力があり、武芸を好み、力は人並み外れて強かった。(注:以上は藤原良尚についての記事である。)菅根は経史に広く通じ、諸子百家にも通暁していた。(注:『三代実録』による。)元慶八年、文章生(もんじょうしょう)に補された。寛平年間、因幡掾(いなばのじょう)に任じられ、対策(たいさく、官吏登用試験)に及第し、少内記に任じられた。(注:『公卿補任』による。)菅原道真が政務を輔佐していた際、菅根を推薦して次のように述べた。「先に私は東宮亮(とうぐうのすけ)の任にあり、太上天皇の勅により経書を講じる役をも兼ねることになりました。一身で二つの役目を務め、慌ただしく暇がありませんでした。そこで事情を上奏いたしましたところ、太上天皇は菅根を挙げて殿上に昇ることをお許しになり、菅根は昼夜勤めに励み、御下問のたびごとに経伝を引いて叡慮を明らかにし、章句を抽き出して文思を促しました。授かった書物は『曲礼』『論語』『後漢書』など、その巻数は少なくありません。対策に及第してから七年になりますが、これまでの前例に照らせば、大器晩成と申せましょう。伏してお願い申し上げますに、位階を上げてお授けになり、これまでの功に報い、侍読としての新たな賞を明らかにしていただきたく存じます」と。(注:『菅家文草』による。)こうして式部少輔に抜擢され、従五位上を授けられた。昌泰年間、文章博士・備中権介を兼ね、蔵人頭に補され、右近衛少将を兼ねた。延喜元年、大宰大弐に左遷されたが、赴任しないうちに再び式部少輔・蔵人頭に補され、権左中弁を兼ね、ほどなく従四位下に進み、式部大輔に任じられた。(注:『公卿補任』による。)延喜六年、天皇が『史記』を読んだ際、菅根が侍読を務め、(注:『日本紀略』による。)従四位上に叙された。翌年、侍従を兼ねた。延喜八年、参議に任じられた。同年十月、卒去した。年五十三。従三位を贈られた。(注:『公卿補任』による。なお『荏柄縁起』は菅根が菅丞相(道真)の祟りによって震死したとするが、ここでは採らない。)
¶かつて『延喜格』の撰修を命じられた。(注:『延喜格式序』による。)当初、菅根は道真の推薦によって登用されたが、(注:『菅家文草』による。)後に殿上において道真に辱められたことがあり、(注:『江談抄』『北野縁起』による。)菅根はこれを深く恨みに思った。(注:『北野縁起』による。)藤原時平が道真を陥れるに及んで、法皇(宇多上皇)はこれを救おうとした。しかし菅根がこれを遮って取り次がず、道真はついに左遷された。(注:『江談抄』による。)子に元方がいる。
藤原良尚
¶藤原元方(もとかた)は、天慶の初め、参議に任じられ、左大弁を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)平将門(たいらのまさかど)が反乱を起こすと、朝議は元方を大将軍に推し、討伐に当たらせようとした。元方は「摂政忠平(ただひら)の子一人を副将としてほしい」と奏請した。これにより議は改まり、藤原忠文(ただふみ)が元方に代わることとなった。(注:『江談抄』による。)天暦年間、民部卿を兼ね、正三位大納言に至った。天暦七年、薨去した。年六十六。(注:『公卿補任』『一代要記』による。)