卷之七十九 列傳第六

后妃六

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次29
  1. 熙子女王
  2. 藤原慶子
  3. 藤原皇后(安子)
  4. 藤原述子
  5. 徽子女王
  6. 莊子女王
  7. 藤原芳子
  8. 源計子
  9. 藤原祐姬
  10. 藤原正妃
  11. 藤原登子
  12. 昌子皇后
  13. 藤原皇后(懷子)
  14. 藤原皇后(超子)
  15. 藤原怤子
  16. 藤原皇后(媓子)
  17. 藤原皇后(遵子)
  18. 藤原皇后(詮子)
  19. 尊子內親王
  20. 藤原忯子
  21. 藤原姚子
  22. 藤原諟子
  23. 婉子女王
  24. 平平子
  25. 藤原皇后(定子)
  26. 藤原中宮(彰子)
  27. 藤原義子
  28. 藤原元子
  29. 藤原尊子

熙子女王

朱雀天皇(すざくてんのう)の女御・熙子女王(きしじょおう)は、文献太子(もんげんたいし)の娘である(注:日本紀略・一代要記・中右記の大治五年条による)。正四位下に叙せられた(注:一代要記による)。承平七年、女御となった(注:日本紀略・一代要記による)。天暦四年、昌子内親王(しょうしないしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録・中右記大治五年条による。天暦四年の記述は類聚符宣抄による)。従三位に叙せられた(注:一代要記による)。まもなく薨去し、王女御(おうにょうご)と称された(注:栄華物語による。熙子の薨去年は明らかでない。昌子内親王は長保元年に卒去し享年五十であったので、これによれば天暦四年の生まれとなる。ところが本書には、昌子が三歳のときに熙子が薨去したとある。これから推せば、熙子はおそらく天暦六年に薨去したことになるが、他に明証がないため、この説は採らない)。

藤原慶子

女御・藤原慶子(ふじわらのけいし)は、太政大臣・藤原実頼(ふじわらのさねより)の娘である(注:日本紀略・大鏡裏書・一代要記による)。正五位下を授けられた(注:一代要記による)。天慶四年、女御となり(注:日本紀略・一代要記による)、天暦五年十月、卒去した(注:一代要記・李部王記による)。

【村上天皇】

藤原皇后(安子)

村上天皇(むらかみてんのう)の藤原皇后は、諱を安子(あんし)といい、右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の娘である(注:日本紀略・一代要記・大鏡による)。天皇がまだ親王であったころに迎え入れられた。天皇が皇太子の位にあったときには、皇太弟妃(こうたいていひ)として従五位上を授けられた。天皇が即位すると女御となり、従四位下を授けられ、たびたび昇進して従三位となった。天暦四年、従二位に進んだ(注:大鏡裏書に引く村上御記による)。天徳元年四月、飛香舎(ひぎょうしゃ)で酒宴を催し、父・師輔の五十の賀を祝った。天皇みずから宴に臨んで音楽を楽しみ、それぞれに応じて物を賜った(注:日本紀略による)。二年十月、皇后となった(注:日本紀略・一代要記・大鏡裏書に引く村上御記による)。四年、父の喪により、兄・伊尹(これただ)の邸に退出して住んだ(注:日本紀略による)。康保元年四月、主殿寮(とのもりょう)にて選子(せんし)を出産した。数日後、崩御した。享年三十八(注:日本紀略・大鏡裏書に引く村上御記による。扶桑略記は三十五歳とするが誤りである)。愛宕郡(おたぎぐん)の東南野に葬られ(注:日本紀略による。本書の一説には神楽岡(かぐらおか)の西北とする)、中宇治陵(なかうじのみささぎ)と称された。西寺(さいじ)に国忌の斎を置き、荷前の幣に列せられた(注:江家次第による)。后は冷泉帝(れいぜいてい)・円融帝(えんゆうてい)・為平親王(ためひらしんのう)・承子内親王(しょうしないしんのう)・輔子内親王(ふしないしんのう)・資子内親王(よしこないしんのう)・選子内親王(せんしないしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録・大鏡・栄華物語・中右記大治五年条による)。当初、后は皇女ばかりを生み、まだ男子がなかった。師輔が鹿島神(かしまのかみ)に祈願したところ、まもなく冷泉帝が生まれた(注:左経記の長元七年条に引く九条殿記による)。冷泉帝の即位に伴い、后の母である従三位・藤原盛子(ふじわらのもりこ)に正一位を贈り(注:日本紀略による)、后を追って皇太后と尊んだ。円融帝が譲位を受けて即位すると、太皇太后を贈られた(注:大鏡裏書による)。

后はきわめて兄弟に厚く、人の心情をよく汲み取ったので、妃嬪(ひひん)や女房たちも皆その歓心を得ていた。崩御に及んでは、朝廷の内外がこれを悲しみ惜しんだ。天皇はしばしば政事について后に尋ね、后は努めて是正・補佐に努め、人々の苦しみを取り除き、その望むところをかなえてやった。天皇もまた后をはばかり、その言うことに従わないことはなかった。しかし性質はかなり嫉妬深く、あるとき女御・藤原芳子(ふじわらのほうし)が新たに寵愛を得て飛香舎に住み、后の住む弘徽殿(こきでん)と隣り合っていた。后は壁に穴をあけて芳子をのぞき見たところ、その容貌はこの上なく美しかった。嫉妬の心はますます燃え上がり、土器を砕いてその穴から投げつけた。天皇はたまたまこれを見て大いに怒り、これは后の兄弟が后にそうさせたのだと考え、伊尹らを責めて自邸に退かせた。后は大いに怨み怒り、天皇のもとに参上して、伊尹らを許すよう乞うた。天皇は許さずに立ち去ろうとしたが、后が衣を引いて引き止めたため、天皇はやむなくこれに従った。后の崩御後、芳子への寵愛も衰え、天皇は后を思って、その扱いが薄かったことを深く悔いたという(注:大鏡による)。

藤原述子

女御・藤原述子(ふじわらののぶこ)は、太政大臣・藤原実頼の第二女である(注:尊卑分脈による。一代要記・歴代皇記は第三女とする)。天皇がまだ東宮であったころに迎え入れられ、即位に及んで女御となった(注:一代要記による)。天暦元年、懐妊したが疱瘡(ほうそう)を患って流産し、東三条第(ひがしさんじょうてい)で卒去した。享年十五(注:日本紀略による)。弘徽殿女御(こきでんのにょうご)と称された(注:日本紀略による。尊卑分脈は四条御息所(しじょうのみやすんどころ)とする)。葬送にあたり、使者を遣わして従四位上を贈った(注:日本紀略・一代要記による)。

徽子女王

女御・徽子女王(きしじょおう)は、式部卿(しきぶきょう)・重明親王(しげあきらしんのう)の娘である(注:日本紀略・一代要記・皇胤紹運録・斎宮記による)。承平六年、斎宮(さいぐう)となり、天慶八年、母の喪に遭って任を退いた(注:日本紀略による)。天暦元年、後宮に入り(注:一代要記・大鏡裏書による)、三年、女御となった(注:日本紀略・一代要記による)。五年、従四位下を授けられ、応和二年、従四位上に進んだ(注:大鏡裏書による)。規子内親王(きしないしんのう)を生み(注:栄華物語による)、また一人の皇子を生んだが夭折した(注:日本紀略による)。寛和元年、卒去した。享年五十七(注:大鏡裏書による)。斎宮女御(さいぐうのにょうご)と称され(注:大鏡・皇胤紹運録による)、また承香殿女御とも称された(注:大鏡による)。女王はことに和歌に優れていた(注:皇胤紹運録による)。かつて長岡(ながおか)の別荘に住んでいたとき、天皇が歌を賜って見舞ったので、女王もこれに和して奉った。当時の人々は「后位に就こうとする意図があるのではないか」と噂した。女王はこれを恥じて、その草稿を削り捨てたという(注:十訓抄による)。

莊子女王

女御・荘子女王(そうしじょおう)は、中務卿(なかつかさきょう)・代明親王(よあきらしんのう)の娘である(注:一代要記・歴代皇紀・皇胤紹運録による)。従四位上を授けられ、天暦四年、女御となった(注:一代要記による)。具平親王(ともひらしんのう)・楽子内親王(らくしないしんのう)を生んだ(注:栄華物語・皇胤紹運録・皇胤系図による)。天皇の崩御に及んで尼となり、寛弘五年七月、卒去した(注:日本紀略・一代要記による)。享年七十八(注:一代要記による)。麗景殿女御(れいけいでんのにょうご)と称された(注:栄華物語による)。

藤原芳子

女御・藤原芳子(ふじわらのほうし)は、左大臣・藤原師尹(ふじわらのもろただ)の娘である(注:大鏡・日本紀略・尊卑分脈による)。天徳二年、女御となった。昌平親王(まさひらしんのう)・永平親王(ながひらしんのう)を生んだ(注:皇胤系図・一代要記による)。容貌はこの上なく艶やかで、髪は豊かで長く、車に乗るときにもまだ御簾の柱の下に垂れ残るほどであった(注:大鏡による)。かつて実家にいたころに琴と書を学び、古今集をそらんじていた。天皇がみずから試み、碁石を数取りに用いて全篇を諳誦させたところ、一つの誤りもなかった。天皇は大いに感心した(注:大鏡による。あわせて枕草子を参照した)。天皇は箏(そう)を巧みに弾じ、芳子はその奏法をことごとく会得した(注:大鏡・栄華物語による)。三年、正五位下に叙せられ(注:日本紀略・九暦による)、のちに従四位下に進んだ(注:日本紀略による)。天皇はこれをたいそう寵愛し、皇后(安子)から妬まれた。晩年は寵愛もやや衰えた(注:大鏡による)。康保四年七月、卒去した(注:日本紀略・一代要記・山槐記の治承二年条による)。宣耀殿女御(せんようでんのにょうご)と称された(注:大鏡・栄華物語・枕草子による)。

源計子

更衣・源計子(みなもとのかずこ)は、中納言・源庶明(みなもとのこれあきら)の娘である(注:歴代皇紀・皇胤紹運録・皇胤系図による)。すこぶる才識があった。ある日、天皇が歌を詠んだ。「逢坂も(阿布佐加茂)、果ては(波底波)往来の(由岐岐能)、関もゐず(世基母為受)、尋ねて訪ひ来(多豆禰氐斗比古)、来なば帰さじ(岐奈波加陪佐餌)。」これは隠し言葉であり、これを女官たちに示して試みたが、誰も解くことができなかった(注:栄華物語・十訓抄による)。あるいは召されたのだと思い込み、盛装して参上する者までいた(注:栄華物語による)。ただ計子だけがその意味を悟り、薫衣香(くのえこう)を献上した。天皇はその機知を褒め称えた(注:栄華物語・十訓抄による。浦木の按ずるに、この歌は各句の頭と終わりの字を取ったもので、「合(あは)せ薫物少(たきものすこ)し」の意である)。計子は天皇に勧めて、源順(みなもとのしたごう)らに万葉集を訓読・解釈させた(注:十訓抄による)。理子内親王(りしないしんのう)・盛子内親王(せいしないしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録・栄華物語による)。広幡御息所(ひろはたのみやすんどころ)と称された(注:栄華物語・十訓抄・皇胤系図による。宝物集には、のちに左大臣・藤原顕光(ふじわらのあきみつ)に嫁いだとあるが、一代要記・皇胤紹運録・皇胤系図によれば、顕光に嫁いだのは盛子である)。

藤原祐姬

更衣・藤原祐姫(ふじわらのすけひめ)は、大納言・藤原元方(ふじわらのもとかた)の娘である(注:一代要記・歴代皇紀・皇胤系図による。皇胤紹運録には祐姫を「元子」に作る)。更衣となった(注:日本紀略・皇胤紹運録による。栄華物語には、あるいは女御、あるいは御息所と称したとある)。広平親王(ひろひらしんのう)(注:皇胤紹運録・栄華物語による)、緝子内親王(しゅうしないしんのう)(注:皇胤紹運録による)を生んだ。当時、天皇にはまだ後継ぎがなく、広平親王が生まれると、祐姫と元方はひそかに喜び、この皇子が皇太子になるものと思っていた。ところがまもなく冷泉帝が生まれ、まもなく東宮に立てられた。父子は大いに落胆し、元方はついに憂いのうちに亡くなった(注:栄華物語による)。世間では、冷泉帝が狂気の病を得たこと、花山帝(かざんてい)が出家したこと、三条帝(さんじょうてい)が失明したことは、みな元方の祟りによるものだと噂した(注:神皇正統記による)。天皇の崩御に及んで、祐姫は尼となった(注:日本紀略による)。

藤原正妃

更衣・藤原正妃(ふじわらのまさひ)は、左大臣・藤原在衡(ふじわらのありひら)の娘である(注:一代要記・歴代皇紀・皇胤紹運録・皇胤系図による)。正五位下を授けられた(注:日本紀略による)。致平親王(むねひらしんのう)・昭平親王(あきひらしんのう)・保子内親王(やすこないしんのう)を生んだ(注:一代要記・皇胤紹運録・皇胤系図・栄華物語による)。正妃はもともと格別の寵愛を受けたわけではなかったが、子女が多かったことにより、恩遇は終始衰えることがなかった(注:栄華物語による)。康保四年七月、卒去した(注:日本紀略による)。按察御息所(あぜちのみやすんどころ)と称された(注:栄華物語による)。

藤原登子

尚侍(ないしのかみ)・藤原登子(ふじわらのとうし)は、皇后(安子)の同母妹である(注:尊卑分脈・一代要記・大鏡裏書による)。当初、天皇の兄・重明親王(しげあきらしんのう)の後妻となっていたが、皇后の縁により宮中に出入りしていた。天皇はこれを見て心を寄せ、后に頼んで私通した。后は初めのうちこれを隠していた(注:栄華物語・大鏡による)。のちに天皇はたびたび登子を宮中に召すようになり、后はしだいに不快に思うようになった。重明親王が薨去すると、天皇は内心喜んで登子を迎え入れたいと思ったが、后をはばかって果たせなかった。后の崩御からわずか一月余りで、天皇はたびたび登子に手紙を送った。登子は世の噂を憚って命に応じようとしなかったが、天皇は伊尹らに勅してこれを促させ、内蔵寮(くらりょう)に命じてその費用を支給させた。ついに登花殿(とうかでん)に召し入れ、もっぱら寵愛した。他の妃嬪はほとんど天皇の御前に出ることがなくなった。后や重明親王に仕えていた女房たちはみな怨み憤り、「后の崩御や親王の薨去は、その呪詛によるものだ」と噂した。天皇はつねに登子と睦みたわむれ、昼になっても寝所から出ないほどであった。天皇は治世を立派に治めてきたが、この時に至って政務がかなり廃れ、朝廷の内外はこれを惜しんだ。藤原実頼は嘆いて、「帝の徳は後世に伝えるに足るものであったのに、これによって損なわれてしまった。惜しいことだ」と言った。天皇は登子を后に立てようとしたが、以前すでに子があったため、正式に立后することはできなかった(注:栄華物語による)。円融帝が譲位を受けて即位すると、従四位上に叙せられ(注:日本紀略には従五位上とするが、ここでは大鏡裏書・一代要記に従う)、尚侍となった(注:大鏡・栄華物語には、村上帝在世中に尚侍になったとするが、ここでは日本紀略・大鏡裏書に従う)。天禄元年、従三位に叙せられ、天延元年、従二位に進んだ(注:大鏡裏書による)。三年、薨去した(注:日本紀略・大鏡裏書による)。貞観殿尚侍(じょうがんでんのないしのかみ)と称された(注:大鏡による。栄華物語の系図には登花殿尚侍と称するとあるが、いずれが正しいかはわからない)。

【冷泉天皇】

昌子皇后

冷泉天皇(れいぜいてんのう)の皇后は、諱を昌子(しょうし)といい、朱雀帝の娘である(注:日本紀略による)。天暦四年、内親王となった。時に年一歳(注:類聚符宣抄による)。応和元年、承香殿にて笄礼(けいれい、成人の儀)を行い、三品を授けられた。天皇はみずから位記を書いてこれを賜った(注:日本紀略による)。后は幼くして母を失っており、朱雀帝にとってはただ一人の娘であったため、その寵愛はことのほか深く、つねに后として立てることを願っていた。皇女が立后するのは、近ごろでは前例のないことであった(注:栄華物語による)。しかし朱雀帝には皇子がなかったため、せめて皇女に血筋を伝えたいと願い、崩御に臨んで思いを込めた歌を詠んだ(注:大鏡による)。村上帝はこれを知っていた。東宮(冷泉帝)が元服を加えるに及び、諸家がこぞって娘を入内させようと望んだが、村上帝は特に勅して昌子を入内させた(注:栄華物語による)。冷泉帝の即位に伴い、皇后に立てられた(注:日本紀略・扶桑略記・栄華物語による)。天皇には心の病があり、后はしばしば別宮に退いて住んだ(注:栄華物語による)。天延元年、皇太后となった(注:日本紀略・扶桑略記・栄華物語による)。寛和元年、后は比叡山(ひえいざん)に観音院(かんのんいん)を建立し、みずから赴いて供養した(注:日本紀略・扶桑略記による。比叡山は略記による)。二年、太皇太后となった(注:日本紀略・一代要記による)。長保元年十二月、権大進(ごんのだいじょう)・橘道貞(たちばなのみちさだ)の三条の邸で崩御した(注:日本紀略による)。享年五十(注:小右記・扶桑略記・一代要記・帝王編年記による。日本紀略は五十五歳とするが誤りである)。三条太皇太后(さんじょうのたいこうたいごう)と称され(注:栄華物語による)、また観音院太后(かんのんいんのたいごう)とも称された(注:中右記の大治二年条による)。みずから遺言を書き記し、後事を細かく指図して、すべて質素倹約に従うよう定めた。観音院に葬られた(注:小右記・日本紀略・扶桑略記による)。

藤原皇后(懷子)

藤原皇后は、諱を懐子(かいし)といい、太政大臣・藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の娘である(注:栄華物語・大鏡・皇胤紹運録・一代要記による)。安和元年、入内した(注:栄華物語による)。康保四年、女御となり(注:日本紀略・大鏡裏書による)、従四位下を授けられた(注:大鏡裏書による)。天延二年、従二位に進んだ(注:日本紀略・大鏡裏書による)。三年四月、薨去した。享年三十一(注:日本紀略は三十歳とするが、ここでは大鏡裏書・歴代皇記に従う)。花山帝(かざんてい)・宗子内親王(そうしないしんのう)・尊子内親王(そんしないしんのう)を生んだ(注:栄華物語・皇胤紹運録による)。花山帝の即位により、追って皇太后と尊ばれ、国忌・山陵はすべて旧例にのっとった(注:日本紀略・中右記の嘉承二年条による)。当初、后が薨去したとき、花山帝はまだ幼く、后の母・恵子女王(けいしじょおう)がたいそう心をこめて養育した。花山帝の即位に伴い、こう勅した。「漢の武帝の即位に際し、臧児(ぞうじ、武帝の外祖母)が封を受けたのは、遠い時代からの恒例であり、先の史書に記された立派な典例である。朕の外祖母である王氏(恵子女王)は、礼法を心にとどめ、婦人としての模範を示した。朕が幼かったころ、早くに亡き母を失ったが、祖母は朕を我が子のように見てくれた。朕はいまだ祖母への恩に、実の親に対するほどには報いていない。よって邑土三百戸を授け、あわせて年爵・内外の官の三分の一などを与え、いささか湯沐(とうもく、生活の資)の資とし、あわせて仕える者たちにも及ぼすものとする」(注:本朝文粋による)。

藤原皇后(超子)

藤原皇后は、諱を超子(ちょうし)といい、関白・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の娘である(注:大鏡・栄華物語・皇胤紹運録・一代要記による)。安和元年、入内して御匣殿(みくしげどの)となった(注:栄華物語には入内を花山帝譲位後の出来事とするが、誤りである)。叔母の怤子(ふし)と同時に女御となった(注:日本紀略による)。従四位下を授けられた(注:大鏡裏書による。日本紀略は従四位上とする)。当時、兼家はまだ蔵人頭(くろうどのとう)で、父が公卿になっていないうちに娘が女御となったのは、これに始まる(注:一代要記による)。三条帝(さんじょうてい)・為尊親王(ためたかしんのう)・敦道親王(あつみちしんのう)・光子内親王(こうしないしんのう)を生んだ(注:日本紀略・皇胤紹運録・皇胤系図による)。天元五年正月、兄弟たちが集まって庚申(こうしん)の夜を守っていたところ、女御は脇息にもたれて眠り、夜が明けても目を覚まさず、見に行くとすでに息絶えていた(注:栄華物語による)。これ以来、この一族は女子に庚申待ちをさせないようになった(注:古事談による)。三条帝の即位に伴い、追って皇太后と尊ばれ(注:日本紀略・中右記の嘉承二年条による)、詔してこう述べた。「至徳要道(しとくようどう)の教えは、孝行の道が長く伝わることを説く。三伝(さんでん、春秋の三伝)が一致して説くところの文は、母の徳を貴ぶことにある。まことに、仁義の基は孝より大なるものはないと知る。ああ哀しいことだ。朕の亡き母は、朕が幼いころに、その恩愛から引き離された。年老いた者たちの話を悲しく聞き、長じてはじめてその哀傷を知り、昔日の思いを切に感じる。歳月は古くなったが、恋い慕う心は新たなままである。かつて内裏にあって天下を助ける日はなかったが、今、墳墓の松に、椒房(しょうぼう、后妃の宮)の風格を変じさせよう。よって、生みの母である藤原氏を皇太后とする。国忌・山陵は、すべて旧例のとおりとせよ」(注:小右記による)。

藤原怤子

女御・藤原怤子(ふじわらのふし)は、右大臣・藤原師輔の娘である(注:大鏡・一代要記・歴代皇紀による)。村上皇后(安子)の同母妹である(注:大鏡裏書による)。天皇がまだ東宮であったころに御息所として迎え入れられ(注:大鏡・尊卑分脈による)、従四位下を授けられた(注:日本紀略による)。安和元年、女御となり(注:日本紀略による)、正四位下に進んだ(注:日本紀略による)。天元五年、尚侍となり、従三位に昇った(注:日本紀略・一代要記による)。寛和年間、正三位に至った。永祚元年、尼となった(注:一代要記による)。

【圓融天皇】

藤原皇后(媓子)

円融天皇(えんゆうてんのう)の藤原皇后は、諱を媓子(こうし)といい、関白・藤原兼通(ふじわらのかねみち)の娘である(注:栄華物語・大鏡・一代要記・尊卑分脈による)。天延元年、入内し(注:栄華物語は天禄二年とするが、ここでは日本紀略・一代要記に従う)、まもなく女御となった(注:一代要記による)。七月、皇后に立てられた(注:日本紀略・一代要記・中右記の大治五年条による)。天元二年六月、堀河院(ほりかわいん)にて崩御した(注:日本紀略・栄華物語・一代要記による)。享年三十三(注:日本紀略・大鏡裏書による)。堀河中宮(ほりかわのちゅうぐう)と称された。后は幼いころ、父に愛されなかった。后はこれを憂え、あるとき徒歩で稲荷社(いなりのやしろ)に詣でて祈願した。のちに兼通が娘を入内させようとしたとき、后より年長の娘がいなかったため、后がその選に充てられることになったという(注:大鏡による)。

藤原皇后(遵子)

藤原皇后は、諱を遵子(じゅんし)といい、関白・藤原頼忠(ふじわらのよりただ)の娘である(注:大鏡裏書・一代要記による)。天元元年、後宮に召し入れられた(注:日本紀略・一代要記・大鏡裏書による。栄華物語は天元二年とするが誤りである)。女御に准じて輦(れん)に乗ることを許された(注:日本紀略による)。女御となり(注:日本紀略・大鏡裏書・一代要記による)、承香殿に住み(注:日本紀略による)、従四位上を授けられた(注:日本紀略・中右記の大治五年条による)。后の才知・容姿は東三条院(藤原詮子)に及ばなかったが、天皇は特に頼忠のゆえに格別の寵愛を加えた。堀河中宮(媓子)の崩御に及び、頼忠は遵子が后位に就くことを望んだ。しかし后には子がなく、そのうえ東三条院が一条帝(いちじょうてい)を新たに生んだため、世間の議論をはばかって願い出ることができずにいた。天皇はもともと仁愛深く柔和な性質で、頼忠の機嫌を取ろうと思い、「梅壺(藤原詮子)には子がいるのだから、いずれ自然に正式な号を得るだろう。まずは頼忠殿の娘を立てるのがよかろう」と言った(注:栄華物語による)。五年三月、皇后に立てられ(注:日本紀略・一代要記・帝王編年記による)、中宮と称された(注:栄華物語・大鏡裏書・中右記の大治五年条による)。当時の人々は、子がないことから「素腹后(すばらのきさき)」と呼んだ(注:栄華物語による)。正暦元年、中宮(藤原詮子)が立后したことにより、称号を改めて皇后とした(注:日本紀略・大鏡裏書・一代要記・帝王編年記による)。長徳三年、受戒して尼となった(注:日本紀略・大鏡裏書による。一代要記・帝王編年記は四年のこととする)。長保二年、皇太后となった(注:扶桑略記・大鏡裏書・一代要記による)。三条帝の即位により、太皇太后となった。寛仁元年六月、崩御した。享年六十一(注:日本紀略・一代要記・大鏡裏書による)。四条宮(しじょうのみや)と称された(注:大鏡・扶桑略記による。貴女抄には東北院と称するとあるが、他に見えないため採らない)。遺言により、喪服を着ることや哭礼(こくれい)を停止させた。般若寺(はんにゃじ)に葬られた(注:日本紀略による)。

藤原皇后(詮子)

藤原皇后は、諱を詮子(せんし)といい、関白・藤原兼家の娘である(注:大鏡・皇胤紹運録・尊卑分脈・女院小伝による)。天元元年、凝華舎(ぎょうかしゃ)に入った(注:栄華物語は遵子の入内より前とするが、ここでは日本紀略・大鏡裏書・一代要記に従う)。正四位下を授けられ(注:一代要記による)、女御となった(注:日本紀略・一代要記による)。生まれつき素直で従順な性質で、もっとも寵愛を得ていた。天皇は関白・頼忠のゆえに四条中宮(遵子)を重んじてはいたが、心はつねに詮子に傾いていた。三年、兼家の邸に退出して一条帝を生んだ。天皇はみずから見舞いに行きたいと思ったが、頼忠をはばかって果たせなかった。当時、後宮に主(皇后)がなく、兼家は、詮子に子があるからにはきっと立后されるだろうと考えていた。ところが四条中宮が立后すると、兼家は大いに不満を抱いた。天皇はたびたび詮子を召したが、兼家は詮子に辞退させた。五年、一条帝が着袴(ちゃっこ)の儀を行った日、詮子は初めて宮中に入り、三日ののちに退出した。結局、円融帝の御代を通じて、詮子は正式な后位に就くことはできなかった(注:栄華物語による)。寛和二年、正三位に進んだ(注:大鏡裏書による)。一条帝の即位により、皇太后として尊ばれた(注:扶桑略記・大鏡裏書・栄華物語による)。かつて四条中宮の立后に際し、儀式を整えて入内したとき、中宮の弟の公任(きんとう)がこれに従っていた。行列が兼家の東三条第(ひがしさんじょうてい)の前を通ったとき、公任は馬を止めて、「この家の女御は、いつになったらこのような儀式にあずかれるのだろうか」と言った。詮子と兼家はこれを聞いて恨みに思った。のちに詮子が皇太后の号を受けて入内する日、公任がたまたま供奉していたところ、弁内侍(べんのないし)が車の中から公任を呼び、「素腹后は今どうしていますか」と言った。公任は大いに恥じ入り、意気消沈したという(注:大鏡による)。永延元年正月、一条帝は東三条第に后を訪ね、宮司や兼家の家司(けいし)に位を授けた(注:栄華物語による)。二月、勅により、后の母・時姫(ときひめ)に正一位を贈った(注:日本紀略による)。かつて時姫が若かったころ、将来の吉凶を占おうと二条大路に出て、通行人の唱える言葉を聞いていたところ、ある老婆が時姫に、「娘御は後にきっと栄えて顕れ、何事も成就しないことはないだろう。この大路のように、広く長く栄えるだろう」と言った。果たしてその言葉のとおりになったという(注:大鏡による)。一条帝がまだ幼かったころ、御禊(ごけい)や石清水(いわしみず)・賀茂(かも)への参詣には、后が必ず同乗した(注:日本紀略・栄華物語による)。正暦二年、后が病にかかると、一条帝はみずから見舞った。后は落飾し、皇太后宮職を廃止して東三条院(ひがしさんじょういん)と号したが、年官・年爵・封戸は従来どおりとされた(注:栄華物語は三年のこととするが、ここでは扶桑略記・日本紀略に従う)。太上天皇に准じ、女院(にょいん)と称するのはこれに始まる(注:栄華物語・歴代皇紀・愚管抄による)。后は天下の母として仰がれ、世に並ぶ者のないほど重んじられ、兄弟たちはみな朝廷に仕え、政務の多くはその意向によって決せられた。ちょうど関白・道兼(みちかね)が薨去したとき、后は大納言・道長(みちなが)にその職を継がせようとした。天皇がこれを聞き入れずにいると、后は涙を流して、「老いた母が申し上げることは、国のため、帝のためを思ってのことですのに、お聞き入れいただけません。今後は、母はもう政事について申し上げません」と言った。天皇はやむなくこれを聞き入れた。后はただちに蔵人頭・源俊賢(みなもとのとしかた)を呼んで勅を伝えさせ、道長に内覧(ないらん)の宣旨を下させた(注:愚管抄による)。長徳三年、后はまた病にかかった。天皇は天下に大赦を行ってその平癒を祈った(注:日本紀略・扶桑略記による)。后は慈徳寺(じとくじ)を建立し、長保元年八月に落成すると、御斎会(ごさいえ)に准じてこれを祝った(注:小右記・百錬抄による)。また比叡山に解脱寺(げだつじ)を建立した(注:扶桑略記による)。三年十月、天皇は中宮とともに道長の上東門第(じょうとうもんてい)に行幸し、宴を設けて后の四十の賀を祝い、また諸寺に后の長寿を祈らせた。閏十二月、后の病が重くなった(注:日本紀略には、后が落飾して尼になったとあるが、紀略の正暦二年の条にすでに后が尼になったことを記しているので、ここでは採らない)。医師を招いて診させようとしたが、后は応じなかった。天皇は大いに憂え、あらゆる手立てで祈願し、天下に大赦を行った。物の怪の祟りがあるとして、藤原行成(ふじわらのゆきなり)の邸に移した(注:栄華物語には平惟仲(たいらのこれなか)の家に移したとある)。まもなく崩御した。享年四十(注:日本紀略・栄華物語を参照した。大鏡裏書には崩御の年を四十一とするが誤りである)。鳥部野(とりべの)に葬られた。遺言により、国忌・山陵は置かず、喪服の着用や哭礼も停止させた(注:日本紀略・扶桑略記による)。天皇はたいそう悲しみ嘆き、水も喉を通らないほどで、みずから仏典を書写して冥福を祈った(注:栄華物語による)。忌日ごとに、慈徳寺にて法華八講を修した(注:年中行事による)。

尊子內親王

尊子内親王(そんしないしんのう)は、冷泉帝の第二皇女である。康保四年、内親王となった(注:日本紀略・一代要記による)。安和元年、賀茂斎院(かものさいいん)となり、天延三年、母(懐子)の喪に遭って退いた(注:日本紀略・一代要記・斎院記による)。天元三年、麗景殿(れいけいでん)に召し入れられた(注:日本紀略・斎院記による)。時に年十五(注:本朝文粋による。栄華物語には入内を貞元二年以前とするが、誤りである)。まもなく、宮中に火事があり、世間は尊子を「火宮(ひのみや)」と呼んだ(注:大鏡・栄華物語による)。四年、二品(にほん)に叙せられた(注:日本紀略・一代要記・斎院記による)。五年、みずから髪を切った。その事情は秘され、理由を知る者はいなかった(注:小右記による。本書の注には承香殿女御とあるが、他に見えず、その説は詳らかでない)。寛和元年、受戒して尼となった(注:本朝文粋による)。五月、薨去した。享年二十(注:小右記・日本紀略・一代要記・斎院記による)。

【華山天皇】

藤原忯子

花山天皇(かざんてんのう)の女御・藤原忯子(ふじわらのしし)は、太政大臣・藤原為光(ふじわらのためみつ)の娘である(注:日本紀略・一代要記・大鏡による。諸書には「忯」を「怟」に作るが、ここでは尊卑分脈に従う)。永観二年、後宮に入った(注:栄華物語には忯子の入内を他の女御たちより後とするが、ここでは日本紀略・大鏡裏書・一代要記に従う)。女御となって弘徽殿に住み(注:日本紀略・栄華物語による)、その寵愛は後宮随一であった(注:栄華物語による)。慣例では女御は宮中で修法(すほう)を行うことができなかったが、忯子だけは特に許されて桂芳坊(けいほうぼう)でこれを修めた(注:小右記による)。他の女御たちはみなこれを妬み、ひそかに語り合って、「これほどの寵愛は、昔から聞いたことがない。福が長続きするはずがない」と言い合った。まもなく忯子は懐妊し、三月が満ちて、慣例では宮中を退出すべきときとなったが、天皇は忍びなく退出させなかった。五月、ようやく為光の邸に退出したが、病にかかって食事もとれず、日ごとにやせ衰えていった。天皇からの使者が次々と訪れ、夜通し絶えることがなく、あるいは報告が遅れる者があれば殿上の名簿からその名を削った。また多くの僧を分けて命じ、修法を行わせて祈らせた。珍しい果物が献上されるたびに、必ず忯子に賜った。天皇はなお思いを断つことができず、忯子を宮中に呼び入れ、つねにその側に伏し、時には食事も取らないほどであった。八日間留めたのち、為光がたっての願いで退出させた。病はますます重くなり、天皇もそのために日々の起居が乱れがちになった(注:栄華物語による)。寛和元年七月、出産を待たずして卒去した(注:日本紀略・大鏡裏書による)。弘徽殿女御と称された(注:小右記による)。特に従四位上を贈られた(注:日本紀略・一代要記による)。これにより、相撲節会(すまいのせちえ)を停止した(注:日本紀略による)。天皇はこれ以来、仏法に専心し、深く世俗の縁を厭うようになり、妃嬪たちが御前に進み出ることも少なくなった(注:栄華物語による)。忯子の手紙を大切にしまい、つねに身から離さなかった。出家して華山寺(かざんじ)に入った際も、たまたま忘れてしまうと、途中で引き返して取りに戻ったほどであった。その惑溺ぶりはこれほどであったという(注:大鏡による)。

藤原姚子

女御・藤原姚子(ふじわらのようし)は、左近衛大将(さこんえのだいしょう)・藤原朝光(ふじわらのあさてる)の娘である(注:日本紀略・栄華物語・一代要記による)。永観二年、入内して麗景殿に住んだ(注:小右記・日本紀略・大鏡裏書による。栄華物語は寛和元年のこととするが誤りである)。女御となり(注:小右記・一代要記による)、堀河女御(ほりかわのにょうご)と称された(注:尊卑分脈による)。朝光は父・兼通と堀河中宮(媓子)の遺品や珍しい調度をことごとく受け継いで家に蔵していたため、姚子の嫁入り道具はきわめて豊かであった(注:栄華物語による)。入内して寵愛を独占したのはわずか一月ほどで、その後はまったく顧みられなくなった。姚子は気持ちが落ち着かず、宮中を退出して実家に帰ったが、天皇はついに問い質すこともなかった(注:大鏡・栄華物語による)。朝光は大いに恥じ、あえて朝廷に出仕しなかった。当時、宮中では寵愛を妬む者たちがひそかに策略を巡らし、天皇が渡殿(わたどの)を通れないようにし、姚子もまた御前に進み出られないようにした。そのため、ついに宮中を退出することになったという(注:栄華物語による)。

藤原諟子

女御・藤原諟子(ふじわらのしし)は、関白・藤原頼忠の娘で、四条中宮(遵子)の同母妹である(注:大鏡による)。永観二年、承香殿に入り住んだ(注:小右記・日本紀略・栄華物語による。承香殿は小右記による)。姚子と同じ日に女御となった(注:小右記・一代要記による。日本紀略は寛和元年のこととするが誤りである)。頼忠のゆえに、その栄華は他に抜きん出ていた。頼忠もまた、「后位に昇る者は、必ずわが娘であろう」と言っていた。天皇は性質が移り気で、寵愛を受けた妃嬪も長続きすることがなかったが、諟子だけは格別の寵愛はないものの、恩顧は終始変わることがなかった(注:栄華物語による)。花山帝が退位したのちも、諟子は中宮とともに四条宮に同居した。長元八年六月、卒去した(注:左経記による)。

婉子女王

女御・婉子女王(えんしじょおう)は(注:大鏡裏書には恭子女王とあるが、ここでは一代要記・皇胤紹運録に従う)、為平親王(ためひらしんのう)の娘である(注:一代要記・栄華物語による)。寛和元年、入内して女御となった(注:栄華物語には婉子の入内を姚子より前とするが、ここでは日本紀略・一代要記・大鏡裏書に従う)。初めはたいそう寵愛されたが、まもなく疎遠になった。忯子が卒去すると、天皇は再び婉子を召し出そうとしたが、婉子は病と偽ってあえて参上しなかった(注:栄華物語による)。花山帝の譲位後、藤原実資(ふじわらのさねすけ)に嫁いだ(注:大鏡による)。長徳四年七月、卒去した(注:日本紀略は九月とするが、ここでは小右記の長保元年七月条に従う)。享年二十七(注:日本紀略による)。

平平子

平平子(たいらのへいし)は、若狭守(わかさのかみ)・祐忠(すけただ)の娘である。母は中務(なかつかさ)といい、天皇の乳母の娘である。花山天皇はしだいに仏道修行に倦み、華山寺(かざんじ)を出て東院(とういん)に住み、中務を召してこれに通じた(注:栄華物語による)。清仁親王(きよひとしんのう)(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による)、および二人の皇女を生んだ(注:栄華物語による)。また平子にも通じ、昭登親王(あきとしんのう)(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による)、および二人の皇女を生んだ。そのため世間では、清仁親王を「母腹宮(はははらのみや)」、昭登親王を「女腹宮(めのはらのみや)」と呼んだ。天皇は崩御に臨んで、「朕は一人だけで死ぬことは望まない。近いうちに必ず娘たちを連れて行くだろう」と言った。中務・平子はともにこれを憂え恐れた。その年、皇女たちは相次いでみな夭折したという(注:栄華物語による)。

【一條天皇】

藤原皇后(定子)

一条天皇(いちじょうてんのう)の藤原皇后は、諱を定子(ていし)といい、関白・藤原道隆(ふじわらのみちたか)の娘である(注:日本紀略・一代要記・尊卑分脈による)。正暦元年、入内し、まもなく女御となった(注:扶桑略記・大鏡裏書による)。従四位下を授けられた(注:大鏡裏書・一代要記による)。時に后は年十五で、天皇より四歳年上であった(注:栄華物語には后を十六歳とし、大鏡裏書・一代要記は十四歳とするが、ここでは薨去の年から逆算して大鏡に従う)。十月、中宮に立てられた(注:日本紀略・外記日記・扶桑略記・大鏡裏書・公卿補任による。大鏡・栄華物語はいずれも六月一日を立后の日とするが、おそらくこの時すでに宣旨は下っていたものの、父・兼家の薨去により、実際に冊立されたのは十月であったのだろう)。后の母・高階氏(たかしなうじ)は身分の低い家の出身で、宮仕えを経てさまざまな経験を積んでいた。后もその気風にならい、へりくだって下の者に接した。当時、道隆が権勢を握り、公卿の家で娘を入内させる者もいなかったため、后は寵愛を独占した。長徳二年春、懐妊し(注:栄華物語による)、二条第(にじょうてい)に退出した(注:日本紀略による)。四月、后の兄・伊周(これちか)と隆家(たかいえ)が罪を得て配流された。后は深く憂え悩んだ(注:栄華物語による)。五月、みずから髪を切って尼となった。六月、二条第が火事となり、これを避けて右京大夫(すけ)・高階明順(たかしなのあきのぶ)の邸に移った(注:日本紀略による)。まもなく中納言・平惟仲(たいらのこれなか)の邸に移った(注:栄華物語による)。十二月、修子内親王(しゅうしないしんのう)を生んだ(注:日本紀略・栄華物語による)。天皇はこれを聞き、ひそかに右近内侍(うこんのないし)を遣わして様子を見させた。天皇は皇女にぜひ会いたいと思い、たびたび后に宮中に入るよう命じたが、后は勅に従おうとしなかった。后の外祖父・高階成忠(たかしなのなりただ)が后に、「私は吉夢を見た。急いで宮中に入るべきだ」と勧めた。三年六月、后は皇女を連れて職曹司(しきのぞうし)に入り住んだ。天皇はなお遠いと思い、別殿に移させた。毎夜そこに通い、寵愛は以前と変わらなかった(注:栄華物語による)。長保元年、后はまた懐妊した。八月、宮中を退出し、前但馬守(さきのたじまのかみ)・平生昌(たいらのなりまさ)の邸に移った。后の叔父・道長は、后の父・兄とはもともと不仲であった。この日、道長はわざと在廷の諸臣を誘って宇治の邸に遊びに行かせたため、后の御輿が出発しようにも供奉する者がなく、しばらく手間取った。その屈辱を受けたことはこのようであった(注:小右記による)。十一月、敦康親王(あつやすしんのう)を生んだ(注:栄華物語には、長徳三年六月に后が入内して懐妊し、二か月ののちに退出し、四年三月に敦康を生んで、これにより伊周・隆家が赦免されたとあるが、敦康の薨去の年から逆算すると合わない。ここでは小右記・日本紀略に従う)。当時、天皇にはまだ後継ぎがなく、大いに喜んで会おうとしたが、道長をはばかって果たせなかった(注:栄華物語による)。二年、上東門院(藤原彰子)が中宮に立てられ、后は皇后と改称された(注:日本紀略・扶桑略記・一代要記・栄華物語・大鏡裏書による)。ちょうど中宮が道長の邸に退出していたころ、天皇はその留守に乗じて敦康親王を召して会おうとした。中宮も道長もこれを勧めた。天皇は喜んで、后と二人の子を宮中に召した。后は、「私はかつて身を引き、宮中に入る気持ちはございませんでした。しかし今、勅に応じましたのは、ひとえに一度天日のもとに参り、この宮(敦康親王)を託したかったからです」と言い、その言葉はひどく悲しげであった。天皇はこれを慰めた。まもなく后はまた懐妊し(注:栄華物語による)、平生昌の邸に退出したが(注:日本紀略による)、憂鬱のあまり病に倒れた。伊周はこれを憂え、修法を行って助けを求めたが、当時の高僧たちはみな道長をはばかって、来ようとする者がいなかった(注:栄華物語による)。十二月、媄子内親王(びしないしんのう)を生んだ。数日後、崩御した。享年二十五(注:日本紀略による)。鳥部野に葬られた(注:栄華物語による)。后は病中、歌を詠んで思いを述べ、また後事を書き記して几帳に結びつけた。伊周がその遺志を汲んで葬儀を執り行った(注:今昔物語・十訓抄・栄華物語を参照した)。后の母方の妹は御匣殿(みくしげどの)と称し、后は敦康親王の養育をこれに託していた。后の崩御後、御匣殿は親王を連れて宮中に入り、天皇の寵愛を受けて懐妊した。伊周・隆家はひそかに喜び、その幸いを祈願したが、出産に至らずに卒去した(注:栄華物語による)。

藤原中宮(彰子)

藤原中宮は、諱を彰子(しょうし)といい、摂政・藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘である(注:日本紀略・大鏡・歴代皇紀・一代要記による)。后は容色美しく豊満で艶やかで、その光沢はほおずきのようであり、髪の長さは身の丈より二尺ほども長かった。道長はこれをいつくしみ、つねにその身分が貴くなることを願っていた(注:栄華物語による)。長保元年、従三位に叙せられ(注:一代要記による)、入内して女御となった(注:小右記・日本紀略・扶桑略記・一代要記による)。飛香舎(ひぎょうしゃ)に住み、数十人の侍女はいずれもその時代の才色を選び抜いた者であった。調度や愛玩の品々は珍しく精巧をきわめ、世間では「輝く藤壺」と称した。天皇は后の草子、巨勢弘高(こせのひろたか)の絵、藤原行成(ふじわらのゆきなり)の書を見て、戯れに、「見事な品々は人の心をとろかす。朕は政務を怠りそうだ」と言った。時に后は年十二であった。天皇は、「女御はまだ幼いのに、朕は老人のようなもので、我ながら気恥ずかしい」と言った。天皇が笛を吹くと、侍女たちはみな集まって見物したが、后だけは見なかった。天皇が、「女御はどうして見ないのか」と尋ねると、后は、「笛はただ音を聴くものです。見る必要がありましょうか」と答えた。その利発さはこのようなものであり、寵愛の厚さは後宮随一であった。東三条院(詮子)もまた特別に目をかけていた。二年二月、道長の土御門第(つちみかどてい)に退出した(注:栄華物語による)。中宮に立てられ(注:大鏡・日本紀略・一代要記による。栄華物語は立后を三月のこととするが誤りである)、飛香舎に入り住んだ(注:紀略には、七月二十三日、中宮が土御門第から源則忠(みなもとののりただ)の堀河第に移り、飛香舎に住んだとあるが、前後の事情が明らかでないため採らない)。寛弘五年、懐妊して土御門第に退出した。九月、後一条帝(ごいちじょうてい)を生んだ。十月、天皇が行幸し、音楽を奏でて宴を尽くした(注:栄華物語による)。后の母・源氏(みなもとうじ)、兄の頼通(よりみち)・教通(のりみち)、および中宮職の官人や道長の家司に位を賜った(注:日本紀略による)。道長はかつて自ら誇って、「后を我が子とすることに、私にとって恥じることは何もない。私を父とすることに、后もまた不満に思うことはあるまい。ならば、后の母は良き夫を得たわけで、これもまた栄誉というべきだろう」と言った(注:栄華物語による)。十一月、后は後一条帝とともに宮中に入った。翌年十二月、土御門第で後朱雀帝(ごすざくてい)を生んだ(注:日本紀略・栄華物語による)。かつて皇后(定子)が崩御した際、天皇は敦康親王を后に託して養育させていた。八年、天皇は三条帝に位を譲って即位させ、後一条帝を東宮に立てた。后はもともと天皇の心が敦康親王にあることを知っていたが、道長をはばかって何も言わずにいた。そこでその意を汲み取り、ひそかに道長に、「親王は年長ですから、皇太子とするのがふさわしいでしょう。帝のお考えもそこに及んでいないはずはないのに、あちらを捨ててこちらを立てるのは、外戚の勢力を頼りにしてのことでしょう。今、これに対処するには、親王を先に立てるべきです。太子はまだ幼いのですから、もし天命があれば、いずれ遅くはないでしょう」と言った。道長は、「よくわかりました。しかしすでに帝のお心のうちで決まったことですから、今さら是非を論じることはできません。私も老い先短く、命の続くうちに、帝の御代の栄光を仰ぎたいというのが、この老いぼれの切なる願いなのです」と答えた。后はそれ以上何も言わなかった。后は入内して十余年、寵愛は深く親密で、いささかの嫌疑もなかった。天皇の崩御に及んでは、深く悲しみ嘆き、枇杷殿(びわどの)に退出して敦康親王・修子内親王を慈しみ育て、その恩愛は衰えることがなかった(注:栄華物語による)。長和元年二月、皇太后となった(注:日本紀略・大鏡裏書・今鏡・一代要記による)。寛仁元年、皇太子が皇太子の位を辞退し、道長は後朱雀帝を皇太弟に立てようとして、ひそかに后に相談した。后は、「かつて式部卿宮(しきぶきょうのみや、敦康親王)を立てなかったのは、先帝(一条帝)のご意向であって、それに背くことはできませんでした。今こそ、あの宮を推し立てるべきです。そうすれば先帝の志も遂げられ、あの宮のお気持ちも満たされましょう」と言った。道長は、「式部卿宮は賢明ではありますが、外戚の後ろ盾がありません」と答え、この話はついに立ち消えとなった(注:栄華物語による)。二年正月、太皇太后となった(注:大鏡裏書・今鏡・一代要記による)。十二月、敦康親王が薨去した。后はたいそう悲しみ嘆き、賻物(ふもつ)を贈って喪を助けた(注:栄華物語による)。万寿三年、髪を切って受戒し、法名を清浄覚(せいじょうかく)といった。上東門院(じょうとうもんいん)の号を奉られ(注:日本紀略・今鏡・大鏡裏書・女院小伝による)、「院」を称する女院の号はこれに始まる(注:今鏡・大鏡裏書・女院小伝による)。太皇太后宮職の官属をもって院の別当・判官代・主典代とし、年官・年爵・封戸、および四季の衣服や内膳の食事は、すべて従来どおりとされた(注:日本紀略・左経記による)。長元四年、后は石清水(いわしみず)に参詣し、さらに住吉社(すみよしのやしろ)・天王寺(てんのうじ)にも参り、関白以下の朝臣が供奉し、儀仗や車馬・衣装はきわめて華美をきわめた(注:小右記・日本紀略・栄華物語による)。長暦三年、尼となり、僧・明尊(みょうそん)のもとで再び受戒した(注:扶桑略記・大鏡裏書による)。かつて法成寺(ほうじょうじ)の東北の隅に一堂を建て、これを東北院(とうほくいん)と呼んだ。長久元年、後朱雀帝が東北院に后を訪ねた(注:扶桑略記による)。寛徳二年、天皇が崩御した。后は大きな悲しみに遭い、閑居しようとして頼通の白河別荘に移り、京極第(きょうごくてい)を中宮に与えた。後冷泉帝(ごれいぜいてい)の即位後も、崇敬は衰えず、朝臣の参詣は引きも切らなかった。しかしその別荘は人里離れて妖しいことが起こり、后や侍女が病にかかり、死ぬ者も出た。頼通はたびたび他所へ移るよう願ったが、后は聞き入れなかった。しばらくして病がちになり、美作守(みまさかのかみ)某の四条の邸に移り住んだ(注:栄華物語による)。永承五年、天皇が初めて東北院に后を訪ねた。法成寺の僧・明尊らに、封戸や位を賜った。七年、六条院(ろくじょういん)に住んでいたとき、体調を崩した。天皇が訪ねて見舞い、天下に大赦を行った(注:扶桑略記による)。これ以後、多くは東北院に住み、大女院(おおにょいん)と称して、陽明門院(ようめいもんいん)・二条院(にじょういん)と区別した(注:栄華物語による)。承保元年十月、法成寺の阿弥陀堂で崩御した。享年八十七(注:女院小伝には八十六、あるいは引用する為房記には八十五とするが、ここでは生年から甲子を推算し、扶桑略記・大鏡裏書・栄華物語・古事談に従う)。大谷本院(おおたにのほんいん)で火葬にした(注:扶桑略記・大鏡裏書による)。后は、歴代の天皇の御代にわたって母として仰がれ、幸福と長寿をともに兼ね備えていた。後世、后妃として貴く栄えた者を語るとき、彰子をもって第一とする(注:沙石集による)。

藤原義子

女御・藤原義子(ふじわらのぎし)は、太政大臣・藤原公季(ふじわらのきんすえ)の娘である(注:日本紀略・一代要記・歴代皇紀・栄華物語による)。長徳二年、後宮に入り(注:栄華物語は元年冬、元子の入内より後とするが、ここでは日本紀略・一代要記に従う)、まもなく女御となった(注:日本紀略・一代要記による)。長保二年、従三位を授けられ(注:一代要記による)、寛弘二年、従二位に進んだ(注:法成寺摂政記・一代要記による)。万寿三年、尼となった(注:日本紀略・一代要記による)。天喜元年閏七月、薨去した。享年八十(注:一代要記による。薨去の年は、本書に五十三歳で尼になったとある記述から逆算した)。弘徽殿女御と称された(注:栄華物語・法成寺摂政記による)。

藤原元子

女御・藤原元子(ふじわらのもとこ)は、左大臣・藤原顕光(ふじわらのあきみつ)の娘である(注:日本紀略・大鏡・一代要記・尊卑分脈による)。長徳二年、承香殿に入り住み(注:栄華物語は元年冬のこととするが、ここでは日本紀略・大鏡裏書・一代要記に従う)、女御となった(注:日本紀略・大鏡裏書・一代要記による)。承香殿女御と称された(注:大鏡・栄華物語・法成寺摂政記による)。もともと顕光は娘を宮中に入れようとしていたが、皇后(定子)がいたため果たせずにいた。道隆が薨去し、伊周が左遷され、皇后が宮中を退出すると、義子が入内し、元子もまたその選に与った。入内して寵愛を受けた。当時、天皇にはまだ後継ぎがなく、東三条院はつねに、「皇子を生んだ者だけを重んじよう」と言っていた。三年冬、元子は腹が張る症状を患い、懐妊したものと思われて顕光の邸に退出したが、輦に乗って弘徽殿の前を通ったとき、殿中の女房たちが簾を押し分けて争って見物すると、簾越しに腹が膨らんで見えた。元子の侍女がこれを見て、「簾だけが妊娠しているのです」と言ったので、見物人は驚きあきれた。元子は実家に帰ったが、予定の月日を過ぎても出産しなかった。顕光は元子にみずから広隆寺(こうりゅうじ)に参詣して祈願させ、数日間籠らせたところ、まるで出産が近いような状態になった。ところがまもなく水が出ただけで治ってしまい、元子は大いに恥じ入り、二度と宮中には入らなかった。世間ではこれを謡にして嘲笑った(注:栄華物語による)。長保二年、従三位を授けられ(注:法成寺摂政記・大鏡裏書による。一代要記は長徳三年とするが誤りである)、寛弘二年、従二位に進んだ(注:法成寺摂政記・大鏡裏書・一代要記による)。天皇の崩御後、参議・源頼定(みなもとのよりさだ)と密通した(注:大鏡裏書・栄華物語・一代要記による)。顕光は大いに怒り、みずから元子の髪を切って追い出した。元子は乳母の子である僧・実誓(じっせい)の家に身を寄せた。頼定はたびたび通い、ついに元子は髪を蓄えて子女を生んだ(注:栄華物語による)。

藤原尊子

女御・藤原尊子(ふじわらのそんし)は、関白・藤原道兼(ふじわらのみちかね)の娘である。道兼が天皇の乳母・藤原繁子(ふじわらのしげこ)と密通して尊子を生ませた(注:大鏡・栄華物語・一代要記による)。道兼には愛されず、母の実家に頼って育った。道兼の薨去後、繁子は尊子を入内させたいと願い出て、道長がその支度を助けた(注:栄華物語による)。長徳四年、宮中に入り(注:栄華物語は二年目のこととするが、ここでは日本紀略・大鏡裏書・一代要記に従う)、御匣殿別当(みくしげどののべっとう)となった。五年、従五位上を授けられ(注:一代要記による)、長保二年、女御となった(注:日本紀略・扶桑略記による)。寛弘元年、従四位上に進み、二年、正三位となった(注:大鏡裏書・一代要記による)。七年、従二位となった(注:一代要記による)。天皇の崩御後、大蔵卿(おおくらきょう)・藤原通任(ふじわらのみちとう)の妻となった(注:栄華物語・大鏡による)。