卷之二十一 本紀二十一
桓武天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
桓武天皇
¶桓武天皇は、諱を山部(やまべ)といい、光仁帝の長子である(注:長子とするのは日本紀略・一代要記による)。
¶母は皇太后高野氏(たかののうじ)という。天平九年にお生まれになった(注:生年は歴代皇紀、および日本紀略に崩年70歳とある記述による)。
¶天平宝字八年十月、従五位下に叙せられた。
¶天平神護二年十一月、位一階を進められ、まもなく大学頭となった。宝亀元年八月、従四位下に叙せられ、侍従となった。十一月、親王となった。二年三月、中務卿に任じられた。三年五月、皇太子が廃されたため、群臣は後継者を定めるよう奏上した。光仁帝は「酒人内親王(さかひとないしんのう)を立てるべきである」と仰せられた。参議藤原浜成(ふじわらのはまなり)は稗田親王(ひえだしんのう)の擁立を願い出た。参議藤原百川(ふじわらのももかわ)はただ一人天皇(桓武)を推し、強くその立太子を願い続けた。光仁帝はこれに従った(注:「群臣」以下は水鏡による)。翌年正月、ついに皇太子に立てられた。
¶天応元年四月三日辛卯、皇太子は禅譲を受けて天皇の位に即いた(注:水鏡・一代要記など諸書には、三日に禅譲を受け、二十五日に即位したとあるが、誤りである)。時に45歳であった(注:年齢は水鏡・愚管抄、および日本紀略に崩年70歳とある記述による。○案ずるに、帝王編年記は46歳とするが、誤りである)。右大臣大中臣清麻呂(おおなかとみのきよまろ)・内大臣藤原魚名(ふじわらのうおな)はいずれも留任した(注:公卿補任による)。四日壬辰、皇弟の早良親王(さわらしんのう)を皇太子に立てた。十一日己亥、使者を大神宮(伊勢神宮)に遣わして即位を告げた。十四日壬寅、中納言藤原田麻呂(ふじわらのたまろ)が皇太子傅を兼ねた。十五日癸卯、生母である夫人高野氏を尊んで皇太夫人とする詔を下し、諸社の神官に位一級を賜い、僧綱および僧尼に品物を賜い、高齢で困窮する者や孝行・義理に厚い者を救済し、天下のその年の田租を免じ、群臣にそれぞれ位を進めた。五月四日壬戌、地震があった。十三日辛未、再び地震があった。十六日甲戌、伊勢国から「鈴鹿関(すずかのせき)の城門が自然に鳴った」との報告があった。十七日乙亥、皇太夫人のために中宮職を置いた。六月戊子の朝、詔してこう仰せられた。「先王が官職を設けるにあたっては、人の才能を量ってこれを授け、職員には定員があった。その後、政務がしだいに繁雑になり、ついに定員外の官を置くようになった。近ごろではこれが慣例となり、民がその弊害を受けている。朕はこのたび帝位を承け、天下に君臨するにあたり、人民のことを思い、深く慈しみ育てたいと考えている。その害を除き、仁寿の世に導きたい。およそ内外の文武官は、常置の定員を除いて、すべて解任せよ。ただし郡司・軍毅はこの限りではない。また地方の国司には、朝廷の委任に背く者が多い。ある者は正倉の不足を把握せぬまま公廨(くがい)を用い、ある者は法を畏れず百姓から貪り取っている。不正の甚だしい者は、任期が満ちていなくても、事情に応じて降格せよ。今後、内外の官人で、身を清く慎み、事に当たって公正な者は、担当の役所がよく調べた上で、然るべき官職を授けよ。在職中に貪欲で乱れた振る舞いのある者は、巡察の使者を遣わして調べ、黜陟(ちゅっちょく)せよ。かくして濁れるものを退け清きものを挙げ、浮薄な風俗を当代のうちに改め、国を憂い民を撫育して、古の淳朴な風を取り戻したいと思う。」十二日己亥、地震があった。十八日乙巳、流罪となっていた弓削浄人(ゆげのきよひと)・広方(ひろかた)らを赦した。二十二日己酉、地震があった。二十三日庚戌、右大臣大中臣清麻呂が退任した。二十四日辛亥、太白(金星)が昼に見えた。二十七日甲寅、内大臣藤原魚名を左大臣とし、中納言藤原田麻呂を大納言として近衛大将を兼ねさせ、中納言藤原是公(ふじわらのこれきみ)を式部卿として中衛大将を兼ねさせた。この日も、太白が昼に見えた。秋七月五日壬戌、詔してこう仰せられた。「朕は不徳の身でありながら大業を受け継いだ。陰陽の調和はいまだ整わず、炎暑と旱魃が幾月も続いている。民の父母たる身でありながら、この天の譴責(けんせき)を受けたことは、至誠を尽くしてもなお恵みの雨に浴していない。囚人たちのことを思うと、格別に憐れむべきである。天下に大赦を行う。」六日癸亥、駿河国から「富士山が灰を降らせた」との報告があった。十九日丙子、河内国から「尺度池(さかとのいけ)の水が血のように赤く、ひどく生臭い」との報告があった。八月二十五日辛亥、陸奥按察使(あぜち)藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)が凱旋した。冬十月十日乙未、地震があった。二十五日庚戌、下総国の女性が一度に三子を出産したので、乳母と穀物を賜った。十一月三日丁巳、地震があった。八日壬戌、近江国から「木が連理(れんり、枝が他の木とつながること)になった」との報告があった。十三日丁卯、大嘗祭を行った。二十七日辛巳、地震があった。十二月十三日丙申、再び地震があった。十七日辛丑、三品稗田親王が薨じた。二十日甲辰、詔してこう仰せられた。「朕は不徳の身でありながら、かたじけなくも大いなる基業を承けた。朝早くから夜遅くまで、政道を求めて己を励まし心を労し、志は孝敬にある。しかしまごころを尽くしても、いまだ天に感応するに至らない。このごろ、太上天皇(光仁上皇)の御体がすぐれず、宗廟社稷にあらん限りの祈りを捧げ、幣帛を重ねて奉ったが、幾度も月が改まってもなお効験が見られない。思うに、朕の徳の薄さが責めを負うべきである。事にあたって過ちを思い、天を戴いて恥じ恐れる思いである。生あるものの中で、人ほど重いものはない。刑罰に誤りがあれば、冤罪の感情を招く。恵みの沢を降らして、聖躬の御平癒を助けたいと思う。天下に大赦を行うべきである。通常の赦しでは免れない者も、すべて赦免せよ。」二十三日丁未、太上天皇が崩御した。詔してこう仰せられた。「朕はまごころを尽くしても天の感応を得られず、にわかにこの大きな悲しみに至った。痛切の情はいつまでも纏わりつき、終生の憂いは深く結ばれている。三年の諒闇(りょうあん、喪に服すこと)によって、この計り知れない恩に報いたいと思う。しかし群卿はみな『宗廟は軽んじてはならず、政務こそ重い。後の奈保山(ならやま)の朝廷(元明・元正両帝の先例)に準じて、すべての政務を平常どおりに執り行うべきである』と申し上げる。朕は、父君を亡くした悲しみがいまだ変わらず、深い痛みが尚深いゆえに、ただちに吉に服することは忍びない思いである。天下に喪服を著させ、六月をもってこれを解くこととする。今月二十五日より、諸国の郡司は、庁の前で三日間哀悼の儀を行え。遠国はこの命令書が到着した日を起点とせよ。」二十四日戊申、地震があった。二十六日庚戌、南院の兵庫(武器庫)が鳴った。二十七日辛亥、勅してこう仰せられた。「先に群卿が『天下に喪服を著させるのは六月を限りとする』と奏上したことに従ったが、朕の孝心は効なく、慈しみの陰はいつまでも失われたままである。霜に色づく葉を見ては父君を慕う思いを結び、再びそのお顔を仰ぐ日はなく、風にそよぐ枝を遠く思っては、ついにお仕えする機会を失った。終生の痛みは常に深く、喪の限りを尽くしたいという思いはいよいよ切実である。先の勅で定めた政務再開の期限を、一年に改める。」(注:続日本紀による)
¶延暦元年壬戌、春正月七日庚申、光仁天皇を葬った。癸未の晦日、大祓を行ったが、百官は喪服を脱がなかった。閏月十三日丙申、地震があった。十四日丁酉、因幡守氷上川継(ひかみのかわつぐ)が謀反を企てた。事が発覚し、伊豆国三島(みしま)に流された。その一党三十五人も官位を落とされ退けられた。十五日戊戌、地震があった。二月十八日辛未、空中で雷のような音がした。十九日壬申、地震があった。三月九日辛卯、虹が日をめぐった。二十六日戊申、従四位下三方王(みかたおう)とその妻弓削女王(ゆげのじょおう)、正五位下山上船主(やまのうえのふなぬし)が、共謀して天皇を呪詛した。詔して「三方王・弓削女王を日向(ひゅうが)に、船主を隠岐(おき)に流す」とされた。夏四月十一日癸亥、詔してこう仰せられた。「朕は天下に君臨し、人民を慈しみ育てるにあたり、無用の造営をやめて農事に力を注がせ、政は倹約を旨とし、財を倉庫に満たそうと思う。今、宮室は住むに堪え、調度は用に足り、仏寺の造営もほぼ終わり、銭の価もすでに適正となった。造宮省・勅旨省の二省、および法花寺司・鋳銭司の両司を廃止し、その費用を国庫の財に充て、質素の徳を尊ぶこととする。造宮・勅旨両省に属する諸職の工匠は、その才能に応じて木工寮・内蔵寮などに配属し、残りは元の官司に戻せ。」十三日乙丑、白狐が重閣門に現れた。十六日戊辰、使者を畿内に遣わして雨乞いをさせた。二十七日己卯、畿内の兵士の調(ちょう)を免除する勅を下した。五月十二日甲午、陸奥国奥郡の百姓がたびたび戦乱に遭ったことから、三年間の租税免除を勅で定めた。六月十四日乙丑、左大臣藤原魚名が事件に連座して罷免された。この日、地震があった。二十一日壬申、大納言藤原田麻呂を右大臣とした。秋七月三日甲申、雷雨があった。大蔵省の東長蔵が火災に遭い、内厩寮の馬が雷に打たれて二頭死んだ。十一日壬辰、雑色長上(ぞうしきちょうじょう)五十四人を解任し、餅戸(もちこべ)・散楽戸(さんがくこべ)を廃止した。二十五日丙午、詔してこう仰せられた。「朕は不徳の身でありながら天下に臨んでいる。万民がまだ安らかでないことを憂え、ひとつのものでも居所を失うことを憐れむ。まして去年は不作で、家財の尽きた家がしだいに多くなり、今年は疫病があって、若くして死ぬ者も少なくない。民の父母たる身でありながら、その撫育の術を誤っている。これを思うにつけ、恥じる思いである。また彼らに罪があるとしても、その責めは深く朕にある。すべてを洗い清めるのでなければ、どうして自らを新たにできようか。天下に大赦を行うべきである。」この日、地震があった。二十七日戊申、天皇は勅旨宮(ちょくしのみや)にお移りになった。二十九日庚戌、公卿が「このごろ災異がしきりに起こり、不吉な兆しがたびたび現れています。そこで亀卜と筮竹によってその理由を調べさせたところ、神祇官・陰陽寮はいずれも『今、天下は喪服を著けて例のとおり祭祀を行っているため、伊勢大神および諸神の祟りとなっています』と申しています。しかし陛下は至孝の心から喪服を全うされようとしています。神の道はまことに侮りがたく、御体の不調を招くのではと恐れます。伏してお願い申し上げますに、社稷のことをお考えいただき、喪服をお脱ぎになって、神の御心にかなうようになさってください」と奏上した。詔してこう仰せられた。「朕は父君を亡くした悲しみがいまだ癒えず、昨日のように深い痛みを覚え、まさに諒闇を遂げてこの計り知れない恩に報いようとしていた。しかし群卿がたびたび、宗廟社稷を理由として奏上する。やむを得ず、その奏上のとおりに従うこととする。諸国で喪服を脱ぐ者は、祓いの使者が到着するのを待ってから脱げ。酒を飲み音楽を奏で、華美な衣を著てはならない。」八月一日辛亥、百官が喪服を脱いだ。十九日己巳、詔してこう仰せられた。「殷・周以前には、まだ年号がなかった。漢の武帝に至って、初めて建元と称するようになった。それより後、歴代の王朝はこれに倣ってきた。それゆえ、先帝の後を継いだ君主や禅譲を受けた主は、即位して年号を新たにし、瑞祥を賜って号を改めない者はいない。朕は徳が薄いながらも大いなる基業を受け継ぎ、すでに歳月を経たが、いまだ新しい年号を施していない。今、宗廟社稷が霊を降し、幽明ともに福をもたらし、穀物は豊作となり、瑞祥がしきりに現れている。万国とともにこの喜ばしい兆しを慶びたいと思う。天応二年を改めて延暦元年とする。天下の位ある者、諸社の神官、内外の文武官で笏(しゃく)を持つ者には、位一級を賜う。」冬十一月十三日辛卯、日をはさんで虹のような形の光気が現れた。日の上にも光気があり、長さは二丈ほどであった。十二月二十四日壬申、詔してこう仰せられた。「朕は諒闇を解いたとはいえ、哀しみの情はなお深い。父君を亡くした悲しみは季節が変わるごとに増し、景色が改まるたびに親を思う情はいよいよ切実である。来年の元日、朝賀の礼は停止すべきである。」この年、和泉・武蔵・淡路・土佐で飢饉があり、これを救済した。
¶二年癸亥、春正月一日戊寅、朝賀を廃した。二十三日庚子、地震があった。三月十九日丙申、右大臣兼近衛大将皇太子傅藤原田麻呂が薨じた。夏四月十八日甲子、夫人藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)を皇后に立てた。十九日乙丑、坂東諸国に勅してこう仰せられた。「異民族が夏の機に乗じて乱を起こすことは、古よりあることである。武力によらずして、どうして民の害を除けようか。有苗(ゆうびょう)への遠征や獫狁(けんいん)への討伐を思えば、先王が兵を用いたのにはまことに理由があった。このごろ蝦夷の俘囚が猛り狂い、辺境の守りが崩れたため、やむを得ず軍を幾度も動かしてきた。そのため坂東の地では、たえず徴発に苦しみ、耕作に携わる者も長らく物資の輸送に疲れている。この労苦を思うと、朕は深く憐れんでいる。使者を遣わして慰問し、倉を開いて手厚く支給せよ。東国の者たちよ、皆この朕の心を知れ。」六月一日丙午、出羽国から「雄勝(おがち)・平鹿(ひらか)の二郡が賊に略奪され、疲弊が甚だしい」との報告があった。勅して三年間の租税免除を定めた。十日乙卯、京畿での寺院の私的な造営を重ねて禁ずる勅を下した。秋七月十九日甲午、大納言藤原是公を右大臣とした。冬十月十四日戊午、交野(かたの)に行幸し、鷹狩りをして遊猟した。十六日庚申、詔して「交野郡のその年の田租を免じ、高齢者と従者に物を賜う」とされた。十八日壬戌、車駕は宮に還った。十一月一日甲戌、日食があった。十二月六日戊申、富裕な者が銭財を貸し付けて貧しい者の宅地を質に取ること、および京の諸寺が利益を貪って宅地を質に取ることを禁ずる勅を下した。
¶三年甲子、春二月二十四日乙丑(注:本書は己丑とするが、今は甲子から推算して訂正した)、従三位大伴家持(おおとものやかもち)を持節征東将軍とし、従五位上文屋与企(ふんやのよき)を副将軍とした。夏五月十三日癸未、摂津職から「蝦蟇(がま)二万匹ほどが、難波の市から四天王寺に入った」との報告があった。十六日丙戌、中納言藤原小黒麻呂・従三位藤原種継(ふじわらのたねつぐ)らを遣わし、山背国乙訓郡(おとくにぐん)長岡村の地相(ちそう)を見させる勅を下した。二十四日甲午、摂津職が白燕(はくえん)を献じた。六月十日己酉、使者を長岡に遣わし、都城の造営に着手し、宮殿を造り始めた。十二日辛亥、普光寺の僧が赤烏(せきう)を献じた。十三日壬子、参議近衛中将紀船守(きのふなもり)を賀茂大神社に遣わし、幣帛を奉って遷都を告げさせた。秋七月四日癸酉、山崎橋を修造した。九月五日癸酉、京で大雨があり、民家が壊れたので、これを救済した。二十七日乙未、太白が昼に見えた。閏月十日戊申、河内国茨田郡(まんだぐん)の堤が決壊し、単功(たんこう、雇役の人夫)六万四千余人を動員して築いた。十七日乙卯、右大臣藤原是公の田村第(たむらのてい)に行幸して宴を催した。冬十月二十一日戊子、越後国から「蒲原郡の人、三宅笠雄麻呂(みやけのかさおまろ)が私財の稲を分け与えて寒さと飢えを救い、道や橋を修めて難所を助けた」との報告があり、従八位上を授けた。丁酉の晦日、勅してこう仰せられた。「聞くところによれば、京には盗賊が多く、物を奪って火を放つという。隣保に命じて、令の条文どおりに非違を検察させよ。遊食し博打にふける者は、蔭位や贖罪によらず、杖一百に処せ。放火や強奪の類は、必ずしも通常の法に拘らず、死刑をもって懲らしめよ。よく取り締まって、悪事を根絶せよ。」十一月一日戊戌、冬至であった。公卿以下に物を賜い、京畿のその年の田租を免ずる勅を下した。三日庚子、詔してこう仰せられた。「民は国の本であり、本が固まってこそ国は安らかである。民の頼るところは、農業と養蚕にほかならない。このごろ諸国の国司らは、政に偏りが多く、撫育の道に背いていることを恥じず、ひたすら民から搾り取る巧みさばかりを恐れている。ある者は広く林野を占有し、ある者は田園を多く経営し、百姓は疲弊している。この理由により、禁制を加えて、貪欲で濁った風を懲らし改めるべきである。今後、国司らは公廨田(くがいでん)以外に新たに水田を経営してはならず、また私に開墾を貪って百姓の農桑地を侵してはならない。もし違犯する者があれば、開墾した地とその収穫はすべて没収し、直ちに現職を解いて、勅に背いた罪に処す。」十一日戊申、天皇は長岡宮にお移りになった(注:本書は甲子とするが、干支の順序が乱れている。今は水鏡・日本紀略に従う)。二十八日乙丑、賀茂下社・上社、および松尾社・乙訓社の四社を修造した。十二月二日己巳、詔して「造宮に功労のあった者に位を賜い、役夫を貢進した国のその年の田租を免ずる」とされた。六日癸酉、使者を畿内七道に遣わして大祓を行い、天神地祇に幣帛を奉った。十三日庚辰、詔して「王臣諸司、および寺家が山林・藪沢(そうたく)を併せ持って、その利を独占することを禁ずる。諸氏の家墓は、伐り損なってはならない」とされた。
¶四年乙丑、春正月一日丁酉、大極殿に出御して朝賀を受けた。十五日辛亥、参議紀船守が近衛大将を兼ねた。二十二日戊午、安房国から「大魚五百余りが海岸に漂着した」との報告があった。夏四月三十日甲午、赤雀(せきじゃく)が皇后宮に集まり、十日ほど去らなかった。五月三日丁酉、詔してこう仰せられた。「臣下たる者の礼として、必ず君の諱(いみな)を避けねばならない。このごろ、先帝の御名および朕の名が、公私にわたって触れ犯されている。今後は、みな諱を避けるべきである。」そこで白髪部(しらがべ)の姓を真髪部(まかみべ)に改め、山部を山代(やましろ)に改めた(注:本書はここで「代」の字を欠くが、今は日本紀略によって補った)。十九日癸丑、赤雀の瑞祥により、詔して「内外の文武官で笏を持つ者に位一級を賜い、山背国のその年の田租を免ずる」とされた。二十六日庚申、使者を畿内に遣わして雨乞いをさせた。二十七日辛酉、地震があった。六月二十四日丁亥、京畿七道に勅して「戸口を検括し、浮浪人を調べよ」とされた(注:「六月」以下は類聚三代格による)。秋七月二十日癸丑、勅して「徳行のある僧尼を記録して上申せよ」とされた。また勅して「造宮の役夫には、その功に応じて報酬を給うべきである」とされた。そこで諸国の百姓三十一万四千人を雇役した。八月二十四日丙戌、平城宮(へいじょうきゅう)に行幸した。九月三日乙未、地震があった。七日己亥、朝原内親王(あさはらないしんのう)を遣わして大神宮に奉仕させた。八日庚子、水雄岡(みずおのおか)で狩りをした。二十三日乙卯、賊が中納言藤原種継を射殺した。二十四日丙辰、車駕は平城から戻り、「賊党を捜索し捕らえよ」との勅を下した。取り調べの結果、事件は皇太子(早良親王)に関係していることが判明した。首謀者の左少弁大伴継人(おおとものつぐひと)を誅し、その一党を斬罪あるいは流罪とした。二十八日庚子、皇太子を廃し、乙訓寺(おとくにでら)に幽閉した(注:「二十八日」以下は日本紀略による)。冬十月四日丙寅、使者を遣わして畿内の田を検分させた。八日庚午、使者を山科田原(やましなのたはら)の後佐保陵(のちのさほのみささぎ、光仁天皇陵)に遣わし、皇太子廃位を告げ、ついに淡路国に流した。早良親王は道中で亡くなった(注:「遂流」以下は日本紀略・水鏡による)。二十七日己丑、河内国の堤が決壊した。単功三十余万人を動員してこれを築いた。十一月八日庚子、能登守三国広見(みくにのひろみ)が謀反を誣告した罪により、佐渡に流された。十日壬寅、交野柏原(かたののかしわばら)で天神を祀り、前に祈った願いが叶ったことに謝した。二十五日丁巳、皇子安殿親王(あてしんのう)を皇太子に立て、天下に大赦を行った。大納言中務卿藤原継縄(ふじわらのつぐただ)を皇太子傅とした。この年、周防国で飢饉と疫病があった。出羽・丹波は穀物が実らず、百姓が飢えた。河内で洪水があった。遠江・下総・常陸・能登で大風により作物が損なわれた。いずれも救済した。
¶五年丙寅、春正月二十一日壬子、梵釈寺(ぼんしゃくじ)を造営した。二十八日己未、地震があった。夏五月三日辛卯、京の都が新たに造られ、民がまだ豊かでないことから、詔して左右京および東西の市の人々に、それぞれ物を賜った。六月一日己未、勅してこう仰せられた。「百姓を撫育し、管内を糾察するのは、国司・郡司がともに掌るところである。このごろ正倉に火災があると、郡司のみを罰し、国守を罰さないのは、どうして法の趣旨にかなおうか。今後は国司らの公廨を没収し、失った官物を償わせよ。郡司については、大赦の対象としない。」秋七月十九日丙午、太政官院が完成し、百官が初めて朝座に就いた。八月八日甲子、蝦夷征討のため、従五位下佐伯葛城(さえきのかつらぎ)を東海道に、紀勝長(きのかつなが)を東山道に遣わし、軍士を選び、武具を検分させた。冬十月二十八日甲申、光仁天皇を改葬した。この年、渤海(ぼっかい)が朝貢してきた。
¶六年丁卯、春正月二十一日丙午、陸奥按察使に勅して、王臣の官人や百姓が蝦夷の俘囚と交易することを禁じた(注:類聚三代格による)。三月二十日甲辰、詔してこう仰せられた。「老を養う道義は、古の聖賢に著され、歴代の帝王はみなこの道に従ってきた。今まさに農耕の季節にあたり、民は田畑に励んでいる。人民を顧みるにつけ、深く憐れみの情を覚える。京畿七道の民で八十歳以上の者に穀物を賜い、鰥寡孤独(かんかこどく、身寄りのない者)や病弱の者には、長官が自ら郷里に赴いて心をこめて救済させよ。」夏四月十六日庚午、山背国が白雉(はくち)を献じた。秋七月八日己未、太白が昼に見えた。八月二十四日甲辰、高椅津(たかはしのつ)に行幸し、帰路に大納言藤原継縄の邸を訪れた。冬十月八日丁亥、詔してこう仰せられた。「朕が天下に君臨してから、すでに七年になるが、いまだ万民をあまねく良い教化に浴させ、国中をことごとく安らかな世に至らせることができていない。思うにこれは朕の徳の薄さによるもので、まことに恥じ嘆かわしい。しかし今年は天下が豊作となったので、百姓とともにこの豊年を慶びたいと思う。天下の高齢者に穀物を賜い、鰥寡孤独や病人を救済せよ。乙訓郡のまだ納められていない出挙(すいこ)は免除する。」十七日丙申、交野で狩りをした。二十日己亥、宮に還った。十一月五日甲寅、大納言藤原継縄を遣わし、交野で天神を郊祀(こうし)し、光仁帝を配祀した。
¶七年戊辰、春正月十五日甲子、皇太子が前殿で元服の儀を行い、天下に大赦を行った。二月二十八日丙午、陸奥按察使多治比宇美(たじひのうみ)が鎮守将軍を兼ねた。三月二日庚戌、陸奥国多賀城(たがじょう)へ兵糧を運ぶ勅を下した。三日辛亥、坂東諸国の歩兵・騎兵五万二千八百余人を徴発し、翌年三月を期限として多賀城に集結させ、蝦夷を征討させることとした。夏四月三日庚辰、使者を畿内に遣わして雨乞いをさせた。十日丁亥、丹生川上(にうかわかみ)に馬を奉って雨乞いをした。十一日戊子、五畿内に勅してこう仰せられた。「このごろ日照りが幾月も続き、溝や池の水が乏しくなっている。担当の役所に命じ、王臣の家の田であるかを問わず、水のある所では百姓に播種を許せ。農の時期を失ってはならない。」十六日癸巳、去年の冬から雨が降らず、五月に及んだ。この日、日照りであった。天皇は沐浴し、庭に出て自ら雨を祈った。たちまち雨が降り注いだ。群臣は舞い踊り、万歳を唱えた。そこで五位以上に御衾(ふすま)と衣を賜った。五月二日己酉、詔して「使者を遣わして伊勢神宮および七道の名神に雨乞いをさせよ」とされた。この夕べ、大雨が降った。秋七月四日己酉、太宰府から「去る三月、大隅国曾乃峯(そのみね)が、雷のような音を響かせて噴火した」との報告があった。六日辛亥、参議中衛中将紀古佐美(きのこさみ)を征東大将軍とした(注:公卿補任では、征東を征夷に作る)。二十八日癸酉、前右大臣大中臣清麻呂が薨じた。九月二十六日庚午、詔してこう仰せられた。「朕はいたらぬ身でありながら、かたじけなくも大業を承け、水陸の便のよい長岡に都を建てた。しかし宮室はまだ完成せず、造営の事業がなお多い。徴発の苦しみは、多く百姓に及んでいる。今聞くところによれば、『造宮の役夫は粗末な衣も満足に着られず、多くが痩せ弱っている』という。朕は深く心を痛めている。役夫を出した国では、今年の出挙(すいこ)について、正税・公廨(くがい)を問わず、すべてその利息を減じよ。」冬十月二日丙子、雷雨と暴風があり、民家が壊れた。この年、僧最澄(さいちょう)が比叡山(ひえいざん)に根本中堂(こんぽんちゅうどう)を創建した(注:「是歳」以下は水鏡・一代要記・歴代皇紀・天台座主記による)。
¶八年己巳、春正月一日甲辰、日食があった。二十八日辛未、勅して「大学寮の学生で、年齢三十歳に満たない者は任用してはならない」とされた(注:「二十八日」以下は類聚三代格による)。二月二十七日庚子、西宮から移り、初めて東宮にお入りになった。三月九日辛亥、諸国の軍士が多賀城に集結し、道を分けて賊を討った。十日壬子、使者を遣わして大神宮に幣帛を奉り、蝦夷征討を告げた。秋七月十四日甲寅、伊勢・美濃・越前などの国に勅してこう仰せられた。「関所を設けるのは、もともと非常時に備えるためである。今、正朔(せいさく、暦法)の及ぶところ、天下に隔てはなく、いたずらに険しい関を設けて防御に用いる必要はない。かえって中央と地方を隔絶させ、通利の便を失わせ、公私の往来にはいつも滞留の苦しみを招いている。政務の益はなく、民の憂いを深めるばかりである。前の弊害を改め、時に応じて融通をきかせるべきである。三国の関は、すべて停廃せよ。所蔵する兵器・食糧は国府に運び収め、それ以外の館舎は便利な郡に移し建てよ。」八月三十日己亥、勅して「陸奥国から出征した者のその年の田租を免じ、二年間租税を免除する」とされた。九月八日丁未、征東大将軍紀古佐美が陸奥から帰還した。十九日戊午、勅して「古佐美らが逗留して戦に敗れた罪を責め、鎮守副将軍池田真枚(いけだのまひら)・安倍黒縄(あべのくろなわ)らの官職を解く」とされた。右大臣兼中衛大将藤原是公が薨じた。冬十月十日戊寅、大納言藤原継縄が中衛大将を兼ねた。二十三日辛卯、従五位下巨勢野足(こせののたり)を陸奥鎮守副将軍とした。十二月二十三日庚寅、勅して「このごろ中宮の御体がすぐれないので、天下の諸寺に大般若経を読ませよ」とされた。二十八日乙未、中宮高野氏が崩じた(注:案ずるに、本書には皇太后の崩御と書かれているが、皇太后の尊号を追贈したのは翌年のことである。今はその実に従い、中宮と記す)。この年、伊賀・伊勢・志摩・安房・下野・美作・備後・紀伊で飢饉があり、これを救済した(注:帝王編年記には、この年、天皇が住吉社に行幸したとあるが、本書および日本紀略などには見えないため、採らない)。
¶九年庚午、春正月十五日壬子、皇太后(高野氏)を葬った(注:案ずるに、本書には九年に皇太后の尊号を追贈したとあるが、月日を記していない。また正月十四日辛亥に誄(しのびごと)を奉って諡号を贈ったとある。これによれば、追尊もこの時であったのだろう)。二月二十七日甲午、大納言藤原継縄を右大臣とした。三月三日庚子、節会の宴を停止した。閏月四日庚午、蝦夷征討のため、坂東諸国に革甲(かわよろい)二千領を三年を期限として造らせる勅を下した。十日丙子、皇后藤原氏(乙牟漏)が崩じた。十一日丁丑、天皇は近衛府にお移りになった。十六日壬午、詔してこう仰せられた。「朕は徳の乏しい身で天下に臨んでいるが、国の哀しみが相次ぎ、災いや異変がやまない。禍を転じて福となすには、徳政をまず第一とすべきである。仁恩を広く施し、安穏をもたらしたいと思う。天下に大赦を行うべきである。延暦三年以前の、天下の未納の租や調庸は、すべて免除する。」二十八日甲午、皇后を葬った。二十九日乙未、蝦夷征討のため、坂東諸国に糗糒(きゅうび、乾飯)十四万斛を備えさせる勅を下した。夏四月五日辛丑、太宰府に鉄冑(てっちゅう)を造らせる勅を下した。五月二十一日丙戌、使者を畿内に遣わして雨乞いをさせた。二十九日甲午、詔して畿内の名神に幣帛を奉り雨乞いをさせた。六月十三日戊申、諒闇のため、神今食(じんこんじき)を神祇官曹司で行った(注:案ずるに、神今食の起源は詳らかでない。公事根源には、元正帝の霊亀二年六月に神今食を初めて行った、とあるが、何に拠るのか分からない。史書に見えるのはここに始まる。当時すでに恒例の儀式となっていたと見え、これ以後は記されない)。秋九月三日丙寅、皇太子の病のため、京の七寺で読経させる勅を下した。十一日甲戌、相嘗(あいんべ)の幣帛を太神宮に奉った。諒闇のため、大極殿には出御しなかった。十三日丙子、詔してこう仰せられた。「朕は徳が乏しく愚かな身でありながら、かたじけなくも天下を治めている。夜明け前から夜遅くまで政務に励み、心は撫育にある。しかし調和は行き届かず、炎暑と旱魃が災いをなし、田畑は治まらず、農地の多くが荒れている。豊作・凶作には時があるとはいえ、その責めは深く朕にある。聞くところによれば、京畿の不作は地方の国よりも甚だしく、また疫病と飢饉があるという。京畿のその年の田租を免ずるべきである。」十六日己卯、摂津職が白鼠(はくそ)を献じた。冬十月二日甲午、鋳銭司(じゅせんし)を復置した。十四日丙午、道守東人(みちもりのあずまひと)を禁中に召し見た。年齢は百二十二歳(注:日本紀略には百十二歳とある)で、顔は少年のようであった。衣服を賜ってこれを帰した。十九日辛亥、蝦夷征討に功のあった者四千八百四十余人を賞し、勲位を授けて位を進めた。二十日癸丑、太政官が「蝦夷が法を犯し、長らく王の誅罰を逃れてきましたが、大軍が奮い撃っても、残党はいまだ絶えません。坂東の国々は、長らく軍役に苦しんでいます。壮健な者は筋力を疲れさせ、貧しく弱い者は物資の輸送に困窮しています。しかし他の諸国の百姓は、まだ徴発されていません。あまねき天下の民は、みな同じく皇民です。事を起こすにあたって、どうして労苦を均等にしないのでしょうか。京畿・七道の諸国司らに命じ、土着の民・浮浪人・王臣の民・佃戸を問わず、甲を造る費用を負担できる財力のある者を調べ記録させ、その蓄えた物の数量と郷里・姓名を上申させることを請います」と奏上し、天皇はこれを裁可した。十一月十五日丁丑、地震があった。十七日己卯、諒闇のため、新嘗祭を神祇官で行った。二十七日己丑、兵役と疫病と旱魃のため、詔して坂東諸国のその年の田租を免じた。十二月十三日甲辰、地震があった。この年、和泉・参河・遠江・近江・美濃・飛騨・上野・丹波・伯耆・播磨・美作・備前・備中・紀伊・淡路・阿波、および太宰府管内で飢饉があり、いずれも救済した。秋から冬にかけて、豌豆瘡(えんどうそう、疱瘡の類)が流行し、京畿で最も甚だしかった。
¶十年辛未、春正月一日壬戌、朝賀を廃した。十八日己卯、蝦夷征討を計画し、正五位上百済俊哲(くだらのしゅんてつ)・従五位下坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を東海道に、藤原真鷲(ふじわらのまわし)を東山道に遣わし、兵士と武具を検閲させた。二月二十一日辛亥、陸奥介文室大原(ふんやのおおはら)が鎮守副将軍を兼ねた。三月六日丙寅、詔して「吉備真備(きびのまきび)・大和長岡(やまとのながおか)らが刪定(さんてい)した律令を初めて施行する」とされた。十七日丁丑、右大臣以下、五位以上に甲を造らせる勅を下し、その数にはそれぞれ差をつけた。二十三日癸未、太政官が「今、国忌の日が多く、朝政が空しく廃されています。喪の親等が尽きた者(遠い縁者)については除くことを請います」と奏上し、天皇はこれに従った。二十六日丙戌、京畿・七道の国司・郡司に甲を造らせる勅を下した。夏四月十八日戊申、使者を遣わして山背国の諸寺の仏塔を修理させた。二十七日丁巳、車駕は弾正尹神王(だんじょうのかみじんのう)の邸に行幸し、宴を催した。五月五日乙丑、諸国の旱魃と疫病により、節会の宴を停止した。六月一日庚寅、日食があった。二十六日乙卯、丹生川上神に馬を奉った。秋七月一日庚申、畿内の名神に幣帛を奉り、雨乞いをした。十三日壬申、従四位下大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大使とし、正五位上百済俊哲・従五位上丹治比浜成(たじひのはまなり)・従五位下坂上田村麻呂・巨勢野足を副使とした。二十二日辛巳、伊予国が白雀(はくじゃく)を献じた。二十七日丙戌、鷹戸(たかべ)を廃止した。八月三日辛卯、賊が大神宮の正殿・財殿および門・垣を焼いた。五日癸巳、畿内班田使(はんでんし)を置いた。十四日壬寅、参議中衛大将紀古佐美・神祇伯大中臣諸魚(おおなかとみのもろうお)らを伊勢に遣わし、幣帛を奉って神宮の火災を謝し、また使者を遣わして神殿を修造させた。九月十七日甲戌、平城宮の門を移して長岡宮に移築した。伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊などの百姓が、牛を殺して漢神(からかみ)を祭ることを禁じた。二十三日庚辰、征夷副使百済俊哲が陸奥鎮守将軍を兼ねた。冬十月十日丁酉、交野で遊猟した。十三日庚子、宮に還った。二十五日壬子、東海・東山二道の諸国に、征箭(そや、戦用の矢)を作らせる勅を下した。二十七日甲寅、皇太子が大神宮に詣で、以前に祈った願いが叶ったことに謝した。十一月三日己未、坂東諸国に糗糒十二万余斛を備えさせる勅を下した。十一日丁卯、皇太子が伊勢から帰った。この年、紀伊・豊後・日向・大隅で飢饉があり、すべて救済した。
¶十一年壬申、春正月九日甲子、猪隈院(いのくまいん)に出御し、五位以上の射を観て、的中した者に銭を賜った(注:類聚国史・日本紀略による)。二十日乙亥、登勒野(とうろくの)で狩りをした(注:類聚国史による)。二十七日壬午、地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。二十九日甲申、白い気が日を貫いた(注:日本紀略による)。二月六日辛卯、水生野(みなせの)で狩りをした。十八日癸卯、大原野(おおはらの)で狩りをした(注:類聚国史・日本紀略による)。二十七日壬子、栗前野(くりくまの)で狩りをし、ついで故右大臣藤原是公の別業(別荘)に行幸した(注:類聚国史による)。二十八日癸丑、諸衛府に命じて平城の故宮を守らせた(注:日本紀略による)。甲寅の晦日、車駕は京師を巡り、ついで兵部大輔藤原乙叡(ふじわらのおとえい)の邸に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。三月十一日乙丑、椙谷(すぎたに)に行幸した(注:日本紀略による)。二十一日乙亥、美作国が白雉を献じた。二十四日戊寅、大神宮を修造した(注:類聚国史・日本紀略による)。この日、曲宴(私的な宴)を催し、五位以上にそれぞれ銭を賜った(注:類聚国史による)。夏四月二日丙戌、大納言兼近衛大将紀船守が薨じた。二十一日乙巳、参議大中臣諸魚を近衛大将とした(注:日本紀略・公卿補任による)。五月六日己未、幾年にもわたる旱害のため、騎射を停止した。十七日庚午、葛野川(かどのがわ)に行幸し、右大臣藤原継縄の別業にお入りになった。六月一日甲申、寒さが冬のようで、人によっては綿入れを著た。五日戊子、畿内の名神に幣帛を奉り、皇太子の病の平癒を祈った。二十二日乙巳、雷雨と大水があり、式部省の南門が倒れた(注:日本紀略による)。秋七月二十七日庚辰、勅してこう仰せられた。「葬送の礼は、簡素を旨とすべきである。聞くところによれば、豪富の家や市井の人々は、なお奢侈を競い合い、法に従わず、みだりに大勢を集めて幡幢(ばんどう、旗指物)を盛んに立て並べ、埋葬が済んだ後は酔いにまかせて帰るという。財を浪費するにとどまらず、まことに風教を害するものである。担当の役所に命じ、厳しく取り締まらせよ。」(注:類聚三代格による)八月九日辛卯、大雨と洪水があった。十一日癸巳、赤目崎(あかめさき)に行幸し、洪水の様子を視察した。十二日甲午、使者を遣わして水害に遭った百姓を救済した(注:日本紀略による)。九月、大原野・栗前野・登勒野・交野で狩りをした。冬十月十四日乙未、大原野で狩りをした(注:類聚国史による)。二十六日丁未、相模国からの橘の献上、伊予国からの瓜の献上を廃止した。十一月一日壬子、日食があった(注:日本紀略による)。二十五日丙子、大雪があった。駕輿丁(かよちょう)以上に、それぞれ綿を賜った(注:類聚国史による)。閏月一日壬午、新たに制定した弾正台の弾令八十三条を弾正台に下した。八日戊子、諸院を巡幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。十二日壬辰、伊予国が白鹿を献じた(注:日本紀略による)。この月、水生野・葛葉野(くずはの)・大原野・石作丘(いしつくりのおか)・登勒野で狩りをした(注:類聚国史による)。
¶十二年癸酉、春正月十四日癸巳、初めて薬師経を宮中で読ませ、天下に七日間の殺生禁断を命じた(注:類聚国史による)。十五日甲午、遷都を計画し、大納言藤原小黒麻呂・左大弁紀古佐美らを葛野郡(かどのぐん)宇太村(うたのむら)に遣わして地相を見させた。十七日丙申、射礼を停止した。二十一日庚子、宮殿を壊す工事のため、東院にお移りになった(注:類聚国史・日本紀略による)。二月二日辛亥、使者を賀茂に遣わして遷都を告げた(注:日本紀略による)。四日癸丑、栗前野で狩りをし、伊予親王(いよしんのう)の別業に行幸した。十三日壬戌、水生野で狩りをした(注:類聚国史による)。三月一日己卯、車駕は新京を巡幸した(注:日本紀略による)。九日丁亥、摂津職を改めて国とした(注:類聚三代格・日本紀略による)。十二日庚寅、新京の宮城を築いた。この月、伊勢に幣帛を奉った。使者を山階田原(やましなのたはら)の山陵に遣わして遷都を告げた。夏四月三日辛亥、葛野(かどの)に行幸し、藤原継縄の別業にお入りになった(注:日本紀略による)。五月十六日癸巳、山背・摂津に放生(ほうじょう、生き物を放つ仏事)を行わせる勅を下した(注:類聚国史による)。六月八日乙卯、雨乞いをした。二十三日庚午、諸国に課して、新宮の諸門を造らせた(注:日本紀略による)。秋七月七日癸未、馬埒殿(ばれつでん)に出御し、相撲を観た(注:類聚国史・日本紀略による。○案ずるに、諸国が相撲人を貢進したのは、聖武帝の神亀五年に初めて見え、七月七日に相撲を観たのは、天平六年に初めて見える。この年以後、しばしば絶えることなく行われ、おおむね七月七日に行われたが、淳和帝の天長三年に至って、平城帝の忌日を避けて十六日に改められた。これが恒例の行事であったことが分かるので、これ以後は記さない)。十九日乙未、大原野で狩りをした(注:類聚国史による)。二十五日辛丑、新宮を巡覧した(注:日本紀略による)。八月二十一日丁卯、大原野で狩りをし、藤原継縄の別業にお入りになった(注:類聚国史による)。二十六日壬申、京師を巡幸した(注:日本紀略による)。二十八日甲戌、葛野で狩りをした。九月七日癸未、大原野で狩りをした。二十二日戊戌、栗前野で狩りをし、伊予親王の邸にお入りになった。二十四日庚子、瑞野(みずの)で狩りをした(注:類聚国史による)。冬十月一日丙午、日食があった(注:日本紀略による)。六日辛亥、深草王(ふかくさおう)が父を殴った罪により、隠岐に流された。十一月二日丁丑、新京を巡覧し(注:類聚国史・日本紀略による)、藤原継縄の別業にお入りになった。この冬、葛野・交野・栗倉野(くりくらの)・瑞野・岡屋野(おかやの)で狩りをした(注:類聚国史による)。
¶十三年甲戌、春正月一日乙亥、宮殿を壊す工事のため、朝賀を廃した。十五日己丑、地震があった(注:類聚国史による)。この月、大神宮に幣帛を奉った。使者を山階田原の山陵に遣わし、蝦夷征討を告げた(注:日本紀略による)。この春、栗前野・瑞野・葛野・水生野・大原野で遊猟した(注:類聚国史による)。夏四月一日癸未、日食があった(注:日本紀略による)。二十八日庚午、車駕は新京を巡覧した(注:類聚国史・日本紀略による)。五月二十四日乙未、甲斐国が白烏(はくう)を献じた(注:日本紀略による)。六月十三日甲寅、地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。二十一日壬戌、肥前国が白雀を献じた(注:類聚国史による)。秋七月一日辛未、東西の市を新京に移した。十日庚辰、宮城および京畿の官舎・民家が雷に打たれた(注:日本紀略による)。八月十三日癸丑、これより先、右大臣藤原継縄らに国史の編纂を命じていたが、この時に至って完成し、これを奏上した(注:類聚国史・日本紀略による)。この月、安房国で疫病があった。九月一日辛未、地震があった。二日壬申、再び地震があった(注:類聚国史による)。三日癸酉、仁王経(にんのうきょう)を講じるため、天下に三日間の殺生禁断を命じる勅を下した(注:類聚国史・日本紀略による)。二十八日戊戌、諸国の名神に幣帛を奉り、遷都と蝦夷征討を告げた(注:日本紀略による)。己亥の晦日、百人の僧を召し、新宮で仁王経を講じさせた(注:類聚国史・日本紀略による。○天台座主記・叡岳要記・高階成忠(たかしなのなりただ)の中堂供養記には、いずれもこの月、最澄が中堂を供養し、天皇が行幸したとあるが、類聚国史・日本紀略には見えない。また延暦寺供養記には、大外記清原業忠(きよはらのなりただ)の中堂供養勘文の駁議(反論)が載っており、その説はまことに詳細である。そのため、ここでは採らない)。この秋、大原野・交野で狩りをした(注:類聚国史による)。冬十月二十二日辛酉、車駕は新京に遷った(注:類聚国史・日本紀略による)。二十八日丁卯、征夷大将軍大伴弟麻呂が戦勝を奏上した(注:日本紀略による)。十一月七日丙子、詔して、越前国の水田百二町を大学寮に増し置き、勧学田(かんがくでん)と名づけた(注:類聚国史・日本紀略による)。八日丁丑、詔してこう仰せられた。「今、この山背の地は、山河が襟帯(きんたい、自然の要害となって取り巻くこと)のように連なり、自然に城塞をなしている。この地形の優れた様に因み、新たな号を制定すべきである。山背国を改めて山城国とせよ。慕い集う民、称え歌う者たちは、口をそろえて『平安京』と号している。今、これに従うべきである。」(注:日本紀略による)この冬、交野・北岡(きたのおか)・康楽野(こうらくの)・大原野・山階野(やましなの)で狩りをした(注:類聚国史による)。この年、平野社(ひらのしゃ)を建てた(注:年中行事・公事根源には、いずれも延暦年間の造営とある。一代要記はこの年のこととするので、それに拠った)。
¶十四年乙亥、春正月一日庚午、大極殿がまだ完成していないため、朝賀を廃した(注:類聚国史・日本紀略による)。十三日壬午、大雪があった。公卿以下にそれぞれ綿を賜った(注:類聚国史による)。戊戌の晦日、征夷大将軍大伴弟麻呂が凱旋した。三月四日辛未、私的に鷹を飼うことを禁じた(注:日本紀略による)。この春、日野(ひの)・交野で狩りをした(注:類聚国史による)。夏四月一日戊戌、日食があった(注:日本紀略による)。二十七日甲子、百姓が田宅・園地を仏寺に施捨したり売買したりすることを禁じた(注:類聚国史・類聚三代格による)。五月三日己巳、右京の人、上毛野兄国女(かみつけののえくにめ)が、自ら諸天(しょてん)と称して妖言によって人々を惑わしたため、土佐に流された。六月、近東院(きんとういん)および大堰(おおい)に行幸した(注:日本紀略による)。秋七月十二日丁丑、京師を巡幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。閏月一日乙未、詔してこう仰せられた。「今、諸国の出挙(すいこ)の正税は、半倍(はんばい、五割)の利息を取っている。貧窮な民は、これによって多くが家産を破っている。朕はこれを深く憐れんでいる。古人の言葉に『百姓が足りていれば、君主が誰と共に不足を分かち合おうか』とある。公廨稲(くがいとう)および雑色稲(ぞうしきとう)などの出挙の利息について論じ定め、今年より一律に減じることとする。願わくは財と利用を豊かにし、頽廃した民を救い、家々を裕福にし、人々を満ち足らせて、太平の世を今に興したいと思う。」(注:類聚国史による)二日丙申、畿内七道巡察使を置いた。十一日乙巳、大風があり、家屋が壊れた。八月十五日己卯、近江の逢坂関(おうさかのせき)を廃止した。十九日癸未、朝堂院に行幸し、造営の様子を視察した。甲午の晦日、巡察使を廃止した。九月五日戊戌、東院に行幸した。二十九日壬戌、太白が昼に見えた(注:日本紀略による)。この秋、佐比津(さひのつ)・大堰・北野に行幸し、柏原野(かしわばらの)・大原野・日野・登勒野で狩りをした(注:類聚国史・日本紀略による)。冬十月十六日己卯、交野に行幸した。二十二日乙酉、宮に還った(注:日本紀略による)。十二月一日甲子、京師を巡幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。十三日丙子、参議以上に白玉帯(はくぎょくたい)を著けることを許した(注:日本紀略による)。十八日辛巳、京師を巡幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。二十六日己丑、諸国から逃亡した軍士三百四十人の死罪を免じ、陸奥に配して永く柵戸(さくこ)とした(注:日本紀略による)。この冬、紫野(むらさきの)・栗栖野(くるすの)・大原野で狩りをした(注:類聚国史・日本紀略による)。
¶十五年丙子、春正月一日甲午、大極殿に出御して朝賀を受けた。石見国が白雀を、長門国が白雉を献じた(注:類聚国史・日本紀略による)。二月十五日丁丑、大神宮に幣帛を奉った。二十五日丁亥、勅して「南海道の駅路は遠く迂回しており、使者の往来が困難である。そのため旧路を廃し、新道を通す」とされた。三月十九日庚戌、諸国に勅して「武技に秀でた者を推挙せよ」とされた(注:日本紀略による)。また勅して「京畿の官人や民が男女入り混じって、みだりに北辰(ほくしん、北極星)を祭ることを禁ずる」とされた(注:案ずるに、年中行事によれば、延暦の遷都後、初めて北辰に御灯(みあかし)を奉る儀式があったという。公事根源には、延暦十五年三月、初めて北辰を祭ったとある。しかし今、類聚国史の勅文によれば、朝廷がこの儀式を初めて行ったのではなく、ただ民間での淫祀(いんし、みだりな祭祀)を禁じたにすぎない)。二十四日乙卯、朝堂および諸院を巡覧した。近東院にお入りになって宴を催し、群臣にそれぞれ物を賜った(注:類聚国史・日本紀略による)。この春、紫野に行幸した(注:日本紀略による)。芹川野(せりかわの)・登勒野・水生野・日野で狩りをした。夏四月十日辛未、京師を巡幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。十五日丙子、雹が降った(注:日本紀略による)。二十七日戊子、渤海が朝貢してきた(注:類聚国史・日本紀略による)。五月四日甲午、吉備魚主(きびのうおぬし)を山陽道に遣わし、盗賊を捜索させた(注:魚主の官位は不詳)。十二日壬寅、大雨と洪水があった。六月三日壬戌、肥前国が白雀を献じた。この月、葛野川に行幸した(注:日本紀略による)。秋七月十六日乙巳、右大臣兼皇太子傅中衛大将藤原継縄が薨じた(注:日本後紀・公卿補任による)。十九日戊申、使者を遣わして尾張国の飢饉を救済した(注:日本後紀による)。この月、肥後国から「阿蘇山の神霊池(しんれいち)の水が二十余丈も涸れた」との報告があった(注:日本後紀・日本紀略による)。詔して「鰥寡孤独で自活できない者を救済せよ。諸国の国守に読経して悔過(けか)させよ」とされた(注:日本後紀による)。八月一日己未、日食があった(注:日本後紀・日本紀略による)。六日甲子、大和国で山崩れがあり、水が溢れた(注:日本紀略は甲申とする)。七日乙丑、畿内の諸神に幣帛を奉り、晴天を祈った。この日、筑後国の水害を救済した(注:日本後紀による)。二十一日己卯、京師を巡幸した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。この日、諸国に地図を作らせる勅を下した。この月、長雨が続き、穀物の価格が高騰した。使者を遣わして京師を救済した(注:日本後紀による)。九月一日己丑、山城・河内に烽燧(ほうすい、のろし台)を置いて不慮の事態に備える勅を下した(注:日本後紀・日本紀略による)。この秋、登勒野・栗前野で狩りをした(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。冬十月十六日癸酉、宮中で薬師懺(やくしせん)を修した。この日、使者を遣わして志摩国の飢饉を救済した(注:日本後紀による)。十一月八日乙未、新銭を鋳造した(注:日本後紀・日本紀略による)。十四日辛丑、新銭を伊勢・賀茂・松尾の三社に奉り、七大寺に施し、皇太子以下諸臣にそれぞれ賜った(注:日本後紀による)。二十一日戊申、相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後の民九千口を陸奥国伊治城(これはりのき)に移した。二十二日己酉、天下に「飛騨の工匠で逃亡した者を捜索し捕らえよ」との勅を下した(注:日本後紀・日本紀略による)。十二月四日辛酉、参議藤原雄友(ふじわらのおとも)を中衛大将とした(注:日本後紀・公卿補任による)。十四日辛未、京師を巡幸した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。朝原内親王の邸にお入りになり、五位以上に物を賜った(注:日本後紀による)。この冬、登勒野・大原野・紫野・日野・北野・栗栖野で狩りをした(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。この年、東寺(とうじ)を創建した(注:水鏡・一代要記による。○濫觴抄(らんしょうしょう)は翌年のこととする)。
¶十六年丁丑、春正月一日戊子、太宰府が白雀を献じた(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。二十三日庚戌、壱岐(いき)の飢えた民を救済した(注:日本後紀による)。二十六日癸丑、近東院に行幸した(注:日本後紀・日本紀略による)。二月九日乙丑、大納言紀古佐美を皇太子傅とした(注:日本後紀・公卿補任による)。十三日己巳、これより先、皇太子学士(がくし)菅野真道(すがののまみち)らに、重ねて続日本紀の撰修を命じていたが、この時に至って完成し、これを奉った(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。二十一日丁丑、参議近衛大将大中臣諸魚が卒した(注:日本後紀・日本紀略・公卿補任による)。三月十一日丁酉、参議藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)を近衛大将とし、藤原乙叡を中衛大将とした(注:日本後紀・公卿補任による)。この月、使者を遣わして甲斐・下総・武蔵・土佐の飢えた民を救済した(注:日本後紀による)。この春、三度京師を巡幸し、水生野・大原野・北野・登勒野で狩りをした(注:日本後紀・類聚国史による)。夏四月四日己未、大納言兼皇太子傅紀古佐美が薨じた(注:日本紀略・公卿補任・一代要記による)。十八日癸酉、布施内親王(ふせないしんのう)を伊勢斎王とした(注:類聚国史・日本紀略による)。十九日甲戌、太宰府に浪人を検括する勅を下した(注:類聚三代格による)。五月七日壬辰、京師を巡幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。八日癸巳、宇治橋を修理した。十九日甲辰、金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)を宮中および東宮で読ませた(注:日本紀略による)。二十二日丁未、灌頂経法(かんじょうきょうぼう)を宮中で修した(注:類聚国史による)。六月七日辛酉、朝原内親王が白雀を献じた(注:類聚国史・日本紀略による)。九日癸亥、弾正尹神王らが刪定した令格四十五条を担当の役所に頒布する詔を下した(注:類聚国史による)。十七日辛未、諸司の官人が喪の期間が満ちていないうちに、私的に吉服を著ることを禁ずる勅を下した(注:類聚三代格による)。十八日壬申、使者を遣わして畿内・七道の名神に幣帛を奉り、天下の安寧を祈った(注:類聚国史・日本紀略による)。二十八日壬午、遷都のため、諸国のその年の租を免じた。秋七月十一日甲午、勅してこう仰せられた。「男女に別があることは、礼典の重んじるところである。身分の別なくこれが乱れれば、教化の道はすでに欠けたも同然である。聞くところによれば、『民は愚かで、礼儀を知らず、担当の役所も寛容なばかりで、まったく教え導くことがない。公私の集まりでは、男女が入り乱れている』という。風俗を敗り破ることは、これより甚だしいものはない。厳しく禁断すべきである。」(注:類聚国史・類聚三代格による)八月十四日丁卯、地震と暴風があった(注:類聚国史・日本紀略による)。左右京の坊門や、百姓の家屋が倒れた(注:類聚国史による)。二十五日戊寅、長岡京の南に山城の関(せき)を置いた(注:日本紀略による)。九月二十日壬寅、勅して「今は西成(にしなり、秋の収穫期)の時節にあたり、民は収穫に励んでいる。畿内諸国に命じ、行在所(あんざいしょ)への貢献を行わせてはならない」とされた(注:類聚国史による)。この秋、葛野川・近東院に行幸した(注:日本紀略による)。的野(まとの)・北野・大原野で狩りをした(注:類聚国史・日本紀略による)。冬十月九日庚申、車駕は交野に行幸しようとしたが、啄木鳥(きつつき)が前殿に入ったため、行幸を停止した。十一月五日丙戌、従四位下坂上田村麻呂を征夷大将軍とした(注:日本紀略による)。この冬、北野・日野・陶野(すえの)・栗栖野・大原野で狩りをした(注:類聚国史・日本紀略による)。この年、筑前国司を廃止し、太宰府に隷属させた(注:類聚三代格による)。
¶十七年戊寅、春三月十六日丙申、式部省が「春秋公羊伝(くようでん)・穀梁伝(こくりょうでん)の二伝を学官(大学寮)に立てることを請う」と奏上し、これを許した(注:令集解による)。この春、車駕は五度京師を巡り、水生野で狩りをした。夏四月十日庚申、地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。十五日乙丑、戒律の教えに従わない僧徒を取り調べさせる勅を下した(注:類聚三代格による)。五月十九日戊戌、使者を渤海に遣わした。閏月二十五日甲戌、丹生(にう)で雨乞いをした。六月四日壬午、再び雨乞いをした(注:日本紀略による)。この夏、車駕は三度京師を巡った(注:類聚国史・日本紀略による)。また近東院・葛野川・北野に行幸した。秋七月二十五日壬申、丹生に幣帛を奉り、晴天を祈った。八月九日丙戌、大風があり、民家が壊れた(注:日本紀略による)。十日丁亥、京師を巡幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。十六日癸巳、大納言神王を右大臣とした(注:公卿補任による)。九月二十三日己巳、諸国の官人や民が銭を貯えることを禁ずる勅を下した(注:類聚三代格による)。この月、阿波国で飢饉があり、これを救済した(注:日本紀略による)。この秋、柏原野(かしわばらの)・北野・大原野・栗前野・日野で狩りをした(注:類聚国史・日本紀略による)。冬十月四日己卯、両京・畿内での夜祭で、男女が集まって飲食し歌舞することを禁じた。十九日甲午、勅してこう仰せられた。「およそ多くの官人たちの中には、私利をむさぼる心に従い、しばしば憲法(法令)に背く者がいる。たびたび戒め励ましてきたが、悔い改めたとは聞いていない。罪ある者を憐れむ仁政としては、寛大に法網を緩めることも切に望むところであるが、刑を明らかにする典は、まことにやむを得ない措置である。切に教え諭し、各々自ら努めさせよ。なおも違反する者があれば、必ず重科に処す。」(注:類聚三代格による)十二月二十七日壬寅、渤海が朝貢してきた。この冬、大堰・北野に行幸した(注:日本紀略による)。大原野・日野・水生野で狩りをした(注:類聚国史・日本紀略による)。
¶十八年己卯、春正月九日甲寅、五位以上に新銭をそれぞれ賜った(注:日本後紀・日本紀略による)。二月十五日己丑、勅してこう仰せられた。「私的な出挙(すいこ)による稲貸しは、以前すでに禁制としてあり、もし違犯すれば厳しい科罰がある。しかし去年は不作で、百姓は食に乏しい。諸国の出挙は、周く行き渡らせることが難しいと定められている。時に応じて緩めたり締めたりするのは、古今を通じての通則である。前の制を緩め、しばらく民の実情に任せるべきである。その利息は、十分の三を収める率とせよ。もしこの限度を超えれば、罪は以前と同様とする。」(注:日本後紀による)この月、交野に行幸し(注:日本後紀・日本紀略による)、栗前野で狩りをした(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。三月一日乙巳、民部省の倉が雷に打たれた(注:日本後紀・日本紀略による)。夏四月九日癸未、長雨による水害で作物が損なわれたため、山城・河内・摂津の貧民を検分し、正税を給した(注:日本後紀による)。十五日己丑、左右京の貧民を救済した(注:日本後紀・日本紀略による)。十六日庚寅、正六位上大伴峯麻呂(おおとものみねまろ)を遣新羅使とした。五月十九日壬戌、諸国の国司・講師に命じ、国分寺の僧を取り調べさせた(注:日本後紀による)。二十八日辛未、使者を遣わして大神宮の正殿を改造させた。讃岐国には、穀物を貸し与えて救済した。二十九日壬申、遣新羅使を停止した(注:日本後紀・日本紀略による)。六月五日戊寅、詔してこう仰せられた。「王たる者が国を治めるには、徳政を第一とする。帝たる者が民を養うには、良き穀物を根本とする。朕は徳が薄いながらも、かたじけなくも大いなる基業を承けた。薄氷を踏むように懼れ、朽ちた手綱を御するように慎み、暗愚でありながらも大いなる明徳を目指している。日が傾くまで政務を聴き、政治を広めようと思っているが、風化(教化)を広め、太平の世が行き渡るにはまだ至らず、陰陽の調和も失われている。去年は不作で、作物が被害を受けた。この弊害を顧みるにつけ、心に憐れみを覚える。寛大な恩恵を施し、その災いの兆しに応えるべきである。美作・備前・備後・南海道・肥前・肥後など十一国は、被害がとりわけ甚だしい。去年の田租を、特別にすべて免除する。」十日癸未、勅してこう仰せられた。「先に公廨(くがい)を正税と混同することを停止し、あわせて出挙の穀を減らして、民の煩いを省いた。しかし諸国は『任期中の未納分について、公廨の利息を徴収しており、百姓はその弊害を受け、艱苦がまことに深い』と申している。今後は、これを徴収することを停止すべきである。違反する者は罰せよ。」十二日乙酉、僧がみだりに本寺を離れて山林に住み、人の依頼を受けて邪法を行っていることから、諸国の国司に「管内の僧尼を巡検し、詳しく記録して上申せよ」との勅を下した(注:日本後紀による)。二十三日丙申、詔してこう仰せられた。「朕はつつしんで大業を継ぎ、万民を撫育するにあたり、己を励まし身を勤めて、安らかに過ごす暇もない。四海を和らげ、刑罰を用いない世を期し、百姓をあまねく済い、長寿の世に至らせたいと思う。しかし近ごろ京師を巡ったとき、堀川のあたりを通りかかると、囚人たちが枷(かせ)や鎖につながれ、体をさらして苦役に服していた。無知な民が自ら罪悪を招いたこととはいえ、民の父母たる身として、どうして哀しまずにいられようか。現在服役中の囚人、および天下で拘禁中の囚人らは、罪の軽重を問わず、みな赦免し、自ら新たになる機会を与えよ。ただし私鋳銭、謀殺、故殺、および民の苦しみを問い調べさせた使者への訴えにより取り調べを受けている諸国の郡官・官吏・百姓らは、赦免の対象としない。謀殺・故殺により労役に配された者は、労役を停止して流罪とせよ。」(注:日本後紀・類聚国史による)二十六日己亥、山城国乙訓・葛野・愛宕(おたぎ)の三郡の未納の租を免じた。二十七日庚子、名僧三百人・沙弥(しゃみ)五十人を宮中に招き、大般若経を読ませた(注:日本後紀による)。秋七月二十三日乙丑、風水害と旱魃により、備中国の去年の租を免じた。この月、天竺(てんじく、インド)の人が参河国に漂着した(注:日本後紀・類聚国史による)。八月五日丙子、常陸国から「去る月の十一日、海の潮が満ち引きすること、十五度に及んだ」との報告があった(注:日本後紀による)。七日戊寅、京師を巡幸した(注:日本後紀・日本紀略による)。十五日丙戌、使者を畿内諸国に遣わし、田を検校させた(注:日本後紀による)。九月七日戊申、暴風で家屋が壊れた。この秋、大堰・北野に行幸した(注:日本後紀・日本紀略による)。栗前野・水生野・陶野・的野で狩りをした。冬十一月四日甲辰、地震があった(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。八日戊申、風水の災いにより、淡路国のその年の調庸を免じた(注:日本後紀・類聚国史による)。十四日甲寅、播磨国の穀物を出し、淡路国の困窮した戸を救済した(注:日本後紀による)。二十四日甲子、勅してこう仰せられた。「先に問民苦使(もんみんくし)を遣わして、政の実情を採訪させ、明らかにして賞罰を厳しくしようと考えた。今、使者の報告を検討すると、法紀に背く者が多い。道理として厳しい刑を科し、永く後の世の戒めとすべきである。去る延暦十四年、使者を選んで巡察に遣わそうとしたが、彼らが自ら改めることを慮り、すぐには発遣しなかった。しかし法を怠って改めず、欲をほしいままにして止まることがない。延暦十五年以降、国司以下で罪を犯した者は、法に依って処断し、将来の戒めとせよ。ただし佃田(でんでん)三町以下を犯した者、および兵士を使役した者は、特に寛大な措置をとれ。十四年以前に犯した罪については、積み重なった慣習が久しく、にわかに洗い清めることは難しい。事の軽重を問わず、すべて原免(げんめん、赦免)せよ。」(注:日本後紀・類聚国史による)十二月二十九日戊戌、勅して「天下の臣民に、本系帳(ほんけいちょう、氏族系譜の帳簿)を提出させる」とされた(注:日本後紀による)。この冬、二度京師を巡った。交野・西野・水生野で狩りをした(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。この年、大和・河内・近江・美濃・越中・丹後・伯耆・備中・紀伊・淡路・阿波・讃岐・土佐で飢饉があり、すべて救済した(注:日本後紀による)。
¶十九年庚辰、春正月、五百井女王(いおいのじょおう)の別業、および西島院(にしのしまいん)・北野に行幸した(注:日本紀略による)。二月四日壬申、民が銭を納めて爵位を求めることを禁じた(注:類聚三代格・日本紀略による)。この月、栗前野で狩りをした。三月、京師を巡幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。夏四月二十三日辛卯、和泉国で雹が降り、桃や李ほどの大きさであった(注:日本紀略による)。この月、二度京師を巡った(注:類聚国史による)。六月一日戊辰、日食があった。六日癸酉、駿河国から「春から夏にかけて、富士山が噴火し、灰を降らせ、雷のような音を響かせた」との報告があった(注:日本紀略による)。秋七月二十三日己未、廃太子早良を追って崇道天皇(すどうてんのう)と号し、廃后井上内親王(いのえないしんのう)を追って皇后に復した(注:類聚国史・日本紀略・水鏡による)。その墓を山陵と称した(注:類聚国史・日本紀略による)。八月十四日庚辰、丹生に晴天を祈った。この秋、神泉苑(しんせんえん)・葛野川・大堰に行幸し(注:日本紀略による)、水生野・栗前野・大原野で狩りをした(注:類聚国史・日本紀略による)。冬十月四日己巳、葛野川の堤を修めた。六日辛未、的野で狩りをした。十七日壬午、交野に行幸した。二十五日庚寅、宮に還った。十一月六日庚子、征夷大将軍坂上田村麻呂を遣わし、諸国の夷俘(いふ、帰順した蝦夷)を検分させた(注:日本紀略による)。二十六日庚申、地方の民が課役を逃れるために京の戸籍に入籍することを禁じた(注:類聚三代格による)。
¶二十年辛巳、春二月二十五日丁巳、対策(たいさく、官吏登用試験)を監試した(注:経国集による)。この春、大堰・大津に行幸した。夏四月八日己亥、越前国司に「牛を屠って神を祭ることを禁ずる」との勅を下した。十九日庚戌、参議紀勝長の山階(やましな)の邸に行幸した。五月一日壬戌、日食があった。十三日甲戌、諸国に「舟や櫂を用意し、浮橋を組んで、貢調の便宜を図れ」との勅を下した。十七日戊寅、丹生で雨乞いをした(注:日本紀略による)。六月三日癸巳、備中国から「慶雲(けいうん、めでたい雲)が現れた」との報告があった(注:類聚国史による)。十二日壬寅、太宰府から隼人(はやと)を進上させることを停止した(注:類聚国史・日本紀略による)。十四日甲辰、参河国の女性が一度に三子を出産したので、稲三百束を賜った(注:類聚国史による)。この夏、神楽岡(かぐらおか)・大津・神泉苑・大堰に行幸した。秋七月二十六日丙戌、参河国から「慶雲が現れた」との報告があった。八月十日庚子、従四位下藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)を遣唐大使とし、従五位下石川道益(いしかわのみちます)を副使とした。九月二十七日丙戌、征夷大将軍坂上田村麻呂が、夷賊を討ち平らげたことを奏上した。この秋、神泉苑・大堰に行幸し(注:日本紀略による)、大原野・栗前野・的野で狩りをした(注:類聚国史・日本紀略による)。冬十月二十八日丁巳、坂上田村麻呂が凱旋した(注:日本紀略による)。この冬、栗前野・日野・水生野で狩りをした(注:類聚国史・日本紀略による)。
¶二十一年壬午、春正月一日戊午、雨雪のため、朝賀を廃した(注:類聚国史・日本紀略による)。八日乙丑、征夷の将士に勲位をそれぞれ加えた。勅してこう仰せられた。「富士山が噴火し、砂礫が雨のように降った。卜(うらな)ったところ、『旱魃と疫病の兆しである』と出た。駿河・相模の二国に、読経して災いを祓わせるべきである。」九日丙寅、従三位坂上田村麻呂を遣わし、陸奥国胆沢城(いさわじょう)を築かせた。十一日戊辰、東国の浮浪民四千人を胆沢城に配した。十八日乙亥、美作国が白鹿を献じた。この春、五度神泉苑に行幸した(注:日本紀略による)。水生野で狩りをした(注:類聚国史・日本紀略による)。夏四月十五日庚子、坂上田村麻呂が「蝦夷の酋長、大墓公阿氐利為(たものきみあてりい)・盤具公母礼(いわぐのきみもれ)らが、その部下五百余人を率いて降伏しました」と奏上した。五月十九日甲戌、富士山の噴火により、足柄路(あしがらじ)が石で塞がれたため、筥荷路(はこねじ、箱根路)を開いた(注:日本紀略による)。六月十二日丁酉、左京で火災があり、被災者に米と塩を賜った(注:類聚国史・日本紀略による)。二十六日辛亥、出羽国に重ねて勅し、蝦夷の産物を私的に交易することを禁じた(注:類聚三代格による)。この夏、二度神泉苑に行幸した。秋七月一日乙卯、大和国から「牛が二頭六足の犢(こうし)を生んだ」との報告があった。十日甲子、坂上田村麻呂が蝦夷の二人の酋長を伴って京師に至った。二十五日己卯、百官が蝦夷平定を表して祝賀した(注:日本紀略による)。八月八日壬辰、豊後国が白雀を献じた(注:類聚国史による)。十三日丁酉、蝦夷の二酋長を斬った。この秋、神泉苑・大堰に行幸し(注:日本紀略による)、的野(注:類聚国史・日本紀略による)・芹川野(注:類聚国史による)・北野(注:類聚国史・日本紀略による)で狩りをした。冬十月九日壬辰、交野に行幸した。十五日戊戌、宮に還った。二十六日己酉、大原野に行幸した。十一月一日甲寅、日食があった(注:日本紀略による)。
¶二十二年癸未、春正月一日癸丑、雨のため、朝賀を廃した。二日甲寅、朝賀を受けた。美作国が白鹿を、豊後国が白雀を献じた(注:類聚国史・日本紀略による)。三月六日丁巳、坂上田村麻呂が志波城(しわじょう)を築き、蝦夷に備えた。この月、神泉苑・志賀可楽崎(しがのからさき)に行幸した。夏五月八日丁巳、筥荷路を廃止し、足柄の旧路を復した。二十二日辛未、遣唐大使藤原葛野麻呂が暴風に遭って渡海できず、節刀(せっとう)を返上した。六月二十一日庚子、丹生に晴天を祈った。この夏、京師を巡幸した。神泉苑・志賀可楽崎に行幸した(注:日本紀略による)。秋八月十三日辛卯、言葉を慎まなかったことにより、正六位上長倉王(ながくらおう)を多褻島(たねがしま、種子島)に流した(注:類聚国史による)。この秋、神泉苑・梅原宮(うめはらのみや)・伊予親王の愛宕(おたぎ)の別業・葛野川・西八条院に行幸した(注:日本紀略による)。柏野(かしわの)・水生野・北野・的野で狩りをした(注:類聚国史・日本紀略による)。冬十月二十五日壬寅、大徳親王(だいとくしんのう)が薨じた。閏月一日戊申、近江国蒲生野(がもうの)に行宮(あんぐう)を造った。十六日癸亥、蒲生野に行幸した。二十七日甲戌、宮に還った。詔して栗太(くりた)・甲賀(こうか)・蒲生の三郡のその年の田租を免じた。国司・郡司・介(すけ)・掾(じょう)に位を進め、物を賜った(注:日本紀略による)。この月、大原野で狩りをした。十一月一日戊寅、冬至であり、老人星(南極老人星)が現れた。百官が朝廷に参上して祝賀を表した。十五日壬辰、詔してこう仰せられた。「天地は万物を覆い育み、時に従って気を巡らせ、皇王は万物を育て養い、その恩恵をあまねく及ぼしている。朕は暗愚な身でありながら、大いなる基業を継いで登り、八紘(はっこう、天下)に君臨し、あらゆる生類を撫育している。政道はいまだ行き渡らず、南風のような徳化をまさに思うところであるが、恵みの沢もいまだ深く行き渡らず、なお東戸(とうこ、古の聖王の徳政)に恥じ入るばかりである。このごろ担当の役所が『老人星が現れました』と奏上した。また今年は十一月一日が朔旦冬至(さくたんとうじ、暦の吉兆)にあたり、皇太子および百官が祝賀を表した。朕は、この霊妙な瑞兆が現れたのは、必ずや厚い徳によるものであり、めでたい天命が感応するのは、至高の仁によるものと思う。顧みれば凡庸で徳の薄い身であり、ただ恥じ入るばかりであるが、めでたい恵みを施し、天の心に応えたいと思う。天下に大赦を行うべきである。王公以下には、あまねく恩賜を加えるべきである。ただし忠節と勤労を尽くし、先に功績のあった者には、特に爵位と褒賞を加え、その功を称えたいと思う。内外の文武官で主典(さかん)以上には爵一級を叙し、天下の高齢者で百歳以上には穀二斛を、九十歳以上には一斛を、八十歳以上には五斗を賜う。この憐れみの心が天に通じ、めでたい応報が地にもたらされることを願う。遠近に布告し、朕の心を知らしめよ。」(注:類聚国史による)十二月二日戊申、狐が宮中で鳴いた(注:日本紀略による)。
¶二十三年甲申、春正月一日丁丑、武蔵国から「木が連理になった」との報告があった。近江国が白雀を献じた(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。十九日乙未、蝦夷征討のため、武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野などの兵糧米を陸奥国小田郡中山柵(なかやまのき)に運ばせた(注:日本後紀による)。二十八日甲辰、従三位坂上田村麻呂が再び征夷大将軍となった(注:日本後紀・日本紀略による)。この月、淡路国の困窮した民の未納の税を免じた(注:日本後紀による)。二月五日庚戌、大和国石上社(いそのかみしゃ)の武器を葛野郡に移した(注:日本後紀・日本紀略による)。十八日癸亥、大和国の田租・地子(じし)を免じた(注:日本後紀による)。二十日乙丑、京師を巡幸した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。二十五日庚午、使者を遣わして摂津国の飢饉を救済した(注:日本後紀による)。三月十六日辛卯、長雨のため、五位以上に米を賜った(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。二十八日癸卯、遣唐大使藤原葛野麻呂に、以前と同じく節刀を再び授けた(注:日本後紀・日本紀略による)。この春、水生野で狩りをし(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)、神泉苑・西八条・五条院・可楽崎に行幸した(注:日本後紀・日本紀略による)。夏四月二十八日壬申、右兵衛府が白雀を献じた(注:日本後紀・類聚国史による)。五月十一日甲申、式部卿伊予親王の邸に行幸した(注:日本後紀による)。二十三日丙申、斎宮寮(さいぐうりょう)が白雀を献じた(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。正税二万束を、摂津国の貧民に貸し与えた(注:日本後紀による)。六月十九日壬戌、大堰に行幸した。秋八月十日壬子、暴雨と大風があり、中院の西楼が倒れた(注:日本後紀・日本紀略による)。十一日癸丑、地震があった。十九日辛酉、京師を巡幸した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。九月十八日己丑、兵部少丞大伴岑万里(おおとものみねまろ)を新羅に遣わした。二十七日戊戌、地震があった。この秋、神泉苑・大堰・葛野川・与等津(よどのつ)に行幸し(注:日本後紀・日本紀略による)、北野・栗前野・大原野で狩りをした(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。冬十月三日甲辰、和泉国に行幸した(注:日本後紀・日本紀略による)。恵美原(えみのはら、注:日本後紀による)・程野(ほどの)・垣日野(かきひの)・藺生野(いのふの)・日根野(ひねの)で狩りをした。十一日壬子、紀伊国玉土島(たまつしま)に行幸を進めた。十三日甲寅、日根の行宮(あんぐう)に還った。十四日乙卯、熊取野(くまとりの)で狩りをした。十七日戊午、宮に還った。二十一日壬戌、神泉苑に行幸した。二十三日甲子、私的に鷹や鷂(はいたか)を飼うことを禁じた。十一月二十二日癸巳、出羽国秋田城を廃して郡とした(注:日本後紀・日本紀略による)。この月、日野で狩りをし(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)、四度神泉苑に行幸した。十二月一日壬寅、神泉苑に行幸した。六日丁未、再び行幸した(注:日本後紀・日本紀略による)。二十一日壬戌、勅してこう仰せられた。「牛の用は、国にとって切実に必要なものである。重いものを負って遠くまで運ぶ、その功はまことに多い。聞くところによれば、『無頼の輩が奢侈を競い合い、牛を殺して皮を剥ぎ、まだら模様の子牛を鞍や韉(したぐら)にすることを競っている。胡籙(やなぐい、矢筒)の道具に至っては、その弊害がとりわけ甚だしい』という。これを禁絶すべきである。」(注:日本後紀・類聚三代格による)二十五日丙寅、天皇の御体がすぐれなかった。使者を七大寺に遣わして読経させ、平城の道俗で飢えた者を救済した。二十六日丁卯、天下に大赦を行った(注:日本後紀・日本紀略による)。
¶二十四年乙酉、春正月一日辛未、御体がすぐれないため、朝賀を廃した(注:類聚国史・日本紀略による)。十四日甲申、勅して「鷹と犬を放て。崇道天皇のため、淡路に寺を建てよ」とされた。また「天下の諸寺を修理せよ」との勅を下した。二十二日壬辰、大星が昼に落ちた(注:日本後紀・日本紀略による)。二十五日乙未、地震があった(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。二月十日庚戌、詔して使者を遣わし、石上社の武器を旧社に戻させ、僧を集めて読経させ、これを鎮め謝することとした(注:日本後紀・日本紀略による)。十四日甲寅、使者を遣わして備後国の飢饉を救済した(注:日本後紀による)。十九日己未、諸国の国分寺に薬師懺(やくしせん)を修めさせた。三月二十七日丙申、天下に大赦を行った(注:日本紀略による)。僧玄実(げんじつ)を殿上に召し、灌頂の法を行わせた(注:日本後紀による)。夏四月十日己酉、賀茂社に幣帛を奉った。五月十一日己卯、僧を紀伊国伊都郡(いとぐん)に遣わし、三層の塔を造らせて、病の平癒を祈らせた(注:日本後紀・日本紀略による)。二十六日甲午、使者を遣わして伊賀国の飢饉を救済した(注:日本後紀による)。秋七月十四日辛巳、遣唐大使藤原葛野麻呂らが唐から帰った。十七日甲申、地震があった(注:日本後紀・日本紀略による)。二十五日壬辰、勅してこう仰せられた。「聞くところによれば、『疫病が流行り、民が互いを忌み嫌って、水や火の貸し借りも通わせず、父子という至親の間柄でさえ、畏れ避けて近づかず、ついに死者が多く出るに至っている』という。担当の役所に諭し、心を尽くして救い治療させるべきである。」(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)二十六日癸巳、畿内の名神に雨乞いをした。二十七日甲午、唐からの信物(進物)を山科・後田原(のちのたはら)・崇道天皇の三陵に献じた(注:日本後紀・日本紀略による)。八月九日乙巳、地震があった(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。この日、入唐僧最澄を殿上に召し、悔過(けか)と読経をさせた。最澄は将来した仏像を献じた。二十七日癸亥、太白と鎮星(ちんせい、土星)が東方に現れた。九月十七日壬午、最澄を召して毘盧遮那法(びるしゃなほう)を修させた。冬十月二日丁酉、野鳥が殿内に入った。二十五日庚申、大蔵経を書写し、崇道天皇の冥福を祈った。二十八日癸亥、前殿で三日間読経させた(注:日本後紀・日本紀略による)。十二月五日庚子、地震があった。七日壬寅、公卿を召して政事の得失を議論させ、兵役と造営を停止した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。仕丁(じちょう)・衛士(えじ)・隼人・歌女(うため)・仕女(つかえめ)の数を減らし、伊賀・伊勢など二十一国のその年の庸を免じた(注:日本紀略・類聚国史による)。八日癸卯、淡路国の浮浪民のその年の調庸を免じた。十日乙巳、造宮職を廃止した(注:日本紀略による)。
¶二十五年丙戌、春正月一日丙寅、御体がすぐれないため、朝賀を廃した。七日壬申、勅して、五位以上が装馬(かざりうま)を進上することを停止した。三月十五日己卯、天皇の御病がにわかに重くなった。十七日辛巳、勅して「延暦四年に流罪となり、すでに放免されて帰った者は、生死を問わず、すべて元の位に復せよ」とされた(注:日本後紀・日本紀略による)。この日、天皇は正寝(せいしん)で崩御した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。御年70歳(注:日本後紀・日本紀略による)。謚(おくりな)を日本根子皇統弥照尊(やまとねこすめらみことあまつしるしいやてり)といい、また桓武天皇と諡(おくりな)した。紀伊郡柏原陵(かしわばらのみささぎ)に葬った(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。世に柏原天皇と称する。国忌斎(こっきさい)を西寺(さいじ)に置いた(注:江家次第による)。
¶天皇は生まれつき武を好んだ。帝位に即いてからは、心を励まして政治に努めた(注:日本後紀による)。大いに蝦夷を討ち、辺境はついに安らかとなった。都を平安京に遷し、後の世々までその利益を受けている(注:諸書の大意を斟酌した)。かつて中院の楼が倒れ、牛が圧死したことがあった。天皇は嘆いて、「朕の生年は丑(うし)にあたる。おそらく不吉なことであろう」と仰せられた。まもなく御体がすぐれなくなった。皇太子を召し、特別な勅を下した。また群臣を召して、民の苦しみについて諮問した。参議藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)は、「今、天下が苦しんでいるのは、軍事と土木のためです。この二つをやめることを請います」と申し上げた。天皇はこれを善しとし、これに従ってその二つを停廃した。これを聞いた者で、感嘆しない者はいなかった(注:日本後紀・日本紀略による)。