卷之七十六 列傳第三
后妃三
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
この巻の目次39
藤原皇后(宮子)
¶文武天皇の藤原皇后は、名を宮子娘(みやこのいらつめ)といい、淡海公(たんかいこう)藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘である。文武帝が即位すると夫人に立てられ、聖武帝(しょうむてい)を産んだ。養老七年、従二位を授けられ、まもなく正一位に叙せられた。聖武帝が即位すると、皇太夫人と尊称された。天平七年、皇太夫人の母である正四位上賀茂比賣(かものひめ)が卒し、散位の儀礼に準じて葬られた。天平九年十二月、皇太夫人は皇后宮に赴き、僧玄昉(げんぼう)に会い、聖武帝もまた同所に赴いた。皇太夫人は聖武帝を産んで以来、長らく玄昉と会うことがなく、深く憂いに沈んで政務を廃するほどであったが、この日一度会うと、心が開け悟るところがあり、ちょうど帝とも対面することができ、天下こぞってこれを慶賀した。玄昉には絁(あしぎぬ)・綿・絲・布を施し、中宮職の官人には位階を賜った。(注:皇后が玄昉に会った件について、旧史の文意ははっきりしない。『元亨釈書』は、僧善珠(ぜんじゅ)は藤太后宮子の庶子であるとも伝えている。)孝謙帝(こうけんてい)の即位後は、大皇太后と称された。天平勝宝六年七月、病が重くなった。詔して、「このごろ大皇太后は御病床にあって安まらず、ようやく旬月に及んでいる。あらゆる手立てを尽くして治療したが、いまだ快復していない。朕が聞くところでは、皇天は徳ある者を助け、徳は不祥に勝るという。願わくは慈悲の令を施して御体をお助けし、寝食を常のごとくならしめ、起居を安らかにさせたい。天下に大赦を行うべきである」と述べた。この日、僧百人、尼七人を得度させた。数日後、中宮において崩じ、諡して千尋葛藤高知天宮姬之尊(ちひろのくずかがみたかしるあまつみやひめのみこと)と申し上げた。佐保山(さほやま)で火葬した。天平宝字四年、その墓を山陵と称し、国忌の斎を置いた。(注:『続日本紀』による。)
竈門娘
¶嬪(ひん)紀竈門娘(きのかまどのいらつめ)は、文武帝が即位すると嬪となった。(注:『続日本紀』による。)
石川刀子娘
¶嬪石川刀子娘(いしかわのとねのいらつめ)は、文武帝が即位すると、竈門娘と同日に嬪となった。和銅六年十一月、竈門娘とともにその号を貶され、嬪と称することができなくなった。(注:『続日本紀』による。本書の考証によれば、文武帝即位の年、藤原宮子娘を夫人とし、紀竈門娘・石川刀子娘を妃としたとあるが、位の序列からすれば妃を夫人の下に記すことはあり得ない。そこで和銅六年の記事に基づき、ここでは嬪と定めた。)
藤原皇后(光明子)
¶聖武天皇の藤原皇后は、名を光明子(こうみょうし)といい、淡海公藤原不比等の第三女である(注:『系図』には第二女とあるが、ここでは光明子自筆の願文に従う)。体つきや容貌が美しく、光り輝くようであったため、この名がつけられたという(注:『高僧伝』『元亨釈書』による)。幼い頃から聡明であった。聖武帝がまだ皇太子であったとき、妃として迎えられ、時に十六歳であった。生まれつき慈愛深く、人を救うことを志としていた。侍妾たちを召し従えても、皆がその歓心を得るほどであった。礼法の教えに通じ、仏道を篤く尊んだ。帝が即位すると従三位を授けられ、夫人となった(注:『廃帝紀』を按ずるに、天平宝字四年、皇后崩御の記事の下に「神亀元年、正一位を授けられ太夫人となった」とある。一方『聖武紀』を考えるに、帝の即位に際して生母の宮子娘を太夫人と尊んだ記事はあるが、光明子を夫人としたことは記されていない。おそらく脱文であろう。また崩御の記事に記された「正一位」は「従三位」の誤りであり、「太夫人」は「夫人」の誤字であろう。ここに訂正する)。光明子は孝謙帝と皇太子を産んだ。神亀四年、皇太子出生により封戸一千戸を与えられ、まもなく正三位に叙せられた。天平元年八月、皇后に立てられ、さらに封戸一千戸を加えられた。天平二年正月十六日、帝は大安殿(だいあんでん)に出御して五位以上の者を宴に招いた。夕刻になって皇后宮に行幸すると、百官の主典(さかん)以上の者が付き従って踏歌を奏しながら練り歩き、宮中に導き入れられて酒食を賜った。短冊に「仁・義・礼・智・信」の五字を書いて引かせ、当たった字に応じて品物を賜った。「仁」の字を引いた者には絁(あしぎぬ)、「義」には絲、「礼」には綿、「智」には布、「信」には常布を賜り、存分に楽しんで宴を終えた。その後、皇后は病を得て、年を越しても治らなかった。天平五年五月、勅して、「皇后は御病床にあって安まらず、すでに年月を経ている。あらゆる手立てを尽くしても効なく、快復するかどうかもわからない。この苦しみを思うと、寝食も忘れるほどである。天下に大赦を行い、この病を救済すべきである」と述べた。これより先、皇后の母である内命婦正三位県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなのみちよ)が薨じており、従四位下高安王(たかやすおう)らを遣わして喪事を監護させ、葬儀は散位一位に準じて行った。十二月、さらに一品舎人親王(とねりしんのう)・大納言藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)らを遣わして三千代の邸宅で詔を宣べさせ、従一位を追贈し、特に勅して食封の資人を収公しないこととした(注:『続日本紀』による)。天平六年、皇后は亡き母のために山階寺(やましなでら)に西金堂を造営し(注:『水鏡』『元亨釈書』による)、釈迦十大弟子像を安置した(注:『元亨釈書』による)。皇后はかつて帝に勧めて東大寺を建立させ、諸国に国分寺を創建させた。また悲田院・施薬院の両院を設けて、天下の飢えた者・病める者を療養させた。天平十一年二月、皇后はまた病を得て、詔して天下に大赦を行った。孝謙帝が譲位を受けて即位すると、皇后は皇太后となった。天平勝宝五年四月、また病を得た。詔して、「このごろ皇太后は寝食が安まらず、ようやく旬月に及んでいる。医薬を施しても、なお快復していない。思うに、政治に不備があり、罪に陥る者が多いためであろう。天がこの罰を下し、朕を戒めているのだ。母子の情愛は、身分の貴賎を問わず同じである。罪を犯した者とて、どうして親がないことがあろうか。ことごとく罪を洗い流し、その憂苦を救うべきである。天下に大赦を行うべきである」と述べた。天平宝字二年七月、また病を得た。詔して、「皇太后は寝食が安まらない。朕が思うに、寿命を延ばし病を癒すには、仁慈の心にまさるものはない。天下諸国に命じ、今日より今年十二月三十日に至るまで、殺生を禁断し、猪・鹿の類を献上してはならない」と述べた。八月、百官および僧綱が上表し、尊号を奉って「中台天平応真仁正皇太后(ちゅうだいてんぴょうおうしんにんしょうこうたいごう)」と称した。天平宝字四年三月、皇太后が病に伏すと、詔して天神地祇を祭らせた。諸社の祝部(はふりべ)らにそれぞれの祖神に祈らせ、太神宮(伊勢神宮)の禰宜(ねぎ)・内人(うちんど)・物忌(ものいみ)から諸社の祝部に至るまで、位一階を賜った。皇太后もまた使者を五大寺に遣わして施物を行った。六月に崩じ、齢六十であった。大和国添上郡(そうのかみのこおり)の佐保山(さほやま)に葬られた。葬儀は太皇太后藤原氏(宮子)の先例に倣った。天下は三日間喪に服して哀悼の意を表し、服喪の期間は三日とされた。帝は東大寺および京の諸寺で七七日の斎会を営み、天下諸国に阿弥陀浄土の画像を造らせた。僧尼には『称讃浄土経』を書写させ、それぞれ国分の金光明寺で礼拝供養させた。十二月、勅して「墓を山陵と称し、国忌の斎を置く」とした(注:『続日本紀』による)。
¶皇后はかつて実家にいた頃、父に申し出て市に出かけ、諸々の商人たちに、唐から得た秤(はかり)や物差しの使い方を教え広めた。父はこれに対し「お前は国のために風儀を助け広めているのだ」と言い、この秤や物差しはほどなく天下に広まったという(注:『高僧伝』による)。成長すると書や文章にも優れ、屏風銘を作って次のように記した。「良い田を選んで種を蒔けば穀物を得やすく、君主が賢く臣下が忠実であれば国は豊かになりやすい。へつらいの言葉は人の感情を喜ばせることが多いが、正直な言葉は心に逆らい耳に痛い。正直な心を持てば神明の加護を受け、禍福は特定の門から入るのではなく、ただ人が招くものである。父母は不孝の子を愛さず、賢明な君主は無益な臣を用いない。清貧であれば長く楽しみ、濁った富であれば常に憂いがある。孝を行うには力を尽くすべきであり、忠を行うには命を尽くすべきである。君臣の間に信がなければ国政は安らかでなく、父子の間に信がなければ家庭は睦まじくない」と。また、亡き父母の冥福を祈るため、みずから金字で一切経・律・論を書写し、願文を作って各巻の末尾に記した(注:屏風銘と願文は東大寺の宝蔵にあり、銘は鳧(かも)の羽毛を織り込んで作られ、今なお現存している)。また帝のために自ら願文を製し、珍宝や玩好の品、帯・牙笏(げしゃく)、弓矢・刀剣、楽器などを東大寺に納めて供養した(注:『東大寺要録』による)。天平の初め、僧玄昉が唐より帰国すると、帝は紫の袈裟を賜って僧正とし、内道場に安置させた(注:『続日本紀』による)。皇后は玄昉を格別に寵愛し、かなり醜聞が立った(注:『今昔物語』『源平盛衰記』による。興福寺所蔵の『略年代記』には、皇后崩御の記事に「玄昉僧正がひそかに皇后と密通した」とある。『元亨釈書』には、皇后が温室(浴室)を建て「みずから千人の垢を落とそう」と誓ったこと、また皇后が僧実忠(じっちゅう)の容貌が端麗であると聞いて召し見たところ、夢の中でこれと交わったという話も伝わる。諸書を考え合わせると、皇后の醜聞は隠しようがない。旧史によれば、玄昉の栄華が日に日に盛んになり、次第に沙門としての行いから外れていったため、当時の人々はこれを憎んだという。おそらく暗にこの事情を指しているのであろうが、はばかって明記していないのである。)
縣犬養廣刀自
¶夫人県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)は、讃岐守県犬養唐(あがたのいぬかいのもろこし)の娘である(注:『一代要記』は「唐」を「麻呂」に作るが誤りである)。聖武帝がまだ皇太子であった頃、夫人として迎えられた。安積親王(あさかしんのう)・井上内親王(いのえないしんのう)・不破内親王(ふわないしんのう)を産んだ。正三位に叙せられた。天平宝字五年、都が保良(ほら)に遷ると、稲四万束を賜った。翌年十月、薨じた(注:『続日本紀』による)。
藤原氏
¶夫人藤原氏(ふじわらし)は、左大臣藤原武智麻呂の娘である。天平九年、正三位に叙せられた。天平二十年六月、薨じた(注:『続日本紀』による)。
藤原氏
¶夫人藤原氏は、中衛大将藤原房前(ふじわらのふささき)の娘である。天平九年、正三位に叙せられ、のち従二位に進んだ。天平宝字四年正月、薨じた(注:『続日本紀』による)。
廣岡古那可知
¶夫人広岡古那可智(ひろおかのこなかち)は、正四位上橘佐為(たちばなのさい)の娘である(注:『一代要記』は橘諸兄(たちばなのもろえ)の娘とするが誤りである)。天平九年、従三位に叙せられ、のち正二位に進んだ。天平宝字元年、姓を橘宿禰から改め、広岡朝臣を賜った。天平宝字三年七月、薨じた(注:『続日本紀』による)。
粟田諸姊
¶廃帝(淳仁天皇)の後宮、粟田諸姊(あわたのもろあね)は、はじめ藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の子真従(まより)に嫁いだ。真従が卒すると寡婦として過ごしていた。帝がまだ一介の王であった頃、仲麻呂は諸姊を帝に娶らせ、私邸に住まわせた。帝が即位すると、従五位下に叙せられた(注:『続日本紀』による)。
井上內親王
¶光仁天皇の皇后井上内親王(いのえないしんのう)は、聖武帝の娘である。養老五年九月、伊勢斎王となった。神亀四年九月、伊勢太神宮に仕えた。斎宮寮の官人百二十一人を補任した(注:斎王を退いた年月は伝わっていない)。天平十九年、二品に叙せられた。天平宝字五年、都が保良(ほら)に遷ると、稲十万束を賜った。神護景雲二年、太宰府の綿一万屯を賜った。光仁帝がまだ一介の王であった頃、妃として迎えられ、廃太子他戸親王(おさべしんのう)を産んだ(注:浦木の考証によれば、酒人内親王もまた井上内親王の出生であるが、『大日本史』本文では高野新笠(たかののにいがさ)の娘としている)。かつて次のような童謡があった。「葛城寺の前にあるや、豊浦寺の西にあるや、おしとど、としとど、桜井に白璧沈くや、好き璧沈くや、おしとど、としとど、然すれば国ぞ栄ゆるや、我が家ら栄ゆるや、おしとど、としとど」。識者はこれを、「井」は内親王の名を、「白璧」は帝の諱(いみな)を指しており、帝が皇位に登る徴(しるし)であろうと考えた(注:浦木の考証によれば、童謡に「白璧」とあり、光仁帝の諱は白壁王(しらかべおう)であって、両者は字形も音も近いという)。称徳帝が崩じると、群臣は光仁帝を推して即位させ、内親王を皇后に立てたが、まさしくこの予言のとおりとなった。宝亀三年三月、皇后は巫蠱(ふこ、呪詛)の罪により廃され、まもなく皇太子(他戸親王)も廃された。皇后はさらに難波内親王(なにわないしんのう)を呪詛したとされ、宝亀四年十月に難波内親王が薨じると、帝は詔して皇后と廃太子を大和国宇智郡(うちのこおり)の没官の邸に幽閉させた。宝亀六年四月、皇后と廃太子は同日に卒した(注:『水鏡』は、藤原百川(ふじわらのももかわ)が策謀を用いて皇后と太子を陥れ、廃したと伝えるが、その内容はきわめて卑猥であり、ここには採らない。『愚管抄』は、百川が皇后を土牢に閉じ込めようとしたところ、皇后が竜と化してこれを蹴り殺したと伝える。『水鏡』はまた、宝亀七年九月、毎夜のように京中の屋根に瓦や石が投げつけられたこと、宝亀八年冬、雨が降らず井戸の水が涸れ尽くしたことは、いずれも皇后の祟りによるものだと伝えている)。宝亀九年正月、従四位下壱志濃王(いしののおう)・石川垣守(いしかわのかきもり)らを遣わして皇后を改葬し、その墳墓を御墓と称して、守戸一戸を置いた(注:『続日本紀』による。『延喜式』によれば、皇后の陵は宇智郡にある)。延暦十九年、詔して皇后の位を復し、墓を山陵と称した(注:『類聚国史』『日本紀略』による。浦木の考証によれば、このとき贈られた号は吉野皇太后であるという。『大日本史』本文ではこれを採らず、吉野皇太后と高野皇太后とを混同するおそれがあるが、詳しいことはわからない)。
¶これより先、右兵衛佐槻本老(つきもとのおゆ)という者があり、光仁帝の旧臣であった。他戸親王は東宮にあって驕り高ぶり、桓武帝に対して無礼な扱いをしていた。老は心を尽くして桓武帝に仕え、ひそかに補佐しようという志を抱いていた。皇后と他戸親王は、老が帝に親しく仕えていることを聞き、しばしばこれを厳しく責めた。やがて巫蠱の事件が起こると、老はその獄を取り調べ、多くの不正を暴き出した。延暦二十二年、老の三人の子に位階を授け、かつての功に報いた(注:『類聚国史』による)。
高野皇后
¶高野皇后(たかののこうごう)は、名を新笠(にいがさ)といい、もとの姓は和氏(やまとし)で、和乙継(やまとのおとつぐ)の娘である(注:乙継の本官については伝わっていない)。その先祖は百済の武寧王(ぶねいおう)の子純陀太子(じゅんだたいし)に出るという。容姿と徳性がともに優れていた。光仁帝がまだ即位前であった頃、娶られて、桓武帝・崇道天皇早良親王(さわらしんのう)・能登内親王(のとないしんのう)(注:『続日本紀』による)・酒人内親王(さかひとないしんのう)(注:『東大寺要録』が引く『日本後紀』による。浦木の考証によれば、『東大寺要録』を見ると酒人内親王は吉野皇后であるという。井上内親王は延暦十九年の詔により后位を復されて吉野皇后となっているので、酒人内親王はまさに井上内親王の出生であるはずである。これによれば、『大日本史』本文の記述はおそらく誤りであろう)を産んだ。宝亀年間、姓を高野朝臣に改め、従三位を授けられ、まもなく夫人となった。桓武帝が即位すると皇太夫人と尊ばれ、中宮職が置かれた。延暦八年十二月、病が重くなった。畿内・七道の諸寺に勅して大般若経を七日間読誦させ、その病の平癒を祈らせたが、数日ののち崩じた。帝は錫紵(しゃくちょ、喪服)をまとって正殿を避け、西廂に出御し、皇太子および群臣を率いて哀悼の意を表した。百官および畿内の民は三十日を服喪の期間とし、それぞれの管轄の百姓を率いて哀悼した。ただし神郡はこの限りではなかった。また七七日の御斎を行い、天下の国分二寺(国分寺・国分尼寺)に読経させた。七日ごとに使者を諸寺に遣わして読経させた。翌年正月、追尊して皇太后とし、諡して天高知日子姬尊(あめたかしるひこひめのみこと)とした。百済の遠祖都慕王(ともおう)は、河伯(かはく)の娘が日の精気に感応して生んだ子であるという。皇太后はその子孫にあたるため、このような諡号を奉ったのである。大枝山陵(おおえのさんりょう)に葬られた。十一月、勅して、「中宮の一周忌は来月二十八日にあたる。喪の礼はにわかに終わろうとし、新年もまもなくやってくる。忌日が急に迫り、限りない哀しみがいよいよ切実であるのに、正月が始まったからといって、どうして新たな喜びを受け入れることができようか。思うにつけても深く悲しみ、自らを抑えることができない。賀正の礼は停止すべきである」と述べた。十二月にはさらに詔して、「外祖父高野朝臣(乙継)、外祖母土師宿禰(はじのすくね)には、ともに正一位を追贈し、土師氏を改めて大枝朝臣とする」とした(注:『続日本紀』による)。大同元年、追尊して太皇太后とした(注:『日本紀略』による)。皇太后の姪にあたる和家麻呂(やまとのいえまろ)は、桓武朝に仕えて内外の要職を歴任し、従三位中納言に至った(注:『公卿補任』による)。また百済玄鏡(くだらのげんきょう)・仁貞(にんじょう)・鏡仁(きょうにん)らは、外戚であることから、延暦年間に詔して爵位を加え授けられた(注:『続日本紀』による)。
藤原曹子
¶夫人藤原曹子(ふじわらのそうし)(注:「曹子」は「司」とも書く)は、左大臣藤原永手(ふじわらのながて)の娘であり、文筆をたいへん好んだ(注:『一代要記』『系図』による)。入宮して従三位に叙せられた。宝亀八年八月、夫人となった。延暦二年、正三位となった(注:『続日本紀』による。『一代要記』には夫人従三位紀宮子(きのみやこ)という記載があるが、『日本紀』を通覧すると、宮子は宝亀年間に従四位下に叙せられ、延喜五年に至ってようやく従三位となったとあり、夫人になったとは記されていないため、ここでは採らない)。延暦十二年十一月、薨じた(注:『一代要記』による)。
尾張女王
¶尾張女王(おわりじょおう)は、湯原親王(ゆはらしんのう)の娘で、従四位下に叙せられた(注:『一代要記』による)。稗田親王(ひえだしんのう)を産んだ(注:『一代要記』『皇胤紹運録』による)。
縣犬養男耳
¶県犬養男耳(あがたのいぬかいのおみみ)は、はじめ女嬬(にょじゅ)であり、従五位下に叙せられた。光仁帝がまだ即位前であった頃に召され、広根諸勝(ひろねのもろかつ)を産んだ(注:『姓氏録』による)。
島姬
¶島姫(しまひめ)は、県主毛人(あがたぬしのえみし)の娘で、弥努摩内親王(みぬまないしんのう)を産んだ(注:『皇胤紹運録』による)。
藤原皇后(乙牟漏)
¶桓武天皇の藤原皇后乙牟漏(おとむろ)は、内大臣藤原良継(ふじわらのよしつぐ)の娘である。桓武帝がまだ東宮にあった頃、妃として迎えられた。延暦二年、正三位を授けられて夫人となり、四月には皇后に立てられた。平城帝(へいぜいてい)・嵯峨帝(さがてい)・高志内親王(たかしないしんのう)を産んだ。皇后は性質が柔和で、容姿も美しく、女性としての規範に通じ、母たるにふさわしい徳を備えていた。延暦三年十月、皇后の母阿部古美奈(あべのこみな)が卒すると、帝は使者を遣わして喪事を監護させた。十一月、都が長岡(ながおか)に遷ったが、皇后は喪に服していたため従わず、皇太夫人(高野新笠)もまた平城京に留まった。帝が使者を遣わして迎えると、皇后はついに皇太夫人に従って平城京から遷って来た。翌延暦四年夏、赤雀(せきじゃく)が皇后宮に現れ、帝はこれを瑞祥として、天下の位を持つ者には爵を賜り、宮司・主典以上の者には爵位を進めた。延暦九年閏三月、皇后は病が重くなった。勅して僧二百人を得度させ、また京畿の高齢者・寡夫寡婦・孤児・独居の病人で自活できない者たちにあまねく賑恤(しんじゅつ、施し)を加えた。皇后は崩じ、齢三十一であった。帝は近衛府に御座を移し、京畿・七道に命じて、この月十八日から素服を着て哀悼の意を表させ、月末を限りとした。諡して天之高藤廣宗照姬之尊(あめのたかふじひろむねてるひめのみこと)とした(注:『高僧伝』には皇后を「威瑞応祥皇后」と称しているが、旧史には見えないため、ここには記さない)。長岡山陵に葬られた(注:『続日本紀』による)。平城帝が即位すると、追尊して皇太后とし、母の古美奈には正一位を追贈した(注:『日本紀略』による)。天安二年、詔して荷前(のさき)の幣を奉らせた(注:『三代実録』による。本書の『清和紀』には、太皇太后藤原氏長岡山陵に贈るという記事があるが、太皇太后の尊号を追上した年月は伝わっていない。『類聚国史』『日本紀略』によれば、淳和帝が即位した際、皇太后を尊んで太皇太后としたが、当時は皇太后が不在であったため、いわゆる「太皇太后を贈る」というのはこのことを指すのであろう)。
藤原皇后(旅子)
¶藤原皇后、名を旅子(たびこ)といい、式部卿藤原百川(ふじわらのももかわ)の娘である。延暦四年、従三位を授けられ、翌延暦五年正月、夫人となった。淳和帝(じゅんなてい)を産んだ。延暦七年五月、薨じた。齢三十であった。中納言藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)・参議壱志濃王(いしののおう)らを遣わして喪事を監護させ、中納言石川名足(いしかわのなたり)・参議紀古佐美(きのこさみ)がその邸で詔を宣べ、妃に正一位を追贈した(注:『続日本紀』による)。淳和帝が即位すると、詔して、「皇妣(生母)は享年短く、早くに天に昇られた。朕は幼少のみぎり、すでにその慈しみを受けそこなった。徽号を追上し、皇太后と申し上げる」とした(注:『日本紀略』による)。天長元年、皇太后の忌月にあたることから、詔して五月の節会を停止した(注:『類聚国史』による)。
酒人內親王
¶妃酒人内親王(さかひとないしんのう)(注:『一代要記』には、内親王は宝字三年十一月に斎王となったとある。また同書が引く『神祇記』には、宝字二年四月八日、内親王が春日宮(かすがのみや)に遷ったが、太神宮には参らなかったとある。しかしいずれも旧史には見えないため、ここでは採らない)は、宝亀元年、三品に進んだ。宝亀三年、伊勢斎王となり、宝亀五年九月、伊勢に至った(注:『続日本紀』による)。年を経て京に還った。容貌が美しく、帝はこれを後宮に納れた。朝原内親王(あさはらないしんのう)を産んだ。素行は慎みに欠けていたが、帝はこれを禁じなかった(注:浦木の考証によれば、『大日本史』本文では酒人内親王を高野皇后の娘として列しているが、実際には井上内親王の娘であり、他戸親王の同母妹にあたるという。また『公卿補任』によれば、藤原百川が井上内親王を誣告し、桓武帝を助けて皇位に登らせたとされる。もしそうであれば、桓武帝はこの一件に対して負い目があったため、酒人内親王の素行を禁じなかったのであろう)。弘仁年間になって二品を授けられ、常に東大寺で万灯会を行った。天長六年八月、薨じた。齢七十六であった(注:『東大寺要録』が引く『日本後記』による)。
藤原吉子
¶夫人藤原吉子(ふじわらのよしこ)は、右大臣藤原是公(これきみ)の娘である(注:『系図』による)。延暦二年、従三位を授けられて夫人となった(注:『続日本紀』による)。伊予親王(いよしんのう)を産んだ。大同二年、伊予親王の事件に連座して河原寺(かわらでら)に幽閉され、毒薬を仰いで死んだ(注:『日本紀略』による)。承和六年九月、従三位を追贈された。詔して、「亡き無位藤原朝臣吉子は、不遇な境遇に遭い、爵位を失った。時が移り事情も変わったので、これを追悼して魂を弔いたい。もとの位階を復し、その墓所を照らすべきである」とした。十月、祟りがあるとして、さらに従二位を追贈した(注:『続日本後紀』による)。
多治比真宗
¶夫人多治比真宗(たじひのまむね)は、参議多治比長野(たじひのながの)の娘である。葛原親王(かずらわらしんのう)・佐味親王(さみしんのう)・賀陽親王(かやしんのう)・大徳親王(だいとくしんのう)の四親王と、因幡内親王(いなばないしんのう)・安濃内親王(あのうないしんのう)の二内親王を産んだ(注:葛原親王は『日本紀略』『文徳実録』により、佐味・賀陽・大徳の三親王と因幡内親王は『皇胤紹運録』『帝王編年記』により、安濃内親王は『続日本後紀』『皇胤紹運録』による)。正三位に進んで夫人となった。弘仁十四年六月、薨じた。齢五十五であった。淳和帝は詔して正二位を追贈した。葬儀にあたっては葬司を任命し、四位二人、五位五人、六位以下十一人を配した(注:『日本紀略』による)。
藤原小屎
¶夫人藤原小屎(ふじわらのおくそ)は、中務大輔藤原鷲取(わしとり)の娘である。万多親王(まんだしんのう)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』による)。
紀乙魚
¶女御紀乙魚(きのおとうお)は、正五位上に叙せられた。承和三年、従四位下を授けられ、承和七年五月、卒した(注:『続日本後紀』による)。
百濟教法
¶女御百済教法(くだらのきょうほう)は、従四位下に叙せられた。承和七年十一月、卒した(注:『続日本後紀』による。『一代要記』には、参議藤原家依(いえより)の娘藤原仲子(なかこ)が桓武帝の女御となったとあり、『藤原系図』には、式部卿藤原宇合(うまかい)の孫で清成(きよなり)の娘である正子(まさこ)が桓武帝の女御となり皇后を追贈されたとある。いずれも他の書には見えないため、ここでは採らない)。
橘常子
¶橘常子(たちばなのつねこ)は、兵部大輔橘島田麻呂(しまだまろ)の娘である。入宮して寵愛を受け、大宅内親王(おおやけないしんのう)を産んだ。従三位を授けられた。桓武帝が崩じると、出家して尼となった(注:『日本紀略』による)。嵯峨帝が即位すると、新銭百貫を賜った(注:『類聚国史』による)。弘仁八年八月、薨じた。齢三十であった(注:『日本紀略』による)。
橘御井子
¶橘御井子(たちばなのみいこ)は、左中弁橘入居(いりい)の娘である。賀楽内親王(かがくないしんのう)・菅原内親王(すがわらないしんのう)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』による。入居を左中弁とするのは『橘氏系図』による)。従四位下に叙せられ、嘉祥二年、従三位に進んだ(注:『続日本後紀』による)。
坂上春子
¶坂上春子(さかのうえのはるこ)は、大納言坂上田村麻呂(たむらまろ)の娘である。従四位下に叙せられ、葛井親王(かどいしんのう)・春日内親王(かすがないしんのう)を産んだ(注:『文徳実録』による。春日内親王については『皇胤紹運録』による)。
紀若子
¶紀若子(きのわかこ)(注:「若」は「穉」とも書く)は、大納言紀船守(ふなもり)の娘である(注:『一代要記』『皇胤紹運録』による)。延暦八年、従五位上に叙せられ、延暦十年、従四位下に進んだ(注:『続日本紀』による)。明日香親王(あすかしんのう)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』による)。
坂上又子
¶坂上又子(さかのうえのまたこ)(注:『続日本後紀』『三代実録』では「又」を「全」に作る。「又」と「全」は訓読みが近いためであろう)は、左京大夫坂上苅田麻呂(かりたまろ)の娘である。桓武帝がまだ東宮であった頃、選ばれて入宮し、正五位上を授けられた。高津内親王(たかつないしんのう)を産んだ。延暦九年七月、卒した(注:『続日本紀』による)。
藤原上子
¶藤原上子(ふじわらのじょうし)は、大納言藤原小黒麻呂の娘である。正五位下を授けられ、滋野内親王(しげのないしんのう)を産んだ(注:『文徳実録』による)。
藤原河子
¶藤原河子(ふじわらのかわこ)は、従四位上藤原大継(おおつぐ)の娘である。選ばれて入宮し、従五位上に叙せられた(注:『文徳実録』『三代実録』による)。仲野親王(なかのしんのう)・安敕内親王(あんちょくないしんのう)・大井内親王(おおいないしんのう)・紀内親王(きないしんのう)・善原内親王(よしはらないしんのう)を産んだ(注:『三代実録』による。安敕内親王は『文徳実録』による)。弘仁八年、従四位下に進んだ(注:『日本紀略』による)。承和五年正月、卒した(注:『続日本後紀』による)。
河上好
¶河上好(かわかみのよし)(注:『皇胤紹運録』では川上貞奴(かわかみのさだやっこ)に作る)は、外従五位下錦部春人(にしごりのはるひと)の娘である。従五位上を授けられ、坂本親王(さかもとしんのう)を産んだ(注:『一代要記』による)。
百濟教仁
¶百済教仁(くだらのきょうにん)は、従五位上百済武鏡(たけかがみ)の娘である(注:『一代要記』による。本書は「従五位下」に作るが、『続日本紀』によりここに訂正する)。従五位下に叙せられた。太田親王(おおたしんのう)を産んだ(注:『一代要記』『帝王編年記』による)。
百濟貞香
¶百済貞香(くだらのさだか)は、四位下に叙せられた百済教徳(きょうとく)の娘である。従五位下に叙せられた(注:『一代要記』による。本書は「教徳」を「教法」に作るが、ここでは『皇胤紹運録』に従う)。駿河内親王(するがないしんのう)を産んだ(注:『一代要記』『皇胤紹運録』による)。
藤原東子
¶藤原東子(ふじわらのとうし)は、中納言藤原種継(たねつぐ)の娘である。甘南美内親王(かんなみないしんのう)を産んだ(注:『日本紀略』『皇胤紹運録』による。「東子」の表記は『紹運録』による)。
藤原南子
¶藤原南子(ふじわらのなんし)は、中納言藤原乙叡(おとえい)の娘である。伊登内親王(いとないしんのう)を産んだ(注:『三代実録』『皇胤紹運録』による。「南子」の表記は『紹運録』による)。
中臣豐子
¶中臣豊子(なかとみのとよこ)は、正六位上中臣大魚(おおうお)の娘である。布勢内親王(ふせないしんのう)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。大魚を正六位上とするのは『要記』による)。
橘田村子
¶橘田村子(たちばなのたむらこ)は、橘入居の娘である。池上内親王(いけがみないしんのう)を産んだ(注:『皇胤系図』『一代要記』『帝王編年記』による。『皇胤紹運録』には、池上内親王の母は賀楽内親王の母と同じ、すなわち橘御井子であるとする。そうであれば、田村子は御井子と同一人物であろうか。『橘氏系図』には御井子のみが載り、田村子の名はない。ここでは『要記』『編年記』に従う。また『三代実録』によれば、藤原良縄(よしただ)の室は橘入居の娘で名を田村子というとある。おそらく田村子ははじめ桓武帝の宮人であり、のちに良縄に嫁いだのであろう)。
多治比豐繼
¶多治比豊継(たじひのとよつぐ)は、はじめ女孺(にょじゅ)であった。長岡岡成(ながおかのおかなり)を産んだ(注:『一代要記』による。『皇胤紹運録』は多治比豊継の娘とするが、ここでは『姓氏録』に従う)。
百濟永繼
¶百済永継(くだらのえいけい)は、正五位上飛鳥部奈止丸(あすかべのなとまろ)の娘である(注:『公卿補任』による)。はじめ藤原内麻呂(うちまろ)に嫁ぎ、真夏(まなつ)・冬嗣(ふゆつぐ)を産んだ(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。のちに入宮して女孺となり、良岑安世(よしみねのやすよ)を産んだ。従七位下を授けられた(注:『姓氏録』『公卿補任』による。『尊卑分脈』は従五位上、あるいは従五位下に作る)。