卷之二百卌三 列傳第一百七十

諸蕃十二

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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文字

宋

宋(そう)。宋の初代皇帝は姓を趙(ちょう)、名を匡胤(きょういん)という。後周(こうしゅう)に仕えて殿前都点検(でんぜんとてんけん)となり、周の恭帝(きょうてい)の禅譲を受けて帝位に即き、国号を改めて宋とした。これが太祖(たいそ)である(注:『宋史』による)。この年は村上天皇の天徳四年にあたる(注:『帝王編年記』『和漢合運』による)。円融天皇の貞元元年、宋の太祖が崩じ、弟の炅(けい)が立って太宗(たいそう)となった(注:『宋史』による)。天元五年、僧の奝然(ちょうねん)が宋に渡った(注:『扶桑略記』『百錬抄』による)。宋の皇帝は奝然を召して日本の歴代天皇の系譜について尋ねたところ、奝然の答えは詳細を極めた。皇帝はこれを称賛し、紫衣を賜った。一条天皇の永延元年秋、奝然は宋の商人鄭仁徳(ていじんとく)の船に乗って帰国した(注:『元亨釈書』による)。同年冬、宋の商人朱仁聡(しゅじんそう)が若狭(わかさ)に到着した。永延二年、奝然は弟子の嘉因(かいん)を遣わし、宋の僧祈乾(きけん)を通じて宋の皇帝に上表文を奉らせた(注:『扶桑略記』による)。長徳三年、朱仁聡が若狭守兼隆(かねたか)を侮辱する事件があった(注:兼隆の姓は不詳)。朝廷は仁聡らの罪を審議するよう勅命を下した(注:『百錬抄』による)。この年、宋の太宗が崩じ、太子の恒(こう)が立って真宗(しんそう)となった(注:『宋史』による)。長保四年、僧の寂照(じゃくしょう)が宋への入国と五台山(ごだいさん)巡礼を願い出て、許可された(注:『百錬抄』による。ただし『扶桑略記』『帝王編年記』はいずれも長保五年のこととし、『帝王編年記』の一本には寛和二年ともある)。宋の皇帝は寂照に円通大師(えんつうだいし)の号を賜った(注:『扶桑略記』『宋史』による)。寛弘二年、宋の商人曾令文(そうれいぶん)が来朝した。三条天皇の長和四年、寂照ら五人に戒牒(かいちょう)が賜与された。左大臣藤原道長(ふじわらのみちなが)もまた寂照に書状を贈った。宋の商人周文裔(しゅうぶんえい)は孔雀を献上した(注:『百錬抄』による)。後一条天皇の治安二年、宋の真宗が崩じ、太子の禎(てい)が立って仁宗(じんそう)となった(注:『宋史』による)。万寿四年、宋の商人陳文祐(ちんぶんゆう)が来朝し、寂照は太政大臣藤原道長に書状を贈った(注:『百錬抄』による)。長元三年、寂照は宋で没した(注:『帝王編年記』による)。後朱雀天皇の長暦元年、宋の商人慕安誠(ぼあんせい)らが来朝した(注:『百錬抄』による)。寛徳元年、宋人が但馬(たじま)に到着し、散位中原長国(なかはらのながくに)、民部丞藤原行任(ふじわらのゆきとう)らが派遣されて事情を尋ねた(注:『扶桑略記』では行任は生行とする)。朝議によりこれを送還することとした。ところが国司源章任(みなもとのあきとう)が私的にその積荷を奪い取ったため、商人張守隆(ちょうしゅりゅう)らがこれを訴えた(注:原本には「諸卿が朝議を行った」とあるだけで、その裁定の内容は欠けており、詳細は不明である)。これより先、筑前(ちくぜん)の住人清原守武(きよはらのもりたけ)が密かに宋へ渡航したため、その罪を審議し流罪に処した(注:『百錬抄』による)。後冷泉天皇の永承二年、太宰府(だざいふ)に滞在していた宋の商人が宿舎に放火して逃走したが、太宰府はただちに捕らえて投獄した。永承三年、太宰府が宋の暦を献上したところ、日本の暦と一致していた(注:『扶桑略記』『百錬抄』による)。同年秋、宋の商船が来航し、朝議によりこれを送還することとした。永承五年、官符により宋の商人張守隆らを但馬に安置した。康平元年、宋からの漂流民守道利(しゅどうり)が大隅(おおすみ)で殺人を犯し、朝廷はその罪を裁決した(注:『百錬抄』による)。康平三年、宋の商人林表(りんひょう)、候改(こうかい)が越前(えちぜん)の敦賀津(つるがのつ)に至ったので、国司に命じてただちに送り返させようとした(注:『扶桑略記』による。『百錬抄』では林表を林養、候改を俊政とする)。林表らは哀訴して言った。「旅の途中ですでに長い月日が経ち、食料も底をつきかけております。折しも天候は寒く風も激しく、海路は危険が多うございます。どうか朝廷におかれましては、遠方より参った者に憐れみをお垂れくださいますよう。」そこで宮符を下してこれを安置した(注:『扶桑略記』による)。康平六年、宋の仁宗が崩じ、英宗曙(えいそうしょ)が立った(注:『宋史』による)。治暦二年、宋の商人王満(おうまん)が鸚鵡や薬種などを献上した(注:『扶桑略記』『百錬抄』による)。これより先、宋人盧範(ろはん)が漂着した際、朝廷は食糧を与えて送還するよう命じた。盧範の母はその子に品物を献上させて謝恩の意を示させた(注:『百錬抄』による。盧範の名は『扶桑略記』による)。治暦三年、英宗が崩じ、神宗頊(しんそうきょく)が立った(注:『宋史』による)。

後三条天皇の延久元年、宋人盧範に厚く物を賜って送還した。延久四年春、大雲寺(だいうんじ)の僧成尋(じょうじん)が宋の商人孫忠(そんちゅう)の船に乗って入宋した(注:『扶桑略記』による。孫忠の名は『善隣国宝記』による。原本では曾聚とする)。宋の福州(ふくしゅう)の商人潘懐清(はんかいせい)が太宰府に至り、仏像や書籍を持参していたので、朝議によりこれを受け取り安置した(注:『朝野群載』による)。延久五年、宋の皇帝は成尋に託して金泥法華経(こんでいほけきょう)、一切経(いっさいきょう)および錦二十段を献上した(注:『百錬抄』による。原本では成尋が帰朝した際のこととするが誤りである。『元亨釈書』では成尋が宋の皇帝に願い出て新訳の経典三百余巻を献上させたとする)。承保二年、宋の皇帝は再び成尋に託して贈り物をした。朝廷は公卿および諸道の博士に、返礼の品について審議させた。白河天皇の承暦元年、宋の商人孫忠(注:孫忠の名については諸書に異同があり、詳細は本紀に記す)に託して、宋の皇帝に六丈絹二百疋、水銀五千両を贈った(注:『百錬抄』による)。承暦二年、宋の商人孫吉(そんきち)が公文書を携えて太宰府に至った。その文書には「日本国太宰府に賜う。藤原経平(ふじわらのつねひら)をしてこれを執行せしむ」とあった(注:『善隣国宝記』による)。承暦四年、宋の皇帝は再び孫忠に託して錦や綾などの品を献上した(注:『百錬抄』による)。当初、宋がたびたび贈り物を献じてきたことについて、朝議では「宋との国交は久しく途絶えていたのに、近年頻繁に使者が来るのは、その真意が測りがたい」とされていた。まもなく孫忠が太宰府に到着した際、太宰府の役人が「孫忠は返事を待たずに立ち去ってしまった」と報告してきた。また孫忠は越前の敦賀津に至り、宋からの公文書を提出した(注:『扶桑略記』による)。その文書には「大宋国明州(めいしゅう)、日本国に牒す」とあった(注:『善隣国宝記』による)。審議した者たちは、その文書の言葉遣いが礼を失していると疑い、結局正式な返書は贈らなかった。ただ太宰大弐(だざいのだいに)に命じて略式に贈り物をさせた(注:大弐の姓名は不詳)。永保二年、返書を孫忠に託して宋に送った。この年、宋の商人が鸚鵡を献上した(注:『百錬抄』による)。応徳二年、宋の神宗が崩じ、哲宗煦(てっそうく)が立った(注:『宋史』による)。堀河天皇の寛治二年、宋人張仲(ちょうちゅう)が豹を献上したが、これを退けた(注:『百錬抄』による)。康和二年、宋の哲宗が崩じ、徽宗佶(きそうきつ)が立った(注:『宋史』による)。長治二年、宋の泉州(せんしゅう)の綱首(こうしゅ、貿易船の統率者)李充(りじゅう)が太宰府に至り、府の役人は先例に従って事情を尋ねた。李充らは本国発行の証明書を提出し、交易を求めた(注:『朝野群載』による)。鳥羽天皇の永久四年、宋人が公文書を送ってきた。元永元年、宋の皇帝の使いとして商人孫俊明(そんしゅんめい)、鄭清(ていせい)が書状を贈ってきたが、その言葉遣いは甚だ尊大であった(注:『善隣国宝記』『帝王編年記』『歴代皇紀』による。『百錬抄』に元永元年、宋から送られた公文書について審議したとあるのは、おそらくこのことである)。朝廷は学者にその返書の書式について審議させた。式部大輔菅原在良(すがわらのありよし)は次のように論じた。「推古天皇十六年、隋の煬帝(ようだい)の国書には『皇帝、倭皇(わこう)に問う』とありました。天智天皇十年、郭務悰(かくむそう)が来朝した際の国書には『大唐皇帝、敬んで日本国天皇に問う』とありました。これまでの先例は、おおむねこのようなものです」(注:『善隣国宝記』による)。そこで朝議により返書を送らないこととし、ただ太宰府から公文書を出して返礼の品を贈ることとした(注:『百錬抄』による)。崇徳天皇の天治二年、金(きん)が宋を攻めた。宋の皇帝は太子桓(かん)に位を譲り、これが欽宗(きんそう)である。金は宋の皇帝父子を捕らえて北方へ連行し、二人の皇帝はともに金の地で崩じた。宋の皇帝の弟康王構(こう)が応天府(おうてんふ)で即位し、これが高宗(こうそう)である。高宗は逃れて臨安(りんあん)を守り、ついにそこを仮の朝廷とした。二条天皇の応保二年、高宗は孝宗昚(こうそうしん)に位を譲った(注:『宋史』による)。高倉天皇の嘉応二年、宋人が平清盛(たいらのきよもり)の福原荘(ふくはらのしょう)を訪れ、後白河法皇(ごしらかわほうおう)がこれを親しく御覧になった。当時の人々はこれを非難し、「延喜(えんぎ)の頃よりこのかた、このようなことは一度もなかった」と言った。承安二年、宋から国書と贈り物が届いたが、朝議ではその文言に礼を失するところがあるとしてこれを退けるべきだとした。しかし後白河法皇はこれを聞き入れず、翌年、書状と染め革三十枚、砂金百両を贈って返礼とした(注:『玉海』による。『宋史』日本伝には「宋の乾道九年、明州の綱首に託してその国の産物を届けさせた」とあるが、乾道九年は承安三年にあたる。また「淳熙二年、倭船の滕大明(とうたいめい)が鄭作(ていさく)を殴り殺した」ともあるが、これは安元元年にあたる。『平家物語』には「安元の春、平重盛(たいらのしげもり)が黄金三千五百両を鎮西の船頭妙典(みょうてん)に託し、宋の育王山(いくおうざん)の住持仏照(ぶっしょう)禅師に施した」とあり、『宋史』の年紀と合致するが、事実かどうかは分からない。今はひとまずここに注記し、参考に供する)。宋の高宗が崩じ、光宗惇(こうそうとん)が立った。崩じて寧宗拡(ねいそうかく)が立った。崩じて理宗昀(りそういん)が立った。崩じて度宗禥(どそうき)が立った。崩じて恭宗㬎(きょうそうけん)が立った。元(げん)の軍が侵攻し、宋の皇帝は降伏して北へ連行され、その途上、砂漠の地で崩じた。群臣は宋の皇帝の兄昰(し)を立てたが、元に攻められて礪州(れいしゅう)で崩じた。これが端宗(たんそう)である。弟の昺(へい)が立ったが、これもまた元に敗れ、厓山(がいざん)の海で崩じた。ここに趙氏の宋は滅んだ。宋は十八代の皇帝、三百二十年続いた(注:『宋史』による)。この年は後宇多天皇の弘安二年にあたる。

元

元(げん)。元の皇帝忽必烈(フビライ)は、その先祖はモンゴル部の出身である(注:『元史』による)。かつて五代の梁(りょう)・唐(とう)の頃、契丹(きったん)の阿保機(あぼき)がその周辺の小国を併合して服属させ、皇帝を称し、その居地の地名を姓として世里(せいり)と名乗った。世里は通訳の言葉で耶律(やりつ)という(注:『五代史』による)。阿保機の死後、徳光(とくこう)が跡を継ぎ、唐の営州(えいしゅう)・平州(へいしゅう)などを攻め落とした。石敬塘(せきけいとう)はその軍事力を恐れて唐を滅ぼし、父子の関係を結ぶ約束をした。徳光は雁門(がんもん)以北の十六州の地を取り、幽州(ゆうしゅう)を燕京(えんけい)とし、その後さらに晋(しん)を滅ぼしてその地の多くを併合し、国号を改めて遼(りょう)とした。徳光の死後、兀欲(ごつよく)が立って阮(げん)と改名した。その死後、述律(じゅつりつ)が立って璟(けい)と改名した(注:『遼史』『五代史』による)。その死後、賢(けん)が立った。死後、隆緒(りゅうしょ)が立った。しばしば宋と互いに攻め合ったが、宋の皇帝恒は歳幣として銀十万両、絹二十万匹を贈り、和睦して親交を結ぶ約定とした(注:『宋史』『遼史』による)。堀河天皇の寛治年間、貿易船が契丹に至り、契丹の商人道言(どうげん)、能算(のうさん)らも来航したが、取引をめぐって争いが生じたため、以後の往来を禁止した(注:『百錬抄』による)。鳥羽天皇の永久年間、女真族(じょしんぞく)の完顔阿骨打(ワンヤンアグダ)がまた皇帝を称し、国号を金(きん)とし、旻(みん)と改名した。その死後、弟の呉乞買(ウキマイ)が立って晟(せい)と改名し、宋と約して契丹を攻めこれを滅ぼした。まもなくまた宋を攻めて汴京(べんけい)を陥落させ、宋の皇帝父子を捕らえて連れ去った。完顔亮(ワンヤンリャン)の代に至り、都を燕、次いで汴に移したが、殺害された。烏禄(ウル)が自立して雍(よう)と改名し、再び燕に都を戻した。孫の珣(じゅん)の代になって、再び汴に都を移した(注:『金史』による)。

モンゴルは代々遼・金に朝貢していたが、鉄木真(テムジン)に至って初めて皇帝を称し、ついに燕京を攻めてこれを取った。鉄木真の死後、太祖(たいそ)と号した。子の窩闊台(オゴタイ)が立った。四条天皇の文暦元年、宋と共に金を滅ぼした。窩闊台の死後、太宗(たいそう)と号した。貴由(グユク)が立ち、死後定宗(ていそう)と号した。蒙哥(モンケ)が立ち、死後憲宗(けんそう)と号した。忽必烈(フビライ)はその弟である(注:『元史』による)。亀山天皇の文永五年、高麗(こうらい)がその臣下潘阜(はんふ)に国書とモンゴルの国書を持たせて日本に送ってきた(注:『関東評定伝』『八幡愚童訓』による。『元史』ではこれを文永四年のこととする。『五代帝王物語』には「モンゴルの趙良弼(ちょうりょうひつ)が高麗の使者とともに来た」とあるが、『元史』によればこのとき国信使を務めたのは黒的(こくてき)であって良弼ではないため、これは採らない)。モンゴルの国書の大意は次の通りである。「大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。我が祖先は天の明命を受け、広く天下を領有し、遠方の異域にあってその威徳になびかぬ者は数えきれぬほどである。朕が即位した当初、高麗の罪なき民が長らく戦火に苦しんでいたので、ただちに兵を止めさせ、その領土を返し、その老幼を返還した。高麗の君臣は感謝して来朝し、君臣の義はありながらも、その喜びはあたかも父子のようであった。王の君臣もすでにこのことを知っているであろう。高麗は朕にとって東の藩国である。日本は高麗に近く、建国以来しばしば中国と通交してきた。ところが朕の代になってからは、一艘の使者も遣わされず、友好を通じることがない。王国がこの事情をまだよく知らないのではと案じ、特に使者に書を持たせて朕の志を告げるものである。願わくは今より以後、互いに使者を通わせ好誼を結び、親睦を深めたい。そもそも聖人は天下を一家とみなすものであり、互いに好誼を通じないのは一家の道理に反するのではないか。ついに兵を用いるに至っては、いったい誰がそれを望むであろうか。王はよくよくお考えいただきたい。」日本はこれに返書をせず、使者を送り返した。使者は密かに沿海の要害の地を偵察してから去った(注:『八幡愚童訓』による)。文永六年春、モンゴルはその臣下兵部侍郎黒的(こくてき)、礼部侍郎殷弘(いんこう)を遣わして返書を求めてきたが、対馬(つしま)はこれを拒んで受け入れなかった。黒的らは島の住人塔二郎(とうじろう)、弥二郎(やじろう)の二人を捕らえて去った(注:『五代帝王物語』による。黒的らの名は『元史』、塔二郎らの名は『関東評定伝』による。『元史』ではこれを文永五年のこととする)。同年秋、高麗の金有成(きんゆうせい)、高柔(こうじゅう)がモンゴルおよび高麗の国書を持って来朝し、あわせて塔二郎、弥二郎を送り返した(注:『関東評定伝』による)。文永八年十月、モンゴルの使者祕書監趙良弼(ちょうりょうひつ)らが来て太宰府に到着した(注:良弼の官職は『元史』による)。少弐(しょうに)がその国書を求めたところ(注:原本には「少卿」とあるが、その人物名は記されておらず、今は考証しようがない)、良弼は「国書は私自身が都まで届けねばならず、少々のことでは手放せない」と言った。少弐は「異民族の使者が直接帝都に至るのはふさわしくない」として、なおも国書の提出を求めてやまなかった。良弼はその写しを作って提出した。その国書の大意はおよそ次のようであった。「王たる者に外はなく、高麗はすでに我が一家となり、貴国もまた実質上の隣国である。かつて使者を送って好誼を通じようとしたが、その後何の音沙汰もなかった。今再び趙良弼を遣わす。もし使者を立てて彼とともに来られれば、親しみ善隣を結ぶことは国家の美事であるが、もし躊躇して兵を用いるに至るならば、いったい誰がそれを喜ぶであろうか。」(注:『吉続記』による。原本はその国書の大意を記すのみであるため、今は『元史』によって内容を補った。)この時、モンゴル側は必ず返書が得られるものと考え、十一月を期限としたが、返書はなかった。十二月、良弼は張鐸(ちょうたく)を本国に帰した(注:『吉続記』『関東評定伝』による。返書がなかったことは『五代帝王物語』による。『元史』には「守護所が派遣した二十六人が張鐸とともに燕に至り、元の皇帝に謁見を求めた」とあり、『尊卑分脈』に「足利義継(あしかがよしつぐ)が唐へ渡った」とあるのは、あるいはこの中の一人かとも思われるが、他の書には見えないため採らない)。文永九年五月、張鐸が高麗の国書を持って再び太宰府に至ったが、受け入れられなかった(注:『関東評定伝』による。『元史』では「文永十年六月、良弼が再び太宰府に至ったが受け入れられなかった」とする)。文永十一年、モンゴルの船四百五十艘、兵約三万が対馬に至った。守護代の右馬允(うまのじょう、注:『関東評定伝』では藤馬允とする)惟宗助国(これむねのすけくに)は一族を率いて防戦したが、ことごとく戦死した。モンゴル軍はさらに壱岐島(いきのしま)を攻め、守護代平景隆(たいらのかげたか)が戦死した(注:『八幡愚童訓』『日蓮注画讃』による。『愚童訓』では景隆を経高とする)。モンゴル軍は二島を占領し、男は皆殺しにし、女は手のひらに穴を開けて船縁に縛りつけた。さらに肥前(ひぜん)の松浦(まつら)を侵し(注:『日蓮注画讃』による)、進んで太宰府の筥崎(はこざき)、今津(いまづ)、佐原(さわら)などを攻めた。守備兵は防戦に苦しみ、多くの死傷者を出した。少弐景資(しょうにかげすけ)はモンゴル軍の大将の一人を射て命中させた(注:『八幡愚童訓』による。原本には「敵将流将公」とあるが、『東国通鑑』を考証すると「流将」は「復将」の誤りであろう。「流」と「劉」は音が近く、おそらく元の将軍劉復亨(りゅうふくこう)のことである)。その夜、大風雨があり(注:『東国通鑑』による)、敵の船の多くが沈没し、モンゴル軍は退却した(注:『一代要記』『歴代皇紀』『皇代略記』『東寺長者補任』による)。夜が明けてから鎮西の兵士がこれを追撃したが追いつかず、船一艘、百二十人を捕獲してこれを斬った(注:『八幡愚童訓』による。『一代要記』では捕獲した船一艘に賊六十人とする)。

後宇多天皇の建治元年四月、これより先モンゴルは国号を元(げん)と改めていたが、この時に至り礼部侍郎杜世忠(とせいちゅう)、兵部侍郎何文著(かぶんちょ)、計議官撒都魯丁(さつとろてい)を遣わし、国書を持たせて通好を求めてきた(注:『関東評定伝』による。杜世忠らの官職は『元史』による。『元史』を考証すると国号を元と改めたのは実は亀山天皇の文永八年のことであるが、海路が遠く隔たっていたため、この時になって初めてその事実を知ったのである。それゆえこれ以前は「蒙古」と書き、これ以後は「元」と書く)。同年八月、杜世忠、何文著、撒都魯丁ら五人を鎌倉へ護送した。九月、鎌倉幕府執権相模守北条時宗(ほうじょうときむね)はこれを斬った(注:『関東評定伝』『保暦間記』による)。弘安二年、元の将軍夏貴(かき)、范文虎(はんぶんこ)らは周福(しゅうふく)、楽忠(らくちゅう)、僧の霊果(れいか)、通事陳光(ちんこう)を遣わし、国書を持たせて太宰府に至らせ、再び通好を説かせたが、博多(はかた)でこれを斬った(注:『関東評定伝』『保暦間記』による)。この年、元は宋を滅ぼした(注:『宋史』『元史』による)。弘安四年五月、元は高麗を先導として、兵十数万、船数千艘で海を覆うように押し寄せ、まっすぐ壱岐島を目指し、太宰府に至って能古島(のこのしま)、志賀島(しかのしま)の二島に陣を敷いた。高麗の船団は対馬から宗像(むなかた)の海に至り、元の船団と合流した。関東の軍勢および九州二島の兵はことごとく太宰府に集結し、海岸に防塁を築いた。その長さは数百町に及び、高さ一丈余りで、これによって敵船を見下ろして射ることができた。夜は篝火を連ねて守りを固めたので、敵は岸に近づくことができず、なお志賀島にとどまっていた。草野七郎(くさのしちろう)が夜襲をかけ、船一艘を焼いて二十人ほどを殺した。これにより敵は大船を鎖でつなぎ、弩(いしゆみ)を外に向けて備えを非常に厳重にした。日本の軍勢が攻め寄せたが、乗っていた舟は小さく脆く、多くが暗礁で砕け破れ、死傷者が甚だ多く出た(注:『八幡愚童訓』による。五月という月は『歴代皇紀』『皇年代略記』による)。河野通有(こうのみちあり)は軽舟を操って進み出た。矢が乱れ飛び、部下の多くが死んだが、通有自身も左肩を傷つけられながら、なお勇気はいっそう奮い立った。敵の船は高く大きく登ることができなかったが、船の帆柱を伝ってひと跳びに乗り込み、玉冠(ぎょくかん、注:玉で飾った冠をかぶった位の高い者)をかぶった大将の一人を捕虜にして帰還した(注:『八幡愚童訓』『予章記』による)。やがて大友貞親(おおともさだちか、注:貞親の名は『大友系図』による)、秋田城二郎(あきたじょうのじろう)らおよび九州の兵士たちが決死の覚悟で戦い、敵の士気はしだいに衰え、鷹島(たかしま)へと移動した。折しも海中に青龍が現れ、硫黄の匂いが四方に立ち込め、敵の総大将は単身の小舟でいち早く逃げ去った(注:『八幡愚童訓』による)。七月晦日の夜、西北の風が激しく吹き荒れ、海水が激しく揺れ動いて船は破壊され、漂流し溺死する者は数え切れなかった(注:『八幡愚童訓』『関東評定伝』による)。死体は潮の満ち引きにつれて入り江に流れ込み、入り江はそのために塞がれ、その上を踏んで歩けるほどであった(注:『東国通鑑』による)。敗残の兵数千人がなお鷹島にとどまり、壊れた船を修理して逃げ帰ろうとしていた。少弐景資と鎮西の兵士たちはその機に乗じて攻めかかり、ほとんど残らず討ち取った。降伏を願い出た者は千人余りいたが、これもことごとく斬った。もともと敵は器物や農具を積んで来ており、日本に居住しようとする計画であったことが分かるが、ここに至って大敗を喫したのである(注:『八幡愚童訓』による)。後に聞くところによれば、元の兵十万のうち生きて帰った者はわずか三人、高麗の兵一万のうち死者は七千余人であったという(注:『元史』『東国通鑑』による)。忽必烈は崩じて世祖(せいそ)と号した。子の真金(しんきん)は早くに死に、孫の鉄穆耳(テムル)が立った(注:『元史』による)。

後伏見天皇の正安元年、鉄穆耳は日本が仏教を篤く尊んでいると聞き、僧の一山一寧(いっさんいちねい)を遣わして通好を促した。北条貞時(ほうじょうさだとき)は怒り、審議した者の中にはこれを殺そうという意見もあった。しかし僧侶であることを考慮して特に許し、伊豆(いず)に留め置いた(注:『元亨釈書』『済北集』による)。これ以後、両国の交流は途絶えた。鉄穆耳が崩じて成宗(せいそう)と号した。武宗海山(ぶそうかいざん)が立った。崩じて仁宗愛育黎抜力八達(じんそうアユルバルワダ)が立った。崩じて英宗碩徳八剌(えいそうシデバラ)が立った。崩じて也孫鉄木児(エスンテムル)が立ち、崩じて泰定帝(たいていてい)と称した。明宗和世㻋(めいそうコシラ)が立った。崩じて文宗図帖睦爾(ぶんそうトクテムル)が立った。崩じて寧宗懿璘質班(ねいそうイリンチバル)が立った。崩じて妥懽貼睦爾(だかんテムル)が立った。呉王朱元璋(しゅげんしょう)の軍が燕京に攻め入り、妥懽貼睦爾は北へ逃れた(注:『元史』による)。まもなく崩じて順帝(じゅんてい)と称された。その子愛猷識理達臘(アユシリダラ)は和林(わりん)に逃れ、その死後、子の脱古思帖木児(トグステムル)が立ったが、部下に殺された。以後諸部族が反乱を起こして五代続いたが、その帝号は伝わっていない。鬼力赤(きりきせき)という者が位を奪って可汗(かがん)を称し、国号を捨てて韃靼(だったん)と称した。部族の長阿魯台(あろだい)が鬼力赤を殺し、別失八里(べっしはちり)から本雅失里(ほんがしつり)を迎えてこれを立てたが、瓦剌(オイラト)の馬哈木(バハム)らに殺された。脱脱不花(トクトブハ)もまた元の後裔で可汗を称したが、瓦剌の也先(エセン)に殺された。その子麻児可児(マルコル)が立ち、小王子(しょうおうじ)と号した。韃靼は再び勢いを盛り返した。その後数代を経てまた小王子を称する者が現れ、大元可汗(だいげんかがん)を称して最も富強となり、東方に移って土蛮(どばん)と称した。その西北にいた者では俺答(あんたん)が最も強く、明の燕京を包囲したこともある。その他の部族も数多く、東は兀良哈(ウリヤンハ)から西は瓦剌に至るまで、代わる代わる明の辺境を脅かし、明の存続する間ずっとそうであったという。瓦剌もまたモンゴルの一部族であり、その長也先は明に侵攻し、明の皇帝祁鎮(きちん)を土木(どぼく)の地で捕らえた。也先の死後、瓦剌は衰えた(注:『明史』による。『唐書』には「室韋(しつい)は契丹の別種で、蒙瓦(もうわ)という部落がある」とあり、『明一統志』には「モンゴルは塔塔児(タタル)など諸部族を併合した。これが『唐書』の蒙瓦、『旧唐書』の蒙兀(もうこつ)、『元史』に記す蒙古部・韃靼部である」とある)。

明

明(みん)。明の太祖は姓を朱氏、名を元璋(げんしょう)といい、濠州(ごうしゅう)の人である。元の政治が乱れ、各地に盗賊が蜂起した。劉福通(りゅうふくつう)、徐寿輝(じょじゅき)、方国珍(ほうこくちん)らがそれぞれ一方に割拠した。明の太祖もまた兵を挙げ、揚州(ようしゅう)・荊州(けいしゅう)の諸郡を平定して呉王(ごおう)の位に即いた。やがてその将軍徐達(じょたつ)らを遣わして燕京に攻め入らせると、元の皇帝は北へ逃れた。そこで太祖は集慶(しゅうけい)で帝位に即き、元号を洪武(こうぶ)と建て、国号を明とした。これが太祖である(注:『明史』による)。この年は後村上天皇の正平二十三年にあたる。明の太祖は四方に文書を頒布し、建国したことを告げた。その使者が太宰府に至ったが、受け入れられなかった。そもそも元人が侵攻して以来、朝廷は国書のやり取りを一切絶っていたが、辺境の民は私的に往来を続け、貿易をやめることがなかった。後醍醐天皇以後、戦乱がしきりに起こり、諸方で反乱が相次ぎ、朝廷の統制は遠方にまで及ばなくなった。そのため海辺の島々の民が、その混乱に乗じて明の沿岸諸州を侵すようになった。明の太祖はこれを憂い、当時太宰府を治めていた懐良親王(かねよししんのう、注:かねながしんのうとも)に書状を送って海賊の取り締まりを求めた。長慶天皇の文中二年、明の太祖は改めて天寧寺(てんねいじ)の僧祖闡(そせん)、瓦官寺(がかんじ)の僧克勤(こくごん)を遣わし、海賊の禁圧と通商を求めてきた。祖闡らは鎮西(ちんぜい)に至ったが、京都に入ることは許されず、太宰府にとどまった。しばらくして天台座主(てんだいざす)に書状を送り、その趣旨を述べた(注:『善隣国宝記』による)。その後、明の皇帝棣(てい、永楽帝)はたびたび征夷将軍足利義満(あしかがよしみつ)に書状を贈って海賊の禁圧を求めたが、不法の民の密航や侵略はやまず、ついに明の代を通じてそのまま続いたという(注:『善隣国宝記』『明史』による)。

吐火羅

吐火羅国(とからこく、注:原本ではまた都貨羅・覩貨邏・墮羅とも書く)は、隋(ずい)の西方にある(注:『隋書』による)。舎衛(しゃえい、注:古代ペルシアの国)は(注:『大唐西域記』『文献通考』による)吐火羅と隣接している(注:『唐書』による)。大月氏(だいげっし)の一支族である(注:『文献通考』による)。孝徳天皇の白雉五年、吐火羅の男女各二人と舎衛国の女一人が日向(ひゅうが)に漂着した。斉明天皇三年、覩貨邏の男二人、女四人が海見島(あまみのしま)に漂着し、さらに筑紫(つくし)に移された。勅命により駅馬を用いて都へ送られた。斉明天皇五年、吐火羅の男と舎衛の女が来朝した。斉明天皇六年、覩貨邏人の乾豆波斯達阿(けんずはしだちあ)が「どうか使者をつけて送っていただき、しばらく本国へ帰らせてほしい。妻をこちらに残して人質としたい」と願い出たので、これを許し、数十人とともに西海の道を通って帰らせた。天武天皇四年、吐火羅と舎衛の女が薬草の種や珍しい品を献上した(注:『日本紀』による)。聖武天皇の天平八年、ペルシア人の李密医(りみつい)が遣唐副使中臣名代(なかとみのなしろ)に従って来朝した(注:『続日本紀』による)。天竺(てんじく、インド)もまた唐の西方にある(注:『旧唐書』による)。聖武天皇の天平八年、南天竺の僧菩提(ぼだい)と林邑国(りんゆうこく)の僧仏哲(ぶってつ)が小舟に乗って難波津(なにわのつ)に至った(注:『元亨釈書』『善隣国宝記』による)。菩提はその国のバラモン階級の出身で、最も高貴な家柄であった(注:この四字は『大唐西域記』による)。天皇はこれを深く崇敬し、後に僧正となったので、当時の人々は「婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)」と呼んだ。仏哲はその国の音楽に通じており、今日の雅楽の楽部にある菩提(ぼだい)、抜頭(ばとう)、迦楼頻(かりょうびん)および林邑楽(りんゆうがく)は、いずれも仏哲らが伝えたものであるという(注:『倭名類聚抄』『元亨釈書』による)。

崑崙

崑崙国(こんろんこく)は天竺の近くにある一部族の国である(注:『唐書』による)。聖武天皇の天平五年、平群広成(へぐりのひろなり)が唐へ使者として赴き、帰国の途中、海上で暴風に遭い、たちまち崑崙国に漂着して捕らえられた。後に唐へ逃れ、渤海(ぼっかい)を経由する道を取って帰国した(注:『続日本紀』による)。桓武天皇の延暦十八年、ある一人の人物が小舟に乗って参河(みかわ)に漂着した。布を体に巻いて背を覆い、褌(ふんどし)をつけて袴(はかま)は着けず、左肩に紺色の布をかけた様子は袈裟(けさ)のようであった。年齢はおよそ二十歳、身長は五尺五分、耳の長さは三寸余りあり、言葉は通じなかった。唐人がこれを見て「これは崑崙国の人である」と言った。この人物は後に次第に中国語を習得し、自らを天竺人だと称し、常に一弦の琴を弾いて歌ったが、その声は非常に哀切であった。この人物は川原寺(かわらでら)に住みたいと願い出たので、これを許した。そこで所持していた品物を売り、西の外郭の路傍に家を建てた。道行く人は皆立ち止まって休んだという。この人物は初めて綿の種を持って来ており、紀伊(きい)、淡路(あわじ)、阿波(あわ)、讃岐(さぬき)、伊予(いよ)、土佐(とさ)などの国および太宰府で試しに植えさせた。その栽培法は、日当たりが良く暖かで肥沃な土地を選び、深さ一寸の穴を掘り、互いに四尺の間隔をあける。種を水に浸して一晩置いた後に植え、一つの穴に四粒ずつ入れて上に土をかぶせ、手で押さえる。毎朝水をやって常に湿り気を保たせ、芽が出るのを待って手入れをする、というものであった。この人物は後に近江国分寺(おうみこくぶんじ)に移り住んだ(注:『類聚国史』による)。