卷之二百卌二 列傳第一百六十九
諸蕃十一
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
隋
¶天地に覆われ、日月に照らされるこの世界には、四海に万国があり、生きとし生けるものは千種に及び、風俗も様々に異なっていて、とても全てを挙げて知り尽くすことはできない。ただ文字や制度が通じ、記録が残っている国々の中で、最も大きな国は隋(ずい)である。隋は土地が広く人口も多く、太古より聖賢の君主が道徳仁義をもって民を教え導いてきたため、典章制度もよく整っている。近古に至っても、その礼儀や文物、人材や財力は、他国の比ではない。隋以前のこの国(倭国)について、秦漢の子孫にあたる者で帰化した者があったとは伝わっているが、正式に使者を通わせたという話は聞かない。しかも彼の国(中国)の史書がわが国の風俗を記すところは、真実と虚偽が半々である。まして朝貢や封爵を受けたことを記すに至っては、古今そのような事実はない。思うに、当時任那(みまな)に日本府を置き、将帥を分けて鎮め治めていたので、当時高麗(こま)が臣と称して朝貢していたとはいえ、代々中国の暦を奉じ、中国の封爵を受けていたことから、任那の帥臣となった者もそれにならって中国の封号を受けたのではないか。あるいは、九州西部の奸民が朝廷の使者を騙って貢ぎ物を献じ、利益を得る手段としていたのを、彼の国の史書がそのまま記録したのではないか。いずれにせよ、いずれも信用するには足りない。実際に使者を通わせたのは、推古天皇の御代に始まる。それ以降は使者の往来が史書に絶えず記されており、これは記録せずにおくわけにはいかない。そこで諸書を集めて隋・唐・宋・元・明の伝を作った。そのほか、漂流してこの国に流れ着いた者についても、あわせて付け加えることとする。
唐
¶隋(ずい)。隋は筑紫(つくし)の西にある。隋より前、この国(中国)の国号はたびたび変わったが、文字による記録が残っているのは唐(とう)・虞(ぐ)の時代からである。唐堯(とうぎょう)は聖徳があり、陶唐氏(とうとうし)と号した。年老いてから舜(しゅん)に位を譲り、舜は堯の事業をよく受け継いで有虞氏(ゆうぐし)と号した。舜は禹(う)に位を譲り、禹は夏后氏(かこうし)と号した。夏后氏は十七代続いたが、桀(けつ)は淫らで驕り高ぶった。殷(いん)の湯王(とうおう)がこれを追放して代わって即位し、都を亳(はく)に置き、そのまま商(しょう)と号した。盤庚(ばんこう)が都を殷に移したため、また殷とも号した。紂王(ちゅうおう)は酒色に溺れ、諸侯は従わなくなった。周(しゅう)の文王(ぶんおう)昌(しょう)は徳を修め、民は周に心を寄せた。武王(ぶおう)發(はつ)は殷を討伐し、これに代わった。しかしその子孫は乱れ、戎狄(じゅうてき)がこれを侵した。平王(へいおう)宜臼(ぎきゅう)は洛陽(らくよう)に都を遷し、これを東周(とうしゅう)という。東周の恵王(けいおう)闐(てん)の十七年が、わが神武天皇(じんむてんのう)元年にあたるという。(注:中国歴代の史伝を参照した。)
¶周の政道が衰えると、秦(しん)の嬴氏(えいし)がこれを滅ぼしたが、二代で民に背かれた。劉季(りゅうき)が立って天子となり、長安(ちょうあん)に都を置いた。これが漢(かん)の高祖(こうそ)である。十四代続いたところで、家臣の王莽(おうもう)が位を奪い、新(しん)と号した。漢の宗室の劉秀(りゅうしゅう)が賊徒を平らげて漢の皇統を復興し、これが光武帝(こうぶてい)である。こちらも十四代続いたところで、曹丕(そうひ)がその位を奪い、許(きょ)に都を置いて魏(ぎ)と号した。劉備(りゅうび)は成都(せいと)で即位し、こちらも漢と号した。孫権(そんけん)は武昌(ぶしょう)を拠点として呉(ご)を称した。呉と蜀漢(しょくかん)の二国は魏に滅ぼされた。魏は五代続いたところで、司馬炎(しばえん)がこれに代わり、これが晋(しん)の武帝(ぶてい)で、洛陽に都を置いた。孫氏の呉は四代続いたが、晋がこれも併合した。五胡(ごこ)が晋を乱し、司馬氏の勢いは振るわなくなって、都を建康(けんこう)に遷した。拓跋珪(たくばつけい)が鮮卑(せんぴ)の地に興り、平城(へいじょう)に都を建てて北魏(ほくぎ)と号し、ここに天下は南北に分かれた。司馬氏は十三代続いたところで劉裕(りゅうゆう)がこれに代わり、これが宋(そう)の武帝である。宋は八代続いたところで蕭道成(しょうどうせい)がこれを滅ぼし、南斉(なんせい)と号した。南斉は蕭衍(しょうえん)に滅ぼされ、蕭衍は国号を梁(りょう)と改め、四代続いた。陳霸先(ちんはせん)がこれを滅ぼし、国号を陳(ちん)とした。拓跋氏の国は百四十九年続いたが、魏は東西に分かれた。元宝炬(げんほうきょ)が長安に都を置き、これを西魏(せいぎ)という。文帝(ぶんてい)、善見(ぜんけん)は鄴(ぎょう)に都を置き、これを東魏(とうぎ)の孝静帝(こうせいてい)という。東魏は高洋(こうよう)に国を譲り、斉(せい)と号した。斉は六代続いたところで宇文覚(うぶんかく)に滅ぼされ、宇文覚は国号を周(しゅう)と改めた。周は五代続いたところで、隋王(ずいおう)楊堅(ようけん)に位を譲った。(注:中国歴代の史伝を参照した。)
¶楊堅(ようけん)は北周(ほくしゅう)に仕えて相国(しょうこく)となり、隋王に封じられていた。そのまま周の禅譲を受けて帝位に即いた。もとの封号にちなんで国号を随(ずい)とし、開皇(かいこう)と改元した。この年はわが敏達天皇(びだつてんのう)十年辛丑(かのとうし)の歳にあたる。開皇九年、隋は陳(ちん)を滅ぼしてその地を併合した。総じて州三十、郡百、県四百を得て、ここに南北の天下は一つに統一された。楊堅は在位二十四年で崩じ、これを高祖(こうそ)という。太子の広(こう)が即位し、大業(たいぎょう)と改元した。(注:『隋書』による。)これは実に推古天皇(すいこてんのう)十三年にあたる。推古天皇十五年秋、大礼(だいらい)小野妹子(おののいもこ)を隋への使いとして遣わし、鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳とした。(注:『日本書紀』による。)隋の皇帝に宛てた国書には、おおむね「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや。云々」とあった。(注:『善隣国宝記』『隋書』による。)十六年夏、隋の皇帝は鴻臚寺(こうろじ)の掌客(しょうかく)裴世清(はいせいせい)らを使者として遣わした。難波(なにわ)の高麗館(こまのむろつみ)の上に使者の宿舎を築き、飾り立てた船三十艘と飾り馬七十五頭で出迎えて労った。裴世清らは宮門に至って再拝し、国書と贈り物を庭前で献上した。その国書には、「皇帝、倭(わ)の皇(きみ)に問う。使者の長吏(ちょうり)大礼蘇因高(そいんこう)らが来朝し、事情を詳しく伝えてくれた。朕は謹んで天命を承け、天下に君臨し、徳による教化を広めて、あらゆる生きものにまで及ぼそうと思っている。慈しみ育てる心に、遠近の隔てはない。聞けば、皇(きみ)は海の彼方に居りながら、民を撫で治めて国内を安楽にし、風俗も和やかに整っているという。まことに深い誠意をもって、遠く朝貢の礼を修めてくれた。その真心の美しさを、朕は嘉(よみ)するところである。時節はやや暖かくなってきたが、こちらは変わりなく過ごしている。そこで鴻臚寺掌客の裴世清らを遣わし、いささか思うところを伝え、あわせて別紙のとおり贈り物を送る」とあった。裴世清らを朝廷で饗応した。(注:『日本書紀』による。)天皇は皇太子(聖徳太子)に「国書の文言はどうであったか」と尋ねた。太子は「これは諸侯に賜る国書の書式です。しかし『皇』と言い『帝』と言っても、その意味は同じです。あちらの国書には『皇』の字を用いていますから、返書にもそれで応じるのがよいでしょう」と答え、天皇はこれに従った。(注:『聖徳太子伝暦』による。)太子は自ら筆をとって、「東の天皇、謹んで西の皇帝に申し上げる。使者の鴻臚寺掌客裴世清らが到着し、久しく気にかけていたことがようやく解けた。晩秋にやや冷え込んできたが、貴国はいかがお過ごしか、清らかにお喜びのことと思う。こちらは変わりなく過ごしている。今、大礼蘇因高、大礼乎那利(おなり)らを遣わす。謹んで申し上げる、意を尽くさぬが」との文をしたためた。また小野妹子を大使、難波雄成(なにわのおなり)を小使、鞍作福利を通訳とした。学生の倭漢福因(やまとのあやのふくいん)、奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)、高向玄理(たかむこのくろまろ)ら八人が、裴世清らを送って同行した。翌年秋、妹子は帰国した。鞍作福利は隋に留まって帰らなかった。(注:蘇因高とは妹子のことであり、乎那利とは雄成のことである。)推古天皇二十二年、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)、矢田部造(やたべのみやつこ)を隋に遣わした。翌年、犬上御田鍬らは隋から帰国した。二十五年、隋の皇帝広(こう)は、その臣下の宇文化及(うぶんかきゅう)に弑逆(しいぎゃく)された。これが煬帝(ようだい)である。その孫の侑(ゆう)が即位したが、唐公(とうこう)李淵(りえん)に位を禅り、隋は滅んだ。(注:『聖徳太子伝暦』引用の暦録、および『隋書』による。)
¶唐(とう)。唐の皇帝は李(り)氏、名は淵(えん)という。隋の禅譲を受けて国号を唐とし、武徳(ぶとく)と改元し、長安に都を置いた。(注:『唐書』による。)この年は推古天皇二十六年にあたる。三十一年、留学僧の恵斉(えさい)、恵光(えこう)、および医恵日(えにち)・福因(ふくいん)が唐から帰国し、「唐は礼儀の国です。常に使者を通わせて親交を結ぶのがよいでしょう」と奏上した。(注:『日本書紀』による。)李淵は崩じ、これを高祖という。子の世民(せいみん)が即位し、これが太宗(たいそう)である。貞観(じょうがん)と改元した。(注:『唐書』による。)これは実に推古天皇三十五年にあたる。舒明天皇(じょめいてんのう)二年秋、大仁(だいにん)犬上御田鍬、大仁医師恵日(くすしのえにち)を唐へ遣わした。舒明天皇四年、唐の皇帝は新州刺史(しんしゅうしし)高表仁(こうひょうじん)を遣わして御田鍬を送らせた。翌年、吉士雄麻呂(きしのおまろ)らを遣わして高表仁を対馬(つしま)まで送らせ、そこで帰した。(注:『日本書紀』による。新州の勅使については『旧唐書』による。)唐の皇帝は崩じ、子の治(ち)が即位した。これが高宗(こうそう)である。(注:『唐書』による。)孝徳天皇(こうとくてんのう)の白雉(はくち)四年、小山上(しょうせんじょう)吉士長丹(きしのながに)、小乙上(しょうおつじょう)吉士駒(きしのこま)を唐へ遣わした。室原御田(むろはらのみた)が送使を務めた。学生の巨勢薬(こせのくすり)、冰老人(ひのおゆ)、および留学僧の道厳(どうごん)、定恵(じょうえ)、安達(あんだち)、道観(どうかん)ら二十余人がこれに従った。また大山下(だいせんげ)高田根麻呂(たかだのねまろ)を大使、小乙上掃部小麻呂(かにもりのおまろ)を副使とし、留学僧の道福(どうふく)、義向(ぎこう)ら百二十余人が共に出発した。土師八手(はじのやつて)が送使を務めた。ところが根麻呂らの船は薩摩(さつま)の竹島(たけしま)沖で風に遭って転覆し、門部金(かどべのかね)ら五人だけが生きて帰ることができた。白雉五年春、大使小錦下(しょうきんげ)河辺麻呂(かわべのまろ)、副使大山下薬師恵日、判官大乙上書直麻呂(ふみのあたいまろ)らを唐に遣わした。高向玄理が押使(おうし)を務めた。唐の皇帝は日本の地理や建国当初の神々の名を尋ねたが、麻呂らは問われるままに答えた。しかし高向玄理は唐で亡くなった。(注:この書の後段の注に引く伊吉博徳(いきのはかとこ)の書によれば、この年、学生の冰老人、高黄金(こうこうごん)、留学僧の妙位(みょうい)ら十二人、および韓智興(かんちこう)、趙元宝(ちょうげんぽう)らが、使者とともに帰国したとある。しかしこの年帰国したのは長丹であって麻呂ではないから、この注は本来長丹が帰国した条、あるいは翌年麻呂が帰国した条に置くべきであろう。しかし他に確かめる書がないので、ひとまず旧説に従ってここに付しておく。)秋七月、遣唐使吉士長丹らが帰国した。斉明天皇(さいめいてんのう)元年、河辺麻呂らが帰国した。(注:『日本書紀』による。)斉明天皇五年、坂合部石布(さかいべのいわしき)、津守吉祥(つもりのきさ)、伊吉博徳を唐へ遣わし、蝦夷(えみし)数人もこれに従った。石布の船は風に遭って南方の海に漂着し、島の賊に襲われて殺された。吉祥らは越州(えっしゅう)会稽県(かいけいけん)にたどり着き、駅馬に乗って東京(とうけい)へ赴いた。当時唐の皇帝は東京におり、使者を朝廷に召し出した。唐の皇帝はまず天皇の安否を尋ね、次いで使者を労った。蝦夷を見て、その土地や種族について尋ねた。蝦夷は白い鹿の皮と弓矢を献上した。当時唐は翌年百済(くだら)を攻める予定であったため、わが使者を西京(せいけい)に留め置いた。(注:『日本書紀』の注に引く伊吉博徳の書による。)斉明天皇六年、唐の将軍蘇定方(そていほう)らが百済を攻め、その王義慈(ぎじ)を捕虜とした。(注:『日本書紀』および一説による。)そこで初めてわが使者を解放した。斉明天皇七年、吉祥らが帰国した。(注:『日本書紀』の注に引く伊吉博徳の書による。)
¶天智天皇(てんじてんのう)壬戌(みずのえいぬ)の年、唐はまた百済を攻めた。癸亥(みずのとい)の年、わが軍は唐の兵と白村江(はくすきのえ)で戦い、敗れた。甲子(きのえね)の年、唐の百済鎮将(ちんしょう)劉仁願(りゅうじんがん)が朝散大夫(ちょうさんたいふ)郭務悰(かくむそう)らを遣わし、内臣(うちつおみ)中臣鎌足(なかとみのかまたり)は沙門智祥(ちしょう)を遣わして、郭務悰らに品物を賜った。(注:『善隣国宝記』によれば、郭務悰が来朝した際、僧智弁(ちべん)に問わせて「上表文と献上品はあるか」と尋ねさせたところ、務悰は「将軍からの牒書と献上品がある」と答えた。智弁がこれを奏上したところ、朝廷の議論では、彼は唐の天子の正式な使者ではないから、都に入れるべきではないということになった。そこで太宰府(だざいふ)に命じて百済鎮将に牒書を送らせ、あわせてその趣旨を務悰らに告げ、献上品を突き返して、太宰府から帰らせたという。)乙丑(きのとうし)の年、朝散大夫沂州司馬(ぎしゅうしば)上柱国(じょうちゅうこく)劉徳高(りゅうとくこう)、右威衛郎将(ういえいろうしょう)上柱国郭務悰を遣わして来朝させた。(注:『日本書紀』および一説による。)あわせて留学僧定恵を送り返した。(注:『日本書紀』の注に引く伊吉博徳の書による。)劉徳高らを筑紫で饗応するよう詔した。小錦守大石(しょうきんもりのおおいし)、坂合部石積(さかいべのいわつみ)らを遣わして劉徳高らを送らせた。(注:『日本書紀』および一説による。)丁卯(ひのとう)の年、唐の百済鎮将劉仁願は、熊津都督府(ゆうしんととくふ)熊山県令(ゆうざんけんれい)司馬法聡(しばほうそう)を遣わし、坂合部石積らを送らせて筑紫の都督府に至らせた。法聡が帰るにあたり、小山下(しょうせんげ)伊吉博徳、大乙下(だいおつげ)笠諸石(かさのもろいわ)を送使とした。天智天皇元年冬、唐の軍が高麗(こま)を滅ぼした。二年、小錦中(しょうきんちゅう)河内鯨(かわちのくじら)を唐へ遣わした。四年、唐の百済鎮将劉仁願は李守真(りしゅしん)を遣わして上表させた。冬、唐の使者郭務悰ら六百人、および送使沙宅孫登(さたくそんとう)ら千四百人が、船四十七艘に乗って比智島(ひちのしま)に停泊した。郭務悰らは人数と船数が多いため、急に来訪すれば疑いを招いて防備されることを恐れ、まず沙門道文(どうもん)らを対馬に遣わして来朝の意を告げた。対馬国司はこれを太宰府に報告し、太宰府はただちに早馬を出して朝廷に知らせた。天智天皇は崩御した。天皇の弟大友皇子(おおとものみこ)の元年春、内小七位(ないしょうしちい)阿曇稲敷(あずみのいなしき)を太宰府に遣わし、天皇崩御を郭務悰に告げさせた。郭務悰らはみな喪服に着替え、三度哀悼の声をあげて東に向かって稽首再拝(けいしゅさいはい)し、進物と贈り物を差し出した。夏、絁(あしぎぬ)千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六斤を郭務悰らに頒け与えた。別に甲冑と弓矢を郭務悰に賜い、帰国させた。(注:『日本書紀』による。)
¶天武天皇(てんむてんのう)三年、唐人三十人が帰化し、遠江(とおとうみ)に移し置かれた。十二年、入唐留学生の土師甥(はじのおい)、白猪宝然(しらいのほうねん)、および百済との戦いで唐に捕らわれていた者たちの子である子首(こしゅ)、三宅得許(みやけのとこう)が、新羅(しらぎ)の使者とともに帰国した。持統天皇(じとうてんのう)四年、筑紫の軍丁(ぐんてい)大伴部博麻(おおともべのはかま)が唐から帰国した。博麻は、斉明天皇七年の百済救援の戦いで唐の兵に捕らえられた者である。天智天皇の時代、土師富杼(はじのほど)、冰老(ひのおゆ)、筑紫薩夜麻(つくしのさちやま)、弓削元宝児(ゆげのがんぽうじ)の四人もまた唐に捕らわれていた。富杼らは唐人が謀っていることを聞き、密かに帰国して天皇に奏上しようと図ったが、旅費がなかった。博麻は富杼に「今、私の身を売って、その旅費に充ててください」と申し出た。富杼はその案に従い、逃げ帰ることができた。博麻は唐に三十年間留まり、この時になって新羅の使者とともに帰国した。天皇は詔してこれを労い、水田四町を賜い、三代にわたる一族の課役を免除した。(注:『日本書紀』による。)文武天皇(もんむてんのう)の大宝(たいほう)元年、守民部卿(かみみんぶきょう)直大弐(じきだいに)粟田真人(あわたのまひと)を遣唐執節使(けんとうしっせつし)とし、左大弁(さだいべん)高橋笠間(たかはしのかさま)を大使、右兵衛督(うひょうえのかみ)坂合部大分(さかいべのおおきだ)を副使として、筑紫まで行き風待ちをした。翌年、唐へ渡った。(注:『続日本紀』による。)これより先、唐の皇帝は崩じ、太子の顕(けん)が即位した。これが中宗(ちゅうそう)である。その母の武(ぶ)氏を皇太后と号した。武氏はやがて唐の皇帝を廃して廬陵王(ろりょうおう)とし、豫王(よおう)旦(たん)を立てて帝とした。まもなく唐の国運を革(あらた)めて国号を周(しゅう)と改め、旦を降格して皇嗣(こうし)と称させた。粟田真人が唐に至ったのは、周の長安(ちょうあん)二年にあたる。(注:『唐書』による。)真人らは帰国したが、留学僧弁正(べんしょう)は唐に留まった。弁正は弁舌に長け、臨淄王(りんしおう)隆基(りゅうき)がまだ藩邸(はんてい)にいた頃、弁正は囲碁が巧みであることで賞賛を受けた。(注:『懐風藻』による。)武氏が崩じると、廬陵王顕が復位したが、皇后の韋(い)氏がこれを弑逆し、幼い重茂(ちょうも)を立てた。臨淄王隆基は宮中に入って韋氏を誅し、重茂を廃して、豫王旦を再び帝位に即かせた。これが叡宗(えいそう)である。隆基を太子に立てた。まもなく太子に位を譲り、これが玄宗(げんそう)である。(注:『唐書』による。)
¶元正天皇(げんしょうてんのう)の霊亀(れいき)二年、多治比県守(たじひのあがたもり)を遣唐押使(けんとうおうし)、大伴山守(おおとものやまもり)を大使、藤原馬養(ふじわらのうまかい)を副使として、唐へ遣わした。当時は唐の開元(かいげん)四年にあたる。養老(ようろう)二年、多治比県守らが帰国した。聖武天皇(しょうむてんのう)の天平(てんぴょう)五年、多治比広成(たじひのひろなり)を遣唐大使、中臣名代(なかとみのなしろ)を副使として、唐へ遣わした。天平七年、広成らが帰国した。唐人袁晋卿(えんしんけい)が広成とともに来朝し、後に玄蕃大学頭(げんばんだいがくのかみ)・安房守(あわのかみ)に任じられ、清村(きよむら)の姓を賜った。孝謙天皇(こうけんてんのう)の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)四年、正四位下藤原清河(ふじわらのきよかわ)を大使、従四位上大伴古麻呂(おおとものこまろ)を副使とし、留学生藤原刷雄(ふじわらのよしお)とともに唐へ遣わした。翌年正月一日、唐の皇帝は蓬莱宮(ほうらいきゅう)含元殿(がんげんでん)で朝賀を受けた。この日、藤原清河らは西側の列の第二位に着き、吐蕃(とばん)の下に位置した。新羅の使者は東側の列の第一位に着き、大食国(たいしょくこく、アラビア)の上に位置した。大伴古麻呂はこの席次を承服せず、掌客に「新羅はわが国の属国である。その使者がわが国の上位に着くのは当たらない」と述べた。朝廷でこの件が争われたが、唐人は反論できず、改めて清河らを東側の列の第一位に着かせ、新羅の使者を西側の列の第二位に移した。天平勝宝六年、大伴古麻呂が帰国した。唐僧鑑真(がんじん)が古麻呂とともに来朝した。天平宝字(てんぴょうほうじ)二年、小野田守(おののたもり)が渤海(ぼっかい)への使いから帰り、「唐の天宝(てんぽう)十四年十一月九日、御史大夫(ぎょしたいふ)范陽節度使(はんようせつどし)安禄山(あんろくざん)が反乱を起こし、みだりに帝を名乗って国号を燕(えん)とし、范陽を改めて霊武郡(れいぶぐん)とし、その邸宅を潜龍宮(せんりゅうきゅう)と改め、聖武(せいぶ)と改元しました。その子の安慶緒(あんけいちょ)を范陽郡の留守として、自らは精兵二十余万騎を率いて進軍しました。十二月、洛陽(らくよう)を攻め落とし、勝手に百官を任命しました。唐の皇帝は安西節度使(あんせいせつどし)哥舒翰(かじょかん)に兵三十万を率いさせて潼津関(どうしんかん)を守らせ、大将軍封常清(ほうじょうせい)に兵十五万で洛陽を守らせました。翌年、安禄山は将軍孫孝哲(そんこうてつ)に兵二万を率いさせて潼関(どうかん)を攻めさせ、哥舒翰は潼津の岸の道を破壊しました。孫孝哲は山を切り開いて道を通し、兵を率いて新豊(しんぽう)に入りました。六月六日、唐の皇帝は剣南(けんなん)へ逃れました。七月甲子、太子璵(よ)が霊武で即位し、至徳(しとく)元年と改元しました。己卯、唐の皇帝は益州(えきしゅう)に到着し、平廬留後事(へいろりゅうこうじ)徐帰道(じょきどう)は果毅都尉(かきとい)行柳城県(こうりゅうじょうけん)兼四府経略判官(しふけいりゃくはんがん)張元澗(ちょうげんかん)を渤海に遣わして援兵を求めました。渤海はその裏に奸計があるのではと疑い、留め置いて遣わしませんでした。十二月丙午、徐帰道は果毅(かき)の劉正臣(りゅうせいしん)を殺して北平(ほくへい)で暗殺し、密かに安禄山や偽幽州節度使(ゆうしゅうせつどし)史思明(ししめい)と通じて、天子を討とうと謀りました。安東都護(あんとうとご)王玄志(おうげんし)はこの企てを知り、兵六千余人を率いて柳城を攻め落とし、徐帰道を斬りました。自ら平盧節度使代理を名乗り、北平に駐屯しました。至徳三年四月、王玄志は将軍王進義(おうしんぎ)を遣わして渤海に援軍を求め、あわせて国の情勢を『天子は西京に戻り、太上天皇(玄宗)を蜀からお迎えして、別宮にお住まいいただいています。賊の勢いは次第に滅びつつあります』と告げました。渤海はまだ信用せず、進義を留め置いて、唐へ使者を送りました。唐の皇帝は渤海に勅書を下し、渤海はそれを小野田守の帰国に添えて奏上しました」と述べた。そこで太宰府に勅して、「安禄山は狂った胡族の狡猾な小人であり、天に逆らい上を犯す者であるから、事は必ずうまくいかないであろう。もし彼が西方(唐の本土)を攻略できなければ、方向を変えて海東(日本方面)を掠めるかもしれない。昔の人は『蜂やさそりでさえ毒を持つのだから、まして人においてはなおさらだ』と言っている。太宰府の長官はこの状況をよく理解し、あらかじめ備えをしておくように」と告げた。当時、前の遣唐大使藤原清河は、まだ唐に留まって帰国していなかった。(注:『続日本紀』による。)
¶天平宝字三年春、ちょうど渤海の使者が到着したので、外従五位下(げじゅごいのげ)高元度(こうげんど)を迎えの使者とし、内蔵全成(くらのまたなり)を判官として、渤海の使者楊承慶(ようしょうけい)らとともに出発させた。あわせて渤海王に詔して、高元度を唐まで送らせた。元度は渤海の使者とともに唐に至った。翌年、唐の皇帝は中使(ちゅうし)に宣旨させて、「特進秘書監(とくしんひしょかん)藤原清河は本来願い出のとおり帰国させるべきであるが、残賊がまだ平定されておらず、道中に困難が多いことを恐れる。元度はひとまず南路を取って先に帰国し、復命するがよい」と伝えさせた。そこで中謁者(ちゅうえつしゃ)謝時和(しゃじわ)に命じて元度らを蘇州(そしゅう)まで送らせ、刺史(しし)李岵(りこ)が大船一艘を用意し、越州浦陽府(えつしゅうほようふ)折衝(せっしょう)沈惟岳(しんいがく)、別将陸張升(りくちょうしょう)らに元度を送らせた。天平宝字五年、元度は帰国して太宰府に至った。従五位上上毛野広浜(かみつけののひろはま)、外従五位下広田小床(ひろたのおとこ)らを安芸(あき)に遣わし、遣唐使のための船を造らせた。もともと元度が帰国する際、唐の皇帝は戦乱の後で弓の材料が不足していたため、元度に牛の角を求めた。元度は帰国してこれを奏上した。そこで東海道、東山道、北陸道、山陰道、南海道の諸国に牛の角七千八百本を貢がせ、唐に贈った。右虎賁衛督(うこほんえいのかみ)仲石伴(なかのいわとも)を遣唐大使、上総守(かずさのかみ)石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)を副使とした。天平宝字六年、石上宅嗣は解任され、左虎賁衛督(さこほんえいのかみ)藤原田麻呂(ふじわらのたまろ)が副使となった。夏、唐の副使紀喬容(きこよう)ら三十八人が連名で、大使沈惟岳が不正な蓄財をして任に堪えないと太宰府に訴え出た。太宰府はこれを朝廷に奏上した。朝廷は「大使・副使はいずれも彼の国が任命した者であるから、今さら交代させることはできない。帰国する際の禄はこれまでどおり与えよ」と返答した。天平宝字七年、渤海の使者王新福(おうしんふく)が「李氏の太上皇(玄宗)と少帝(粛宗)はいずれも崩御しました。広平王(こうへいおう、代宗)が政務を代行しています。作物が実らず、人民は互いに食い合うほどの惨状です。史朝義(ししちょうぎ)は密かに帝号を僭称していますが、性格は寛容で、人心はおおむね彼に付いています。その軍勢はきわめて強く、鄧州(とうしゅう)・襄陽(じょうよう)はすでに史氏の手に落ちています。李氏はわずかに蘇州を保っているのみです。朝貢の道は容易に通じません」と奏上した。そこで太宰府に勅して、「唐国は荒れ乱れ、使者を通わせることは難しい。沈惟岳らは、安心して手厚く処遇せよ。もし故郷を懐かしんで帰りたいと願うなら、船を与えて送り出すように」と告げた。沈惟岳は結局朝廷に留まって仕えた。宝亀(ほうき)年間に、従五位下に叙せられ、清海宿禰(せいかいのすくね)の姓を賜り、左衛士府(さえじふ)の名簿に編入された。
¶光仁天皇(こうにんてんのう)の宝亀八年、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を遣唐大使、小野石根(おののいわね)、大神末足(おおみわのすえたり)を副使とした。今毛人は摂津職(せっつしき)まで行ったところで病に倒れ、行くことができなくなった。そこで副使石根に節刀を持たせて先に出発させ、大使の職務を代行させることを詔した。判官以下、死罪に当たる罪を犯した者があれば、節刀を持つ使者が専断で決するのを許した。まもなく石根に勅して、「唐に到着した日、彼の国が大使がいない理由を問うたなら、事情に応じて説明するように」と告げた。七月、石根らは揚州(ようしゅう)海陵県(かいりょうけん)に到着し、観察使(かんさつし)兼長史(ちょうし)陳少遊(ちんしょうゆう)が言うには、「安禄山の乱以来、宿駅は疲弊しており、使者は六十人に限って都に入れることになっています」とのことで、まもなく中書門下(ちゅうしょもんか)の牒(ちょう)が届き、さらに随行員の数を減らされた。節刀を持つ使者および副使、判官、録事ら四十三人は、翌年正月十三日に長安の迎賓館に到着した。館での待遇は手厚く、宮中の使者が絶えず訪れた。数日後、宣政殿(せんせいでん)で謁見の礼を受け、贈り物を献上した。唐の皇帝は大いに喜び、群臣にこれを示した。まもなく廷英殿(ていえいでん)で宴を催し、使者たちを引見した。中使趙宝英(ちょうほうえい)を遣わして返礼の品を持たせ、使者を送らせようとした。節刀を持つ使者は辞退して、「わが国は海路が遠く、漂流の危険が計り知れません。今、中使が同行なさるとなれば、波濤を冒して渡ることになります。万一のことがあれば、皇帝の御命令を無にすることを恐れます」と申し出た。唐の皇帝は重ねて使者に、「朕にはささやかな贈り物があり、趙宝英らに命じて護送させるのだ。道義上のことであるから、労苦とは思わないように」と伝えさせた。そこで趙宝英らは九月に船出した。ところが海上で暴風に見舞われ、小野石根ら三十八人、趙宝英ら二十五人は、船が壊れて溺死した。副使小野滋野(おののしげの)の船は肥前(ひぜん)松浦郡(まつらぐん)橘浦(たちばなのうら)に到着し、事の次第を朝廷に報告した。そこで太宰府に勅して唐の使者を出迎えて労わせ、滋野を都に入らせた。宝亀十年、唐の使者孫興進(そんこうしん)、秦怤期(しんふき)が都に入った。唐の客人を接待する役人が、「唐の使者の一行は、左右に旗を立てています。また武装した役人が旗の前後に立っています。私どもが古い記録を調べましたが、このような例は見たことがありません。ご指示をお願いします」と奏上した。朝廷の議論では、「武装は許すが、旗を立てることは認めない」ということになった。また、「以前、粟田真人らが楚州(そしゅう)を出発して長楽駅(ちょうらくえき)に到着した際は、五品の舎人が郊外で出迎えて労いましたが、この時は拝謝の礼は見られませんでした。新羅の朝貢使王子泰廉(たいれん)が都に入った日には、朝廷の使者が勅を宣べて迎えの馬を賜りましたが、王子は手綱を引き締めたまま、馬上から答礼しました。ただ渤海の使者は皆馬から下りて再拝し、足踏みして舞う礼をしています。今回の唐の客人を接待するにあたり、どちらの例に準じればよいでしょうか」と奏上した。そこで行列の立ち方、進退、饗宴、応対の作法を定め、接待役に下した。孫興進らは朝見し、国書と贈り物を献上した。そこで孫興進らを朝堂で饗応した。中納言物部宅嗣(もののべのやかつぐ)が勅を宣べて、「唐国の天子、および公卿・国内の百姓はつつがないか。海路は険しく、幾人かの使者が、あるいは海中で漂流して亡くなり、あるいは耽羅(たんら)で困窮したと聞く。朕はこれを聞いて心を痛めていた。卿らが無事に来てくれたのは幸いである。道中の国司の接待は法にかなっていたか」と尋ねた。孫興進らは、「私どもが出発した時、本国の天子、および公卿・百姓はつつがなく過ごしておりました。また朝廷の恩恵は遠くまで及び、海路も無事でございました。道中の国司の接待もまことに行き届いておりました」と答えた。そこで位を授け、それぞれに応じて品物を賜った。布勢清直(ふせのきよなお)を送唐客使とし、甘南備清野(かんなびのきよの)、多治比浜成(たじひのはまなり)を判官として、孫興進を送らせた。(注:『続日本紀』による。)この夏、唐の皇帝は崩じ、子の适(かつ)が即位した。これが徳宗(とくそう)である。(注:『唐書』による。)冬、唐人高鶴林(こうかくりん)が新羅の貢調使金蘭孫(きんらんそん)らとともに入朝した。(注:『続日本紀』による。高鶴林は趙宝英とともに来朝する途中、風に流されて新羅に漂着し、この時になって入朝したのであろうか。)
¶桓武天皇(かんむてんのう)の延暦(えんりゃく)十七年、唐人十人が帰化した。延暦二十三年、藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)を遣唐大使、石川道益(いしかわのみちます)を副使として、唐へ遣わした。(注:『日本紀略』による。)留学生の橘逸勢(たちばなのはやなり)、留学僧空海(くうかい)がこれに従った。(注:『善隣国宝記』による。)一行は唐の福州(ふくしゅう)長渓県(ちょうけいけん)に到着したが、(注:『日本紀略』による。)州県の役人は割符や印がないことを怪しんで詰問した。葛野麻呂は福州に書を送り、おおむね次のように述べた。「わが国の主は、先祖の遺した方針を顧み、当代の皇帝の徳による教化を慕い、謹んで賀能(かのう)ら(注:賀能は葛野の訓読みが通じる。)を使者に充て、国書を献上させました。賀能らは命がけで波濤を渡り、再び生きてこの日を見ることができましたのは、聖徳の致すところであって、私どもの力の及ぶところではありません。また大唐が日本を遇するに際し、たとえ多くの異民族の使者が雲霞のごとく集まる中にあっても、わが国の使者に対しては上客として遇し、皇帝の御顔に直接お目にかかり、自ら詔勅を承ることを許されます。これは、その他の取るに足らない異民族と同列に論じられるものではありません。また、竹の割符や銅の契約書は、もともと詐欺を防ぐために備えられたものです。世が純朴で人が実直であれば、そのような文書に何の用がありましょうか。それゆえわが国は建国以来純朴で、常に隣国との友好を大切にしてきました。献上する品には印を押した文書を用いず、遣わす使者には偽りがなく、この気風を代々受け継いで絶えることがありません。それに加えて、使者となる人物は必ず腹心の者を選びます。腹心として任じるのに、どうしてさらに契約書が必要でしょうか。書物の伝えるところによれば、東方には君子の国があり、その民は実直で、礼儀の国、君子の国と称されるのは、まさにこのためでしょう。しかるに今、貴州の役人は文書を提示せよと私どもを詰問し、私どもの腹心を疑って、船の中を調べ、公私にわたって取り調べています。これは道理にかない、法令にもかなうことであり、役人の職務として実に当然のことでしょう。とはいえ、遠方から来た者が到着したばかりで、行く先々で多くの心配事に遭っています。海上での不安はまだ胸のうちから消えず、歓迎の酒の味もまだ十分に味わっていないうちに、突然の取り調べを受けては、手も足も置き場がありません。また建中(けんちゅう)年間以前には、わが国の使者の船は蕃(ばん)・楊(よう)・蘇(そ)の地に直行し、漂流の苦しみもありませんでした。州県の役人たちは丁重に労い、自由に行動させて、船の荷を検めることもありませんでした。今はそれと事情が異なり、遇し方も疎遠になっているようです。心の卑しい愚かな者は、密かに驚き恨みを抱くことでしょう。伏してお願いいたしますのは、柔和な恵みを垂れ、友好の道義を顧みて、わが国の習俗をそのままに受け入れ、常とは異なる風習を怪しまれないことです。そうすれば、涓々(けんけん)たる多くの異民族が流水のように舜(しゅん)の海に朝貢し、仰ぎ見る多くの民が葵藿(きかく)のように堯(ぎょう)の日に向かって首を伸ばすでしょう。日頃の小さな願いに耐えかね、書を差し上げます。意を尽くしませんがお許しください」。(注:『性霊集』による。)そして十一月、長安城に至り、宣化殿(せんかでん)で唐の皇帝に謁見した。翌年正月の元会で、唐の皇帝は含元殿(がんげんでん)で朝賀を受けた。この月、唐の皇帝は崩じた。太子誦(しょう)が即位した。これが順宗(じゅんそう)である。(注:順宗については『唐書』による。この書には、母の王氏が朝政を執ったとあるが、誤りであろう。ここでは採らない。)秋、葛野麻呂は僧最澄(さいちょう)とともに帰国し、唐の政変について、「唐の淄青道節度使(しせいどうせつどし)青州刺史(せいしゅうしし)李師古(りしこ)は五十万の兵馬を養っていました。唐の皇帝は使者を遣わして皇帝の喪を諸道に告げさせましたが、その使者が青州に至ると、李師古は拒んで受け入れませんでした。李師古は十万の兵を率い、弔問を名目にして鄭州(ていしゅう)を自ら襲いました。諸州はそれぞれ力を尽くして迎え撃ちました。唐の皇帝はそこで宮中の使者を遣わして李師古を慰撫しました。蔡州節度使(さいしゅうせつどし)呉少誠(ごしょうせい)もまた多くの兵馬を養い、密かに帝位を窺う野心を抱いていました。唐の皇帝はまた龍武将軍(りゅうぶしょうぐん)薛審(せつしん)を吐蕃に遣わして和親を結ばせようとしましたが、吐蕃は薛審が着くとこれを拘留して帰しませんでした。薛審は『私が参りましたのは、皇女を嫁がせるためです』と偽って告げると、吐蕃はようやく薛審を放って婚儀について協議しました。唐の皇帝は怒って、『これは私が承知していることではない。お前は急いで行って以前の趣旨を改めて伝えよ。もし成らなければ、二度と帰って来るな』と命じました。薛審は再び赴きましたが、吐蕃は拒んで受け入れませんでした。昨年十二月、吐蕃の使者は逃げ帰り、正月の朝賀にも参りませんでした。吐蕃は長安の西北にあり、五百里ほど離れていますが、侵略が絶えません。唐国は国内では節度使に圧迫され、国外では吐蕃を恐れて、都は騒然とし、しばらくも安まる時がありません」と奏上した。(注:『日本後紀』による。)唐の皇帝は長く病に伏し、政務を執ることができなくなったため、太子純(じゅん)に位を譲った。これが憲宗(けんそう)である。(注:『唐書』による。)この年は平城天皇(へいぜいてんのう)の大同(だいどう)元年にあたる。これより先、高階遠成(たかしなのとおなり)が唐へ使いした。この時になって、橘逸勢、僧空海とともに帰国した。(注:『類聚国史』、『唐書』を参照。一説の『一代要記』では空海は延暦二年に帰国したとする。)
¶嵯峨天皇(さがてんのう)の弘仁(こうにん)十年、唐の越湘(えっしょう)の人周光朝(しゅうこうちょう)、言升則(げんしょうそく)らが新羅の船に乗って来た。唐の事情を尋ねたところ、光朝は、「私は辺境の生まれで都の事情は存じませんが、ただ聞くところによれば、去る元和(げんな)十一年、圓州節度使(えんしゅうせつどし)李師道(りしどう)が反乱を起こし(注:『唐書』によれば、李師道は淄青節度使として、嵩山(すうざん)の僧圓静(えんせい)と謀反を企てたとある。しかしこの書には圓州とあり、疑わしい。おそらく圓静と節度使李師道が謀反を企てたことが、誤って圓州と伝わったのであろう。今はもとの文のままとして、その実情を推し量るにとどめる。)、五十万の兵馬を擁して、きわめて精鋭でした。天子は諸道の兵を発してこれを討たせましたが、まだ平定できておらず、天下は騒然としています」と述べた。(注:『日本紀略』による。今『唐書』を考えるに、憲宗の元和十四年、李師道は兵馬留後(へいばりゅうこう)劉悟(りゅうご)に殺され、淄青の地は分割されて三つの節度に分かれたという。周光朝は辺境の民であったから、その後の事情までは知らなかったのであろう。また『日本紀略』を考えるに、弘仁十一年、唐人李少貞(りしょうてい)が出羽(でわ)に漂着したとある。『続日本後紀』によれば、李少貞は新羅人であるという。これが同姓同名の別人であるかどうかは分からない。李少貞のことは新羅伝に詳しい。)弘仁十一年、唐の皇帝は崩じた。太子桓(かん)が即位した。これが穆宗(ぼくそう)である。穆宗が崩じ、太子湛(たん)が即位した。これが敬宗(けいそう)である。敬宗が崩じ、宦官が江王(こうおう)昂(こう)を擁立した。これが文宗(ぶんそう)である。(注:『唐書』による。)この年は清和天皇(せいわてんのう)の天長(てんちょう)四年にあたる。仁明天皇(にんみょうてんのう)の承和(じょうわ)元年、参議左大弁藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)を持節大使、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)小野篁(おののたかむら)を副使とした。承和二年、長岑高名(ながみねのたかな)を遣唐判官とした。承和三年、故遣唐大使贈正二位藤原清河にさらに従一位を贈り、故留学生贈従二位安倍仲麻呂(あべのなかまろ)に正二位を贈り、その他唐への使いの途中で亡くなった石川道益らにも、それぞれ位を贈った。常嗣らは出発したが、風に遭って引き返し、船を修理した。承和四年、遣唐第一船に太平良(たいへいら)の名を賜り、従五位下を授けた。承和五年夏、常嗣は第一船に乗って唐へ渡り、僧円仁(えんにん)がこれに従った。副使小野篁は病と称して行かなかった。承和六年秋、常嗣が帰国し、節刀を返上した。天皇は紫宸殿(ししんでん)に出御して、自ら労いの言葉をかけた。(注:『続日本後紀』による。円仁については『三代実録』による。)承和八年、唐の皇帝は崩じ、穎王(えいおう)炎(えん)が即位した。これが武宗(ぶそう)である。承和十四年、唐の皇帝は崩じた。光王(こうおう)忱(しん)が即位した。これが宣宗(せんそう)である。(注:『唐書』による。)嘉祥(かしょう)二年、唐の商船が太宰府に到着した。(注:『続日本後紀』による。)唐の皇帝は崩じ、太子漼(さい)が即位した。これが懿宗(いそう)である。(注:『唐書』による。)この年は清和天皇の貞観(じょうがん)元年にあたる。貞観三年、高岳親王(たかおかしんのう)は出家して、唐へ仏法を求めに赴き、僧宗叡(しゅうえい)がこれに従った。貞観八年、唐の商人張言(ちょうげん)ら四十一人が太宰府に到着した。(注:『三代実録』による。宗叡については『扶桑略記』による。)僧宗叡が帰国し、唐人李延孝(りえんこう)が同行して来た。(注:『扶桑略記』による。)貞観十五年、唐の皇帝は崩じた。太子儇(けん)が即位した。これが僖宗(きそう)である。(注:『唐書』による。)貞観十六年、唐の商人崔岌(さいきゅう)ら三十六人が太宰府に到着した。貞観十八年、楊清(ようせい)ら三十一人が荒津(あらつ)に到着し、いずれも帰化の例に準じて手厚く物を給付した。陽成天皇(ようぜいてんのう)の元慶(がんぎょう)元年、延暦寺(えんりゃくじ)の僧斉詮(さいせん)、安然(あんねん)、立昭(りっしょう)、観渓(かんけい)(注:渓は漢とも書く。)が唐へ仏法を求めに赴いた。唐の商人崔鐸(さいたく)ら六十三人が筑前(ちくぜん)に到着した。もともと清和天皇が多治比安江(たじひのやすえ)らを唐に遣わして香や薬を買い求めさせていたが、この時崔鐸が安江らを送り、あわせて品物を持たせて来た。詔して例のとおり供給させた。唐へ仏法を求めに赴いていた僧智聡(ちそう)と、唐の処士(しょし)駱漢中(らくかんちゅう)らが、ともに太宰府に到着した。そこで太宰府に勅して、漢中とその従者らに衣服と食糧を給付させた。元慶五年、唐に在留していた僧中瓘(ちゅうかん)が「高岳親王は流沙(りゅうさ)を渡ろうとして羅越国(らえつこく)に至り、そこで薨去した」と上奏した。(注:『三代実録』による。)
¶宇多天皇(うだてんのう)の仁和(にんな)四年、唐の皇帝は崩じた。皇太弟曄(よう)が即位した。これが昭宗(しょうそう)である。(注:『唐書』による。)寛平(かんぴょう)六年五月、唐の使者が入朝し、(注:『扶桑略記』による。この書には使者の名が記されていない。)あわせて唐に在留する僧中瓘が太政官に上申した書を届けた。七月、中瓘に黄金を賜るよう詔した。太政官の牒(ちょう)には、おおむね次のようにあった。「勅を承って、中瓘の上申書を詳しく読んだ。長く戦乱に阻まれていたが、今ようやく落ち着いてきたという。来状には『温州刺史(おんしゅうしし)朱褒(しゅほう)が特に使者を発って、遠く日本に遣わした』とある。波浪は果てしなく遠いが、以前からの懐かしさは感じるものの、旧来の慣例に照らせば、これをどう受け入れればよいか、消息をむやみに疑うわけにもいかない。事の道理からしても、やめようにもやめられない。聞くところによれば、商人が唐国の事情を語るついでに、多くが『賊が乱を起こしてから十数年、朱褒だけがその管轄地を全うしている。天子は特にその忠勤を愛でている』というようなことを言っている。たとえ噂として伝え聞いたことであっても、君主たる者、誰がこれを聞いて喜ばないことがあろうか。朝廷の議論はすでに決まり、使者を遣わそうとしているが、準備の間に、あるいは年月が延びるかもしれない。上役から問われることがあれば、その旨を心得て答えるように、勅の牒を送るのでこの趣旨を理解されたい。砂金百五十小両を中瓘に賜る。旅の庵での衣鉢にわずかながら充てられたい」。(注:『菅家文草』による。)八月、参議左大弁菅原朝臣(道真)を遣唐大使、紀長谷雄(きのはせお)を副使とした。(注:『扶桑略記』による。)道真は上奏して、「私が謹んで調べましたところ、唐に在留する僧中瓘が昨年三月、商人王訥(おうとつ)らに託して届けた記録には、大唐の疲弊ぶりが詳しく記されております。さらに朝貢を絶やすべきだという知らせもあり、ついに入唐する使者を停止するに至りました。中瓘はしがない旅の僧ではありますが、朝廷のために誠を尽くしております。代馬(だいば)が北風に嘶き、越鳥(えっちょう)が南枝に巣くうように、故郷を思う心は生まれつきのものでしょう。私どもが謹んで昔の記録を調べましたところ、これまでの遣唐使には、海を渡りきれずに命を落とした者、あるいは賊に遭って命を失った者がおりましたが、唐に到着してから困窮や飢寒の悲しみに遭ったという例はまだ見当たりません。中瓘の報告のとおりであれば、これから起こるであろうことは、推して知るべきでしょう。私どもは伏してお願いいたします。中瓘の記録の内容を、広く公卿・博士に示し、その可否を詳しく議論していただきたく存じます。これは国の大事であり、私一人のためのことではございません。ここに誠意を申し上げ、伏してご指示をお願いいたします」と述べた。(注:『菅家文草』による。)寛平七年、遣唐使は中止された。(注:『扶桑略記』、『菅家伝記』による。)醍醐天皇(だいごてんのう)の延喜(えんぎ)三年、唐人景球(けいきゅう)が羊と白鵞鳥(はくがちょう)を献上した。(注:『扶桑略記』による。)延喜四年、朱全忠(しゅぜんちゅう)が唐の皇帝を弑逆し、太子祝(しゅく)を立てた。これが哀帝(あいてい)である。延喜七年、朱全忠はまたこれを弑逆し、唐は滅んだ。(注:『唐書』による。)延喜九年、唐に在留する僧中瓘に砂金百両を賜った。太宰府に勅して、「唐の商人の貨物は、これまで例により使者を遣わして検分させていたが、今はこれを停止する。蔵人所(くろうどどころ)の牒によって、品物の種類をつぶさに記録し、太宰府の官人を遣わして検分させるように」と命じた。冬、唐人が孔雀を献上した。延喜十九年、交易唐物使(こうえきとうぶつし)当麻有業(たいまのありなり)が孔雀を献上した。役人商人の鮑(ほう)置求(ちきゅう)が貢いだものである。唐僧長秀(ちょうしゅう)、湛誉(たんよ)、智琮(ちそう)らが来朝した。延長(えんちょう)四年、興福寺(こうふくじ)の僧寛建(かんけん)が「唐の商船に乗って、唐へ仏法を求めに赴き、五台山(ごだいさん)を巡礼したい」と上奏し、許されて黄金百両を賜った。宇多法皇もまた黄金五十両を賜った。寛建はさらに、本朝の文人の詩文集を賜りたいと上奏した。詔して菅原氏、紀氏それぞれ二巻、橘氏二巻、都氏一巻、および小野道風(おののみちかぜ)の行書・草書一巻を賜った。(注:『扶桑略記』による。)
¶李氏は二十代二百八十九年続いて滅んだ。朱全忠がこれに代わり、梁(りょう)と号し、十七年間続いた。李存勗(りそんきょく)が梁を滅ぼし、また国号を唐(後唐)と改め、四代十三年続いた。石敬塘(せきけいとう)は契丹(きったん)の兵を借りてこれを滅ぼし、国号を晋(後晋)とし、二代十二年で滅んだ。劉知遠(りゅうちえん)がこれに代わり、国号を漢(後漢)と改め、二代四年、郭威(かくい)に滅ぼされた。郭威は国号を周(後周)と改め、三代十年続いて、位を趙匡胤(ちょうきょういん)に譲った。唐の末、銭鏐(せんりゅう)は両浙(りょうせつ)の地を占拠し、自ら呉越国王(ごえつこくおう)を名乗った。銭鏐が死んで子の瓘(かん)が立ち、瓘が死んで子の佐(さ)が立ち、佐が死んで弟の弘俶(こうしゅく)が立った。(注:『五代史』による。この書では弘俶を単に俶とのみ記しているが、今は『扶桑略記』に従う。)この年は村上天皇(むらかみてんのう)の天暦(てんりゃく)元年にあたる。弘俶は仏教を好み、商船の往来によって、天台智者(てんだいちしゃ、智顗)の教えがこの国で盛んに行われていると聞き、その典籍を求めるとともに、右大臣藤原実頼(ふじわらのさねより)に書状を贈ったが、史書にはその詳細が伝わっていない。実頼の返書には、「蔣袞(しょうこん)が再びまいり、わざわざお手紙をいただきました。封を開いて拝読し、感激とともに深い思いを抱きました。お言葉は重ね重ねに及び、まるで直接お会いしているかのようで、まことに幸いなことです。蔣袞らが旅の途中、いささか慰問の意を表しましたが、辺境の地で道のりも遠く、行き届かぬところがあったのではと恐れております。今、交渉はすでに終わり、帰りの船が出発しようとしています。秋の気配が涼しくなってまいりましたが、大王には何事もお変わりなくお過ごしのことと存じます。お贈りいただいた品々は、恐れ多くて受け取りかねるところですが、国境の外との交渉を恐れながらも、手元に留め置くわけにもまいりません。しかしながら、遠くからのお志を拒みがたく、恐縮しながらも頂戴いたしました。別に返礼の品を贈りますので、どうかお受け取りください。生涯海に隔てられ、雲と波がいくえにも重なっております。南へ北へと飛ぶ雁も、季節の挨拶を秋の空に託すのは難しく、東へ西へと流れる月も、ただ明け方の月を眺めて思いを馳せるばかりです。ちなみに天暦元年四月頃、私は左大臣の位に昇りました。今この手紙をご覧になる頃には、まだその前かもしれませんが、その前後にかかわらず、どうかお疑いになりませぬよう。蔣袞らを帰しますので、意を尽くしませんがお許しください。砂金二百両、まことにささやかではございますが、この地の産物として、いささか真心のしるしといたします」とあった。天暦七年、弘俶は再び右大臣藤原師輔(ふじわらのもろすけ)に書状を贈った。師輔の返書には、「蔣丞勲(しょうじょうくん)が来て、遠くよりお手紙を届けてくれました。蒼波万里を隔てながらも、まごころのこもった一通の書状をいただきました。さらに丁重なお心遣いを賜り、喜びが胸に満ちております。そもそも人臣の道としては、交際は国境を越えないものとされております。錦や珍しい品々をいただくことは、国の掟に照らしてどうしたものでしょうか。しかしながら、そのお志は叢竹(そうちく)の色のように織りなされ、その徳の香りは沈香(じんこう)や白檀(びゃくだん)の薫りのように漂っております。これを受け取れば玉条(国の掟)を忘れることになりましょうが、これを辞退すれば友誼を疑うことにもなりかねません。あえてお受けいたしましたのは、ひとえに君子が親しい者を大切にする道義に感じ入ったためです。今、いささかの真心を込めて、ささやかな返礼の品をお送りいたしますので、どうぞお納めください。初秋の折、貴殿にはお変わりなくお過ごしのことと存じます。空しく夕日を眺めながら、ただ遠くを思う気持ちがつのるばかりです。蔣丞勲を帰しますので、書状では意を尽くせません」とあった。(注:『本朝文粋』による。)そもそも天慶(てんぎょう)年間、肥前(ひぜん)の沙門が唐へ渡っていたが、天暦の末頃になって帰国し、その国司に語って言うには、「顕徳(けんとく)年間より以前、天下は大飢饉となり、黄巣(こうそう)の徒党が結集して辺境の州を略奪しました。弘俶はこの凶悪な徒党を九年にわたって討伐し、大小二十四回の戦いで、五万余りの首級を斬りました。顕徳元年春、飢饉が起こりました。盗賊がまた蜂起し、烏合の衆となって蟻のように集まり、郡県を掠め奪いました。弘俶は軍を率いて攻撃し、汶水(ぶんすい)のほとりで賊を破り、溺れ死ぬ者が非常に多く、汶水はそのために流れが止まったほどでした。それ以来、天下は清らかに治まりました。天子は九錫(きゅうしゃく)の栄誉を賜り、呉越王に封じました。まもなく弘俶は病の床につき、突然狂ったように叫んで転げまわり、手を挙げて罪を謝りました。ある僧が告げて、『王が銅塔を鋳造し、宝篋印経(ほうきょういんきょう)を納めることを誓われれば、病は癒えるでしょう』と言いました。弘俶は合掌して礼を尽くして謝すると、たちまち病は癒えました。弘俶は銅塔八万四千基を鋳造し、それぞれの塔に印刷した宝篋印経一部を納めました。肥前の沙門はその塔を手に入れて帰国しました。塔の高さは九寸余りで、四面には仏や菩薩の像が鋳出されていました。内部には仏像が安置され、大きさは棗(なつめ)の種ほどでした。また宝篋印経も納められ、経巻の末尾には『天下兵馬都元帥呉越国王銭弘俶(せんこうしゅく)』と記されていました」とのことである。(注:『扶桑略記』による。この書には黄巾(こうきん)とあるが、黄巣(こうそう)の誤りであろう。『呉越世家』を調べると、董昌(とうしょう)は銭鏐とともに挙兵したが、董昌は後に叛いて皇帝を称し、国号を羅平(らへい)とした。中軍は黄色の衣を着け、外軍は白の衣を着けたという。ここでいう黄巾とは、あるいはこれを指すのであろうか。弘俶が即位した際には、後周の軍に従って李景(りけい)を攻めた、この一戦があるのみである。肥前の沙門は、銭氏が呉越を治めて以来の事績を聞いて、誤ってこれを弘俶一代の事績としたのであろう。それゆえ年代の記述に食い違いが多い。今はただその実情を残すにとどめ、無理に中国側の史書と一致させることはしない。)弘俶は後にその領地を宋に差し出し、国は除かれた。(注:『五代史』による。)