卷之二百卌一 列傳第一百六十八

諸蕃十

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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肅慎

蝦夷(えみし)〔下〕。桓武(かんむ)天皇の延暦十一年、天皇は詔して次のように述べた。「聞くところによれば、夷(えみし)の爾散南公阿波蘇(にさんなんこうあはそ)が教化に感じて入朝を望んでおり、その忠誠の志はまことに喜ばしい。国司は騎兵三百を差し向け、国境まで送迎させ、もっぱら威勢を示すように」。また陸奥(むつ)の俘囚(ふしゅう、投降した蝦夷)二人に外従五位下を授け(注:『類聚国史』『日本紀略』による)、これによって懐柔した。夷俘(いふ)三人を朝堂に招いて宴を催し、爵位を授けた(注:『類聚国史』による)。延暦十三年、征夷大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が蝦夷を大いに打ち破り、四百五十七人を斬り、百五十人を捕虜とし、馬八十五匹を得て、集落七十五か所を焼き払った(注:『日本紀略』による)。延暦十八年、出羽(では)の山夷への禄の支給を停止し、山夷・田夷の別なく、功績のある者を選んで禄を与えるようにした。陸奥の俘囚四人がひそかに敵地へ往来したため、捕らえて土佐に流した(注:『日本後紀』による。『日本紀略』には五人とある)。延暦十九年、陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に命じて諸国の俘夷を検校させた。延暦二十年、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷を撃って大いに打ち破り(注:『日本紀略』による)、幣伊村(へいむら)まで追いつめて、その巣窟を一掃した(注:『日本後紀』による)。延暦二十一年、田村麻呂に命じて陸奥に胆沢城(いさわじょう)を築かせ(注:『和名抄』によれば鎮守府は胆沢郡にあったといい、これがそれにあたる)、諸国の浮浪の民四千人を移してこれを守らせた。酋帥(しゅうすい、首領)の大墓阿弖利為(たものあてりい)と盤具母礼(ばんぐのもれ)は、種族五百余人を率いて降伏した。田村麻呂はこの二人の捕虜を京師(みやこ)に献じた。この二人は奥地の賊の首領で、たびたび辺境を害してきた者であったため、朝議では斬罪に処すべきとされた。田村麻呂は次のように奏上した。「この二人は賊の首魁ではありますが、すでに身をゆだねて帰順し、しかも誠意をもって『特別な恩情を賜り、命を全うできるならば、自ら夷地へ戻って残りの種族を招き降そう』と申しております」。しかしこの願いは許されず、二人は河内で斬られた。延暦二十二年、田村麻呂を陸奥に遣わして志波城(しわじょう)を築かせた(注:『日本紀略』による)。延暦二十三年春、蝦夷征討を計画し、武蔵(むさし)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・陸奥などから、糒(ほしいい、乾飯)一万四千三百余斛(こく)、米九千六百余斛を陸奥小田郡中山柵(おだぐんなかやまのき)へ運ばせた。夏、陸奥から「志波城から胆沢郡まで百六十余里、山谷が険しく遠いため往来に不便である。急を要する事態に備えて駅を一つ設置したい」との上言があり、これを許可した。冬、出羽から「秋田城が設置されてから四十余年、土地はやせて五穀の栽培に適さない。その上、北の片隅に孤立していて近隣からの救援も望めない。永久に廃止して、河辺府(かわべふ)に拠るようにしたい」との上言があり、詔して秋田城を廃して郡とし、民を河辺に移した。嵯峨(さが)天皇の弘仁元年冬、陸奥から「渡島(わたりしま)の狄(てき、蝦夷の一種)二百余人が気仙郡(けせんぐん)に来着したが、本国の管轄ではないので帰らせようとした。狄らは『今は寒い季節で海路を渡るのは難しい。来春まで待って本郷に帰りたい』と述べた」との奏上があり、これを許可した。弘仁二年春、陸奥の爾薩体(にさったい)・幣伊の二村の蝦夷が反乱を起こした。陸奥出羽按察使文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)、鎮守将軍佐伯耳麻呂(さえきのみみまろ)、副将軍物部足継(もののべのたりつぐ)らに詔して、陸奥・出羽の兵二万六千人を発してこれを討伐させた。このとき出羽守大伴今人(おおとものいまひと)は勇敢な俘囚三百余人を募り、賊の不意を突いて雪の中を襲撃し、爾薩体の残党六十余人を誅した。夏、文室綿麻呂を征夷将軍とし、大伴今人・佐伯耳麻呂・坂上鷹飼(さかのうえのたかかい)を副将として賊を討たせた。詔して次のように述べた。「夷狄が国の秩序を乱してから久しく、討伐を加えてきたもののいまだ根絶するに至っていない。将軍らはこれから出兵して討伐するが、軍監・軍曹については選んで用いた上で奏上せよ。ただし軍法に違反した者については、身柄を拘束して処分を申し出よ。隊長以下は法に従って処断せよ。国の安危はこの一挙にかかっている。将軍らは努めよ」。このとき糒・塩・武具が十分でなく、十日余りも出発できなかった。秋、綿麻呂らは次のように奏上した。「私どもは当初、俘軍一千人を吉弥侯部於夜志閉(きみこべのおやしへ)らに委ねて幣伊村を襲撃させようと考えておりました。しかしかの村の俘夷は仲間が非常に多く、もし少数の軍で討伐に臨めば機を誤るおそれがあります。そこで陸奥・出羽両国の俘軍各一千を発し、八、九月を待って左右に軍を張り、前後から奮い立って攻撃したいと存じます」。詔して「副将や国司らとよく相談せよ。国の大事は軽々しく計画してはならない」と述べた。出羽から次のような上言があった。「降伏した俘囚吉弥侯部都留岐(きみこべのつるき)が申すには、『自分たちは爾薩体村の夷である伊加古(いかこ)らと長年の仇怨があり、今、伊加古らは兵を練り衆を整えて都母村(つものむら)におり、幣伊村の夷を誘って自分たちを攻撃させようとしている。兵糧を賜れば、先陣を切って襲撃したい』とのことです。私どもは、賊をもって賊を討たせることは国家軍事にとって利があると考えます。米百斛を与え、その願いを聞き届けました」。これを許可した。文室綿麻呂は援軍千百人の増派を願い出て、許可された。冬、綿麻呂らは兵を四方に分けて進軍させ、まっすぐ賊の巣窟を突いて徹底的に討伐し尽くし、その状況を詳しく報告した。詔して「将軍の用兵の巧みさ、兵士たちの戦功のほどは、この結果によってよく分かった。蝦夷は願い出のとおり中国(畿内など内地)へ移配し、俘囚は本土に留め置いて、努めて教え諭し、無理な労役を課すことのないようにせよ」と述べた。そもそも桓武天皇は蝦夷の反乱を憂い、代々の朝廷でも平定できずにいたため、大伴弟麻呂および坂上田村麻呂を遣わして討伐させ、おおむね平定するに至った。しかし残党はなお山谷に逃げ隠れ、隙をうかがっては略奪を働いていた。綿麻呂らがその残党を誅するに及んで、ようやく辺境の憂いは収まった。天皇はその功績を大いに賞し、副将以下それぞれに位階を進めた。綿麻呂は次のように奏上した。「官軍の一挙により、賊はほぼ残らず討ち果たされました。鎮兵は廃止し、永く百姓を安んずべきです。ただし城柵などの武具・軍糧はまだ移し納めておりません。伏してお願いするに、一千人を置いて守衛に充ててください。志波城はたびたび水害を受けており、便利な土地へ移すべきです。伏してお願いするに、二千人を置いて守らせ、移転が終わったところで解散し、千人を残して永く鎮戍とさせてください。兵士を設けるのはもとより非常時に備えるためであり、すでに残賊がいない以上、兵士を置く必要はありません。ただ辺境の守りを急に停止することはできませんので、伏してお願いするに、二千人を置き、残りはすべて解散させてください。宝亀五年から今年まで三十八年、百姓は疲弊し、いまだ休息を得ておりません。伏してお願いするに、四年間租税を免除し、鎮兵については順次交代させて免除を回していただきたく存じます」。いずれも許可された(注:『日本後紀』による)。弘仁三年、鎮守府の官員を定め(注:『日本後紀』『類聚三代格』による)、諸国に俘長(ふちょう)を置いた(注:『日本後紀』『類聚国史』による)。陸奥の田夷三百九十六人が姓を改めて公民となり課役を負担したいと願い出て、これを許可した。弘仁五年、陸奥から「胆沢・徳丹(とくたん)の二城は、辺境の外に孤立している。城下や津軽の狄俘(てきふ)は野心が測りがたく、備えを怠ることはできない。糒・塩を蓄えて非常に備えたい」との奏上があり、裁可された(注:『日本後紀』による)。

仁明(にんみょう)天皇の承和二年、これより先、夷俘(いふ)が境を出ることを禁じていたが、近年は都へ紛れ入る者が頻発していた。そこでこの年、陸奥出羽按察使や国司・鎮守府などの官吏に対し、官符を下して譴責した。承和六年、陸奥守良岑木連(よしみねのこつら)、鎮守将軍匝瑳末守(そうさのすえもり)が次のように奏上した。「近年、天変地異がしばしば現れ、地震も頻発し、百姓は驚き散らばって落ち着いて暮らせずにおります。多賀城と胆沢城の間には異民族が蔓延しており、弓を引く者が数千人にも及びます。もし急な警戒事態が起これば防ぎがたいものがあります。兵一千人を発し、あらかじめ守備を修め、民を農業に専念させたく存じます」。詔してこれを許可した。承和七年、重ねて次のように奏上した。「奥地の民は、庚申(こうしん)の日を守ると称して人々が押し寄せ群れ集まり、抑えることができません。国家の威光によらなければ、驚き騒ぐ民を鎮めることはできません。援兵を調発して人心を鎮めたく存じます」。これを許可した(注:『続日本後紀』による)。文徳(もんとく)天皇の斉衡元年、陸奥は前年の不作を理由に、援兵二千人の派遣を願い出て不測の事態に備えたいとした。勅して「一千人の発遣を許し、穀物一万をもって俘夷を賑給せよ」と述べた。斉衡二年、陸奥の俘夷が同族同士で殺し合う事件が起き、兵二千を発して非常の警備にあたらせ、穀物一万斛を出して民や俘囚を賑給した(注:『文徳実録』による)。清和(せいわ)天皇の貞観十一年、諸国の夷俘を太宰府(だざいふ)に移し、新羅(しらぎ)の賊に備えさせた。貞観十二年、太政官は上総国(かずさのくに)に符を下し、夷の種族を教え諭すよう命じて次のように述べた。「夷の種族を分散させて内地に住まわせているのは、たとえ盗賊が現れても、彼らに防がせるためである。ところが今聞くところによれば、かの国の夷俘はなお野心を抱いており、いまだ中国風の教化に染まらず、あるいは火を放って民家を焼き、あるいは武器を持って財物を奪っているという。およそ群盗の徒はここから起こるものである。今これを禁じ止めなければ、後々の害はどうなるであろうか。よく取り締まりに努めよ。もし心を改めて皇化に従う者があれば、格別に手厚く恵み、その性を改めず役人の教えに背く者は奥地へ追い返し、粗暴な者どもが善良な民を侵し損なうことのないようにせよ」。

陽成(ようぜい)天皇の元慶二年春、出羽の夷俘が反乱を起こし、火を放って秋田城(あきたじょう)を攻撃した。出羽守藤原興世(ふじわらのおきよ)は鎮兵でこれを防ぎ、あわせて諸郡の兵を発するよう促し、早馬で上奏した。勅して次のように述べた。「夷虜が道理にそむいて城邑を焼き払うとは、犬や羊のような狂った心、凶暴を性とする者どもである。追討を加えなければ、どうして懲らしめることができようか。精鋭の兵をよく計って発し、その喉元を押さえよ。ただし今は農繁期であり、人々は耕作に従事している。多くの兵を動かせば農務の妨げになろう。上策の用兵とは謀略で相手を屈させることであり、良将は戦わずして巧みに方略を設け、辺境の民を安んじるものである」。また陸奥国にも勅して「あらかじめ兵士を調練し、急に備えよ」と述べた。夏、出羽権掾小野春泉(おののはるいずみ)、文室有房(ふんやのありふさ)が兵を率いて秋田城に入ったが、賊の勢いはますます盛んになり、城の南北の官舎や民家をことごとく焼き払い、人々を殺し財物を略奪した。当時は前年の飢饉を経て百姓は困窮しており、兵を募って戦わせても皆士気に乏しかった。春泉・有房らは賊と戦ったが、多勢に無勢で敵わず、賊は勝ちに乗じてついに秋田城を焼いた。長年蓄えてきた武具や軍糧は、一瞬にして灰燼に帰した。そこで重ねて陸奥に勅符を下し、「兵二千を発して急ぎ救援に赴け」と命じた。出羽守藤原興世は孤立した城を守っていたが援軍は来ず、四方への対応に兵が足りず、たびたび早馬で表を送って救援を求めた。興世は先に兵六百人を野代(のしろ)の隘路に配置していたが、焼山(やけやま)に至ったところ、賊兵一千余人が突然官軍の背後に起こり、五百余人を殺し略奪し、逃れ得た者はわずか五十人であった。百姓の家屋もすべて焼かれた。上野・下野・陸奥に勅符を下し、援兵三千人を急いで発するよう促し、あわせて陸奥に対しては時機を逃さず救援に赴かなかったことを責めた。そこで陸奥守源恭(みなもとのきょう)は兵二千を発して救援に向かい、さらに興世の要請により五百人を追加で発し、早馬でこれを奏上した。あわせて「本国(陸奥)の夷は、隣国の争乱に触発されて狼のような野心や蠆(さそり)の尾のような害心を動かすおそれがあります。兵二千を発し、要害の地を守らせたい」と願い出て、これを許可した。そこで勅して「本国が兵を発するたびに早馬で言上するのは、いたずらに人々を驚かせるだけで実益がない。上野・下野・陸奥・出羽などの国々は、今後は延暦十三年の勅のとおり、駅を通じて奏上するように」と述べた。このとき藤原保則(ふじわらのやすのり)を出羽権守とし、出羽の軍事を統轄させた。保則がまだ到着しない間、小野春泉・文室有房が秋田の陣営を守っていた。最上郡擬大領伴貞道(とものさだみち)、俘囚の首領玉作宇奈麻呂(たまつくりのうなまろ)は官軍五百六十人を率いて賊の形勢を偵察していたが、道中で賊兵三百余人に遭遇し、貞道は流れ矢に当たって死んだ。賊は再び挑んできたが、官軍はこれを防ぎ戦って打ち破り、多くを殺し捕らえた。宇奈麻呂は賊と切り結び、自らの手で二人を斬ったが、ついに戦死した。賊は草むらに伏兵を置き、俘囚三人を使いに出して「秋田川以北の地を得られれば兵を退きたい」と申し入れてきた。官軍はその詐術を見抜き、軽装の兵百余人を放って伏兵を射させ、三人を殺した。出羽権介藤原統行(ふじわらのむねゆき)と小野春泉・文室有房は秋田の旧城に駐屯し、軍糧と武具を整えた。陸奥押領使大掾藤原梶長(ふじわらのかじなが)が率いる兵二千人と本国の兵とを合わせた五千余人が城を守っていた。賊兵が突如攻め寄せて城を囲み、統行らは兵を出して防戦したが、賊に敗れた。有房は力戦し、矢が左脚に当たったが、いよいよ勇気を奮い立たせ、死力を尽くして戦い、自らの手で数人を斬った。しかし官兵は逃げ散り、後援も得られなかったため、有房は独力で進むことができず退いた。藤原梶長は賊の勢いが強盛であるのを見て、本隊の兵二千人を率い、間道を通って陸奥へ帰った。六月、小野春風(おののはるかぜ)を鎮守将軍とし、陸奥に勅して次のように述べた。「逆賊の跳梁は日ごとに激しくなっているのに、かの国の軍士二千人は敵を恐れて顧みるばかりで、本国へ逃げ帰ってしまった。形勢を断って勝利を制するには、それなりの方法があるはずである。それなのに、今の者たちはめいめい我が身惜しさに戦う気もなく、賊どもに兵糧を与え、凶暴な勢いに屈している。どうして王者の軍をこのように退かせ、みずから敗軍の恥を招いてよいものか。改めて逃亡した兵卒を取り締まり、事務にたけた者に統率させて送り出すべきである。もし重ねて逃亡する者があれば、軍法によって処罰せよ」。また東海道・東山道の二道に勅して「精鋭を選抜して軍に加えよ」と命じた。秋、藤原保則が出羽に到着し、文室有房らに兵六百余りを率いさせて秋田川の南に駐屯させた。当時、夷俘が集まり拠っていたのは、上津野(かみつの)・火内(ひない)・榲淵(すぎぶち)・野代・河北・腋木(わきぎ)・方口(かたくち)・大河・堤・姉力(あねりき)・方上(かたかみ)・焼岡(やけおか)など合わせて十二の村であり、これに帰化した俘囚が住む地添川(ちそいがわ)・霜別(しもわけ)・助川(すけがわ)の三村を加えた地域であった。官軍が確保していた雄勝城(おがちじょう)(注:「男勝」とも書く)は、とりわけ要衝にあたる場所で、賊兵がまさに攻めようとしていた。保則は雄勝・平鹿(ひらか)・山本の三郡の倉に蓄えられた穀物を放出し、郡内および添川・霜別・助川の三村の俘囚に賑給を行い、その心を慰め喜ばせた。そこで俘囚の深江禰加止(ふかえのねかと)・玉作正月麻呂(たまつくりのむつきまろ)らが三村の俘囚二百余人を誘い率いて、夜、賊の村を襲撃し、その家屋を焼いて八十人を殺した。このとき軍中では、賊の俘囚が津軽の夷俘と通謀しているとの噂も流れた。保則は、もし二つの賊が結びつけば害はさらに深刻になると考え、常陸・武蔵両国の軍二千人の発遣を奏請して不測の事態に備えた。そこで諸国に勅して「あらかじめ勇猛な兵を選び訓練せよ」と命じた。やがて賊の俘囚三百余人が秋田城に来て降伏を願い出た。文室有房・藤原滋実(ふじわらのしげざね)の二人は騎馬の従者を退けて、自ら賊の陣営に赴き降伏を受け入れる約束を取り交わした。折しも陸奥権介坂上好蔭(さかのうえのよしかげ)が兵二千余りを率いて流霞道(りゅうかどう)から秋田に至り、盛んに軍容を張って賊に威勢を見せつけた。小野春風もまた別の勅を奉じて上津野に入り、賊の一党を招き撫で、賊の首領七人が春風について降伏してきた。諸将はその降伏を許そうとしたが、朝廷に従う俘囚たちが次のように願い出た。「私どもは国家に従い仕えており、賊党は以前から私どもを恨んでおります。もし今ここで賊を滅ぼし尽くさなければ、後に必ず報復されるでしょう。仇敵となる家は数多く、私どもは恐れずにはいられません。また降伏を願い出る態度もぞんざいで無礼です。どうかその願いをお許しになりませんように」。そこで降伏した俘囚に命じて、賊が奪った官の武具を差し出させたところ、賊の俘囚はかつて略奪した甲二十二領を差し出してきた。出羽権掾清原令望(きよはらのよしもち)らは、差し出された甲の数が少ないことを怪しみ、夷の心情は測りがたく、あざむかれているのではないかと疑った。春風は「私は自ら賊地に入り、逆賊たちが過ちを悔いる心をよく知っている。今もしこれを抑えて受け入れなければ、事をうまく成し遂げることはできまい」と述べた。藤原保則はその言葉に従い、彼らを慰めて受け入れた。やがて渡島(わたりしま)の夷の酋長百三人が種族三千人を率い、また津軽の俘囚のうち賊に与しなかった者百余人とともに、秋田城に至って帰順の誠を尽くした。明くる年の春、藤原統行・文室有房らに命じて俘囚をもてなし、その労をねぎらわせた。勅して「出羽の俘囚深江三門(ふかえのみかど)、大辟法作正月麻呂(おおさけののりつくりのむつきまろ)らに、いずれも外従五位下を授けよ」と述べた。まもなく諸国の兵士を解散させ、上野・下野両国の兵が携えてきた甲冑・武具は出羽にとどめ置かせた(注:『三代実録』による)。後冷泉(ごれいぜい)天皇の天喜四年、陸奥の俘囚安倍頼時(あべのよりとき)が反乱を起こした。この事件は『叛臣伝』に詳しい。白河(しらかわ)天皇の永保三年、出羽の俘囚清原武衡(きよはらのたけひら)・清原家衡(きよはらのいえひら)が反乱を起こした。この事件は『清原武則伝』に見える。

女真

粛慎(みしはせ)は、靺鞨(まっかつ)とも呼ばれる(注:『隋書』による)。陸奥宮城郡(むつのみやぎぐん)の郡治から三千里離れた、多賀城(たがじょう)の西北に位置し(注:多賀城碑による)、その地はおおむね蝦夷の地と近接している。欽明(きんめい)天皇の五年、粛慎の船が佐渡島(さどがしま)の御名部碕(みなべのさき)に来着し、長らくとどまって立ち去らなかった。春夏には魚を捕って食料とした。彼らの言葉は通じず、島の人々は彼らを鬼のような化け物と思い、恐れて近づこうとしなかった。粛慎はほしいままに略奪を行った末、次第に移動して瀬河浦(せがわのうら)に至ったが、そこで毒のある水を飲んで、死者は半数近くにのぼった。その骨は岩穴に積み重なり、世俗ではその場所を「粛慎隈(しゅくしんのくま)」と呼んだ。斉明(さいめい)天皇の四年、越国守(こしのくにのかみ)阿倍比羅夫(あべのひらふ)(注:原文では「此羅夫」)が粛慎を討って帰り、生け捕った羆(ひぐま)二頭と羆の皮七十枚を献上した。斉明天皇五年、比羅夫は船団百八十艘を率いて蝦夷を討ち、これを降した。さらに進んで粛慎を撃ち、四十九人を捕らえて帰った(注:『日本書紀』および本書の一説による)。斉明天皇六年、阿倍比羅夫は船団二百艘と陸奥の蝦夷を率いて粛慎を征討した。渡島(わたりしま)の蝦夷一千余人が海辺に陣を張っていた。蝦夷の二人が比羅夫の軍を見て、大声で「粛慎の船団が来たぞ」と叫んだ。比羅夫はこの二人を呼び寄せ、粛慎の船の数と潜伏場所を尋ねた。蝦夷は詳しく指し示して答え、船は二十余艘あるという。そこで粛慎を呼んだが、応じて来なかった。比羅夫は彩り豊かな絹や武具・鉄製品を海辺に積み上げて、これを餌としておびき寄せさせた。粛慎は船団を並べ、羽を旗印として結びつけ、櫂を漕いでやって来た。二人の老いた粛慎人が船から下りて、積み上げられた絹のところまで来て、何度も熟視した後、単衣を一枚ずつ取って身に着けた。それぞれ布を一端ずつ手に取って、船に乗って去った。まもなくまた戻ってきて、身に着けた単衣を脱いで元の衣に着替え、布を置いて去った。追いかけて呼びかけたが、戻って来なかった。その船は弊賂弁島(へろべのしま)(注:本書の注に、渡島の別の島であるという)まで至り、和睦を求めてきた。比羅夫はこれを聞き入れず、ついに交戦した。能登馬身龍(のとのうまみたつ)が賊に殺されたが、官軍は賊の妻子をことごとく捕らえた。こうして粛慎の軍は敗れ、比羅夫は四十七人を捕虜として連れ帰った。天武(てんむ)天皇の五年、粛慎人七人が新羅(しらぎ)の使者金清平(きんせいへい)に従って来朝した。持統(じとう)天皇の十年、粛慎の志良守叡草(しらすえいそう)らに、錦の袍(ほう)と袴、緋色・紺色の絁(あしぎぬ)、斧を賜った(注:『日本書紀』による)。元正(げんしょう)天皇の養老四年、渡島津軽津司(わたりしまつがるのつかさ)諸鞍男(もろのくらお)を靺鞨に遣わし、風土を視察させた(注:『続日本紀』による)。そもそも靺鞨には七つの部族があった。そのうちの二部族を粟末(ぞくまつ)、黒水(こくすい)といい、いずれも高麗(こうらい)に服属していた。粟末靺鞨は大(たい)氏を名乗り、後に渤海(ぼっかい)となった。渤海については別に伝がある。黒水靺鞨は後の女真(じょしん)である(注:『金史』による)。

琉球

女真(じょしん)は、粛慎の故地に住み、東は海に面し、南は高麗(こうらい)に接する。初めは渤海(ぼっかい)に服属し、なお黒水靺鞨(こくすいまっかつ)と称していた。契丹(きったん)が渤海を滅ぼすに及んで契丹に服属するようになり、名を改めて女真とした。契丹の戸籍に入った者を「熟女真(じゅくじょしん)」といい、契丹の戸籍に入らなかった者を「生女真(せいじょしん)」という。その地には混同江(こんどうこう)・長白山(ちょうはくさん)がある。生女真の首長は完顔部(わんやんぶ)におり、完顔氏(わんやんし)と称した。その始祖を凾普(かんぷ)という。凾普の玄孫にあたる石魯(せきろ)は、やや法度によって統治を行うようになり、これによって次第に強大になった。諸部族に対して武威を輝かせ、行く先々で勝利を収めた(注:『金史』による)。女真は代々宋(そう)と通使していた。この頃になると契丹と戦い、しばしばこれに勝利した(注:『文献通考』による)。女真の風俗は弓射に長け、矢の長さは一尺余りで、盾を貫いて人を殺すほどの威力があった。戦いに臨むときは、各人が盾を持ち、戈(ほこ)や矛を先頭に、次いで刀、次いで弓矢の順に構えた(注:『文献通考』にも、用兵にあたっては戈を前列に立て「硬軍刀」と称するものを用い、刀に棓(こん、棍棒)を添え、弓矢を後方に配するとある。女真の陣法は本書の記述と合致するので、参考として付け加えておく)。その船は長さ十尋(ひろ)余りで、一艘ごとに櫂を三、四十本備え、五、六十人が乗り込んだ。上陸するときは二、三十人が刃を奮って奔り出し、弓矢を操り盾を背負った七、八十人がその後に従った。至る所で老人や弱者を殺し、壮丁を追い立て、物資や食糧を奪った。山野を踏み越える速さは、隼(はやぶさ)が飛ぶかのようであった(注:『武備志』にも、女真は馬を馳せての狩猟を好み、岩壁の上り下りも飛ぶようであるという。これも本書の記述と合致する)。ただ、鳴鏑(なりかぶら、音の鳴る矢)の音だけは恐れた。後一条(ごいちじょう)天皇の寛仁三年三月、女真は五十余艘の船を仕立てて高麗を襲い、沿海の住民を略奪した。さらに対馬(つしま)を焼き払い、三百余人を殺し捕らえた。対馬守遠晴(とおはる)(注:姓は伝わらない)は逃れて太宰府(だざいふ)に帰った。賊はまた壱岐(いき)を侵し、住民をほとんど殺し尽くした。壱岐守藤原理忠(ふじわらのまさただ)は害に遭った。四月、賊は筑前(ちくぜん)に入り、怡土郡(いとぐん)を侵した。当時、沿海の地は広く兵は少なかったが、太宰権帥藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は早馬で状況を報告し、兵を発してこれを撃退した。翌日、賊は能古島(のこのしま)を略奪し、警固所(けいごしょ)に迫った。隆家はまた兵を遣わしてこれを防いだ。賊は退いて能古島に戻った。翌日、賊はまた博多(はかた)を侵したが、そこには守る兵がいなかった。散位平為忠(たいらのためただ)、平為賢(たいらのためかた)が警固所から駆けつけた。ちょうど二つの島の住民が捕らえられて賊船の中にいた。府軍を指揮して「馬を馳せてこれを射よ」と呼びかけると、府軍は鳴鏑でこれを射た。賊は恐れて退いた。賊はさらに筥崎宮(はこざきぐう)を焼こうとしたが、府の兵がこれを射殺した者が一人あった。賊は船に乗って能古島に戻り停泊したが、折しも大風が二日続き、賊は進退に窮した。隆家はその隙を得て、兵船数十艘を発して追撃した。賊はまた船越津(ふなこしつ)を侵したが、府軍がこれを撃退した。賊は肥前松浦郡(ひぜんまつらぐん)を侵したが、前介源知(みなもとのさとる)がこれを撃退した。賊はついに去って、再び高麗を侵したが、今度は高麗に大敗し、死傷者はほとんど全滅に近かった。この事件は不意に起こったため、壱岐・対馬の住民で殺され、あるいは捕らえられた者は千余人、牛馬も数百頭に及んだ。対馬の銀鉱の坑穴も焼き壊されたが、当初はこれがどの賊であるか詳しく分からず、人々は「刀伊(とい)」(注:「伊」は「夷」とも書く)と呼んでいた。高麗からの牒状(ちょうじょう、公文書)を得るに及んで、初めてこれが女真であると分かった(注:『小右記』による)。この年、女真は宋に使いを遣わした(注:『文献通考』による)。その後百余年を経て、阿骨打(あくだ)が初めて帝を称し、国号を金(きん)とした。そもそも石魯の子烏古迺(うこだい)は治安元年に生まれ、次第に諸部族を服属させ、景祖(けいそ)と号した。その子劾里鉢(がいりはつ)は用兵に長け、勢いはますます強盛となり、世祖(せいそ)と号した。世祖が死ぬと弟の頗剌淑(はらしゅく)が立ち、頗剌淑が死ぬと弟の盈歌(えいか)が立ち、盈歌が死ぬと甥の烏雅束(ういそく)が立ち、烏雅束が死ぬと阿骨打が立った。阿骨打は劾里鉢の子で烏雅束の弟にあたり、太祖(たいそ)と号した。太祖が死ぬと弟の呉乞買(ごきつばい)が立った。こうして遼(りょう)と宋を滅ぼし、汴京(べんけい)を境として、その地の半ばを領有するに至った。その後七代を経て、蒙古(もうこ)に滅ぼされた(注:『金史』による)。

そもそも安倍頼時(あべのよりとき)が陸奥で反乱を起こしたとき、いずれ敗れて滅ぼされることを恐れ、一族郎党をあげて海外へ逃れようと考えた。まず子弟とともに二十人ほどを率いて一艘の船に乗り、あらかじめ土地の様子を視察しに行った。やがて海港に至り、一本の大きな川を見つけて遡っていった。広々とした原野には人影もなく、水はきわめて広く深かった。三十日ほど進んでも、なおその渡し場にたどり着けなかった。ふいに波のような足音が聞こえたので、頼時らは恐れおののき、葦の茂みに身を隠してうかがった。すると千余騎が、額に絳(あか)い布を結び(注:『旧唐書』音楽志に、高麗楽の舞人は額に絳い布を結ぶとある。靺鞨はもともと高麗に服属していたので、その風俗がこのようになったのであろうか)、川のほとりに群れ立って、互いに何か告げ合っていた。馬に鞭打って乱れた流れに乗り入れ、徒歩の者は皆馬に取り付いて渡っていった。頼時は「きっと浅い場所に違いない」と思い、近づいて見てみたが、底は見えなかった。恐ろしくなって引き返した。まもなく頼時は死んだ。後に頼時の子宗任(むねとう)が僧となって筑紫(つくし)にいたとき、人に語って言った。「私はかつて、胡国(ここく)は宋(そう)のはるか北にあると聞いていた。しかし先人(父頼時)に従ってかの地に至ってみて、実は陸奥からもそれほど遠くないことが分かった」(注:『今昔物語』『宇治拾遺物語』による)。思うに、この胡国とは、すなわち女真のことである(注:『金史』によれば、阿骨打が黄竜府(こうりゅうふ)を征討した際、混同江(こんどうこう)のほとりに至ったが船がなかった。阿骨打は赭白(しゃはく、赤みがかった白色)の馬に乗ってまっすぐに渡り、「私の鞭の指す方へ進め」と言い、諸軍もこれに従ったところ、水は馬の腹まで達したという。後に舟人にその渡った場所を測らせたところ、深くて底に届かなかった。『武備志』にも、馬に浮かせて川を渡り、舟や櫂を用いないとある。思うに女真の風俗はこのようなものであったのだろう。頼時が引き返したのは、ちょうど劾里鉢(がいりはつ)の時代にあたる。女真の兵馬が精強で、川を渡るのに舟筏を借りなかったという話は、信じるに足りる。また地図を見ると、混同江は黒竜江(こくりゅうこう)と合流して海に注いでおり、蝦夷の地とは一水を隔てるのみで、陸奥の国境からもそれほど隔たっていない。しかも遡ること数十日してもなお渡し場に至らないというのは、北方の海に注ぐ諸水のうち、黒竜江・混同江のみがそれに当てはまる。したがって、これが女真の地であることは明らかである)。

琉球国(りゅうきゅうこく)は、もと「流求(りゅうきゅう)」と書いた(注:『元亨釈書』『下学集』による。『性霊集』には「留求」、三善清行(みよしのきよゆき)が著した『僧円珍伝』には「流梂」とあり、書かれ方はまちまちであるが、ここでは『隋書』によって「流求」を旧名と定める)。後に今の文字に改められた(注:『斎藤親基記』『島津文書』による)。またの名を阿児奈波島(あこなわじま)といい(注:淡海三船(おうみのみふね)が著した『僧鑑真伝』『延暦僧録抄』による)、これが訛って「沖縄(おきなわ)」となった(注:『長門本平家物語』『琉球国図』による)。琉球は海島の中にあり(注:『今昔物語』『元亨釈書』による)、東西に狭く南北に長い(注:『琉球国図』による)。薩摩(さつま)から南へ二百里ほどの距離にあり(注:『南浦文集』による)、多禰島(たねがしま、種子島)の西南に位置し(注:『僧鑑真伝』による)、掖玖(やく)(注:「益救」とも書く)・菴美(あまみ)・度感(とかん)・信覚(しがき)・球美(くみ)・永良部(えらぶ)・貴賀(きか)(注:「貴海」とも書く)などの島々と近接している(注:『琉球国図』による。これらの島の名は、今の世で使われている文字と本文とでは異なっているが、ここでは国史諸書に用いられている表記に従って記す)。その風俗は略奪を事とし、世間では人を食う国だと言われている(注:『僧円珍伝』『今昔物語』『元亨釈書』、および『性霊集』を参照。『隋書』には、南方の境の風俗はやや異なり、死者が出るとその邑里の人々が共にこれを食らうとあり、また死者を集め取ってともに食すともあって、本文の記述と合致する)。もともと中国では南海の島々を総称して「南島」と呼んでいた(注:『続日本紀』による)。後に南島と白石(しらいし)・阿甑(あこしき)・黒島(くろしま)・硫黄(いおう)などの島嶼をあわせて「鬼界島(きかいがしま)」と総称し、あわせて十二島とした(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』による)。鬼界とはすなわち貴賀(きか)のことである(注:『琉球国図』による)。琉球の人々の間では、その始祖は天孫氏(てんそんし)であり、阿摩美久(あまみく)というと伝えられている(注:清の『中山伝信録』が引く琉球人の著した『中山世鑑』による)。推古(すいこ)天皇の十六年、隋(ずい)の皇帝楊広(ようこう)は羽騎尉朱寛(しゅかん)を海に遣わして琉球を慰撫させたが、琉球はこれに従わなかった。朱寛はその布製の甲(よろい)を取って帰った。当時、朝廷の使者が隋に滞在しており、これを見て「これは夷邪久国(いやくこく)の人が用いるものである」と言った(注:『隋書』による。「邪久」はすなわち「掖玖」であり、今日では通用する。琉球と掖玖は互いにそれほど離れていないため、用いる布甲もたまたま同じものであったのであろう)。元正(げんしょう)天皇の霊亀元年春、南島の奄美(あまみ)・夜久(やく)・度感・信覚・球美などが入朝し、それぞれに応じて位を授けられた(注:『続日本紀』による)。孝謙(こうけん)天皇の天平勝宝五年冬、遣唐大使藤原清河(ふじわらのきよかわ)、副使大伴古麻呂(おおとものこまろ)・吉備真備(きびのまきび)は、唐僧鑑真(がんじん)らとともに同じ船に乗って帰国した。洋上を漂流して阿児奈波島に至り、十日余り風を待って、南風を得て出発した(注:『僧鑑真伝』による)。文徳(もんとく)天皇の仁寿三年秋、僧円珍(えんちん)は唐の商人欽良暉(きんりょうき)の船に乗って唐へ赴いたが、途中で台風に遭い、琉球へ漂着した。遠くに数十人が戈(ほこ)や矛を手にして岸に立っているのが見えた。折しも風がやみ、どこへ行くこともできずにいた。欽良暉は嘆き叫んで「我々は琉球に食われてしまうのではないか、どうしたものか」と言った。円珍が仏に祈ると、たちまち東南の風が得られ、難を逃れることができた(注:『僧円珍伝』『今昔物語』『元亨釈書』による)。一条(いちじょう)天皇の長徳三年、南蛮の賊が西の辺境を侵した。翌年、太宰府は貴賀島に命じて南蛮の賊を追捕させた(注:『日本紀略』による)。そもそも大宝(たいほう)・和銅(わどう)のころ、南島の諸夷は多くが内属し、朝貢が絶えなかった(注:『続日本紀』による)。その後はしばしば離反するようになり、長寛(ちょうかん)・承安(じょうあん)のころには、十二島のうち内属する島は五つ、属さない島は七つとなった。属さなかったのは鬼界より南の島々である(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』による)。このとき薩摩の人で阿多権守平忠景(あたのごんのかみたいらのただかげ)という者が、朝命に背いて海を越え鬼界島へ渡った。筑後守平家貞(ちくごのかみたいらのいえさだ)を遣わしてこれを討たせようとしたが、実行には至らなかった。後鳥羽(ごとば)天皇の文治四年、源頼朝(みなもとのよりとも)は天野遠景(あまのとおかげ)および宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)を遣わして鬼界島を攻め、これを降伏させた。これより先、薩摩の人河辺通綱(かわべのみちつな)が、頼朝の意向に背いて島中に逃げ隠れていた。頼朝はまた源義経(みなもとのよしつね)の一党がこの島に潜んでいるのではないかと疑っており、そのためこの遠征が行われたのである(注:『東鑑(吾妻鏡)』による)。そもそも源為朝(みなもとのためとも)が伊豆大島(いずおおしま)に配流されていたとき、諸島を侵略し、鬼島(おにがしま)に至って島人を服従させ、一人を連れ去って帰り、毎年絹百匹を納めさせたという(注:『保元物語』による)。いわゆる鬼島とは、これもまた琉球のことである。後に為朝の子がこの島に逃れ、天孫氏に代わって王となったと伝えられる(注:『南浦文集』『中山伝信録』を参照。『中山伝信録』によれば、舜天(しゅんてん)は日本の皇統の後裔で、大里按司(おおざとあじ)朝公(ちょうこう)の子であるという。宋の淳熙七年に即位し、時に年十五であったという。『続弘簡録』の注もまた、琉球人の著した『世続図』を引いて、舜天王は朝公の子であるとしている。宋の淳熙七年は治承四年にあたる。即位の年を十五とする説は、ちょうど『保元物語』にある、為朝の末子が嘉応二年に五歳であったという記述と符合する。したがって、為朝の子孫が琉球の王となったという話も、あながち根拠のないことではないだろう。参考として付記しておく。『中山世譜』には、舜天王は姓を源といい、尊敦(そんとん)と号したとある。父は鎮西八郎為朝公、母は大里按司の妹である。宋の乾道二年、西方の戍(まもり)の地で生まれ、宋の淳熙十四年丁未(ひのとひつじ)に即位し、宋の嘉熙元年丁酉(ひのととり)に薨じた。在位五十一年、享年七十二であったという)。足利氏(あしかがし)が兵権を握るに及んで、琉球王は使者を遣わして方物(ほうぶつ、産物)を貢いだ。それ以後、時を定めて朝貢するようになり、薩摩の島津氏(しまづし)がその接待にあたったという(注:『足利家内書引付』『斎藤親基記』『南浦文集』『島津文書』による)。