卷之二百卌 列傳第一百六十七
諸蕃九 蝦夷上
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶蝦夷(上)。蝦夷(えみし)は、東北地方に住んでいた異民族である(注:『日本紀』による)。蝦夷には都加留(つかる)、麤蝦夷(あらえみし)、熟蝦夷(にぎえみし)の三種類があった(注:『日本紀』の注に引く伊吉博徳(いきのはかとこ)の書による)。その人々は勇猛で荒々しく、弓を射ることに長けていた。常に矢を髻(もとどり、頭上に結った髪)の中に隠し持ち、略奪を好み、飛ぶように素早く動いた。君主や首長を持たず、風習として皆が入れ墨をし、髪を椎の形に結っていた。冬は穴を掘って住み、夏は簡素な小屋を作って住んだ。五穀や養蚕の術を持たず、鳥獣を射て食料とし、その羽毛や毛皮を衣服とした。当初は越(こし)や陸奥(むつ)などの辺境の地に、他の民と入り混じって住んでいた(注:『日本紀』による)。
¶景行天皇(けいこうてんのう)二十五年、武内宿禰(たけのうちのすくね)を遣わして東方の国土と風俗を視察させた。二十七年、武内宿禰は都に戻って「東方に日高見国(ひたかみのくに)という国があり、土地は肥沃で広々としています。そこの民は蝦夷と呼ばれ、討ち取ることができましょう」と奏上した。四十年、東国の夷(えびす)がしばしば背き、辺境が騒がしくなったため、日本武尊(やまとたけるのみこと)に東国征討を命じた。日本武尊は上総(かずさ)から陸奥へと転じ、海路を取って蝦夷の地に至った。その首領である島津神(しまつかみ)・国津神(くにつかみ)は竹水門(たけのみなと)に軍勢を集め、迎え撃とうとした。日本武尊が大きな鏡を船に掲げて進むと、蝦夷はこれを望み見て気勢をくじかれ、皆弓を投げ捨て、自ら両手を後ろ手に縛って罪を請うた。日本武尊はそこで彼らを受け入れ手なずけた。さらに信濃・越国(こしのくに)などの蝦夷を攻め、その首領を捕虜とした。帰途、伊勢に立ち寄り、捕らえた蝦夷を神宮に献じた。ところがその後、蝦夷は夜な夜な騒ぎ立て、出入りに礼儀を欠いたため、御諸山(みもろやま)のほとりに移した。それでもほどなく神山の木を伐り、里の民を襲って略奪した。そこで播磨・讃岐・伊勢・安芸・阿波の五か国に分けて住まわせるよう詔が下された。五十六年、御諸別王(みもろわけのおう)に東国の鎮撫を命じた。当時蝦夷が大いに乱れていたため、御諸別王は兵を発して討った。蝦夷の首領である足振辺(あしふりべ)・大羽振辺(おおはふりべ)・遠津暗男辺(とおつくらおべ)らは頭を地に打ちつけて土地を差し出し、罪を請うた。そこでその降伏を受け入れ、従わない者だけを誅殺したので、東国はよく治まった。仁徳天皇五十五年、田道(たじ)が蝦夷を討ったが、伊寺水門(いじのみなと)で兵が敗れ、田道は戦死した。雄略天皇二十三年、吉備尾代(きびのおしろ)が新羅征討に赴く際、蝦夷五百人を率いて吉備国まで進んだ。ちょうど天皇が崩御したため、蝦夷たちは「天皇はすでに崩御された。この機を逃してはならない」と語り合い、連れ立って近隣の郡を侵し略奪した。尾代はこれと娑婆水門(さばのみなと)で戦った。蝦夷は身が軽く、身を伏せたり跳んだりして矢をかわすのに長けていた。尾代は弓を持って弦を空撃ちし、これによって二隊を射倒したが、矢筒の矢が尽きたため、船の者に矢を集めさせようとした。船の者は恐れをなして逃げ去ったので、尾代は弓を手にしたまま歌を歌った。歌い終えると、自ら数人を斬り、丹波浦(たにわのうら)の掛水門(かけのみなと)まで追撃してことごとく討ち滅ぼした。清寧天皇四年、蝦夷が帰属を願い出た。欽明天皇元年、蝦夷が民を率いて帰順した。敏達天皇十年、蝦夷数千人が辺境に侵攻した。その首領である綾糟(あやかす)らを召し出し(注:綾糟については、本書の注に「大毛人」とある)、天皇は「そなたら蝦夷は、昔、大足彦天皇(おおたらしひこのすめらみこと、景行天皇の別名)がその乱の首謀者を誅し、帰服した者を手なずけられた。今もその先例に倣い、首謀者を誅するべきである」と諭した。綾糟らは大いに恐れ入り、泊瀬川(はつせがわ)に入って身を清め、三諸岳(みもろのおか)に向かって「私ども蝦夷は、子々孫々に至るまで清く明るい心をもって朝廷にお仕えします。もしこの誓いに背くならば、天地の神々と歴代天皇の御霊が、私どもの一族を滅ぼされますように」と誓った。そこで天皇は彼らを赦した。舒明天皇九年、蝦夷が背いた。大仁(だいにん)の位にある上毛野形名(かみつけののかたな)を将軍として討伐させた。しかし蝦夷に敗れ、砦に逃げ込んだ。賊はこれを追って包囲した。このとき兵士たちは逃げ散ってしまったが、形名の妻は侍女数十人に命じて砦の中で弓の弦を打ち鳴らさせた。形名は飛び出して戦い、蝦夷は兵がまだ多く残っていると思い込み、少し退いた。そこで形名は逃げ散った兵をかき集め、再び攻めてことごとく捕虜とした。皇極天皇元年、越の辺境の蝦夷数千人が帰属し、朝廷で饗応を受けた。大臣の蘇我蝦夷(そがのえみし)も自邸で彼らをもてなし、手厚く慰撫した。孝徳天皇元年、諸国郡の刀・甲冑・弓矢を取り上げるよう詔が下ったが、蝦夷と境を接する地域だけは、その兵の数を記録した上で、もとの持ち主に貸し与えることとした。二年、蝦夷が服属の意を示した。四年、磐舟柵(いわふねのき)を整備して蝦夷に備え、信濃・越などの民をもって守らせ、初めて柵戸(きのへ、柵を守る民)を置いた。 (注:『日本紀』による) 斉明天皇(さいめいてんのう)元年秋、北越の蝦夷九十五人を朝廷でもてなし、柵養(きのへ)の蝦夷九人、津軽(つがる)の蝦夷六人に冠位二階を授けた。冬、蝦夷が民を率いて帰属した。四年春、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が船団百八十艘を率い、蝦夷の齶田(あぎた)・渟代(ぬしろ)の二郡を討ったところ、蝦夷は戦わずして降伏した。比羅夫が齶田の浦に軍船を整列させると、齶田の首領恩荷(おが)が進み出て、「私どもは肉を食料としているため弓矢を持っておりますが、決してこれを官軍に向けようとは思いません。今後は清らかな心をもって、末永く朝廷にお仕えします。もしこの言葉に背くならば、齶田浦の神が罰を下されるでしょう」と誓った。そこで恩荷に小乙上(しょうおつじょう)の位を授け、渟代・津軽二郡の郡領とした。渡島(わたりのしま)の蝦夷を召してもてなし、慰撫して帰した。秋、蝦夷が朝廷に参上して貢ぎ物を献じたので、手厚くもてなして賜り物を与え、城養(きのへ)の蝦夷二人に位一級を授け、渟代郡の大領沙尼具那(さにくな)には小乙下、少領宇娑左(うさぎ)には建武の位を授け、勇者二人にもそれぞれ一階級を授けた。さらに沙尼具那らには鮹旗(たこはた)二十頭、鼓二面、弓矢二具、鎧二領を別に賜った。津軽郡の大領馬武(めむ)、少領青蒜(あおひる)らにも、沙尼具那らと同様に位と品を賜った。そのほか都岐沙羅柵(つきさらのき)の柵造某には位二級、判官には位一階を、渟足柵(ぬたりのき)の柵造大伴稲積(おおとものいなつみ)には小乙下を授けた。また渟代郡大領沙尼具那に詔して、夷や捕虜の戸口を調べさせた。五年、陸奥・越二国の蝦夷を甘檮丘(あまかしのおか)の東でもてなした(注:『日本紀』による)。阿倍比羅夫に再び船団百八十艘を率いさせ、蝦夷を討たせた。比羅夫は飽田(あぎた、注:先には齶田とも書くが、訓読は同じである)・渟代の蝦夷二百四十一人、津軽の蝦夷百十二人、胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷二十人を召し集めて盛大にもてなし、品を賜った。さらに肉入籠(ししりこ)まで進み、菟蝦夷(うのえみし)の胆鹿島(いかしま)・菟穂名(うほな)の言葉を尋ね聞いた上で、後方羊蹄(しりべし)を政庁として郡領を置いた。そのまま粛慎(みしはせ)を攻めて帰還した。この年、坂合部石布(さかいべのいわしき)・津守吉祥(つもりのきさ)が唐に使いし、陸奥の蝦夷の男女二人を唐の皇帝に見せた。蝦夷は白鹿の皮、弓三張、矢八十本を唐の皇帝に献じた(注:『日本紀』および本書の一説による。『唐書』はこれを天智天皇元年のこととするが、誤りである)。天智天皇元年と四年に、蝦夷が朝廷に参上した。天武天皇十年、陸奥の蝦夷二十二人に位を賜った。越国の蝦夷伊高岐那(いたかきな)が「捕虜となった者の戸数が七千に達しました。どうか一郡として立てていただきたい」と奏上し、許された。持統天皇二年、蝦夷人百九十余人がそれぞれ調・賦を背負って運び、天武天皇の殯宮(もがりのみや)に哀悼の意を捧げた。蝦夷の男女二百十三人を飛鳥寺(あすかでら)の西の槻(つき)の木の下でもてなし、冠位を授け、それぞれに応じた品を賜った。三年、陸奥の優嗜曇郡(うきたむのこおり)の城養の蝦夷である務大四(むだいし)の脂利(しり)・古男(こお)・麻呂(まろ)・鉄折(かなおり)が、鬢髪(びんぱつ)を剃り落として僧になりたいと願い出た。天皇は「麻呂らは若いのに立ち居振る舞いが穏やかで、性格も欲が少ない。菜食をして戒律を守り、一生涯修行に励むがよい」と詔した。続いて越の蝦夷の僧道信(どうしん)に、仏像一体、灌頂幡(かんじょうばん)、鐘、鉢各一口、五色の彩帛(さいはく)各五尺(注:「尺」は「匹」の誤りかと思われる)、綿五屯(とん)、布十段、鍬十枚、鞍一具を賜った。陸奥の蝦夷の僧自得(じとく)は金銅の薬師像・観世音像各一体、鐘、娑羅(しゃら)、宝帳、香炉、幡などを願い出たので、詔してこれを賜った。越の蝦夷八釣魚(やつりお)らにもそれぞれに応じた品を賜った。十年、越の度島(わたりのしま)の蝦夷伊奈理武志(いなりむし)らに錦の袍(ほう)と袴、緋色や紺色の絁(あしぎぬ)、斧などの品を賜った(注:『日本紀』による)。
¶文武天皇(もんむてんのう)元年、陸奥の蝦夷が特産物を貢いだ。二年、越後・陸奥の蝦夷が特産物を献じたので、越後の磐舟柵(いわふねのき)を修理するよう詔した。三年、越後の蝦夷百六人に位を賜った。元明天皇(げんめいてんのう)和銅二年、陸奥・越後の蝦夷が猛威をふるい、しばしば善良な民を傷つけ害していたため、巨勢麻呂(こせのまろ)を陸奥鎮東将軍、佐伯石湯(さえきのいわゆ)を征越後蝦夷将軍、紀諸人(きのもろひと)を副将軍とし、遠江(とおとうみ)・駿河(するが)・甲斐(かい)・信濃・上野(こうずけ)・越前(えちぜん)・越中(えっちゅう)などの兵を発して、二方面から進撃し討ち平らげた。三年春、蝦夷が朝廷に参上して正月を賀した。七年、尾張(おわり)・上野・信濃・越後の民二百戸を出羽(でわ)に移して柵戸とした。八年、蝦夷が特産物を貢いで元日を賀し、蝦夷と南島の人あわせて七十七人にそれぞれ位を授けた。元正天皇(げんしょうてんのう)即位に際し、陸奥の蝦夷の邑良志別君宇蘇弥奈(おらしべつのきみうそみな)ら三等官らが、「私どもの親族が死に絶え、子孫が狄(てき、北方の異民族)に襲われ奪われることを恐れております。どうか香河村(かがわむら)に別に一郡を建て、戸籍に編入していただきたい」と奏上し、許された。蝦夷の須賀君古麻比留(すがのきみこまひる)らは、「先祖代々、昆布を貢いでまいりましたが、それは常に北の地で採っております。今、国府の所在地から北の地まで大変遠く、往来に十日余りもかかります。どうか閉村(へじむら)に新たに一郡を建て、親族とともに移り住んで、内地の民に準ずる扱いとしていただきたい」と願い出て、許された。養老四年、陸奥の蝦夷が背き、按察使(あぜち)上毛野広人(かみつけののひろひと)を殺した。そこで播磨按察使の多治比県守(たじひのあがたもり)を持節征夷将軍、下毛野石代(しもつけののいわしろ)を副将軍、阿倍駿河(あべのするが)を持節鎮狄将軍として討伐させた。五年、県守らは蝦夷を打ち破って帰還した。七年、出羽国司の多治比家主(たじひのいえぬし)が、「蝦夷五十二人の功績はすでに明らかですが、まだ恩賞に浴しておりません。そもそも、香り高い餌の先には、必ず深い淵の魚がかかり、手厚い禄の下には、必ず忠節の臣が集まるものです。今、夷狄は愚かで道理に暗く、忠義をわきまえません。もし長く恩賞を与えなければ、たちまち離散してしまうことを恐れます。よって事情を詳しく述べて奏上いたします」と奏上した。天皇はこれを許し、勲功に応じて位を加え賜った。聖武天皇(しょうむてんのう)神亀元年春、陸奥国海道の蝦夷が背き、大掾(だいじょう)佐伯児屋麻呂(さえきのこやまろ)を殺した。そこで藤原宇合(ふじわらのうまかい)を持節大将軍、高橋安麻呂(たかはしのやすまろ)を副将軍として海道の蝦夷を討伐させた。小野牛養(おののうしかい)を鎮狄将軍として出羽を鎮めさせた。坂東九か国の兵三万人に騎射・陣立ての訓練を行わせた。彩帛二百匹、絁(あしぎぬ)千匹、綿六千屯、布一万端を陸奥の鎮所に輸送した。冬、宇合は蝦夷を討って帰還した(注:『続日本紀』による)。この年、鎮守将軍大野東人(おおののあずまひと)が初めて陸奥に多賀柵(たがのき)を設置した(注:多賀城碑による。柵の記述は『続日本紀』天平九年の記事に基づく。碑文には「城」とあるが、これは後から書き改めたものであろう)。天平二年、陸奥から「田夷(でんい)や村の蝦夷はすでに賊心を改め、長く朝廷の教化に従っております。どうか郡を建てて戸籍に編入していただきたい」と言上があり、許された。九年春、陸奥按察使の大野東人が、「陸奥から出羽柵に至る道のりは遠回りになっております。どうか男勝(おがち)から直通の道を開き、往来の便を図りたい」と奏上し、詔してこれを許した。藤原麻呂(ふじわらのまろ)を持節大使とし、佐伯豊人(さえきのとよひと)らとともに多賀柵に至り、東人と協議して工事を起こした。蝦夷が疑い恐れて叛乱を起こすことを懸念し、使者を遣わして事情を告げ諭した。東人は麻呂および出羽国司田辺難波(たなべのなにわ)らとともに、そろって夷の地に入り、石を切り木を伐って、百六十里にわたって道を切り開き、兵を示して帰還した。孝謙天皇(こうけんてんのう)天平宝字二年、陸奥国に帰順した蝦夷の男女千六百九十余人に、田を与えて戸籍に編入した(注:『続日本紀』による)。六年、鎮守将軍藤原朝獦(ふじわらのあさかり)が多賀城を修築し、石碑を立てて道のりの里数を記した。当時、次々と領土を切り開き、蝦夷の国境まで百二十里に達していたという(注:多賀城碑による)。神護景雲三年、蝦夷が朝廷に参上して元日を賀し、朝堂で宴を賜り、位を授け品を賜った。この年、陸奥に桃生(ものう)・伊治(いじ)の二城を築き、坂東八か国の民を募って、その土地の利を生かして耕作や養蚕をさせ、鎮戍(ちんじゅ、守備)にあてた。四年、陸奥の蝦夷宇漢迷宇屈波宇(うかんめうくはう)らが一族を率いて逃げ去った。人を遣わして呼び戻そうとしたが、応じようとせず、使者に「我々は必ず親族とともに城柵を侵すであろう」と告げた。そこで道島島足(みちしまのしまたり)らを陸奥に遣わし、その真偽を調べさせた(注:『続日本紀』による)。
¶光仁天皇(こうにんてんのう)宝亀四年、陸奥・出羽の蝦夷や俘囚(ふしゅう、帰順した蝦夷)らが朝廷に参上したので、位を授け品を賜って帰らせた。五年春、出羽の蝦夷・俘囚に朝堂で宴を賜り、位を授け品を賜ったが、まもなくその参上を停止するよう詔した。秋、蝦夷が辺境に侵攻したので、陸奥按察使鎮守将軍大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)らが討伐を奏請し、許された。このとき海道の蝦夷が橋を焼いて道を塞ぎ、桃生城を急襲してその西の郭を破ったため、鎮守の兵は支えきれなかった。陸奥国司が兵を発して救援に向かい、駿河麻呂は早馬で急を報じた。そこで坂東八か国に「辺境の砦に急事があれば、国の大小に応じて二千人以下五百人以上の兵を発して救援に赴くように」と詔した。冬、駿河麻呂は遠山(とおやま)の蝦夷を攻めた。遠山はその地形が険しく、夷や俘囚が集まり住んでいた。これより先、諸将は誰も進んで討伐することができずにいた。この時に至り、駿河麻呂はまっすぐにその巣窟を突いたので、蝦夷は逃げ散り、追撃して徹底的に討ち、ことごとく降伏させた。六年冬、出羽から「蝦夷はまだ平定されておりません。どうか国府を移し、兵九百九十六人を発して要害の地を三年間守らせていただきたい」と言上があった。そこで相模・武蔵・上野・下野の四か国の兵を差し向けて出羽を守らせるよう詔した。七年春、陸奥から「兵二万人を発して、山道・海道両道の賊を討伐したい」と奏請があった。そこで出羽にも兵四千人を発するよう詔し、男勝(おがち)の道から賊の西の境を攻めさせた。夏、陸奥鎮守将軍紀広純(きのひろずみ)が「出羽の志波村(しわむら)の夷俘が背き、国の兵がこれを撃っても利がありません」と言上した。そこで下総・下野・常陸などの国の騎兵を発して援護させ、佐伯久良麻呂(さえきのくらまろ)を陸奥鎮守副将軍に兼任させて出羽を鎮めさせた。秋、安房・上総・下総・常陸に命じて船五十隻を造らせ、陸奥に輸送して不測の事態に備えさせた。俘囚三百九十五人を太宰府管内の諸国に移した。冬、陸奥の軍三千人を発して胆沢(いさわ)の賊を討伐した。出羽の俘囚三百五十八人を讃岐などに移し、その中の七十八人を諸司や廷臣に賜って奴(やっこ)とした。八年夏、陸奥の兵が山道・海道両道の賊を討った。出羽の蝦夷が背き、国の兵は大敗して武器や道具の多くを失った。十一年春、陸奥の蝦夷の賊が長岡を侵し、民家を焼いた。国の兵がこれを防いで双方に死傷者が出たので、兵三千を発して討伐するよう詔した。陸奥上治郡(かみはりのこおり)の大領で外従五位下の伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が背き、按察使参議紀広純を殺した。呰麻呂はもともと夷俘の出であり、以前から広純に恨みを抱いていたが、表向きは従うふりをして、内心では広純を討とうとひそかに謀っていた。牡鹿郡(おしかのこおり)の大領道島大楯(みちしまのおおたて)もまた常に呰麻呂を辱めていたので、呰麻呂はこれも恨みに思っていた。これより先、蝦夷の賊がたびたび背いたため、広純は覚鱉城(かくべつじょう)を築いて賊の衝突に備えるよう建議していた。この時に至り、広純が俘囚の軍を率いて城に入り、大楯・呰麻呂もこれに従った。呰麻呂は俘囚の賊の謀りごとにあらかじめ加わっており、まず大楯を殺し、続いて広純に迫ってこれを殺した。俘囚の賊たちもこれに呼応した。陸奥介(むつのすけ)大伴真綱(おおとものまつな)は包囲を脱して逃げた。賊は多賀城に入り、続いて兵を進めて大いに略奪し、府庫を破壊して、軍糧や武具を奪い取って去り、残った物には火を放って焼き払った。三月、中納言藤原継縄(ふじわらのつぐただ)を征東大使とし、大伴益立(おおとものますたて)・紀古佐美(きのこさみ)を副使、大伴真綱を鎮守副将軍、安倍家麻呂(あべのいえまろ)を出羽鎮狄将軍とし、益立には陸奥守を兼任させた。出羽に「度島(わたりのしま)の蝦狄は久しく朝廷の教化になじみ、貢ぎ物を絶やしたことがない。今、帰順した俘囚が反逆を起こしているが、将軍・国司は心を尽くして慰撫するように」と詔した。六月、百済俊哲(くだらのしゅんてつ)を鎮守副将軍とした。七月、坂東の兵を発して多賀城に赴かせるよう詔し、下総国の糒(ほしいい)六千斛(こく)、常陸国の糒一万斛を割いて軍所に輸送させた。八月、狄(てき)の志良守(しらす)の俘囚宇奈古(うなこ)が秋田城を守り抜きたいと願い出た。鎮守将軍安倍家麻呂がこれを報告すると、朝廷は「秋田城は、前代の将軍・大臣が深く考えて築いたものである。敵を防ぎ民を守って、すでに長い年月が経っている。ひとたびこれを捨て去るのは甚だ良策ではない。軍士を遣わしてこれを守らせ、彼らの帰服の思いをくじくことのないようにせよ。由理柵(ゆりのき)も要害の地であるから、同じく兵を置いて防御を助けさせるべきである。以前、国司は『秋田は守りにくく、阿辺(あべ、注:「阿」は「河」の誤りかと思われる)は治めやすい』と言った。当時はその意見に従ったが、そのまま年月を引き延ばし、今に至るまでまだ移り住んだ者はいない。これを思えば、民が移住を嫌うことは明らかである。狄の俘囚や民に詳しく尋ね、双方の利害を具体的に述べさせるべきである」と答えた。続いて藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)を持節征東大使とした。十月、征東・鎮狄の諸将が手間取って機を逃したことを責める詔が下った。そこで征東軍の使者は兵二千を遣わし、木を伐って深い溝を掘り、鷲坐(わしくら)・楯坐(たてくら)・楯石沢(たていしざわ)・大菅屋(おおすがや)・柳沢(やなぎさわ)の五つの道を塞いで、賊の突撃に備えることを謀った。鎮守副将軍百済俊哲は俘囚の賊と戦ったが、俊哲の兵は尽き矢も尽き、賊の兵に追い詰められ、俊哲は身一つで逃げ延びた。天応元年五月、按察使藤原小黒麻呂が賊の勢いがやや衰えたと奏し、軍を引き上げて兵馬を休ませたいと願い出たが、許されず、かえって欺いていると責める詔が下った。当初、征東副使大伴益立は従四位下を授けられて派遣されたが、軍を進めずに滞陣し、砦の多くが賊に奪われていた。大使藤原小黒麻呂が後から到着し、ようやく失った砦の一部を取り戻した。九月、益立の従四位の位を剥奪した。十二月、陸奥守内蔵全成(くらのまたなり)を鎮守副将軍とした。桓武天皇(かんむてんのう)延暦二年、征東軍が弱く戦いに堪えないため、坂東八か国に詔して、位階のない郡司らの子弟や、これといった職のない民の中で軍役に堪えられる者を選び、各国千人、少なくとも五百人以上を訓練させ、緊急の際には国司がこれを率いて駆けつけるようにさせた。七年、陸奥出羽按察使多治比宇美(たじひのうまし)に鎮守将軍を兼任させ、安倍猿島墨縄(あべのさしまのすみなわ)を副将軍とし、陸奥に糒三万五千斛を多賀城に輸送させ、東海・東山・北陸の諸国には糒二万三千斛と塩若干を輸送させ、東海・東山・坂東諸国の歩兵・騎兵五万二千八百余人を徴発した。参議紀古佐美を征東大使として節刀を賜り、入間広成(いるまのひろなり)を副使とした。翌年三月、諸国の軍がことごとく多賀城に集結し、道を分けて賊の地に入った。古佐美は衣川(ころもがわ)まで進んだが、軍を止めて進まなかった。詔してこれを督促した。六月、征東副将軍入間広成、左中軍別将池田真枚(いけだのまひら)、前軍別将安倍猿島墨縄が、それぞれ副将を遣わして川を渡り進撃させると、賊の兵は引き上げた。官軍は火を放ち、勢いに乗って進み、巣伏村(すぶしむら)まで至って前軍と合流しようとした。しかし前軍は賊に阻まれて進むことができなかった。賊の兵二百余人がさらに進んで防ぎ戦ったので、官軍はやや退いた。賊四百人ほどが軍の背後に回り込んだため、官軍は前後から敵を受け、ついに支えきれなくなった。別将丈部善理(はせつかべのよしまさ)らは戦死し、そのほか殺された者や溺死した者が非常に多かった。その後、古佐美は輸送が続かないことを理由に撤兵を奏請したが、許されなかった。古佐美らは長く陣中にとどまりながら功を上げることができなかった。九月、ついに軍を引き上げ、諸将が軍律を失い功を上げなかった罪を議したが、古佐美については長く戦陣にあったことから特に不問とされ、池田真枚・猿島墨縄らはそれぞれの程度に応じて降格・処分された。九年春、東海道の駿河以東、東山道の信濃以東の諸国に詔して革製の甲二千領を造らせ、征東に供させた。続いて東海道の相模以東、東山道の上野以東の諸国に詔して、軍用の糒十四万斛を用意させた。冬、征東の軍士のうち功績のあった者四千八百四十余人に、勲位を授け位を進めた(注:『続日本紀』による)。