卷之二百卅九 列傳第一百六十六

諸蕃八 渤海下

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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渤海(ぼっかい)下。仁明(にんみょう)天皇の嘉祥元年(848年)冬、能登国(のとのくに)から次のような奏上があった。「渤海からの入覲使(にっきんし、朝廷参内のための使者)王文矩(おう ぶんく)ら百余人が来着した。」翌年春、少内記(しょうないき)の県犬養貞守(あがたのいぬかいの さだもり)と直講(じっこう)の山口西成(やまぐちの にしなり)を渤海客使の存問使(ぞんもんし、来訪の事情を尋ねる使者)に任じた。両名は能登に赴き、入覲の時期が定めに違反していることを問いただした。まもなく貞守らは早馬で渤海王の啓(けい、書状)の案文および中台省(ちゅうだいしょう)の牒(ちょう、公文書)の案文を朝廷に進上し、あわせて問答の記録も提出した。そこで貞守らはそのまま客使を兼務することになった。

夏、貞守らは王文矩らを都へ案内し、左近衛少将(さこんえのしょうしょう)の良岑宗貞(よしみねの むねさだ)に命じて鴻臚館(こうろかん、外国使節接待施設)でねぎらわせた。王文矩は八省院(はっしょういん)に参上し、贈り物と国書を献上して次のように述べた。

「彜震(いしん、渤海王)が申し上げます。晩秋に入り次第に冷え込んでまいりましたが、天皇におかれましては御健勝のこととお慶び申し上げます。私彜震は恩顧を受け、前回の聘問使が帰国してよりまだ十二年(一紀)に満たぬうちに、改めて使者を遣わすこととなり、まことに定めの年限を守れませんでした。とはいえ、古来隣国のよしみは礼をもって結ばれるもの。一年の空白でさえ情の疎遠を招きかねません。まして星回りは幾度も巡り、風霜は八度も移り変わりました。東南に向かって風を望み、いつも貴国を仰ぎ見ております。どうして安閑としていられましょうか、久しく音信も途絶えておりました。謹んで土地の産物を用意し、使者に託してお届けいたします。品目は別紙の通りです。ご賢察のほどお願い申し上げます。海は広く隔たり遠く、拝謁の機会もなく、下情まことに堪えがたく思っております。謹んで永寧県丞(えいねいけんじょう)王文矩を遣わし、啓を奉りますが、意を尽くせませぬ。謹んで啓す。」

中台省から太政官(だいじょうかん)への牒には次のようにあった。「貴国に入覲のため遣わす使者、永寧県丞王文矩ならびに随行百人について、処分を仰ぎ牒を奉ります。両国は遠く隔たり、この大海によって隔てられておりますが、末永く友好を結び、使いの道すがら音信を託します。一葉の舟が空を漂うように大海のかなたに浮かび、双つの旗と節刀を掲げた使節が隣国への至誠を届けます。往来は遠くとも、音信は稀にしか伝わりません。恋しく思う心はいたずらに積もるばかりゆえ、十二年の期限が満ちるのを待たずに参りました。旧来の慣例に照らし、謹んで永寧県丞王文矩を遣わし、貴国に入覲させます。状に准じ、日本国太政官に牒を差し上げます。謹んで記録し牒を差し上げます。」

天皇は詔して大使王文矩に従二位を授けた。文矩は弘仁年間にも来朝し正三位を賜っていたため、位階を進めて従二位としたのである。副使の烏孝慎(う こうしん)には従四位上、判官の馬福山(ば ふくざん)・高応順(こう おうじゅん)にはともに正五位下を授け、その他の者にもそれぞれ位を授けた。

端午の節句には、天皇は武徳殿(ぶとくでん)に出御して騎射を御覧になった。近衛六軍が儀仗を整え、百官が陪席するなか、王文矩らにも陪宴するよう詔があった。まもなく参議の小野篁(おのの たかむら)らを鴻臚館に遣わし、勅書と太政官の牒を賜った。

勅書には次のようにあった。「天皇、謹んで渤海国王に問う。入貢使文矩らが到着し、啓状を拝見して事情はつぶさに承知した。王は篤い志で仁を敬い、心には恩恵を懐いている。使いの船は絶えることなく、日本を望んでは遠さを忘れるほどである。貢物を携えた使いが相次ぎ、遼陽(渤海の地)を思えば近くに感じられる。その労苦を思いやり、まことに誠意を嘉すべきである。ただし聘問の期限は十二年(一紀)を限りとするのが、先帝の定めた明制であり、すでに国の憲章となっている。それゆえ担当官は『文矩らは旧来の規則に背いたのだから、責めて辺境より送り返すべきである』と強く求めた。しかし朕は、彼らが我が身を顧みず遠く大海を渡り、船は破損し積み荷も失われながらも人命だけは助かったことを気の毒に思い、入朝して拝謁することを許し、禄を賜り栄誉ある席次を与えることとした。これは恒例の典拠に基づくものである。しかしこれは一度限りの恩恵であって、再び当てにできるものではない。王は旧来の規則を守って違えることなく、明らかな徳を示して国の垣根を保つように。ただ信義と従順の心さえあれば、礼の厚薄を咎める者などいようか。夏の暑さの折、清らかにお過ごしのことと思う。文矩は今帰国するので、簡単に思うところを述べた。あわせて王への贈り物を別便で送る。」

太政官から中務省(なかつかさしょう)へ送った牒には、「小国が大国に仕えるにあたり、道理として勝手は許されない。日程の遅速は先方の都合だけでは決められない。本来なら送り返し、その違反を戒めるべきところである」として事情を朝廷に上奏した。すると勅が下り、「文矩らの孤舟はすでに破損し、百人ほどの人命がかろうじて残ったのみである。その艱難を思えば、道義上大目に見るべきである。特別に恩情をもって入覲を許し、位階や反物を旧例に准じて賜るがよい。ただしこれは臨時の措置であって、以後の通例としてはならない。担当官に詳しく申し伝え、重ねて違反することのないようにせよ」とのことであった。入覲の儀礼が終わると、船を新たに造らせ、時期を見て送り返した。勅書と国への贈り物を添え、状をもって牒とする。牒が届き次第、状に准じて取り計らうように、との内容であった。

(注:『続日本後紀』による。延暦年間に渤海の入貢の年限を定めた際は六年を限度としていたが、ここに見える渤海からの書状や答詔では十二年を限度としている。これはおそらく承和八年の渤海からの書状にある「十二年が満ちて後に入覲を許す」という取り決めを指すものであろう。)

彜震が没し、虔晃(けんこう)が王位に就いた。(注:『唐書』『文献通考』による。)

清和(せいわ)天皇の貞観(じょうがん)元年(859年)春、能登国司から「渤海国の入覲使、烏孝慎((注:烏は馬とする本もある))、副使周元伯(しゅう げんぱく)ら百四人が珠洲郡(すずぐん)に到着した」との報告があった。当時、天下は先帝の喪(諒闇)にあったため、使節を都には入れず、加賀国の使節接待所に移すよう詔が下った。大内記(だいないき)の安倍清行(あべの きよゆき)と直講の苅田安雄(かりたの やすお)を存問兼領渤海客使に任じた。夏、領客使が渤海国の啓と牒、および贈り物を朝廷に提出した。

その啓には次のようにあった。「虔晃が申し上げます。初冬に入り次第に寒さが増してまいりましたが、天皇には御健勝のこととお慶び申し上げます。私虔晃は恩顧を受けてこの国を治め、一年おきに使者を送っております。祖先が結んだ親交の礼を末永く展開し、代々の情を受け継ぎ、真心をもって風習を継承し、いまだかつて十二年の間隔を空けたことはございません。虔晃は幸いにも先代の事業を受け継ぎ、この一国を治めるにあたり、古来の典拠によりつつ礼の心を重んじております。あえて旧来の慣例にならい、使者を派遣いたします。十二年の期限が満ちようとする頃合いに、久しく募る思慕の情から、海路に帆を掛ける時期を見計らい、書状に真心を託します。そこで雲を衝くような帆柱の船を出し、はるかに波濤を越えてまいります。万里の彼方への思いを凝らし、この心は尽くしがたいものがあります。往来の間、どうか怨みに思わずご寛恕くださいますよう。私めは拝謁の機会もなく、下情まことに慕わしく堪えがたい思いです。謹んで政堂省(せいどうしょう)左允(さいん)の烏孝慎を遣わし、啓を奉りますが意を尽くせません。謹んで啓す。」(注:この啓文には誤りがあるように思われるが、参照した諸本もみな同文であるため、ひとまず原文のまま記す。)

中台省の牒には、「牒を奉り処分を仰ぎます。扶桑(ふそう、日本)は高波の彼方、日の本の遠国であり、風向きを占って帆を掛け、年を期して音信を寄せております。頼りない小舟は雲を凌ぐほどの荒波を越えることも稀で、切なる思いはいよいよ霧を払うような切実さを増します。それゆえ、年を隔てて日を過ごすうちに、季節は移り変わり、旧来の慣例に従う時期を思えば、ちょうど十二年の巡りが近づいております。古の典拠にのっとって親交を展開し、先例に従って好誼を継続いたします。事に託して真情を表すのが、善き隣国のまことの礼儀です。恋しく思う心はいよいよ切実で、期限を待たずに参りました。謹んで政堂省左允烏孝慎を遣わし、貴国に参内させます。状に准じ牒を差し上げます。」とあった。

孝慎は儀礼を終えて帰国した。天皇は璽書(じしょ、勅書)を賜り、次のように述べた。「天皇、謹んで渤海国王に問う。献じられた書状はすべて届き、披見して事情を承知した。王は文武を兼ね備え、忠孝は心からのものであり、この国の美しい規範を受け継ぎ、親愛の旧交を篤くしている。心を傾けて久しく契りを結び、太陽に向かうような誠意に疎かなところはない。長い航海の危険を乗り越え、飛雲のような険しさもいとわない。その深い真心を思えば、いよいよ懐かしさが増すばかりである。先帝は昨年八月に崩御されたが、遺詔により喪に赴くことは許されなかった。朕は徳薄き身でありながら大業を託され、先帝の教えを奉じてこれを修め、旧来の記録に基づいて身を慎んでいる。会同の礼は大喪によって損なわれることはなく、正月の朝賀の儀は春秋に美とされるところではあるが、宮中は静粛を保つべき時期にあたり、盛大な参内の儀は控えねばならない。またこの国はたびたび災害に見舞われ、人々は駅伝の労苦を抱えている。こうした事情から、使者をねぎらい、朝廷への参内を待たず送り返すこととした。音信の間隔は遠いようでも、心の通いはなお近いものである。今回孝慎に託して贈り物を送るが、なお旧例にならって用意した品目は別紙の通りである。暑さの厳しい折、王ならびに国中の者たちが平安であることを願う。簡単ながらこの書を送り、多くは述べない。」

太政官から中台省へ送った牒には、「大海は測りがたく、大国としての度量を広く保つべきものであり、大河の流れが海に注ぐように、礼には参朝の作法がある。しかし今回は急いで駆けつけ、期限に間に合わなかった。担当官は公平を旨とし、入京を許容しようとしなかった。そこで勅を仰いだところ、次のような勅が下った。『孝慎らは遠く我が国の教化を慕い、波濤の彼方から幾度も来朝し、恭順の心を抱いて渤海の地より重ねて訪れている。その忠節の証は、憐れみをもって量るべきである。まして魯の君主が再び朝見した故事も、春秋には非難されていない。ただこの国には喪の凶事があり、年もまた凶作に見舞われている。旧来の儀礼を全うしようとすれば、民に苦労を強いることになろう。特別に手厚く迎え入れ、暫定的に入京は見合わせるのがよい。滞在先で安んじて過ごせるよう、先例に准じて物資を支給せよ。また吉事凶事について互いに音信を交わすのは、これまでの慣例からも当然のことである。もし弔問の意があるのなら、旧来の定めに拘束されよう。いたずらに船を煩わせることは、時宜の規則に背くことになる。改めて十二年の期限が満ちるのを待って、隣好のしるしを表すべきである。』右の通り、綸旨(りんし)に基づき通常通り検分いたしました。船の修理も完了し、風潮も渡海に適しております。璽書と贈り物をともに使者に託して送り返します。彼らの篤い誠意はこちらに留め、帰国させることといたします。状をもって牒とし、牒が到着次第、状に准じて取り計らってください。」

貞観三年春、出雲国から「渤海国使李居正(り きょせい)ら百五人が島根郡に到着した」との上言があった。散位(さんい)の藤原春景(ふじわらの はるかげ)と兵部少録(ひょうぶのしょうろく)の葛井善宗(ふじいの よしむね)を存問兼領渤海客使に任じた。李居正らには、「先帝の定めた制度に背き、勝手に弔問のためと称して来朝した。しかも提出された啓の案文を検めたところ、違例が多々見られる。その軽率無礼を責め、そちらへ送り返すべきである」と諭した。しかし居正は位が公卿に相当し、齢も七十を越えていたため、特に配慮して入京を許そうとする向きもあった。ところが日照りが幾旬も続き、農事に支障をきたしていたため、通例通りの接待は行わなかった。渤海国からの啓と贈り物は、いずれも朝廷への奏上を許されなかった。絁(あしぎぬ、粗い絹布)百三十五疋と綿千二百二十五屯を渤海の客人百五人に分け与え、別に絁十四疋・綿四十屯を賜って本国へ送り返した。(注:『三代実録』による。)

虔晃が没し、玄錫(げんしゃく)が王位に就いた。(注:『唐書』『文献通考』による。)

貞観十三年冬、入覲使楊成規(よう せいき)ら百五人が加賀国に到着した。十四年春、少外記(しょうげき)の大春日安守(おおかすがの やすもり)と直講の美努清名(みぬの きよな)を存問渤海客使に任じ、啓と牒の違例について問いただした。少内記の都良香(みやこの よしか)と式部丞(しきぶのじょう)の平季長(たいらの すえなが)を掌客使(しょうきゃくし)に、常陸少掾(ひたちのしょうじょう)の多治守善(たじの もりよし)と文章生(もんじょうしょう)の菅野惟肖(すがのの これよし)を領帰郷客使に任じ、続いて右近衛少将(うこんえのしょうしょう)の藤原山蔭(ふじわらの やまかげ)を郊使(こうし)とした。宇治郡山科(やましな)に至り、領客使の安守と郊労使は、渤海の入覲大使である政堂省左允・正四品・慰軍上鎮将軍の楊成規、副使である右猛賁衛少将・正五品の李与晟(り よせい)らを都へ案内し、右馬頭(うまのかみ)の在原業平(ありわらの なりひら)を鴻臚館に遣わしてねぎらい、季節の衣服を賜った。

左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)の源舒(みなもとの のぶる)が渤海国の国書と贈り物を奏上した。その国書には、「玄錫が申し上げます。晩秋の厳しい冷え込みの折、天皇には御健勝のこととお慶び申し上げます。私玄錫は恩顧を受け、建国以来常に貴国と使者を通わせ、命を伝えて参りました。年を隔てて音信を寄せる中で、久しく結ばれた情誼は今日いよいよ篤くなっております。玄錫は先祖の遺業を受け継ぎ、旧来の典拠の遺風を修め、十二年の年月に感慨を覚えつつ、善き隣国としての誼を望んでおります。そこで使節を任命し、聘問と参内をさせることといたしました。どうか天皇には遠来の客を哀れみ、先例に准じて入都をお許しくださいますよう、伏してお願い申し上げます。大海によって隔てられ、拝謁がかないませんこと、下情まことに恐れ入るばかりでございます。謹んで政堂省左允楊成規を遣わし、啓をもってご機嫌を伺いますが、意を尽くせません。謹んで啓す。」とあった。

中台省の牒には、「牒を奉り処分を仰ぎます。天の果てまで道は険しく、日の本までの道のりは遠うございます。常に十二年を限度として和親を修め、また一年を期して好誼を継続してまいりました。隣国との交わりには節度があり、使命に誤りはありません。音信は互いに通じ合い、年月も長く続いております。このたび星霜は移り変わり、季節も幾度も巡りました。十二年の期限がすでに満ちましたので、まさに自ら参内すべき時にあたります。そこで先例にのっとり、旧来の規則を踏まえ、日の本へ思いを寄せる一人の使者を送り出し、風向きを占って小舟を浮かべ、渤海の広い波濤を越えさせます。万里の道のりも、心の指し示すところです。往来は遠くとも、慕わしく思う心はまことに深いものがございます。謹んで政堂省左允楊成規を遣わし、貴国に赴かせ、これまでの好誼を修めさせます。状に准じ、日本国太政官に牒を差し上げます。謹んで記録し牒を差し上げます。」とあった。

贈り物は、虎皮七枚、豹皮六枚、熊皮七枚、蜜五斛(こく)であった。詔により大使楊成規に従三位、副使李与晟に従四位下を授け、判官の李国度(り こくど)・賀王真(が おうしん)にはともに正五位下を授け、その他の者にもそれぞれ位と品物を賜った。また内蔵寮(くらりょう)に渤海の貨物を交易するよう詔し、都の人々が渤海人と取引することも許した。さらに官銭四十万を支出し、楊成規らから諸々の品物を買い上げさせた。成規は掌客使を通じて私的に持参した宝物を献上したいと願い出たが、これも許された。

参議の藤原家宗(ふじわらの いえむね)らを鴻臚館に遣わし、勅書を賜った。「天皇、謹んで渤海国王に問う。成規らが到着し、その啓文を披見して事情は明らかである。王家は急を要する修繕にも力を尽くし、美しく治め整え、その堅固な性質は大地のようであり、真心をもって信義を守っている。その気風は衰えることなく、麗しい規範は今なお保たれている。都城の旧来の基盤を代々受け継ぎ、遠く船を漕ぎ出す先例にも偽りはない。その篤い信義を言うならば、来朝の礼はすでに修められた。ここに仁愛をもって応え、速やかに帰国させることとする。数千里の波濤には辺境の隔たりがあるとはいえ、十二回の寒暑の巡りが、どうして時を急がせることがあろうか。もし礼に拘泥するというのなら、誰が疎遠を隔てとするだろうか。徳は孤立するものではなく、ただ君子を思い描くのみである。国への贈り物を託して送り返すので、到着次第受け取るように。梅の実る頃、王ならびに国中の大小の者たちが恙(つつが)なくあることを願う。簡単に思うところを記すのみで、多くを煩わせることはしない。」

大使以下は再拝して舞い踊り、楊成規は膝行して進み出て、北に向かって跪き勅書を受け取った。太政官から中台省へ送った牒には、「担当官が事情を上奏いたしましたところ、次の勅が下りました。『成規らは宮門を仰ぎ慕い、大海の道を知り尽くし、我が朝の規範を守り、国の礼を修めている。善き隣国としての感嘆すべき姿勢は、まことに日頃の行いにふさわしい。先例に准じて、旧来の好誼を申し述べさせるのがよかろう』とのことで、勅の処分に准じます。期限が来て帰国する際には、璽書と国への贈り物を添えますので、到着次第お受け取りください。」とあった。

前年、陰陽寮(おんみょうりょう)が「異国の使者が入朝すれば、不吉なことが起こるであろう」と奏上していたため、天皇は成規らに直接会うことはなかった。成規らは宮殿を仰ぎ見て涙を襟に溢れさせ、名残を惜しみながら辞去した。成規はなかなかの文才があったため、学士に命じて内々の宴を催させ、饗応の品もたいそう手厚く与えられた。

貞観十五年、大宰府から次のような奏上があった。「漂着した船二艘が薩摩国甑島郡(こしきじまぐん)に到着した。その船長である崔宗佐(さい そうさ)・大陳潤(だい ちんじゅん)らは自ら『渤海国が唐の徐州平定を祝賀するために遣わした使者で、漂流してここに至った』と書き記している。しかし国司が取り調べたところ、公的な証明書を携帯しておらず、記された年紀にも矛盾が見られる。新羅人が渤海を偽って名乗り、密かに辺境をうかがっているのではないかと疑われる。そこで二艘とも大宰府へ連行しようとしたが、一艘は風に乗じて逃げ去ってしまった。」

これに対し勅が下り、「渤海が我が国に帰順して久しい。府と国の官司は詳しく取り調べを行え。もし本当に渤海人であるならば、労をねぎらい、食糧を与えて帰国させよ。もし新羅の凶徒であるならば、速やかに捕らえて拘束し、報告せよ」とのことであった。

大宰府はさらに次のように奏上した。「渤海人の崔宗佐・門孫宰(もん そんさい)らが肥後国天草郡に漂着した。遣唐通事(通訳)の張建忠(ちょう けんちゅう)に事情を詳しく調べさせたところ、確かに渤海から唐へ渡る使者であり、以前逃げ去った船であることが判明した。」そして宗佐らの日記、ならびに携えていた蝋封の箱、封をした書状、弓矢や刀剣などを提出した。

勅には、「宗佐らの申し立てを調べ、また表函(ひょうかん)・牒書・印章や官職名なども検分したところ、これまでの入覲使が提出したものと符合し一致している。宗佐らは奸賊などではなく、漂流の苦難にあったのだから、まことに憐れむべきである。提出された蝋封の箱やその他の品物は、いささかも手をつけることなく、すべて返却せよ。損傷した船舶については、然るべき場所で修理を加え、衣類と食糧を支給して帰国させよ。ただし宗佐らは渤海の名のある官人であり、我が朝との親善関係を知っているはずである。ならば漂着した当初に事情をありのままに申し出て、恩恵にすがるべきであった。それを帆を上げて逃げ去ったのは、かえって奸偽の疑いを招くものである。我が朝の寛大な仁恕がなければ、重い罪を免れなかったであろう。過ちを犯したことを責め、その非を悔い改めさせるように」とあった。

貞観十八年冬、出雲国から「渤海使楊中遠(よう ちゅうえん)らが島根郡に到着した」との報告があった。(注:『三代実録』による。)

陽成(ようぜい)天皇の元慶(がんぎょう)元年(877年)、少外記の大春日安名(おおかすがの やすな)と前讃岐掾(さぬきのじょう)の占部月雄(うらべの つきお)を存問使に任じた。安名らは渤海王の啓と中台省の牒を写し取り、朝廷に奏上した。

その啓には、「玄錫が申し上げます。晩秋の厳しい涼しさの折、天皇には御健勝のこととお慶び申し上げます。私玄錫は恩顧を受けております。さて、先に楊成規が貴国に入覲し、わずかながら誠意を伝えることができ、礼を終えて帰国いたしました。璽書と国からの音信もあらかじめ届き、謹んで受け取り、喜びに堪えません。その後、本国から唐へ渡る船に乗り合わせていた校官の門孫宰らの船一隻が、風に流されて貴国の岸に漂着いたしました。天皇は恩情をかけられ、生かして育み、別に旅の食糧と手厚い褒賞を賜り、命を助けられて全員無事に本国へ帰ることができました。これはまことに善き隣国としての救済であり、今日の親善はいよいよ篤きものとなりました。首を伸ばして南を望み、伏して深く喜び躍る思いです。木石ではあるまいし、この深い恩に何も申さず沈黙していてよいものでしょうか。また旧記を調べますと、久しく貴国とは使者を交わし、船や車が絶えず行き交っておりました。それが今では使節が完全に途絶えて、すでに幾年もの歳月が経っております。思いますに、礼は往来を尊ぶものであり、これは聖人の貴ぶところです。義を聞けば則ち行いを改める、これは君子の宗とするところです。先祖の定めた規範は、常にこの佳き日に奉じようとするものでした。後を継ぐ者の務めは、必ずや先人の事業を継承することにあります。懇ろな誠意に堪えかね、謹んで政堂省孔目官(こうもくかん)楊中遠を遣わし、深い恩に感謝の意を表させます。伏して願わくは、天皇には先の制度を広くお示しくださり、故実に従って遠くまで皇恩を垂れ、旧来の交流の道を再開してくださいますよう。大道を閉ざさず、遠来の客を哀れみ、先例に准じて入都をお許しいただき、この件をお取り計らいくださいますよう。まことに幸いなことでございます。大海によって隔てられ、いまだ拝謁がかないません。謹んで啓をもってご機嫌を伺いますが、意を尽くせません。謹んで申し上げます。」とあった。

中台省の牒には、「貴国に感謝を申し上げ、あわせて客の応対を請うために遣わす使者、政堂省孔目官楊中遠ら総勢百五人について、牒を奉り処分を仰ぎます。大海千里を隔てておりますが、我らには善き隣国があり、誰が道の険しさを言うでしょうか。早くから和親を結び、使いの時期を僭越に破ることもありませんでした。先例を尊んでこの朝廷ではしばしば交流を修めてまいりましたが、旧来の親交を廃して、そちらの国からの使いは完全に途絶えておりました。先には専使楊成規が貴国に入覲いたしました。その後、本国から唐へ渡る官人門孫宰らが海岸に漂着した際、天皇には特別な憐れみを賜り、大恩を蒙りました。すでに手厚い憐れみを受けておきながら、どうして感謝を申し述べる喜びがないと言えましょうか。また以前の文書を調べましたところ、使者を派遣することには元々由来があることが分かりました。今はただ道が絶えて、年月がいよいよ久しくなっております。先例を修めて継承し、遠くこれまでの往来の跡に感じ入り、常に懇ろな願いの思いを抱いております。事業を継承する志は、決して失うことはございません。感激し仰ぎ見る思いに堪えず、謹んで政堂省孔目官楊中遠を遣わし、貴国に入らせ、これまでの恩恵に感謝を申し述べ、あわせて佳き客としての応対を請う次第です。謹んで牒を差し上げます。」とあった。

朝廷の議定では、返礼の聘問使を送ることは許されず、また制度に違反しての入覲であるとして都への立ち入りも許されなかった。衣類と食糧を与えて帰国させ、渤海からの国書と贈り物はいずれも使者に持ち帰らせた。大使楊中遠は玳瑁(たいまい、鼈甲)の杯など珍しい品を私的に献上したいと願い出たが、これも許されなかった。

元慶六年冬、加賀国司から「渤海国の入覲使裴頲(はい てい)ら百五人が到着した」との報告があった。(注:『本朝文粋』に収める宇多法皇が裴頲に賜った書では「裴遡」とし、『日本紀略』では「裴璆遡」とするが、いずれも誤りであろう。)

翌年夏、存問兼領渤海客使の大蔵善行(おおくらの よしゆき)と高階茂範(たかしなの もちのり)が裴頲らを都へ案内した。右衛門大尉(うえもんのだいじょう)の坂上茂樹(さかのうえの もちき)と文章得業生(もんじょうとくごうしょう)の紀長谷雄(きの はせお)らを掌客使とし、式部少輔(しきぶのしょう)の菅原道貞(すがわらの みちさだ)が治部大輔(じぶのたいふ)の職務を権(ごん)に行い、美濃介(みののすけ)の島田忠臣(しまだの ただおみ)が玄蕃頭(げんばのかみ)の職務を権に行った。

大使裴頲は国書と贈り物を朝堂に献上した。天皇は豊楽殿(ぶらくでん)に出御し、渤海の使者に宴を賜った。大使裴頲に従三位、副使高某(こう、名は用)に正四位下を授け、その他の者にもそれぞれ位を授け、あわせて朝服を賜った。使者たちは拝舞し、朝服を着けて殿上に昇った。勅により御用の枇杷(びわ)の実を銀の碗に盛って賜った。

端午の節句には、天皇は武徳殿に出御して騎射を御覧になり、裴頲らを召してこれを見物させ、録事以上の者に続命縷(しょくめいる、端午の魔除けの飾り糸)を賜った。裴頲もまた私的に持参した品を献上した。内蔵頭(くらのかみ)の和気彝範(わけの これのり)を鴻臚館に遣わし、貨物の交易を行わせた。裴頲は高い才能と風格を備えていたため、天皇はこれを嘉(よみ)し、勅使を遣わして御衣一襲(ひとかさね)を賜った。(注:『三代実録』による。)

勅により菅原道真(すがわらの みちざね)らが裴頲と詩歌の唱和を行った。道真はその文才を称賛した。宇多天皇の寛平七年(895年)、再び裴頲が遣わされて入覲した。(注:『菅家文草』による。)

玄錫が没し、諲趟撰(いんちょうせん)が王位に就いた。(注:『文献通考』による。)

醍醐(だいご)天皇の延喜(えんぎ)八年(908年)春、伯耆国司(ほうきのこくし)から「渤海の入覲使裴璆(はい きゅう)らが到着した」との報告があった。散位の菅原淳茂(すがわらの あつしげ)を掌客使とし、兵部丞(ひょうぶのじょう)の小野葛根(おのの くずね)と文章生の藤原守真(ふじわらの もりざね)を領客使に任じた。詔により左右馬寮(めりょう)および参議以上の者に鞍馬を出させ、異国の使者の入京の用にあてた。

五月、裴璆らが朝見した。朝集堂(ちょうしゅうどう)で宴を催し、渤海国王に贈り物を賜った。璆は頲(てい)の子である。勅使は特に御衣を賜った。参議の藤原菅根(ふじわらの すがね)らを鴻臚館に遣わし、璽書と太政官の牒を賜った。(注:『扶桑略記』が引く醍醐天皇の御記により、『日本紀略』もあわせて参照した。渤海国からの国書と答書はいずれも本書には伝わっていない。)

延喜二十年、裴璆が再び入覲し、国書と方物を献上した。例により饗応と褒賞が行われた。裴璆は前回の入覲の際に従三位を授けられていたが、今回はさらに位を進めて正三位を授けられ、本国へ送り返された。(注:『日本紀略』により、『扶桑略記』もあわせて参照した。両書とも渤海王の名前や国書・答書は伝えていない。『日本紀略』には「法皇(宇多法皇)が裴璆に書を賜った」とある。)

延長四年(926年)、契丹の耶律阿保機(やりつ あぼき)が諸部族の兵を率いて渤海の扶余城(ふよじょう)を攻め、これを陥落させた。扶余城を東丹府(とうたんふ)と改め、その子突欲(とつよく)に命じてこれを鎮守させた。(注:『五代史』『文献通考』による。)

延長八年、丹後国司から「渤海使裴璆ら九十三人が竹野郡に到着した」との報告があり、直ちに存問使を派遣した。(注:『日本紀略』による。)

裴璆は自らを東丹国の使者と称した。存問使がその理由を尋ねると、璆らは「私どもはもともと渤海人でしたが、今は降って東丹の臣下となっております」と答え、その言葉の多くは契丹の罪悪を語るものであった。存問使はその内容を詳しく奏上した。勅には、「東丹国は礼儀を失っており、しかもその使者には人臣としての節操がない。誤って臣下の身でありながら上国(日本)に使者として送り込んできている。厳しく詰問し責め、以後の戒めとするがよい」とあった。(注:『扶桑略記』による。)

そこで裴璆は謝罪の状を奉って次のように述べた。「裴璆らは真実の主君に背いて偽りの主君に従い、善を争わず悪に従い、酒宴の席で旧主をお救いすることもできず、いくさの最中にみだりに新王に媚びへつらいました。まして陪臣の身でありながら小使いの役目を奉じ、上国の恒久の規範を乱すこととなりました。白鷺の潔さを望んでは面目を恥じ、『相鼠(そうそ、礼を知らぬ者を諷する詩)』を詠んでは足が震える思いです。不忠不義の振る舞いは、自ら罪科を招いたものです。お咎めの趣旨につきましては、いささかも申し開きはございません。ここに過ちを認める状を差し上げます。裴璆ら、誠惶誠恐、謹んで申し上げます。」

そのまま許されて帰国した。(注:『本朝文粋』による。)これ以後、渤海からの朝貢は絶えてしまった。

(注:和漢の年代を考えるに、宇多天皇の寛平四年、藤原敏行(ふじわらの としゆき)が渤海に賜る勅書を書いたとされるが、これに関する記載は諸書に見当たらない。また『本朝文粋』を調べると、太政官が渤海の中台省に送った移(い、公文書)がある。その中に「文籍院少堅王亀(ぶんせきいんしょうけんおうき)が謀反を企てたため、入覲を取りやめ、そのまま送り返した」とある。これがいつのことか分からない。ひとまずここに注記し、後日の考証を待つこととする。渤海との往復の書状や牒文は、おおむねいずれも読みにくく難解である。誤りがあるように思われるが、今はひとまず旧来の原文のままとする。)