卷之一百廿八 列傳第五十五
正躬王、山田春城、讚岐永直、伴成益
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
正躬王
¶正躬王(まさみおう)は万多親王(まんだしんのう)の子である。幼い頃から聡明で、大学に入って『史記』や『漢書』を読み、文章を作ることに優れていた。十八歳の時、文章生の試験に合格した。天長年間に従四位下を授けられ、その後弾正大弼(だんじょうのだいひつ)、刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)、右京大夫(うきょうのだいぶ)を歴任し、地方に出て丹波守(たんばのかみ)となった。その政治は清廉で簡素なものを旨としたため、民は誰も欺こうとしなかった。承和七年、参議に任じられ、左大弁(さだいべん)、大和守(やまとのかみ)、遠江守(とおとうみのかみ)を兼ねた。(注:『三代実録』による。)
¶承和十三年、法隆寺(ほうりゅうじ)の僧善愷(ぜんがい)が、檀越(だんおつ)である少納言登美直名(とみのなおな)を、「安物を無理やり売りつけ、不当に家屋の代金を取り立てた」として告発した。正躬は同僚とともにこの件を上申し、直名を罪に問おうとした。ところが右少弁伴善男(とものよしお)は、「正躬は善愷に肩入れしている」と考え、正躬らが善愷の違法な訴えを不当に受理したと密かに奏上した。そこで明法家(法律の専門家)たちに審議させることになった。
¶大判事讃岐永直(さぬきのながなお)と博士御輔長道(みすけのながみち)の判断は次のようなものだった。「訴状を検討するに、直名の犯した罪は贓物(不正利得物)である布二十二端三丈に相当する。職制律に照らせば、法を曲げた罪に準じて遠流にあたる。これが告発された罪そのものである。闘訟律には『人の罪を告発するには、必ず年月を明記し、事実を具体的に示さねばならず、疑いだけで告発してはならない。官司がそれを受理して審理した場合は、告発された罪を一等減じる』とある。今、諸弁官の主張を検討すると、双方の言い分が食い違っており、公事によるものか私情によるものか判別しがたい。しかし犯行の経緯をたどれば、これは公務に関連して生じた罪であり、私的な曲事はないと見るべきである。よって公罪の法に従い、流罪から一等減じて徒二年半とする。ただし罪が軽く官職を失うまでには及ばないので、銅五十斤の贖罪を認める。」
¶左大史伴良田連宗(とものよしたのつらむね)の判断は次のようなものだった。「諸弁官は、善愷の訴えを審議するにあたり、令の定めに従い、まず俗衣を着させたうえで訴状を受理すべきであった。ところが正躬王らは『僧尼令には僧を還俗させる仮の法が定められているが、もともと実施されていない』と主張している。しかしあらゆる政務は法令を根本とするものである。今すでに還俗の仮法が定められている以上、どうして『もともと実施されていない』などと言えようか。また『拘禁に備えて奥まった部屋に置いたのであり、逃亡を防ぐためであって、便宜を図ったのではない』とも主張している。しかし人を拘禁するやり方は庶民でも知っているものである。奥まった部屋に置いただけで、どうして拘禁したと言えようか。また『直名は朝廷にあっては姦賊の臣であり、家にあっては貪欲で道に外れた子である』とも主張している。さらに『直名は発覚を逃れようとして僧綱への下達を望み、自らの弁舌の巧みさを頼んで、口下手な相手を選ぼうとした。正躬らはその奸計を見抜いて、自ら牒状を出すことを許さなかった』とも言う。しかしそもそも官を設け職を分けるのは、それぞれ担当の役所があるからである。道理としては法に従って担当の役所に委ねるべきであり、どうして『口下手な役人』などと称して法を破り、他人の職掌を奪ってよいだろうか。獄を裁く官は、公平で偏りのない心を保ち、好悪の情を交えてはならない。それなのにみだりに異論を構えて罪をでっち上げるのは、いわゆる法を曲げて私情を通すというものである。また善男は牒状を出し、違法の理由を具体的に示した。それに対し成益らは『弁官において訴訟を審理するのは古来の慣例であり、近頃始まった新しいやり方ではない。だからこそ上官に申し上げて処分を仰いだのだ』と主張しているが、この『旧来の慣例』という言い分は事実である。しかしもともと法の趣旨を知らずに旧例に従って過失を犯したのであれば、教え諭されればそれに従って改めるべきであり、違法な旧慣をそのまま踏襲し続けてはならない。それにもかかわらず頑なに主張を変えないのは、法の趣旨を知りながらあえて法を犯したと言うべきである。名例律にいう『私罪とは、公事によらずに私的に犯した罪をいう。公事に関連していても、心に阿り曲げるところがあれば、これもまた私罪と同じである』という規定に照らせば、道理として盗贓五十端以上の罪に準じ、加役流から一等減じて徒三年とすべきである。五位以上の位にある者については一等減じて徒二年半とし、五位以上は官一つで徒二年に相当するので、残る徒半年分は銅十斤の贖罪に換算し、官職を解くべきである。」
¶弾正大疏漢部松長(かんべのまつなが)の判断は次のようなものだった。「成益・岳雄らの主張を検討すると、事は公の議論に基づくものであり、私情を曲げたところはない。行いは違法であっても、なお公罪というべきである。しかしその他の弁官の主張は、その論拠をたどると私情に関わる部分が少なくない。律の条文に照らせば、私罪というべきである。」
¶天皇は、双方の議論が食い違い、科刑の判断も一致しないため、改めて詳しく問いただして奏上するよう命じた。永直らは皆こう答えた。「諸弁官の主張を検討すると、私情があったとは言えるが、まだ曲事があったとまでは言えないので、公罪として処すべきである。なぜなら律によれば、私と曲との両方がそろって初めて私罪となるからである。」さらに松長に「成益と岳雄は同じく訴訟を審理した官でありながら、公罪とするのはなぜか」と問うた。松長は答えた。「今あらためて調べ直したところ、前の判断には誤りがあった。その過ちの罪は避けようがない。なぜなら善男の牒状は、律令の数か条を挙げて審理を受理すべきでない理由を論じてはいるものの、『年月を明記し事実を具体的に示す』べきとする律条は引用していないからである。もしこの律を引いて諸弁官を諫めたにもかかわらず、なお聞き入れなかったのであれば、当然私罪の法に従うべきである。しかし諸々の主張を検討しても、そのような文言は見当たらない。また永直らが僧善愷の訴状、および弁官が審理を受理すべきかどうかについて検討した文書について、正躬王らはこう主張している。『善愷が最初に訴状を提出した日には、手実(証拠書類)と結解(決算書)が添えられていた。これらの書類によって年月と事実はすでに明白であった。それなのに永直らはなお不明瞭だと言い立て、ついに違法だと断じた。これから見れば、事を暴き立てたのはひとえに永直らであって、善男の意図によるものではない。したがってこの一件については、善男と諸弁官はともに過失に関わるのであって、故意の犯罪ではない。律の条文に照らせば公罪とすべきである。ただしそれ以外の違法行為については、公事に関連するとはいえ、心に阿り曲げるところがあるので、法に照らせばすべて私罪である。』」
¶太政官(だいじょうかん)の議はこうであった。「今、答申を検討すると、皆一様に私情があったと述べている。さらに善愷を笞四十に処した理由を問うたところ、永直・長道らは『やはり笞四十に処すべきである。なぜなら、弁官の申し上げによれば還俗の形を整えていなかったからである』と答えている。そうであるならば、弁官がそれを許容し、還俗の形を整えさせなかったことになる。律に照らせば、官人と百姓がともに罪を犯した場合、官人を首謀者とする。したがって許容した弁官を罪の首謀者とし、笞五十に処すべきであり、僧はそれより一等減じて笞四十に処すべきである。すでに『許容した』と言う以上、これは私情を挟んだものではないか。そうであれば、私情があったという説は双方一致している。ただ曲事がまだ無いという理由だけで、なお公罪としている。そこでさらに問いただしたところ、公罪・私罪を定めた律の適用が本末転倒しており、『相須(あいまつ)』の文言の注釈も道理を取り違えていることが明らかになった。永直らもこれを悟り、それ以上反論しなかった。これによって論じれば、これはもはや公罪ではない。なぜなら名例律にはこうある。『公罪とは、公事に関連して生じた罪であって、私曲のないものをいう。』その注にいう、『私と曲とが相須つ(両方そろう)というのは、公罪の理をはっきりさせるために、あらためて私曲についての文言を立てたものである』と。私曲という二字は、その意味がなお分かりにくい。そこで私曲の語の下に、『相須』という注を設けたのである。したがって私と曲との二つの事柄が互いに関わり合い、そのどちらもまったく無い場合にこそ、公罪と名づけられる。すでに『私曲が無い』と言っている以上、もしこの二つのうちどちらか一方でもあれば、公罪には入れられない。この道理はすでに明白である。そもそも公でないものが私であり、私に背くものが公である。公と私とが混じり合わないのは、白と黒とが自ずから異なるのと同じである。であれば公罪の中にどうして私があってよいだろうか。私罪の中にもまた公があってはならない。それなのに長道らは『私はあっても曲はない、あるいは曲はあっても私はない、それゆえ公罪とする』と言う。これは文言も道理も乱れており、その誤りは甚だしい。また『私と曲とが相須って初めて私罪となる』とも言うが、私罪の条文を調べても、ついに『相須』という語句は見当たらない。どうして根拠のない言い伝えによって、疑いようのない成文をみだりに乱してよいだろうか。本末が転倒し、公と私の意味が混同されている。これもまた道理が通らない。その後数日を経て、永直らはさらに答申の足りなかった点を補って言った。『私曲とは、私の曲(私的な不正)という意味である。相須という語句は、私曲の二字を合わせて一つの意味とし、続けて読むという意味である。』しかしこの説の通りであれば、私曲は一つの事柄ということになる。もし一つの事柄であるなら、『相須』という律の文言は、結局のところ意味のない空文になってしまう。そのうえ衛禁律には『弓箭相須つ』とある。もし私之曲という説の通りだとすれば、弓箭もまた『弓の箭』ということになってしまうのか。この一つの誤りを挙げれば、他も推して知るべきである。そもそも相須つ場合と相須たない場合とは、いずれも法律の細かな用例であり、史書の中にもこの種の文言は数多くある。それらはみな同じ用法であり、異なる意味はない。にわかに新しい解釈を持ち出して古い文言を強引に乱すのは、当時の戒めにとどまらず、後の世に疑いを残すことになろう。そのうえ長道らは最初『私と曲との二つが相須って初めて私罪となる』と言っていたのに、その後は『私の曲』という説に変えている。明法の専門家でありながら、どうしてこのような曖昧な言い分があってよいだろうか。前後で論が違い、主張が食い違っている。これを正さなければ、法を弄ぶことになりかねない。また松長の答えも道理に適わない。なぜなら、諸弁官が受理した訴状の多くは法式に違反しており、さらに審理の際にもしばしば違反を重ねている。その意図をたどれば、いずれも訴人に便宜を図り、事を左右しようとしたことにほかならない。そうであれば、便宜を図ろうとした心情は、始めから終わりまで同じはずである。訴えを受理した咎について、故意と過失とをどうして区別できようか。それなのに松長は前後で言うことを変え、公罪・私罪の判断も一貫していない。ついには『訴状を受理した一条は過失というべきだが、それ以外の諸事はすべて阿り曲げたものというべきだ』と言う。同じ一つの事柄に無理に区切りを設け、同じ意図の中に軽重の差を作り出している。公と私を区別しようとして、かえって曲直の判断を混乱させている。また答えていう。『正躬王らは「善愷が訴状を提出した日には、手実と結解が添えられていた。これらの書類によって年月と事実はすでに明白であった」と主張している。しかし諸弁官への尋問状を検討すると、善男の尋問の中に、すでに「年月と事実が明記されていない」との一条がある。』そうであれば、正躬王らはその時点で、受理した訴状がすでに法式に違反していたことを悟るべきであった。それなのにその後、明法博士らが訴状を差し戻した際にも、正躬王らはなお手実と結解をもって明白な証拠だと主張し続けた。これは明らかに故意の犯行であって、どうして単なる過失といえようか。これはまさに松長自身が自らの論を裏切る言葉である。また尋問状を永直らに渡して是非を判断させたところ、永直らは後に『諸弁官の尋問状は双方の主張が食い違っており、疑わしい点の取り調べがある。そこで訴状に基づいて調べて申し上げたのである』と答えた。そうであれば、善男の尋問はもとより先に問題点を見抜いていたことになる。どうして『事を暴き立てたのは永直らである』などと言えようか。このように誤りと偽りが多く、判断の基準がどこにあるというのか。そもそも道理には一つの筋道しかなく、法にも二通りの結論はない。ところが今、明法の専門家たちは、公罪か私罪かで議論を異にし、軽重の判断も食い違わせ、それぞれ自分の考えを是とし、互いに他人の説を非としている。そのため見聞きする者を疑わせ、取捨の基準を失わせている。今回の評議は、まことに愚見を尽くしたものである。謹んで名例律を按ずるに、『私罪とは、公事によらず私的に犯した罪をいう。公事に関連していても、心に阿り曲げるところがあれば、これもまた私罪と同じである』とある。この律に照らせば、諸弁官は訴状を受理した当初から審理の日に至るまで、その違反行為はすでに私曲に関わっている。したがって私罪として処断するのが、まことに実情に適っている。以上が我々の見解であり、あえて隠し偽るところはない。」(注:『続日本後紀』による。)
¶式部少輔小野篁(おののたかむら)もまた善男の主張に同調し、結局、善愷の違法な訴状を受理した罪に問われた。(注:『文徳実録』『三代実録』による。)正躬および左中弁伴成益(とものなります)、右中弁藤原豊嗣(ふじわらのとよつぐ)、左少弁藤原岳雄(ふじわらのたけお)は、いずれも銅十斤を徴収されたうえ、官職を奪われ位階を削られた。嘉祥(かしょう)元年、詔によって正躬は従四位下、成益は従五位上、豊嗣は従五位下に叙された。(注:『続日本後紀』による。)
¶正躬はほどなく治部卿(じぶきょう)となった。斉衡(さいこう)の初め、太宰大弐(だざいのだいに)となり、正四位下に進んだ。属僚の人選に意を尽くし、橘良基(たちばなのよしもと)と巨勢夏井(こせのなつい)を少監(しょうげん)に推挙した。貞観(じょうがん)二年、都に戻った。翌年、参議に任じられ、弾正大弼を兼ねた。
¶正躬は上表して言った。「私、正躬には取り立てて言うほどの名声もなく、徳望も語るに足りません。それにもかかわらず思いがけず手厚い恩寵を賜り、身に余る重任に就くこととなりました。皇族の枝葉に連なり、天の川の流れに名を託す身でありながら、山のような御恩をかたじけなくも背負い、塵ほどの功績すら立てられぬことを恥じております。まして年齢も鬢の毛も衰える頃となり、孫子も次第に増えてまいりました。名は皇族の籍に連ねながら、身は国庫の資財を費やすばかりです。私は才知に乏しい身ではありますが、それでも家を犠牲にしてでも国のために尽くしたいと願っております。公の費用のことを思うにつけ、内心恥じ入るばかりです。そこで私の子らの王の名を除き、他の臣下たちと同列にならせ、皇族の繁茂しすぎた枝葉を削って、年々の禄や褒賞の負担を省きたいと存じます。ただし女子については、その蔭位(おんい)は本人一代に限って残すことといたします。禄が子に及ばず身分が降下することについては、まことに悲しく思うところではありますが。ひそかに見ますに、皇族で姓を賜った例は多くございますが、私が望みますのは平朝臣(たいらのあそん)の姓です。どうか女子を除く男子すべてに、平朝臣の姓をお与えください。また希望する甥たちについても、同様にお願いいたします。」この願いは許可された。
¶子である往世王(ゆきよおう)、継世王(つぐよおう)、基世王(もとよおう)、家世王(いえよおう)、益世王(ますよおう)、助世王(すけよおう)、是世王(これよおう)、経世王(つねよおう)、并世王(なみよおう)、尚世王(なおよおう)、行世王(なりよおう)、保世王(やすよおう)の十二人、および叔父の正行王(まさゆきおう)、その子高蹈王(たかふみおう)らは、平朝臣の姓を賜った。貞観五年、刑部卿(ぎょうぶきょう)、越前権守(えちぜんのごんのかみ)に遷った。在官のまま没した。享年六十五。
¶住世(すみよ)は文徳(もんとく)・清和(せいわ)・陽成(ようぜい)・光孝(こうこう)の四朝に仕え、肥後介(ひごのすけ)、甲斐守(かいのかみ)となり、従五位上に至った。基世は陽成・光孝の二朝に仕え、治部少輔(じぶのしょう)、相模権介(さがみのごんのすけ)となり、従五位下に至った。(注:『三代実録』による。住世が文徳朝に仕えたことは『文徳実録』による。)
山田春城
¶山田春城(やまだのはるき)、字(あざな)は連城(れんじょう)、右京の人である。曾祖父の白金(しろかね)は明法博士(みょうぼうはかせ)を務め、律令に精通していた。法律を論じる者は皆、彼を拠り所とした。春城は十五歳で大学に入った。嵯峨太上天皇(さがだいじょうてんのう)は皇子の源明(みなもとのあきら)を学問に就かせるにあたり、大学生の中から優れた者を選んでともに過ごさせることとし、春城がこれに選ばれた。春城は源明とともに諸子百家の書を読んだ。遙任(ようにん)で丹波権博士(たんばのごんのはかせ)に任じられ、学問に励む費用とされた。太上天皇が崩御した後は、仁明天皇(にんみょうてんのう)がその学業を引き継がせ、校書殿(きょうしょでん)に仕えて秘蔵の書物を読み、内蔵寮(くらりょう)から食を賜り、遙任で備後権少目(びんごのごんのしょうさかん)に、次いで備中権少目(びっちゅうのごんのしょうさかん)に任じられた。承和十二年、対策(策問による官吏登用試験)を受けたが下科(不合格に近い評価)となった。翌年、少外記(しょうげき)となった。仁寿(にんじゅ)元年、外従五位下を授けられた。その後まもなく遙任で駿河介(するがのすけ)に任じられ、仁寿三年、実際に任地に赴くことを願い出た。その政治は聡明で明察に富み、役人も民も彼を畏れ憚った。管内の駿河郡には神があり、阿気太神(あけたのおおかみ)と呼ばれ、新たに伊豆(いず)から遷座してきたものであった。国司はこれを官に申し出て祠を建てて祀っていたが、禰宜(ねぎ)や祝(はふり)らが奇異な話をこじつけて百姓を惑わしていた。春城はこれを取り調べ、その不正な実態を明らかにした。以後は年に一度の祭祀を行うだけとし、役人も民もついに従った。その秋、用事があって上京したところ、諸儒がかつての春城の対策の評価を改めて判定し、皆こう言った。「わずかな木や玉にも瑕はあるものだ。まして大きな才能については、昔の人でさえ判断に迷ったものである。」そして評価を乙第に引き上げた。(注:原文では「乙」を「一」あるいは「丁」に作る。しかし先に承和十二年に対策で下科となったとあることからすれば、ここで「丁第」としては辻褄が合わない。「一」に作るのは「乙」の字の誤りと思われるので、ここで訂正した。)従五位下に叙され、勘解由次官(かげゆのすけ)、玄蕃頭(げんばのかみ)を歴任した。天安(てんあん)二年、左京亮(さきょうのすけ)に遷り、大学助(だいがくのすけ)を兼ねた。当時病に臥しており、左京職の激務をこなすことができなかったため、亮の職を辞した。まもなく没した。享年四十九。春城は性格が非常に寛容でおおらかであったが、議論となれば率直で厳しく、誰に対しても媚びへつらうことがなかった。細かい技芸にはこだわらず、迷信じみた吉凶の兆しも信じず、儒者らしい気風を備えていた。(注:『文徳実録』による。)
讚岐永直
¶讃岐永直(さぬきのながなお)は、讃岐国寒川郡(さんがわぐん)の人である。幼い頃から大学に入り、律令を学ぶことを好んだ。生まれつき非常に聡明で、一度聞けばすぐに暗誦した。弘仁(こうにん)年間に明法得業生(みょうぼうとくごうしょう)に補せられ、但馬権博士(たじまのごんのはかせ)を兼ねた。数年後、試験を受けて合格した。天長年間に明法博士となり、左少史(さしょうし)・右少史(うしょうし)を歴任し、勘解由判官(かげゆのじょう)を兼ねた。(注:『三代実録』による。)承和年間に外従五位下を授けられ(注:『続日本後紀』『三代実録』による)、大判事(だいはんじ)となったが、明法博士は元のまま兼務した。同年中に勘解由次官も兼ねた。(注:『三代実録』による。)まもなく一族の右少史永成(ながなり)らとともに、姓を讃岐公(さぬきのきみ)から改め、讃岐朝臣(さぬきのあそん)を賜り、右京に属した。(注:『続日本後紀』による。)その後、出雲権介(いずものごんのすけ)、阿波権掾(あわのごんのじょう)を歴任して兼ねた。
¶法隆寺の僧善愷が少納言登美直名の犯行を告発した一件で、右少弁伴善男と左大弁正躬王が意見を対立させたが、善男は弁舌が巧みで帝の寵遇を受けていたため、ついに正躬王らが善愷の違法な訴えを許容したと誣告し、その官爵を剥奪させた。この時、あらかじめ明法博士らに正躬らの罪を判断させていたが、永直は権勢を恐れ憚って、正しい発言をしようとしなかった。しかし律の『私と曲とが相須つ』という解釈にこだわったため、かえって善男の意に逆らう結果となった。嘉祥元年、刑部少輔和気斉之(わけのなりゆき)が大不敬の罪を犯し、絞首刑に当たるところとなったが、詔によって一等減じられ、伊豆に流された。永直はこの一件に連座して佐渡に流された。(注:『三代実録』による。『続日本後紀』では佐渡を土佐に作る。)帝が病に伏された際、流人が恩赦に遇い、永直も移送先を近くに変えられたうえで、都に入ることを許された。(注:『続日本後紀』による。)まもなく元の位に復した。(注:『三代実録』による。)斉衡年間に再び明法博士(注:『文徳実録』『三代実録』による)、大判事となった。老齢のため何度も辞職を願い出て、許された。明法博士のまま自宅で療養することとなった。
¶詔にいう。「明法博士は律令の学問における宗師である。年老いたために正しい学説が伝えられなくなることを惜しむ。門下の学生たちを自宅に赴かせて講義を受けさせるがよい。」永直は自宅で静養しながら、門下生たちがそこに通って学業を受けた。式部省はその門前まで赴いて講義終了の礼を執り行い、法律家たちはこれを名誉なこととした。貞観の初め、従五位下に叙された。貞観四年に没した。享年八十。
¶永直は数々の官職を経て、その判決はよく物事の本質を究めるものであったため、後の役人たちは皆これを規範とした。大判事興原敏久(おきはらのとしひさ)や明法博士額田今人(ぬかたのいまひと)らは、刑法の解釈が難しい事項を数十件挙げ、人を遣わして唐に問い合わせようとしたことがあった。永直はこれを見て一つ一つ解き明かし、疑問はことごとく氷解した。その学問の該博さはこれほどのものであった。子の時人(ときひと)は父の学業を受け継ぎ、姓を和気朝臣(わけのあそん)に改めた。(注:『三代実録』による。)左衛門大尉(さえもんのだいじょう)に至り(注:『類聚国史』による)、従五位下に至った。(注:『三代実録』による。)
伴成益
¶伴成益(とものなります)は右京の人である。父の宇治人(うじひと)は従五位上であった。成益は若くして大学に入り、成長すると文章に優れ、進士科に及第して左京少進(さきょうのしょうじょう)となった。天長年間に式部少丞(しきぶのしょうじょう)、右京少進を歴任し、従五位下を授けられた。承和年間には大蔵少輔(おおくらのしょう)、右少弁、左中弁を歴任し、従四位下に叙された。成益は人柄が実直で、法を守ることに徹し、権貴に阿ることがなかった。(注:『文徳実録』による。)僧善愷の訴訟の審議に関わり、官爵を奪われた。(注:『続日本後紀』『文徳実録』による。)嘉祥年間に正五位上を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)文徳天皇の即位後、従四位下に進み、地方に出て丹波権守(たんばのごんのかみ)となった。管内は清らかに治まり、廉潔をもって称えられた。仁寿二年に没した。享年六十四。(注:『文徳実録』による。)