卷之二十四 本紀二十四

淳和天皇

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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淳和天皇

淳和天皇は、諱を大伴(おおとも)といい、嵯峨帝(さがてい)の弟である。母は藤原氏(ふじわらし)で、のちに皇太后を追贈された(注:日本紀略による)。

延暦五年にお生まれになった(注:歴代皇紀・一代要記による)。はじめは親王であった。十七年四月、元服(げんぷく)した(注:日本紀略による)。二十二年、三品(さんぼん)に叙せられ、兵部卿(ひょうぶきょう)に任じられた。大同三年五月、治部卿(じぶきょう)に遷った(注:歴代皇紀・一代要記による)。

弘仁(こうにん)元年、中務卿(なかつかさきょう)に転じた(注:歴代皇紀による)。九月、皇太弟(こうたいてい)に立てられた。十四年四月十六日庚子(かのえね)、嵯峨帝は皇位を皇太弟に譲ろうとした。皇太弟はたびたび上表して辞退したが、許されなかった。十八日壬寅(みずのえとら)、内裏(だいり)に移り、皇子の恒世王(つねよおう)を皇太子に立てた(注:日本紀略による)。これは嵯峨帝の意向であった(注:神皇正統記による)。恒世王が固く辞退したので、そこで嵯峨帝の子である正良親王(まさらしんのう、のちの仁明天皇)を皇太子に立てた(注:日本紀略による)。大納言・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)を東宮傅(とうぐうのふ、皇太子の教育係)とした(注:公卿補任による)。この日、両京(左右の京)に使者を遣わし、病人を賑給(しんごう、施し与えること)した。二十一日乙巳(きのとみ)、幣帛(へいはく)を伊勢大神宮に奉り、あらかじめ即位を告げた(注:日本紀略による。○案ずるに、即位を大神宮・諸山陵・諸社に告げることは、仁明天皇以後、旧史に絶えず記されており、これが恒例であったことがわかる。そのため、これ以後はいちいち記さない)。二十三日丁未(ひのとひつじ)、次のような詔(みことのり)を下した。「歴代の帝王を詳しく見わたし、遠く先王の例に鑑みるに、事情に応じて名を変え、時に応じて号を異にすることがあった。太上天皇(だいじょうてんのう、上皇)は、天下の人望を得て帝位に即き、政治の要を執り行われた。その文教は鵬(おおとり)の翼のごとく広くゆきわたり、武功は太陽の車のように並び進んだ。人々が推戴を楽しむ望みは、幽明(ゆうめい、あの世とこの世)を問わず深く、その徳を讃える誠は、華夷(かい、国の内外)を問わず尽きることがない。それでいて、その功を頼みとせず、成し遂げてもそこに安住しなかった。紫宸殿(ししんでん)の玉座も、黄屋(こうおく、天子の車)の重みも、いずれも軽んじて顧みず、天下の重責を下ろして、万邦に謙譲の意を示された。そしてついに天皇の号を控えて辞し、臣下と同じ扱いに甘んじられた。これは古今に例のないことであり、今の世で論じても、通常の慣例には当てはまらない。名が正しくなければ言葉が通らず、言葉が通らなければ事が成らないという。聖人はもとより名にこだわらぬものではあるが、称号にはそれぞれ由緒がある。よろしく尊号を奉って太上天皇とし、皇太后は太皇太后と称し、皇后は皇太后と称するべきである。」(注:類聚国史による。○案ずるに、この時にはまだ皇太后はいなかったので、これはおそらく桓武帝(かんむてい)の后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)を指すのであろう。詳細は后妃伝を見よ。)二十五日己酉(つちのととり)、使者を諸山陵に遣わし、あらかじめ即位を告げた。別に中納言・良岑安世(よしみねのやすよ)を栢原山陵(かしはらのみささぎ、桓武天皇陵)に遣わし、譲位を受けたことと皇太子を立てたことを告げた。二十六日庚戌(かのえいぬ)、中納言兼右近衛大将・文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が薨(こう)じた。二十七日辛亥(かのとい)、天皇は大極殿(だいごくでん)において即位した(注:日本紀略による。大極殿での即位は一代要記・皇代略紀による)。時に38歳(注:水鏡・愚管抄・皇代記による)。右大臣兼左近衛大将・藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)は従前どおりであった(注:公卿補任による)。諸国の飢えた民で貸稲(たいとう、稲の貸付)を未納の者を免除する詔を下した(注:類聚国史による)。夏五月甲寅朔(こういんついたち)、母の藤原氏を追尊して皇太后とする詔を下した。使者を遣わして諸道の名神(みょうじん)に幣帛を奉り、即位を告げた(注:日本紀略による)。中納言・良岑安世が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による)。この日、貴布禰(きぶね)で晴天を祈った。三日丙辰(ひのえたつ)、使者を遣わして丹生川上(にうかわかみ)に幣帛と馬を奉り、晴天を祈った(注:日本紀略による)。五日戊午(つちのえうま)、甲斐(かい)の賊の首領・吉禰侯部井出麻呂(きねのこべのいでまろ)らを伊豆(いず)に流し(注:類聚国史による)、伊賀(いが)の飢えた病人を賑給した。六日己未(つちのとひつじ)、諸国に疫病が広がり百姓が困窮していたため、相撲人の貢進を一時停止し、左右京および五畿内諸国への賑給を命じる詔を下した(注:類聚国史・日本紀略による)。二十日癸酉(みずのととり)、次のような詔を下した。「天地の気が交わり和らぐと、万物はその恩恵をこうむる。雲や雨がめぐり行き渡ると、あらゆる生き物はその潤いを仰ぐ。それゆえ、政をとって帝位に即く者は、時に応じて恩恵を施し、天に応じて恵みを分かち与えぬことはない。朕(ちん)は帝業を受け継ぐにあたり、暴れ馬を御するがごとき思いであり、光り輝く天命を受けて、薄氷を踏むがごとき慎みを忘れずにいる。政治のあらゆる面で過ちがあることを恐れ、一つの物事も安んじないことを憂い、努めて民を慈しみ育てることを旨とし、生を施すことに深く心を寄せている。今、盛んな徳は火(夏)にあり、万物を長く養うにふさわしい時節である。陽気に順う良き模範にならい、時に応じた恵みの雨をあまねく広げたいと思う。僧綱(そうごう、僧尼を統轄する官)および京畿の諸寺の僧尼で、智徳・行いの誉れ高い者、あわせて80歳以上の者には、それぞれに応じて物を賜るべきである。ただし諸国の僧尼については、100歳以上は穀物一人あたり四斛(こく)、90歳以上は三斛、80歳以上は二斛とする。天下の高齢者については、100歳以上は三斛、90歳以上は二斛、80歳以上は一斛とする。五位以上の子孫で20歳以上の者には、特に蔭位(おんい、父祖の位階に応じて授けられる位)の階を叙する。農業に励み人に抜きん出た者には、位階を一階叙する。孝行な子や従順な孫、節義ある夫や貞節な妻については、その住む門や里を表彰し、終身、課役を免除する。」(注:類聚国史による)六月三日丙戌(ひのえいぬ)、皇女の氏子内親王(うじこないしんのう)を伊勢斎王(いせのいつきのみこ)とした(注:類聚国史・日本紀略による。案ずるに、本書にはその名が記されていないので、今は一代要記による。○斎宮記には天長元年のこととする)。四日丁亥(ひのとい)、貴布禰・乙訓(おとくに)・広瀬(ひろせ)・竜田(たつた)に幣帛を奉り、丹生川上に幣帛と馬を奉って、雨を祈った。六日己丑(つちのとうし)、亡き妃・高志内親王(たかしないしんのう)を追って皇后に冊立(さくりつ)した(注:日本紀略による)。二十四日丁未(ひのとひつじ)、地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。秋七月四日丙辰(ひのえたつ)、和泉(いずみ)・大鳥(おおとり)・積川(つがわ)の各社に幣帛を奉った。七日己未(つちのとひつじ)、伊勢大神宮に幣帛を奉った。いずれも雨を祈るものであった。十七日己巳(つちのとみ)、雨乞いの効なく、京内で七日間読経し、殺生を禁じた(注:日本紀略による)。この月、旱魃(かんばつ)と疫病のため、参河(みかわ)・遠江(とおとうみ)・長門(ながと)の今年の庸(よう、税)を免除し、美濃(みの)・阿波(あわ)に賑給した(注:類聚国史による)。八月二日癸未(みずのとひつじ)、皇太子が元服した(注:皇代記による。○皇代略記・皇年代略記では一日とするが、今は日本紀略の癸未の日の詔文により、本書に従う)。六日丁亥、近江(おうみ)で疫病が流行し、穀物二千斛を給した(注:類聚国史による)。八日己丑、伊勢大神宮に幣帛を奉った。十二日癸巳(みずのとみ)、地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。九月壬子朔(じんしついたち)、日食があった(注:日本紀略による)。十一日壬戌(みずのえいぬ)、伊勢大神宮に幣帛を奉った(注:類聚国史・日本紀略による)。二十四日乙亥(きのとい)、武徳殿(ぶとくでん)に出御し、信濃(しなの)から貢進された馬を御覧になった。親王以下参議以上に、それぞれ一匹ずつ頒賜した(注:日本紀略による)。冬十月二十一日辛丑(かのとうし)の夜、大蔵省(おおくらしょう)の長殿(ながどの)が火災にあった。二十四日甲辰(きのえたつ)、佐比河(さいがわ)に行幸して禊(みそぎ)を修め、京師(けいし)の困窮者を賑恤(しんじゅつ)するよう勅した。二十八日戊申(つちのえさる)、近年不作が続いたため、紀伊(きい)の民の庸を免除した(注:類聚国史・日本紀略による)。十一月十七日丁卯(ひのとう)、大嘗祭(だいじょうさい)を行った(注:皇代略紀・皇年代略記・帝王編年記による)。二十二日壬申(みずのえさる)の夜、盗賊が大蔵省に放火し、巡回の役人がこれを捕らえた。二十四日甲戌(きのえいぬ)、左兵衛督(さひょうえのかみ)・藤原綱継(ふじわらのつなつぐ)を遣わし、幣帛を八幡大神(はちまんおおかみ)の樫日廟(かしひびょう)に奉らせた(注:類聚国史・日本紀略による)。十二月四日甲申(きのえさる)、次のような詔を下した。「近ごろ陰陽の巡りが乱れ、旱魃と疫病が相次いで人々を侵している。穀物の実りは悪く、民は疲弊している。朕は帝運を受け継ぎ、大業を嗣ぎ奉ってからというもの、常に善政を思い、寝食を忘れるほどである。そもそも世を救う道は旧習に固執すべきではなく、時宜に応じるべきであって、どうして融通の利かないやり方に合わせられようか。今、世の乱れを正し、民の苦しみを慎んで救おうと思う。公卿はそれぞれの考えを述べ、朕の至らぬところを補い、包み隠すことのないようにせよ。また、近ごろは世が乱れ、国が疲弊し、礼服(らいふく)を整えることも難しく、朝賀(ちょうが)を欠くことが多い。凶年の間は礼服の着用を停止したいと思うが、これもまた議論して奏上せよ。」九日己丑(つちのとうし)、地震があった(注:案ずるに、本書は乙丑とするが、この月は辛巳朔で乙丑の日はない。今は甲子から推算して訂正した)。十二日壬辰(みずのえたつ)、公卿が次のように奏上した。「謹んで思いますに、皇帝陛下は根本を体して帝位に立ち、天命を執り行っておられます。三方を開いて(注:狩りで一方に逃げ道を残す故事、寛大な政治のたとえ)中外の者がその深い仁徳をこうむり、五絃の琴を撫でて(注:舜帝の故事、徳による感化のたとえ)身分の上下を問わずその恵みに与っております。それでもなお、まだ天下が和らぎ治まっていないことを懸念され、さらに忌憚のない直言を求められました。臣らは才略に乏しく、恐れ多くもその任にありません。陛下のご意向に応えることができず、深く恐れ入り恥じ入るばかりです。愚見を申し上げますので、どうかお聞き届けください。礼服については、詔のとおり着用を停止するのがよろしいでしょう。ただし皇太子、および参議・非参議の三位以上、ならびに儀式に携わる職掌の者たちは、従来どおり着用するべきです。」(注:類聚国史による)十四日甲午(きのえうま)、両京の飢えた民に賑給した(注:日本紀略による)。二十三日癸卯(みずのとう)、僧の長慧(ちょうえ)・勤操(ごんそう)・空海(くうかい)らを清涼殿(せいりょうでん)に召し、大通方広(だいつうほうこう)の法を行わせた(注:類聚国史・日本紀略・弘法大師行状要集抄が引く日本後紀による)。この年、渤海(ぼっかい)が来朝して貢物を献じた(注:日本紀略による)。

天長(てんちょう)元年甲辰(きのえたつ)、春正月五日乙卯(きのとう)、改元した。二月七日丙戌(ひのえいぬ)、日暈(にちうん、太陽の暈)が色を失った(注:日本紀略による)。三月庚戌朔(こうじゅつついたち)、美濃の飢えた病人に賑給した(注:類聚国史・日本紀略による)。八日丁巳(ひのとみ)、次のような詔を下した。「朕は天に見放されたかのように、幼くして母を亡くす不幸にあった。母の懐に抱かれて教えを受けることもできぬまま、早くに母を失う不孝を犯してしまった。歳月は積み重なって久しくなったが、その面影は遠くかすみ、思い出すこともかなわない。紫極(しきょく、宮中)を仰いでは胸が張り裂ける思いがし、白雲を望んでは魂が抜け落ちるような心地がする。喪に服す道には礼制の限りがあるとはいえ、遠い日を偲ぶ悲しみは、胸のうちに収まりきらない。五月四日は、皇太后が崩御された日である。どうしてその忌日に近い時期に、心のままに遊興にふけることができようか。五月の節会(せちえ)は停止すべきである。とはいえ、不逞の輩の企みを未然に防ぐには武備を怠らぬことが肝要であり、奸悪を防ぎ止めるには武芸の鍛錬が実に大切である。そこで旧例にならい、人々の武技を検分したいと思う。これはすなわち、安きにいて危うきを慮る道である。卿らはよく合議して奏上せよ。」二十日乙亥(きのとい)、公卿が改めて次のように奏上した。「天地の霊妙な働きが気をめぐらせる中で、万物のうちで人ほど貴いものはありません。帝位にあって政をとられるにあたり、その聖徳の中でも孝に勝るものはございません。謹んで思いますに、皇帝陛下は母君を思う情がきわまりなく深く、その事は生涯を貫くものでございます。『凱風(がいふう)』の詩(母の恩を詠んだ詩)に思いを重ねて忘れることなく、『寒泉(かんせん)』の詩(母を偲ぶ詩)を仰いで永く慕っておられます。忌月にあたり、遊興を停止されるとのこと、臣ら一同、感じ入り、悲しみに堪えません。ただし馬射(うまゆみ)の道は、武においてとりわけ重要でございます。冀北(きほく、駿馬の産地)の駿馬も調教せねば御しがたく、山西の猿臂(えんぴ、弓の名手のたとえ)の技も、習練を重ねてこそ妙技となります。九月九日は、いわゆる重陽(ちょうよう)の節句でございます。龍沙(りゅうさ、砂漠の地、広く宴を催す意)の広宴の時節であり、馬台(ばだい)で技を賞する頃合いでございます。風は涼しく、馬は肥え、人にも余暇がございます。昔の王はしばしばこの日に馬射を観覧いたしました。伏してお願い申し上げますに、この佳節に乗じて射場にお出ましくださいますように。臣らは詔を奉り、これを担当の役所に付して施行させていただきたく存じます。」(注:類聚国史による。○案ずるに、続日本後紀の天長十年四月戊寅の条に、「天長元年に五月五日の節会を廃する詔があったが、武芸の鍛錬にかかわる事なので欠くことはできない。そこで四月二十七日に改めて用いることとした」とある。これによれば、この覆奏の後、さらに四月二十七日に改めたのであろう。)この春、大旱魃(だいかんばつ)があった。僧・空海に命じて神泉苑(しんせんえん)で請雨経法(しょううきょうほう)を十四日間修めさせたところ、慈雨が三日間降り注ぎ、天下にあまねく行き渡った(注:弘法大師行状要集抄・祈雨日記による。この春とするのは古事談・一代要記を退けたことによる)。夏四月六日乙酉(きのととり)、少納言・継野王(つぐののおう)、神祇大副(じんぎのたいふ)・大中臣淵魚(おおなかとみのふちうお)、大祐(だいじょう)・忌部雲梯(いんべのうなて)らを遣わし、御剣と幣帛を伊勢大神宮に奉らせた(注:類聚国史による)。二十一日庚子(かのえね)、淡路(あわじ)の飢えた民に賑給した。二十二日辛丑(かのとうし)、神泉苑に行幸し、渤海が献じた褐色の鹿を放った(注:日本紀略による)。二十八日丁未(ひのとひつじ)、十五大寺、および五畿七道の諸国に大般若経(だいはんにゃきょう)を読ませ、疫病と旱魃を除け祈らせた。五月二日庚戌(かのえいぬ)、天下の諸神に幣帛を奉り、疫病除けを祈った(注:類聚国史・日本紀略による)。六月十一日戊子(つちのえね)、安芸(あき)で旱魃と疫病が起こったため、賑給の詔を下した(注:祈雨日記が引く日本後紀による)。二十二日己亥(つちのとい)、初めて僧・義真(ぎしん)を天台座主(てんだいざす)とした(注:天台座主記・叡岳要記による。○元亨釈書はこれを十月のこととする)。二十三日庚子、神泉苑に行幸した(注:日本紀略による)。二十七日甲辰(きのえたつ)、神泉苑に行幸した(注:祈雨日記が引く日本後紀による)。秋七月七日甲寅(きのえとら)、先の太上天皇(平城上皇)が崩御した。十二日己未(つちのとひつじ)、平城天皇(へいぜいてんのう)を葬った。八月丁丑朔(ていちゅうついたち)、名神(みょうじん)に幣帛を奉り、風雨の順調を祈った(注:類聚国史・日本紀略による)。九日乙酉(きのととり)、太上天皇(嵯峨上皇)が「弘仁元年に仮に配流を命じられた者たちは、みな入京を許す」と勅した(注:日本紀略による)。十七日癸巳、伊勢大神宮に幣帛を奉り、風雨の順調を祈った(注:類聚国史・日本紀略による)。二十日丙申(ひのえさる)、公卿が六箇条にわたる意見を次のように奏上した。「君主が号令を発するには、必ず天の時にかなうようにすれば、政治の教化は道理に逆らうことがありません。そうすれば風雨も時候にかない、災害も起こりません。『尚書(しょうしょ)』に『民間に賢才の遺漏なければ、万邦はみな安らかである』とあり、また『賢者を任じて疑わず、邪な者を退けて躊躇しない』ともあります。よろしく賢徳の者を挙用し、邪な者を退けるべきです。今、諸国の国司は治績を上げようとしても、法律に縛られて思うように動けません。国々が疲弊しているのは、これが原因です。清廉で公正、優れた才のある者を厳選して、諸国の守・介に任じるべきです。新任の者には特に引見を加え、統治の方針を諭すべきです。通例に反しても道理にかなっており、私利のために動いたのでない者については、寛大に扱い、杓子定規な法にとらわれるべきではありません。昔は八人の使者を分かち遣わして諸国の風俗を巡視させ、治績の良否を調べ、民の苦しみを尋ね、善行を挙げ違反を糾しました。諸国に巡察使を遣わし、国守の治績の良否を調べさせるべきです。しかし優れた国守は多く得がたいものです。一人の良い国守を得たならば、数か国を兼帯させるべきです。大小の政務は、その申請に従って任せ、一人二人の属官もまた申請どおりに任じるべきです。しかし俸禄が厚くなければ人は励まず、人が励まなければ治績も上がりません。公廨稲(くげとう、官人の俸給にあてる稲)については、管轄国のうち豊かな国を選び、二人の国守に分け与え、まず一国で試みてその治績の良否を明らかにした上で、他国も兼ねさせるべきです。諸氏の子孫は、みな大学に入らせ、経書・史書を学ばせて、学業が身についた者は、その才に応じて官職を授けるべきです。」朝廷はこれに従った(注:類聚三代格・本朝文粋による)。九月十日乙卯(きのとう)、勘解由使(かげゆし、国司交代の監査官)を復活させた(注:類聚国史による)。二十六日辛未(かのとひつじ)、山城(やましろ)の困窮した百姓に賑給した(注:日本紀略による)。冬十月丙子朔(へいしついたち)、多褹島司(たねのしまのつかさ、種子島の役所)を廃止し、大隅(おおすみ)に隷属させた(注:日本紀略・三代実録・類聚三代格による)。十二月七日辛巳(かのとみ)、公卿が次のように言上した。「謹んで旧例を調べ、遠く古い記録を見わたしますに、正月元日は一年の始めであり、万物すべてが栄える時でございます。周辺諸国もこぞって夏の朝廷に参内して拝謁し、多くの異民族も集まって漢の宮闕(きゅうけつ)の恵みを仰ぎました。今、陛下は深い喪に服されて、その哀しみはなお深うございます。新嘗祭(にいなめさい)の宴会はすでに停止されました。おそらく元日の大礼もまた停止されるのではと恐れます。しかし春秋の礼の道理では、卒哭(そっこく、大声で泣く儀礼を終えること)の後は、めでたい礼を行ってもよいとされます。伏してお願い申し上げますに、元日の朝賀、饗宴などの礼は、すべて旧来の典礼どおりに行っていただきますように。」詔して曰く、「朕は服喪の定めに従いながらも、初めて政務をみずから執ることとなったが、父を失った悲しみをどうして忘れられようか。まして霜露に触れるたびに、その悲しみは増すばかりである。饗宴の儀式は、とても見る気になれない。しかし卿らの願うところも、一概に退けがたい理がある。来年の元日には、朝賀を受けることとする。朝賀が終わった後は、服の色を素服(そふく、喪服)に戻し、忌み月の間を過ごすこととする。群臣への饗宴と楽器の演奏は、いずれも停止する。ただし節禄(せつろく、節会での禄)の下賜は、旧例どおりとする。」(注:類聚国史による)

二年乙巳(きのとみ)、春正月乙巳朔(いっしついたち)、天皇の不豫(ふよ、病気)により朝賀を取りやめた。十七日辛酉(かのととり)、右大臣・藤原冬嗣を建礼門(けんれいもん)に遣わして射礼(じゃらい)を観覧させ、六衛府(ろくえふ)を検分させ、的中した者に物を賜るよう勅した。この日、地震があった。二月二十六日庚子(かのえね)、地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。三月二十二日乙丑(きのとうし)、筑前(ちくぜん)の女性が一度に三子を出産した。正税(しょうぜい)四百束を賜った(注:類聚国史による)。癸酉(みずのととり)晦日(つごもり)、摂津(せっつ)の江南四郡(こうなんしぐん)を和泉国(いずみのくに)に隷属させた(注:日本紀略による)。夏四月五日戊寅(つちのえとら)、右大臣・藤原冬嗣を左大臣とし、大納言・藤原緒嗣を右大臣とした(注:日本紀略・公卿補任による)。七日庚辰(かのえたつ)、次のような詔を下した。「天地が万物を創り出すとき、覆い育む徳は広大である。帝王が世を救うには、憐れみいたわる仁徳が深くなければならない。それゆえ農事に努め訴訟をいたわることによって、万民を豊かで長寿な境地へ導き、風俗を陶冶し徳化を行き渡らせて、一代の平和と繁栄をもたらすことができるのである。朕は謹んで先帝の叡旨を受け継ぎ、大業を守り継いだが、まことに徳が遠く及ばぬことを恥じ、明るく暗きを照らす力の足りなさを謝している。夜通し眠りを忘れ、堀に落ちた民を思う情に心を痛め、日が暮れるまで食事も忘れ、深い谷に臨むような恐れを抱いている。聞くところによれば、『諸国でしばしば疫病が絶えない』という。また大宰府(だざいふ)からは、『肥後(ひご)の阿蘇郡(あそぐん)にある神霊の池が、日照りや長雨があっても水位が増減しないのに、理由もなく二十余丈も干上がった』との報告があった。延暦年中にもこのような怪異があり、当時これを占ったところ、『旱魃と疫病の凶兆である』とされた。過去の出来事を忘れず、今日に照らして戒めとすべきであろう。これは政の道が誤っていることへの戒めではないだろうか。昔、周の文王は自らの過ちを認めて、地震の災いを鎮めた。宋の景公は徳を修めて、妖星の凶兆を移し去った。すなわち、徳は必ず妖異に勝り、善は災いを消し去ることができるとわかる。この災いを払うには、ただ仏法の力によるほかない。諸寺ではそれぞれ斎戒を修め、仁慈の祭祀を行うべきである。鰥寡孤独(かんかこどく、身寄りのない者)で自活できない者には、それぞれに応じて振恤(しんじゅつ)せよ。病に臥せっていて世話をする者のない者については、国司・郡司が一人一人に見舞いをし、穀物と薬を与えて、生き延びられるようにせよ。弘仁十三年・十四年の調庸(ちょうよう)の未進分は、あわせて免除する。」(注:類聚国史による)秋閏七月十六日丁亥(ひのとい)、四品・佐味親王(さみしんのう)が薨じた。二十一日壬辰(みずのえたつ)、江南四郡を再び摂津に隷属させた。八月二十七日丁卯(ひのとう)、畿内(きない)と七道(しちどう)に巡察使を置いた(注:日本紀略による)。冬十一月二日庚午(かのえうま)、施薬院使(せやくいんし)を置いた(注:類聚国史による)。二十八日丙申(ひのえさる)、太上天皇(嵯峨上皇)の四十算(しじゅうさん、四十歳の賀)を祝った(注:類聚国史・日本紀略による。○一代要記は四日とし、歴代皇紀は十月四日とする説もある)。御賀(ぎょが、天皇による長寿祝い)はここに始まる(注:一代要記・東寺長者補任、藤原公条(ふじわらのきんえだ)の七十賀の序文による)。この年、渤海が来朝して貢物を献じた(注:日本紀略による)。

三年丙午(ひのえうま)、春正月三日庚午(かのえうま)の夜、左兵衛府(さひょうえふ)の厨院(くりやいん)が火災にあった。五日壬申(みずのえさる)、地震があった。この日、左兵衛府の火災で焼死者が出たため、南庭で祓(はら)いを行った。十四日辛巳(かのとみ)、地震があった。二十三日庚寅(かのえとら)、また地震があった。二十八日乙未(きのとひつじ)、芹川野(せりかわの)で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。二月十六日癸丑(みずのとうし)、備前(びぜん)の田原池(たわらいけ)を廃し、神埼池(かんざきいけ)を掘った(注:日本紀略による)。二十四日辛酉(かのととり)、地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。この月、左大臣・藤原冬嗣が左近衛大将を辞任した(注:公卿補任・歴代皇紀による)。三月十日丁丑(ひのとうし)、太上天皇(嵯峨上皇)が宸筆(しんぴつ、自筆)で書写した法華経を西寺(さいじ)で講じ、桓武帝の冥福を七日間祈った(注:日本紀略による)。夏四月五日壬寅(みずのえとら)、南池(なんち)に行幸した。十日丁未、神泉苑に行幸した。十二日己酉(つちのととり)、地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。五月丁卯朔(ていぼうついたち)、中務卿・恒世親王が薨じた(注:日本紀略による)。六月六日壬寅、地震があった。百人の僧に便殿(べんでん)と大極殿で三日間大般若経を転読させ、疫病を防ぎ、豊年を祈らせた。秋七月十六日辛巳(かのとみ)、豊楽殿(ぶらくでん)に出御し、相撲を観覧した(注:類聚国史・日本紀略による)。平城帝の国忌(こくき、忌日)を避けて、この日に改めたものである(注:類聚国史による)。この日、慶雲(けいうん、瑞雲)が西方に現れた(注:類聚国史・日本紀略による)。二十四日己丑(つちのとうし)、左大臣・藤原冬嗣が薨じた(注:日本紀略・公卿補任による)。八月二十二日丁巳(ひのとみ)、中納言・清原夏野(きよはらのなつの)が左近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による)。二十七日壬戌(みずのえいぬ)、左右京の飢えた病人、および水害を被った百姓に賑給した(注:類聚国史・日本紀略による)。九月六日庚午(かのえうま)、初めて上総(かずさ)・常陸(ひたち)・上野(こうずけ)の三国の守(かみ)の称を太守(たいしゅ)と改め、親王をこれに任じることとした(注:類聚国史による)。十一日乙亥(きのとい)、伊勢大神宮に幣帛を奉った。冬十月二日丙申(ひのえさる)、栗前野(くりくまの)で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。十一月二十二日乙酉(きのととり)、地震があった。十二月十三日乙巳(きのとみ)、また地震があった。十六日戊申(つちのえさる)、大原野(おおはらの)で遊猟した。二十七日己未(つちのとひつじ)、公卿が次のように奏上した。「天の道は言葉を発しないが、賢明な君主を待ってその瑞祥を示す。神の働きは主宰することなく、仁君に出会えば吉兆を降す。それゆえ景雲(けいうん)が『歌』に詠み込まれた(注:虞舜の故事)ときには、虞(ぐ、舜の代)の徳化はいよいよ和らぎ、めでたい気が彩りを見せたときには、軒轅(けんえん、黄帝)の事業が大いに広まった。謹んで思いますに、皇帝陛下は、その徳は天地に等しく、仁は万物に厚くあまねく及んでおられます。天と徳を合わせながらも、なお寒暑の不順を憂え、地と力を等しくしながらも、なお民の暮らしの不十分を恐れておられます。謹んで見ますに、少外記(しょうげき)従六位下・都宿禰広田麻呂(みやこのすくねひろたまろ)、左大史(さだいし)正六位上・御野宿禰清庭(みののすくねきよにわ)らが奏上して申しますには、『七月十六日申(さる)の刻、五色の雲が豊楽殿の西に現れた』とのことでございます。紀伊守(きいのかみ)従五位下・占野王(うらののおう)らが奏上して申しますには、『去る八月二十八日、慶雲が海部郡(あまぐん)賀多村(かたむら)の伴島(ともしま)の上に現れた』とのことでございます。また太宰大弐(だざいのだいに)・参議従四位上・小野朝臣峯守(おののあそんみねもり)らが奏上して申しますには、『去る七月七日、慶雲が筑前国那賀郡(なかぐん)に現れた』とのことでございます。いずれも色彩は入り混じって美しく、常ならぬ麗しさでございました。臣らが謹んで考えますに、豊楽殿の名は四海の歓びを証し、また娯(たのし)む島の名(注:天皇の諱・大伴にちなむものか)は、天皇陛下おひとりのお慶びを表すものでございます。臣らは幸いにも盛世に巡り会い、しばしば希代の瑞祥を目にしております。その喜び躍る思いは、まことに尋常一様ではございません。喜びに堪えぬ思いのまま、謹んで表を奉り、お慶びを申し上げます。」詔して曰く、「朕は徳が薄いにもかかわらず、大業を受け継ぐこととなった。薄氷を踏むように、日々慎み励んでいるが、朽ちた手綱で馬を御するような心地で、絶えず努めている。恵みの潤いは民にあまねく行き渡らず、風俗の教化もこの国土に澄み渡っているとはいえない。おのずと心に恐れを抱き、いまだ何をもって世を救うべきかわからずにいる。今、公卿が慶雲の瑞祥を賀する表を見た。朕の徳行は円満とは言えず、それが天を感じさせたとは恥ずかしい限りである。道による教化にも欠けるところがあるのに、どうして神を動かせようか。ただ思うに、有能な官人たちがそれぞれの職務を怠らずに励んでいるからであろう。たとえ瑞雲や芝草の効験がなくとも、慶びは十分にある。しかし万民はいまだ豊かでなく、政治もいまだ道理に順っているとは言えない。麒麟や鳳凰が野にあらわれたとしても、朕はなお恐れを抱くであろう。おのれの凡庸で徳の乏しいことを顧みれば、どうして慶賀を受けられようか。朕は謹んでこれを受け入れることができない。」二十九日辛酉(かのととり)、公卿が再び慶賀を奏上した。壬戌(みずのえいぬ)晦日、詔して曰く、「朕は徳に暗いにもかかわらず、かたじけなくも君臨する身となった。奔馬を御するがごとく心を砕き、堀に落ちた民を思うがごとく志を尽くしている。夜を分かって眠りを廃し、天下がいまだ安んじていないことを憂い、日が傾いても食事を忘れ、政のいずれかに過ちがあるのではと恐れている。近ごろ、瑞雲ならぬめでたい雲が、内外のいたるところで見られたという。公卿が表を奉って賀を述べたが、辞退して受け入れなかった。それでもなお、しきりに奏上し拒みきれずにいる。これはすなわち、七廟(しちびょう、歴代天皇の霊廟)の霊がまさにそこにいますかのように感応されたのであり、天地の調和がおのずと瑞祥をもたらしたのであろう。今、その徳を蒼天に報い、祖宗に寄せ、恵みを万民に広め、この慶事を共にしたいと思う。天下に大赦を行うべきである。」(注:類聚国史による)

四年丁未(ひのとひつじ)、春正月癸亥朔(きがいついたち)、天皇の不豫により朝賀を取りやめた(注:類聚国史・日本紀略による)。十五日丁丑(ひのとうし)、畿内に校田使(こうでんし、田地を検査する使者)を置いた(注:日本紀略による)。十六日戊寅(つちのえとら)、天皇は病のため踏歌(とうか)を観覧しなかった(注:類聚国史・日本紀略による)。二月二十七日戊午(つちのえうま)、正子内親王(まさこないしんのう)を皇后に立てた(注:日本紀略による)。夏四月六日丁酉(ひのととり)、南池に行幸した。十四日乙巳、神泉苑に行幸し、釣りを観覧した(注:類聚国史・日本紀略による)。十七日戊申(つちのえさる)、地震があった(注:類聚国史による)。二十二日癸丑(みずのとうし)、神泉苑に行幸し、釣りをした(注:類聚国史・日本紀略による)。五月辛酉朔(しんゆうついたち)、延暦寺(えんりゃくじ)に戒壇院(かいだんいん)を建立した(注:天台座主記・叡岳要記による。○一代要記は二日とする)。十日庚午、武蔵(むさし)が白雉(はくち、白いキジ)を献じた(注:類聚国史・日本紀略による)。二十日庚辰(かのえたつ)、中納言・良岑安世、東宮学士(とうぐうがくし)・滋野貞主(しげののさだぬし)らに詔して『経国集(けいこくしゅう)』を撰ばせた(注:日本紀略による)。二十一日辛巳(かのとみ)、使者を遣わして天下の名神に幣帛を奉らせ、大極殿で三日間大般若経を転読させて、雨を祈らせた(注:日本紀略・弘法大師行状要集抄が引く類聚国史による。○案ずるに、『性霊集(しょうりょうしゅう)』には、この月の乙酉の日に大極殿・紫宸殿の両殿で百人の僧を集めて雩(あまごい)の願文を読んだとある。今、干支を推算すると、乙酉は二十五日にあたる。この条の出来事と日が異なるので、採らない。)二十六日丙戌(ひのえいぬ)、僧・空海に勅して仏舎利(ぶっしゃり)を内裏に迎えさせ、礼拝し灌浴(かんよく、水を注いで浴びせる儀礼)させた。この夜、慈雨が降った(注:日本紀略、弘法大師行状要集抄および祈雨日記がいずれも引く日本後紀による)。六月二十二日壬子(みずのえね)、神泉苑に行幸した。秋七月六日乙丑(きのとうし)、神泉苑に行幸し、釣りをした。十二日辛未(かのとひつじ)、大地震があり、家屋が多く倒壊した(注:類聚国史・日本紀略による)。八月十六日乙巳、皇后宮亮(こうごうぐうのすけ)・大枝総成(おおえのふさなり)が霊芝(れいし)四茎を献じた。二十一日庚戌(かのえいぬ)、大風があり、家屋が倒壊した(注:日本紀略による)。冬十月十五日癸卯(みずのとう)、甲斐に牧監(ぼくかん、牧場の監督官)を置いた(注:類聚三代格による)。二十日戊申、紫宸殿に出御し、群臣に宴を賜った。七月からこの月に至るまで、地震がたびたび起こり、ほとんど平穏な日がなく、雷のような音を伴うこともあった(注:類聚国史・日本紀略による)。十一月十三日辛未、諸国に文殊会(もんじゅえ)を修めるよう勅した(注:類聚三代格による)。十五日癸酉(みずのととり)、地震があった。二十二日庚辰、大地震があり、雷のような音がした。二十四日壬午(みずのえうま)、また地震があった。丁亥(ひのとい)晦日、また地震があった(注:類聚国史による)。十二月戊子朔(ぼしついたち)、地震があった。二日己丑、また地震があった。十四日辛丑、大極殿で三日間大般若経を転読させ、地震の災いを除け祈った(注:類聚国史・日本紀略による)。十六日癸卯、地震があった。十九日丙午(ひのえうま)、また地震があった(注:類聚国史による)。

五年戊申(つちのえさる)、春正月十八日甲戌(きのえいぬ)、但馬(たじま)から「渤海の使者が来た」との報告があった。二十一日丁丑、畿内に班田使(はんでんし)を置いた(注:日本紀略による)。二月五日辛卯(かのとう)、地震があった。十二日戊戌(つちのえいぬ)、また地震があった。十三日己亥(つちのとい)、宜子女王(よしこじょおう)を伊勢斎王とした。十五日辛丑、地震があった。二十一日丁未、紫宸殿に出御し、侍臣に宴を賜った。三月四日己未(つちのとひつじ)、地震があった。十一日丙寅(ひのえとら)、また地震があった。閏月四日己丑、神泉苑に行幸し、釣りをした。十二日丁酉(ひのととり)、南池に行幸し、群臣に釣りをさせた。二十七日壬子、大中臣春継(おおなかとみのはるつぐ)が萩原王(はぎはらおう)を射殺した罪により、伊豆に流された(注:類聚国史・日本紀略による)。夏五月二十三日丁未、京師で大雨が降り、山が崩れ水があふれて、人畜に被害が出た。使者を遣わして賑給した(注:日本紀略による)。六月三日丁巳、地震があった。五日己未、また地震があった。十五日己巳、紫宸殿に出御し、群臣に酒宴を賜った(注:類聚国史・日本紀略による)。内蔵寮(くらりょう)から銭三百貫を出し、侍従以上にそれぞれ差をつけて賜った(注:類聚国史による)。十七日辛未、神泉苑に行幸し、釣りをした。二十三日丁丑、神泉苑に行幸した。雷雨があり、山が崩れ水があふれた。二十五日己卯(つちのとう)、大地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。二十八日壬午、越後(えちご)の穀物一万斛を放出して、困窮した民を救済した。秋七月二十九日壬子(みずのえね)、次のような詔を下した。「朕は徳が薄く才も乏しいにもかかわらず、大業を受け継ぐこととなった。道においては用いるべきものを秘めておく智恵に及ばず、教化においては人々の信を得る誠実さにも及ばないことを恥じている。春の水を渡るように慎み、日々怠ることなく励み、秋に車を馭するように恐れ慎み、夕べにも戒めを忘れずにいる。それでも薄い徳は明らかにならず、志も高くならず、天地の調和が欠けて、災いの兆しがしきりに現れている。近ごろ、地の徳の順序が乱れ、山崩れや地震が起こっている。静かにその過ちを思えば、その責めは朕の身にある。天の威光を深く畏れ、寝ても覚めても戒めを忘れることはない。天下の牢獄に冤罪で滞留している者があれば、担当の役人はその事情を再審し、申し開きをさせよ。また道端に打ち捨てられた遺骸を収めて葬り、骨や肉を埋葬して、白髪の老人がそれを担わずに済むようにせよ。労役に人を使うにあたって、老人や成年男子の徭役(ようえき)は、永く寛大に免除せよ。80歳以上の者、および鰥寡孤独で自活できない者には、それぞれに応じて物を賜れ。この趣旨を遠近に頒布して、あまねく知らしめよ。」八月十八日辛未、大納言・良岑安世、左京大夫(さきょうのだいぶ)・石川河主(いしかわのかわぬし)らを遣わし、栢原山陵(桓武天皇陵)に幣帛を奉らせ、災異を祓わせた。二十二日乙亥、神泉苑に行幸した。二十四日丁丑、山崩れと洪水のため、侍従・高枝王(たかえだおう)、神祇少副(じんぎのしょうふ)・大中臣礒守(おおなかとみのいそもり)を遣わし、北山の神に幣帛を奉らせた(注:類聚国史による)。九月十七日庚子、武徳殿に出御し、信濃から貢進された馬を御覧になり、参議以上に頒賜した。二十五日戊申、北野(きたの)で遊猟した。冬十月五日丁巳、地震があった。二十二日甲戌、大地震があった。二十三日乙亥、また地震があった。十一月二十五日丁未、地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。

六年己酉(つちのととり)、春二月二十日庚午、天下の名神に雨を祈った。二十八日戊寅、大極殿で三日間大般若経を読ませ、雨を祈った(注:日本紀略による)。三月庚辰朔(こうしんついたち)、大地震があった。夏四月庚戌朔、紫宸殿で宴を催した。五日甲寅、南池に行幸した。十七日丙寅(ひのえとら)、諸国に疫病が流行したため、百人の僧を得度(とくど)させるよう勅した(注:類聚国史・日本紀略による)。五月六日甲申(きのえさる)、慈雨が降ったことにより、五位以上および諸衛府(しょえふ)の者に物を賜った(注:日本紀略による)。二十七日乙巳、諸国に水車を造るよう勅した(注:類聚三代格による)。二十九日丁未、金星(太白)が昼間に見え、幾日も消えなかった(注:日本紀略による)。六月三日辛亥、京職(きょうしき)への絶戸田(ぜっことでん、相続人が絶えた家の田)の授与を停止した(注:類聚国史による)。十九日丁卯、神泉苑に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。二十一日己巳、因幡(いなば)の女性が一度に三子を出産し、正税三百束を賜った。秋七月二日己卯(つちのとう)、神泉苑に行幸した(注:類聚国史による)。十七日甲午、禁庭(きんてい、宮中)で相撲を観覧した。八月二日己酉、再び相撲を観覧した。三日庚戌、南池に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。十二日己未、神泉苑に行幸した(注:類聚国史による)。二十七日甲戌、貴布禰・丹生川上に幣帛と馬を奉り、晴天を祈った(注:日本紀略による)。九月六日癸未(みずのとひつじ)、地震があった。十七日甲午、神泉苑に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。二十二日己亥、武徳殿に出御し、信濃から貢進された馬を御覧になった。冬十月丁未朔(ていびついたち)、武徳殿に出御し、甲斐から貢進された馬を御覧になった(注:日本紀略による)。十日丙辰、泥濘池(ぬかりいけ)に行幸した。二十一日丁卯、地震があった。二十八日甲戌、栗前野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。十一月丁丑朔(ていちゅうついたち)、日食があった(注:日本紀略による)。八日甲申、諸大寺の僧に綿一万五百屯(とん)を施した(注:類聚国史・日本紀略による)。十日丙戌、佐渡(さど)の女性が一度に三子を出産し、正税三百束を賜った(注:類聚国史による)。二十一日丁酉、芹川野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。十二月二十四日庚午、賀茂川(かもがわ)に行幸し、禊を修めた(注:日本紀略による)。

七年庚戌(かのえいぬ)、春正月丙子朔(へいしついたち)、雨のため朝賀を取りやめた。二日丁丑、大極殿に出御し、朝賀を受けた。阿波(あわ)から「慶雲が現れた」との報告があった。越前(えちぜん)から「連理(れんり)の木(注:枝が連なった吉祥の木)があった」との報告があった(注:類聚国史・日本紀略による)。十二日丁亥、地震があった(注:類聚国史による)。二十二日丁酉、また地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。二十五日庚子、鴨川で禊を行った(注:日本紀略による)。二十八日癸卯、出羽(でわ)から駅使による奏上があった。「今月三日、大地震があり、城郭・官舎はことごとく倒壊し、山が崩れ水があふれました。城中で圧死した者十五人、負傷した者百余人にのぼります(注:類聚国史・日本紀略による)。よって諸郡の兵五百人を差し出し、不測の事態に備えたいと存じます。」これを許した(注:類聚国史による)。夏四月二日乙巳、大極殿に出御し、出雲国造(いずものくにのみやつこ)が献じた五種の神宝(しんぽう)および雑物を御覧になった。三日丙午、神泉苑に行幸した。十一日甲寅、南池に行幸した。十二日乙卯、鴨川に行幸して禊を修め、紫野院(むらさきのいん)の釣台に出御して魚を観覧した(注:類聚国史・日本紀略による)。二十一日甲子、式部卿(しきぶきょう)兼太宰帥(だざいのそち)・万多親王(まんだしんのう)が薨じた(注:日本紀略による)。二十五日戊辰、次のような詔を下した。「朕は徳が薄く暗愚な身でありながら、謹んで帝位を受け継ぎ、天地人の三霊を深く畏れ、天下のために憂い勤めている。善き教化はいまだ行き渡らず、皇の道もなお鬱滞している。それゆえ災いの兆しが、招かずして現れるのであろう。聞くところによれば、出羽国で地震の災いがあり、山河に変異が起こり、城郭・家屋が崩れ壊れ、人々に多くの被害が出たという。罪なき百姓が、思いがけず非業の死に遭ったのである。まことに政道に欠けるところがあって、この天罰が下されたのであろう。朕の徳の乏しさを、天下に対して恥じるばかりである。静かにその咎を思えば、いよいよ深く民を思う心が募る。そもそも漢の代に山崩れがあったときは、徳を修めて災いを祓った。周の郊外で地震があったときは、善言に感じて禍を鎮めた。とすれば、己に克って民を救う道を、どうして古にならわずにいられようか。そこで特に使者を遣わし、慰撫の措置を加えることとする。震災で家屋・生業を失った百姓については、使者は現地の役人と協議し、その年の租調を適宜免除せよ。あわせて、民か異民族かを問わず、倉を開いて賑給せよ。住居を修理し、生業を失わせないようにせよ。圧死した者は、速やかに葬り埋めよ。努めて寛大な恩恵を施し、朕の意にかなうようにせよ。」(注:類聚国史による)二十六日己巳、大宰府管内、および陸奥(むつ)・出羽などの国々で疫病が流行し、若くして死ぬ者がやや多かったため、天下の国分寺(こくぶんじ)で三日間『金剛般若経』を転読させるよう勅した(注:類聚国史・日本紀略による)。その期間は殺生を禁じた(注:類聚国史による)。五月六日己卯、大極殿で七日間大般若経を転読させ、地震と疫病の災いを祓った(注:類聚国史・日本紀略による)。秋七月六日戊寅、大納言兼右近衛大将・良岑安世が薨じた(注:日本紀略・公卿補任による)。十二日甲申、十八寺に使者を遣わして読経させ、天下の名神に幣帛を奉って災いを祓った(注:類聚国史・日本紀略による)。十四日丙戌、長門に賑給した(注:類聚国史による)。十六日戊子、神泉苑に行幸した。この日、宮中に落雷があり、火災が起こった。二十一日癸巳、この火災のため玄暉門(げんきもん)で祓いを行った(注:日本紀略による)。二十四日丙申、天皇の不豫により、伊勢大神宮に幣帛を奉った(注:類聚国史・日本紀略による)。八月四日乙巳、参議・藤原吉野(ふじわらのよしの)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による)。十四日乙卯、地震があった(注:類聚国史による)。この日、内竪(ないじゅ、宮中の下級役人)・真野王(まののおう)が霊芝を献じた。二十九日庚午、犬が棲鳳楼(せいほうろう)に登って吠えた(注:日本紀略による)。九月十四日乙酉、薬師寺(やくしじ)に最勝王経会(さいしょうおうきょうえ)を修めさせ、これを毎年の恒例とした(注:案ずるに、年中行事によれば、最勝王経会は三月に行うものとされている。おそらく後世に月を改めたのであろう)。二十一日壬辰、大納言・清原夏野の山荘に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。二十二日癸巳、武徳殿に出御し、信濃から貢進された馬を御覧になった(注:日本紀略による)。冬十月五日乙巳、北野に行幸した。七日丁未、大納言・藤原三守(ふじわらのみもり)らが新たに撰んだ格式(きゃくしき、法令集)を上奏した。二十七日丁卯、北野で遊猟した。十一月五日乙亥、地震があった。二十五日乙未、栗前野に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。二十九日己亥、伯耆(ほうき)の飢えた民に賑給した(注:日本紀略による)。十二月十六日丙辰、芹川野に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。二十日庚申、諸陵(しょりょう)に幣帛を頒布した(注:日本紀略による)。閏月二日壬申、北野に行幸した。八日戊寅、高名な僧十人を召し、宮中で三日三晩にわたって仏名経(ぶつみょうきょう)を用いた懺悔の法会(ほうえ)を行わせた(注:類聚国史・日本紀略による。○案ずるに、年中行事・公事根源によれば、仏名会は宝亀(ほうき)五年に始まったとされ、すでに光仁紀に見える。ただし旧史に仏名会の記述が見えるのは、ここが最初である)。

八年辛亥(かのとい)、春正月十七日丙辰、天皇の不豫により射礼を観覧しなかった。二十日己未、仁寿殿(じじゅうでん)で内宴(ないえん)を催した(注:類聚国史・日本紀略による。○案ずるに、年中行事によれば、内宴は嵯峨帝の弘仁四年に始まったという。類聚国史を調べると、弘仁年間に内宴の記述が見えるのは四回であり、弘仁十一年から前年に至るまでは見当たらない。この年以後は絶えず記されており、これが恒例であったことがわかる。そのため、これ以後はいちいち記さない)。二月九日戊寅、山城の綴喜郡(つづきぐん)に香達池(こうたついけ)を掘った(注:日本紀略による)。十八日丁亥、水成野(みなしの)に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。三月七日乙巳、仏舎利五百顆を大宰府管内の国分寺・諸定額寺(じょうがくじ)に納めた(注:日本紀略による)。二十一日己未、地震があった。二十五日癸亥、各寺に七日間大般若経を読ませ、疫病を防がせた。夏四月十日丁丑、南池に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。二十二日己丑、大宰府から鹿尾脯(ろくびほ、鹿の尾の干し肉)などの御贄(みにえ、貢納品)の貢進を停止した。二十五日壬辰、越前の女性が一度に三子を出産し、正税三百束を賜った(注:類聚国史による)。五月二十五日壬戌、京師の飢えた病人に賑給した(注:類聚国史・日本紀略による)。六月十四日庚辰、基良親王(もとよししんのう)が薨じた(注:日本紀略による)。この日、地震があった(注:類聚国史による)。二十二日戊子、神泉苑に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。秋七月十日乙巳、大納言以下侍従以上に染絹(そめぎぬ)を賜った(注:類聚国史による)。八月四日己巳、南池に行幸した。十日乙亥、神泉苑に行幸した。阿波守(あわのかみ)・善道真貞(よしみちのまさだ)、主税頭(しゅぜいのかみ)・安野真継(やすののまつぐ)、直講(じきこう)・苅田種継(かりたのたねつぐ)らを召し、三伝(さんでん、春秋三伝)・三礼(さんらい)の義を論じさせた。十三日戊寅、伊勢大神宮に幣帛を奉り、風雨の順調を祈った(注:類聚国史・日本紀略による)。二十日乙酉、山城・河内(かわち)に、それぞれ氷室(ひむろ)三か所を増設した(注:日本紀略による)。二十二日丁亥、神泉苑に行幸し、左右近衛府の相撲を観覧した。二十六日辛卯、地震があった。二十八日癸巳、神泉苑に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。九月十二日丙午、伊勢大神宮に幣帛を奉った。冬十月二日丙寅、長門の飢えた民に賑給した(注:日本紀略による)。十四日戊寅、北野に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。十一月九日癸卯、安房(あわ)の未納の正税七万余束を免除した(注:類聚国史による)。十二月四日戊辰、雷があった(注:日本紀略による)。八日壬申、時子女王(ときこじょおう)を賀茂斎院(かものさいいん)とした。十三日丁丑、芹川野に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。この年、東宮学士・滋野貞主らに勅して『秘府略(ひふりゃく)』を撰ばせた(注:文徳実録による)。

九年壬子(みずのえね)、春正月乙未朔、朝賀を行った。皇子が夭折(ようせつ)したため、音楽は演奏されなかった。十日甲辰、地震があった。二十五日己未、水成野に行幸した。二十七日辛酉、地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。夏四月二日甲子、大内裏(だいだいり)の修繕にあたり、本院(ほんいん)に遷御した(注:日本紀略による)。十一日癸酉、紫野院に行幸し、この院を雲林亭(うりんてい)と名づけた(注:類聚国史・日本紀略による)。十四日丙子、皇后が雲林(うりん)に行き、農耕と養蚕を観覧した。作業にあたる男女に物を賜った。二十一日癸未、和泉の飢えた民に賑給した(注:日本紀略による)。五月七日戊戌、地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。十六日丁未、近江の滋賀(しが)・浅井(あざい)二郡で火災に遭った者に賑給した(注:類聚国史による)。十七日戊申、天皇は旱魃のため正寝(せいしん、常の御殿)を避けた。百人の僧に八省院(はっしょういん)で大般若経を読ませ、各地の修行僧にも読経を命じて雨を祈らせた(注:日本紀略による)。十八日己酉、次のように勅した。「去年は秋の実りが悪く、諸国が飢饉を訴えている。今年もまた疫病と旱魃が相次ぎ、人々が若くして命を落とし、そのうえ大きな災害もあって、民の中には住むところを失う者もいる。五畿七道の諸国に、七日間を限って経王(きょうおう、法華経など)を転読させ、禍を転じて福となすべきである(注:類聚国史による)。善行を修める間は、殺生を禁断せよ。」十九日庚戌、八省院の庭で読経させ、雨を祈らせた。畿内四か国の国司に雩(あまごい)を行うよう勅した。二十日辛亥、雨が降った。二十七日戊午、左右京の病者に賑給した。秋七月五日乙未、西寺の講堂の落成を祝った(注:日本紀略による)。十五日乙巳、天下の名神に幣帛を奉り、風雨の順調を祈った(注:類聚国史・日本紀略による)。この日、越前の飢えた民に賑給した(注:日本紀略による)。二十二日壬子、伊勢大神宮に幣帛を奉り、風雨の順調を祈った。八月十日己巳、神泉苑に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。十一日庚午、名神に幣帛を頒布し、十三大寺に大般若経を転読させて、晴天を祈らせた。二十日己卯、大風雨があった。河内・摂津で洪水が起こり、堤防が決壊した。九月七日丙申、摂津の水害を被った者に賑給した(注:日本紀略による)。十日己亥、尾張(おわり)の女性が一度に三子を出産し、正税三百束を賜った。この月、地震がたびたび起こった。二十六日乙卯、北野に行幸し、鷹犬(ようけん)を試み、双岳(ならびがおか)および陶野(すえの)で狩りをした(注:類聚国史による)。雲林院に行幸し、侍従以上に差をつけて物を賜った(注:類聚国史・日本紀略による)。冬十月四日壬戌、紫宸殿に出御し、侍臣に宴を賜い、差をつけて物を賜った(注:類聚国史による)。十一月二日庚寅、右大臣・藤原緒嗣を左大臣とし、大納言・清原夏野を右大臣とした(注:日本紀略・公卿補任による)。二十三日辛亥、栗前野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。

十年癸丑(みずのとうし)、春正月己丑朔、雨のため朝賀を取りやめた。二日庚寅、朝賀を受けた(注:類聚国史・日本紀略による)。二月十三日庚午、淡路の飢えた民に賑給した(注:日本紀略による)。二十四日辛巳、天皇は譲位しようとして、西院(さいいん)に居を移した(注:案ずるに、西院とはすなわち淳和院(じゅんないん)のことである)。この日、大地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。二十五日壬午、近江の飢えた民に賑給した(注:日本紀略による)。二十八日乙酉、皇太子に譲位した(注:類聚国史・日本紀略・続日本後紀による)。尊号を奉って太上天皇と称した。天皇はこれを辞退したが、仁明帝(にんみょうてい)はこれを聞き入れなかった。嵯峨太上天皇がなお在世していたため、この天皇を後太上天皇(のちのだいじょうてんのう)と称した。

承和(じょうわ)元年十月、雲林院に行き、北郊(ほくこう)で遊猟した。七年五月、病に伏した。六日辛巳、次のような遺言を残した。「私はもとより華美を好まなかった。まして人や物を煩わせ損なうことなどあってはならない。葬送の道具は、すべて質素にせよ。葬儀が終われば喪服を脱ぎ、国の人々を煩わせてはならない。葬送を送る日は、夜のうちに行うのがよい。追善供養の事も、必ず倹約を旨とせよ。また国忌(こくき、天皇の忌日の法要)は、故人を偲ぶ意義はあるとはいえ、担当の役所を煩わせるものである。また年の終わりに絹布を分かつ荷前(のさき)という儀礼も、幽明(死者と生者)いずれの理からしても、煩わしいばかりで益がない。いずれも停止すべきである。そもそも子たる者の道は、親の教えに従うことを第一とする。この遺言を奉じて実行し、違えることのないように。」また次のように言った。「私が聞くところでは、人が亡くなればその精魂は天に帰るという。それなのに、いたずらに墓を残せば、そこに鬼物(きぶつ、悪霊)が取り憑き、ついには祟りをなし、永く後の世に禍いを残すことになる。骨を砕いて粉にし、山中に散らすのがよい。」中納言・藤原吉野が奏上して言った。「昔、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)が遺言を残し、骨を砕いて散らし棄てさせ、後世の人々がこれにならった例がございます。しかしこれは親王の事例であって、帝王の先例ではございません。山陵を築かないというのは、古来聞いたことのないことです。山陵は宗廟(そうびょう)にも等しいものです。もし宗廟がなければ、臣下や子孫は何を仰ぎ頼ればよいのでしょうか。」天皇は言った。「私は気力が衰え弱っており、これ以上議論して決めることができない。卿らは嵯峨聖皇(さがせいこう、嵯峨太上天皇)に奏上し、その裁断を仰ぐがよい。」八日癸未、淳和院で崩御した(注:歴代皇紀・一代要記・皇胤紹運録による。○案ずるに、続日本後紀・類聚国史・日本紀略は、いずれも御年59歳とする。しかし嵯峨帝が譲位したときの詔に「太弟(たいてい、皇太弟)と朕とは、年齢も同じである」とあり、これによれば天皇は延暦五年のお生まれであるから、このとき実際には55歳にあたる。そこで今これを訂正する)。諡(おくりな)して日本根子天高讓彌遠尊(やまとねこあまつたかゆずるいやとおのみこと)といい、乙訓郡(おとくにぐん)物集村(もずめのむら)で火葬した。遺詔に従い、装束司(そうぞくし)・山作司(やまつくりし)・養民司(ようみんし)などの役所を置かず、国忌や陵戸(りょうこ、陵墓を守る戸)も置かず、荷前にも列せず、御骨を砕いて粉にし、大原野の西山の嶺の上に散らした(注:続日本後紀による)。淳和天皇と称し、また西院帝(さいいんてい)とも称した(注:神皇正統記・皇代記による)。天皇はかつて僧・道昌(どうしょう)に「帝王が殺生する罪と、臣下が殺生する罪とでは、どちらが重いか」と尋ねたことがあった。道昌は答えて言った。「帝王の罪は重く、臣下の罪は軽うございます。私めが見ますところ、狩人が御膳(ごぜん)に供する獲物は、数十頭を割いてようやく一度の食膳を賄うほどであり、多くは鳥獣にわたります。差し出される膳は少なくとも、殺される数は多いため、その罪は重いのです。臣下の場合はそうではありません。山沢には禁猟の定めがあって思うままに狩ることは許されず、弋(いぐるみ)や釣りで得るものは、わずかに口を養うだけですので、その業は軽いのです。」天皇は「よく言った」と仰せられた。これより後、遊猟を控え、山沢の禁を緩めた(注:三代実録・清和紀による)。