卷之二十五 本紀二十五 上卷
仁明天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
仁明天皇
¶仁明天皇は、諱を正良(まさら)といい、嵯峨天皇(さがてんのう)の第二子である。母は皇后・橘氏(たちばなのうじ)。皇后はかつて、円座(えんざ)を手に取って積み重ねる夢を見た。その高さは際限を知らぬほどで、一枚重ねるごとに口に「三十三天」ととなえたという。まもなく懐妊し、弘仁元年、天皇をお生みになった(注:「弘仁」以下の記述は歴代皇紀・一代要記・帝王編年記による)。
¶はじめ親王とされた(注:日本紀略による)。弘仁十四年四月、淳和天皇(じゅんなてんのう)は嵯峨天皇の禅(ゆずり)を受けて即位すると、正良親王を皇太子に立てた。嵯峨天皇は書を送ってこれを辞退したが、淳和天皇は聞き入れなかった(注:「嵯峨帝」以下の記述は日本紀略による)。八月、元服の儀を行った(注:皇年代略記による)。
¶天長十年、二月二十八日乙酉、淳和天皇は皇太子(正良親王)に位を譲る旨の詔を下した。その日の夕方、皇太子は上表してこれを辞退した。その主旨は、自らは徳も才も乏しく進退に迷うばかりであり、かつて嵯峨太上天皇の許で幼い日々を過ごし、淳和天皇の慈しみを受けて十年余りを東宮に過ごしてきたが、その恩に報いるに至っていないのに、今にわかに大位を授かり皇統を継ぐことになれば、世の謗りを招くのではないかと恐れる、というものであった。淳和天皇は聞き入れなかった。二十九日丙戌、皇太子は重ねて上表し、恩詔をいただいてすでに十日余りが過ぎたが、なおお許しがないことを述べ、もし辞退がかなわないのであれば、なお東宮の位にとどまりたいと重ねて懇請したが、これもまた聞き入れられなかった。そこで天皇(皇太子)は冷然院(れいぜいいん)に嵯峨太上天皇および太皇太后を訪ねて拝謁し、東宮に還った。丁亥の月末、淳和天皇は詔して恒貞親王(つねさだしんのう、淳和天皇の子)を皇太子に立てた。淳和天皇はこれについても書を送って辞退する意を示したが、恒貞親王がまだ幼く学問も未熟であるのにみだりに重い儀礼を授けるべきではない、というのがその趣旨であった。三月戊子朔、日食があった。皇太子は答表して、賢愚は年齢によらないものであるとし、恒貞親王の立太子を受け入れるよう促した。淳和天皇は再び書を返し、なお立太子は時期尚早であるとの考えを示したが、皇太子はその書を奉り返し、あわせて嵯峨天皇に太上天皇の尊号を奉りたいと上表した。淳和天皇はこれも辞退する書を送った。二日己丑、天皇は詔して、太上天皇の尊号を奉ることは古来の通例であり私意によるものではないと述べ、嵯峨天皇を太上天皇、皇太后を太皇太后、皇后を皇太后とする旨を天下に布告した。淳和天皇は重ねて書を送って辞退したが、天皇はこれに従わなかった。六日癸巳、天皇は大極殿(だいごくでん)において即位した。時に24歳(注:年齢は本書に崩年41歳とある記述による)。左大臣・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)、右大臣兼左近衛大将・清原夏野(きよはらのなつの)、権中納言兼右近衛大将・藤原吉野(ふじわらのよしの)は、いずれも留任した(注:公卿補任による)。七日甲午、東宮から遷り、しばらく松本院(まつもとのいん)に御した。八日乙未、初めて朝政をご覧になった。十一日戊戌、大納言・藤原三守(ふじわらのみもり)を皇太子傅(こうたいしふ)とした。十五日壬寅、天皇は紫宸殿(ししんでん)に出御して群臣に酒を賜り、親王以下にはそれぞれ衣服・夜具を賜った。この日、権中納言・藤原吉野は右近衛大将を罷めた。二十日丁未、大極殿で大般若経を転読させ、五穀豊穣と疫病退散を祈り、天下に三日間の殺生を禁じた。二十四日辛亥、従三位・橘氏公(たちばなのうじきみ)を右近衛大将とした。二十六日癸丑、皇女・久子内親王(ひさこないしんのう)を斎宮(さいぐう)、高子内親王(たかこないしんのう)を斎院(さいいん)とした。二十七日甲寅、遠江(とおとうみ)で飢饉と疫病が起こり、これを救済した。夏四月戊午朔、紫宸殿で宴を催した(注:夏四月の旬宴は桓武天皇の延暦十二年に初めて見え、冬十月の旬宴は天武天皇五年に初めて見える。この年以後、しばしば絶えることなく行われており、恒例となったことがわかる。そのため、これ以後は記さない)。三日庚申、霜が降りた。二十一日戊寅、詔して、嵯峨院はかつて太上天皇(嵯峨天皇)が住まわれた地であり、その恩沢に浴すべきであるとして、山城国葛野郡(やましろのくにかどのぐん)の貧民のうち去年の借貸未納の者や雑賦未進の者について、特にこれを免除するよう命じた。この日、五月の節句を五日に復するという制を定めた。二十二日己卯、内裏に遷り住んだ。二十五日壬午、大極殿に出御し、出雲国造(いずものくにのみやつこ)が献上した神宝を観覧し、神寿(かんよごと)を受けた。五月十一日丁酉、武蔵国(むさしのくに)から、多磨・入間両郡の境に悲田所(ひでんしょ、貧窮者救済施設)を置き、屋舎五棟を建てて旅人を庇護したいとの申請があり、これを許可した。この日、越前・加賀・能登・佐渡・上野・下野・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・安房などの諸国に、相撲人(すまいびと)を貢進するよう命じた。十五日辛丑、天候が寒く、人々の多くが綿入れの上着を着た。二十五日辛亥、天皇が体調を崩した。二十六日壬子、大和国(やまとのくに)から、数年不作が続き、例年の年貢にも不足が生じているとして、弘仁十年の官符に準じて国内の富民から稲を借り受け、飢民を救済したいとの申請があり、これを許可した。天皇は勅して、富豪の蓄えは本来貧窮者を救うためのものであるが、これまで役人の運用が悪く、借用するばかりで返済させる意識がなかったため、貧富ともに疲弊してきたと述べ、秋の収穫期には必ず使者を遣わして返済させるよう命じた。二十八日甲寅、詔して、凶作は民を苦しめるものであり、救貧と勧農の道は時代が変わっても変わらぬ道理であるとし、諸国で不作と疫病が重なっている現状を踏まえ、京畿・七道の諸国司に、耕作に力を尽くせるよう配慮して賑給(しんごう、救済)を行うことを命じた。六月二日丁巳、山城・近江・丹波など都に近い山での落とし穴や仕掛け槍の設置を禁じた。三日戊午、諸国に稲を貯えさせ、救済に備えさせた。七日壬戌、天皇が再び体調を崩した。僧を召して加持を行わせ、七つの寺に綿入りの布施を分け与え、経を転読して快癒を祈った。八日癸亥、病がやや癒えた。神祇伯(じんぎはく)・大中臣淵魚(おおなかとみのふちうお)に賀茂大神(かものおおかみ)へ幣帛(へいはく)を奉らせ、また天下の神社・寺塔の修理を命じた。天皇は勅して、諸国で疫病が流行し死者が多いと聞くとして、修法によらねば災いを除くことはできないとし、諸国に修行を積んだ僧を招請させ、三日間、昼は金剛般若経を転読し、夜は薬師悔過(やくしけか)を修めさせた。九日甲子、詔して、天下に大赦を行うことを告げた。ただし通常の恩赦で赦されない罪はこの限りではないとし、弘仁元年の事件に連座して配流された安倍清継(あべのきよつぐ)・百済愛筌(くだらのあいせん)、および藤原仲成(ふじわらのなかなり)の子らについては、いずれも近国への移送にとどめ、従五位下・藤原貞本(ふじわらのさだもと)については特に放免して帰京させることとした。己丑、天皇の病が癒えた(注:この月には己丑の日はなく、おそらく乙丑の誤りであろう。乙丑は十日にあたる)。二十三日戊寅、山城の民が藻を刈って魚を捕ることを禁じた。二十八日癸未、地震があった。秋七月八日癸巳、御名(仁明天皇の諱「正良」)に触れる人民の姓名や山川・郡・邑の名を改めさせた。閏月乙卯朔、天下の名だたる神々に幣帛を奉り、あらかじめ風水害を祓わせた。二十四日戊寅、越後国(えちごのくに)から、飢饉と疫病で民が困窮しているとして、米の売買を許可し窮民を救いたいとの申請があり、これを許可した。二十八日壬午、長雨が十日余り続いたため、丹生川上(にうかわかみ)・松尾(まつのお)・賀茂(かも)・貴布禰(きふね)などの社に幣帛を奉り、晴天を祈った。八月甲申朔、日食があった。十日癸巳、冷然院に先の太上天皇(嵯峨太上天皇)を拝謁した。二十三日丙午、伊勢の大神宮(だいじんぐう)に幣帛を奉った。九月二十五日戊寅、栗栖野(くるすの)で遊猟を行った。冬十月十九日辛丑、賀茂川で禊(みそぎ)を行った。十一月二日甲寅、雷が鳴った。四日丙辰、また雷が鳴った。九日辛酉、また雷が鳴った(注:本書は辛丑とするが、今は日本紀略に従う)。十五日丁卯、八省院(はっしょういん)で禋祀(いんし)を行った(注:本書は癸卯とするが、今は類聚国史に従う)。十六日戊辰、大嘗祭(だいじょうさい)を行った。十二月九日辛卯、詔して、諸国での米の売買は民の利益となり公にも損はないと聞くとして、今後は年限を設けず、恒久的にこれを行わせることとした。十三日乙未、芹川野(せりかわの)に行幸した。十五日丁酉、右大臣・清原夏野が令義解(りょうのぎげ)を撰進した(注:「十五日」以下の記述は本書の序文による)。
¶承和元年甲寅、春正月二日癸丑、後の太上天皇(淳和太上天皇)に淳和院(じゅんないん)で拝謁した。三日甲寅、改元した。詔して、代替わりに際しては必ずめでたい元号を定めるものであるとし、天長十一年を改めて承和元年とする旨を布告した。四日乙卯、冷然院に先の太上天皇(嵯峨太上天皇)を拝謁した。七日戊午、豊楽殿(ぶらくでん)に出御し、青馬(あおうま)を観覧した(注:史書に「観青馬」と記されるのはこれが最初である。年中行事・公事根源では、これをもって観青馬の始まりとする。ただし内裏式によれば弘仁以来すでに定式となっていたため、これ以後は記さない)。八日己未、僧・空海(くうかい)に命じて真言院(しんごんいん)で七日間修法させた。後七日御修法(ごしちにちのみしほ)はこれに始まる(注:「八日」以下の記述は弘法大師行状要集抄が引く纂要抄行状記、および年中行事・公事根源による)。十六日丁卯、これより先、太宰府(だざいふ)から慶雲(けいうん、めでたい雲)が現れたとの報告があり、公卿がこれを祝賀した。天皇は勅して、めでたいしるしは徳のある者にこそ現れるものであり、堯(ぎょう)や光武帝のような聖天子でさえ謙遜してこれを誇らなかったとし、自らの不徳を思えば「百姓が安らかに暮らし、風雨が調和すること」こそがまことの瑞祥であるとして、政治に励むよう自戒する意を示し、祝賀の言葉を退けた。十九日庚午、参議・藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)を遣唐持節大使、弾正少弼・小野篁(おののたかむら)を副使に任じた。二十五日丙子、加賀国(かがのくに)で疫病が流行し、これを救済した。二月壬午朔、日食があった。八日己丑、芹川野に行幸した。十日辛卯、勅して、万民が安楽に暮らし五穀が豊かに実るのは最勝王経(さいしょうおうきょう)の霊力にまさるものはないとし、封戸(ふこ)・田園を有する諸寺に最勝王経の法を修めさせることとした。十二日癸巳、金銀の薄泥を用いることを禁じた。十三日甲午、加賀国の女子が一度に三つ子を産んだので、正税(しょうぜい)三百束と乳母の食糧を賜った。三品(さんぼん)・明日香親王(あすかしんのう)が薨じた。この月、越後・石見(いわみ)で飢饉が起こり、これを救済した。三月二十日辛未、数百の物が禁殿の上を飛び鳴き、その声は海鷗(かもめ)のようであった(注:本書はこれを二月の出来事とするが、今は類聚国史とあわせて訂正した)。夏四月二日壬午、公卿がまた慶雲を祝賀した。六日丙戌、勅して、畿内・七道の諸国の国分寺に金剛般若経を転読させ、あわせて薬師悔過を修めさせ、災いを防ぎ豊作を祈らせた。期間は三日とし、殺生を禁じた。二十六日丙午、勅して、京中の諸寺に大般若経一部と金剛般若経十万巻を転読させ、疫病を鎮めさせた。五月十五日乙丑、勅して、相模・上総・下総・常陸・上野・下野などの国司に大蔵経(だいぞうきょう)を分写させた。六月十五日甲午、仁王経(にんのうきょう)を紫宸殿・常寧殿(じょうねいでん)、建礼門(けんれいもん)、八省院の諸堂、宮城の諸司諸局、東西の寺、および南の羅城門(らじょうもん)で、あわせて百座にわたって講じさせ、雨を祈った。十七日丙申、雨を祈るため、もろもろの神に幣帛を奉った。十八日丁酉、地震があった。二十六日乙巳、丹後国(たんごのくに)の飢饉を救済した。二十八日丁未、大神宮および畿内・七道の名神に幣帛を奉り、雨を祈った。二十九日戊申、伊勢国(いせのくに)の飢饉を救済した。己酉の月末、大極殿で大般若経を転読させ、雨を祈り風害を防いだ。秋七月八日丁巳、雨が降り注いだ。十一日庚申、紫宸殿に出御し、群臣に宴を賜った。十二日辛酉、雨水があった。十三日壬戌、畿内の名神に幣帛を奉らせ、諸大寺および諸国の講師に修法を命じ、長雨による被害を防がせた。十七日丙寅、越前・出雲の飢饉を救済した。二十二日辛未、陸奥鎮守府(むつのちんじゅふ)に印を賜った。八月三日辛巳、冷然院に朝した。九日丁亥、先の太上天皇(嵯峨太上天皇)が嵯峨院(さがいん)に遷った。十二日庚寅、清涼殿(せいりょうでん)で内々の宴を催し、これを「芳宜華讌(ほうぎかのえん)」と称し、近習および近衛の将監にそれぞれ物を賜った。二十一日己亥、暴風雨があり、木が抜け家屋が壊れた。これを鎮めるため畿内の名神に幣帛を奉った。九月十一日戊午、大神宮に幣帛を奉った(注:九月の奉幣は元正天皇の養老五年に初めて見え、この年以後はしばしば絶えることなく記されている。恒例となったことがわかるので、これ以後は記さない)。冬十月二日己卯、佐渡国から慶雲が現れたとの報告があった。天皇は詔して、自らの不徳を省みつつも、去年は筑前国(ちくぜんのくに)に、今また佐渡国に慶雲が現れたことは、宗廟の霊験によるものであろうとし、この慶事をもって広く天下に恩恵を及ぼすことを告げた。十一日戊子、車駕は栗隈野(くりくまの)に行幸し、鷹狩りを行った。十一月十一日丁巳、左近衛将曹(さこんえのしょうそう)・佐伯宮成(さえきのみやなり)が白い烏(からす)を献上した。十二月五日辛巳、詔して令義解の施行を命じた。二十五日辛丑、雷が鳴った。
¶二年乙卯、春正月三日己酉、嵯峨院に先の太上天皇を拝謁した。十四日庚申、相模・上総・常陸・上野・下野などの国に勅して、貞元寺(じょうがんじ)・梵釈寺(ぼんしゃくじ)の書目に載る律論・疏章・紀伝・集鈔を分写させた。二十二日戊辰、新銭を鋳造した。この日、雷が鳴った。二十三日己巳、射場(いば)に出御した。二十八日甲戌、芹川野で遊猟を行った(注:元亨釈書には、この月摂津の摩尼山(まにさん)に行幸して如意尼(にょいに)に会ったとあるが、正史には見えないため、ここに付記するにとどめる)。二月二十一日丙申、紫宸殿に出御した。右大臣・清原夏野が芝草(しそう、めでたい印とされる茸)を献上し、侍臣に宴を賜った。二十七日壬寅、水生瀬野(みなせの)で遊猟を行った。三月二日丁未、地震があった。十四日己未、太宰府から、壱岐島(いきのしま)は海中に遠く隔たり地勢が狭いため、もし外敵が侵入すれば急な対応が難しいとして、土地の民三百三十人を徴発し常時要害を守らせたいとの申請があり、これを許可した。十六日辛酉、下総国(しもうさのくに)の飢饉を救済した。夏四月二日丙子、勅して、己の子女について、親王の号を除いて朝臣(あそん)の姓を賜り、先の太上天皇の広大な恩恵によって別の姓とせず源氏(げんじ)を称させることとした。すでに親王の号を得ている者はそのままとし、同母から後に生まれた子も同様の措置とする、弘仁五年・天長九年の二度の勅書に準じたものである、と布告した。三日丁丑、勅して十五の大寺に大般若経を転読させ、諸国の疫病を祓わせた。五日己卯、勅して天下に文殊会(もんじゅえ)を修めさせた(注:天長元年に文殊会が置かれ、四年にその会料が定められたとある。これはその廃れたものを再興したものであろう)。五月十一日乙卯、神泉苑(しんせんえん)で暑を避けた。六月癸卯の月末、勅して十五の大寺に大般若経を転読させ、豊作を祈らせた。また東海道・東山道の要津に船を増やし、旅人の便に供するよう勅した。この夏、伊勢・近江・越前・加賀・長門(ながと)で飢饉があり、これを救済した。秋七月二日乙巳、天下の名神に幣帛を奉り、風雨の災いを祓わせた。三日丙午、讃岐(さぬき)の正税穀をもって淡路(あわじ)の飢民を救済した。五日戊申、大神宮に幣帛を奉り、風雨の災いを防いだ。十四日丁巳、紫宸殿に出御し、正四位下・菅原清公(すがわらのきよきみ)に初めて後漢書(ごかんじょ)を侍読させた。二十日癸亥、民が近江で雲母(うんも)の珠を採ることを禁じた。八月甲戌朔、雨が晴れたことを喜び、畿内の名神に賽(さい、感謝の祭り)を行った。佐渡の飢饉と疫病を救済した。二十一日甲午、紫宸殿で宴を催した。二十六日己亥、太宰府が貢進した染綾(そめあや)を、参内した五位以上の者に賜った(注:天長七年七月・八年七月にも太宰府の染綾を賜ったとの記述があり、これによれば恒例であったと思われるが、今は詳らかにできない)。冬十月十三日甲申、箕津野(みつの)に行幸し鷹狩りを行った。二十三日甲午、新銭を嵯峨院・淳和院の両院に奉り、皇太子および参内した親王以下五位以上に賜った。二十六日丁酉、雷が鳴った。二十八日己亥、新銭四万を京城および平城(なら)の名だたる寺に施した。十一月七日戊申、勅して僧尼のみだりな行いを禁じた。十二月十五日乙酉、芹川野で遊猟を行った。二十日庚寅、能登(のと)の飢饉と疫病を救済した。二十二日壬辰、神泉苑に行幸し、隼(はやぶさ)を放った。
¶三年丙辰、春正月三日癸卯、嵯峨院に先の太上天皇を拝謁した。二十二日壬戌、神泉苑に行幸した。戊戌、神泉苑に行幸し隼を放った(注:この月に戊戌の日はなく、おそらく戊辰の誤りであろう。戊辰は二十八日にあたる)。二月十三日壬午、神泉苑に行幸し、鷂(はいたか)や隼を放った。二十日己丑、神泉苑に行幸し隼を放った。三月十一日庚戌、紫宸殿で宴を催した。十二日辛亥、地震があった。この春、伊勢・尾張・石見で飢饉が起こり、これを救済した。夏四月二十四日壬辰、天皇は紫宸殿に出御し、遣唐大使・藤原常嗣らに宴を賜った。五位以上の群臣に詩を作らせ、これを餞(はなむけ)とした。五月三日辛丑、神泉苑に行幸し、魚釣りをした。九日丁未、勅して、去年の冬に雷が鳴ったのは水害や疫病の兆しではないかと恐れるとし、東大寺(とうだいじ)の真言院に灌頂道場(かんじょうどうじょう)を建立して二十一人の僧を置き、夏安居(げあんご)の間と三長斎月(さんちょうさいがつ)に息災増益(そくさいぞうやく)の法を修めさせ、国家鎮護の恒例とするよう命じた。十八日丙辰、大風雨があり、木が折れ屋根が飛んだ。二十日戊午、大地震があった。閏月丁酉の月末、貴布禰・丹生川上などの社に幣帛を奉り、雨を祈った。六月戊戌朔、勅して、このところ雨が降らず日照りが十日余り続いているとして、東西の二寺と十三の大寺、畿内の諸寺に経王(きょうおう、経典)を転読させ、秋の実りの豊かならんことを祈らせた。六日癸卯、松尾・賀茂・住吉・垂水(たるみ)などの社に幣帛を奉り、雨を祈った。十三日庚戌、地震があった。二十一日戊午、紫宸殿で宴を催した。この夏、若狭(わかさ)・加賀・能登・伯耆(ほうき)・備中(びっちゅう)・薩摩(さつま)で飢饉が起こり、これを救済した。秋七月六日癸酉、白虹(はっこう)が東方に現れた。十四日辛巳、因幡(いなば)の飢饉を救済した。十五日壬午、勅して、時はまさに秋の実りの季節であり、もし風雨が不順であれば秋の収穫を損なうことを恐れるとし、五畿七道の諸国に名神へ幣帛を奉らせ、災いを未然に防がせた。国司の長官は僚属を率いて自ら斎戒し、神が実在するかのように祭りを行えば必ず霊験があると告げた。十六日癸未、諸国での疫病の流行を受け、畿内・七道の国司に大般若経を転読させ、名神に幣帛を奉らせた。二十一日戊子、大雷雨があり、朱雀大路(すざくおおじ)の柳の木に落雷した。この月、太宰府の駅使が、遣唐使船が暴風に遭って引き返したと奏上した。八月二十四日辛酉、八省院で大般若経を転読させ、疫病を防いだ。諸司は酢食(さくじき、精進の食事)をとった。九月十五日辛巳、遣唐使が入京した。冬十一月九日甲戌、不気味な雲が空を覆った。二十八日癸巳、因幡の女子が一度に四つ子を産んだ。正税三百束を賜った。十二月六日庚子、大神宮に幣帛を奉った。この日、勅して、先ごろ四天王寺(してんのうじ)に落雷があり塔廟が破壊されたことをおそらく凶兆であろうとし、東大寺・新薬師寺(しんやくしじ)・興福寺(こうふくじ)・元興寺(がんごうじ)・大安寺(だいあんじ)・四天王寺など十九の寺に大般若経を三日三晩転読させることとした。二十二日丙辰、神泉苑に行幸し隼を放った。
¶四年丁巳、春正月三日丁卯、嵯峨院に先の太上天皇を拝謁した。二月二十日癸丑、備前(びぜん)の飢饉を救済した。三月四日丁卯、彗星が東南に現れた。七日庚午、尾張(おわり)で河川が氾濫したため、課役(かやく)の三分の一を免除した。二十日癸未、美濃(みの)から、兵庫(ひょうご、武器庫)がひとりでに鳴ったとの報告があった。この月、遣唐使が出発した。和泉(いずみ)・淡路・美作(みまさか)で飢饉が起こり、これを救済した。夏四月十六日戊申、陸奥から、玉造(たまつくり)の塞(さい)にある温泉の石が雷のように鳴り震えたとの報告があった。五月七日己巳、都に近い諸寺で不正が絶えないと聞くとして、別当(べっとう)を置き、文武の官人のうち五位で明察・剛直な者にこれを正させることとした。二十一日癸未、伊予(いよ)の飢饉を救済した。六月六日丁酉、出羽(でわ)の最上郡(もがみぐん)に済苦院(さいくいん)を建てた。八日己亥、右大臣・清原夏野が左近衛大将を罷めた(注:公卿補任は七日とし、一本は四日とする)。十三日甲辰、内裏に虹が六度現れた。十六日丁未、勅して五畿内・七道の諸国に名神へ幣帛を奉らせ、あらかじめ風雨の災いを防がせた(注:類聚国史および日本紀略は己未の日とするが、いずれが正しいかは明らかでない)。十九日庚戌、地震があった。二十一日壬子、勅して、疫病がしばしば起こり苦しむ者が多いとして、五畿・七道の国分寺に七月八日から三日間、昼は金剛般若経を読ませ、夜は薬師悔過を修めさせ、その間は殺生を禁じることとした。二十二日癸丑、山城・大和・河内・摂津・近江・伊賀・丹波の七か国に使者を遣わし、鎮祭を行って邪気を祓わせた。二十三日甲寅、中納言・源常(みなもとのときわ)を左近衛大将とした。二十八日己未、備後(びんご)の飢饉を救済した。使者を山城・大和に遣わし、名だたる山に幣帛を奉って雨を祈った。秋七月十六日丁丑、地震があった。二十二日癸未、太宰府が早馬で、遣唐使が暴風に遭って引き返したと報告した。八月庚申の月末、陸奥の課丁(かちょう)三千二百余人の課役を五年間免除した。九月二日壬戌、地震があった。四日甲子、天皇が体調を崩した。中使(ちゅうし、勅使)を遣わし、七つの寺で読経させた。八日戊辰、式部少輔・良岑木連(よしみねのこつら)を八幡宮(はちまんぐう)に遣わし、幣帛を捧げて前もっての祈願への感謝を捧げさせた。二十九日己丑、病が癒えた。冬十月辛卯朔、長雨が続き穀物の価格が高騰したため、左右京亮(さきょうのすけ・うきょうのすけ)や右衛門(うえもん)・検非違使佐(けびいしのすけ)を殿前に召し、勅を宣べて遣わした(注:「右」の上にはおそらく「左」の字が脱けている)。東西両京の飢えや病に苦しむ百姓を調査し、これを救済した。七日丁酉、右大臣・清原夏野が薨じた。十一月八日戊辰、神泉苑に行幸し隼を放った。二十七日丁亥、再び神泉苑に行幸し隼を放った。十二月庚寅朔、日食があった。二日辛卯、夜に盗人が春興殿(しゅんこうでん)に入り絹を盗んだ。五日甲午の夜、女の盗人二人が清涼殿に入り、宿直の衛士が一人を捕らえた。十一日庚子、大風があった。庚子の夜、盗人が大蔵省(おおくらしょう)の東長殿(とうちょうでん)に入り、壁に穴をあけて絁布(あしぎぬ)を盗んだ(注:上に見える庚子はおそらく庚戌の誤りであろう。庚戌は二十一日にあたる)。二十二日辛亥、六衛府(ろくえふ)を遣わし、京中を大々的に捜索させた。
¶五年戊午、春正月三日壬戌、嵯峨院に先の太上天皇を拝謁した。十日己巳、大納言・藤原三守を右大臣とした。二月五日癸巳、射場に出御し、賭射(かけゆみ)を観覧した。九日丁酉、畿内の国司に群盗を取り締まらせた。十日戊戌、山陽道・南海道の国司に海賊を捕らえさせた。十二日庚子、水生瀬野で遊猟を行った。左右衛門府生(さゆうえもんのふしょう)や看督長(かどのおさ)らを畿内の諸国に分遣し、姦盗を追捕させた。夏四月二日己丑、勅して使者を大和に遣わし、富豪の資産を記録して困窮者に貸し与え、秋の収穫時に返済させることとした。五日壬辰、勅して五畿七道の諸国に、遣唐使の出発から帰朝までの間、海龍王経(かいりゅうおうきょう)を読ませることとした。七日甲午、去年は穀物が実らず疫病がしきりに起こったとして、天下の諸国に大般若経を七日間読ませ、殺生を禁じさせた。十三日庚子、筑前・筑後・肥前(ひぜん)・豊後(ぶんご)などが長年疫病に見舞われ、また造船の労役に疲れているとして、貧窮者には一年間の課役免除を与えた。十四日辛丑、太宰府管内諸国の飢饉を救済した。二十一日戊申、備前の飢饉を救済した。五月十八日甲戌、八省院で大般若経を五日間転読させ、天下の豊楽(ほうらく)を祈らせた。二十八日甲申、地震があった。六月二日戊子、また地震があった。二十六日壬子、清涼殿に出御し、大学助教(だいがくのじょきょう)・直道広公(なおみちのひろきみ)に群書治要(ぐんしょちよう)を読ませた。秋七月五日庚申、遣唐使が太宰府から出発した。十一日丙寅、葛野川(かどのがわ)に行幸して魚見をし、大和の飢饉を救済した。十七日壬申、諸国の名神に幣帛を頒ち、秋の実りを祈った。十八日癸酉、粉のような物が降り、雨が過ぎても消えず、降ったりやんだりした。二十日乙亥、東方で太鼓のような音がした。二十二日丁丑、大神宮に幣帛を奉り、秋の実りを祈った。二十五日庚辰、天変を受けて紫宸殿で仁王経を三日間読ませた。二十六日辛巳、山城の飢饉を救済した。二十九日甲申、大神宮に幣帛を奉り、豊年を祈った。八月十四日己亥、監物局(けんもつきょく)の柳の木に落雷し、一人の男が感電死した。十九日甲辰、貴布禰・丹生川上に馬を奉り、晴天を祈った。二十日乙巳、暴風雨があり、民家が壊れた。二十三日、備前で飢饉があった。二十八日癸丑、賀茂・松尾・乙訓(おとくに)・垂水・住吉などの名神に幣帛を奉り、晴天を祈った。九月八日癸亥、また貴布禰・丹生川上に馬を奉り、晴天を祈った。九日甲子、体調不良のため節会(せちえ)を停止したが、参内した親王・侍従以上には菊酒(きくざけ)を賜った。十日乙丑、七つの大寺で読経させ、病気平癒を祈った。七月から九月にかけて、河内・参河(みかわ)・遠江・駿河・伊豆・甲斐・武蔵・上総・美濃・飛騨・信濃・越前・加賀・越中・播磨・紀伊など十六か国が相次いで、灰のような物が天から降ったと報告した。冬十月四日戊子、左兵庫頭(さひょうごのかみ)・岡野王(おかののおおきみ)らを遣わし、神宝を大神宮に奉らせた。十三日丁酉、能書(のうしょ)の官人で五位以下の者四十人を冷然院に召し、金剛寿命陀羅尼経(こんごうじゅみょうだらにきょう)千巻を書写させた。十四日戊戌、白虹が西山の南北にわたって現れた。二十二日丙午、彗星が東南に現れた。十一月七日辛酉、畿内・七道に勅して、般若心経(はんにゃしんぎょう)を書写・供養させ、妖災を祓わせた。期間は三日とし、殺生を禁じた。二十七日辛巳、皇太子(道康親王(みちやすしんのう)、後の文徳天皇)が紫宸殿で元服の儀を行った。十二月十五日己亥、遣唐副使・弾正少弼・小野篁を隠岐(おき)に流した。
¶六年己未、春正月甲寅朔、皇妹・芳子内親王(ほうしないしんのう)の喪により、朝賀を廃した。二十三日丙子、彗星が西方に現れ、長さは一丈(いちじょう)ほどであった。閏月二日乙酉、嵯峨院に先の太上天皇を拝謁した。十六日己亥、美都野(みつの)に行幸した。十八日辛丑、水成瀬野(みなせの)で遊猟を行った。二十三日丙午、勅して、蓄えが十分にあるのは豊年によるものであり、多くの収穫は農事に励んだ結果であるとし、去年は勧農によって諸国が豊作となったが、今年は勧農を怠っているとして、諸道諸国に農桑(のうそう)を勧め課すよう命じた。また、諸国で疫病が流行し百姓が若くして命を落としていると聞くとして、天下の国分寺に七日間般若経を転読させ、あわせて僧医を遣わして道々で治療にあたらせ、郷や邑では季節ごとに疫神(えきじん)を敬い祭らせることとした。二月十三日乙丑、神泉苑に行幸し、皇太子もこれに従った。右近衛の馬埒(めれつ、馬場)に至り、先駆の近衛らに御馬を試乗させた。十五日丁卯、東西両寺に般若心経を講読させ、彗星の出現を祓わせた。三月四日乙酉、陸奥の窮民三万余人の課役を三年間免除した。相模・武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野の七か国に勅して大蔵経を書写させた。十六日丁酉、遣唐使の知乗船事(ちじょうせんじ)・伴有仁(とものありひと)、暦の請益生(しょうやくしょう)・刀岐雄貞(ときのおさだ)、暦の留学生・佐伯安道(さえきのやすみち)、天文の留学生・志斐永世(しいのながよ)らを佐渡に流した。二十九日庚戌、貴布禰・雨師(うし)の二神に幣帛を奉り、雨を祈った。夏四月二日癸丑、使者を伊勢に遣わし、名張山(なばりやま)中で私鋳銭(しちゅうせん)を行っていた群盗を捜索させた。七日戊午、地震があった。美濃の恵那郡(えなぐん)の飢饉を救済した。十日辛酉、丹生の雨師神に雨を祈った。十七日戊辰、天皇が体調を崩した。都下の七つの寺で読経させ、勅して松尾・賀茂などの諸社に幣帛を頒った。また七日間、十五の大寺で仁王経を読ませ、雨を祈らせた。二十日辛未、七道の国司に勅して名神に幣帛を奠(そな)えさせ、雨乞いをさせた。二十一日壬申、使者を遣わし、大神宮および山城の宇治(うじ)・綴喜(つづき)、大和の石成(いわなり)・須知(すち)などの社に幣帛を奉って雨を祈った。二十五日丙子、参議・安倍安仁(あべのやすひと)、中務大輔(なかつかさのたいふ)・紀名虎(きのなとら)らを神功皇后(じんぐうこうごう)の山陵に遣わし、陵の木を伐ったことを謝罪させた。二十六日丁丑、陸奥から、客星(かくせい、彗星や新星の類)が現れ地震があったとして、多賀城(たがじょう)の戍兵(じゅへい)を千人増やし、警戒に備えたいとの申請があり、これに従った。二十七日戊寅、八省院で大般若経を転読させ、雨を祈らせた。諸司は三日間酢食をとった。夕方になって雨が降った。五月十二日壬辰、河内から橘(たちばな)の木が献上された。高さわずか二寸余りであったが花をつけていた。六月庚戌朔、使者を丹生・貴布禰の二社に遣わした。四日癸丑、諸寺に勅して三日三晩経を読み悔過を行わせ、雨を祈らせた。六日乙卯、東西京の市人(いちびと)に朱雀大路で雨乞いの踊りをさせた。十五日甲子、東寺(とうじ)で諸仏像の慶讃(けいさん)を行った。二十八日丁丑の夜、紫宸殿の上に赤い気が現れ、光は松明(たいまつ)のようであったが、しばらくして消えた。秋七月五日甲申、紫宸殿・常寧殿で大般若経を転読させ、怪異を祓った。八日丁亥、地震があった。二十日庚子、畿内の国司にそばの栽培を勧めさせた。八月庚戌の朝、先の太上天皇(嵯峨太上天皇)が体調を崩した。天皇は嵯峨院に赴いて拝謁した。この日、諸国に勅して文殊会を再興させた。四日癸丑、また嵯峨院に赴き、延暦寺(えんりゃくじ)で読経させ、先の太上天皇の病の平癒を祈った。この日、丹生・貴布禰の二社に晴天を祈った。七日丙辰、内外の諸国に勅して神祇に幣帛を奉らせ、秋の実りを祈らせた。九月十六日甲午、持節大使・藤原常嗣が唐から帰国した。二十一日己亥、勅して諸国国分寺の最勝王経会(さいしょうおうきょうえ)における吉祥悔過(きちじょうけか)を停止し、代わって国庁でこれを修め、恒例とすることとした。冬十月己酉朔、越前から慶雲が現れたとの報告があった。八日丙辰、重ねて麦の若芽を馬に食べさせることを禁じた。十三日辛酉、唐からの信物(しんもつ、贈答品)を大神宮に奉った。十一月二日庚辰、大神宮に幣帛を奉った。五日癸未、斎宮(さいぐう)が火災に遭い、官舎百余棟を焼いた。十二月二日庚戌、参議・文室秋津(ふんやのあきつ)を遣わし、大神宮に幣帛を奉って斎宮の火災を告げさせた。八日丙辰、公卿が慶雲を祝賀した。天皇は勅して、天の恵みはまことに神の力によるものであり、徳を持つ者に必ずめでたいしるしが現れるものだが、自らの不徳を思えばこの慶雲を招くに値しないとし、古人の「祥(しるし)を見ては戒めを増す」という言葉を引いて、群臣に忠誠を尽くして自らの至らぬところを補うよう求めた。十三日辛酉、使者を分遣し、唐からの信物を後田原(のちのたわら)・八嶋(やしま)・楊梅(やまもも)・柏原(かしわばら)などの山陵に奉らせた。十七日乙丑、水成瀬野で遊猟を行った。二十二日庚午、唐からの信物を長岡(ながおか)の山陵に奉った。
¶七年庚申、春正月十一日戊子、天皇が体調を崩した。十三日庚寅、地震があった。二十日丁酉、体調不良のため内宴(ないえん)を停止した。二月二日己酉、嵯峨院に先の太上天皇を拝謁した。十二日己未、京中に盗賊が多いことから、六衛府に夜警を行わせた。十四日辛酉、流人の小野篁を召し還した。十六日癸亥、流人の伴有仁・刀伎雄貞(注:「刀伎雄貞」は前出の「刀岐雄貞」と同一人物と思われるが、原文の表記がそれぞれ異なるため、ここではそのまま記す)を召し還した。二十三日庚午、勅して、悪事を働く賊が夜中に放火したり白昼に物を奪ったりしていると聞き、深く憂慮しているとして、左右京職(さきょうしき・うきょうしき)、五畿・七道の諸国に厳しく取り締まらせ、街々を捜索して捕えた者を速やかに差し出すよう命じた。二十四日辛未、勅して京中の高齢者や飢えと病に苦しむ者を救済させた。二十六日癸酉、勅して、国家の隆盛は民を富ませることにあり、倉が満ちるのは豊作によるものであるとし、去年は日照りで穀物が実らず百姓が飢え国用も不足したが、これは天災であるとはいえ、民が農事を怠っている恐れもあるとして、五畿内の諸国に農事に励むよう戒め、時に応じて勧め怠らぬようにさせた。三月六日壬午、六衛府を分遣し、京中の窃盗を捜索させた。十九日乙未、勅して、近頃風俗が乱れ弊害が続いているとして、女性の衣服のうち夏の表の薄絹、冬の下裳(したも)を、身分の上下を問わず一切禁止し、一枚の裳の上に重ね着することを禁じ、倹約に努めさせることとした。夏四月丙午朔、日食があった。八日癸丑、清涼殿で灌仏(かんぶつ)の儀を行った。灌仏の儀はこれに始まる。二十二日丁卯、改正した格式(きゃくしき)を頒布し施行した。二十三日戊辰、勅して、神を敬うことは神がそこに在すがごとくにし、民を見ることは我が子のごとくにするのが、国司たる者の古来からの心得であるとし、しばしば法令を発してその治績を見てきたが、官吏の統治は公平を欠き、民は疫病に苦しみ穀物も実らず飢饉が相次いでいるとして、その政治の実情に照らせば懲戒すべきであると述べ、五畿内・七道の諸国司に、これまでの怠慢を改め、今後は職務に励むよう命じた。管内を巡行して神社を修造させ、禰宜(ねぎ)や祝(はふり)に怠りがあれば格式に従って処罰させることとした。二十五日庚午、松尾・賀茂・乙訓・貴布禰・丹生川上・雨師・垂水などの社に幣帛を奉り、雨を祈り風害を防いだ。五月二日丁丑、但馬(たじま)から、養父(やぶ)・気多(けた)の両郡で武器庫の太鼓がひとりでに鳴り、その音は数里先まで聞こえたとの報告があった。この日、五畿・七道の諸国に、キビ・アワ・ヒエ・ムギ・大豆・小豆・ゴマを植えさせるよう勅した。五日庚辰、後の太上天皇(淳和太上天皇)が体調を崩したため、節会を停止した。八日癸未、後の太上天皇が崩じた。十三日戊子、淳和天皇を葬った。十七日壬辰、公卿が奏して、喪服を通常の服に改めて朝政に臨むよう請うた。十九日甲午、詔して、天が淳和太上天皇を奪い去られたことを深く悲しみ、喪に服す礼を尽くしたいが、「日をもって月に代える」慣例と、葬儀が終われば喪服を脱ぐようにとの遺訓があることから、群臣の議に従い、悲しみを抑えて権(かり)の措置に従うことを天下に告げた。二十日乙未、都の民の飢えと病を受けて、米と銭を支給した。二十三日戊戌、天皇は喪服を脱いで朝政に復した。二十五日庚子、摂津の飢饉を救済した。六月五日己酉、宮中に怪異があった。占うと、柏原山陵の祟りであるとの結果が出た。そこで中納言・藤原愛発(ふじわらのちかなり)らを遣わして陵に謝罪させた。七日辛亥、宮中に百の高座(こうざ)を設けて仁王経を講じ、内外の妖異を祓った。九日癸丑、貴布禰・丹生川上・雨師の諸社に雨を祈った。十三日丁巳、去年の秋の実りが乏しく、この頃また疫病がしばしば起こっているとして、五畿内に七日間、昼は大般若経を転読し、夜は薬師悔過を修めさせ、殺生を禁じさせた。十四日戊午、また十五の大寺で読経と悔過を行わせた。十五日己未、大神宮および賀茂・松尾などの社に幣帛を奉った。また諸国に神祇へ幣帛を奉らせ、雨を祈らせた。十六日庚申、詔して、賢明な君主は世を治めるにあたって己を慎んで人々に接し、聖なる王は民の暮らしに心を配って万物を救うものであるとし、羲(ふっき)・農(しんのう)や鄖(うん)・華(か)の古の聖王たちがひとしく民の養育に努めたことを引き、自らも天命を受けて重責を担いながら日々慎み、贅沢を楽しまず民を思って心を痛めているとし、しかし政治や教化が行き届かず、去年は陰陽が乱れて秋の実りが乏しく、この頃は日照りが十日以上続いて農作物が損なわれ、諸国で飢饉と疫病が起きていると聞くとして、これはひとえに自らの不徳によるものであり、百姓に罪はないと述べた。そして、古の聖王が徳をもって邪気を除いたことを鑑み、自らの服飾や食膳を減らし、左右馬寮(めりょう)の馬の飼料をすべて止め、急務でない労役を状況に応じて停止し、獄中に冤罪の者がいないか速やかに調べて放免するよう命じた。また天下の諸国で水利のある土地では、貧しい者から順に灌漑をさせ、身寄りのない者や困窮者には手厚く救済を加え、病に臥せって看病する者もなく命を落とす者が多いことについては、国司や郡司は民の父母たるべき立場でありながらこれを顧みないのは民を子として育てる道に反するとして、穀物や薬を配って命をつなげるようにさせた。あわせて、五畿内・七道の諸国で承和二年以前に未進のままとなっている調庸(ちょうよう)はすべて免除し、東海道・東山道・山陽道三道の駅戸(えきこ)の田租については三年間に限り特に免除することとした。十八日壬戌、大雨が降った。二十二日丙寅、公卿が五位以上の封禄(ふうろく)を減らすよう奏請したが、聞き入れられなかった。二十八日壬申、公卿が重ねて奏請し、これを受けて三位以上の食封(じきふ)を四分の一減らすことを許す勅が下された。二十九日癸酉、五畿内・七道の諸国に、名神へ幣帛を奉り風雨の災いを防がせるよう勅した。秋七月五日戊寅、大神宮に幣帛を奉り、豊年を祈った。七日庚辰、右大臣兼皇太子傅・藤原三守が薨じた。十日癸未、諒闇(りょうあん、天皇の喪)により、五畿・七道の諸国に釈奠(せきてん)を停止させた。二十一日甲午、紫宸殿に出御し、初めて万機(ばんき、政務)をご覧になった。八月八日辛亥、大納言・源常を右大臣とした。二十二日乙丑、右大臣・源常が皇太子傅を兼ねた。九月九日辛巳、諒闇により重陽の節(ちょうようのせち)を停止した。二十一日癸巳、太宰府から、肥後(ひご)の阿蘇郡(あそぐん)の神霊池(しんれいいけ)の水が四十丈にわたって涸れたとの報告があった。冬十月二日甲辰、日食があった。四日丙午、日照りにより皇太子の膳を四分の一減らした。十二日甲寅、地震があった。二十一日癸亥、体調不良のため京師の七つの寺で読経させた。二十六日戊辰、西方で太鼓のような音がした。十二月二十七日己巳、太宰府から、新羅(しらぎ)の張宝高(ちょうほうこう)が私的に使者を遣わして方物(ほうぶつ、地方産物)を献上したとの報告があったが、これを退けた。