卷之一百 列傳第二十七
皇女一
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
この巻の目次24
【孝靈】三女
¶唐の歴史書には次のような言葉がある。「女性は嫁いで夫の家に入る身であるから、たとえ天子の姫という高貴な身分であっても、史官はなお疎遠な立場にあり、その事跡を詳しく記すことができない。それゆえ女性の行いが後世に伝わることが少ないのも、無理からぬことである」と。
¶わが朝は神祇を敬い、祭祀を大切にしてきた。倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢の大神宮に仕えて以来、智子内親王(ちしないしんのう)が賀茂の斎院となるまで、代々この慣わしは受け継がれ、斎宮・斎院に卜定される皇女を選ぶ儀礼はきわめて重んじられた。皇女が諸王や公卿に嫁ぐ場合も、その人選は重視された。また後宮の制度は古来の慣行を受け継いでおり、天皇の政務を助けて母のように天下を治めた功により「母儀」と讃えられた皇女もいれば、幼い天皇を養育し、その恩と礼遇によって准母として院号を賜った皇女もいた。さらに、正式な配偶者ではないのに皇后と称された者、皇子に准じて姓を賜った者、髪を剃って尼となった者もあり、いずれも外国の史書の例に当てはめて論じることはできない。今、諸書に残された記録を拾い集め、ことごとくこの列伝に載せる。その品行の善し悪しや、操守の有無についても、おのずと窺い知ることができよう。よって皇女伝を作る。
【孝元】一女
【開化】一女
¶倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)は、妃・倭国香姫(やまとくにかひめ)の生んだ皇女である。生まれつき聡明で物事をよく理解した。崇神天皇十年、天皇は四道に将軍たちを分遣し、教化に従わない者を討たせた。大彦命(おおひこのみこと)は勅命を受けて北陸に赴く途中、和珥坂(わにさか)に至ったとき、一人の少女が次のような歌を謡うのに出会った。
¶「御間城入彦(みまきいりびこ)はや(瀰磨紀異利寐胡播椰)、己が命を弑せむと(飫迺餓烏塢志齊務苫)、竊まく知らに(農殊末句志羅珥)、姫遊すも(比賣那素寐殊望)」
¶(注:『日本書紀』本文の注によれば、一説にはこうも歌われたという。「大き戸より(於朋耆妬庸利)、窺ひて(于介伽卑氐)、弑さむと(許呂佐務苫)、すらくを知らに(須羅句塢志羅珥)、姫遊すも(比賣那素寐殊望)」)
¶大彦命はこの歌の言葉を不審に思い、少女に近寄って尋ねたが、少女は答えず、同じ歌を繰り返すばかりであった。歌い終えると少女は忽然と姿を消した。大彦命は都に戻ってこの出来事を天皇に奏上した。百襲姫はその歌意を解き明かして言った。「これは武埴安彦(たけはにやすひこ)が謀反を企てている徴(しるし)です。私が聞くところでは、武埴安彦の妻・吾田媛(あたひめ)がひそかに倭香山(やまとのかぐやま)に登り、その土を取って『これは倭国そのものである』と祝(ことほ)ぎ、これを領巾(ひれ)に包んで持ち去ったといいます。これによって謀反の企てがあることが分かるのです。早く手を打たなければ、手遅れになるでしょう」と。果たしてほどなくして武埴安彦は反乱を起こした。百襲姫の機知と洞察力はこれほどのものであった。
¶百襲姫にはひそかに情を通じる相手があり、その人は夜ごとに通ってきた。姫は「あなたは昼にはいらっしゃらないので、そのお姿をはっきりと見ることができません。どうかもう少し留まって、朝までいてください」と言った。相手はこれを承知し、「私はあなたの櫛笥(くしげ、櫛箱)の中に入っていよう。驚き怪しんではならない」と告げた。姫は不思議に思いながらも、翌朝櫛笥を開けてみると、そこには小さな蛇がいた。その姿は美しく、長さは衣の紐ほどであった。姫は驚いて叫び声をあげた。すると蛇はたちまち人の姿に変じて、「お前は少しも我慢できず、私に恥をかかせた。今度は私がお前に恥をかかせよう」と言い、空を翔けて御諸山(みもろやま)へと昇っていった。姫は我に返って悔い、思わずどすんと座り込んだところ、たまたまそこにあった箸が体を傷つけ、それがもとで亡くなった。大市(おおいち)に葬られ、当時の人々はその墓を箸墓(はしはか)と呼んだ。姫と交わっていたのは、大物主神(おおものぬしのかみ)であったという(注:『日本書紀』による)。
【崇神】五女
¶倭迹迹稚屋姫(やまとととわかやひめ)は、倭迹迹日百襲姫と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。
【垂仁】五女
¶千千速媛(ちちはやひめ)は、春日千千速真若媛(かすがのちちはやまわかひめ)が生んだ皇女である(注:『古事記』による)。
【景行】八女
¶倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)は、鬱色謎皇后(うつしこめのこうごう)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
【應神】十五女
【仁德】一女
【履中】二女
¶国方姫命(くにかたひめのみこと)は、御間城姫皇后(みまきひめのこうごう)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
【反正】三女
¶千千衝倭姫命(ちぢつくやまとひめのみこと)は、国方姫命と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。
【允恭】四女
¶豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)は、妃・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)が生んだ皇女である。これより先、代々天照大神(あまてらすおおみかみ)と大国魂神(おおくにたまのかみ)の二神を宮中に祀ってきたが、天皇六年に至り、その神威を畏れて、豊鍬入姫に命じて天照大神を倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に遷し、これを祭らせることとした。そこに磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を立てた(注:『日本書紀』による)。
【雄略】二女
¶渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)は、妃・尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)が生んだ皇女である。天皇六年、倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を祭るよう命じられたが、髪が抜け落ち体も痩せ衰えて、その祭祀を務めることができなかった(注:『日本書紀』による。同書「垂仁紀」の一説には、垂仁天皇二十六年丁巳(ひのとみ)、渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)に倭大神を祭らせたが、身体が痩せ弱って祭事に堪えられなかったとある)。
【仁賢】七女
¶十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)は、渟名城入姫命と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。
【繼體】十二女
【宣化】三女
¶大中姫命(おおなかつひめのみこと)は、日葉酢媛皇后(ひばすひめのこうごう)が生んだ皇女である。天皇三十九年、同母兄の五十瓊敷命(いにしきのみこと)に命じて石上神宮(いそのかみじんぐう)の神宝を管掌させた。八十七年に至り、五十瓊敷命は大中姫命に「私は年老いて、もはや神宝を管掌することができない。今後はお前がこれを掌るがよい」と言った。大中姫命は「女子は非力で弱く、どうして天の神庫(ほくら)に登ることができましょうか」と辞退した。五十瓊敷命は「神庫は高いといっても、私が梯子を作ってやろう。何の難しいことがあろうか」と答えた。そこで大中姫命は物部十千根(もののべのとおちね)にこれを司らせた。それゆえ物部連(もののべのむらじ)らは、今日に至るまで石上神宮の神宝を管掌しているのである(注:『日本書紀』による)。
【欽明】九女
¶倭姫命(やまとひめのみこと)は、大中姫命と同母の妹である(注:『古語拾遺』には狭穂皇后(さほのこうごう)が生んだとあるが、『日本書紀』本文および『古事記』の記述と一致せず、誤りであろう)。天皇二十五年三月、倭姫命に命じて豊鍬入姫命に代わって改めて天照大神を祭らせた。倭姫命は大神を鎮座させる地を求めて、菟田(うだ)の筱幡(ささはた)に赴き、近江(おうみ)に入り、東へ回って美濃(みの)を経て、伊勢(いせ)に至った。このとき天照大神は「この神風の吹く伊勢国は、常世(とこよ)の波が幾重にも寄せくる国であり、傍らの国々にもまして麗しい国である。この国に居ようと思う」と教え諭した。そこで倭姫命は神の教えに従い、伊勢に祠を建てた。こうして五十鈴川(いすずがわ)のほとりに斎宮(いつきのみや)を興し、これを磯宮(いそのみや)と称した(注:『日本書紀』の一説によれば、天皇は倭姫命を御杖代(みつえしろ)として天照大神に献上し、倭姫命は磯城(しき)の厳橿(いつかし)の本にこれを祭った。翌年十月、神の教えによって伊勢の渡遇宮(わたらいのみや)に遷したという)。景行天皇四十年十月、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征に赴く際、伊勢に至って神を拝し、倭姫命に別れを告げた。倭姫命は草薙剣(くさなぎのつるぎ)を取って授けた。蝦夷(えみし)を平定した後、日本武尊は捕虜を神宮に献上した。しばらくして、この東国の捕虜たちが騒ぎを起こし、出入りに無礼が多かった。倭姫命は「蝦夷を神宮に近づけてはなりません」と奏上し、これによって彼らを御諸山(みもろやま)に移した(注:『日本書紀』による)。
【敏達】十女
¶胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)は、妃・渟葉田瓊入姫(ぬばたにいりひめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
【用明】一女
¶稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)は、妃・葪瓊入姫(あざみにいりひめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。稲瀬毗古王(いなせびこのおう)に嫁いだ(注:『古事記』による)。
【祟峻】一女
¶両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)は、またの名を石衝比売(いわつくひめ)という。宮人(みやひと)の弟苅幡戸辺(おとかりはたとべ)が生んだ皇女である(注:『古事記』による)。日本武尊の妃となり、稲依別王(いなよりわけのおう)、仲哀天皇、布忍入姫命(ぬのしいりひめのみこと)、稚武王(わかたけのおう)を生んだ。仲哀天皇の即位に際し、尊んで皇太后と称された(注:『日本書紀』による)。
【舒明】一女
【天智】十女
¶渟熨斗皇女(ぬなのしのひめみこ)。
【天武】七女
¶渟名城皇女(ぬなきのひめみこ)。
¶五百城入姫皇女(いおきいりひめのひめみこ)。
¶麛依姫皇女(かごよりひめのひめみこ)。
¶高城入姫皇女(たかきいりひめのひめみこ)。
¶弟姫皇女(おとひめのひめみこ)。以上の皇女たちは、いずれも八坂入媛皇后(やさかいりひめのこうごう)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶五百野皇女(いおののひめみこ)は、妃・水歯郎媛(みずはのいらつめ)が生んだ皇女である。天皇二十年二月、伊勢に遣わされ、天照大神を祭った(注:『日本書紀』による)。
¶銀王(しろかねのおう)は、母の素性は伝わっていない。大枝王(おおえのおう)の妃となった(注:『古事記』による)。
¶天武天皇には二十六人の皇女があり、そのうち二十五人はいずれも州県に封じられたが(注:『旧事紀』による)、史書に名が残っているのは八人だけである。
¶荒田皇女(あらたのひめみこ)は(注:『古事記』には木之荒田皇女(きのあらたのひめみこ)とある)、仲姫皇后(なかつひめのこうごう)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶大原皇女(おおはらのひめみこ)は、妃・高城入姫(たかきいりひめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による。ただし『旧事紀』天孫紀を按ずるに、弟姫(おとひめ)が生んだ皇女とする)。
¶澇来田皇女(ろうくたのひめみこ)は、大原皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による。ただし『古事記』を按ずるに、高城入姫が生んだ皇女には高目郎女(たかもくのいらつめ)があり、澇来田皇女の名は見えない)。
¶阿倍皇女(あべのひめみこ)は、妃・弟姫(おとひめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ)は、阿倍皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。根鳥皇子(ねとりのみこ)の妃となった(注:『古事記』による)。
¶紀菟野皇女(きのうののひめみこ)は、阿倍皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。
¶三野郎女(みののいらつめ)は、阿倍皇女と同母の妹である(注:『古事記』による。ただし『旧事紀』天孫紀を按ずるに、弟姫が生んだ皇女には滋原皇女(しげはらのひめみこ)があり、三野郎女の名は見えない)。
¶八田皇女(やたのひめみこ)は(注:「八」はある本では「矢」に作る)、妃・宮主宅媛(みやぬしのやかひめ)が生んだ皇女である。仁徳天皇の皇后となった(注:『日本書紀』による)。
¶雌鳥皇女(めどりのひめみこ)は、八田皇女と同母の妹である。仁徳天皇四十年、隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)と密通し、それが発覚すると、二人はそろって伊勢へ逃れた。天皇は品遅部雄鯽(ほむじべのおふな)と佐伯阿俄能胡(さえきのあがのこ)に命じて追わせ、これを誅殺させた。このとき皇后(八田皇女)は天皇に「雌鳥皇女は確かに重罪に当たりますが、刑を行う日には、どうかその体をさらさないようにしてください」と願い出た。天皇はこれを許し、雄鯽らに「皇女が身に着けている足珠(あしだま)・手珠(たまだま)は取り上げてはならない」と戒めた。ところが皇女を殺害した際、阿俄能胡はその珠を裳(も)の中から取ってしまった。追討から戻ると、皇后は雄鯽らに「皇女の珠を見なかったか」と尋ねたが、彼らは「見ませんでした」と答えた。その年の新嘗祭(にいなめさい)の宴で、内外の命婦(みょうぶ)に酒が賜られた。近江山君稚守(おうみのやまのきみわかもり)の妻と、采女(うねめ)の磐坂媛(いわさかひめ)は、その手に見事な珠を纏っていた。皇后はこれを怪しみ(注:『古事記』ではこれを太后(おおきさき)石之日売(いわのひめ)のこととする。しかし仁徳天皇三十五年六月に石之日売は崩じ、三十八年に八田皇女が皇后となっているから、『古事記』の記述は誤りであろう)、役人に命じてその珠の出所を問わせた。すると「阿俄能胡の妻の珠です」と答えた。阿俄能胡はこの罪により死罪に処せられるところであったが、自分の領地を献上して罪を贖い、赦された。これによってその地を玉代(たましろ)と名づけたという(注:『日本書紀』による。『古事記』には、将軍山部大楯連(やまべのおおたてのむらじ)が女鳥王(めどりのみこ)の手に纏われていた玉纓(たまたすき)を取って自分の妻に与えたために死罪を賜ったとあり、この話とは少し異なる)。
¶菟道稚郎姫皇女(うじのわかいらつめのひめみこ)は、妃・小甂媛(このしろひめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。仁徳天皇の宮に入った(注:『古事記』による)。
¶幡日若郎女(はたひのわかいらつめ)は、妃・日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)が生んだ皇女である(注:『古事記』による)。
¶川原田郎女(かわらだのいらつめ)。
¶玉郎女(たまのいらつめ)。
¶忍坂大中比売(おさかのおおなかつひめ)。
¶登富志郎女(とほしのいらつめ)。川原田郎女からここまでの四人は、いずれも宮人(みやひと)の迦其漏媛(かごろひめ)が生んだ皇女である(注:『古事記』による)。
¶【仁德】一女 草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)は、妃・日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)が生んだ皇女である。履中天皇の皇后となった(注:『日本書紀』による)。
¶中蒂皇女(なかしのひめみこ)は、幡梭皇后(はたびのこうごう)が生んだ皇女である。安康天皇の皇后となった(注:『日本書紀』による)。
¶青海皇女(あおみのひめみこ)は、またの名を飯豊皇女(いいとよのひめみこ)という(注:『顕宗紀』を按ずるに顕宗天皇の姉とし、『古事記』では顕宗天皇の伯母(おば)とする)。妃・葦田黒媛(あしだのくろひめ)が生んだ皇女である。忍海(おしぬみ)の角刺宮(つのさしのみや)に住んでいた。清寧天皇が崩じたのち、仁賢天皇と顕宗天皇が互いに皇位を譲り合い、久しく皇位が定まらなかった。そこで皇女が朝政に臨んで政務を執り行い、自ら忍海飯豊青尊(おしぬみのいいとよのあおのみこと)と称した。そのとき、次のような歌を詠んだ。
¶「大和辺(やまとへ)に(野麻登陛儞)、見が欲し物は(瀰我保指母能婆)、忍海の(於戶農瀰能)、此の高城(たかき)なる(莒能柂架紀儺屢)、角刺宮(都努婆之能瀰野)」
¶その年の冬、皇女は崩じ、葛城(かつらぎ)の埴日丘陵(はにひのおかのみささぎ)に葬られた(注:『延喜式』には埴口墓(はにくちのはか)とある。『水鏡』『歴代皇紀』を按ずるに飯豊天皇と称しているが、『神皇正統記』には正統に系(つな)がらないと記されている)。かつて皇女は、一度男女の交わりを持った際に、「私はすでに男女の道を知った。生涯二度と男に近づくまい」と言ったという(注:『日本書紀』による)。
¶香火姫皇女(かひのひめみこ)は、皇夫人(こうぶにん)津野媛(つのひめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶円皇女(つぶらのひめみこ)は、香火姫皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。
¶財皇女(たからのひめみこ)は、夫人(ぶにん)弟媛(おとひめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶名形大娘皇女(なかたのおおいらつめのひめみこ)は、忍坂大中姫皇后(おさかのおおなかつひめのこうごう)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)は、容姿が艶やかで美しく、同母兄の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と密通した。事が発覚すると、皇女は伊予(いよ)に流された(注:『日本書紀』による)。
¶但馬橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ)。
¶酒見皇女(さかみのひめみこ)。軽大娘皇女以下の皇女たちは、いずれも名形大娘皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。
¶稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)は、またの名を栲幡娘姫(たくはたのいらつめ)という(注:『斎宮記』には、またの名を白髪内親王(しらがのないしんのう)というとあるが、この当時はまだ「内親王」の称号はなかったはずであるから、ここでは採らない)。妃・葛城韓媛(かつらぎのからひめ)が生んだ皇女である。伊勢の大神宮に仕えた。雄略天皇三年四月、阿閉国見(あべのくにみ)(注:またの名を磯特牛(しことい)という)が、皇女が湯人(ゆえ、養育係)の廬城部武彦(いおきべのたけひこ)と密通して身ごもったと偽って告げた。武彦の父・枳筥喩(きこゆ)は禍が及ぶことを恐れ、武彦を殺した。天皇は使者を遣わして事の真偽を調べさせたが、皇女はあえて自ら潔白を明かそうとせず、ひそかに五十鈴川(いすずがわ)のほとりに至り、神鏡を埋めて首を吊って死んだ。その夜、川のほとりに蛇のような気配が現れ、長さは四、五丈もあった。その場所を掘ってみると神鏡が見つかり、そのかたわらに皇女の遺骸も見つかった。その腹を割いて見ると、氷のようなものがあり、その中に石があった。これによって皇女の無実が明らかになった(注:『日本書紀』による)。
¶春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)は、妃・童女君(おみなのきみ)が生んだ皇女である。仁賢天皇の皇后となった(注:『日本書紀』による)。
¶高橋大娘皇女(たかはしのおおいらつめのひめみこ)は(注:『古事記』では高木郎女(たかきのいらつめ)とする)、春日大娘皇后(かすがのおおいらつめのこうごう)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)(注:『古事記』を按ずるに財郎女(たからのいらつめ)に作る)。
¶手白香皇女(たしらかのひめみこ)は、継体天皇の皇后となった(注:『日本書紀』による)。
¶樟冰皇女(くすひのひめみこ)(注:『日本書紀』による。ただし同書の一説を按ずるに、樟冰皇女を第三皇女、手白香皇女を第四皇女とする。『古事記』も同様である)。
¶橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)。宣化天皇の皇后となった(注:『日本書紀』による)。
¶真稚皇女(まわかのひめみこ)。朝嬬皇女以下ここまでの皇女たちは、いずれも高橋大娘皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。
¶春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)は、宮人(みやひと)糠君娘(ぬかのきみのいらつめ)が生んだ皇女である。安閑天皇の皇后となった(注:『日本書紀』による)。
¶出雲皇女(いずものひめみこ)は、妃・稚子媛(わくごひめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶神前皇女(かむさきのひめみこ)は、妃・広媛(ひろひめ)が生んだ皇女である。薨じた際、安閑天皇陵に合葬された(注:『日本書紀』による。ただし、皇女が天皇陵に合葬された理由は詳らかでない)。
¶茨田皇女(まむたのひめみこ)。
¶馬来田皇女(うまくたのひめみこ)。茨田皇女とともに、神前皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。
¶荳角皇女(ささげのひめみこ)は、妃・麻績娘子(おみのいらつめ)が生んだ皇女である。伊勢の大神宮に仕えた(注:『日本書紀』による)。
¶茨田大娘皇女(まむたのおおいらつめのひめみこ)は、妃・関媛(せきひめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)。
¶小野稚郎皇女(おののわかいらつめのひめみこ)は、またの名を長石姫(ながいしひめ)という。白坂活日姫皇女とともに、茨田大娘皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による。ただし『古事記』では野郎女(ののいらつめ)とし、またの名を長目比売(ながめひめ)とする。『古事記』はまた、神前皇女・茨田皇女・白坂活日子郎女(しらさかのいくひこのいらつめ)を坂田黒比売(さかたのくろひめ)が生んだ皇女とする)。
¶大娘子皇女(おおいらつめのひめみこ)は、妃・倭媛(やまとひめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶赤姫皇女(あかひめのひめみこ)は、大娘子皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。
¶稚綾姫皇女(わかあやひめのひめみこ)は、妃・夷媛(えびすひめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶円娘皇女(つぶらのいらつめのひめみこ)は、稚綾姫皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。
¶石姫皇女(いしひめのひめみこ)は、橘仲皇后(たちばなのなかつひめのこうごう)が生んだ皇女である。欽明天皇の皇后となった(注:『日本書紀』による)。
¶小石姫皇女(おいしひめのひめみこ)。
¶倉稚綾姫皇女(くらのわかあやひめのひめみこ)(注:『古事記』には倉之若江王(くらのわかえのおう)に作る)。この三人の皇女は、いずれも石姫皇女と同母の妹である。倉稚綾姫皇女は欽明天皇の宮に入った(注:『日本書紀』による)。
¶笠縫皇女(かさぬいのひめみこ)は、またの名を狭田毛皇女(さたけのひめみこ)という。石姫皇后(いしひめのこうごう)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶磐隈皇女(いわくまのひめみこ)は、またの名を夢皇女(いめのひめみこ)という。妃・堅塩媛(きたしひめ)が生んだ皇女である。伊勢の大神宮に仕えたが、茨城皇子(いばらきのみこ)と密通したことで、その任を退けられた(注:『日本書紀』による)。
¶額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)は、後の推古天皇である(注:『日本書紀』による)。
¶大宅皇女(おおやけのひめみこ)。
¶大伴皇女(おおとものひめみこ)。
¶肩野皇女(かたののひめみこ)(注:『古事記』には麻奴(まぬ)に作る)。
¶舎人皇女(とねりのひめみこ)。額田部皇女以下ここまでの皇女たちは、いずれも磐隈皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。
¶穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は、妃・小姐君(こあねのきみ)が生んだ皇女で、用明天皇の皇后となった(注:『日本書紀』による)。
¶春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)は、妃・糠子(ぬかこ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶逆登皇女(さかのぼりのひめみこ)は、広姫皇后(ひろひめのこうごう)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)は、逆登皇女と同母の妹である。敏達天皇七年、伊勢の神宮に仕えたが、池辺皇子(いけべのみこ)と密通し、事が発覚してその任を退けられた(注:『日本書紀』による)。
¶菟道貝鮹皇女(うじのかいたこのひめみこ)は、額田部皇后(ぬかたべのこうごう)が生んだ皇女である。豊聡耳皇太子(とよとみみのひつぎのみこ)に嫁いだ(注:『日本書紀』による。同書の注には、またの名を菟道磯津貝皇女ともいう、とある。『古事記』には、炊屋姫(かしきやひめ)が静貝王(しずかいのみこ)を生み、またの名を貝鮹王(かいたこのみこ)というとある。ただし広姫が生んだ皇女にすでに菟道磯津貝皇女がいるので、姉妹で名が重なるとは考えにくく、おそらくどちらかに誤りがあるのだろう)。
¶小墾田皇女(おはりだのひめみこ)は、押坂彦人皇子(おしさかのひこひとのみこ)に嫁いだ(注:『日本書紀』による)。
¶鸕鶿守皇女(うじもりのひめみこ)は、またの名を軽守(かるもり)という(注:『日本書紀』による)。
¶田眼皇女(たまえのひめみこ)は、舒明天皇の宮に入った(注:『日本書紀』による)。
¶桜井弓張皇女(さくらいのゆみはりのひめみこ)は、押坂彦人皇子に嫁いだ。小墾田皇女以下ここまでの皇女たちは、いずれも菟道貝鮹皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による。押坂彦人皇子に嫁いだという記述は『古事記』による)。
¶桑田皇女(くわたのひめみこ)は、夫人(ぶにん)老女君(おみなのきみ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶大姫皇女(おおひめのひめみこ)は、またの名を桜井皇女(さくらいのひめみこ)という。夫人兔名子(うなこ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)は、またの名を田村皇女(たむらのひめみこ)という(注:『日本書紀』による)。あるいは宝王(たからのおう)ともいう(注:『古事記』による)。大姫皇女と同母の妹である。押坂彦人皇子に嫁ぎ、舒明天皇を生んだ。嶋皇祖母(しまのすめみおや)と称された。天智天皇の甲子(きのえね)の年六月に薨じた(注:『日本書紀』による。同書「天智紀」には島皇祖母命(しまのすめみおやのみこと)の薨去と記す。『釈日本紀』には、敏達天皇の女(むすめ)で舒明天皇の母である糠手姫とあり、今それに拠る。なお「糠手」は、ある本では「糖手」に作るが、ここでは『日本書紀』に拠った)。
¶【用明】一女 酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)は、広子(ひろこ)が生んだ皇女である。用明天皇が即位すると、詔(みことのり)により伊勢の大神宮に仕えた。推古天皇の御代、葛城(かつらぎ)に退いて暮らし、そこで薨じた(注:『日本書紀』による)。
¶【祟峻】一女 錦代皇女(にしきでのひめみこ)は、妃・小手子(おてこ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶【舒明】一女 間人皇女(はしひとのひめみこ)は、宝皇后(たからのこうごう)が生んだ皇女である。孝徳天皇の皇后となった(注:『日本書紀』による)。
¶大田皇女(おおたのひめみこ)は、嬪(ひん)遠智娘(おちのいらつめ)が生んだ皇女である。天武天皇の宮に入った(注:『日本書紀』による)。
¶鸕野皇女(うののひめみこ)は、大田皇女と同母の妹である。後の持統天皇である(注:『日本書紀』による)。
¶御名部内親王(みなべのないしんのう)は、嬪姪娘(めいのいらつめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による。「内親王」と記すのは『続日本紀』に拠っており、以下も同様である)。慶雲元年、封戸(ふこ)百戸を増した(注:『続日本紀』による)。
¶阿倍皇女(あべのひめみこ)は、御名部内親王と同母の妹である。後の元明天皇である(注:『日本書紀』による)。
¶飛鳥皇女(あすかのひめみこ)は、嬪橘娘(たちばなのいらつめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。位は浄広肆(じょうこうし)であった(注:『続日本紀』による)。持統天皇八年、天皇は皇女のために百四人の僧を得度させた(注:『日本書紀』による)。文武天皇四年四月に薨じ、使者を遣わして弔いの品を賜った(注:『続日本紀』による)。
¶新田部皇女(にいたべのひめみこ)は、飛鳥皇女と同母の妹である。天武天皇の妃となった(注:『日本書紀』による)。
¶山辺皇女(やまべのひめみこ)は、嬪常陸娘(ひたちのいらつめ)が生んだ皇女である。大津皇子(おおつのみこ)に嫁いだ。皇子が誅殺されると、髪を振り乱し裸足のまま駆けつけて殉じた。これを見た人々はみなすすり泣いたという(注:『日本書紀』による)。
¶大江皇女(おおえのひめみこ)は、宮人(みやひと)色夫古娘(しこぶこのいらつめ)が生んだ皇女である。天武天皇の妃となった(注:『日本書紀』による)。
¶泉内親王(いずみのないしんのう)は、大江皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。二品(にほん)に叙せられた。大宝元年、伊勢の斎宮に仕えた。霊亀元年、封戸百戸を増された。天平六年二月に薨じた(注:『続日本紀』による)。
¶水主内親王(みぬしのないしんのう)は、宮人黒媛娘(くろひめのいらつめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。三品に叙せられた。霊亀元年、封戸百戸を増された。天平九年八月に薨じた(注:『続日本紀』による)。
【大友】二女 弘文天皇
¶壱志姫王(いちしひめのおおきみ)は、耳面刀自(みみものとじ)が生んだ皇女である。従四位下に叙せられた(注:『皇胤紹運録』による)。
【天武】七女
¶大伯内親王(おおくのないしんのう)(注:「伯」は、ある本では「来」に作る)は、妃・大田皇女が生んだ皇女である。斉明天皇が西征した際、大田皇女もこれに従った。大伯の海(おおくのうみ)に至ったときに内親王を生んだので、それにちなんで名づけられた。天武天皇が即位すると、内親王を大神宮に仕えさせようとし、泊瀬(はつせ)の斎宮に住まわせた。翌年、伊勢に赴いた。朱鳥元年、都に帰った(注:『日本書紀』による)。同母弟の大津皇子が誅殺されたと聞き、その帰路で歌を詠んでこれを悲しんだ(注:『万葉集』による)。大宝元年十二月に薨じた(注:『続日本紀』による)。
¶但馬内親王(たじまのないしんのう)は、夫人氷上娘(ひかみのいらつめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。三品に叙せられた。和銅元年六月に薨じた(注:『続日本紀』による)。
¶紀皇女(きのひめみこ)は、夫人大蕤娘(おおぬのいらつめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。
¶田形内親王(たがたのないしんのう)は、紀皇女と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。二品に叙せられた。慶雲三年、大神宮に仕えた。神亀五年三月に薨じ、使者を遣わして葬儀を監護させた(注:『続日本紀』による)。
¶十市皇女(とおちのひめみこ)は(注:『懐風藻』には内親王とある)、宮人額田姫王(ぬかたのひめおおきみ)が生んだ皇女である。大友皇子(おおとものみこ)の妃となった(注:『日本書紀』による)。
¶泊瀬部内親王(はつせべのないしんのう)は、宮人穀媛娘(たなつひめのいらつめ)が生んだ皇女である(注:『日本書紀』による)。三品に叙せられた。霊亀元年、封戸百戸を増された。天平十三年三月に薨じた(注:『続日本紀』による)。
¶託基内親王(たきのないしんのう)は、泊瀬部内親王と同母の妹である(注:『日本書紀』による)。一品に叙せられた。文武天皇二年、大神宮に仕えた。天平勝宝三年正月に薨じた(注:『続日本紀』による。ただし『日本書紀』本文では「託基」を「多紀」、また「当耆」に作ることがあり、そのため『皇胤紹運録』は誤って紀皇女を多紀皇女としている)。