卷之一百一 列傳第二十八
皇女二
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
【聖武】三女
¶【聖武】三女
【光仁】三女
¶井上内親王(いのうえないしんのう)は、夫人(ぶにん)・県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)が生んだ皇女である。養老五年(721年)、斎王(さいおう)となり伊勢神宮に奉仕した。のちに光仁天皇(こうにんてんのう)の皇后となった。(注:『続日本紀』による。)
【桓武】十九女
¶安倍内親王(あべないしんのう)は、藤原皇后の生んだ皇女である。これがのちの称徳天皇(しょうとくてんのう)、すなわち孝謙天皇(こうけんてんのう)である。(注:『続日本紀』による。)
【平城】四女
¶不破内親王(ふわないしんのう)は、井上内親王と同母の妹である。塩焼王(しおやきおう)に嫁ぎ、二子をもうけた。天平宝字七年(763年)、四品(しほん)に叙せられた。同八年、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が謀反を起こした際、塩焼王を擁立することを名目としたため、塩焼王は誅殺され、内親王も連座して皇籍を削られた。神護景雲三年(769年)、外従五位下(げじゅごいのげ)・丹比乙女(たじひのおとめ)が「忍坂女王(おさかのじょおう)・県犬養姐女(あがたのいぬかいのあねめ)らが呪詛によって天皇を害しようとしている」と誣告し、この事件に内親王も関わったとされた。詔には次のようにあった。「不破内親王については、先の光仁天皇の御代にすでに勅により親王の名を削られていた。それにもかかわらず悪事を重ね、再び不敬を働いた。その罪を論ずれば八虐(はちぎゃく)にあたる重罪である。しかし朕には思うところがあり、特にその罪を許し、姓名を改めて厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)とし、都に住むことを禁ずる。」ほどなく封戸四十戸、田十町を賜った。宝亀三年(772年)、無実が明らかになり皇籍に復帰し、翌年もとの位に復し、まもなく三品に叙せられた。天応元年(781年)、二品に進んだ。延暦元年(782年)、子の氷上川継(ひかみのかわつぐ)が謀反を企てた罪により、淡路国(あわじのくに)に配流された。(注:『続日本紀』による。)延暦十四年(795年)、和泉国(いずみのくに)に移された。(注:『日本紀略』による。)
【嵯峨】二十七女
【淳和】八女
¶能登内親王(のとないしんのう)は、贈皇太后(ぞうこうたいごう)・高野氏(たかのうじ)の生んだ皇女である。初めは女王として従四位下に叙せられたが、宝亀元年(770年)、内親王となり四品を授けられた。同七年、三品に進んだ。成長して市原王(いちはらおう)に嫁ぎ、五百枝王(いおえおう)・五百井女王(いおいのじょおう)を生んだ。天応元年(781年)二月に薨じた。享年四十九。勅使を遣わして葬儀を監護させ、必要な物は官から支給した。参議・大伴伯麻呂(おおとものはくまろ)を邸に遣わして詔を伝え、一品を追贈し、その子女を二世王とした。
【仁明】九女
¶酒人内親王(さかひとないしんのう)は、能登内親王と同母の妹である。(注:『東大寺要録』が引く『日本後紀』には、単に「贈吉野皇后」とのみ記す。浦木の考証によれば、東大寺要録がいう「吉野皇后」とは井上内親王のことである。とすれば『大日本史』が母を高野新笠(たかののにいがさ)と記すのは、誤りではないかと思われる。)宝亀三年(772年)、伊勢斎王となった。のちに桓武天皇(かんむてんのう)の妃となった。(注:『続日本紀』による。)
【文德】十八女
¶弥努摩内親王(みぬまないしんのう)は、宮人(きゅうじん)・島姫(しまひめ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』による。)宝亀元年(770年)、内親王となり四品を授けられた。(注:『続日本紀』による。)神王(じんおう)に嫁いだ。(注:『日本後紀』『公卿補任』による。)同十一年、三品に進んだ。(注:『続日本紀』による。)弘仁元年(810年)二月に薨じた。(注:『一代要記』による。)
¶高志内親王(たかしないしんのう)は、藤原皇后の生んだ皇女である。(注:『日本紀略』は帝の第二皇女とするが、『皇胤紹運録』『一代要記』では皇女たちの最初に列している。『日本紀略』はまた朝原内親王を第二皇女ともしており、「二」と「一」のいずれかが誤りであろう。)淳和天皇(じゅんなてんのう)がまだ皇太子であった頃、その妃として迎えられた。(注:『日本紀略』による。)
¶朝原内親王(あさはらないしんのう)は、妃(ひ)・酒人内親王の生んだ皇女である。占いにより伊勢斎王に定められ、神宮に奉仕した。のちに平城天皇(へいぜいてんのう)の妃となった。(注:『皇胤紹運録』による。)
¶因幡内親王(いなばないしんのう)は、夫人・多治比真宗(たじひのまむね)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』による。)天長元年(824年)九月に薨じた。天皇は喪服を着て政務を停止し、綿一万屯(とん)を東西両寺および畿内の諸寺に施して冥福を祈らせた。(注:『日本紀略』による。)
¶安濃内親王(あんのないしんのう)は、因幡内親王と同母の妹である。承和八年(841年)八月に薨じた。(注:『続日本後紀』による。)
¶大宅内親王(おおやけないしんのう)は、宮人・橘常子(たちばなのつねこ)の生んだ皇女である。平城天皇の妃となった。(注:『続日本後紀』による。)
¶甘南美内親王(かんなみないしんのう)は、宮人・藤原東子(ふじわらのとうこ)の生んだ皇女である。弘仁八年(817年)二月に薨じた。享年十八。勅使を遣わして葬儀を監護させた。(注:『日本紀略』による。)
¶滋野内親王(しげのないしんのう)は、宮人・藤原上子(ふじわらのかみこ)の生んだ皇女である。天安元年(857年)四月に薨じた。(注:『文徳実録』による。)
¶伊登内親王(いとないしんのう)は、宮人・藤原南子(ふじわらのみなみこ)の生んだ皇女である。阿保親王(あぼしんのう)に嫁いだ。貞観三年(861年)九月に薨じた。天皇は三日間政務を執らなかった。(注:『三代実録』による。)
¶春日内親王(かすがないしんのう)は、従四位下・坂上春子(さかのうえのはるこ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』による。)天長九年(832年)十二月に薨じた。(注:『日本紀略』による。)
¶高津内親王(たかつないしんのう)は、宮人・坂上又子(さかのうえのまたこ)の生んだ皇女である。嵯峨天皇(さがてんのう)の妃となった。(注:『続日本後紀』による。)
¶賀楽内親王(かがくないしんのう)は、宮人・橘御井子(たちばなのみいこ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。)天長四年(827年)、四品を授けられた。(注:『日本紀略』による。)承和十三年(846年)、三品に進んだ。(注:『続日本後紀』による。)貞観十六年(874年)二月に薨じた。(注:『三代実録』による。)天皇は三日間政務を執らなかった。(注:『日本紀略』による。)
¶菅原内親王(すがわらないしんのう)は、賀楽内親王と同母の妹である。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。)天長二年(825年)閏七月に薨じた。(注:『日本紀略』による。)
¶安勅内親王(あんちょくないしんのう)は、宮人・藤原河子(ふじわらのかわこ)の生んだ皇女である。(注:『文徳実録』による。)弘仁八年(817年)、四品を授けられた。(注:『類聚国史』『日本紀略』による。)嘉祥二年(849年)に出家し、上表して爵位を返上したいと願い出た。これが許され、翌年、封戸(ふこ)・帳内資人(ちょうないしじん)・品田(ほんでん)は収められたが、無品親王としての本封(ほんぷ)・帳内資人はもとのままとされた。(注:『続日本後紀』による。)斉衡二年(855年)九月に薨じた。(注:『文徳実録』による。)
¶大井内親王(おおいないしんのう)は、安勅内親王と同母の妹である。貞観七年(865年)十一月に薨じた。天皇は三日間政務を執らなかった。(注:『三代実録』による。)
¶紀内親王(きないしんのう)は、安勅内親王と同母の妹である。天長元年(824年)、四品を授けられた。仁和(にんな)の初め、三品に進んだ。同二年(886年)六月に薨じた。享年八十八。天皇は三日間政務を執らなかった。(注:『三代実録』による。)
¶善原内親王(よしはらないしんのう)は、安勅内親王と同母の妹である。(注:『皇胤紹運録』は百済貞香(くだらのさだか)の生んだ皇女とするが、誤りである。)貞観五年(863年)七月に薨じた。天皇は三日間政務を執らなかった。(注:『三代実録』による。)
¶駿河内親王(するがないしんのう)は、宮人・百済貞香(くだらのさだか)の生んだ皇女である。(注:『一代要記』による。)弘仁十一年(820年)六月に薨じた。享年二十。勅使を遣わして葬儀を監護させた。(注:『日本紀略』による。)
¶布勢内親王(ふせないしんのう)は、宮人・中臣豊子(なかとみのとよこ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。)延暦十六年(797年)、伊勢斎王となり、大同元年(806年)にその任を退いた。(注:『日本紀略』による。)弘仁三年(812年)八月に薨じた。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。)四品を追贈され、その墾田七百七十二町を東西二寺に施して冥福を祈らせた。翌年、遺言により、その家の直銭(じきせん)一万貫を寺の修理料に充てた。(注:『類聚国史』による。)
¶池上内親王(いけがみないしんのう)は、宮人・橘田村子(たちばなのたむらこ)の生んだ皇女である。貞観十年(868年)十一月に薨じた。(注:『一代要記』による。『皇胤紹運録』は十一年とする。)
¶上毛野内親王(かみつけぬないしんのう)は、宮人・伊勢継子(いせのつぐこ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』による。)
¶叡努内親王(えぬないしんのう)は、宮人・紀魚員(きのなつら)の生んだ皇女である。(注:『続日本後紀』による。『皇胤紹運録』『歴代皇紀』では、いずれも第四皇女とする。)大同五年(810年)、備前国(びぜんのくに)の穀百斛(こく)を賜った。(注:『類聚国史』による。)承和二年(835年)四月に薨じた。天皇は三日間政務を執らなかった。(注:『続日本後紀』による。)
¶石上内親王(いそのかみないしんのう)は、上毛野内親王と同母の妹である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』『歴代皇紀』は、いずれも第三皇女とする。ここでは『三代実録』清和天皇紀に叡努内親王の後に記されているのに従う。)大同五年、近江(おうみ)・播磨(はりま)の穀あわせて三百斛、備前の穀三百斛を賜った。(注:『類聚国史』による。)承和十三年(846年)九月に薨じた。(注:『続日本後紀』による。『皇胤紹運録』は十二年、『歴代皇紀』は十年とする。)
¶大原内親王(おおはらないしんのう)は、上毛野内親王と同母の妹である。(注:『三代実録』による。)大同元年(806年)、伊勢斎王となり、同四年にその任を退いた。(注:『類聚国史』『日本紀略』による。)同五年、近江・播磨・備前の穀あわせて八百斛を賜った。(注:『類聚国史』による。)貞観五年(863年)正月に薨じた。天皇は三日間政務を執らなかった。(注:『三代実録』による。)
¶業子内親王(なりこないしんのう)は、妃・高津内親王の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』は正子内親王を第一皇女、業子を第六皇女とする。『三代実録』元慶三年(879年)三月癸丑の条には「正子は嵯峨太上天皇の長女である」とある。『日本紀略』には「業子は帝の第一皇女」とある。『続日本紀』を按ずるに、承和八年(841年)四月に高津が薨じた記事の下に「帝の即位の初めに妃となったが、まもなく廃された」とある。また『日本紀略』『文徳実録』を按ずるに、橘嘉智子(たちばなのかちこ)は弘仁六年(815年)に立后しており、思うに橘皇后への寵愛がまさに厚くなったために高津が廃されたのであろう。とすれば正子こそ橘皇后の生んだ第一皇女であり、帝から見れば第二皇女ということになる。『皇胤紹運録』は橘皇后所生の五皇女を安易に最初に置いており、しかも生母についても誤りが多い。詳しくは橘皇后の伝を見よ。今は『日本紀略』に拠り、業子を長女とする。)弘仁六年(815年)六月に薨じた。勅使を遣わして葬儀を監護させた。(注:『日本紀略』による。)
¶正子内親王(まさこないしんのう)は、橘皇后の生んだ皇女である。淳和天皇の皇后となった。(注:『三代実録』による。)
¶秀子内親王(しゅうしないしんのう)は、正子内親王と同母の妹である。承和六年(839年)、山城国(やましろのくに)宇治郡の荒田一町を賜った。嘉祥三年(850年)二月に薨じた。勅使を遣わして葬儀を監護させた。(注:『続日本後紀』による。)
¶俊子内親王(しゅんしないしんのう)は、(注:「俊」を『日本紀略』は「緩」と記すが、ここでは『皇胤紹運録』に従う。)正子内親王と同母の妹である。(注:『一代要記』による。)天長三年(826年)六月に薨じた。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)
¶繁子内親王(はんしないしんのう)は、正子内親王と同母の妹である。(注:『文徳実録』『一代要記』による。)承和年間、河内(かわち)・山城の空閑地(くうかんち)若干頃(けい)を賜った。(注:『続日本後紀』による。)繁子は容姿が艶麗で、立ち居振る舞いに節度があった。病により出家して尼となった。仁寿元年(851年)十二月に薨じた。(注:『文徳実録』による。)
¶芳子内親王(ほうしないしんのう)は、正子内親王と同母の妹である。承和五年(838年)十二月に薨じた。翌年の元旦、朝賀の儀は取りやめられた。(注:『続日本後紀』による。)
¶基子内親王(もとこないしんのう)は、安宿(あすか)・百済貴命(くだらのきみょう)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』による。)天長八年(831年)三月に薨じた。(注:『日本紀略』による。)
¶宗子内親王(そうしないしんのう)は、宮人・高階河子(たかしなのかわこ)の生んだ皇女である。生まれつき貞潔で、生涯を通じて質素倹約であった。斉衡元年(854年)三月に薨じた。(注:『文徳実録』による。)
¶有智子内親王(うちこないしんのう)は、交野女王(かたのじょおう)の生んだ皇女である。(注:『一代要記』『帝王編年記』『斎院記』は第八皇女とするが、誤りである。)史書や漢籍に広く通じ、文章をよくした。(注:『続日本後紀』による。)弘仁元年(810年)、賀茂斎王(かもさいおう)となった。賀茂斎院の制度が置かれたのはこれに始まる。(注:『斎院記』によれば、天皇がこの皇女を愛して斎院としたとあるが、それが何年のことかは記されておらず、ただ「これに始まる」とのみある。『帝王編年記』は弘仁九年五月に初めて置かれたとする。ここでは『貴女鈔』『一代要記』に従う。)同十四年(823年)二月、天皇はその山荘に行幸し、文人に詩を賦させた。(注:『類聚国史』『日本紀略』『続日本後紀』による。)内親王は韻を探り、「塘・光・行・蒼」の字を得て、たちまち筆を執って次のように詠んだ。「寂寂たる幽荘は水樹の裏、仙輿一たび降りて一池塘。林に栖む孤鳥は春沢を識り、澗に隠るる寒花は日光を見る。泉声近く報ず初雷の響き、山色高く晴る暮雨の行くを。此れより更に知る恩顧の渥きを、生涯何を以てか穹蒼に答えん。」時に内親王は十七歳であった。天皇は大いにこれを褒め、位三品を授け、また御製の詩を書いて賜った。(注:『続日本後紀』による。)この日、従五位下・藤原常房(ふじわらのつねふさ)、巨勢識人(こせのしきひと)、正六位上・文室永年(ふんやのながとし)、従五位下・交野女王、永原真殿(ながはらのまとの)、無位・坂本宮継(さかもとのみやつぐ)らにも、それぞれ位が進められた。(注:『類聚国史』による。)ほどなく封戸百戸を賜り、文人を招く費用に充てさせた。(注:『続日本後紀』による。)天長八年(831年)、その職を辞し、(注:『日本紀略』『斎院記』による。)嵯峨の西荘に住んだ。仁明天皇(にんみょうてんのう)の即位後、二品に進み、承和元年(834年)、伯耆国(ほうきのくに)会見郡の荒廃田百二十町を賜った。(注:本書では嘉祥元年八月の勅として天長七年の出来事とするが、いずれが正しいか明らかでない。)同十四年(847年)十月に薨じた。享年四十。遺言により葬儀は簡素にし、葬儀のための使者も受けなかった。(注:『続日本後紀』による。)その著した詩は『経国集(けいこくしゅう)』に収められている。
¶仁子内親王(じんしないしんのう)は、女御(にょうご)・大原浄子(おおはらのきよこ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』による。)大同四年(809年)、伊勢斎王となり、(注:『類聚国史』『日本紀略』『一代要記』による。)弘仁二年(811年)、伊勢に赴いた。(注:『類聚国史』による。)同十四年(823年)、その任を退いた。(注:『日本紀略』による。)寛平元年(889年)正月に薨じた。(注:『一代要記』による。)
¶純子内親王(じゅんしないしんのう)は、宮人・文屋文子(ふんやのふみこ)の生んだ皇女である。貞観五年(863年)正月に薨じた。天皇は三日間政務を執らなかった。(注:『三代実録』による。)
¶斉子内親王(さいしないしんのう)は、純子内親王と同母の妹である。太宰帥(だざいのそち)・葛井親王(ふじいしんのう)に嫁いだ。仁寿三年(853年)五月に薨じた。(注:『文徳実録』による。)
¶源貞姫(みなもとのさだひめ)は、宮人・布勢氏(ふせうじ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』による。)弘仁五年(814年)、姉妹とともに源朝臣(みなもとのあそん)の姓を賜った。(注:『姓氏録』による。)同六年、潔姫(きよひめ)・全姫(またひめ)・善姫(よしひめ)とともに右京から左京に本貫を移した。(注:『日本紀略』による。)承和八年(841年)、従四位上に叙せられ、(注:『続日本後紀』による。)のちに正四位下に至った。元慶四年(880年)七月に卒した。(注:『三代実録』による。)
¶源潔姫(みなもとのきよひめ)は、宮人・当麻氏(たいまうじ)の生んだ皇女である。琵琶をよくした。天皇が婿を選んだが、意にかなう者がなかった。当時、藤原良房(ふじわらのよしふさ)はまだ弱冠であったが、天皇はその風采を愛し、潔姫を妻あわせた。(注:『文徳実録』による。)承和八年、正四位下に叙せられ、(注:『続日本後紀』『文徳実録』による。)仁寿元年(851年)、従三位に進み、同三年、正三位に転じた。斉衡三年(856年)六月に薨じた。(注:『文徳実録』による。)清和天皇(せいわてんのう)の即位にあたり、外祖母であることから、墓に正一位を追贈し、荷前(のさき)の幣(みてぐら)を供える四陵墓の一つに列した。貞観元年(859年)、守冢(しゅちょう)一戸を置き、同五年、詔して兆域(ちょういき)を広げさせた。(注:『三代実録』による。)
¶源全姫(みなもとのまたひめ)は、潔姫と同母の妹である。(注:『三代実録』による。)従四位下に叙せられ、斉衡二年(855年)、正四位下に進んだ。(注:『文徳実録』による。)貞観年間、尚侍(ないしのかみ)となり、次第に従二位まで進み、元慶三年(879年)、正二位に至った。同六年正月に薨じた。(注:『三代実録』による。)
¶源善姫(みなもとのよしひめ)は、尚侍・百済慶命(くだらのきょうみょう)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』による。『一代要記』には善姫の名がなく、ここに若姫を挙げているが、誤りである。)
¶源更姫(みなもとのさらひめ)は、宮人・紀氏(きうじ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』『一代要記』による。)承和八年、従四位上を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)
¶源若姫(みなもとのわかひめ)は、(注:『皇胤紹運録』による。)生母を伝えない。
¶源神姫(みなもとのかみひめ)は、宮人・内蔵氏(くらうじ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤系図』『皇胤紹運録』『一代要記』による。)
¶源盈姫(みなもとのみつひめ)は、宮人・大原全子(おおはらのまたこ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』『一代要記』による。)貞観元年、従四位下に叙せられ、翌年、従四位上に進んだ。(注:『三代実録』による。)
¶源声姫(みなもとのこわひめ)は、宮人・甘南備氏(かんなびうじ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』『一代要記』による。)嘉祥二年(849年)、従四位下に叙せられた。(注:『続日本後紀』による。)
¶源容姫(みなもとのかたちひめ)は、神姫と同母の妹である。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『皇胤系図』による。)
¶源湍姫(みなもとのたぎひめ)は、貞姫と同母の妹である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』による。)貞観二年、従四位上に叙せられ、同十八年九月に卒した。(注:『三代実録』による。)
¶源吾姫(みなもとのあこひめ)は、神姫と同母の妹である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』『一代要記』による。)貞観四年、従四位上に叙せられた。(注:『三代実録』による。)
¶源密姫(みなもとのみつひめ)は、更衣(こうい)・山田近子(やまだのちかこ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『皇胤系図』による。)
¶源良姫(みなもとのよしひめ)は、生母を伝えない。嘉祥三年、特に封戸百戸を給された。(注:『続日本後紀』による。)清和天皇の即位にあたり、従四位上に叙せられ、元慶八年(884年)二月に卒した。(注:『三代実録』による。)
¶源年姫(みなもとのとしひめ)は、生母を伝えない。貞観五年、従四位上に叙せられ、同十六年九月に卒した。(注:『三代実録』による。)
¶氏子内親王(うじこないしんのう)は、贈皇后の生んだ皇女である。天皇の即位の初め、伊勢斎王となったが、(注:『三代実録』『一代要記』による。)同四年、病により退いた。(注:『類聚国史』『日本紀略』による。)仁和元年(885年)四月に薨じた。天皇は三日間政務を執らなかった。(注:『三代実録』による。)
¶有子内親王(ゆうしないしんのう)は、氏子内親王と同母の妹である。貞観四年二月に薨じた。朝賀を三日間取りやめた。(注:『三代実録』による。)
¶貞子内親王(ていしないしんのう)は、有子内親王と同母の妹である。(注:『続日本後紀』は第一皇女とするが誤りで、ここでは『皇胤紹運録』および『日本紀略』大同四年五月の記事に従う。)承和元年五月に薨じた。勅使を遣わして葬儀を監護させた。(注:『続日本後紀』による。)
¶寛子内親王(かんしないしんのう)は、宮人・大野鷹子(おおののたかこ)の生んだ皇女である。貞観十一年五月に薨じた。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。)
¶崇子内親王(すうしないしんのう)は、宮人・橘船子(たちばなのふなこ)の生んだ皇女である。(注:「船子」の名は『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』による。)嘉祥元年五月に薨じた。勅使を遣わして葬儀を監護させた。(注:『続日本後紀』による。)
¶同子内親王(どうしないしんのう)は、(注:『皇胤紹運録』は「同」を「国」あるいは「周」「固」とも記し、『皇胤系図』も「固」とする。ここでは『三代実録』『一代要記』に従う。)宮人・丹墀池子(たじひのいけこ)の生んだ皇女である。貞観二年閏十月に薨じた。天皇は三日間政務を執らなかった。(注:『三代実録』による。)
¶明子内親王(あきこないしんのう)は、宮人・清原春子(きよはらのはるこ)の生んだ皇女である。斉衡元年九月に薨じた。(注:『文徳実録』による。)
¶統忠子(とうのちゅうし)は、(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』はともに「忠」を「熟」と記し、『一代要記』は「就」とするが、いずれも誤りである。)生母を伝えない。天長九年、統朝臣(とうのあそん)の姓を賜った。貞観四年、従四位上を授けられ、翌年正月に卒した。(注:『三代実録』による。本書貞観五年正月辛未の条に、無位の統尚子(とうのしょうし)に従四位上を授けたとあり、これもおそらく淳和天皇の皇女であろうと思われるが、今のところ考証する材料がない。)
¶時子内親王(ときこないしんのう)は、(注:『斎院記』は第九皇女とする。)女御(にょうご)・滋野縄子(しげののなわこ)の生んだ皇女である。(注:『文徳実録』『皇胤紹運録』『皇胤系図』による。)天長八年、賀茂斎王となった。(注:『類聚国史』『日本紀略』『歴代皇紀』『斎院記』による。諸書ともにその退任の時期は記していない。)承和年間、讃岐(さぬき)・河内・山城・摂津にある荒廃田・空閑地を相次いで賜った。同十四年二月に薨じた。勅使を遣わして葬儀を監護させた。(注:『続日本後紀』による。)
¶新子内親王(にいこないしんのう)は、贈皇太后・藤原氏の生んだ皇女である。(注:『続日本後紀』『皇胤系図』『帝王編年記』による。)元慶八年、三品に進んだ。(注:『三代実録』による。)寛平九年十一月に薨じた。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)
¶柔子内親王(にゅうしないしんのう)は、時子内親王と同母の妹である。(注:『文徳実録』『三代実録』による。)貞観十一年二月に薨じた。朝賀を三日間取りやめた。(注:『三代実録』による。)
¶真子内親王(しんしないしんのう)は、(注:『一代要記』は「真」を「貞」と記すが誤り。)更衣・紀種子(きのたねこ)の生んだ皇女である。貞観十二年五月に薨じた。天皇は三日間政務を執らなかった。(注:『三代実録』による。)
¶親子内親王(しんしないしんのう)は、女御・藤原貞子(ふじわらのさだこ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』による。)承和年間、近江・丹波の荒廃田・空閑地を賜り、嘉祥元年、さらに伯耆国会見郡の公田八十町を賜った。(注:『続日本後紀』による。)天皇に特に愛されたが、天皇の崩御ののちも哀慕の情がやまず、ついに病を得た。仁寿元年九月に薨じた。当時の人々はこれを悲しんだという。(注:『文徳実録』による。)
¶平子内親王(へいしないしんのう)は、親子内親王と同母の妹である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』による。)元慶元年二月に薨じた。(注:『三代実録』による。)
¶重子内親王(じゅうしないしんのう)は、宮人・藤原小童子(ふじわらのこわらわこ)の生んだ皇女である。(注:『三代実録』『皇胤系図』による。)貞観七年七月に薨じた。朝賀を三日間取りやめた。生前の遺志に従い、葬儀を司る役を置かなかった。(注:『三代実録』による。)
¶久子内親王(きゅうしないしんのう)は、宮人・高宗女王(たかむねのじょおう)の生んだ皇女である。(注:『皇胤系図』による。)天長十年、伊勢斎王となり、承和二年、伊勢に赴いた。同六年、斎宮(さいくう)が火災に遭ったため、勅使を遣わして絹・綿・調布(ちょうふ)を贈り見舞わせた。(注:『続日本後紀』による。)嘉祥三年、その任を退いた。文徳天皇(もんとくてんのう)は勅使を伊勢に遣わして迎えさせた。(注:『文徳実録』による。)貞観十八年六月に薨じた。(注:『三代実録』による。)
¶高子内親王(たかこないしんのう)は、(注:『斎院記』は第十二皇女とする。)宮人・百済永慶(くだらのようけい)の生んだ皇女である。(注:『三代実録』『皇胤紹運録』『皇胤系図』による。)天長十年、賀茂斎王となり、承和二年、斎院に入った。山城の空閑地および公田若干を賜った。(注:『続日本後紀』による。)天皇の崩御によりその任を退いた。貞観八年六月に薨じた。朝賀を三日間取りやめた。(注:『三代実録』による。)
¶【文德】十八女
¶儀子内親王(ぎしないしんのう)は、(注:『斎院記』は第三皇女とする。)藤原皇后の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』による。)貞観元年、賀茂斎王となり、同三年、紫野斎院(むらさきのさいいん)に入った。同十八年、病により皇太后の御所である染殿宮(そめどののみや)に移り住んだ。上表してその任を退きたいと願い出たが、その言葉は切々としたものであった。しかしこれは認められなかった。元慶元年、次第に一品まで進んだ。同三年閏十月に薨じた。(注:『三代実録』による。)
¶恬子内親王(てんしないしんのう)は、更衣・紀静子(きのしずこ)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』『帝王編年記』による。)貞観元年、伊勢斎王となり、同三年、伊勢に赴いた。右大臣・藤原良相(ふじわらのよしみ)、尚侍・全姫を八省院(はっしょういん)に遣わして見送らせた。元慶元年、その任を退いた。(注:『三代実録』による。)延喜三年六月に薨じた。(注:『一代要記』による。)
¶述子内親王(じゅつしないしんのう)は、恬子内親王と同母の妹である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』『帝王編年記』による。)天安元年、賀茂斎王となり、(注:『文徳実録』による。)翌年、その任を退いた。(注:『一代要記』による。)寛平九年十一月に薨じた。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)
¶濃子内親王(のうしないしんのう)は、宮人・滋野奥子(しげののおくこ)の生んだ皇女である。(注:『文徳実録』『皇胤系図』による。)延喜三年九月に薨じた。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)
¶勝子内親王(しょうしないしんのう)は、濃子内親王と同母の妹である。(注:『文徳実録』『皇胤系図』による。)貞観十三年七月に薨じた。朝賀を三日間取りやめた。(注:『三代実録』による。)
¶礼子内親王(れいしないしんのう)は、宮人・藤原今子(ふじわらのいまこ)の生んだ皇女である。(注:『三代実録』『皇胤紹運録』による。)貞観三年、内親王となった。(注:『三代実録』による。)昌泰二年十月に薨じた。(注:『一代要記』による。)
¶掲子内親王(けいしないしんのう)は、(注:「掲」は「揚」とも記される。)礼子内親王と同母の妹である。(注:『皇胤紹運録』による。)元慶六年、伊勢斎王となり、同八年、退いて都に帰った。延喜十四年二月に薨じた。(注:『一代要記』による。)
¶晏子内親王(あんしないしんのう)は、(注:『一代要記』は第一皇女とする。)宮人・藤原列子(ふじわらのれっし)の生んだ皇女である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』による。)嘉祥三年、伊勢斎王となり、仁寿二年、伊勢に赴いた。(注:『文徳実録』による。)天安二年、その任を退いた。(注:『三代実録』による。)昌泰三年七月に薨じた。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)
¶慧子内親王(けいしないしんのう)は、晏子内親王と同母の妹である。(注:『三代実録』『皇胤系図』による。)嘉祥三年、賀茂斎王となり、仁寿二年、紫野斎院に入った。天安元年、故あってその任を退いた。右大臣・藤原良相を神社に遣わし、その事情を告げさせた。事は秘され、世に知る者はなかった。元慶五年正月に薨じた。朝賀を三日間取りやめた。(注:『三代実録』による。)
¶珍子内親王(ちんしないしんのう)は、恬子内親王と同母の妹である。(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』『帝王編年記』による。)元慶元年四月に薨じた。(注:『三代実録』による。)
¶源憑子(みなもとのよりこ)は、生母を伝えない。仁寿三年、妹の謙子(けんし)・列子(れっし)・済子(せいし)・奥子(おうこ)とともに源朝臣の姓を賜り、左京に本貫を移した。(注:『文徳実録』による。)従四位上に叙せられた。(注:『一代要記』『帝王編年記』『皇胤紹運録』『皇胤系図』による。)
¶源謙子(みなもとのけんし)は、生母を伝えない。
¶源列子(みなもとのれっし)は、生母を伝えない。
¶源済子(みなもとのせいし)は、清和天皇の女御となった。(注:『三代実録』による。)
¶源奥子(みなもとのおうこ)は、(注:『文徳実録』『一代要記』『皇胤紹運録』『皇胤系図』による。)生母を伝えない。
¶源富子(みなもとのとみこ)は、宮人・菅原氏(すがわらうじ)の生んだ皇女である。貞観三年、妹の淵子(えんし)とともに源朝臣の姓を賜った。(注:『三代実録』による。)
¶源淵子(みなもとのえんし)は、(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『皇胤系図』はいずれも「淵」を「滋」と記すが、ここでは『三代実録』に拠る。)宮人・滋野岑子(しげののみねこ)の生んだ皇女である。(注:『三代実録』『皇胤系図』による。)延喜十一年四月に卒した。(注:『一代要記』による。)
¶源脩子(みなもとのながこ)は、(注:『一代要記』による。)生母を伝えない。