卷之二百八 列傳第一百卅五
將軍家臣十八
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
鹽冶高貞
¶塩冶高貞(えんやたかさだ)は出雲の人である(注:『伯耆巻』『太平記』による)。隠岐守佐々木義清(ささきよしきよ)の玄孫にあたる。父の貞満(さだみつ)は左衛門尉・検非違使を務め、初めて塩冶を氏とした。高貞は検非違使となり、従五位下に叙せられた(注:『尊卑分脈』による)。出雲守護に補任された(注:『伯耆巻』『太平記』による)。元弘三年、天皇(後醍醐天皇)が隠岐におられたとき、北条高時は四方に勤王の軍が起こったと聞き、佐々木清高(ささききよたか)に命じて行宮(あんぐう)を守らせた。富士名義綱(ふじなよしつな)は密かに天皇を奉じて挙兵しようと謀り、天皇は義綱を使いとして高貞に説き聞かせたが、高貞は義綱を拘留して帰さなかった(注:『船上録』には、義綱は名和泰長(なわやすなが)と共謀して勤王を図り、泰長がまず高貞のもとへ来て説いたが、高貞は応じずこれを追い返した、とある。本書の記述と異なり、どちらが正しいかは分からない)。やがて天皇が船上山(せんじょうさん)に行幸されると、近国の将士が続々と行在所(あんざいしょ)に集まった。高貞は義綱とともに一族千余騎を率い、真っ先に兵を挙げたが(注:『太平記』による)、八木(やぎ)まで進んで動かなかった。官軍はこれを討とうと兵を動かそうとした。高貞は急ぎ船上山に至って謝罪したが、官軍は疑って城内に入れず、城外に留め置いた(注:『伯耆巻』による)。天皇の車駕が京へ還る際、高貞に先立って一日早く配下を率いて先導させた。建武の初め、天皇が高倉に馬場殿を造営されると、高貞は千里の馬を得てこれを献上した(注:『太平記』による)。まもなく隠岐守に任じられた(注:『尊卑分脈』による)。建武二年、中務卿尊良親王(なかつかさきょうたかよししんのう)に従って足利尊氏を討ち、竹下(たけのした)で戦った。前軍が敗走すると、高貞はただちに尊氏に降った。延元三年、脇屋義助(わきやよしすけ)が黒丸城(くろまるじょう)を攻め落とすと、尊氏は高貞に出雲・伯耆の戦艦三百艘を出させてこれを攻めさせようとした。高貞が出発しようとした矢先、にわかに女性がらみの災いに見舞われて死んだ。事の起こりは、かつて天皇が高貞に宮人(女官)を賜ったことにあった。尊氏の執事である高師直(こうのもろなお)はその女性の容色を見て、しばしば言い寄ったが応じられず、ついに高貞を殺してその女を奪おうと考え、謀反の疑いをかけて誣告した。高貞は逃れられないと悟り、国に拠って抵抗しようと、一族三十余人を率い、狩りに出るふりをして明け方に館を出た。別に八幡六郎某(はちまんろくろうなにがし)・山城守宗村(やましろのかみむねむら)ら二十余人に妻子を護らせ、皆間道を通って出雲へ逃げ帰らせた。高貞の弟貞泰(さだやす)がこれを師直に密告し(注:高貞の弟の名は『佐々木家譜』による)、師直はただちに尊氏に報告して、桃井直常(もものいなおつね)・大平義尚(おおひらよしひさ)・山名時氏(やまなときうじ)とその子師義(もろよし)を分遣してこれを追わせた。直常・義尚は急ぎ馬を走らせ、播磨の陰山(かげやま)で高貞の妻子に追いついた。六郎らは子女を民家に匿って引き返して戦い、数十人を殺傷した。直常らの兵は競って駆けつけこれを囲んだ。師直は軍勢に令して、「たとえ高貞を捕らえても、その妻を討ち漏らしては、執事(師直)の望むところではない」と言った。六郎はこれを聞いて、宗村に命じてまず高貞の妻子を殺させ、自らは高貞と偽って人々と数刻の間戦い、それから民家に火を放って共に自害した。直常らはその焼け跡の遺骸を見て、高貞は本当に死んだものと思い、兵を引き上げた(注:『太平記』による)。時氏・師義は高貞を追って山碕(やまさき)まで至ったところ、一人の男が後ろから呼びかけて、「私は執事の使いの者です。皆様はしばらくお留まりください」と言った。人々は手綱を控えて待つと、その男は再び呼びかけて、「私は激しく走って息が切れております。どうかこちらに来て御命令をお聞きください」と言った。時氏父子は馬を下り、数騎を遣わして問わせた。その男は笑って、「私は実は塩冶氏の兵、来海五郎(くるみごろう)という者です。たまたま外におりまして主君に従うことができませんでした。今ここに来て死のうとしているのは、地下(主君)へ恩に報いたいがためです」と言い、そのまま進み出て奮戦し、数人を傷つけて自害した。これによって高貞は逃げ延びることができた(注:『天正本太平記』による)。日が暮れて、時氏は湊川(みなとがわ)に宿営したが、師義はひとり十二騎を率いて夜を冒して追跡し、夜明けに播磨の賀古川(かこがわ)に至った。高貞の弟六郎は自ら高貞と名乗り、左右の六人を率いて引き返して戦い、討ち死にした。師義がなおも進むと、高貞の弟某(なにがし)も三人を率いてやはり討ち死にした(注:高貞の弟の名は『天正本』による)。高貞はついに脱出して出雲に帰り着いた。翌日、時氏らが到着し、国中に令して、「高貞は謀反人である。これを殺す者があれば破格の恩賞を与える」と告げた。そのため親族までもが疑心を抱き、高貞を殺そうと謀った。高貞は従っていた騎馬の者たちを分散させ、要害の地を検分しながら、ただ一人木村兼綱(きむらかねつな)と共に佐々布山(さぎふやま)へ逃れた(注:兼綱の名は『天正本』による)。宍道郷(しんじごう)に至ったころ、一人の兵卒がやって来て、「若君はすでに追手に殺されました」と告げ、言い終わるとともに自害した。高貞はそこで、「老いぼれの師直め、必ずお前に報いてやる」と罵り、腹を切って死んだ。兼綱はその首を斬り落とし泥の中に埋めると、自らも腹を裂いて高貞の遺骸を抱いたまま死んだ。時氏の兵はその足跡をたどって高貞の首を見つけ出し、京師(みやこ)に送り届けた(注:『太平記』による)。高貞には二人の子があり、母に従って落ち延びていた。長子は母と共に陰山で死んだ。八幡六郎は次子を探し出し、密かに路傍の僧に託し、出雲まで連れて行かせた。成長すると弓馬に長じ、佐々木氏頼(ささきうじより)に仕え、一族の者は彼を出雲殿(いずものとの)と呼んだ(注:『天正本太平記』による。○『佐々木系図』には高貞に五人の子がいたとして、その名も載せているが、疑わしいので今は採らない)。
佐佐木高氏
¶佐々木高氏(ささきたかうじ)は近江の人で、近江守信綱(のぶつな)の玄孫である。曾祖父の氏信(うじのぶ)は京極氏(きょうごくし)を称し、対馬守・近江守・検非違使を務めた。祖父の満信(みつのぶ)は佐渡守。父の宗氏(むねうじ)は検非違使・佐渡守であった。高氏は四郎と称し、佐波守・検非違使となった。北条高時が剃髪すると、これに従って共に出家し、道誉(どうよ)と号した(注:『尊卑分脈』『佐々木系図』を参照した)。高時が天皇の車駕を隠岐へ遷したとき、高氏は千葉貞胤(ちばさだたね)らとともに護送してから帰った。またこのとき中納言源具行(みなもとのともゆき)を柏原(かしわばら)で殺すよう命じられた。高氏は高時の淫乱ぶりが日に日にひどくなるのを見て、密かに足利尊氏に討伐を勧め、ついに尊氏に従って帰順した(注:『太平記』による)。尊氏が東に下って北条時行(ほうじょうときゆき)を討ったとき、高氏は先鋒となった。官軍がたびたび勝利を重ねると、時行の兵は退いて箱根に立てこもった。高氏は手勢五百を率い、赤松貞範(あかまつさだのり)とともにまっすぐ進んでこれを敗った(注:『天正本』『毛利家本太平記』を参照した)。敵はさらに退いて相模川を渡り、川を隔てて待ち構えた。折しも驟雨があり、川の水かさは増していた(注:『太平記』による)。高氏はこれを望み見て、「川を踏んで真っ先に渡ることこそ、我が家代々の役目である」と言った。弟の時満(ときみつ)とともに十数騎を率い、泳ぎながら戦った(注:時満の名は『尊卑分脈』による)。高氏は自ら二人を斬り、ついに東岸に達した。諸軍が続いて渡り、敵の背後に回り込み、東西から鬨の声を上げて大いにこれを破った(注:『天正本太平記』による)。尊氏が謀反を起こすと、官軍がこれを討ちに来た。足利直義(あしかがただよし)は迎え撃つことを求めたが、尊氏は表向きこれを聞き入れなかった。高氏はそこで上杉憲房(うえすぎのりふさ)・細川和氏(ほそかわかずうじ)とともに直義に出兵を勧めた。矢矧川(やはぎがわ)に至り、吉良満義(きらみつよし)・土岐頼遠(ときよりとお)らとともに川を渡って死闘を演じた。しかしまもなく諸将は不利となり、退いて鷺坂(さぎさか)で戦い、また敗れて手越(てごし)で戦った。高氏は身に数か所の傷を負い、弟の貞満(さだみつ)は戦死し(注:貞満の名は『尊卑分脈』による)、従者もほとんど失ったので、官軍に偽って降伏した(注:偽って降伏したことは『西源院本』による)。散った兵がしだいに集まると、自ら抜け出して鎌倉へ向かった。尊氏が竹下(たけのした)に出兵すると、高氏はこれに従い、足利高経(あしかがたかつね)らとともに真っ先に攻め入り、官軍を大いに破った(注:『太平記』による)。その後、天皇の車駕が再び延暦寺に行幸された際、小笠原貞宗(おがさわらさだむね)が兵を率いて近江に至り、連戦連勝して近江を管領するに至った。高氏は尊氏に願い出て、「私の家は代々近江の守護を世襲してまいりました。今近江を貞宗に賜れば、私は人に合わせる顔がありません。もし本国(近江)を私に賜れば、私はまず国中を掃討し、坂本の兵糧の道を断って、敵を兵糧攻めにいたしましょう」と言った。尊氏はこれを許した。高氏はそこで若狭を経て近江へ入り(注:『梅松論』および諸種の異本『太平記』による。○現行本『太平記』には、高氏は偽って降伏し、朝廷に願い出て近江守護を得た、近江に至るとさらに貞宗を欺いてその守護職を奪った、とある。しかし異本の説は『梅松論』と合致するので、今はこちらに従う)、三上山(みかみやま)に陣を敷き、延暦寺および国内にある神社の荘園を横領して家臣に分け与え、これを料所(りょうしょ)と称した。諸国の武将が料所を設けるのは、これに始まる。こうして国内にいた官軍方の縁故の者たちは、皆離散してしまった(注:諸種の異本『太平記』による)。脇屋義助が攻めて来ると、高氏は兵三千を率いて志那渡(しなのわたし)で迎え撃った。官軍が半ば渡ったところで、船の多くが砂に乗り上げて動けなくなった。高氏は兵を放ってこれを撃ち破った。やがて官軍の兵糧はますます尽き、兵卒は日々逃亡し、支えきれなくなった。鎮守府大将軍源顕家(みなもとのあきいえ)が兵を率いて西上すると、高氏は高師泰(こうのもろやす)らとともに黒地川(くろぢがわ)で迎え撃った。顕家は戦わずに南へ走り去った。正平三年、高師直に従い、二度目の楠正行(くすのきまさつら)攻めを四条畷(しじょうなわて)で行い、兵千余を率いて生駒山(いこまやま)南麓に陣を敷いた。正行は誅伐の軍と幾度か戦ったが、高氏は「敵が疲れれば必ず師直の軍へ向かうだろう。そのまま進ませておいて、後ろから襲うのがよい」と読んだ。やがて正行の後軍が小旗一揆(こばたいっき)を攻め、戦いが酣(たけなわ)になったところで、高氏は兵を放って山を下り、これを撃って大いに破り、正行はついに戦死した(注:『太平記』による)。正平五年、尊氏が西へ下ってその子直冬(ただふゆ)を討ったとき、高氏は足利義詮(あしかがよしあきら)に従って京師を守った。このとき足利直義は尊氏に背いて南へ走り、やがて男山(おとこやま)に出兵し、桃井直常に延暦寺に陣を敷かせて攻めて来ようとした。高氏は義詮に従って西へ走った(注:『太平記』『園太暦』を参照した)。道中で尊氏に出会い、兵を合わせて引き返し直義を攻めた。高氏は兵七百余りを率い、旗を伏せ笠印を巻いて中霊山(なからちさん)に伏せた。直常は仁木頼章(にっきよりあきら)・細川清氏(ほそかわきようじ)らとともに四条河原で戦い、決着がつかぬまま兵を引いた。高氏はこれを見て、山を下ってその背後を襲い、直常はついに敗走した。翌日、尊氏が西へ走ると、高氏もこれに従った。尊氏が直義と講和するに及び、高氏も再び従って京師へ帰った(注:京師へ帰ったことは『東寺長者補任』による)。やがて尊氏・直義は表向き和合したが、内心では互いに疑い合い、諸将も党派を分けてそれぞれ自国へ帰り、高氏もまた近江へ帰った。直義が北へ走って敦賀に至ると、尊氏は自らこれを討とうと鏡駅(かがみのえき)まで進み、高氏は子の秀綱(ひでつな)・高秀(たかひで)とともに兵三千を率いてこれに合流した(注:『太平記』による。○高秀の名は『天正本』による)。直義は兵を遣わして八相山(はっそうやま)に陣を敷き、尊氏を防がせた。高氏は土岐参河守(ときみかわのかみ)とともに危険を冒してまっすぐ進んだ。敵が動揺したところを、奮戦して大いにこれを破った。尊氏が八相山に陣を進めると、時満と渋川直頼(しぶかわなおより)は観音寺城(かんのんじじょう)を守った。折しも直義の党である高山伊予守(たかやまいよのかみ)・上野左京亮(こうずけさきょうのすけ)がともに鏡山(かがみやま)に拠り、佐々木信詮(ささきのぶあきら)が兵を率いてこれに合流し、勢いが盛んになった。時満が急を告げると、尊氏は高氏を援軍に向かわせた。高氏は舟岡山(ふなおかやま)に至り、信詮と戦って大敗し、逃げた。敵の追撃が急で自害しようとしたが、一族の加治豊前二郎(かじぶぜんじろう)の兵、志田栄重(しだひでしげ)がこれを止め、自ら進んで戦い討ち死にしたので、高氏はようやく脱出することができ、八尾城(やおじょう)に立てこもった。直頼・時満はついに観音寺城を捨てて尊氏の陣営へ向かい、敵の勢いはますます盛んになった。やがて直義は鎌倉へ走り、両軍とも兵を退いた(注:『天正本太平記』による)。尊氏は京師へ帰り、偽って吉野に降伏する計略を練った。高氏は赤松則祐(あかまつそくゆう)とともにこの計略に賛成した(注:『園太暦』による)。尊氏が兵を率いて東へ出て、直義を徹底的に討伐すると、高氏には義詮に従って京師を守らせた。正平七年、官軍が攻めて来て義詮が敗れると、高氏はこれに従って武佐寺(むさじ)へ走った。まもなく男山攻めに従い、これを陥落させた。この戦いでは山名師義(やまなもろよし)の奮戦が最も目覚ましく、しばしば高氏のもとを訪れて義詮への恩賞の取り次ぎを求めた。しかし高氏は陰険で狡猾な性格で、自分より上の者を常に妬み陥れ、讒言を好んだ。師義の功を妬み、たびたび連歌の会や茶会を口実にして会おうとせず、夕方まで待たせたりした。師義は大いに怒り、父の時氏とともに兵を挙げて義詮に背いた(注:『天正本太平記』による)。正平十四年、高氏は義詮に従って吉野を攻めた。このとき仁木義長(にっきよしなが)が執事となっていたが、畠山国清(はたけやまくにきよ)は諸将と結んでこれを殺そうと図った。高氏は日頃から義長の専権を憎んでおり、密かにその企てに与した。国清が諸将とともに摂津から入って義長を攻めようとすると、義長は兵を集めて義詮の邸を守らせ、内外の出入りを断った。その夜、高氏は側門から入り、義詮に会って、「義長は皆に憎まれております。将軍がどうしていつまでもこれを庇っておられましょうか。とはいえ、諸将もまた勝手な振る舞いが多く、その本心は測りかねます。ひとまず密かに脱出して情勢をご覧になるのがよろしいでしょう。私はすでに馬を北門に用意させております。どうかこれにお乗りになって脱出なさいませ。私はこれから義長のもとへ行って話をし、気づかれぬようにいたします」と言った。そして兵百余りを率いて表向き義長のもとへ赴き、事に時間をかけている間に、義詮は脱出することができた。義長はついに伊勢へ逃れ、吉野方に降伏した。義長の失脚以後、細川清氏が執事となった。かつて義詮が南朝方を攻めて尼崎に駐屯していたとき、近臣の多くが摂津守護赤松光範(あかまつみつのり)の供給の怠慢を訴えた。高氏はそこで義詮に願い出てその職を奪い、自らこれを兼ねた。義詮はこれを許した。清氏は高氏のやり方を不当だとし、たびたび光範の復職を願い出たが、聞き入れられなかった。備前福岡の旧頓宮(とんぐう)は藤康(とうこう)の所領であったが(注:藤康の名は『金勝院』による)、事件に連座して所領を削られた。赤松則祐がこれを願い出て手に入れた。藤康はのちに清氏に仕えて戦功を立てた。清氏は義詮に願い出てその旧領を返還させようとし、義詮はこれを許した。しかし則祐は高氏の婿であったので、その勢いを頼んで命令に従わなかった。加賀守護富樫高家(とがしたかいえ)が死に、子の竹童丸(たけどうまる)が幼かったため、高氏はその守護職を奪って娘婿の斯波氏頼(しばうじより)に与えようとしたが、清氏はこれを認めなかった。義詮に願い出た結果、竹童丸がそのまま守護とされた。高氏はたびたび清氏に阻まれたことを憤り、報復しようと考えた。折しも義詮が清氏に命じて、七夕にその邸で七百番の歌合を開かせた。清氏は大いに喜び、心を尽くして準備した。高氏はこれを聞くと、自邸内に七か所の席を設けて七番の料理を出し、賭物七百点を用意し、本非茶(ほんびちゃ)七十椀を添えて義詮を招いた。義詮はかえって高氏の邸に赴いて酒を飲み、清氏は大いに憤慨した。このとき清氏は二人の子に元服の冠を八幡宮でつけさせたが、八幡宮は源氏が宗祀とする社であったため、義詮は清氏が異心を抱いているのではと疑うようになった。高氏はこれを知り、好機と見た。折しも妖しい僧志一(しいち)という者が鎌倉からやって来て、たびたび高氏のもとを訪れた。高氏が「近ごろどのような施主から布施を得たか」と尋ねると、志一は「相模守殿(清氏)がある祈願をなさり、願書を託されて布施の銭十万を得ました。おかげでしばらく旅の費えを賄うことができました」と答えた。高氏はその願書を無理やり求め、伊勢某(いせのなにがし)に頼んでこれを義詮に見せた。伊勢某はその願書に「義詮死し、基氏(もとうじ)滅び、すでに天下を得た」という文言があったため、清氏の書いたものではないと疑い、隠して取り次がなかった。ちょうど義詮が病にかかったとき、高氏が見舞いに行って、「清氏が将軍を呪詛しているのをご存じですか」と言った。義詮が「知らない」と答えると、伊勢某を呼んでその願書を差し出させた。義詮は大いに恐れ、祈祷による解禳(げじょう、災いを解く祈祷)を命じた(注:解禳のことは『天正本』による)。そこで清氏がきっと願書を八幡宮に納めているに違いないと考え、宮司たちに尋ねさせたところ、果たして願書が見つかり、その文面は志一に与えたものと全く同じであった。しかし当時から、これは清氏自身の筆跡ではないと皆が疑っていた。義詮はこれ以来、高氏と日々清氏を誅殺する相談をした。高氏は禍が自分に及ぶことを恐れ、にわかに病と称して有馬温泉へ赴いた。数日後、義詮はついに兵を発して新熊野(いまくまの)に陣を構えた。清氏は(義詮に)帰順し、官軍を率いて義詮を攻めた。高氏は義詮とともに近江へ逃れた。高氏は逃げるにあたって、自邸を清らかに掃き清め、名筆の書画や珍しい調度、酒食を並べ、留守を守る二人の僧に、訪れる者をもてなすよう言い置いた。やがて楠正儀(くすのきまさのり)がその邸の門前に陣を止めると、門番の僧が出迎えて、「高氏がつつしんで酒肉をご用意いたしました。従者の方々のねぎらいにお使いください」と言った。正儀は大いに喜んだ。清氏は邸を焼き払おうとしたが、正儀はこれを押しとどめ、酒肉と鎧一領・刀一振りだけを受け取って立ち去った。人々は、高氏の腕前は見事なもので、この一件で正儀の刀と鎧を賭けに勝ったようなものだ、と評した。高氏はまもなく義詮に従って京師へ帰った。清氏の失脚以後、足利高経(あしかがたかつね)が政務を執ったが、高氏はまた高経と事ごとに対立し、ついに佐々木氏頼・赤松則祐らとともに、偽りの讒言を仕組んでこれを陥れた。高経は北へ走って越前へ逃れ、義詮は兵を遣わしてこれを追わせた。高経は包囲の中で死んだ。思うに義詮の代を通じて戦乱がやまなかったのは、皆高氏に端を発するものであった。しかし高氏はいつも巧みに身をかわし、ついに禍を免れた。そもそも尊氏が兵を挙げた当初、諸将は大抵情勢をうかがい、寝返りも容易であった。しかし高氏の一族はひたすら尊氏に付き従い、終始変わることなく、子弟の多くが尊氏のために命を捧げた。尊氏を導いて北条氏討伐を図って以来、東西の征討に従わなかったことはなく、智略に富み兵法に通じ、その功績は最も多かった。それゆえ厚い寵遇を受け、当時これに並ぶ者はなかった。義詮が征夷将軍に任じられたとき、源頼朝が三浦義澄(みうらよしずみ)に鶴岡八幡宮で将軍宣旨を受けさせた故事にならい、代々忠義に厚い家柄の者を宣旨を受ける使者に選び、高氏の孫秀詮(ひであきら)がこれに当てられ、人々は皆これを誉れとした。しかし高氏は功に頼んで横暴になり、憚るところがなかった。当時の武人はほしいままに人の田畑を奪い、百姓を搾取し、公卿を踏みにじり、競って奢侈を尊んだ。高師直の代以後、高氏がその筆頭であった。あるとき国中で鷹狩りをして西郊に出た。戻る途中、従者に命じて妙法院(みょうほういん)の楓の枝を切らせた。院主の亮性法親王(りょうしょうほっしんのう)が人をやって叱り止めさせると、従者は大いに侮辱し、さらに太い枝を折った。宿直の僧たちがこれを打ち据えて追い払った。高氏は怒って、「院主ともあろう者が、よくも人を辱めたな」と言い、その夜のうちに子の秀綱とともに三百人を率いて火を放ち妙法院を焼き払った。院の者たちは狼狽し、ことごとく捕らえられて斬られ、あるいは傷つけられた(注:斬られ傷つけられたことは『天正本』による)。法親王は裸足で逃げてかろうじて難を逃れ、弟子の亮仁法親王(りょうにんほっしんのう)は寝台の下に隠れたが、秀綱はこれを引き出して打ち据えた(注:亮性・亮仁の名は諸種の門跡譜による。○異本『太平記』には秀綱が亮仁を殺害したとあるが、『皇胤紹運録』や諸門跡譜はいずれも早世としており、どちらが正しいか分からない)。延暦寺はこの事件を光明院(こうみょういん)に訴え、また尊氏にも訴えて、高氏父子を厳罰に処すよう求めた。光明院は内心その訴えを認めたいと思ったが、公卿には裁断を下す権限がなかったため、尊氏に罪を議するよう命じた。しかし尊氏・直義はこれを放置して問わなかった。翌年になって、延暦寺の僧徒が日吉神輿(ひえのしんよ)を奉じて御所に入れようと謀った。尊氏はやむを得ず、高氏の死罪を一等減じて上総国山辺郡(かずさのくにやまべぐん)へ流罪にすることを奏上した(注:『天正本』には武射郡とある)。高氏は日吉の神が猿を愛するとして、出発に際し、家臣三百余人に腰当てと矢入れをすべて猿の皮で作らせ、それぞれ籠に入れた鶯を提げさせて、近江の国分寺まで見送らせた。宿泊する先々では盛大に歌舞音曲の宴を設けた。まもなく赦されて帰ると、また京にいる富貴の者六十三人と次々に茶会を開いた。錦繍(きんしゅう)をまとった椅子にもたれ、虎や豹の皮を敷いて座り、五尺四方の盤に色とりどりの果物を盛り、まるで方丈の食事のようであった。酒が三巡すると闘茶を行い、それぞれ百組の賭物を出し、金・香・衣服・織物・小さな鎧・太刀の類が山のように積み上げられ、俳優や娼妓を放ってこれを取らせた。また囲碁の勝負も行い、一局に数千貫を賭けた(注:『太平記』による)。高氏の家では毎夜燃やす蝋燭の垂れ滴りだけでも、門番の僧の俸給に充てるほどであった(注:『季瓊日録』による)。その後、近江に退いて隠棲した(注:『常楽記』による)。文中二年に死去した。享年六十八(注:『佐々木系図』『後深心院関白記』『花営三代記』『常楽記』による。○享年六十八は『系図』による)。 子は秀綱(ひでつな)・秀定(ひでさだ)(注:定は宗とも書くが、今は『太平記』に従う)・高秀(たかひで)である(注:『佐々木系図』による)。秀綱は検非違使・左衛門尉・近江守に任じられ、従五位下に叙せられ、侍所別当となった(注:『佐々木系図』『太平記』による。○左衛門尉は『系図』による)。正平八年、山名時氏が義詮を攻め、後光厳院(ごこうごんいん)が東坂本(ひがしさかもと)に行幸された際、義詮は秀綱に護衛させた。やがて義詮が戦いに敗れると、後光厳院を美濃へお連れした。秀綱は後方を守った。官軍の堀口貞祐(ほりぐちさだすけ)が堅田郷(かただごう)の兵を率いてこれを迎え撃ったが、秀綱がかつて妙法院を焼いたことがあったため、真野浦(まのうら)の郷兵はこれを見て「これぞ山門(延暦寺)の仇である」と言い、山や沢に隠れて乱射した。秀綱はついに戦死した(注:『太平記』による)。秀定は四郎左衛門と称した。正平三年、高師直に従って大和の水越(みずこし)で戦死した(注:『常楽記』『尊卑分脈』を参照した)。高秀は五郎左衛門と称した。二人の兄が先に死んだため、高秀が高氏の跡を継ぎ、治部少輔・能登守・大膳大夫に任じられ、従五位下に叙せられた(注:『佐々木系図』による)。侍所別当となった(注:『太平記』『花営三代記』による)。元中八年冬、堅田で戦死した(注:『常楽記』『佐々木系図』を参照した)。秀綱の子秀詮(ひであきら)は従五位下に叙せられ、検非違使・左衛門尉に任じられ(注:『尊卑分脈』による)、近江判官と称した。秀詮の弟氏詮(うじあきら)は次郎左衛門と称した。正平年中、高氏が赤松光範に代わって摂津守護となると、秀詮・氏詮を遣わしてこれを守らせた。楠正儀・和田正武(わだまさたけ)が攻めて来ると、秀詮・氏詮は兵千余人を率い、神崎橋(かんざきばし)に拠ってこれを防ごうとした。守護代の吉田厳覚(よしだげんかく)は勢い込んで、「前の守護は臆病であったため、しばしば侵略を受けました。それゆえ貴殿が代わって鎮めておられるのです。ところが今日の南朝軍は死にに来たようなもの、どうしてまた前の守護のようなやり方を真似ることがありましょうか。ただちに突き進んで戦い、これを殲滅すべきです」と言った。秀詮・氏詮はこれを是として、兵を率いて進んだ。途中で牧童に出会い、「和田氏の軍五百ほどが、ちょうど渡辺橋を渡っております」と告げられた。厳覚は笑って、「たとえ楠家の軍が川を渡ろうとも、一緒に討ち破ってやるまでだ」と言い、馬に水を飲ませて休んだ。正儀はこれを間者から知り、数人の兵を遣わして、「敵が西から来るのに、なぜ神崎橋を守らないのか」と叫ばせた。秀詮・氏詮はそこで軍を返して西へ引き返したが、道の両側はすべて泥沼で、伏兵が左右から雨のように矢を射かけてきた。軍勢は乱れ、平地に出ようとしたところを官軍が兵を放って乗じ、味方の軍は大いに崩れた。厳覚は先に橋を渡って橋板を取り外して逃げたため、秀詮・氏詮は後から追いついたが渡ることができず、引き返して戦って死んだ(注:『太平記』による)。厳覚はのちに秀詮の子某(なにがし)を奉じて高秀を廃立しようと謀ったが、高秀はこれを察知して厳覚を殺した(注:『後愚昧記』による)。
佐佐木氏賴
¶佐々木氏頼(ささきうじより)は、高氏の一族で兄弟にあたる。曾祖父の泰綱(やすつな)は左衛門尉・検非違使を務め(注:『尊卑分脈』による)、壱岐守を兼ねた(注:『東鑑』『尊卑分脈』による)。父の時信(ときのぶ)は左衛門尉・検非違使を務め、六角氏(ろっかくし)を称した(注:『尊卑分脈』による)。元弘の乱では北条時益(ほうじょうときます)らに従い、しばしば官軍を防いだ。六波羅が敗れると、足利尊氏に降った(注:『太平記』による)。氏頼は近江守護に補任され(注:『太平記』『後愚昧記』による)、検非違使となった(注:『尊卑分脈』による)。尊氏が謀反を起こしたとき、氏頼はまだ幼かったが、観音寺城に拠ってこれに応じた。成長してからは常に尊氏に従って戦功を立てた。正平年中、尊氏が弟の直義と戦端を開くと、氏頼は中立の立場を取ってどちらにも与せず、西山のほとりに退いて剃髪し、名を崇永(すうえい)と改め、子の義信(よしのぶ)がまだ幼かったので、弟の信詮(のぶあきら)に命じて守護の職務を代行させた(注:『太平記』による。○『天正本太平記』を参照した)。その後、足利直冬・足利高経らが京師で尊氏を攻めた。氏頼は尊氏方に応じ、細川清氏らとともに防戦した。清氏は傷を負い、軍はほとんど敗れかけたが、氏頼が奮戦して、ついに高経を打ち破って敗走させた。まもなく足利義詮に従って吉野を攻め、平石城(ひらいしじょう)を攻め落とした。軍が引き上げると、畠山国清が仁木義長討伐の兵を挙げた。氏頼はかつて高山氏を滅ぼした功により、義詮からその恩賞としてその旧領をことごとく与えられていたが、義長はこれを自分の旧領だと主張して強引に奪い取った。氏頼はこれを恨みに思い、それゆえ国清と示し合わせた。義長が伊勢へ逃れると、その叔父の義住(よしずみ)が兵二千を率いて近江の葛木山(かつらぎやま)に拠り、市原城(いちはらじょう)を攻めようとした。氏頼は兵三百を率いて川沿いに三段の陣を構えて待ち受けた。義住は氏頼の兵が少ないのを侮り、兵を放って先を争って進ませた。氏頼はこれを迎え撃って大いに破り、将兵五十余人を斬獲して、その首を京師に送った。義住は降伏した(注:『太平記』による)。延暦寺の僧徒が日吉神輿を奉じて京師に入り、南禅寺の僧妙葩(みょうは)を訴えたことがあった。後光厳院は氏頼および一族の黒田高満(くろだたかみつ)に命じて(注:一族というのは『尊卑分脈』による)、それぞれ東門と北門を守らせた。僧徒は北門を犯して乱入し、宮中に押し入った。土岐直氏(ときなおうじ)らは神威を恐れて進んで戦おうとしなかったが、氏頼は力戦してこれを退け、数十人を殺傷した。後光厳院は自筆の書を賜ってこれを褒めた(注:『後愚昧記』『花営三代記』による。○『日吉神輿入洛記』『続正法論』を参照した)。建徳元年に死去した(注:『佐々木系図』『常楽記』『義堂日工集』による。○『花営三代記』には天授三年とあるが、誤りである)。享年四十五(注:『義堂日工集』による。○『佐々木系図』には三十五とある)。 子は義信(よしのぶ)・満高(みつたか)である。義信は早くに死んだ。満高は左衛門尉・備中守となり、検非違使を兼ねた。氏頼の弟信詮は(注:『天正本太平記』に定詮とあるのは誤りである)、山内氏(やまうちし)を称し、左衛門尉となり、検非違使を兼ねた(注:『尊卑分脈』『佐々木系図』による)。足利尊氏・直義が兵を交えたとき、信詮は直義方に属し、観音寺城を攻めてこれを奪い取り、兵勢は大いに振るった(注:『天正本太平記』による)。やがて直義が尊氏と講和して鎌倉へ帰ると、信詮らも兵を退いて、それぞれ自国へ帰った。直義が死ぬと、足利義詮に属した(注:『太平記』による)。
細川賴之
¶細川頼之(ほそかわよりゆき)は弥九郎(やくろう)と称し、頼春(よりはる)の子である。人となりは実直で謀略に富み、読書や詩歌の創作を好んだ。右馬頭(うまのかみ)となり、従四位下に叙せられた(注:『尊卑分脈』『細川家譜』『太平記』『細川頼之記』による)。常に足利尊氏に従って陣中にあった。やがて備中へ赴き、山陽地方を鎮撫した。正平十七年、細川清氏(ほそかわきようじ)が足利義詮に背き、讃岐の白峰城(しろみねじょう)に拠って官軍に応じた。頼之は兵六百余を率いてこれを攻め、歌津(うたづ)に陣を敷いた(注:兵六百は異本による)。清氏が不意を突いて襲うのを恐れ、自分の母を遣わして清氏を欺いて言わせた、「将軍(義詮)はつまらぬ者たちの言に惑わされ、あなたに今日のような挙に及ばせてしまいました。私はそれがやむを得ぬ事情によるものだとよく分かっております。しかし、亡き左大臣殿(尊氏)以来、仁木・細川の両氏は股肱の臣として、深く重んじられてまいりました。今あなたが急に肉親と功績を捨てて、いくさを起こそうとなさるのは、天下後世の人々に何と言われましょうか。もしお考えを改めて帰順なさるならば、領国以下すべて以前のままにいたします。私があなたのために請け合いましょう。もしどうしても事を構えて天下に志を遂げようとお思いなら、それは私の関知するところではありません。ひとまず備中に退き、あなたの鋭鋒を避けるまでです」と。清氏はこれにかなり心を動かされ、返事のやり取りに日を重ねた。その間に城壁は完成し、兵も集まったので、頼之はついに一切の交渉を絶った。数か月にらみ合い、清氏の兵糧が日ごとに乏しくなり形勢が窮まってきたと見計らうと、部将の新開真行(しんかいさねゆき)に命じて、わざと西長尾城(にしながおじょう)を攻めるふりをさせ、道すがら民家に火を放って清氏の軍をおびき寄せた。清氏は案の定、兵を分けてこれを救援に向かわせた。真行は陣を構えてにらみ合いながら、夜のうちに近道を通って白峰へ引き返した。頼之は自ら兵を率いてこれと合流し、挟み撃ちにして城を落とし、ついに清氏を斬った。西長尾城の守将も後詰めを失い、城を捨てて逃げた。頼之はそのまま讃岐にとどまり、四国を懐柔してまとめ上げ、中国地方から帰順してくる者も多かった(注:『太平記』による)。正平二十二年、義詮が病に倒れ、子の義満(よしみつ)に政務を執らせようとしたが、義満がまだ幼く重責に堪えないことを危惧し、慎重に後見役を選んだ。足利基氏(あしかがもとうじ)が頼之を執事に推薦し、当時の人々はよい人材を得たと祝った(注:『後愚昧記』『細川家譜』『細川頼之記』『太平記』を参照した)。義詮は臨終に際して頼之に、「私は二人の子(義満と幕府)をそなたに託す。どうか力を尽くして輔佐してくれ」と言い、また義満には、「私はそなたに一人の父(頼之)を遺す。謹んでその教えに背いてはならぬ」と言った(注:『細川家譜』による)。頼之はこれによって深く輔導の任に思いを致し、朝夕努め励んで、寝食を忘れるほどであった。学問と行いの醇厚な士で武事にも長じた者を選んで師友に充て、日々善道を説き聞かせた。世を避けて隠れ住む者であっても、義満の助けとなる者であれば、必ず熱心にこれを推挙した(注:『細川頼之記』『臥雲日件録』『空華集』を参照した)。また自ら戒めの法五か条を著して、当時の人々に広く頒布した。「一に曰く、主君にへつらい気に入られようとすることを戒める。二に曰く、親しい者の秘密を暴き疎遠な者を陥れ、好んで仇敵の家を誣告することを戒める。三に曰く、善からぬ者を悪と見なさず、愛憎によって人の是非を論じ、また表向きは穏やかで内心は険しく人を害しようとする者、表向きは淡泊に見せて内心は欲深い者、我がままで驕り高ぶり礼法に従わない者を戒める。四に曰く、功もないのに恩賞を求め、才もないのに禄を貪り、私利を優先して公を忘れることを戒める。五に曰く、ともすれば同僚の手柄を横取りして自分の昇進を望んだり、賄賂を受け取ったり、才のない者をみだりに推薦したりすることを戒める。およそこの法を犯す者があれば、身分の貴賤や親疎を問わず互いに告発してよい。告発した者には大いに褒賞を与える」と。これを書き記して義満の師友たちに授け、人物を評価する基準とし、人々の言動を見張らせた。頼之はなお姦邪な風潮がやまないことを憂え、そこで髪を剃った者六人に礼装をまとわせ、変わった頭巾と大刀を身につけさせて、義満や諸将士と親しく交わらせ、冗談や歌舞をもってその機嫌を巧みに取らせた。これを童坊(どうぼう)、また姦坊(かんぼう)と名づけた。士大夫の中にこれに似た振る舞いをする者があれば、頼之は密かに親しい者に頼んでこの童坊たちを差し向け、皆の前でその者を辱めさせた。士大夫たちはしばしばこれを恥じ、行いを改める者が多く出て、へつらいの風潮は大いに改まった(注:『細川頼之記』による)。義満が元服して冠をつけたとき、頼之が加冠役を務めた。その日、頼之は武蔵守に任じられた(注:『花営三代記』による)。
¶建徳二年、義満は楠正儀を河内へ帰らせ、吉野を討たせようとした。頼之は諸国の兵を発してこれを援護するよう願い出た。しかし諸将は、「正儀は河内を保つことすらできずに(こちらへ)逃げて来たのに、まして南朝方に向かって進めば、必ず利がないだろう」と考えた。義満はこの諸将の意見に従った。頼之は自分の進言が用いられなかったことを恥じて辞職を申し出、西山の西芳寺(さいほうじ)に退いて隠棲した。義満は自ら赴いてこれを引き起こし、養子の頼元(よりもと)に兵を率いさせて正儀を援護させた。諸軍はしばしば朝廷方の軍を破り、神器が京師に戻ったのは、もとをたどればこの挙によるものだという(注:『後深心院関白記』による。○『花営三代記』を参照した。○考えるに『細川頼之記』には、当時の人々が頼之を畏れ憚ることが義満以上であったため、頼之はこれを深く憂い、義満にその威権を取り戻させようと、密かに義満と謀り、人々の集まる場でわざと自分を叱責させ、それによって表向き恐れて職を辞したふりをして丹波に退いた、そして義満が人を遣わして呼び戻した、とあるが、今はこの説を採らない)。まもなく相模守に転じた。義満はしだいに頼之の権勢が盛んになるのを忌むようになり、側近たちがこれに乗じて二人を離間させたため、義満はますますこれを疑うようになった。天授五年夏、義満は頼之の職を罷免し、讃岐へ追い返す命令を下した。頼之は、つまらぬ者を退けることの難しさと、大きな功績もついには全うされなかったことを深く嘆いた。出発に臨んで剃髪し、名を常久(じょうきゅう)と改めた。詩を作って心情を述べ、「人生五十にして功なきを愧づ、花木春過ぎて夏すでに中(なか)ばなり、満室の蒼蠅(そうよう、うるさい蠅=讒言する者たち)掃い去りて、起きて禅榻(ぜんとう)を尋ね清風に臥さん」と詠んだ。義満はついに兵を発してこれを討とうとしたが、思い直してやめた(注:『細川系図』『花営三代記』を参照した)。やがて義満は頼之の功績を深く思い返し、再び会いたいと望んだ。厳島(いつくしま)へ参詣するに際し、頼之に命じて讃岐で船を用意させ、その途中で立ち寄って頼之に会い、ともに厳島へ赴いた(注:『足利義満厳島詣記』による)。元中八年、ついに頼之を京へ呼び戻した。折しも備後で大きな戦乱が起こったため、頼之を遣わしてこれを鎮定させた。軍が帰還すると、頼元を執事とし、頼之には事の決定に参与させた。頼之への信頼は以前と変わらず、天下の人々は再びその善政を望んだ(注:『東寺長者補任』『明徳記』を参照した)。やがて山名氏清(やまなうじきよ)・山名満幸(やまなみつゆき)が義満に背いて京師を攻めて来ると、義満は頼之らを召して軍議を開かせ、頼之および頼元らに内野(うちの)に陣を敷いて防がせた。大いに戦って満幸を敗走させ、氏清もまた敗死した。翌年、頼之は病が重くなり、頼元を通じて義満に言わせた、「近年山名氏は横暴で、たびたび法度に背いておりました。私は命が尽きぬうちにこれを取り除きたいと長らく思っておりましたが、今幸いにしてすでに誅伐されました。天下に誰が将軍の命令に逆らう者がおりましょうか。私は死んでも思い残すことはございません。ただ私は愚かな身でありながら久しく重職を汚し、常にその重責に堪えられぬのではと恐れておりました。何とぞ将軍がよろしくお計らいくださいますように」と。言い終えて死んだ(注:『明徳記』による)。時に年六十四であった(注:『細川系図』による。○『常楽記』には六十九とある)。義満は幼少のころから頼之に養育され、成長してからはますます敬い重んじ、事の大小を問わず、その言に従わないことはなかった。義満の治世の初めの善政は、すべて頼之の輔佐の力によるものであった。頼之が死ぬと、義満は大いに驚き哭泣し、自ら葬儀に臨んで柩に付き添って見送った。また自ら仏経を書き写して、その冥福を祈った。頼之の家臣に三島外記(みしまげき)という者がいた。勇壮で謀略に富み、武芸にも長じていた。頼之はこれを深く愛し、引き立てて共に事を議し、賓客や友人としての礼をもって接した。三島はその恩に深く感じ入り、頼之が死ぬと、腹を割いてこれに殉じた。頼之が人心を得ていたことは、これほどであった(注:『明徳記』による)。頼之には実子がなく(注:『清和源氏系図』による。○『尊卑分脈』には頼之の子として基之(もとゆき)を載せているが、その経歴を記していない。一方、満之(みつゆき)の子にも基之という者がいて、こちらにはその経歴が詳しく載っている。したがって頼之の子とされる基之は誤りであろう。それゆえ今は本書の説に従う)、弟の頼元・満之を養子とした。頼元は初め頼基(よりもと)と名乗り、右馬助・右京大夫となり、従四位上に叙せられ、義満の執事となった(注:『尊卑分脈』による)。吉野を攻め、山名氏清を防いで、いずれも功績を立てた。義満は丹波を与え(注:『花営三代記』『明徳記』を参照した)、その子孫は代々執事職を世襲した。満之は阿波守・兵部少輔となり、備中守護となった(注:『尊卑分脈』による)。