卷之一百九十三 列傳第一百二十
將軍家臣三
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
佐佐木秀義
¶佐佐木秀義(ささきひでよし)は源三(げんぞう)と称した。(注:『東鑑』による。)その先祖は敦実親王(あつみしんのう)に出て、親王は雅信(まさのぶ)を生み、源の姓を賜った。雅信は参議扶義(すけよし)を生んだ。扶義はかつて近江守を務め、兵庫助成頼(なりより)を生んだ。(注:『尊卑分脈』による。あわせて『佐佐木系図』を参照した。)成頼は近江佐佐木荘に住み、章経(あきつね)を生んだ。章経は経方(つねかた)を生み、経方は季定(すえさだ)を生み、季定は秀義を生んだ。秀義は佐佐木三郎と称した。秀義は十三歳のとき、左衛門大尉源為義(ためよし)と父子の約を結んだ。(注:印本『尊卑分脈』による。)保元の乱では、義朝(よしとも)に従って白河殿を攻めた。(注:『保元物語』による。)平治の乱では源義平(よしひら)に属し、鎌田政家(かまたまさいえ)らとともに十六騎で平重盛(たいらのしげもり)の軍を防いだ。まもなく義朝の軍は敗れて東へ逃れ、追討の兵が激しく迫ったが、秀義は力戦してこれを退けた。(注:『平治物語』による。)義朝が死んだのち、秀義は郷里へ帰り、平氏に属することを潔しとせず、ついに所領を奪われて、子らを率いて陸奥へ赴き、叔母の夫である藤原秀衡(ひでひら)を頼ろうとした。途中相模を通ったところ、渋谷荘司(しぶやのしょうじ)平重国(しげくに)がその勇猛さを愛し、引き留めて行かせず、娘を妻として与え、渋谷に二十年住まわせた。この間に子の義清(よしきよ)が生まれた。これより先、源頼朝(よりとも)が伊豆に流されていたとき、秀義は子の定綱(さだつな)・盛綱(もりつな)を遣わして絶えず安否を伺わせていた。治承四年、以仁王(もちひとおう)が諸国に檄を伝えて平氏討伐を呼びかけたが、その軍は敗れた。このとき大庭景親(おおばかげちか)が京都から戻り、ひそかに秀義を招いて言った。「私は京都にいたとき、相国(太政大臣平清盛)の腹心である藤原忠清(ただきよ)に会った。忠清は一通の書状を開いて私に語ったが、それは長田入道(おさだにゅうどう)が告げたものであった。北条四郎(時政)・比企掃部允(ひきかもんのじょう)らが、伊豆の流人源頼朝を奉じて謀反を企てているとのことで、事は容易ならぬものだ。高倉宮(たかくらのみや、以仁王)が事を起こして以来、相国は諸国の源氏を取り締まろうとしている。ちょうどこの書状が届いたので、急ぎ相国に申し上げないわけにはいかない。私と貴殿とは旧知の間柄なので、聞いたことを漏らすのだ。貴殿のご子息が頼朝と親しく行き来していると聞く。時機を見て考えを改め、災いに巻き込まれぬようにされよ。」秀義は礼を述べて帰り、すぐに定綱を遣わしてこれを頼朝に告げさせた。頼朝はこれによって急ぎ挙兵した。定綱とその弟の経高(つねたか)・盛綱・高綱(たかつな)らは、真っ先に戦功を立てた。(注:『東鑑』による。)寿永三年、平田家継(いえつぐ)らが伊賀・伊勢で挙兵し、平氏の後詰めとなって大内惟義(これよし)を襲い、近江へ転じて攻め入った。秀義は甲賀郡の兵を発して大原荘で迎え撃ち、川を隔てて互いに矢を射合った。家継らは精鋭を尽くして進撃した。秀義は陣頭に立って指揮を執ったが、矢に当たって倒れた。時に年七十三であった。従う兵たちは憤り悲しみ、川を渡って奮戦した。惟義が来援して合流し、敵を撃って敗走させた。(注:『東鑑』『源平盛衰記』による。)子は定綱・経高・盛綱・高綱・義清である。経高については別に伝がある。
佐佐木定綱
¶佐佐木定綱(さだつな)は太郎と称した。(注:印本『尊卑分脈』による。)宇都宮に身を寄せ、渋谷へ行き来して父を見舞っていた。秀義は定綱に伊豆へ行き、大庭景親の話を頼朝に告げるよう命じた。頼朝は喜んで言った。「私はまさに挙兵しようとしている。事はすでに京都に知れ渡り、平氏は必ず目代の平兼隆(かねたか)と大庭景親に私を討たせるだろう。私は先んじて不意を討とうと思う。もとよりお前たち兄弟を呼び寄せようと思っていたところ、幸いにもちょうど来てくれた。ここに留まって弟たちを呼び寄せるがよい。」(注:『東鑑』による。あわせて『源平盛衰記』を参照した。)定綱は一度戻って甲冑を取り、弟たちとともに来ることを願い出た。頼朝はそこで日を定めて遣わし、あわせて書状を渋谷重国にも送って召した。重国は来なかったが、定綱は弟たちを率いてやって来た。あいにく秋の長雨で道が通じず、約束の期日に一日遅れた。頼朝は重国がまさに平氏に仕えているところであり、事が漏れることを恐れて、内心かなり後悔していた。翌日、定綱は弟たちとともに到着した。定綱・経高はやせ馬に乗り、盛綱・高綱は徒歩で従っていた。頼朝はその苦労のさまを見て、深くその忠誠を称えて言った。「お前たちが到着してくれたおかげで、今朝はまだ敵を襲わずに済んだ。」その夜、経高・高綱とともに北条時政に従って兼隆を襲った。頼朝は盛綱と加藤景廉(かとうかげかど)を留めて自らの備えとした。兼隆の一党である堤信遠(つつみのぶとお)は勇猛で、山木の館の北に別に住んでいた。時政は定綱・経高・高綱を遣わしてこれを襲わせた。信遠の家来たちは矢を放って防いだ。定綱兄弟は力戦して信遠を斬り、時政の陣に戻り、ともに兼隆を攻めてこれを破った。(注:『東鑑』による。長門本『平家物語』では信遠は兼行(かねゆき)に作る。)石橋山の戦いに敗れると、頼朝は箱根山に逃げ込み、将士を解散させた。定綱・盛綱・高綱は重国の家に匿われた。(注:『東鑑』『源平盛衰記』による。)頼朝が佐竹秀義(さたけひでよし)を討った際、定綱は従って金砂城(かなさじょう)を攻め、重ねた功によって左衛門少尉となり、佐佐木荘の地頭に任じられた。(注:『東鑑』による。)
¶建久の初め、近江守護となった。これより先、佐佐木荘の年貢は延暦寺の千僧供料に充てられていたが、水害に遭って未進が多くなり、僧徒は日吉社(ひえしゃ)の宮仕(みやづかえ)を遣わし、神鏡を奉じて定綱の邸に押し入り、激しく責め立て、門や塀を打ち破り、奴婢を辱め、近隣の民家に放火した。当時定綱は京都におり、子の定重(さだしげ)が怒って兵を指揮してこれを防ぎ、宮仕二人を傷つけた。僧徒は事実を偽って訴え、「定重は放火して橋を断ち、騎馬を放って帰り道をふさぎ、殺傷したものが甚だ多い。定重父子兄弟を厳しく処罰されたい」と奏上した。(注:『玉海』『東鑑』を参照した。)そして頼朝に訴え出たので、朝廷の議では父子を遠流に処し、手を下した者を獄につなぐこととした。僧徒はなおも強く訴え続け、日吉の神輿を奉じて御所に押しかけた。おおよそ延暦寺の訴えには、代々の朝廷が特別な配慮を示してきた。頼朝は建義の功臣として、あれこれと手を尽くして定綱を庇おうとしたが、力及ばず、定綱を薩摩に、子の広綱(ひろつな)を対馬に、定高(さだたか)を土佐に流した。それでも僧徒は納得せず、なおも定重を殺すよう強く求めた。やむを得ず定重を斬り、その首を辛崎(からさき)にさらした。建久四年、定綱らは赦免されてみな鎌倉に帰った。頼朝は再び定綱を近江守護とし、所領をすべて元に戻した。(注:『東鑑』による。)子は広綱・定高・信綱(のぶつな)である。広綱と定重の子久綱(ひさつな)については別に伝がある。
佐佐木信綱
¶佐佐木信綱(のぶつな)は左近衛将監に任じられ、(注:『東鑑』『関東評定伝』による。)右衛門尉に転じた。(注:『関東評定伝』『佐佐木系図』による。)承久三年、北条泰時(やすとき)に従って宇治へ至った。折しも大雨に見舞われて川の水が急に増し、官軍(朝廷方の軍)は橋を撤去し、川底に太い綱を引いて東軍(幕府方の軍)をはばもうとした。泰時は諸軍を一斉に進めて勢いに乗じて決戦しようとしたが、いったん軍勢をまとめて退き、柴田兼義(しばたかねよし)を偵察に遣わした。兼義は水の浅い場所を見つけて戻り報告した。泰時はそこで兼義と春日貞幸(かすがさだゆき)に先に渡らせることにした。信綱はそばでこれを聞き、兼義について行ってその場所を尋ねた。兼義は答えずに進んだ。信綱は馬を馳せてこれに続いたが、兼義の馬は水を恐れて進まなかった。信綱は刀を抜いて綱を断ち切って進み、ついに一番乗りを果たした。(注:『東鑑』『承久記』を参照した。)左衛門少尉に転じ、検非違使・近江守となった。その功によって近江守護に補任され、(注:『東鑑』『関東評定伝』による。)あわせて数か所の地頭を兼ねた。従五位上に叙され、評定衆となった。剃髪して法名を虚仮(こか)といい、(注:『東鑑』『関東評定伝』『佐佐木系図』による。)高野山に隠棲した。(注:『東鑑』『関東評定伝』による。)仁治三年に没した。(注:『佐佐木系図』による。『関東評定伝』では仁治二年とする。)
¶子は重綱(しげつな)・高信(たかのぶ)・泰綱(やすつな)・氏信(うじのぶ)である。(注:『佐佐木系図』による。)重綱は宇治川の戦いのとき年十五で、父の馬の尾につかまって泳ぎ、川を渡って中島に至り、父の命を受けて北条泰時の軍に使者として赴き、行き来して命を伝え、当時の人々はその勇敢さを称えた。(注:『東鑑』『承久記』を参照した。)高信は左衛門尉に任じられた。嘉禎元年、勢多橋の修理を監督し、高島郡の人夫を徴発した。郡内には日吉の神人が雑居しており、延暦寺の僧徒はそのうちの数人を(神人として)改めて補していた。徴発に際し、改補された者たちが公役の免除を願い出たが、高信の吏はこれを聞き入れず、神人との間で怒って争うまでになった。そこで延暦寺の僧徒は日吉の神輿を奉じて京都に入り、これを訴えた。朝廷の議では高信を豊後に流すこととした。(注:『東鑑』による。豊後については『百錬抄』による。)泰綱は左衛門尉に任じられ、(注:印本『尊卑分脈』による。)検非違使に補せられ、近江守護となり、壱岐守に任じられた。(注:『東鑑』印本『尊卑分脈』による。)かつて渋谷武重(しぶやたけしげ)とともに幕府の宿直の番を務めた際、泰綱が武重を「大名」と呼んだところ、武重は不快に思い、自分をからかっていると考えて言った。「私は今でこそ大名の列にないが、我が家の祖である渋谷荘司は、実に大名の列に加わっていた。貴殿の曾祖父が流浪していたころ、かつて我が家で衣食を得ていたのだ。それが今、子孫が大名となったからといって、どうして高慢に構えて人を侮ってよいものか。」泰綱は言った。「先頃、源氏が衰えたとき、関東の将士はみな平氏に誠意を通わせ従っていた。貴殿の祖である荘司といえども、独り立つことはできなかった。我が曾祖父はひとり節を曲げず、代々伝わってきた佐佐木荘を離れ、子らを率いて相模に仮住まいした。荘司は娘を我が曾祖父に嫁がせ、婿舅の縁を結んだのだから、これもまた人並みに扱わなかったわけではない。まして右幕下(頼朝)が覇業を創めるに及んでは、子らとともに格別の勲功を立てた。兄弟五人が十七か国の守護に補せられ、検非違使に任じられたのだ。ならば昔の流浪など、どうしてたびたび恥とするに足りようか。」武重は言葉に詰まった。泰綱は北条氏に親しく信頼され、子の頼綱(よりつな)は北条時頼(ときより)の邸で元服の儀を行った。幕府の上位の者たちが集まって礼を行った。氏信は左衛門尉に任じられ、対馬守に転じた。(注:『東鑑』による。)曾孫の高氏(たかうじ)については別に伝がある。泰綱・氏信の子孫は続き、代々国司・衛府に至った。(注:『佐佐木系図』印本『尊卑分脈』による。)定綱の弟が盛綱である。
佐佐木盛綱
¶佐佐木盛綱(もりつな)は三郎と称した。年十六のとき、配所にいた源頼朝に拝謁した。頼朝は安達盛長(あだちもりなが)に命じて元服の加冠役を務めさせた。(注:『佐佐木系図』による。)頼朝が挙兵した当初から従軍して功があった。寿永三年、源範頼(のりより)が西海で平氏を討ったとき、平行盛(たいらのゆきもり)は備前の児島(こじま)に拠っていた。範頼はこれを聞いて船を捨てて藤戸(ふじと)に至ったが、敵はしばしば扇を掲げて挑発し、範頼の軍は水にはばまれて渡ることができなかった。盛綱は一人の漁師を捜し出して浅瀬を尋ねた。漁師は「上弦の月の夜は東に浅瀬があり、下弦の月の夜は西にある」と答えた。そこで夜になってともに渡り、ひそかに目印を立てて戻った。(注:諸本の『平家物語』では、盛綱は漁師が浅瀬の場所を他人に告げることを恐れて、これを殺して口を封じたとする。)翌日、敵がまた挑発してきた。盛綱は数騎とともに馬を躍らせて海に入った。範頼はその溺れることを恐れて人を遣わして止めさせようとしたが、盛綱は聞こえないふりをして進み、諸軍もこれに続いて渡り、行盛を撃ち破って敗走させた。(注:『源平盛衰記』による。本書および『平家物語』はともにこの戦いを九月のこととする。しかし『東鑑』によれば、範頼は十月に安芸に至っており、この戦いは十二月のこととされるが範頼のことは記されていない。また翌年正月の頼朝から範頼への書状によれば、盛綱は範頼の麾下にいなかったことになる。本書は盛綱が範頼に属して児島を攻めたとするが、おそらく誤りであろう。しかし他に徴すべき書がないので、ひとまず本書に従う。)頼朝は自筆の書状でこれを称えて言った。「昔から川を乱して渡った者はいるが、馬に乗って海を渡った者は聞いたことがない。まことに世にも稀な武功である。」(注:『東鑑』による。)これによって児島を賜った。(注:『源平盛衰記』による。)重ねた功によって左兵衛尉に補せられ、伊予守護となり、越後に所領を得た。頼朝が薨じると、剃髪して法名を西念(さいねん)といった。頼家(よりいえ)が跡を継ぐと、寵愛はやや衰え、ある事件に連座して所領を奪われた。(注:『東鑑』による。)
¶建仁元年、越後の人城資盛(じょうすけもり)が反乱を起こし、佐渡・越後の兵でこれを討ったが打ち破ることができなかった。幕府の議では「将領が適任でない」とされた。頼家は盛綱に命じてこれを討たせた。当時盛綱は上野の磯部(いそべ)におり、命令書が届いたとき、たまたま門の外にいて、そのまま馬に乗り鞭を振るって出発した。従う兵たちは身支度をする暇もなく、あわてて後を追いながら、その軽々しい行動を諫めた。盛綱は言った。「私はこう聞いている。『天慶年間、平将門(たいらのまさかど)が反乱を起こした。宇治民部卿(藤原忠文)が追討使となったが、ちょうど食事をしているところへ詔書が届くと、箸を投げ捨てて参内し、節刀を賜った。家にも戻らず、まっすぐ東国へ向かった。』これこそ勇士の重んじるところである。」そこで昼夜兼行で道を急ぎ、三日で越後の鳥坂(とっさか)に到着した。使者を遣わして説得を試みたが聞き入れられなかった。そこで越後・佐渡・信濃の兵を率いて城を取り囲んだ。盛綱の子で兵衛尉の盛季(もりすえ)が真っ先に攻め入ろうとし、海野幸氏(うんののゆきうじ)がこれと先を争ったが、盛季の従者が(幸氏の馬の)手綱を取って止めた。盛季は隙を見て先に攻め入り、幸氏がこれに続いた。城の兵は死力を尽くして戦い、盛季・幸氏はともに傷を負った。資盛の叔母である坂額(はんがく)は力が強く弓に長けていたが、藤沢清親(ふじさわきよちか)が股を射抜いてついにこれを捕らえた。資盛は敗走し、城は落ちた。(注:『東鑑』による。)
¶子は信実(のぶざね)・盛季である。信実は加地太郎(かじたろう)と称した。父盛綱が頼朝と双六(すごろく)を打っていたとき、信実は当時十五歳で、そばに控えてこれを見ていた。工藤祐経(くどうすけつね)が後から来て、信実を抱きかかえてどかせ、代わってその席に座った。信実は顔色を変え、立ち上がって石を投げつけ、祐経の額に当てた。血が流れて衣を汚し、信実は走り去ってどこへ行ったか分からなくなった。頼朝は怒り、盛綱に命じて捜し求めさせたが見つからなかった。盛綱は謝って言った。「永久に父子の縁を絶ち、身の置き場も与えません。」頼朝は言った。「お前は祐経のもとへ行き謝罪させよ。」盛綱は言った。「私と祐経とはもともと恨みも仇もありません。今、子どものことで仲間の前に膝を屈するのは、勇士の本意ではありません。どうか幕下(頼朝)から寛大なお取り成しをいただき、祐経の気持ちを慰めていただきたく存じます。」頼朝はこれをもっともだと思い、使者を遣わして祐経に意向を伝えて言った。「もとはといえば事の起こりは私の過ちである。子どものしたことで、もとより取るに足りぬことだ。まして盛綱に落ち度があるわけでもなかろう。」こうして事は収まった。信実は剃髪して法名を西仁(さいにん)といった。のちに赦されて幕府に仕えた。承久の役では北条朝時(ともとき)に従い、北陸道から京都に入った。参議藤原信成(のぶなり)の兵と河勾家賢(かわわけいえかた)は越後の加地荘願文山(がんもんざん)に拠っていたが、信実はこれを撃ち破った。林・石黒らはその勢いを見て降伏した。(注:『東鑑』による。)盛綱の弟が高綱である。
佐佐木高綱
¶佐佐木高綱(たかつな)は四郎と称し、勇猛で知略に富み、叔母を頼って京の東吉田に住んでいた。やや成長すると平氏に仕えようとしたが、嘆いて言った。「父上は六条判官(源為義)と父子の約を結び、世に対しては骨肉も同然の間柄である。私がどうして仇の家に仕えることができようか。」頼朝が挙兵したと聞くと、叔母のもとを辞してこれに赴いたが、馬を得る手立てがなく、脚絆をつけ草鞋を履いて歩いた。近江の野洲川(やすがわ)に至ると、まだ夜が明けておらず、道には人がいなかった。ある農夫が馬を引いて通りかかったので、高綱はこれを借りて騎乗し、川を渡ってそのまま立ち去った。馬の持ち主が大声で叫ぼうとしたので、高綱は盗人の汚名を着ることを恥じて馬の持ち主を殺して去り、ついに伊豆で頼朝に拝謁した。石橋山の戦いに敗れると、頼朝は杉山に逃れたが、道は険しく先へ進めなかった。大庭景親が背後に迫り追いつきそうになったので、頼朝はこれを射ようとした。高綱は言った。「従者はまだおります。君はどうして軽々しく戦おうとされるのですか。速やかにお逃げください。私が君のお名前をお借りして敵に当たりましょう。」そこで弓矢を取り、自ら頼朝と名乗って呼ばわった。「東国の武士たちよ、代々源氏に仕えてきた身でありながら、馬に乗って迫るとは何と無礼なことか。」そして敵の馬を射ると、馬は倒れて道をふさいだ。敵がこれを取り除こうとしている間に、頼朝は隙を見て逃げ延びた。高綱は定綱とともに力戦し数合渡り合って、ついに敵を退け、頼朝に追いついた。頼朝は大いにこれを称賛した。(注:『源平盛衰記』による。)
¶寿永三年、京都で源義仲(よしなか)を討った。頼朝は生唼(いけずき)・磨墨(するすみ)という二頭の良馬を持っていた。生唼は最も駿足で、弟の範頼や寵臣梶原景季(かじわらかげすえ)がこれを欲しがったが、頼朝は惜しんで与えず、磨墨を景季に与えた。高綱が近江から来て拝謁すると、頼朝はこれをねぎらって言った。「お前はまっすぐ京都へ向かうものと思っていたが、ここへ来るとは思わなかった。」高綱は答えた。「戦場に臨む者は生きて帰ることを期しません。生きているうちに一度お目にかかり、じかにご指示を受けて、力の限り駆けめぐりたいと願っておりました。郷里を発ってから三日でここに到着しましたが、馬はすでに疲れ果てておりますので、親しい者を頼って馬を借りようと思います。しかし今はどこも用意に忙しく、結局借りることができませんでした。それゆえ、同輩たちはみな出発したのに、私だけがまだ発てずにおります。」頼朝は言った。「義仲は大軍が来ると聞いて、宇治・勢多の二つの橋を落として我が軍を防いでいる。お前は先陣を切ることができるか。」高綱は答えた。「私は近江で生まれ育ち、宇治川の深浅広狭は久しく知り尽くしております。先陣を切ることはまさに私の務めです。」頼朝はそこで生唼を与えて言った。「これは私が深く愛している馬だが、今は特にお前に与えよう。先ほど、蒲冠者(範頼)や梶原景季もみな所望したが与えなかった。お前はこの意味をよく心得ておくように。」高綱は大いに喜び、拝礼して言った。「将軍がもし、敵がまだ敗れていないのに私がすでに討ち死にしたとお聞きになれば、それは人に先を越されたということです。もし私が生きていると聞かれたなら、私が先ほどのお言葉を果たすことができたのだとお心得ください。」こうして昼夜兼行で急ぎ、浮島原(うきしまがはら)に至って馬を下り、馬卒数人にこれを引かせた。景季はこれを見て怒り、高綱を刺そうとして道に立ちはだかって待ち構えた。高綱はこれを望み見て、従う騎馬の者に耳打ちして言った。「景季は生唼を得られなかったので、私に憤りをぶつけようとしているのだ。先ほど将軍が仰った言葉は、おそらくこのためだったのだろう。馬をめぐって共に命を落とすのは、無益であるばかりでなく、恥ずべきことでもある。私は穏やかな言葉でこれをなだめよう。しかし事の成り行きは測りがたいので、お前たちはひそかに備えておけ。」言い終わらぬうちに、景季は果たして問うた。「君は生唼を賜ったのか。」高綱は和やかな顔で言った。「たまたま近江から来たところ、馬が病んで替えがなかったので、あなたの厩から借りようと思っただけだ。しかし聞けば磨墨はすでにあなたに賜られ、生唼はあなたと蒲殿(範頼)がたびたび願い出ても得られなかったという。あなた方でさえそうなのだから、まして私ごときが賜れるはずがあろうか。だから馬卒を誘ってこっそり借り出しただけなのだ。もし後日咎めを受けるようなことがあれば、どうか助け船を出してほしい。」景季はこれを本当だと信じて気持ちを解き、ともに宇治に至った。義仲は将の根井幸親(ねのいゆきちか)・楯親忠(たてちかただ)を遣わしてこれを防がせた。橋を落とし、川底に鹿角(逆茂木)を敷き、綱を張って馬の脚を絡め取ろうとした。高綱の兵である鹿島(かしま)と一(はじめ)という者が泳ぎに長けており、水底に潜ってひそかにこれを取り除いた。しかし雪解けで水かさが増し、諸将はまだ渡ることができなかった。高綱と景季は単騎で小島崎(こじまがさき)からまっすぐ進み、川の水に飛び込んで先を争った。景季が高綱より先んじた。高綱は「あなたの馬の腹帯が緩んでいますよ」と言った。景季は「なるほどそうだ」と言って腹帯を締め直した。その隙に高綱は流れを断ち切るように進み、大声で先陣を叫んだ。畠山(はたけやま)・足利(あしかが)・三浦(みうら)の者たちが相次いで渡り、幸親・親忠は敗走した。敗走する敵を追って京都に入り、義仲と六条河原(ろくじょうがわら)で戦い、これを破った。義経(よしつね)に従って法皇に拝謁した。(注:『源平盛衰記』による。)重ねた功によって備前・安芸など七か国の守となり、(注:『源平盛衰記』『佐佐木系図』による。)左衛門(尉)に任じられた。(注:『東鑑』による。)
¶かつて頼朝が杉山に逃れたとき、高綱に言った。「私が今日死なずに済んだのは、まことにお前の力によるものだ。もし私が天下に号令する身となったなら、必ずその半分を分けてお前に与えよう。」義仲を討ったときにも、また「事が平定されたなら必ず先の約束を果たそう」と言った。ここに至って、高綱は恩賞が薄いと思い、これを恨んだ。(注:『源平盛衰記』による。)剃髪して高野山に入った。建仁年間、延暦寺の僧徒が金子山(かねこやま)に拠って合戦を仕掛けたとき、経高・盛綱は勅命を奉じてこれを討った。高綱の子重綱(しげつな)がこれに従った。出発しようとするとき、高綱はこれを聞いて二人の兄のもとを訪ね、兵略を説いた。そして重綱をじっと見つめ、しばらく何も言わなかった。二人の兄がそばにいて、しきりに重綱の立派な体格を褒めた。高綱は言った。「そうではない。甲冑は軽くあるべきで、弓矢は短くあるべきだ。それは駆け回るのに適するようにするためだ。山の上や坂本は歩兵を用いる地形である。今、重綱は厚い甲冑と大きな弓を身につけ、その道具は体格に見合っているとはいえ、これで死を免れることができようか。」重綱は果たして敗れて死んだ。(注:『東鑑』による。)
¶高綱の弟義清(よしきよ)は五郎と称し、相模の大庭(おおば)に住み、(注:『尊卑分脈』による。)大庭景親の妹を娶り、(注:『源平盛衰記』による。)外祖父渋谷重国を頼った。(注:『東鑑』による。)石橋山の戦いでは景親の軍に属し、頼朝を攻めた。頼朝が杉山に隠れると、義清は景親とともにこれを追った。兄の高綱はこれをとがめて言った。「我が父は六条判官と父子の約を結び、世に対しては源氏と親密な間柄にある。お前だけが父や兄から離れて、敵軍に仕えるとは。どうして恥を知らないのか。」義清は答えなかった。(注:『東鑑』『源平盛衰記』を参照した。)後に捕らえられ、盛綱の家に幽閉されたが、父や兄のゆえに釈放された。幕府に仕え、(注:『東鑑』による。)隠岐守となった。(注:『東鑑』『尊卑分脈』による。)玄孫の塩冶高貞(えんやたかさだ)については別に伝がある。