卷之一百五十二 列傳第七十九

平清盛上

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

Read this volume in English →

文字

平清盛(たいらのきよもり)は、刑部卿(ぎょうぶきょう)平忠盛(たいらのただもり)の長男である。(注:『公卿補任』『平氏系図』による。)母は白河帝(しらかわてい)の宮女であった。帝が忠盛に下げ渡し、清盛が生まれた。(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。○この二書によれば、帝が宮女を忠盛に賜った時、その宮女はすでに身ごもっていた。帝は忠盛に「女ならば朕が引き取り、男ならばそなたが子として育てよ」と告げた。やがて忠盛に子が生まれ、その事情を奏上しようとしたが機会を得なかった。子が三歳になった年、忠盛が帝の熊野(くまの)行幸に供奉し、糸鹿山(いとかやま)を過ぎた折、零余子(むかご、山芋の蔓にできる実)を摘んで献上した。すると帝は歌を詠んで「はふほどに(波布保妬珥)、いもがむかごも(以毛我奴加古毛)、なりにけり(奈利珥計利)」と仰せられ、続けて「ただもりとりて(多陀毛利斗利天)、やしなひにせよ(也志奈比珥世與)」と詠んだ。忠盛はこうして清盛を我が子として育てることになった。一方『今昔物語』では、八幡別当(はちまんべっとう)光清(みつきよ)の妻が子を産んだ際、たまたま零余子を見て「はふほどに、いもがむかごは、なりにけり」と歌を詠み、妻がこれに続けて「いまはもりもや、とるべかるらむ」と詠んだとする。この話が似ているため、世人が清盛の権勢の強大さを見て、誤って鳥羽帝(とばてい)の言葉を引いてこの説を裏付け、光清の歌を付会したものではないかと疑われる。また二書が伝える清盛の生母についても、『盛衰記』は兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)とし、『平家物語』は祗園女御(ぎおんのにょうご)とする。一方『平氏系図』には清盛の母は記されておらず、教盛(のりもり)の母を待賢門院(たいけんもんいん)の侍女とするのみである。待賢門院の侍女とは、おそらく祗園女御のことと思われるが、母子の異同については依然として詳らかにできない。しかもこれらの記事があまりに委曲を尽くして詳しすぎる点も疑わしいので、ここでは採らない。)成長すると聡明で、容姿も美しかった。(注:『長門本平家物語』による。)忠盛はのちに藤原宗兼(ふじわらのむねかね)の娘を娶って子をもうけたため、清盛は宗兼の甥である藤原家成(ふじわらのいえなり)を頼って世に出た。(注:『源平盛衰記』『尊卑分脈』を参照。)大治四年、従五位下に叙せられ、左兵衛佐(さひょうえのすけ)に任じられた。(注:『公卿補任』『中右記』による。)保延中、中務大輔(なかつかさのたいふ)に遷り、肥後守(ひごのかみ)を兼ね、累進して従四位上に至った。(注:『公卿補任』による。○『源平盛衰記』『平家物語』はともに、当時の人々が「清盛は年若く名門の出でもないのに、なぜ栄位を得ているのか」と噂したところ、鳥羽法皇がこれを聞いて「清盛の一族がどうして人に劣ろうか」と言ったと伝え、これは清盛が実は白河帝の子であることを指したものだという。ここでは採らない。)

久安二年、正四位下に進み、安芸守(あきのかみ)に任じられた。(注:『公卿補任』による。)熊野社に参詣しようとして、伊勢(いせ)の阿濃津(あのつ)を経由した際、鱸(すずき)が舟に躍り込んできた。人々はこれを祝って「昔、白魚が周の武王の舟に入ったのを瑞兆としたが、今あなたがこの魚を得たのも、神のご加護ではないか」と言った。清盛は喜び、自ら魚をさばいて従者とともに食べた。(注:『平家物語』による。)保元元年、上皇が白河北殿(しらかわのきたどの)に兵を集め、清盛の叔父である右馬助(うまのすけ)平忠正(たいらのただまさ)と源為義(みなもとのためよし)がその召しに応じた。当初、鳥羽帝は乱の起こることを予期し、自ら下野守(しもつけのかみ)源義朝(みなもとのよしとも)以下十人の姓名を書き記し、守備に備えさせていた。清盛はその父(忠盛)がかつて上皇の命を受けて妻に重仁親王(しげひとしんのう)の乳母を務めさせた縁があったため、当初は召集の対象に入っていなかったが、その一族が代々の有力な武将であることから、美福門院(びふくもんいん)が遺詔と称して清盛を召し出した。そこで清盛は義朝とともに兵を率いて北殿を攻めた。北殿方が敗れると、勅命により清盛に源為義の捕縛が命じられた。清盛が捜索したが、なかなか見つからなかった。為義と忠正は追い詰められて降伏し、忠正は清盛に助命を乞うた。清盛は元来忠正と折り合いが悪く、また「自分が忠正を斬れば、朝廷は必ず義朝にも為義を斬らせるだろう。もし朝議がこれを許せば、自分だけが叔父を斬ったと強弁されることになる」と考え、結局忠正を殺した。義朝もまた為義を殺した。(注:『保元物語』による。)清盛はこの功により播磨守(はりまのかみ)に任じられ、続いて太宰大弐(だざいのだいに)に任命された。(注:『公卿補任』『平家物語』による。)

平治元年の冬、右衛門督(うえもんのかみ)藤原信頼(ふじわらののぶより)が乱を起こした。義朝が清盛と不仲であったことに目をつけ、義朝を誘って首謀者に仕立てた。信頼らは清盛が熊野に参詣する隙をうかがい、京中の兵を動かして御所を襲った。清盛が切部(きりべ)まで来たとき(注:『愚管抄』では田辺とする)、京の六波羅(ろくはら)にいた子弟が使者を走らせて変事を知らせた。清盛は都へ引き返そうとしたが、手勢が少ないことを案じ、熊野別当(くまのべっとう)湛増(たんぞう)や湯浅宗重(ゆあさむねしげ)のもとへ使者を送って兵を集めさせた。伊勢・伊藤(いとう)・加藤(かとう)の一族が兵を率いて出迎え、安部野(あべの)で合流した。一同は奮い立ち、ついに都へ入った。まず稲荷社(いなりのやしろ)に詣で、兵たちに杉の枝を折らせて鎧の袖に挿させた。自ら六波羅に着いたとき、信頼はすでに御所の内に入り、将兵を分けて宮門を守らせていた。(注:『平治物語』による。○「加藤」は諸異本による。)清盛は信頼に名簿(みょうぶ、服従を示す名札)を差し出し、他意のないふりを装った。検非違使別当(けびいしのべっとう)藤原惟方(ふじわらのこれかた)は非蔵人(ひくろうど)藤原尹明(ふじわらのただあきら)を遣わし、ひそかに清盛と謀った。夜、二条大宮に放火させると、賊兵は宮門を捨てて消火に向かった。(注:『愚管抄』による。)そこで帝はひそかに婦人の乗る車に身をやつして藻壁門(そうへきもん)から抜け出し、六波羅の清盛邸に行幸した。(注:『愚管抄』『平家物語』を参照。)清盛は騎兵三百余りを遣わして御輿を出迎えさせ、公卿百官も相次いで六波羅に集まった。(注:『平治物語』による。)関白藤原基実(ふじわらのもとざね)も参上した。基実は信頼の妹婿であったため、人々は皆これを怪しんだ。藤原公教(ふじわらのきんのり)が清盛を振り返って「関白殿が来られたが、どうしたものか」と言うと、清盛は「摂政関白ともあろう臣下は、来なければこちらから召すべきものです。今みずから来られたのですから、まことに当然のことでしょう」と答えた。人々は皆その受け答えを立派だと評した。(注:『愚管抄』による。)帝は清盛を召して「今、内裏はようやく新しくできあがったところだ。そなたは将兵にわざと敗走したふりをさせて弱みを見せよ。賊は必ず全軍で攻め出てくるだろうから、その隙に速やかに内裏に入って占拠し、内裏が兵火に遭わぬようにせよ」と論した。清盛は「信頼のような逆賊は、すでに臣の掌中にあります。もし兵火に遭うようなことがあれば、それはいかんともしがたいことですが、仰せが厳重である以上、全力を尽くさぬわけにはまいりません」と答えた。そこで重盛(しげもり)・頼盛(よりもり)らを遣わし、兵を率いて信頼方を攻めさせた。戦いが酣(たけなわ)になったところで兵を引かせると、賊は案の定、全軍でこれを追ってきたので、その隙に官軍はついに内裏を占拠した。信頼は狼狽して逃げ出し、義朝は兵を返してさらに六波羅を攻めた。清盛は慌てて兜をかぶったが、誤って前後逆にかぶってしまった。左右の者がそれを指摘すると、清盛は言い繕って「至尊(帝)がこの場におられる以上、私は背を向けたくないだけだ」と答えた。そして北の高台に登り、士卒を指揮した。賊兵が激しく攻め寄せ、矢が雨のように降り注ぐと、官軍は退き縮こまった。清盛は「賊をこの場所まで近づけさせるとは、何と恥知らずなことか」と叱咤し、軍勢を立て直して徐々に進み出て、自ら敵に当たった。士卒に代わる代わる進んで戦わせると、賊軍はついに敗走した。(注:『平治物語』による。)清盛は御所に入り、信頼に差し出した名簿を取り戻して「昨日はこれを与えたが、今日はこれを取り返す」と言い、大笑して退出した。(注:『愚管抄』による。)信頼はすでに誅殺され、帝は清盛の子弟の官位を進めた。(注:『源平盛衰記』による。)義朝は尾張(おわり)へ逃れたが、平忠致(たいらのただむね)に殺された。清盛はその子らを捜索し、頼朝(よりとも)・義経(よしつね)らを捕らえて斬ろうとしたが、結局皆赦した。(注:『平治物語』による。)この年、日向太郎通良(ひゅうがたろうみちよし)が肥前(ひぜん)で反乱を起こしたので(注:『百錬抄』『源平盛衰記』による)、清盛は勅命を受けて家人(けにん)平家貞(たいらのいえさだ)を遣わしてこれを討たせた。(注:『源平盛衰記』による。)

永暦元年、これまでの功績によって正三位に叙せられ、続いて参議(さんぎ)に任じられた。応保・長寛の間、右衛門督・検非違使別当を兼ね、権中納言(ごんのちゅうなごん)となった。(注:『公卿補任』『源平盛衰記』による。)従二位に叙せられ、皇太后宮権大夫(こうたいごうぐうごんのだいぶ)・兵部卿(ひょうぶきょう)を兼ねた。永万元年、権大納言(ごんのだいなごん)に任じられた。(注:『公卿補任』による。)この年の秋、延暦寺(えんりゃくじ)・興福寺(こうふくじ)の二寺が兵を構えたため、都では「上皇が密かに清盛討伐の詔を下した」との噂が流れた。清盛が兵を集めて守りを固めたので、上皇は大いに驚いた。(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。)上皇は自ら六波羅に行幸し、直接清盛に事情を説いたが、清盛は仮病を使って対面に出なかった。(注:『源平盛衰記』による。)上皇が御所に帰り、近臣に「根も葉もない噂ひとつで都がこれほど動揺するとは。誰が言い出したのか分からぬ」と言うと、寵臣の西光(さいこう)が進み出て「天は物を言わず、民に語らせるものです。驕り高ぶって礼を失う者は天の憎むところ。平氏もいずれ滅びるのではないでしょうか」と言った。その場に居合わせた者は皆黙り込んでしまった。高倉帝(たかくらてい)が即位すると、まだ幼かったため、上皇が再び政務を執った。清盛の妻平時子(たいらのときこ)は皇太后の姉であったので、清盛の勢いはますます盛んになった。上皇はこれを次第に憎むようになったが抑えることができず、憤りを募らせて剃髪し、もっぱら仏道に専念するようになった。清盛は内心これを喜んだ。(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。)仁安元年、正二位に叙せられ(注:『公卿補任』による)、内大臣(ないだいじん)に任じられた。(注:『公卿補任』『兵範記』による。)二年、従一位太政大臣(だいじょうだいじん)に昇進し、随身兵仗(ずいじんひょうじょう)を賜り、輦車(れんしゃ)での宮中出入りを許された。左右大臣を経ずに直接太政大臣となった例は、これ以前には藤原信長(ふじわらののぶなが)ただ一人だけであった。(注:『公卿補任』『源平盛衰記』による。)まもなく、上表して太政大臣の兵仗・輦車を辞退したいと申し出た。これが許されると、播磨(はりま)の印南野(いなみの)、肥前の杵島郡(きしまぐん)、肥後(ひご)の御代南郷(みしろなんごう)・土比郷(どびごう)などを大功田(たいこうでん)として賜り、子々孫々に伝えて絶やさぬこととされた。(注:『公卿補任』による。)三年、病にかかったため、詔によって非常赦(通常とは別の恩赦)が行われた。(注:『百錬抄』による。)清盛は剃髪して法名を清蓮(せいれん)といい、まもなく静海(じょうかい)と改めた。(注:『公卿補任』『長門本平家物語』による。○現行本の『平家物語』では静海を浄海とする箇所もある。)世に太政入道(だいじょうにゅうどう)と称された。(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。)かつて西八条(にしはちじょう)に別邸を造営し、土木の限りを尽くした。(注:『長門本平家物語』による。)その邸には蓬(よもぎ)が多く生い茂っていたため、蓬壺(ほうこ)と号した。また摂津(せっつ)の福原(ふくはら)にも別荘を営み、亭や高楼をしつらえて四季折々の眺めを極めた。(注:『源平盛衰記』による。)天下の政事はすべて清盛の手から出るようになり、その専横ぶりに上下の者は皆苦しんだ。清盛は自分を批判する者がいることを知ると、童子三百人を選んで自分の耳目とした。彼らは髪を短く切って異様な服装をし、梅の枝を手に持ち、小鳥を腕に止まらせ、赤い旗印を身に着けて宮門を出入りし、名も名乗らずに市中に満ちあふれて人々の隠れた動静を探らせた。見聞きしたことは、すべて清盛のもとに報告された。清盛はその言葉を鵜呑みにし、みだりな刑罰を科すことが多く、世人は一時これに震え上がった。都で馬や車に乗る者は、皆これを見ると避けて通ったという。(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』による。)清盛の孫資盛(すけもり)が路上で摂政藤原基房(ふじわらのもとふさ)の行列に出会ったが、車から下りなかった。基房の従者はその無礼を咎めて資盛を辱めた。清盛は大いに怒り、「摂政関白ほどの貴い身分であろうと、どうして私に遠慮せぬのか」と言い、路上に甲冑の兵を伏せて基房が出てくるのを待ち構え、その車を打ち壊し、従者の髻(もとどり)を切り落として仕返しをした。承安元年、清盛は娘の徳子(とくこ)を女御(にょうご)として入内させ、まもなく中宮(ちゅうぐう)に立てられた。これが建礼門院(けんれいもんいん)である。(注:『玉海』『源平盛衰記』『平家物語』による。)

治承元年、重盛・宗盛(むねもり)の兄弟がそろって左右近衛大将(このえのだいしょう)となった。当時、彼らより上位にあった者たちは皆不満を抱いた。法皇(後白河法皇)の執事であった権大納言藤原成親(ふじわらのなりちか)もこの地位を望んでいたが得られず、そこで西光と謀り、法皇の密旨を装って源行綱(みなもとのゆきつな)・平康頼(たいらのやすより)・法勝寺執行(ほっしょうじしぎょう)俊寛(しゅんかん)らと結託し、俊寛の鹿谷(ししがたに)の山荘に集まって平氏討滅を謀った。法皇自らもその場に臨もうとしたが、法印静賢(じょうけん)が諌めて思いとどまらせた。(注:『源平盛衰記』による。○『平家物語』『愚管抄』は法皇がその場に行幸したとするが誤りである。時期については本記の注に詳しい。)そもそも西光の子藤原師高(もろたか)が加賀国司の手代であったとき、その配下師経(もろつね)が涌泉寺(ゆうせんじ)を焼いた。白山(はくさん)の僧徒がこれを延暦寺に訴えると、法皇は座主(ざす)明雲(めいうん)に和解させようとしたが、僧徒は聞き入れず、朝議はやむを得ず師高らを配流とした。法皇はこれを不快に思い、西光がその隙に乗じて明雲を讒言し、配流に処させた。(注:『源平盛衰記』『平家物語』を参照。)清盛はかつて明雲から菩薩戒(ぼさつかい)を受け、師弟の約束を結んでいたため、延暦寺の僧徒は清盛に助けを求めた。清盛は明雲の配流を止めるよう奏請しようとしたが、参内しても法皇に対面を許されず、明雲はついに配所へ向かうこととなった。僧徒はこれを追って奪い返した。法皇は怒って将兵に延暦寺討伐を命じたが、清盛はこれを承知しなかった。法皇は特に成親に命じて兵を集めさせた。成親はひそかに清盛討伐を謀ったが、まだ事を起こさぬうちに、源行綱が約を破って福原に馳せつけ、これを清盛に告げた。(注:『源平盛衰記』による。○『平家物語』『保暦間記』は清盛がそのとき西八条邸にいたとするが誤りで、ここでは本書および『玉海』『顕広王記』に従う。)清盛は大いに驚き、急いで都に戻り、検非違使阿部資成(あべのすけなり)を法住寺殿(ほうじゅうじどの)に遣わし、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)藤原信業(ふじわらののぶなり)を通じて「成親らは私の家を滅ぼし天下を乱そうとしております。これは陛下のご存じないことでございましょう。私はこの者どもを逮捕し、事情を徹底的に取り調べる所存です」と奏上させた。法皇は驚き慌て、しばらくして「朕の関知するところではない」と答えた。清盛はそこで西光を捕らえて拷問にかけ、事の真相をすべて突き止めた。使者を遣わして成親をおびき寄せ、自らは戎衣(じゅうい、軍装)をまとい眉尖刀(びせんとう、薙刀)を手にして、平貞能(たいらのさだよし)に語った。「私が人から妬まれるのは、官位が身分を超えているからだろうか。だが坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)や苅田麻呂(かりたまろ)の子は、東征の功によって近衛大将に昇っている。ほかにも軍功によって賞を得た者は少なくないのに、なぜ私一人だけが咎められねばならぬのか。かつて保元の乱では、右馬助(忠正)以下の親族の多くが新院(崇徳院)の召しに応じ、また一宮(重仁親王)は亡き父忠盛が奉仕した方であったから、私とて無関心ではいられなかった。それでも故鳥羽院の遺詔に従い、真っ先に禁軍を率いて禍乱を鎮めた。平治の乱でも、信頼・義朝の凶暴な勢いが盛んであったあの時、私が身を捨てて奉公していなければ、国家はまさに危うかったであろう。乱を治めて国家に今日あらしめたのは、いったい誰の力か。もしこの功に報いるならば、恩恵は子孫にまで及ぼされてしかるべきだろうに、まして私自身においてはなおさらだ。それなのに今、ひとえに成親らの讒言を信じて、にわかに我が一門を滅ぼそうとされている。もし行綱の密告がなければ、私はどうして安穏としていられただろうか。法皇のなさりようがこれほど軽率であるならば、いつか再び奸計を企てる者が現れたとき、院宣ひとつで私が賊の汚名を着せられ、悔やんでも及ばぬことになろう。ならば先手を打って対処するに越したことはない。私は今、法皇を鳥羽宮に移し奉ろうと思う。さもなくば、我が邸へお迎えすることになるだろう。宿衛の兵の中には抵抗する者もあるかもしれぬ。おまえは士卒に号令をかけ、警備に当たらせよ」。そこで一族はみな軍装をまとい、将兵が続々と集まった。清盛は重盛が必ず自分に従わないだろうと考え、初めは重盛を呼ぼうとしなかったが、父子の間柄であることから、結局この計画を打ち明けた。重盛は懸命に諌め、この計画はついに取りやめとなった。そして西光を斬り、成親父子とその一党を流罪として、いずれも辺境の地に置いた。まもなく、人を遣わして成親を殺害させた。(注:『源平盛衰記』『平家物語』を参照。)

二年、中宮(徳子)が懐妊した。これより先、清盛は男子の誕生を願って厳島社(いつくしましゃ)に月に一度参詣していた。ある夜、清盛は夢に神が中宮に宝剣を賜り、それを懐に納めさせ、さらに妻時子に授けるのを見た。清盛は大いに喜んだが、世人はその栄達を貪る様子を憎み、門札に誹謗の言葉を書きつけた。清盛はこれを文才ある者の仕業と考え、疑わしい者千三百余人を書き上げて北野社(きたののやしろ)の前で尋問させたが、結局犯人は分からなかった。(注:『長門本平家物語』による。)この年の冬、皇子(後の安徳帝)が生まれた。清盛は喜びのあまり涙を流したが、人々はこれを不吉なことと見た。もともと中宮の出産は難産で、その折法皇が新熊野(いまくまの)に参詣しようとしていたが、まず産室に入って読経し加護した。そして無事出産した。(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。)清盛は謝礼として砂金と富士綿(ふじわた)を各千両献上した。(注:『源平盛衰記』による。)法皇はこれが布施めいていることを怒り、「朕は加持祈祷の験者(げんざ)としてやったまでのこと。それだけで我が身一つを養うには十分だ」と言った。(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』による。)三年、重盛が薨去した。法皇は関白藤原基房と謀り、重盛の所領であった越前(えちぜん)を没収した。(注:『玉海』『源平盛衰記』による。)また亡き摂政基実の妻が薨去すると、その荘園も没収した。(注:『玉海』『山槐記』による。)基房は自分の子師家(もろいえ)を順序を飛び越えて中納言にするよう奏請した。(注:『玉海』『公卿補任』による。)基房の兄の子基通(もとみち)は清盛の娘婿であったので、清盛もまた基通のために中納言就任を懇請したが、聞き入れられなかった。(注:『源平盛衰記』による。)この年の冬、清盛は数千騎の兵を率いて福原から上京し、都は驚き騒いだ。(注:『玉海』『山槐記』『源平盛衰記』による。)清盛は子の重衡(しげひら)を遣わして帝に「私は時勢を見るに、心穏やかでいられません。もし万一罪に問われるようなことになれば、悔やんでも及びません。今こそ官職を辞し、辺境の地に身を隠したく存じます。東宮(安徳帝)をお守りしてまいりたいと思います」と申し上げさせた。帝は大いに驚き、中使(ちゅうし)を遣わして慰め論した。(注:『玉海』による。)その日のうちに基房父子の官職を停止し、基通を関白とした。(注:『玉海』『公卿補任』『百錬抄』による。)基房は清盛が都に来たと聞き、法皇に謁見して「私はかつて費盛(ひもり)の一件で清盛の怒りを買いましたが、重盛の取りなしによって難を免れました。今、重盛が亡くなり、清盛はもはや憚るところがなく、私に思うままの仕打ちをしようとしております。私はきっと遠くへ追いやられ、二度と院のお側にお仕えすることはできますまい」と言い、むせび泣いた。法皇は憂わしげに「朕もまた心穏やかではいられぬ」と言った。(注:『源平盛衰記』による。)そして静賢を遣わして清盛を諭させ、以後は政務について何も口出ししないと伝えさせた。(注:『百錬抄』による。)静賢は清盛の家臣を通じて次のように伝えた。「近年、朝廷は落ち着かず人心も動揺しているが、それも公(清盛)を上下ともに頼みとしてのことである。人を統制できないというならまだしも、なぜ自ら不穏なことをなさるのか。公が朕を恨んでおられると聞くが、それは讒言によるものではないか。公が兵を率いて上京された理由が、朕には分からない。ぜひ真意を明らかにしてほしい。もし他に理由がなければ、この騒動を鎮めるよう命令を下すつもりである。」清盛はこれに応じて出て命を拝することをしなかった。日が暮れようとする頃、静賢は帰ろうとした。しばらくして、清盛は子の知盛(とももり)を遣わして「静海(清盛)は老いぼれてしまい、もはや院にお仕えすることはできないと自ら思っております」と答えさせた。静賢が退出しようとすると、清盛は呼び止めて「賢明な宰相、名高い臣が、天を恐れ地を憚るほどにまで気を遣われる」と言った。静賢を呼び戻すと、憤然として次のように語った。「成親が謀反を企てたとき、そなたは事の機微を察して鹿谷への御幸を止めた。それゆえ私はそなたに会おうというのだ。そもそも保元・平治の乱では、我が家のことを顧みず朝廷のために尽くし、逆賊を討ち禍乱を鎮めたことは、誰もが知るところだ。それなのに古い勲功を退け、事あるごとに私を疑い、近習の言葉を軽々しく信じて我が一門を滅ぼそうとされる。まだ命運が尽きていなかったので、幸い禍を逃れられたが。重盛が亡くなってまだ四十九日も経たぬうちに、にわかに八幡での御遊(ぎょゆう)や法住寺殿での御会(ぎょかい)を催されるとは、あまりにも薄情ではないか。しかも重盛の忠義は当時の人々が皆知るところ。かつて越前を賜ったときには、子々孫々に伝えよとの仰せであったのに、亡くなった途端たちまち取り上げられてしまった。死者に何の罪があって、このような仕打ちを受けねばならぬのか。また中納言の欠員が出た際、私は基通のために願い出たのに、代わりに師家がその地位に就いた。私の願いは、たとえ先例に基づかぬものであっても、特別の恩恵として聞き届けられてしかるべきであったろう。まして基通は嫡流の身で官位も中将にまで至っているのだから、なおさらのことだ。ひそかに聞くところでは、院の内の近習たちが良からぬことを共謀しているというが、それは実に院ご自身のお考えから出たことであろう。たとえ私に罪があるとしても、七代先までの宥しを受けてしかるべきところ、齢すでに七十に近いこの身が、しばしば誅殺されそうな目に遭っている。我が身さえ保てぬというのに、子孫がどうして再び朝廷に立てようか。老いて子を失うとは、朽ちた木に枝がないようなもの。重盛が亡くなって以来、自分の運勢が衰えたことは分かっている。寵遇を失い人望に背かれるのも当然のことで、たとえ忠義を尽くしたとしても、どうして聖旨に適うだろうか。残りわずかな命で、この世に望みを絶っている。不孝の子でさえ父母はこれを哀れむものだというのに、まして重盛は忠孝と才能を兼ね備えていたのだ。年老いてこの上ない痛みを受けているのに、なぜ少しも憐れみをかけてくださらないのか。だから私は、院の側近くに仕えることはもはや無益だと言うのだ。」こう言い終えると涙を流し、静賢もすすり泣いた。しばらくして静賢は道理を説き、あれこれと言葉を尽くして諭したので、清盛の気持ちも次第にほぐれ、礼を尽くして静賢を送り返した。(注:『源平盛衰記』による。)まもなく、公卿以下、北面の武士に至るまで、法皇に近しい者三十九人の官職を奪った。基房を大宰権帥(だざいのごんのそち)として都から出し、前太政大臣藤原師長(もろなが)を尾張に流し、権大納言源資賢(すけかた)を都から追放した。そして宗盛に命じて法住寺殿を包囲させ、法皇を鳥羽宮(とばのみや)に幽閉した。(注:『源平盛衰記』『平家物語』を参照。○三十九人という人数は諸書によって異同がある。ここでは『玉海』『百錬抄』『事註本紀』に従う。)また宗盛を通じて帝に「今後は事の大小にかかわらず、すべて帝のお心ひとつでお決めください」と伝えさせた。この日、清盛は福原へ向かった。(注:『源平盛衰記』『保暦間記』による。)まもなく八条第(はちじょうてい)に戻った。皇太子(安徳帝)が方角の忌みを避けて八条第に滞在した折、宋人がもたらした『太平御覧(たいへいぎょらん)』三百巻を献上した。(注:『山槐記』『百錬抄』による。○『百錬抄』では天皇の行幸によるものとするが、この日の行幸は他書には見えず、恐らく誤りであるので、ここでは採らない。)

四年、清盛は皇太子を奉じて即位させた。これが安徳帝(あんとくてい)である。上皇はまだ年若く、他に格別の事情もないのに急に位を退いたので、人々はその専横を憎んだ。上皇は清盛が厳島の神を篤く信仰していることから、行幸してその歓心を得ようと考え、あらかじめ清盛にその旨を伝えた。清盛は大いに喜び、上皇はついに厳島へ行幸した。(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。)四月、源頼政(みなもとのよりまさ)が以仁王(もちひとおう)に平氏討滅を勧めた。そこで源行家(みなもとのゆきいえ)に令旨(りょうじ)を持たせて東国を巡らせ、源氏一族との連携を約束させた。行家はまず伊豆(いず)に至り、源頼朝に挙兵を促した。(注:『東鑑』『源平盛衰記』『平家物語』による。)もともと行家は熊野新宮(くまのしんぐう)に潜伏しており、東国へ赴くにあたって那智新宮(なちしんぐう)の僧徒と挙兵に呼応する約束を交わしていた。本宮別当(ほんぐうべっとう)湛増は平氏と誼(よしみ)を通じていたため、その配下を率いて那智を攻めたが、逆に敗れ、使者を福原に送ってこれを告げた。清盛は六波羅に戻ると廷臣と協議し、検非違使を遣わして以仁王を襲わせた。清盛は当初この企てが頼政から出たものとは知らず、頼政の子兼綱(かねつな)も追討の使者の中に加えていた。そのため頼政はいち早くこれを察知し、王を園城寺(おんじょうじ)に逃がした。延暦・興福の二寺がこれに呼応した。清盛は将兵を大いに集めて協議し、上総介(かずさのすけ)藤原忠清(ふじわらのただきよ)の計略を用いて、米や絹を延暦寺に与えて懐柔した。延暦寺の僧徒は果たして寝返った。(注:『源平盛衰記』による。)頼政は王を奉じて奈良へ向かったが、清盛は子弟を遣わし、二万余騎を率いて平等院(びょうどういん)でこれを追撃させた。王と頼政は敗れて死んだ。(注:『玉海』『山槐記』『源平盛衰記』『平家物語』『東鑑』による。)清盛はかねてから比叡山(ひえいざん)や奈良の僧徒がしばしば都を侵すことを憎んでおり、都を福原に遷してこれを避けようとした。(注:『平家物語』『保暦間記』による。)この年の六月、ついに遷都した。宮殿はまだ完成していなかったので、しばらく弟頼盛の別荘を仮の御所とした。(注:『玉海』『源平盛衰記』による。)まもなくまた清盛自身の邸に御所を移した。(注:『玉海』による。)人心は乱れ動揺し、世評は紛糾した。(注:『源平盛衰記』による。)このころ、法皇は三間の板屋に幽閉されていた。これより先、宗盛の諌めによって鳥羽宮から八条烏丸(はちじょうからすま)へ移され、幽閉はやや緩められていたが、以仁王の事件が起こると警戒は一層厳しくなり、食事も朝夕の分だけが運ばれるようになった。人々はこれを「牢御所(ろうごしょ)」と呼んだ。清盛は新都に大内裏(だいだいり)を造営しようとし、大納言藤原実定(さねさだ)・参議源通親(みちちか)らに輪田(わだ)の地を検分させ、広さを測量させた。しかし土地が狭かったため、議論する者の中には昆陽野(こやの)に営もうとする意見もあれば、「印南野がよかろう」という意見もあり、決着がつかなかった。そこで前権大納言藤原邦綱(くにつな)に周防国(すおうのくに)に賦課させ、仮に皇居を造営させて、これを里内裏(さとだいり)と称した。(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』による。)この月、清盛とその妻時子は准三宮(じゅさんぐう)の待遇を受け、年官(ねんかん)・年爵(ねんしゃく)を賜った。清盛が自邸にいながらにして、その服飾は院宮の上日(じょうにち、参内の日)の儀と同じであった。(注:『源平盛衰記』による。○年月は『公卿補任』による。)遷都以来、朝野には怨嗟の声が満ち、根も葉もない噂がしきりに流れた。「源仲綱(なかつな)らが以仁王を奉じて伊豆へ逃れ、甲斐(かい)に潜んでいる」という説もあった。(注:『玉海』による。)そこで園城寺の荘園を没収し、円慧法親王(えんけいほっしんのう)が帯びていた天王寺検校(てんのうじけんぎょう)の職を解き、僧正房覚(ぼうかく)以下十三人を取り調べ、二会(にえ)の講師円全(えんぜん)らの公請(くじょう)を停止した。(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』による。)また堂衆(どうしゅう)筒井明秀(つついあきひで)ら三十余人を流罪とした。(注:『平家物語』による。)

九月、相模(さがみ)の人大庭景親(おおばのかげちか)が「伊豆の流人源頼朝が一院(法皇)の詔と高倉宮(以仁王)の令旨を承ったと称して兵を挙げ、目代(もくだい)平兼隆(たいらのかねたか)を討ち殺し、石橋山(いしばしやま)に拠りました。私、景親が兵を集めてこれを打ち破りました。頼朝は杉山(すぎやま)に逃げ込み、行方が分かりません。ある者は水に身を投げたと言い、ある者は自ら土に埋もれて死んだとも申しております」と報告した。清盛は大いに喜び、景親らに恩賞を与えた。ところがまもなく、東国にいた清盛の一族の者たちが相次いで「頼朝が石橋山で死んだというのは誤りです。北条(ほうじょう)・佐々木(ささき)・三浦(みうら)らの一族が皆頼朝に従い、伊豆・駿河(するが)・甲斐・信濃(しなの)の武士たちが雲のごとく集まって、その勢いは大いに盛んになっております。早く討たなければ手遅れになりましょう」と報告してきた。清盛は悔やんで「東国の武士の多くは、もともと源為義の一門やその配下の者たちだ。私はそこまで考えが及ばず、頼朝を東国に放ってしまい、彼らに頼朝を担がせて我が一門を滅ぼされようとしている。これではまるで盗人に鍵を授け、虎を野に放つようなものだ。かつて池禅尼(いけのぜんに)の取りなしによって、頼朝は幸い一命を全うできたというのに、今たちまち旧恩を忘れて私に弓を引くとは」と言った。そこで上皇に頼朝討伐の勅命を下すよう求めたが、上皇は「それは法皇に奏上すべきことだ」と答えた。清盛は不機嫌になって「今、帝はまだ幼く、政事はすべて陛下がお決めにならねばならぬのに、なぜ法皇にお伺いを立てる必要があるのですか。もしや御心は源氏に傾いておられるのでは」と言うと、上皇は笑ってこれに従い、東海道・東山道の二道に官符を下して頼朝討伐を命じた。清盛の孫維盛(これもり)、弟忠度(ただのり)、子知度(とものり)を追討使とした。源義仲(みなもとのよしなか)もまた信濃で挙兵し、頼朝に呼応した。この月、上皇はまた厳島に行幸し、清盛が供奉した。人払いをして「すでに賊討伐の勅を下した以上、陛下を疑うことはもはやありません。しかし願わくは誓書を賜り、源氏に与しないことを明らかにしていただきたい。さもなくば、陛下をこの地に留め置くことになりましょう」と迫った。上皇は「朕は長年そなたに何の落ち度もないのに、なぜこれほどまでに疑われるのか。そのように望むならば、何の難しいことがあろうか」と言った。宗盛が紙と筆を差し出すと、清盛が口述してその文言を作らせ、上皇に書かせた。書き上がるとこれを清盛に渡した。上皇はひそかに近侍の者に語りかけ、むせび泣いて涙を流した。清盛は厳島から都に戻ると、いくらか心を和らげ、夢野(ゆめの)に宮殿を造営して法皇をそこに移した。十月、維盛は富士川(ふじがわ)まで進んだが、軍勢は夜襲を恐れて驚き潰走した。十一月、新都の宮殿が完成し、帝はそこへ遷った。延暦寺はしばしば上奏し、旧都への還都を求めた。清盛は百官を集め、新都と旧都いずれが有利かを論じさせた。人々は皆清盛の意向を汲んで、新都の利点を盛んに説いたが、左大弁(さだいべん)藤原長方(ふじわらのながかた)ひとりだけがこれに異を唱え、新都は不便であると主張した。清盛は不快になってその場を退けた。(注:本書では「長方」を「宗房」とするが誤りである。ここでは『続古事談』によって訂正する。)まもなく公卿らを旧都に戻らせた。(注:『源平盛衰記』による。)これより先、福原の邸ではしばしば怪異が起こった。夜、人の顔のような物が現れ、一室いっぱいの大きさになった。また夜中に大木が倒れるような音がして、空中で高らかな笑い声が響いた。また清盛が愛していた駿馬「望月(もちづき)」の尾に、一夜のうちに鼠が巣を作って子を生んだ。また庭先に数百の髑髏(どくろ)が現れ、旋回し絡み合って一つの巨大な頭となり、高さ十丈余りにもなって、たちまち千万の目を生じた。清盛はこれを忌み嫌った。(注:『平家物語』による。)維盛らが敗れて以来、東海道・北陸道の源氏方の勢いはますます盛んになった。前右兵衛尉(さきのうひょうえのじょう)山本義経(やまもとよしつね)とその弟柏木義兼(かしわぎよしかね)もまた近江(おうみ)で挙兵し、頼朝に呼応した。(注:『源平盛衰記』『東鑑』による。)

十二月、知盛(とももり)らを遣わしてこれを討たせた。(注:『源平盛衰記』『東鑑』による。)義経(山本義経)は鎌倉(かまくら)へ逃れた。(注:『東鑑』による。)このとき延暦寺の僧徒は園城寺と結んで山本義経に呼応し、園城寺に拠っていたので、兵を遣わしてこれを攻めた。延暦寺の僧徒は山科(やましな)で迎え撃った。(注:『玉海』『百錬抄』による。)また子の清房(きよふさ)を遣わして園城寺を攻めさせ、放火して焼き払った。堂宇は焼け尽きて何も残らなかった。(注:『玉海』『山槐記』『百錬抄』による。○「清房」は『百錬抄』による。○『平家物語』では知盛・忠度とする。)そもそも興福寺の僧徒は以仁王を迎え入れようとして木津川(きづがわ)まで兵を進めたが、以仁王が敗れたと聞いて引き返していた。摂政基通は氏院(じいん)の有官別当(ゆうかんべっとう)藤原忠成(ただなり)を遣わして僧徒を諭させたが、僧徒は忠成を陵辱し、衣服を剥ぎ取って追い払った。さらに右衛門督藤原親雅(ちかまさ)を遣わしてその様子を探らせたが(注:「右衛門督」は『平家物語』による)、親雅は恐れをなして逃げ帰った。以後、僧徒の不穏な動きはやまなかった。朝廷が使者を遣わして事の次第を問うと、僧徒は「他意はございません。ただ清盛を討ちたいだけでございます」と答えた。(注:『源平盛衰記』による。)清盛はこれを聞き、瀬尾兼康(せのおかねやす)を大和検非違所(やまとけびいしょ)に任じ、数百騎を率いて向かわせた。(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。)出発に際して「甲冑を身に着け弓矢を執って、僧徒に疑いを抱かせるようなことがあってはならぬ」と戒めた。(注:『平家物語』による。)僧徒は兼康が来ると聞くと、兵を率いて攻めかかり、兼康方の兵士の多くが討ち死にした。僧徒は討ち取った首を猿沢池(さるさわのいけ)のほとりに晒した。(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。)兼康はかろうじて一命を取り留めた。(注:『源平盛衰記』による。)これより先、興福寺は園城寺への返牒で、清盛の父祖が高貴な出でないことを嘲って「平氏は糟糠(そうこう)、武家の塵芥(じんかい)」と記し、西乗房信救(さいじょうぼうしんぐ)がこれを書いた。清盛は大いに怒って厳しく捜索させたので、信救は恐れをなし(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)、身体に漆を塗って癩病(らいびょう)を装い逃げ去った。(注:『源平盛衰記』による。)後に信救は源義仲の書記となった。いわゆる大夫房覚明(たいふぼうかくみょう)がこれである。また興福寺の僧徒は木像の首を作って「太政入道の首」と名付け、打ちたたき踏みつけにした。清盛はますます怒り(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)、重衡に数千の兵を率いさせて興福寺を攻めさせ、東大寺(とうだいじ)・興福寺の二寺を焼き払った。(注:『山槐記』『東鑑』による。)このころ天下の諸国では平氏に叛く者が日ごとに相次ぎ、兵士の多くが逃亡し、清盛の意気もかなり沈んだので、法皇に再び政務に復帰していただくよう請うた。法皇は固辞して聞き入れなかったが(注:『源平盛衰記』による)、重ねて再三請うと、ついにこれに応じた。美濃(みの)・讃岐(さぬき)の二国を献じて法皇の御分国(ごぶんこく)とし、天下の政務はもっぱら宗盛に委ねた。(注:『玉海』による。)ここに至って清盛にも悔いる心が生じ、法皇の機嫌を取ろうとして、自分の娘を後宮に入れた。上皇が崩御してからわずか十日余りしか経っていなかったが、それでも法皇はこれを拒むことができなかった。(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。)