卷之一百四十 列傳第六十七

源滿仲、源賴光、渡邊綱、源行綱ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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源滿仲

源満仲(みなもとのみつなか)は、鎮守府将軍・源経基(みなもとのつねもと)の長男である。村上・冷泉・円融・花山の四代の天皇に仕えた。人となりは勇猛で知略に富み、和歌も巧みであった(注:『尊卑分脈』による)。身分の高い者から低い者まで皆が彼を重んじ、朝廷も彼を股肱の臣として頼りにした(注:『今昔物語』による)。常陸介、武蔵・摂津・越前・伊予・陸奥などの国守、左馬権頭、治部大輔を歴任し、鎮守府将軍を拝命して正四位下に至り、昇殿を許された(注:『尊卑分脈』による)。

天徳年間、賊の倉橋弘重(くらはしのひろしげ)らが夜、満仲の邸に押し入り財物を奪った。満仲は弓で弘重を射て捕らえ、朝廷の命により、その一味である中臣良材(なかとみのよしき)・紀近輔(きのちかすけ)らを捕縛させた(注:『古事談』による)。その後、再び賊が邸を取り囲んで放火し、火勢は激しく燃え広がって三百余りの家に及んだ。越後守の宮道弘氏(みやじのひろうじ)が救援に駆けつけたが、賊の矢に当たって命を落とした。満仲は賊を防ぎ、これを退けた(注:『日本紀略』による)。

安和二年、橘繁延(たちばなのしげのぶ)(注:繁延の名は『日本紀略』による。『扶桑略記』『愚管抄』『源平盛衰記』では「敏」の字を用いる)、藤原千晴(ふじわらのちはる)、僧の連茂(れんも)らが、為平親王(ためひらしんのう)を擁立して謀反を起こそうと企てた。満仲もこの謀議に加わっていたが、やがて繁延に恨みを抱くようになり(注:『源平盛衰記』による)、武蔵介の藤原善時(ふじわらのよしとき)とともに謀反を朝廷に密告した(注:『日本紀略』『扶桑略記』による)。その供述は親王や、親王の外舅(妻の父)である左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)にまで及んだ。右大臣・藤原師尹(ふじわらのもろただ)は高明を陥れてその地位に取って代わろうと考え、この獄事の裁定を専断した(注:『源平盛衰記』による)。朝廷は満仲の弟で検非違使の満季(みつすえ)を遣わして一味を捜索・逮捕させ、繁延・千晴らを流罪とした。功により満仲と善時は位階を進められた(注:『日本紀略』による)。

満仲は生まれつき狩猟を好み、殺生を平気で行っていた。子の僧源賢(げんけん)はこれを深く憂い、恵心院僧都・源信(げんしん)とともに満仲を仏道に導こうとした。満仲は大いに感じ入り悟るところがあった(注:『古事談』『今昔物語』による)。そこで従者たちを召して言った。「私は長らく武人として戦に従事し、一日たりとも怠ったことはない。明日には髪を剃ろうと思う。私が武人でいるのは今夜限りだ。お前たちはしっかりと邸を守れ。」そして兵五百人に甲冑をまとわせ弓矢を負わせて、邸の周りを一晩中警固させた。翌日、満仲はついに剃髪した(注:『今昔物語』による)。名を満慶(まんけい)と改め(注:『尊卑分脈』による)、多田新発意(ただのしんぼち)と号した(注:『源平盛衰記』による。○『神皇正統記』によれば、摂政・藤原兼家が剃髪して入道と称したが、当時はまだ誰も入道と称する者はいなかった。源満仲も剃髪した際、新発意と称したという)。鷹狩りに使う鷹をすべて放ち、漁に使う網もすべて焼き捨てた(注:『古事談』『今昔物語』による)。従者五十余人もこれに従って剃髪した(注:『今昔物語』による。○『古事談』では男十六人、女三十余人とする)。

受戒の日、殺生戒の段になると満仲は眠ったふりをして聞き入れなかった。後になって密かに源信のもとを訪れて言った。「弟子として戒を受けるにあたり、心の中では殺生を深く戒めておりました。しかしそれを家人に知られては、彼らに侮られる恐れがあると思い、あえて教えに従わなかったのです。師には不快な思いをさせたことでしょう。それゆえこうしてお詫びに参った次第です。」(注:『古事談』による)。こうして満仲はついに仏門に帰依し、止観の教えにもかなり通じるようになった(注:『小笠原系図』による)。

満仲はかつて摂津国多田(ただ)に住んでいたため、家名を多田と号した(注:『尊卑分脈』による)。天禄元年、多田院を創建した(注:『帝王編年記』『尊卑分脈』『今昔物語』による。○天禄六年とする説もあり、これは『帝王編年記』による)。長徳三年に没し(注:『尊卑分脈』による)、享年八十六であった(注:諸家の系図はいずれも、寛和二年に剃髪し、その時七十五歳、長徳三年に没し、その時八十五歳とする。しかし寛和二年から長徳三年までは十二年の隔たりがあり、諸系図の記載は誤りである。今、干支をもとに推算してこれを訂正した)。多田院に葬られ、その像が安置された(注:『多田院文書』による)。後土御門天皇の文明四年、勅命により従二位を追贈された(注:『親長記』『多田院文書』による)。

かつて満仲は、鎮護の任にある者は鋭利な剣を持たなければ威光を示すことができないと考え、たびたび鍛冶の工人を集めて刀剣を数多く作らせたが、いずれも意にかなうものはなかった。筑前に優れた工人がいると聞き、召し寄せて作らせたが、これもまた思うようなものはできなかった。工人はこれを憂い、神に七日間祈願し、六十日余りかけて精魂込めて鍛え、ついに二振りの刀を作り上げた。満仲は大いに喜び、死刑囚を斬って試し斬りをした。その余勢で一振りは髭を切り、もう一振りは膝を断ち切ったことから、「髭切」「膝丸」と名付けられた。源氏はこれを代々家宝として伝えた(注:『平家物語』剣巻による)。

子には頼光(よりみつ)、頼親(よりちか)、頼信(よりのぶ)、僧の源賢がいる。頼親は左衛門尉、検非違使、信濃・大和などの国守を歴任し、正四位下に叙せられた(注:『尊卑分脈』による)。永承四年、興福寺の僧徒が頼親の館を攻めたが、その子で前加賀守の頼房(よりふさ)らがこれを迎え撃って退け、多くの死傷者を出させた(注:『扶桑略記』による)。僧徒は怒って朝廷に訴え出た。翌五年、朝議はその罪を定め、頼親を土佐に(注:『扶桑略記』『百錬抄』『歴代皇紀』『尊卑分脈』による)、頼房を隠岐に流した(注:『扶桑略記』『歴代皇紀』による。○『尊卑分脈』では肥前とする)。康平五年、頼房は本来の官位を回復した(注:『扶桑略記』による。○『尊卑分脈』では配流先で死去したとする)。頼親の子孫は大和源氏(やまとげんじ)と称された(注:『尊卑分脈』による)。

源賢は幼名を美女丸(びじょまる)といい、幼少のころから延暦寺で学んだが、その振る舞いはずる賢く粗暴であった。後に僧源信に師事し、節を改めて仏法を求め、ついに悟るところがあった(注:『小笠原系図』による)。多田法眼(ただのほうげん)と号した(注:『尊卑分脈』による)。和歌を好み、著作に『樹下集』二十巻があり(注:『八雲御抄』による)、後世に伝わっている。

源賴光

源頼光(みなもとのよりみつ)は、人となり優れて勇猛で、その武勇は世に並ぶ者がなかった。弓の名手であり、将としての戦略でも名高かった。円融・花山・一条・三条・後一条の五代の天皇に仕え、摂津・伊予・美濃などの国守を歴任し、内蔵頭を兼ね、左馬権頭に遷り、昇殿を許されて正四位下に至った(注:『尊卑分脈』による)。長保年間、東宮大進として皇太子に仕えていたとき、狐が御殿の上に臥しているのを、皇太子が頼光に命じて射させようとし、御弓と蟇目矢(ひきめや、鏑矢の一種)を賜った。頼光は答えて言った。「私は壮年の頃には鹿の類を射たこともございますが、久しく弓の技を試しておりません。命中させるのは容易ではなく、もし外せば、かえって家の名声を落とすことになりましょう。どうかお許しください。」皇太子が重ねて命じたため、頼光はついに射て狐の胸に命中させ、狐は地に倒れた。皇太子をはじめ群臣は、弱い弓と重い矢でこれを命中させた頼光の技量に感じ入り、御料の馬を褒美として与えた。頼光は拝謝して言った。「これは私の弓の技によるものではなく、ひとえに祖先の神のご加護によるものでございます。」(注:『今昔物語』による)。寛仁年間、天皇の外祖母の邸である京極第(きょうごくてい)を改築した際、頼光は調度品を献上し、邸内で必要な物はすべて過不足なく備え、その精巧さは極まっていた。藤原道長は大いに喜んだ(注:『小右記』『栄花物語』による)。

弟の頼信は、はじめ藤原道兼(ふじわらのみちかね)に仕えていたころ、かつてこう言ったことがあった。「私は関白道隆(みちたか)を殺すことができる。そうすれば我が主君がその地位に代わることができよう。剣を提げて突入すれば、誰がこれを防げようか。」頼光はこれを聞いて大いに驚き、たしなめて言った。「軽々しくそのようなことを言うな。志を遂げることは実に難しいものだ。たとえ殺すことができたとしても、いったん事が漏れれば、主君がどうして関白になれようか。もし露見せずに関白の地位に代わったとしても、生きている限りそれを隠し通すのは極めて難しい。」頼信はこれに納得して従った(注:『古事談』による)。治安元年、頼光は没した(注:『尊卑分脈』による)。

頼光がかつて夜、頼信の邸を訪れて酒宴を開いた折、たまたま厩の中に人が縛られているのを見かけた。それが何者かと尋ねると、頼信は「鬼同丸(きどうまる)という者です」と答えた。頼光が「その者は力が強いというではないか、なぜもっと厳重に縛らないのか」と言ったので、頼信は鉄の鎖で縛らせた。鬼同丸はこれを聞いて深く恨んだ。その夜、頼光は酔って頼信の邸に泊まったが、鬼同丸は鎖を抜け出して逃げ出し、密かに天井裏に上り、機会をうかがって頼光を刺そうとした。しかし頼光は従者を呼んで身辺の警護に当たらせていたため、鬼同丸は手を出すことができなかった。帰路のすべてを見張られていたため、鬼同丸は鞍馬へ向かい、市原にたどり着くと野牛を殺し、その死骸に身を隠して待ち構えた。やがて頼光が通りかかった。源綱(みなもとのつな)、平貞道(たいらのさだみち)らが供をしていた(注:綱の姓は『尊卑分脈』『剣巻』による。貞道の姓は『今昔物語』による)。頼光は牛の群れが動いているのを見て、従者に射させた。綱は倒れた牛を見て、これを射た。すると牛が突然起き上がり、たちまち鬼同丸が跳び出し、刃を振るって頼光に迫った。頼光は刀を構えてこれを斬り、その首を落とした。人々はその勇武に感服した(注:『古今著聞集』による)。綱、貞道は、平季武(たいらのすえたけ)(注:季武の姓は『今昔物語』による)、公時(きんとき)(注:姓は不詳)とともに頼光の配下にあって、その勇猛さで並び称され、世に「四天王」と呼ばれた(注:『剣巻』による)。

綱の祖父は武蔵守に任じられ、綱の父の宛(あたる)は箕田源次(みたのげんじ)と称された。綱は源敦(みなもとのあつし)の養子となった。敦は満仲の娘婿である(注:『尊卑分脈』による)。綱の養母は摂津国渡辺(わたなべ)に住んでいたため(注:『剣巻』による)、これにちなんで渡辺を氏とした(注:『太平記』による)。かつて宛は貞道の父・良文(よしぶみ)とともに東国に住んでおり、互いにその武勇を頼みとして相手に譲らなかった。たまたま二人の仲を裂こうとする者がいて、二人は大いに怒り、干戈を交えて勝敗を決しようとした。そこで日を定めて約束を交わし、それぞれ数百の兵を率いて野に陣を敷いた。すると良文は使者を送って宛に言わせた。「大勢を率いて戦うよりは、一騎打ちで雌雄を決するのはどうか。」宛もこれに同意した。そこで二人はまっすぐに進み出て矢をつがえた。良文が矢を放つと、宛は身をかわしてこれを避けた。宛が矢を放つと、良文もまた同様にかわした。縦横に馬を駆けさせながら互いに矢を放ち合ったが、どちらも命中させることができなかった。二人は互いにその技量に感服し、こう言い合った。「我々の間に深い恨みがあるわけではなく、一戦交えて勝負を試そうとしたに過ぎない。今すでに互いの技を試したのだから、これでよしとしよう。」そうして兵を退いて和議を結び、深く親しく結びついたという(注:『今昔物語』による)。綱の曾孫の直(なおし)は勇力に優れ(注:『尊卑分脈』による)、源義家(みなもとのよしいえ)に仕えて陸奥の戦役に従軍した(注:『奥州後三年軍記』による)。

頼光の子は頼国(よりくに)、頼家(よりいえ)、頼基(よりもと)である。頼国は左馬権頭にまで昇った。頼家については歌人の伝にある。頼国の六世の孫の行綱(ゆきつな)は伯耆守に任じられ、蔵人となり、代々摂津国多田荘(ただのしょう)に住んでいたため多田蔵人(ただのくろうど)と称された(注:『尊卑分脈』による)。後白河法皇が平氏を滅ぼそうと謀ったとき、権大納言・藤原成親(ふじわらのなりちか)が密かに行綱に法皇の意向を伝え、大きな利益をちらつかせて将帥の任を委ねた。行綱はこれを承諾したが、やがて心変わりし、「多勢に無勢で成功はおぼつかない。もし事が発覚すれば、たちまち禍が身に及ぶだろう」と考えた。そこで急ぎ福原へ馬車を走らせ、事の次第を平清盛(たいらのきよもり)に告げた。清盛は大いに驚き、成親らを流罪に処した。世人は行綱の裏切りを憎んだ(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵すると、行綱はこれに帰順した。源義経(みなもとのよしつね)が京師を離れて南海へ向かった際、摂津の河尻(かわじり)を通ったが、行綱は兵を率いてこれを迎え撃とうとし、かえって義経に撃ち破られた(注:『東鑑』による)。

渡邊綱

源頼信(みなもとのよりのぶ)は、人となり剛毅果断で物事の判断に明るく、兵法に熟達しており、兄の頼光と並び称された。また藤原保昌(ふじわらのやすまさ)、平維衡(たいらのこれひら)、平致頼(たいらのむねより)らとともにその勇猛さで名高かったが、その中でも頼信が第一とされた(注:『十訓抄』による)。一条・二条・後一条・後朱雀の四代の天皇に仕え、治部権少輔、左馬権頭、伊勢・陸奥・甲斐などの国守を歴任し、上野介・常陸介を務め、鎮守府将軍を拝命して従四位上に至った(注:『尊卑分脈』による)。長元元年、前上総介の平忠常(たいらのただつね)が下総で反乱を起こした。朝廷は検非違使の平道方(たいらのみちかた)、中原成道(なかはらのなりみち)に命じてこれを討たせた(注:『日本紀略』『扶桑略記』による)。忠常は諸国を侵略し勢いが盛んであったため(注:『今昔物語』による)、二人の将はたびたび攻めたが、長らく成果を挙げられなかった(注:『日本紀略』『扶桑略記』による)。長元三年九月、あらためて頼信と坂東諸国の国司に討伐を命じる勅が下された(注:『日本紀略』による)。

このとき頼信は甲斐守であり(注:『日本紀略』『扶桑略記』『小右記』による)、兵を率いて常陸に至り、忠常を攻めようとした(注:○本書ではこれを頼信が常陸介であった時のこととするが、これは誤りである。『小右記』によれば、頼信が常陸介であったのは長和年間のことである。『日本紀略』『扶桑略記』『小右記』を調べると、いずれも「甲斐守頼信」と記しているので、今これを訂正する。『宇治拾遺物語』では上野介であった時のこととするが、これもまた誤りである)。左衛門尉の平惟基(たいらのこれもと)が諫めて言った。「忠常は険阻な地形を頼みとしており、その軍勢の鋭さは侮れません。にわかに攻めるのは難しく、兵が集まるのを待ってから行動すべきです。」しかし頼信はこれを聞き入れず、ついに兵を率いて下総へ向かった。惟基は騎兵三千を率いて鹿島で合流した。忠常は大河に面して砦を築き、舟をことごとく回収していた。頼信が到着したものの渡ることができなかったため、大中臣成平(おおなかとみのなりひら)を遣わして利害を説き、忠常を招こうとしたが、忠常はこれに従わなかった。頼信は兵を集めて攻略の方法を問うた。皆は「舟がなければどうやって軍を渡せましょうか」と言った。頼信は言った。「川を迂回して進めば、いたずらに日数を費やし、賊はますます守りを固めるだろう。思うに賊は地の険しさを頼んで備えを怠っているはずだ。まっすぐ渡って不意を突けば、一気に攻め落とせるだろう。急いで攻めるに越したことはない。私はかつて、この川には浅瀬があり、幅は一丈ほどで水はようやく馬の腹に達する程度だと聞いたことがある。軍中にこれを知る者はいないか。」真髪高文(まかみのたかふみ)という者が進み出て言った。「私はこれを渡ったことがよくあります。先陣を切らせてください。」そして馬を駆って水に入り、一人の兵にその後を追わせて、葦を立てて目印とした。こうして全軍は水流の中を乱れながら進んだ。忠常は案の定、備えをしておらず、大軍が押し寄せるのを見て、迎え撃つこともできず、恐れおののいて降伏した。兵士たちは互いに言い合った。「我々はみなこの土地で生まれ育ったが、この渡り場を知っている者は三人にも満たなかった。将軍は初めて来たにもかかわらずこれを言い当てられた。とても常人の及ぶところではない。」(注:『今昔物語』による)。

翌年六月、頼信は忠常を伴って京師へ帰った。忠常は道中で病死し、その首を斬って京師に送った(注:『扶桑略記』『百錬抄』『左経記』による)。朝廷はその功を賞賛し、褒賞を与えようとした。頼信は懇ろに願い出て言った。「私は謹んで勅旨を奉じ逆賊を討伐しましたが、まだ交戦するに至らないうちに賊はあわてて捕らえられました。これはまことに天子の御威光によるものであり、私に何の功がございましょうか。私はかつて過分にも国恩を蒙り、かたじけなくも四か国の国守を任じられましたが、老い衰えが日々迫っており、遠国の任務に従事するのは難しくなっております。もし丹波への転任がかないますれば、私の願いは満たされます。」その後さらに、母の墓所が美濃にあることを理由に、美濃守への任官を願い出た(注:『小右記』による)。翌年、ついに美濃守となり(注:『春日若宮神主所蔵編年残篇』による)、その後、河内守に遷った(注:『尊卑分脈』『今昔物語』による)。

かつて関東によい馬がいるという話を聞き、頼信はこれを求めて手に入れた。京に帰る途中、盗人がこれを奪おうと様々な策を巡らせたがうまくいかず、京師まで追ってきて機をうかがっていた。頼信の子の頼義(よりよし)はその馬を欲しがり、頼信のもとに参上して控えていた。頼信は先回りして言った。「よい馬を手に入れたので、明朝お前にやろう。」頼義は喜んで邸に泊まったが、折しも風雨が激しく、盗人はその隙に馬を盗んで逃げた。頼信は盗人がきっと東国の者だろうと考え、矢筒を背負い単騎でこれを追った。頼義もまた驚いて起き、弓矢を取って馬に乗り東へ駆けた。関山まで来て追いついたところ、盗人はその馬に乗って、ゆっくりと川を渡っていた。夜は暗く、目の前もほとんど見分けがつかなかった。頼信は頼義がきっと後ろから来ているだろうと思い、振り返って「射よ」と叫んだ。言い終わらないうちに、たちまち強い弦の音が聞こえた。馬は驚いて跳ね、鐙が揺れて音を立てた。頼信は「盗人は倒れた。お前は馬を取って来い」と言うと、先に帰って寝てしまった。頼義はついに馬を手に入れて戻ってきた。頼信は深くこれを褒め、翌日その馬を飾り立てて頼義に与えた。

かつて頼信が上野介であったころ、右兵衛尉の藤原親孝(ふじわらのちかたか)が頼信に従ってその国にいたが、盗人を家の中で捕らえて縛った。盗人は棚の鎖を抜け出して逃げ、親孝の子を人質にとって壺屋に立てこもり、刃をその胸に突きつけた。親孝は驚き悲しんだがどうすることもできず、固く家の者に言い聞かせた。「決して近づいてはならぬ。もし子を殺されでもしたら、盗人を寸刻みにしたところで何の益があろうか。」そして走って頼信のもとへ行き、泣いて訴えた。頼信は笑って言った。「勇士たる者、事に臨んでは妻子さえ顧みぬものだ。どうして一人の子のためにそれほど狼狽するのか。」そして自ら現場に赴いて様子を見た。盗人は頼信が来たのを見て息を潜め、あえて見上げようともせず、子をますます強く捕らえた。頼信は叱って言った。「お前はこの子を殺すつもりか、それとも死を免れたいのか。はっきり言え。」賊は答えて言った。「私はどうしてこの子を殺そうとしましょうか。ただ命を長らえる手立てが欲しいだけです。」頼信は「すぐにこの子を放せ、お前を殺しはしない」と言った。盗人は恐れ入ってこれに従った。頼信は盗人を引き出すよう命じた。親孝はこれを斬るよう願い出たが、頼信は許さずに言った。「彼は困窮の末に盗人となり、命惜しさに子を人質にとったに過ぎぬ。重い罪に処するには忍びない。それに私は彼と約束を交わしたのだ、どうして約束を違えられようか。」そして食糧と馬、弓矢を与えて去らせた(注:『今昔物語』による)。

永承三年に没し(注:『尊卑分脈』による)、享年八十一であった(注:諸家の系図はいずれも康平三年に没し、その時六十歳とする。しかし『武田系図』『小笠原系図』はいずれも、安和元年に生まれ永承三年に没し、その時八十一歳とする。これらの系図は他のものより詳しいので、今はこれに従う)。子孫は代々世に名を知られた(注:『今昔物語』による)。子は頼義(よりよし)、頼清(よりきよ)、頼季(よりすえ)、頼任(よりとう)、義政(よしまさ)である。頼義については別に伝がある。頼清は肥後・陸奥などの国守となり、子孫は村上(むらかみ)と号した。頼季は掃部助となり、井上(いのうえ)と号した。いずれも信濃に住んだ。頼任は河内(かわち)と号し、義政は国井(くにい)と号した(注:『尊卑分脈』による)。

源賴信

平維茂(たいらのこれもち)は、鎮守府将軍・平繁盛(たいらのしげもり)の孫である。父は兼忠(かねただ)といい、上総介であった(注:○『平氏系図』では繁盛の子とするが、今は『今昔物語』に従う)。維茂は若いころから勇略に優れ、祖父の貞盛(さだもり)はこれを大いに見込み、養子とした(注:『後拾遺往生伝』『元亨釈書』による)。貞盛は甥や従甥を多く養子としており、維茂はその中で最も年少であった。序列は十五番目であったため、「余五(よご)」と呼ばれた。

かつて維茂が陸奥にいたころ、国内の豪族藤原師種(ふじわらのもろたね)(注:○師種の名は『尊卑分脈』による。本書では「諸任」とする)と田地の所有を争った。国守の藤原実方(ふじわらのさねかた)に訴えたが、実方はこれを裁定できなかった。互いに確執を生じ、兵を集めて攻め合うこととなった。やがて師種は維茂の勢いの強さを避けて兵を退き、常陸へ逃れた。維茂はこれを侮って備えを怠っていた。師種が急襲してきたが、維茂は夜、水鳥の羽音に驚いて師種の来襲を察知し、急いで兵を起こしたものの、集まった兵はわずか二十人であった。維茂は妻子を逃がし、自ら陣頭に立って力戦した。夜が明ける頃には邸は水浸しとなり、兵士たちはみな傷ついて死んだ。維茂は髪を振り乱し婦人の衣服を着て、密かに逃げて葭原(よしはら)の間に身を隠した。師種はその死体をくまなく調べたが、焼けただれて識別できなかった。維茂はすでに死んだものと思い込み、大いに喜んで引き上げた。

維茂の兵士で異変を聞いて駆けつけた者が数十人あった。維茂は大声で「私は死んでいない、お前たちは案ずるな」と呼びかけ、兵士たちを督励して急ぎ追撃しようとした。皆は「敵は多く我らは少ない、しばらくその鋭鋒を避け、後日を期すべきです」と言った。維茂は言った。「昨夜、私は万に一つも助かる見込みはないと自覚していながら、身を挺してひとり奮い立ったのは、まさに敵に『掌の風にさえ潰走した』と嘲られるのを恥じたからだ。恥を忍んでいたずらに生き延びるくらいなら、一死をもって快とする方がましだ。敵は一度の勝利に慢心し、後のことなど考えていない。我らが不意を突けば、勝てぬはずがない。私の心はすでに決まった。行くも留まるもお前たちの好きにするがよい。」兵士たちはみな奮い立ってこれに従った。師種は帰路、妻の兄である大君(おおきみ)の家を通りかかったが、大君は彼を家に入れず、代わりに酒食を用意してもてなした。師種は壢原(れきはら)に至り、兵士たちに酒宴を振る舞った。兵士たちは鞍を外し酔って寝入ってしまった。維茂の軍が追いついたとき、師種は維茂の来襲を見て取り乱した。維茂は急襲してこれを打ち破り、師種を斬った。そのまま師種の邸まで進撃し、「男は一人残らず討ち取れ、女には手を出すな」と命じた。そして邸に放火して焼き払い、師種の妻を捕らえたが、丁重に大君のもとへ送り届けて引き上げた。これ以来、維茂の威名は関東に大いに知れ渡り(注:『今昔物語』による)、当時の人々はその勇敢さに感服し、これを「将軍」と称え敬った(注:『東鑑』文治四年の条による)。

後に出羽介となり(注:刊本『尊卑分脈』による)、鎮守府将軍を拝命した(注:刊本『尊卑分脈』『東鑑』による。○維茂の歴任については諸書に確かな考証がないが、おそらく一条・三条・後一条の各朝であろう)。八十歳で没し、世に余五将軍と称された。維茂は仏教を篤く信仰し、法華経の修行に励み、たびたび僧源信のもとで教えを請うた(注:『後拾遺往生伝』『元亨釈書』『東鑑』による。○言い伝えによれば、維茂はかつて信濃の戸隠山で群盗に遭い、盗賊は婦人の装いをして維茂を欺こうとし、また夜叉の面をつけて脅したが、維茂はこれを撃退して討ち取ったという。これは口碑の伝えるところであり、ここでは詳述しない。また、越後国蒲原郡小川荘の平等寺は維茂が建立したもので、寺には維茂の墓があるという)。子は繁貞(しげさだ)、繁兼(しげかね)、繁茂(しげもち)、繁職(しげもと)である。繁茂は出羽介となった(注:『平氏系図』による。○本書では繁茂を「繁成」とするが、今は『東鑑』によりこれを訂正する)。繁茂の玄孫の長茂(ながもち)については別に伝がある。

源行綱

藤原保昌(ふじわらのやすまさ)は、大納言・藤原元方(もとかた)の孫である。父は致忠(むねただ)といい(注:『尊卑分脈』による)、天暦年間に蔵人となり、備後守に任じられた(注:『江談抄』による)。右京大夫、右馬権頭を歴任し、従四位下に叙せられた(注:『尊卑分脈』による)。永延年間、致忠は保輔(やすすけ)の事件に連座して官を免ぜられた(注:『日本紀略』による)。長保元年、致忠は前相模介・橘輔政(たちばなのすけまさ)の子と、その家僕を射殺した(注:『今昔物語』による。○長保元年という年次は『小右記』『日本紀略』による)。朝議はその罪を定め、佐渡へ流罪とした(注:『小右記』『日本紀略』による。○『江談抄』によれば、村上天皇が天文について賀茂保憲(かものやすのり)に尋ねたとき、致忠がたびたび勅命を奉じて両者の間を取り次いだため、天文についておおよそ通じるようになった。後に致忠がたまたま厠にいたとき、人に天文について語っていたところ、飛んできた矢が柱に当たった。致忠は驚いて「まったく道理にかなったことだ。厠で天象を語ったために熒惑星(けいこくせい、火星)が私を射たのだ。しかし今年は木星の助けがあるため、矢は柱に当たっただけで済んだのだ」と言ったという。これは怪しく根拠のない話なので採らない)。致忠は源允明(みなもとのまさあきら)の娘を娶り、保昌が生まれた(注:『尊卑分脈』による。○本書では「元明親王」とするが、当時そのような人物はいない。おそらく醍醐天皇の皇子である源允明のことであろうから、今これを訂正する)。

保昌は、人となり胆力と知略に富み勇敢で決断力があり、膂力(りょりょく、腕力)は人並み外れ、武芸に精通していた(注:『今昔物語』による)。甥の源頼信らと並び称された(注:『十訓抄』による)。また和歌もよくした(注:『後拾遺和歌集』による)。左馬頭となり(注:『小右記』による)、丹後・大和・摂津などの国守を歴任し(注:○丹後守については『古事談』『十訓抄』による。大和については『左経記』による。摂津については『歴代皇紀』『今昔物語』『作者部類』による)、四位に至った(注:『作者部類』による。○正四位か従四位か、上か下かは未詳)。長和年間、天皇が左大臣藤原道長の邸に行幸し競馬をご覧になった際、寮の馬が肥え逞しかったことから、保昌に褒美の品を賜った(注:『小右記』による)。

保昌が丹後に赴任する途中、与謝山(よさやま)を通りかかった。一人の老人が馬に乗り笠をかぶって木陰に寄りかかっていた。従者はこれを叱りつけて馬から下ろそうとしたが、保昌はこれを制して言った。「あの者の鞍にまたがり手綱を握る様子を見よ、いわゆる『一人で千人に匹敵する』者に違いない、とても凡人ではあるまい。」やがて平致経(たいらのむねつね)が大勢を率いてやって来て、保昌を見て言った。「あなたは先ほど老人をご覧になりましたか。あれは私の父の平五大夫(へいごだゆう)です。田舎者ゆえ礼儀作法にも疎く、失礼があったのではないかと恐れております。」致経が立ち去った後、保昌は従者を振り返って言った。「先ほどお前たちの言うままにあの老人を辱めていたら、後悔してもしきれなかったであろう。」(注:『十訓抄』『古事談』による)。

保昌がかつて冬の夜、目立たぬ姿で出歩いていたとき、袴垂(はかまだれ)という大盗賊がいた。力が強く足も速く、脅し取ることを生業としていた。保昌を見て、その衣服を奪おうと何度も機をうかがった。保昌は笛を吹きながら振り返り、袴垂は思わず胸騒ぎを覚えて「ただ者ではない」と思い、力を振り絞って襲いかかろうとした。保昌がこれを一喝すると、袴垂は恐れおののいて地に伏した。保昌が名を尋ねると、袴垂は自ら名乗った。保昌は「私はかねてお前の名を聞いていた。お前もつまらぬ者ではあるまい。私についてまいれ」と言い、再び笛を吹きながら悠然と歩いていった。やがて家に戻ると、綿入れの衣を与えて戒めて言った。「困窮したらまた来るがよい。人を脅して害を受けるようなことはするな。」(注:『今昔物語』による)。

長元九年に没し、享年七十九であった(注:『歴代皇紀』『尊卑分脈』による)。子に僧の快範(かいはん)がおり、島禅師(しまぜんじ)と号した(注:『尊卑分脈』による)。論者は言う。「保昌はもとより武将の家系の出ではなかったが、武芸の才によって世に称えられ、朝廷にも重んじられた。惜しむらくは、子孫にその家業を継ぐ者がいなかったことだ。」(注:『今昔物語』による)。保昌の弟の保輔(やすすけ)は(注:○『江談抄』では兄とする)、右兵衛尉に任じられたが(注:『尊卑分脈』による)、人となり強欲で乱暴、不法な行いが多かった。永延年間、獄に下されて死んだ(注:『続古事談』による)。