卷之二百十七 列傳第一百卌四
文學五
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
橘直幹
¶橘直幹(たちばなのなおもと)は、長門守(ながとのかみ)長盛(ながもり)の子である(注:『橘氏系図』による)。橘公統(たちばなのきみむね)に師事して学び(注:『類聚符宣抄』による)、対策(たいさく、官吏登用試験)に及第して大内記(だいないき)に任じられ、のち大学頭(だいがくのかみ)となった。天暦二年、文章博士(もんじょうはかせ)を授けられ、勅命を奉じて文章得業生(もんじょうとくごうしょう)の策試を行った(注:『日本紀略』による)。天暦八年、民部大輔(みんぶのたいふ)の職が欠員となった際、直幹は上書して兼任を願い出て、次のように述べた。
¶「去る天暦二年(注:原文は「三年」とあるが、今、下文の「爰に七年を歴たり」により訂正した)、大学頭・大内記の職から当職(文章博士)を拝した日、帯びていた両官はいずれも停止された。朝廷が文章博士を置いて以来、そのような例は聞いたことがない。また同四年、三統元夏(みむねのもとなつ)が式部少輔から儒官に任じられた日には、少輔の職は罷免されず、兼官の宣旨を賜っている。任官の恩は本来一つであるはずなのに、栄枯の分かれ方は人によって異なる。人によって扱いが異なるのは偏頗のようにも見えるが、官を授けるのは天に代わることであり、まことに運命に懸かっている。私は独り一つの職を守り、ここに七年を経た。今、先例を調べてみると、文章博士を経て現在朝廷に仕える者のうち、大江維時(おおえのこれとき)は博士のまま式部少輔・大学頭を兼任し、同じく大江朝綱(おおえのあさつな)は先に左少弁を兼ね、後に民部大輔を兼ねた。紀在昌(きのありまさ)は先に式部少輔を兼ね、後に民部大輔・大内記を兼ね、菅原在躬(すがわらのありみ)は右少弁を兼ねている。昔からの先例は数え切れないほどある。また儒官の人事は序列を越えないのが通例であるのに、三善聞明(みよしのぶんめい)や三統元夏らはみな私、直幹より下座に列する者たちである。藤原国光(ふじわらのくにみつ)は、私が栄爵を得た後に学を問うた後輩である。式部少輔は欠員が出るたびに、この三人が私を追い越して次々と任じられた。さらに算博士・明法博士なども、みな顕職・温官(実入りの多い官職)を兼帯している。あるいは二寮の頭・助を兼ねて朝廷の要職を担い、あるいは警衛・裁判の職を兼ねて国の法典と朝廷の威厳を司っている。それなのに私、直幹は自分の分をわきまえず、誤って大業の名を得たものの、もとより器量に乏しく、太平の世の禄にあずかれずにいる。近頃の例を見るに、蔵人所の出納や太政官の史生といった者でさえ、緑色の袍を着る身分にある間に諸司の役得に十分に浴し、朱の綬を帯びるようになった後は数か国にまたがる利得を得て、その邸宅は花のごとく栄え、門前は市をなすほどの賑わいである。今、学問の道の険しさを思うと、あたかも百万里の波濤を渡るがごとくであり、官吏としての栄達を望んでも、五、六倍の差にも及ばない。飯びつも柄杓も度々空になり、顔淵(がんえん)の住む路地のように雑草が茂り、藜(あかざ)や豆の葉も戸口を深く閉ざし、原憲(げんけん)の家のように雨に濡れている。昔の人は貧しくともその楽しみを変えなかったというが、今の私はこの憂いに堪えているに過ぎない。まことに儒学の道の拙さこそが、不運の源であることを思い知った。この道を深く究めようとすればするほど、必ずその報いとして飢えを受けることになる。この教訓は末代にまで及び、後の世の戒めとすべきであろう。私、直幹はここ数年、奏上文を差し出さず、ただ天の道を頼み、また聖明なる帝の御心を頼みとしてきた。しかし蒼々とした天は遠く答えがたく、些細な胸の内の願いもいまだ遂げられていない。伏して思うに、昇殿は浮世を超えた選任であり、俗人の身では蓬萊の雲を踏むことはできない。尚書(民部省の長官)もまた天下の人望の的であり、凡庸な才では台閣の月に手を伸ばすことはできない。しかし民部大輔に至っては、決して破格の温良な地位ではなく、これまでも常例として兼官されてきた職であって、誰にとっても分を過ぎた栄職というわけではない。いたずらに月日を費やすよりは、急ぎ願い出るに越したことはない。伏して望むらくは、格別の天恩を蒙り、この欠員の職を兼任させていただき、しばらくの間、世に埋もれ沈淪する愁いを慰めていただきたい。」(注:『本朝文粹』による)
¶この上書は帝に奏上された。帝は「人によって扱いが異なる」という数句を読むにあたって、むっとして不快の色を示されたという(注:『十訓抄』『古今著聞集』による)。天徳の初め、直幹は式部大輔となり(注:『類聚符宣抄』『天徳図詩記』『扶桑略記』による)、冷泉帝(れいぜいてい)の侍読を務めた(注:『二中歴』による)。
源順
¶源順(みなもとのしたごう)は、字(あざな)を具璾(ぐじ)という(注:『江談抄』による)。大納言定(だいなごん さだむ)の曽孫で、左馬允(さまのじょう)挙(こぞる)の子である。詩文をよくし、和歌にも通じていた(注:『歌仙伝』『拾芥抄』『尊卑分脈』による)。天暦五年、帝は順および大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、清原元輔(きよはらのもとすけ)、紀時文(きのときぶみ)、坂上望城(さかのうえのもちき)に勅して、昭陽舎(しょうようしゃ、梨壺)に出仕させ、和歌集を選び撰ばせた。世にこれを梨壺(なしつぼ)の五人と称する。また藤原伊尹(ふじわらのこれただ)を撰和歌所の別当とした(注:『八雲御抄』『拾芥抄』による)。伊尹は当時、蔵人・左近衛少将の職にあり(注:『公卿補任』による)、帝は自ら勅旨を書き記して彼に賜った。順はその制詞(せいし、返礼の文)を作り、その中に「雄剣腰に在り、抜けば秋霜三尺、雌黄口より出で、吟ずればまた寒玉一声」の句があった。当時の人々はこれを称賛した(注:『本朝文粹』『和漢朗詠集』による)。順は進士の試験に及第し(注:『本朝文粹』による)、勘解由判官(かげゆのはんがん)に任じられた。応和・天元の頃、民部大丞(みんぶのだいじょう)、下総権守(しもうさのごんのかみ)、和泉守(いずみのかみ)を歴任し、能登守(のとのかみ)に遷った(注:『歌仙伝』による)。官途は思うように進まず、その憂鬱はしばしば詩文に表れた。かつて「河原院賦」を作り、源融(みなもとのとおる)の奢侈を風刺して、「強吳(きょうご)滅びて荊棘(けいきょく)あり、姑蘇台(こそだい)の露は瀼瀼(じょうじょう)たり、暴秦(ぼうしん)衰えて虎狼(ころう)なし、咸陽宮の烟は片片たり」と詠んだ(注:『本朝文粹』『和漢朗詠集』による)。またかつて勤子内親王(きんしないしんのう)のために『和名類聚抄』十巻を著した(注:本書古本の序による)。橘在列(たちばなのありつら)の文章を好み、これを集めて七巻とし、序を作って後世に伝えた(注:『本朝文粹』による)。また能宣らとともに勅を奉じて『万葉集』の訓点を作った(注:『辞林採葉抄』による)。永観元年、七十三歳で没した(注:『歌仙伝』『尊卑分脈』による)。
橘正通
¶橘正通(たちばなのまさみち)は、字を能(のう)という(注:字を能とするのは応和三年三月の善道統家詩合記による)。右大臣氏公(うじきみ)の六世の孫で、父の実利(さねとし)は大舎人頭(おおとねりのかみ)であった(注:『橘氏系図』による)。正通は若くして学問を志し、源順に師事した(注:『江談抄』による)。藤原在衡(ふじわらのありひら)と共に大学に入り、二人の親交は深かった。しかし在衡は式部少輔・五位蔵人を歴任したのに対し、正通はわずかに六位を得たにすぎなかった。そこで正通は詩を寄せてその心境を述べ、「花月一窓、昔の昵(むつ)みを交わせしに、雲泥万里、眼(まなこ)今窮(きわ)まる」の句を詠んだ(注:『和漢朗詠集』による)。在衡は官位を重ねて昇進し、ついに公卿にまで至った。正通は次第に老い、自らの不運を嘆いた。心中には常に鬱々とした思いがあり、世を避けたいという志を抱いていた。文章を作るたびに、その心情がしばしば表れた(注:『本朝文粹』による)。天禄の頃、加賀掾(かがのじょう)に任じられ(注:『源順家集』による)、やがて宮内少丞(くないのしょうじょう)となった(注:『本朝麗藻』『作者部類』による)。かつて詩の序を作り、「齢(よわい)は顔駟(がんし)に亜(つ)ぎ、三代を過ぎてなお沈めり。恨みは伯鸞(はくらん)に同じく、五噫(ごい)を歌いてまさに去らんとす」と述べた(注:『本朝文粹』による)。源為憲(みなもとのためのり)がこれを読んで大いに怪しみ、正通を顧みて「あなたにはよもや他に思うところがあるのではないか」と尋ねた。正通は慨然として涙を流し、その後果たして世を逃れて隠遁した(注:『古今著聞集』『十訓抄』による。○按ずるに、『著聞集』『十訓抄』はいずれも、正通が妻子を連れて高麗に赴き、国王がその才を重んじて手厚くもてなし、次第に高位に上ったとするが、これは誤りである)。具平親王(ともひらしんのう)はその遺した詩篇に題して、「文華は留まりて荊山(けいざん)の玉となり、風骨は消えて万里の塵となる。いまだ茫々たる天道の理に会わず、満朝の朱紫(しゅし)は彼(か)の何人ぞ」と詠んだ。当時の人々にこれほどまでに惜しまれたのである(注:『本朝麗藻』による)。
源為憲
¶源為憲(みなもとのためのり)は、光孝天皇の皇子是恒(これつね)の曾孫で、筑前守(ちくぜんのかみ)忠幹(ただもと)の子である(注:『尊卑分脈』による)。源順に学を受けた。橘正通は順の高弟であったが、順は臨終に際してその歌集を正通には授けず、為憲に託した(注:『江談抄』による)。文章生に挙げられ、蔵人・伊賀守・式部丞を歴任した。正暦の頃、遠江守(とおとうみのかみ)となった。かねてよりこの国は民戸が疲弊していたが、為憲は着任すると巧みな方法で民をいたわり、次第に豊かにさせた。田畑の開墾は旧来の記録の数倍に及び、大いに善政と称された。長徳元年、任期を終えて帰京し、その功により従五位上に叙せられた。しかしその後二十年間、官職のない散位のままであった。長和三年、美濃(みの)・加賀(かが)の二国の国守が欠員となった折、為憲は上書してその任官を願い出て、ついに両国の国守を歴任した(注:『本朝文粹』『尊卑分脈』による)。詩の会に赴くたびに必ず一つの袋を携え、これを詩囊(しのう)と名づけていた。かつて大江以言(おおえのもちとき)の詩の講義を聴いた際、その詩を袋の中に入れ、繰り返し吟じ味わってやまず、ほとんど涙を流さんばかりであった。当時の人々はその真意を知らなかった。著書に『本朝詞林』がある(注:『江談抄』による)。
藤原為時
¶藤原為時(ふじわらのためとき)は、中納言兼輔(かねすけ)の孫で、刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)雅正(まさただ)の子である(注:『尊卑分脈』による。○「雅」は一本に「惟」に作る)。詩文の才があり、藤原孝道(たかみち)、源為憲らと並び称されたが、論者はその中でも為時を第一とした(注:『江談抄』による)。文章生に挙げられ、式部丞・蔵人弁を歴任した(注:『尊卑分脈』による。式部丞の件は『今昔物語』による)。一条天皇の御代、越前守(えちぜんのかみ)が欠員となった際、為時と源国盛(くにもり)がともにこれを望んだ。しかし左大臣藤原道長(みちなが)が国盛を後援したため、国盛が越前守を得た(注:『十訓抄』による)。為時は淡路守(あわじのかみ)を得たにとどまり(注:『今鏡』による)、これを不満として鬱々と楽しまず、ひそかに上書した。その文には概略、「寒夜に苦学すれば、紅涙(こうるい)は襟を潤し、除目(じもく)の春の朝、蒼天(そうてん)は眼前にあり」とあった。帝はこれを御覧になり、心を痛めて食事も召し上がらなかった。道長はこれを聞いて大いに驚き、急ぎ国盛を罷免して、為時をその後任とした(注:『古事談』『今昔物語』『十訓抄』『今鏡』による)。その後、越後守(えちごのかみ)に転じた(注:『小右記』『十訓抄』による)。長和五年、園城寺(おんじょうじ)に入って剃髪した(注:『小右記』による)。子の惟規(のぶのり)は式部丞となった(注:『紫式部日記』による)。
慶滋保胤
¶慶滋保胤(よししげのやすたね)は、字を能(のう)という(注:字を能とするのは『本朝麗藻』による)。賀茂忠行(かものただゆき)の子である(注:『今昔物語』『賀茂系図』による)。一族は代々陰陽道を家業としていたが、保胤は早くからこの家業を捨てて学問の徒となった。文学に心を潜め、姓を慶滋(よししげ)と改めた(注:『今昔物語』による。○按ずるに、本書は「ある博士に養われたため、今の姓に改めた」というが、その博士の姓名を欠いている。この説はおそらく誤りであろう。『姓氏録』などの書を調べても、慶滋という姓は見当たらない。今考えるに、賀茂と慶滋は字義が同じであり、おそらく学問の道に転じるにあたって、その文字を換えて新たに名乗ったものであろう。弟保章の子である為政も学問の徒となり、姓を善滋と改めているが、これも同じ趣旨である。証拠となる文献はないが、類推することができる)。菅原文時(すがわらのふみとき)の門に学び、才識は日々進んだ。試験を受けて及第し、その名声は当時第一であった。文章をよくした(注:『続往生伝』『古事談』による)。
¶かつて文時が題を賜って詩を作った際、自らその出来を未熟だと思い、繰り返し口の中で吟じていた。折しも保胤が居合わせ、その草稿を見て「これは絶唱である。あなたはなぜ早く献上しないのか」と称賛した。文時はその言葉に従ってこれを奏上したところ、世に出るや果たして名声を得た(注:『十訓抄』による)。具平親王(ともひらしんのう)は文事を好み、常に保胤に学んでいた(注:『今鏡』による)。ある日、親王が当代の文人を一人ひとり尋ねたところ、保胤は次のように答えた。「大江匡衡(おおえのまさひら)は、精鋭の兵数百人が犀(さい)の甲(よろい)を着け、駿馬に鞭打って淡津(あわづ)の浜を通り過ぎるかのようです。その鋭さは凛としており、たやすく立ち向かえる者は少ないでしょう。紀斉名(きのただな)は、雪の朝に瑤台(ようだい)に座して箏(そう)を弾じるかのようです。大江以言は、白砂の庭先、翠(みどり)の松の陰の下で陵王(りょうおう)の舞を奏でるかのようです。」親王がさらに「あなた自身はどうか」と尋ねると、保胤は「昔、上達部(かんだちめ)が檳榔毛(びんろうげ)の車に乗って通る際に聞こえたあの音のようなものです」と答えた。世の人々は「優劣を論じるのではなく、その評はいずれも的を射て妥当なものであった」と評した(注:『古今著聞集』による)。
¶大内記に任じられ、近江掾(おうみのじょう)を兼ねた(注:『賀茂系図』『続往生伝』による)。生まれつき慈しみ深く、篤く仏教を信仰していた。身は朝廷に仕えながらも、志は常に山林に隠棲することにあった。自邸を構えず、常に人の家に身を寄せて暮らしていた。のちに六条に土地を選んで池のほとりに亭を構え、自らその記を作って志を述べた(注:『本朝文粹』『今鏡』による)。あるとき参内の途中、一人の下女に出会ったところ、ひどく悲しげに泣いていた。訳を尋ねると、下女は「私は主人のために玉帯(ぎょくたい)を借りていましたが、道でそれを失ってしまいました。主人に咎められることを恐れて泣いているのです」と答えた。保胤はそこで自分の帯を解いて与えた(注:『今鏡』による)。犬や馬のような畜類に至るまで、すべて慈しんで大切にした。その慈悲深さは当時の人々に称賛された(注:『発心集』による)。
¶寛和二年、ついに髪を剃り、名を寂心(じゃくしん)と改めた。世に内記入道(ないきにゅうどう)と称された(注:『今昔物語』『続往生伝』による)。諸国を巡り歴て、修行に励んだ(注:『続往生伝』による)。当時、僧の増賀(ぞうが)が横川(よかわ)にあって止観(しかん)を講じていた。保胤は行ってこれを聴聞し、感じ入って嘆息した。増賀はこれを叱りつけ、拳を振るって殴りつけた。人々は皆驚き呆れたが、寂心は動じることなく、再び席に加わることを願い出た。前と同じように涙を流すと、増賀はまた叱りつけた。このようなことが再三に及んだが、寂心は嗚咽してやまず、増賀はついにその真心に大いに感じ入り、これによって奥義のすべてを聞かせることとなった(注:『日本極楽往生記』による)。長徳三年、東山の如意輪寺(にょいりんじ)で没した(注:『続往生伝』による)。著書に『日本極楽往生記』がある(注:『日本極楽往生記』による)。 甥の善滋為政(よししげのためまさ)もまた詩文をよくした(注:『続本朝文粹』『本朝麗藻』による)。その父保章(やすあきら)は文章博士であった。為政はよくその家業を継ぎ、河内守(かわちのかみ)・能登守・民部大輔となり、文章博士を兼ねた(注:『賀茂系図』『作者部類』『朝野群載』を参照)。世に善学士(ぜんがくし)と称された(注:『続本朝文粹』『本朝麗藻』による)。
紀齊名
¶紀斉名(きのただな)は、もとの姓を田口(たぐち)といったが、後に紀氏に改めた(注:『東鑑』建保四年条による)。橘正通に師事して学び、文章に優れていることで知られた(注:『江談抄』による)。一条天皇の御代、大内記に任じられ、越中権守(えっちゅうのごんのかみ)(注:『本朝文粹』による)、式部少輔(注:『小右記』による)を兼ねた。関白藤原頼通(よりみち)が東北院で法会を修した際、斉名もこれに従った。時に九月十三夜、月の色は澄み渡って美しかった。頼通は藤原斉信(ただのぶ)を顧みて「このよい夜に朗詠がないということがあろうか」と言った。斉信がためらっていると、人々は皆耳をそばだてた。しばらくして「念仏極楽の尊、一夜山月正に円かなり」の句を吟じたが、これは斉名が作ったものであった。人々はこれを名誉なこととした(注:『十訓抄』『古今著聞集』による。頼通の件は『今鏡』による。○按ずるに、本書には頼通の代わりに藤原兼家とあるが、これは誤りであるので、今訂正した)。
¶かつて大江以言とともに試験を受け、同じく「秋未だ出でざる詩境」という題で詩を賦した(注:『江談抄』『十訓抄』による)。その対句に「霜花は後に発す詞林の暁、風葉は前に駆く筆駅の程」とある(注:『江談抄』による)。以言の詩には「文峰(ぶんぽう)に轡(くつわ)を按ずれば駒過ぐる影、詞海(しかい)に船を艤(よそお)えば葉落つる声」とあった。以言はひそかにその草稿を具平親王に見せて評を求めた。親王は「『白』の字が肝要である」と言った。以言はその言葉に従い、「駒過ぐる影」を「白駒(はっく)の影」に改め、「葉落つる声」を「紅葉(こうよう)の声」に改めた。二人の詩が世に出るに及んで、以言の詩の方が優れているとされた。長保元年、斉名が病に臥した際、親王が見舞いに訪れると、斉名は「御恩を蒙ること深いものですが、ただあの『白』の一字だけは今も忘れることができません」と謝辞を述べた。彼の詩文にかける志の篤さはこれほどのものであった(注:『江談抄』『十訓抄』による)。三十四歳で没した(注:『一代要記』による)。撰した書に『扶桑集』がある。大江匡房(おおえのまさふさ)は以言と斉名を論じて、「以言の文章はひたすら新奇を出すことを務め、思うままに才を馳せて、ほとんど手綱をかけることがない。うまくいった時には、後進の及ぶところではない。しかしうまくいかない時には、手本とするには足りない。斉名のような場合は、一句一句が古人に依拠しているため、風雅な趣がある。しかしうまくいかない時には見るべきものがない。それは新味がないからである」と述べた(注:『江談抄』による)。
藤原義忠
¶藤原義忠(よしただ)は、式部卿宇合(うまかい)の子孫で、大和守(やまとのかみ)為文(ためふみ)の子である(注:『尊卑分脈』による)。後一条天皇の御代、大内記・式部少輔・東宮学士・左右少弁・文章博士を歴任し、正五位下に叙せられた(注:『弁官補任』による)。摂政藤原道長の妻倫子(りんし)の七十の賀宴において、大納言藤原斉信が屏風に書く詩を選んだ際、多く藤原資業(すけなり)の詩を採ったが、その中に「色絲(しきし)の詞は春風に綴(と)ぢらる」という句があった。義忠はこれを譏(そし)って、道長の子頼通に「『絲』の字は平声ではありません」と告げた。斉信はこれを聞いて、白楽天(はくらくてん)の「句句の妍辞は色糸に綴(つづ)らる」という句を示して弁解した。頼通は義忠を面と向かって責めたので、義忠はこれより一年余り引きこもった。義忠は深く憂え、和歌を詠んで憐れみを乞うた(注:『江談抄』『今昔物語』『今鏡』による)。長元・長暦の頃、大学頭に任じられ、権左中弁(ごんのさちゅうべん)となり、正四位下に進み、東宮学士・大和守を兼ねた(注:『弁官補任』による)。薬師寺の南門を造営するための材木を横取りして官用にしようとした。寺の僧たちが度々これを訴えたが、義忠は聞き入れなかった(注:『今昔物語』による)。長久二年、金峰山(きんぷせん)に登り、帰る途中で吉野川にさしかかったところ、舟が転覆して溺死した。三十八歳であった。朝廷はその侍読としての功労を優遇し、特に参議従三位を贈った(注:『弁官補任』『尊卑分脈』による。金峰山に登った件は『今昔物語』による)。
藤原明衡
¶藤原明衡(あきひら)は、式部卿宇合の後裔である。父の敦信(あつのぶ)は侍読を務め、山城守(やましろのかみ)に任じられた。明衡はその家業を継いで学識博く、和歌にも優れ、文章生に補せられた。後冷泉天皇の御代、式部少輔・左衛門尉を歴任し(注:『尊卑分脈』『続本朝文粹』『除目大成抄』による)、大学頭・右京大夫となり、文章博士を兼ねた。康平の頃、東宮学士となった(注:『尊卑分脈』『本朝文粹』による)。著書に『雲州往来』三巻、『本朝文粹』十四巻、『本朝秀句』五巻がある(注:『仁和寺書籍目録』による)。子に敦基(あつもと)、敦光(あつみつ)がいる(注:『尊卑分脈』による)。敦光には別に伝がある。
¶藤原敦基。敦基は弱冠にして秀才(しゅうさい)に挙げられ、対策に及第した。白河天皇がまだ東宮であった頃、長くその側に仕えた(注:『続本朝文粹』による)。右京大夫・大内記を歴任し、式部大輔・文章博士・上野介(こうずけのすけ)を兼ねた(注:『尊卑分脈』による)。著書に『柱下類林』三百六十巻および『国後抄』がある(注:『仁和寺書籍目録』による)。子の令明(のりあき)、茂明(しげあき)はともに文章博士となり、式部少輔にまで至った(注:『尊卑分脈』による。令明が式部少輔であった件は印本による)。 敦基はかつて関白藤原忠通(ただみち)のもとを訪れ、盛んに自分の子息の才能の優れていることを語った。ある日、忠通が文人たちと連句を行った際、戯れに「愚息は賢息と称されている」と言うと、敦基はすかさず「令明と茂明」と対句を返した。忠通はその機敏さに感嘆した(注:『古事談』による)。令明の子敦任(あつとう)、茂明の子敦周(あつちか)も、またよくその家業を継いだ(注:『尊卑分脈』による)。敦任は喪に服す作法によく通じており、喪の期間が終わるまで女色を近づけず、肉を食べず、日々仏経を書写して冥福を祈った。人々はこれを称賛した(注:『台記』による)。
¶僧玄慧(げんえ)は、その家系の詳細は分からない。北小路(きたこうじ)に住み、独清軒(どくせいけん)と号し、また健叟(けんそう)とも号した(注:『太平記』『尺素往来』による)。権大僧都(ごんのだいそうず)に任じられた。書物や史書に広く通じ、また詩文の才があり、世に称された(注:『太平記』による。権大僧都の件は『後三年軍記』の序による)。常に宋の司馬光(しばこう)の『資治通鑑』を読み、程顥(ていこう)・程頤(ていい)・朱熹(しゅき)の学を尊び信奉した。後醍醐天皇は玄慧を侍読に召したが、これより先、経筵(けいえん、天子への進講)では専ら漢・唐の諸儒の注疏が用いられていたのが、この時に至って玄慧が初めて程朱の学説を唱え、世の人々もしばしばこれを学ぶ者が多くなった(注:『尺素往来』による)。後に後醍醐帝がひそかに北条氏を滅ぼそうと謀った際、権中納言藤原資朝(すけとも)がこれに賛成し、無礼講を催して武士たちの心をつなぎとめようとした。人に怪しまれることを恐れ、表向きは玄慧を招いて書物の講義をさせるという名目にした。玄慧は法律に明るく、故実に通じていたため、足利尊氏(たかうじ)およびその弟直義(ただよし)に大いに重んじられた。尊氏が謀反を起こしてより、都はたびたび攻め落とされ、天子の御車はその都度延暦寺に行幸して難を避け、僧徒の力を頼んで守りを固めた。尊氏は僧徒の所業を深く憤り、延元の頃、京に入って高師直(こうのもろなお)・上杉重能(うえすぎしげよし)と議り、延暦寺を廃して僧徒を追放し、後患を絶とうとした。しかし延暦寺は歴代の天子が尊崇してきた寺であったため、憚って決断できずにいた。ちょうどそこへ玄慧が訪れたので、尊氏は彼を召して尋ねた。「延暦寺は多くの郡邑から租税を徴収し、三千の僧徒を養っている。その費用はすでに莫大であるのに、しばしば我が軍に逆らう。今これを廃絶しようと思うが、そなたはどう思うか」。玄慧は答えた。「窮鳥(きゅうちょう)懐に入れば、人はなおこれを助けるといいます。ましてや万乗の主(あるじ、天子)自らがそこに行幸されているのですから、誰が敢えてこれを阻めましょうか。将軍が積年の怨みを忘れ、恩徳をもってこれを撫でれば、彼らはかえって将軍のために用いられることになりましょう」。尊氏はついにその議を取りやめ、さらに数か邑を延暦寺に加増した。
¶直義が職を退いて錦小路(にしきこうじ)に引きこもると、旧恩のある将佐たちでさえ高師直を憚って、あえて訪ねる者はいなかった。玄慧は師直に願い出て、たびたび直義のもとに参り、会うたびに古今のことを語り合って彼を慰めた。あるとき直義が病にかかると、玄慧は薬を贈り、それに歌を添えた。玄慧自身も病で起き上がれなくなると、詩をもって答えた。まもなく玄慧は世を去った。時に正平五年のことである。直義はその詩の紙の裏に自ら仏経を書き記し、冥福を祈った。当時の人々はその心情をたいそう哀れんだという(注:『太平記』による。正平五年の件は『園太暦』による)。もとは法勝寺(ほっしょうじ)の僧慧珍(えちん)が元弘・建武以来の戦乱の得失を記して三十余巻とし、これを『太平記』と名づけて直義に献上したものであった。直義は玄慧を召してこれを読ませたところ、玄慧は「この書に記された事柄は公平を欠き、しかも誤りが甚だ多いので、他人には見せず、削り改めた上で世に広めるべきです」と述べた。しかしその改訂は果たされなかった(注:『難太平記』による)。ある説には、今伝わる『太平記』は、実は玄慧に改めさせて選び直させたものだという。当時、是円(ぜえん)という人物がおり、法律に通じ、また文辞にも優れていた。建武の頃、尊氏が諸国を服従させて鎌倉に幕府を開き、広く政務について諮問した。是円は玄慧・真慧(しんえ)ら八人とともにこれを議論した。古今の条規を参酌し、その中でも特に実務に切実なもの十七か条をまとめて進上し、これを『建武式目』と名づけた。ついでさらに『新加制式』二十一条を作った。尊氏は大いにこれを可として、いずれも施行した(注:『建武式目』『新加制式』による)。
¶朴翁(ぼくおう)は、姓氏は伝わらず、遊和軒昨木子(ゆうわけんさくぼくし)と号した。学問があり、古今の事に通じていた。後村上天皇に従って吉野に住んだ。足利直冬(ただふゆ)が父尊氏を討って忠節を尽くしたいと奏請すると、帝はこれをお聞き入れになり、綸旨(りんじ)を賜って京師への復帰を命じられた。朴翁はこれを聞いて嘆いて言った。「昔から、忠臣を求めるならば必ず孝子の家に求めよと言われる。それゆえ堯(ぎょう)は舜(しゅん)に位を譲り、天下はよく治まった。もし親に孝であるならば、たとえ卑賤の身にあっても登用してよい。もしその逆であれば、たとえ功績があっても、どうして重用するに足りようか。今、直冬は王命を借りてその父を害しようとしている。天の理に背き、子としての道を失うこと、これより甚だしいものはない。それなのに朝廷はこれを容認し、さらに節鉞(せつえつ、将軍としての権限)を授けようとしている。これはどういうことであろうか。たとえこの戦に勝利を得たとしても、その功績を全うすることはできないであろう。」その後、果たしてその言葉の通りになった(注:『太平記』による)。