卷之二百廿四 列傳第一百五十一
列女
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
この巻の目次42
衣縫金繼女
¶婉嫕淑順(えんえいしゅくじゅん、注:しとやかで従順なこと)は、婦女の道である。古の風習は素朴であり、夫が唱え妻が和すという夫婦の道理は、すでに太初(たいそ)の葦原(あしはら)の歌に見え、これが風教の始まりとなった。後宮の女性たちの徳もまた、それぞれその伝に著されている。そして衣冠を身につけた家柄の者から民間に至るまで、親に孝を尽くし、夫の死後に節を守り、家を治めて厳正にし、危難に臨んで果断に処した者が、しばしば見られる。人に生まれつき備わる道徳心の存在は、はっきりと見て取れる。時代が下って中頃、文物が盛んになると、才女が相次いで現れ、華やかな文才を発揮する者は世に絶えなかった。しかし操行が貞潔で特に優れた者は、めったに聞かれなくなった。これもまた、後宮の教化が修まらず、家庭内の教えに欠けるところがあったためであろう。『易経』にいう、「家の中で食事を整えることに専念すれば、正しく吉である」と。女子が才芸で称えられるのは、むしろ徳の衰えの表れではないか。源頼朝の妻が女性の身で天下の権をとったことを見ても、世の変化がうかがえる。そして楠正成の妻や瓜生保の母は、果断で聡明であり、常人を大きく超えるものがあった。これらは、些末な詩文の巧拙などと比べられるものではない。今、その行いを順序立てて、まず孝行な女性を、次に節婦を挙げ、母としての模範を示し、才芸を表彰し、列女伝を作る。
福依賣
¶衣縫金継女(きぬぬいのかねつぐのむすめ)は、もと右京の人で、河内国志紀郡に住んでいた。十二歳の時に父を亡くした。血の涙を流して泣き、人々を感動させた。喪が明けると、母は人に嫁がせようとしたが、女はひそかに家を出て父の墓のそばに住み、朝夕嘆き悲しんだ。これ以降、母は再び嫁のことを言わなくなり、そこで女は母とだけ暮らすようになった。父の忌日になると、精進した食事をとり経を誦した。境内に恵賀川(えがのかわ)があり、冬には人々が渡るのに難儀していた。女は母とともに雑木を買い集めて仮橋を造り、往来の便を図った。これを十五年間続けて絶やさなかった。母は八十歳で亡くなり、女は泣き声が絶えなかった。承和八年、勅命により三階の位を叙され、生涯にわたり戸の田租を免除され、門閭(もんりょ、注:家の門)に表彰の印を立てられた。(注:『文徳実録』による。)
橘逸勢女
¶福依売(ふくよりめ)は、薩摩の民家の娘であったという。父母は年老いて男子がなく、共に病んで床に就いていた。娘は働いて賃金を得て両親を養い、二十余年にわたり湯薬の世話をした。民間で育ったとはいえ、礼儀をおおよそ心得ていた。父母を敬い、怠ることがなかった。仁寿年間、位階三級を賜り、門閭に旌表(せいひょう、注:表彰の印を立てること)された。(注:『文徳実録』による。)
夜叉女
¶橘逸勢(たちばなのはやなり)の娘は、この上ない孝心を持っていた。逸勢が罪を得て流罪となった際、娘は悲しみ泣きながら徒歩で従った。護送の役人が叱って立ち去らせようとした。娘はそこで昼は止まり夜に歩き、ついに離れずに済んだ。逸勢が亡くなると、遺体を収めて葬り、その傍らに小屋を建てて守り、離れなかった。自ら髪を落として尼となり、名を妙冲(みょうちゅう)といった。仏道への念いは苦しみの中でも至って篤く、朝な夕なに怠らず、見る者はみな涙を流した。後にまた父の遺骨を背負って戻った。人々はみなこれを異とし、孝女と称えた。(注:『文徳実録』による。)
微妙
¶夜叉女(やしゃにょ)は、左馬頭(さまのかみ)源義朝(みなもとのよしとも)の娘である。義朝はかつて京へ上る途中、美濃国青墓(あおはか)の宿駅の長、大炊(おおい)の家に宿った際、その娘延寿(えんじゅ)を寵愛し、一女をもうけた。これが夜叉である。義朝が敗走すると、異母兄の頼朝が青墓を訪れ、一家は喜んで迎え、手厚くもてなした。ところが頼朝が捕らえられると、夜叉は泣きながら言った。「私も頭殿(かみどの、注:義朝を指す)の子です。いつか再び辱めを受けるくらいなら、兄と同じ刑を受ける方がましです。」そして走り出ようとした。人々がこれをなだめて止めた。その後、ひそかに水に身を投げて死んだ。時に十二歳であった。(注:『平治物語』による。)
上毛野形名妻
¶舞女微妙(みみょう)は、もと良家の子であったが、鎌倉に仮住まいしていた。ある時、源頼家(みなもとのよりいえ)が比企能員(ひきよしかず)の家で宴を開き、能員は微妙に歌舞を演じさせた。その所作は絶妙で、見る者はみな感嘆した。能員は頼家に申し上げた。「この舞女はもともと京の人で、幕府に訴えたいことがあるようです。どうか御自らお尋ねください。」頼家がその事情を尋ねると、微妙ははらはらと涙を流して言った。「先の建久年間、私の父、右兵衛尉為成(うひょうえのじょうためなり)は、讒言によって罪を得て蝦夷(えぞ)へ流されました。母もまた心労のうちに亡くなりました。私はその時七歳で、頼るべき親戚もありませんでした。年を重ねるにつれ父を思う気持ちはますます切実になりましたが、父の消息を聞く手立てがありませんでした。そこでこの卑しい芸を幕府で披露し、お情けをいただきたいと願ったのです。」頼家は哀れに思い、座にいた者はみな鼻をすすった。頼家の母、政子(まさこ)は深くその孝心に感じ入り、すぐに使者を陸奥へ遣わし、父を捜し尋ねさせた。使者が到着すると、父はすでに流された地で亡くなっていた。微妙はこれを聞いて激しく泣き、気を失わんばかりとなり、ついに髪を剃って尼となり、名を持蓮(じれん)と改めた。政子は特にこれを憐れみ、住まいを与えて手厚く世話をした。(注:『東鑑』による。)
田道妻
¶上毛野形名(かみつけののかたな)の妻。舒明帝九年、形名は将軍を拝命し、蝦夷を討ったが戦は思わしくなく、兵士は逃げ散った。形名は単身で砦に逃げ込んだが、賊に包囲された。策の施しようがなく、夜の闇に紛れて逃げようとした。妻は憤然として言った。「ああ、逃げれば免れられるとお思いですか。ただ恥をさらすだけです。私が聞くところでは、あなたの祖先は海外を平定し、その武威は世に知られていたといいます。今あなたが危難に臨んで一時逃れをはかれば、先祖の功業はすべて廃れてしまいます。それは自ら恥じるべきことではありませんか。」そして酒を勧めて飲ませた。形名が酔って眠り込むと、妻は自ら夫の剣を身に帯び、婢や妾数人に弓の弦を鳴らさせた。形名は目を覚まして起き上がり、武具を取って進んだ。賊は味方の軍勢がまだ多くいると思い、包囲を解いて去った。散った兵士たちが次第に集まり、ついに蝦夷を撃って大いに打ち破った。(注:『日本紀』による。)
多治比島妻家原音那
¶田道(たじ)の妻は、姓氏は伝わっていない。仁徳帝五十五年、蝦夷が反乱を起こした。帝は田道に命じてこれを討たせ、伊寺水門(いじのみなと)で戦ったが、兵は敗れ田道は戦死した。従者がその手纏(たまき、注:手首に巻く飾り)を取って持ち帰り、妻に渡した。妻は大いに悲しみ嘆き、手纏を抱いて首をくくって死んだ。当時の人々はこれを哀れんだ。(注:『日本紀』による。)
大伴御行妻紀音那
¶家原音那(いえはらのおとな)と紀音那(きのおとな)。家原音那は左大臣多治比島(たじひのしま)の妻である。紀音那は贈右大臣大伴御行(おおとものみゆき)の妻である。ともに婦徳を備えていた。和銅五年、詔があった。「家原音那、紀音那は、いずれも夫の生前には国のための道を互いに勧め合い、夫の死後は同じ墓を守る意志を固く保っている。朕はその貞節を思い、深く感じ入っている。それぞれに邑(むら、注:封戸)五十戸を賜る。」(注:『続日本紀』による。)
四比信紗
¶四比信紗(しひのしんさ)は、大倭国有智郡(うちぐん)の人民、果安(はたやす)の妻である。果安が亡くなった後、長年にわたり操を守った。あわせて妾の産んだ子も含め八人の子を分け隔てなく育てた。舅姑(しゅうと・しゅうとめ)に仕えて婦人としての礼を尽くし、孝行で聞こえた。郷里の人々に称えられた。和銅七年、その孝義を表彰し、生涯にわたり課役を免除された。(注:『続日本紀』による。)
高橋波自采女
¶高橋波自采女(たかはしのはじのうねめ)は、対馬国上県郡(かみあがたぐん)の人である。夫の死後、志を変えないと誓った。その父もほどなく亡くなった。墓の側に小屋を建て、毎日精進した食事をとった。孝行と義理の深さは、道行く人をも悲しませ感動させた。神護景雲二年、その門閭を表彰し、生涯にわたり租税を免除された。(注:『続日本紀』による。)
額田部蘇提賣
¶額田部蘇提売(ぬかたべのそてめ)は、石見国美濃郡(みのぐん)の人である。長く寡婦として暮らし、節義の高さで知られた。また財を人々に分け与えることもよくした。神護景雲二年、生涯にわたり田租を免除された。(注:『続日本紀』による。)
他田千世賣
¶他田千世売(おさだのちよめ)は、信濃国伊那郡の人である。若くして才知と美貌に恵まれ、家は代々裕福であった。二十五歳で夫を亡くし、節を守って寡婦のまま五十余年を過ごした。神護景雲二年、その節操を褒め、位階二級を賜った。(注:『続日本紀』による。)
真玉主賣
¶真玉主売(またまぬしめ)(注:「真」は『類聚国史』では「直」に作る)は、壱岐国壱岐郡の人である。十五歳で夫を亡くし、自ら誓って嫁ぎ直さなかった。夫の墓に供物を捧げること三十余年、生前と変わらぬままであった。宝亀四年、位階二級を賜り、あわせて生涯にわたり田租を免除された。(注:『続日本紀』による。)
藤原豐成妻百能
¶藤原豊成(ふじわらのとよなり)の妻、藤原百能(ふじわらのももよし)は、兵部卿麻呂(まろ)の娘である。豊成が亡くなった後、長年にわたり操を守り、宮中の内職の任に仕え、貞節で堅実なことで称えられた。天平勝宝年間、従五位下を授けられた。宝亀九年、従二位に進んだ。延暦元年に薨去した。享年六十三。(注:『続日本紀』による。)
難波部安良賣
¶難波部安良売(なにわべのあらめ)は、筑前の人で、その祖先は詳らかでない。父母の墓に参り、朝夕嘆き悲しんだ。十六歳で、宗像大領(むなかたのだいりょう)宗形秋足(むなかたのあきたり)に嫁いだ。秋足が死ぬと、遠近から求婚する者があったが、死を賭して節を守ると誓った。州郡がその事情を上申し、詔により田租が免除された。(注:『日本後紀纂』による。)
伴富成女
¶伴富成(とものとみなり)の娘は、甲斐国山梨郡の人である。十五歳で郷里の人、三枝平麻呂(さいぐさのひらまろ)に嫁いだ。夫の死後も節を変えず、常に精進した食事をとり、位牌を生前と同じように祀った。承和年間、国司がこれを上申した。勅命により生涯にわたり田租を免除され、門閭を表彰された。(注:『続日本後紀』による。)
刑部刀自咩
¶刑部刀自売(おさかべのとじめ)は、武蔵国多磨郡の人である。同族の広主(ひろぬし)に嫁いだ。広主が死ぬと、礼を尽くして喪に服し、生きているのと同じように仕えた。墓の側に小屋を建て、朝夕悲しみ泣き、幾年経ってもその心は変わらなかった。承和年間、国司がこれを上申し、勅命により位階を授けられ、生涯にわたり田租を免除された。(注:『続日本後紀』による。)
秦部正月滿妻
¶秦部正月満(はたべのむつきみつ)の妻は、下野の人で、秦部総成(はたべのふさなり)の娘である。生まれつき慎み深く篤実であった。夫の死後、遺された子を育て、再婚しようとしなかった。節操はますます固く、常に功徳を修めて夫の冥福を助けた。国の人々がこれを声高に称えた。斉衡年間、門閭を表彰され、課役を免除され、位階二級を賜った。(注:『文徳実録』による。)
和邇部廣刀自
¶和邇部広刀自(わにべのひろとじ)は、加賀の人である。十四歳で山城の人、秦真勝(はたのまかつ)に嫁いだ。夫が亡くなると、墓の側に小屋を建てて三十余年、悲しみ慕う心は変わらず、話がそのことに及ぶたびに悲しみ泣いた。斉衡年間、褒められて位階二級を賜った。(注:『文徳実録』による。)
早部氏成賣
¶早部氏成売(はやべのうじなりめ)は、摂津国武庫郡(むこぐん)の人である。十六歳で右京の人、文室武庫麻呂(ふんやのむこまろ)に嫁いだ。二十七年を経て、武庫麻呂が死んだ。氏成売は礼を尽くして喪に服し、死者に生前と同じように仕えた。一日に二度と食事をとらず、ついに再婚しなかった。貞観年間、詔により位階二階を授けられ、家の田租を免除され、生涯にわたり課役を免れ、門閭を表彰してその貞操を称えられた。(注:『三代実録』による。)
守部秀刀自
¶守部秀刀自(もりべのひでとじ)は、信濃国池田郡の人である。夫の死後、寡婦として暮らし、志を変えなかった。仏像を造り経を写し、朝夕礼拝を欠かさなかった。生涯にわたり肉食を断ち、機織りにも携わらなかった。悲しみ嘆く様は切実で、泣き声が絶えなかった。貞観年間、詔により位階二階を授けられ、その門閭を表彰された。(注:『三代実録』による。)
安倍則任妻
¶安倍則任(あべののりとう)の妻は、姓氏は詳らかでない。康平年間、源頼義(みなもとのよりよし)が安倍氏を討った際、則任の妻は自軍の敗北を見て則任に告げた。「あなたはきっと逃れられないでしょう。私も一人だけ生き残るつもりはありません。どうか先にあなたと共に死なせてください。」そして子を抱いて淵に身を投げて死んだ。(注:『陸奥話記』『十訓抄』による。○『今昔物語』ではこれを貞任(さだとう)の妻とするが、誤りである。)
鐮田政家妻長田氏
¶鎌田政家(かまたまさいえ)の妻、長田氏(おさだうじ)。鎌田政家の妻は、内海荘司(うつみのしょうじ)長田忠致(おさだただむね)の娘である。平治元年、源義朝(みなもとのよしとも)が戦に敗れ、関東へ落ち延びようとした。道中、尾張国野間(のま)に至り、忠致の家に身を寄せた。忠致は義朝と政家を殺した。妻はこの変事を聞き、政家の死んだ場所に赴き、悲しみ嘆いて、ついに政家を刺した刀の上に伏して死んだ。(注:『平治物語』による。)
源渡妻袈裟
¶源渡(みなもとのわたる)の妻、袈裟(けさ)は、幼名を阿都磨(あづま)といった。父の名は伝わらない。初め母と共に陸奥の衣川(ころもがわ)に住んでいた。家はもともと豪富で、衣川殿(ころもがわどの)と称され、そのため阿都磨は袈裟と呼ばれた。姿かたちが端麗で、上西門院(じょうさいもんいん)の雑仕(ぞうし、注:女官の下働き)を務めた。まだ元服前に、左衛門尉(さえもんのじょう)源渡に嫁ぎ、夫婦仲は睦まじかった。遠藤盛遠(えんどうもりとお)は衣川殿の甥である。ある時、監督の任務で外出した際、道でこの女を見かけて心を奪われた。心は乱れ、後を追って行き、初めてこれが渡の妻であると知った。寝ても覚めても忘れることができず、衣川の家に行き、脅して迫った。衣川殿は怯えながらも策を巡らせて偽って言った。「もし私を許してくれるなら、今夜あの子に会わせましょう。」盛遠は固く約束して立ち去った。衣川殿は袈裟を呼び、小刀を渡して泣きながら言った。「今すぐ私を殺しておくれ。」袈裟は大いに驚いて言った。「正気を失われたのですか。」衣川殿はことの次第をすべて話して言った。「彼の言うことを聞かなければ、私はきっと殺されてしまう。彼の手にかかって死ぬくらいなら、お前の手にかかって死ぬほうがましだ。」袈裟は悲しみ泣いたが、子が親に代わるのは当然の分であると思い、こう言った。「母上、どうかご安心を。よく取り計らいますので、それ以上お悩みになりませんように。」日が暮れると、盛遠がやって来た。袈裟は迎え入れ、喜んでいるふりをした。やがて帰ろうとすると、盛遠は刃をむき出しにして脅して言った。「お前がどうしても従わないなら、お前と渡の両方を殺してやる。」袈裟は偽って言った。「私は本当は断るつもりなどありません。ただあなたの本気度を見ていただけです。私は渡の家では、何かと不本意なことが多く、何度も家を出て戻ろうと思いながら、母の言いつけに逆らえず、今日まで先延ばしにしてきました。あなたのお気持ちが真剣であるなら、すぐに渡を殺してください。」盛遠は大いに喜んだ。袈裟は約束して言った。「今夜、渡に髪を洗わせて酔わせ、寝かせておきます。あなたはこっそり寝所に入り、髪を洗ったばかりの者を確かめて殺してください。」盛遠は承知した。袈裟は家に戻って渡に言った。「先ごろ母の病のために実家に帰っておりましたが、今は病も治りました。共に酒を楽しみましょう。」渡は酔い、袈裟は寝かしつけると、自分で髪を濡らし、男装をして、几帳を隔てて渡の代わりに横になった。夜半、盛遠は首を斬って立ち去った。見てみると、それは袈裟であった。盛遠は大いに悲しみ悔やみ、首を提げて渡の家に行き、事の真相を告げて死を請うた。渡は言った。「事がこうなった以上、お前を殺しても仕方がない。むしろ僧となって、その冥福を弔うがよい。」そして髪を剃らせた。盛遠もまた僧となった。これが文覚(もんがく)である。衣川殿は号泣し気を失わんばかりであったが、袈裟の遺した書状を箱の中から見つけた。その言葉はひどく痛ましいものであった。盛遠は袈裟の遺体を葬り、墓を築いた。(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。)世に鳥羽の恋塚(こいづか)と呼ぶ。
源義高妻源氏
¶源義高(みなもとのよしたか)の妻、源氏は、征夷大将軍頼朝の娘である。義高が人質として鎌倉にあった時、頼朝は娘を彼に嫁がせた。義高の父義仲(よしなか)が謀反を起こして誅されるに及び、頼朝は義高を殺そうとした。源氏はその企てを知り、義高に逃げるよう勧めた。頼朝は兵を遣わし、追って斬らせた。源氏は悲しみのあまり食事をとらなくなった。母の北条氏はこれを憂い、頼朝を厳しく責めた。頼朝はやむを得ず、追討の兵に罪を負わせて斬り、娘の心を慰めようとした。さらに外甥の藤原高保(たかやす)に嫁がせようとしたが、源氏はこれを拒んで従わず、ついに悲嘆のうちに亡くなった。(注:『東鑑』による。)
小宰相
¶小宰相(こざいしょう)は、刑部卿藤原憲方(のりかた)の娘である。姿は艶やかで美しく、初めは上西門院に仕え、後に越前守平通盛(たいらのみちもり)の側室となった。平氏が都を落ちて西へ逃れる際、小宰相もこれに従った。寿永年間、一ノ谷の戦いで平氏は敗れた。平氏の一族は慌てて海に浮かんで逃げ、多くが東国の軍勢に討たれるか捕らえられ、通盛の生死もわからなかった。やがて船中の人が来て言った。「三位殿(通盛)も戦死されました。」小宰相はこれを聞いて激しく泣き、ついに海に身を投げて死んだ。(注:『平家物語』『源平盛衰記』による。)
靜
¶静(しずか)は、都に住む白拍子(しらびょうし)であり、源義経(みなもとのよしつね)の妾として囲われていた。土佐坊昌俊(とさぼうしょうしゅん)が京に来た際、義経は自分を討とうと企てているのではと疑い、呼び出して問い詰めた。やがて疑いは晴れた。その夜、義経は静に言った。「なぜか胸騒ぎがする。昌俊が来るのではないかという気がするのだ。」静は言った。「そういえば街に人だかりができて、人々が慌てて行き交っています。用心なさらないわけにはいきません。」そこでひそかに二人の童を遣わして様子を探らせたが、久しく戻らなかった。さらに一人の下女を遣わすと、しばらくして戻って報告した。「二人の童はすでに門の外で殺されていました。」鞍を置いた馬数十頭が、今にも駆け出そうとしていた。夜も三更(さんこう、注:真夜中)になり、昌俊がやって来た。義経は言った。「気にするほどのことはない。」と刀を取って立とうとした。静は言った。「小勢の敵こそ侮ってはなりません。」そこで鎧兜と弓矢を差し出した。義経はこれを射て退けた。(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。)義経が京を離れ、吉野山に身を隠すと、山の僧兵たちがこれを攻めようとした。義経は静に金銀財宝を与えて別れ、雑色(ぞうしき、注:下働きの者)に護送させた。ところがその雑色たちは財宝を奪って静を捨てて去った。山の僧兵たちは静を捕らえて京へ送った。北条時政(ほうじょうときまさ)はその事情を書状にして報告した。頼朝は静を鎌倉へ召し、義経の行方を尋ねた。静はあくまで知らないと言い張ったが、なお身重であったため留め置かれた。頼朝の妻政子は、静が歌舞に優れていると聞き、召して見たいと思った。静は病と称して応じず、哀れに訴えて言った。「私はもともと卑しい身分の者で、惜しむような命ではありません。しかしすでに豫州殿(よしゅうどの、注:義経を指す)の側室となった身で、今さらどうして大勢の前で恥をさらせましょうか。」政子はしきりに求めてやまなかった。やがて頼朝は政子と共に鶴岡八幡宮に参詣し、静を召してこれを命じた。静は固く辞して言った。「私は今日、別れの悲しみに堪えられません。どうして歌舞をする気になれましょうか。」頼朝は再三強いたので、ついに舞った。工藤祐経(くどうすけつね)が鼓を打ち、畠山重忠(はたけやましげただ)が銅拍子を打った。静はまず和歌を詠んで唱えた。「吉野山(よしのやま)、峰の白雪(みねのしらゆき)、踏み分けて(ふみわけて)、入りにし人の(いりにしひとの)、あとぞ恋しき(あとぞこいしき)。」続いて別れの曲を舞い、また詠んだ。「倭文や倭文(しづやしづ)、静の苧環(しずのおだまき)、繰り返し(くりかえし)、昔を今に(むかしをいまに)、成すよしもがな(なすよしもがな)。」その声も舞も絶妙で、見る者はみな心を打たれた。頼朝は不快に思って言った。「なんということだ、この女は。今日は神前で歌舞を奉じ、関東の万歳を祝うべきなのに、逆に謀反人を慕うとは。別れの曲を歌うとはどういうことか。」政子は言った。「あなたが昔、流人であった頃、密かに終生の約束を交わされました。私の父はその頃の情勢を恐れてこれを妨げようとしましたが、私は暗闇の中、雨を冒してあなたのもとへ走りました。あなたが石橋山で挙兵された時、私は一人伊豆山に残され、あなたの生死も分からぬまま、日夜思い続けました。もし今、静が豫州殿の恩を忘れて慕わないとしたら、それこそ貞女の操ではありません。心の内から動くものが外に表れるのは自然なことです。どうかお許しください。」頼朝はそこで自分の衣を御簾の外に差し出し、褒美とした。工藤祐経、梶原景茂(かじわらかげもち)らは、静の仮住まいに酒宴に出向いた。静の母、磯禅師(いそのぜんじ)も酒の相手をした。景茂は酔いに任せて、それとなく静に言い寄った。静は涙を流して言った。「豫州殿は鎌倉殿の御兄弟であり、私はその側室です。あなたはすでにその家臣です。豫州殿がもしご存命であれば、あなた方が私にお目にかかることなどできましょうか。」景茂は恥じ入った。やがて静は男の子を産んだが、頼朝は安達清経(あだちきよつね)に命じ、由比ヶ浜(ゆいがはま)に捨てさせた。静は泣き叫んでこれに従わなかった。清経は子を奪い取って殺し、静を京へ送り返した。政子はこれを憐れんで多くの品を贈った。(注:『東鑑』による。)
佐介貞俊妻
¶佐介貞俊(さすけさだとし)の妻。佐介貞俊の妻は、何という氏の娘か分からない。貞俊は北条氏に仕え、元弘の乱に際して軍に従い金剛山を攻めた。乱が平定されると、貞俊は捕らえられた。妻を思う気持ちがやまず、身に帯びていた刀を僧に託し、妻のもとへ届けさせた。やがて処刑されると、僧はその衣と刀を持って妻のもとへ行き、これを示した。妻はこれを見て悲しみに堪えられなかった。そこで和歌を詠んで書き記した。「誰見よと(たれみよと)、形見を人の(かたみをひとの)、留めけむ(とどめけん)、堪えてあるべき(たえてあるべき)、命ならぬにと(いのちならぬにと)。」そしてついに刃を取って自害した。(注:『太平記』による。)
和氣廣蟲
¶和気広虫(わけのひろむし)は、備前国藤野郡(ふじのぐん)の人で、清麻呂(きよまろ)の姉である。(注:『続日本紀』『日本後紀』による。)初め従五位下葛井戸主(ふじいのとぬし)に嫁いだ。(注:『日本後紀』『宇佐託宣集』による。)広虫は人となり貞節で従順であり、その操は少しも損なわれることがなかった。(注:『日本後紀』による。)孝謙帝(こうけんてい)に愛され信任されて、正六位下を授けられた。(注:『続日本紀』による。)帝が出家すると、広虫もまた髪を剃って弟子となり、法均(ほうきん)と名乗った。進守大夫尼(しんじゅだいぶに)の位を授けられた。藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が誅殺されると、これに連座して死刑になるはずの者が数百人に及んだ。法均は帝を諫めて死刑を減じ流罪とさせた。乱の後、飢饉と疫病が流行し、民間で生まれた子の多くが育てられず、しばしば捨てられた。法均は人を遣わしてこれを収容し養った。(注:『日本後紀』による。)全部で八十三人の子を得て、すべて養子と称し、そのため葛木首(かつらぎのおびと)の姓を賜った。(注:『宇佐託宣集』による。)神護景雲二年、従四位を賜り、あわせて封戸(ふこ)、位禄(いろく)、位田(いでん)を授けられた。(注:『続日本紀』『日本後紀』による。)弟の清麻呂が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の意に逆らって流罪に遭うと、法均もまた詔により還俗させられ、もとの名広虫に戻り、備後へ流された。(注:『続日本紀』『宇佐託宣集』『日本紀略』による。○按ずるに、『託宣集』では広虫を狭虫としている。)光仁帝(こうにんてい)が即位すると、姓名を元に戻して召し返され、従四位下を授けられ、(注:『続日本紀』による。)典蔵(ないぞう)となって出納を掌った。帝はかつて嘆いて言った。「侍従の者たちの評判はさまざまに乱れ入り交じっているが、法均だけは人の短所を口にしない。」次第に位を進めて正四位下となった。(注:『日本後紀』『宇佐託宣集』による。)新しい都に邸宅を建てた際、稲を賜り、(注:『類聚国史』による。)正四位上を授けられ、典侍(ないしのすけ)となった。延暦十八年に亡くなった。(注:『宇佐託宣集』では十七年とする。)享年七十。天長二年、正三位を追贈された。(注:『日本後紀』による。)法均の姉弟への情愛はこの上なく篤く、姉弟で財産を分けることをしなかった。当時の人々はこれを称えた。臨終に際し、清麻呂に言い残した。「私の死後の供養は何一つ必要ない。ただ二、三人の僧に礼懺(らいさん、注:仏を礼拝し罪を懺悔する法要)を修めさせ、後の子孫が永く手本とするようにしてほしい。」(注:『日本後紀』『宇佐託宣集』による。)
源賴朝妻北條氏
¶源頼朝(みなもとのよりとも)の妻、北条氏。名は政子(まさこ)といい、遠江守時政(とおとうみのかみときまさ)の長女である。早くに母を失い、継母に育てられた。永暦の初め、頼朝は父義朝の事件に連座して伊豆へ流された。伊東祐親(いとうすけちか)の娘と通じて男子をもうけた。祐親は罪に問われることを恐れた。祐親の後妻はもとよりその娘を憎んでおり、しきりに二人の仲を裂こうとし、ついには頼朝を殺そうとするに至った。頼朝は北条へ逃れ、時政を頼った。頼朝は時政に娘が多いと聞き、恋文を送って言い寄ろうとし、ひそかにその容貌の美醜を尋ねた。ある人が言った。「長女は前妻の子で、器量がよい。末娘は後妻の子で、容姿はそれに及ばない。」頼朝は先に祐親の怒りを買ったのが継母の讒言によるものであったことから、後妻の産んだ娘に言い寄って、仲を裂かれる災いを免れようとした。そこで安達盛長(あだちもりなが)を通じて次女に文を送らせた。盛長はこの縁が長続きしないだろうと考え、また時政とも折り合いが悪かったため、その文を破棄し、書き改めて長女に届けさせた。これがすなわち政子である。これより先、次女は夢の中で自分が険しい嶺に登り、袖に日月を宿し、手に実の垂れた橘の枝を持つのを見た。目覚めてこれを不思議に思い、政子に尋ねた。政子は故事によく通じており、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が橘を見て景行帝(けいこうてい)を身ごもった話を思い出し(注:『日本紀』によれば、帝は田道間守(たじまもり)を常世国(とこよのくに)に遣わして橘を求めさせたが、帝は崩御し、翌年になってようやく橘を得て帰った。本書の記述とは多少異なるが、古来このように伝えられることもあるので、ここでは旧来の説に従う)、心の中でこれを奪って自分の吉兆にしようと思った。そこで偽って言った。「これは凶夢です。それに私が聞くところでは、『吉夢は三年、人に告げてはならない。凶夢は七日、人に告げてはならない。さもなくば災いが及ぶ』と申します。今あなたが軽々しくこれを話したのは、慎むべきことではありません。」次女は大いに恐れ、これを祓ってほしいと頼んだ。政子は言った。「夢には移し替える方法があります。それを人に売るというものです。」次女は言った。「目に見えず手に取ることもできないものを、誰が買ってくれるでしょうか。」そして憂い嘆く様子を見せた。政子はしばらくじっと見つめてから言った。「私があなたのために買いましょう。」次女は言った。「妹が自分を惜しまなくても、姉上に不利益になるのではと恐れます。」政子は言った。「買う者に咎はなく、売る者は災いを免れる。これがいわゆる移し替えの方法です。」そして唐鏡(からかがみ)一枚と衣一襲を渡して償いとした。唐鏡は代々家に伝わる家宝であった。時政は政子を最も愛していたので、これを与えたのである。次女は望外の喜びであった。その夜、政子は白い鳩が金の箱をくわえて来る夢を見た。開けてみると頼朝の手紙であった。翌朝、実際にその手紙が届き、ついに二人はひそかに情を通じた。(注:『曾我物語』による。)政子はその時二十一歳であった。時政が京での宿衛の任を終えて帰る道中、目代(もくだい)平兼隆(たいらのかねたか)と同道した。兼隆は清盛の遠縁にあたる者で、時政は長女を兼隆に嫁がせる約束をしていた。ところが政子が頼朝と通じていると聞いて大いに驚いた。しかしやがて思い直した。「源氏の若者は器量が並外れており、頼りにするに値する。それにその曾祖父の姑は源豫州(みなもとのよしいえの父を指す)に嫁ぎ、義家(よしいえ)らの子をもうけている。今日まで栄えているのは、これが吉兆でなかったと誰が言えようか。」しかし約束を破ったとして訴えられることを恐れ、表向きは知らぬふりをして、結局長女を兼隆に嫁がせた。政子はその夜のうちに山中へ逃れ、ひそかに頼朝に知らせた。頼朝はそこへ赴いて共に住んだ。兼隆は捜索したが見つけることができず、時政もまた咎めなかった。(注:『曾我物語』『源平盛衰記』による。)頼朝が挙兵すると、政子を走湯山(そうとうさん)に避難させて匿った。しばらくして頼家(よりいえ)、実朝(さねとも)、および二人の娘が生まれた。
¶政子は嫉妬深い性質で、頼朝もこれを恐れ憚った。頼家が幼い頃、頼朝に従って富士野で狩りをし、鹿を射止めた。頼朝は大いに喜び、梶原景高(かじわらかげたか)を遣わして政子に報告させた。政子は喜ばずに言った。「子はまだ幼いとはいえ、武家の跡取りです。原野で一匹の獣を仕留めたくらいで、どうしてわざわざ使者を立てる必要がありましょうか。」景高は恥じ入って退いた。頼朝が亡くなり頼家が家督を継ぐと、政子は髪を剃って尼となった。やがて時政は外戚として重んじられるようになり、大江広元(おおえのひろもと)、三善康信(みよしのやすのぶ)らと共に軍政を取り仕切ってその決定権を握ったが、時政が独りでこれを専断するようになった。頼家は成長すると素行が荒れ、身分の低い者たちに親しみ、古くからの重臣を遠ざけた。頼朝は常に諸将を礼遇し、呼び捨てにすることがなかった。例えば長清(ながきよ)や義時(よしとき)を、加加美(かがみ)、江馬(えま)と(敬称をつけて)呼んでいたのに対し、頼家は事あるごとに彼らを呼び捨てにした。政子はことあるごとに戒めたが、改まらなかった。家督を継いで五年で病にかかり、意識が朦朧として度を失った。政子は無理に頼家に家督を退かせた。関東二十八か国の地頭・総守護をその子一幡(いちまん)に、関西三十八か国の地頭を弟の実朝に伝えることにした。一幡の外祖父、比企能員(ひきよしかず)は自らの取り分が減らされたことを怨み、実朝と時政を殺そうと図り、ひそかに頼家に申し出た。頼家はこれを承知した。政子は帳の陰でその話を聞き、急いで時政に告げた。時政は能員の一族を滅ぼし、あわせて一幡も殺し、実朝を立て、頼家を修禅寺に幽閉した。頼家は病が癒えると、政子に手紙を送り、親しい近臣に文を届けさせてほしいと願ったが、許されず、しかも文のやり取り自体を禁じられた。(注:『東鑑』による。)建保六年、政子は熊野に参詣し、そのまま京へ赴き、従三位に叙された。(注:『東鑑』『愚管抄』による。)かつて頼朝に従って京へ来て以来、この時再び霊場を巡ろうとしたのである。後鳥羽帝(ごとばてい)が引見しようとしたが、政子は「片田舎の老尼にすぎず、拝謁の作法にも通じておりません」と辞退し、拝謁せずに帰った。(注:『東鑑』による。)数か月後、従二位に進んだ。(注:『東鑑』『愚管抄』による。)実朝が頼家の子、公暁(くぎょう)に殺されると、鎌倉には主だった将がいなくなった。頼朝の甥、阿野冠者時元(あののかじゃときもと)は政子の甥にあたる。この機に乗じて駿河で兵を集め、朝廷の宣旨を得て関東を治めようと図った。政子は義時に命じてこれを討ち滅ぼし、その上で義時と協議し、京へ使者を送って願い出た。冷泉宮(れいぜいのみや)、六条宮(ろくじょうのみや)のいずれかを将軍にと望んだが許されず、結局左大臣藤原直家(なおいえ)の子、頼経(よりつね)を迎えて将軍に立てた。頼経はわずか二歳で、政子が政務を専ら決裁した。(注:『東鑑』による。)菅原為長(すがわらのためなが)に命じて『貞観政要(じょうがんせいよう)』を仮名交じりの国字に訳させ、これを政治の規範とした。(注:『臥雲日鉾録』『機談治要』による。)嘉禄元年、亡くなった。享年六十九。(注:『東鑑』には記載が欠けている。)
¶政子は厳格で果断な性質を持ち、男勝りの気風があった。建暦・承久の頃、内外で兵乱が相次いだが、諸議を斟酌してよく禍乱を鎮めた。頼朝の血筋が絶えても、功臣や宿将たちがあえて異心を抱くことはなかった。天下の人々はこれを尼将軍と称えた。義時、泰時(やすとき)が相次いで政務を執り、兵馬を統括した。北条氏が政権を得たのは、思うに政子がその基を築いたからである。(注:『東鑑』『愚管抄』の大意を取り、『公武栄枯物語』による。)
北條時賴母安達氏
¶北条時頼(ほうじょうときより)の母、安達氏(あだちうじ)は、秋田城介景盛(あきたじょうのすけかげもり)の娘であり、松下禅尼(まつしたぜんに)と称された。(注:『東鑑』『関東評定伝』『北条系図』による。)かつて時頼に食事を用意した際、兄の義景(よしかげ)が手伝いに来ると、尼はちょうど小さな紙を手ずから切り、障子の破れを紙で継ぎ張りしていた。義景は人にやらせるよう勧めたが、尼は取り合わなかった。義景は「継ぎ張りするより、新しく張り替える方が手間が省けるでしょう」と言った。尼は言った。「私がそれを知らないわけがありません。ものに小さな破れがあれば、それを繕うのが道理です。子供たちにこの心を知ってもらいたいだけなのです。」人々は、時頼が倹約を守り通し、政治が穏やかに行われたのも、母の教えがそうさせたのだと語った。(注:『徒然草』による。)
楠正成妻
¶楠正成(くすのきまさしげ)の妻は、何という氏の娘か分からない。正成が足利尊氏(あしかがたかうじ)を兵庫で防いだ時、子の正行(まさつら)はまだ十一歳であったが、軍に従っていた。軍が桜井の駅(さくらいのえき)に至ると、正成は正行に命じて河内へ帰らせた。そして戒めて言った。「聞くところによれば、獅子は子を産むと、三日目にこれを深い谷に突き落とし、跳び上がってこられるかどうかを試すという。今お前は十余歳になり、私の言葉をよく覚えていられるだろう。私の今回の戦は生死のいずれかに決するだろうから、二度とお前に会うことはあるまい。私が戦死した後、天下は必ず尊氏のものとなる。お前は残った兵をまとめ、金剛山に立てこもるがよい。生きるも死ぬもそれと共にし、決して降伏して家の名誉を落としてはならない。それがお前にとって最大の孝行である。」そして帝から賜った菊作りの刀(注:「菊作りの刀」は天正本による)を授け、涙ながらに別れを告げた。正成は湊川(みなとがわ)で戦死し、尊氏はその首を河内へ送った。正行は深く悲しみ、仏壇の前に進み出て、正成から授かった刀を抜いて自害しようとした。母が駆け寄ってこれを抱き止めて言った。「亡き判官殿(ほうがんどの、注:正成を指す)がお前を帰らせたのは、供養をさせるためでも、殉死させるためでもありません。お前に一族郎党をまとめさせ、兵を挙げて賊を除き、再び家を興すことを図らせるためだったのです。お前は父上から直接遺言を承り、それを私に伝えたはずです。その言葉がまだ耳に残っているというのに、まるで忘れてしまったかのようです。私はお前が父上の教えに背いて事を破ることを恐れます。」正行は恥じ入って思いとどまり、以後、遊び興じる時でさえ常に戦う仕草をし、賊を討って恨みを晴らすことばかりを心にかけるようになった。これはすべて母の教え諭す力によるものである。(注:『太平記』による。)
瓜生保母
¶瓜生保(うりゅうたもつ)の母は、その姓名は伝わっていない。延元年間、新田義貞(にったよしさだ)が金崎城(かねがさきじょう)に拠った。保は弟の義鑑(ぎかん)、源琳(げんりん)、重(しげ)、照(てる)とともに杣山城(そまやまじょう)に拠り、脇屋義治(わきやよしはる)を奉じ、里見時成(さとみときなり)を将として、金崎城の救援に向かった。敵将、高師泰(こうのもろやす)が兵を出して敦賀津(つるがのつ)で迎え撃ち、これを破った。保、義鑑の甥七郎は時成と共に戦死した。源琳、重、照は敗残の兵をまとめて杣山城へ帰った。しかし城中では多くの兵が死に、号泣の声が街に満ちた。ただ保の母だけは平然として、憂いの色を少しも見せず、義治に進み出て言った。「私の子らが力を尽くせず、里見殿を戦死させてしまいました。ひそかに殿のお心を大いに傷つけたのではと案じております。幸い二人の子が主君と共に死んだことは、せめてもの罪滅ぼしになりましょう。私の家の子らは、もともと殿のために大事を成そうとしたのです。もし賊が平定されるなら、たとえ子や甥を百人千人失おうとも、決して悔いることはありません。まだ三人の子が残っております。再び兵を挙げることも期待できましょう。これが私が悲しみを喜びに転じている理由です。」そして立ち上がり、義治のために酒を注いだ。将兵は感激し、みな奮い立とうと心に誓った。
山名氏清妻藤原氏
¶山名氏清(やまなうじきよ)の妻、藤原氏は、左近衛中将保脩(やすなが)の娘である。(注:『山名系図』による。)氏清が挙兵した時、藤原氏は和泉国堺にいた。やがて敗残の兵が来て報告した。「御主君は戦死されました。」藤原氏は二人の子はどうしたかと尋ねた。兵は「二郎君は脱走されました」と答えた。藤原氏は嘆いて言った。「二人の子には恥というものがないのか。私は生き恥をさらすには忍びない。」そして自害しようとした。側の者がこれを止め、出家するよう勧めたが、聞き入れなかった。そこで無理に輿に乗せ、土丸城(つちまるじょう)へ運んだ。藤原氏は輿の中で刃を突き立てたが死にきれなかった。側の者は驚いて薬を勧めたが、口にしようとしなかった。(注:『明徳記』による。)二人の子、時清(とききよ)と満氏(みつうじ)がひそかに来て面会を求めた。藤原氏は顔をそむけて言った。「勇気のない者は武士ではなく、孝行しない者は子ではない。武家の子として、二十歳を過ぎて父に従って戦に出ながら、父が死んだのに子は逃げるとは、どの面下げて会いに来られるのか。熙氏(ひろうじ、注:氏清の義理の子)は義理の子でありながら、なお父に殉じることができた。お前たち二人はなぜ死ななかったのか。」そして衣をかぶって二度と口を利かなかった。二人の子は大いに恥じて立ち去った。(注:『山名系図』『明徳記』を参照して取る。)先に氏清は藤原氏に別れの手紙を送っていた。藤原氏はついにその手紙を取り出し、和歌をその後ろに書き記して死んだ。侍女三人も皆、水に身を投げて死んだ。(注:『明徳記』による。)
小野小町
¶小野小町(おののこまち)は、その出自と経歴の詳細は分からない。参議篁(たかむら)の孫であるとも言われる。父は良真(よしざね)といい、出羽守であった。(注:『小野系図』『作者部類』による。○『拾芥抄』では「守」を「郡司」とする。)小町はこの上ない美貌を持ち、和歌に優れていた。(注:世に歌仙と称されるが、詳しいことは分からない。説は「歌人伝」に見える。)紀貫之(きのつらゆき)は『古今和歌集』を撰し、その歌を多く採り、序文でこれを論じて言った。「小町の歌は、衣通姫(そとおりひめ)の流れをくむものである。言葉の意は哀れ深いが、結局のところ力強さに欠ける。たとえるなら美人が思い悩んでいるようなものだ。女性の歌はまさにこうあるべきなのだろう。」(注:『古今和歌集』による。○世に『玉造小町壮衰書(たまつくりこまちそうすいしょ)』というものがあるが、誰の著作か分からない。ある人は僧空海(くうかい)であるといい、ある人は三善清行(みよしのきよつら)であるという。そこには小町が年老いて道端で物乞いをしたと記され、世間ではこれを小野小町のことだとしている。『十訓抄』『著聞集』はいずれもこの話を載せ、玉造小町と小野小町を同一人物としている。鴨長明(かものちょうめい)の『無名抄』もまた、在原業平(ありわらのなりひら)が聞いたという骸骨の歌を引いて同一人物としている。『徒然草』は空海と小町の時代が隔たっていることから、これを空海の著作ではないと疑っている。今考えるに、小野と玉造はそれぞれ別の氏であるから、同一人物説は採らない。)
紫式部
¶紫式部(むらさきしきぶ)は、式部丞藤原為時(ふじわらのためとき)の娘である。(注:『紫式部日記』『尊卑分脈』による。)右衛門権佐藤原宣孝(ふじわらののぶたか)に嫁いだ。(注:『尊卑分脈』による。)式部は生まれつき聡明で、幼い頃に人が書を読むのを聞くと、すぐにそらんじることができた。為時はこれをたいそう可愛がり、いつも撫でながら言った。「お前が男でなかったのが残念だ。」成長すると和歌に優れ、和漢の書物や記録に広く通じ、あわせて朝廷の典故にも精通した。当時、上東門院(じょうとうもんいん)は文才を好み、才ある女性を選んで側近くに置いていた。式部もその一人であった。上東門院が『白氏文集(はくしもんじゅう)』を読みたいと望んだ際、式部は「楽府(がふ)」二巻を教授した。上東門院の父、道長(みちなが)はその才色を愛で、私的に関係を持とうとしたが、式部はこれを拒んで従わなかった。(注:『紫式部日記』による。)『源氏物語』五十四帖を著し、醍醐(だいご)、朱雀(すざく)、村上(むらかみ)三代の事績に仮託し、虚構をもとに広大で精妙な物語を築き上げ、古今に卓越した。後世の人々は注釈を施し、疑問を解き明かし、歌詞の学の宗とした。(注:『河海抄』による。)一条帝はこれを読んで大いに賞賛し、「これは日本紀(にほんぎ)によく通じている者だ」と言った。人々はこれを日本紀の局(つぼね)と呼んだ。(注:『紫式部日記』『河海抄』による。○『河海抄』にいう、斎院選子(さいいんせんし)が中宮から書物を借りようとした際、中宮は珍しい物を見せて誇ろうとし、式部に『源氏物語』を作らせたという。『宇治拾遺物語』および『花鳥余情』が引く鴨長明の『無名抄』には、道長の妻倫子(りんし)の命により作らせたとある。ある説では、式部が自宅で著したものを中宮が見てその才を珍しがり、召して側に仕えさせたともいう。いずれが正しいかは分からない。)人柄は穏やかで従順であり、自分の長所を誇ることがなかった。その慎み深い身の処し方の大要は、著した日記に見える。娘の賢子(けんし)もまた和歌に優れ、『狭衣物語(さごろもものがたり)』を著した。太宰大弐高階成章(たいふのだいにたかしなのなりあきら)に嫁ぎ、後一条帝(ごいちじょうてい)の乳母となった。大弐三位(だいにのさんみ)がこの人である。(注:『勧修寺系図』による。)
清少納言
¶清少納言(せいしょうなごん)は、肥後守清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘である。才学に優れ、紫式部と並び称された。一条帝の時、藤原皇后に仕え、寵愛を受けた。皇后が雪の後、左右の者に「香炉峰(こうろほう)の雪はどうであろうか」と尋ねると、少納言はすぐに立ち上がって御簾を高く巻き上げた。当時の人々はその機転の速さに感心した。(注:『枕草子』による。○『十訓抄』では皇后を帝とする。)皇后は特にその才華を賞賛し、内侍(ないし)として朝廷に推挙しようとしたが、藤原伊周(ふじわらのこれちか)らが流罪となる事件に遭い、実現しなかった。(注:『枕草子』による。)年老いて自宅にこもり、住まいはひどく粗末であった。役所の若者たちがその貧しさを見て憐れみ笑った。少納言は簾の中から呼びかけて言った。「駿馬の骨を買う人がいるとは聞きませんか。」笑っていた者たちは恥じ入って去った。(注:『古事談』による。○浦木按ずるに、『戦国策』『東周列国志』にいう、姫平(きへい、注:燕の昭王)は燕の都に帰り、宗廟を修理し、斉への復讐を志した。そこで自らへりくだり厚い礼をもって賢士を招こうとし、宰相の郭隗(かくかい)に言った。「先王の恥辱は、私が日夜心にかけているところだ。もし賢士を得て、共に斉への事を図れる者があれば、私は身をもってその人に仕えたい。ただ先生に、私のためにその人を選んでいただきたい。」郭隗は言った。「昔の君主に、千金を使って侍従の官に千里の馬を求めさせた者がいました。途中で死んだ馬に出くわし、周りの人々がみな取り囲んで嘆息していました。侍従の官がその理由を尋ねると、答えて『この馬は生きていた時、一日に千里を走った。今死んでしまったので、これを惜しんでいるのだ』と言いました。侍従の官はそこで五百金でその骨を買い、袋に入れて背負って帰りました。君主は大いに怒って言いました。『この死んだ骨が何の役に立つのか。なぜ私の金を無駄に使ったのか。』侍従の官は答えました。『五百金を費やした理由は、千里の馬の骨だからです。この珍しい話を人々は競って伝え、必ずこう言うでしょう。「死んだ馬でさえ高い値がついたのだから、まして生きている馬ならなおさらだ」と。すると馬はまもなくやって来るでしょう。』果たして一年もたたないうちに、千里の馬を三頭も得ることができました。今、王が天下の賢士を招きたいとお思いなら、どうか私を馬の骨としてお使いください。まして私より優れた者であれば、誰が値を求めずにやって来ないことがありましょうか。」)『枕草子』を著し、世に広まった。
赤染右衛門
¶赤染右衛門(あかぞめえもん)は、大隅守時用(ときもち)の娘である。(注:『作者部類』による。○『袋草子』『中古歌仙伝』にはいずれも、右衛門の母は初め平兼盛(たいらのかねもり)の妻であり、身重のまま離縁され、その後娘を産んだとある。この娘を連れて検非違使赤染時用に再嫁し、時用は自分の子として育てたため、赤染右衛門と称されたという。)初め摂政道長の妻、倫子に仕え、右衛門と称した。後に大江匡衡(おおえのまさひら)に嫁いだ。才知に富み和歌に優れ、和泉式部と並び称された。(注:『無名抄』『紫式部日記』『中古歌仙伝』『袋草子』による。)藤原公任(ふじわらのきんとう)が中納言を辞任しようとした際、当代の名だたる学者、紀斉名(きのただな)、大江以言(おおえのもちとき)に依頼して辞表を作らせたが、いずれも公任の意に沿わなかった。そこで改めて匡衡に依頼した。匡衡は家に帰り、うつむいて憂いの色を浮かべていた。右衛門が不思議に思って尋ねると、匡衡は事情を話して言った。「斉名や以言ほどの才をもってしても、まだその意にかなわなかった。私にどうしてその望みに応えられようか。」右衛門はしばらく考えてから言った。「私に考えがあります。あの方はもともと体裁を飾ることを好む性分です。その家柄や経歴を大いに述べ立てながら、そこにわずかに不遇の意をにじませるのがよいでしょう。」匡衡はこれに従った。公任は果たして大いに喜び、その草稿をそのまま用いた。その聡明さはこのようなものであった。(注:『十訓抄』による。中納言(の官)については『公卿補任』『歌仙伝』『本朝文粋』による。○本書では「大納言」に作るが、誤りである。)娘は江侍従(えのじじゅう)といい、これもまた和歌で名高い。(注:『十訓抄』『作者部類』による。)
和泉式部
¶和泉式部(いずみしきぶ)は、越前守大江雅致(おおえのまさむね)の娘である。和歌に優れていた。和泉守橘道貞(たちばなのみちさだ)に嫁ぎ、(注:『中古歌仙伝』による。)娘の小式部(こしきぶ)を産んだ。道貞の死後、上東門院に仕えた。(注:『袋草子』による。)かつて性空(しょうくう)という僧がおり、播磨国書写山(しょしゃざん)に住み、世をあげて崇め信じられていた。式部はこれに和歌を贈って言った。「暗きより(くらきより)、暗き道にぞ(くらきみちにぞ)、入りぬべき(いりぬべき)、遥かに照らせ(はるかにてらせ)、山の端の月(やまのはのつき)。」世の人はこれを精妙な歌だとした。(注:『拾遺集』による。)後に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)に再嫁した。(注:『袋草子』による。)
小式部內侍
¶小式部内侍(こしきぶのないし)もまた上東門院に仕えた。(注:『十訓抄』による。)幼い頃から和歌に優れていた。当時の人々は「内侍に佳句があるのは、多くその母が手を加えているからだ」と噂した。母の式部が保昌に従って丹後(たんご)へ赴いていた頃、宮中で歌合(うたあわせ)が催されることになった。中納言藤原定頼(ふじわらのさだより)は小式部をからかって言った。「丹後への使いはもう戻りましたか。内侍もさぞ気を揉んでおられることでしょう。」小式部はすぐに立ち上がり定頼の袖を引き止め、即座に口ずさんで言った。「大江山(おおえやま)、いく野の道の(いくののみちの)、遠ければ(とおければ)、まだふみも見ず(まだふみもみず)、天の橋立(あまのはしだて)。」これ以来、才女としての評判が大いに高まった。(注:『古今著聞集』『十訓抄』『袋草子』『尊卑分脈』による。)
伊勢大輔
¶伊勢大輔(いせのたいふ)。当時、伊勢大輔という人がいた。伊勢の祭主、大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の娘である。(注:『歌仙伝』『袋草子』による。)和歌に優れ、紫式部、和泉式部、小式部らと並び称された。(注:『十訓抄』による。)これもまた上東門院に仕えた。大輔が初めて宮中に上がった時、関白道長がそばに控えていた。ちょうど桜の花を献上する者があり、道長は筆と硯を取って大輔に渡し、和歌を詠むよう命じた。大輔は筆を執るとたちどころに詠んだ。「いにしへの(いにしえの)、奈良の都の(ならのみやこの)、八重桜(やえざくら)、今日九重に(きょうここのえに)、匂ひぬるかな(においぬるかな)。」道長は大いに感じ入り褒め称えた。その機敏さはこのようなものであった。(注:『袋草子』による。)