卷之一百五 列傳第三十二

皇女六

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次14
  1. 【後嵯峨】六女
  2. 【後深草】五女
  3. 【龜山】十二女
  4. 【後宇多】四女
  5. 【伏見】四女
  6. 【後伏見】七女
  7. 【後二條】四女
  8. 【花園】五女
  9. 【後醍醐】十九女
  10. 【後村上】一女
  11. 北朝皇女
  12. 【光嚴】一女
  13. 【光明】二女
  14. 【後光嚴】二女

【後嵯峨】六女

(後嵯峨天皇 六女)

【後深草】五女

綜子内親王(そうしないしんのう)は、藤原氏出身の中宮を母として生まれた(注:『歴代皇紀』『貴女鈔』による)。安嘉門院(あんかもんいん)の養女となった(注:『百錬鈔』による)。宝治元年、内親王の宣下を受けた(注:『百錬鈔』『女院小伝』『後宮略伝』による)。まもなく一品に叙せられた(注:『皇胤紹運録』による)。弘長三年、准三宮となり(注:『歴代皇紀』『女院小伝』『後宮略伝』による)、月華門院(げっかもんいん)の院号を進められた(注:『貴女鈔』『女院小伝』『後宮略伝』による)。左近衛中将源彦仁(さこんえのちゅうじょう みなもとのひこひと)および藤原基顕(ふじわらのもとあき)と密通した。文永六年三月、急死した(注:『増鏡』による。『一代要記』は二月、『後宮略伝』は六月とする)。享年二十三(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)。

【龜山】十二女

悦子内親王(えつしないしんのう)は、宮人(きゅうじん)藤原氏を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。弘安七年、内親王の宣下を受け、准三宮となった(注:『女院小伝』『後宮略伝』による)。延政門院(えんせいもんいん)の院号を進められた(注:『貴女鈔』『女院小伝』『後宮略伝』による)。八年、出家して尼となり(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)、法名を遍照覚(へんじょうかく)といった(注:『女院小伝』『後宮略伝』による)。元弘二年二月、薨去した。享年七十四(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)。

【後宇多】四女

懌子内親王(えきしないしんのう)は、掌侍(ないしのじょう)藤原氏を母として生まれた(注:『歴代皇紀』『後宮略伝』『女院小伝』による)。正応二年、内親王の宣下を受け、准三宮となり、五条院(ごじょういん)の院号を進められた(注:『女院小伝』『後宮略伝』による。『貴女鈔』はこれを正応三年のこととする)。永仁二年十一月、薨去した(注:『女院小伝』、および『園太暦』貞和二年条による)。享年三十三(注:『女院小伝』による)。かつて亀山天皇との間に密かに一女をもうけたことがあった(注:『一代要記』『増鏡』による)。

【伏見】四女

愷子内親王(がいしないしんのう)は、更衣(こうい)藤原氏を母として生まれた(注:『皇胤系図』『増鏡』による)。弘長二年、伊勢斎宮となった(注:『斎宮記』『類聚大補任』による)。文永元年、伊勢に下向した(注:『類聚大補任』による)。四年、准三宮となった。亀山天皇(かめやまてんのう)が崩じるに及び、斎宮の任を解かれた。十一年、都へ帰り、衣笠(きぬがさ)に住んだ。容姿は美しく艶やかで、その輝きは人の目を射るほどであった。亀山天皇はかつてひそかに彼女と通じた。また左大臣藤原師忠(もろただ)、権大納言藤原実兼(さねかね)とも関係を持った(注:『増鏡』による)。弘安七年二月、薨去した(注:『増鏡』『歴代皇紀』による)。享年三十六(注:『歴代皇紀』による)。

【後伏見】七女

皇女某は、懌子内親王と同母の妹にあたる。内親王となり、柳殿(やなぎどの)と称された(注:『皇胤紹運録』による)。

【後二條】四女

皇女某は、後二条天皇(ごにじょうてんのう)と体子内親王(たいしないしんのう)との間に密かに生まれた子である(注:『増鏡』による。『皇胤紹運録』および諸書を調べても、姉妹の年齢順は記載がなく、考証のしようがない)。母の身分が高いゆえに、格別に寵愛を受けた。容姿は絶世の美しさであった。天皇はかつて「もし外国が美人の絵を求めてきたなら、この子を描いて贈るべきだろう」と語ったという。後にその乳母の夫である権中納言藤原隆行(たかゆき)の家に住み、隆行の子で参議の隆康(たかやす)と通じて懐妊した。弘安四年、出産のために薨去した(注:『増鏡』による。権中納言の官職は『公卿補任』による)。

【花園】五女

(後深草天皇 五女)

【後醍醐】十九女

姈子内親王(れいしないしんのう)は、藤原氏出身の中宮を母として生まれた(注:『一代要記』『歴代皇紀』『女院小伝』による)。後宇多天皇(ごうだてんのう)の皇后となった(注:『歴代皇紀』による)。

【後村上】一女

久子内親王は、宮人藤原愔子(おんし)を母として生まれた(注:『歴代皇紀』による)。婦徳をよく修めた(注:『園太暦』による)。正応四年、内親王の宣下を受けた(注:『女院小伝』『後宮略伝』による)。永仁二年、准三宮となり(注:『歴代皇紀』『後宮略伝』による。『女院小伝』は正応四年のこととする)、永陽門院(えいようもんいん)の院号を進められた(注:『帝王編年記』『女院小伝』『後宮略伝』『貴女鈔』による)。嘉元二年、出家して尼となり(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)、法名を真如智(しんにょち)といい(注:『皇胤紹運録』『女院小伝』による)、後に真性智(しんしょうち)と改めた(注:『女院小伝』による)。正平元年四月、嵯峨野の官尼寺で薨去した。享年七十五(注:『園太暦』による。『歴代皇紀』『女院小伝』は七十四とする。今、ある書に永仁二年時点で二十三歳とある記述に基づき、本書の説に従った)。

北朝皇女

媖子内親王(えいしないしんのう。注:『一代要記』『帝王編年記』『貴女鈔』『皇胤紹運録』による。『後宮略伝』『院号定部類記』は姨子とする)は、准三宮藤原氏を母として生まれた(注:『一代要記』『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による)。永仁二年、内親王の宣下を受け、准三宮となった(注:『女院小伝』による)。乾元元年、陽徳門院(ようとくもんいん)の院号を進められた(注:『歴代皇紀』『貴女鈔』『後宮略伝』による)。徳治元年、出家して尼となり(注:『歴代皇紀』『女院小伝』『後宮略伝』による)、法名を円覚智(えんかくち)といった。正平七年八月、薨去した(注:『女院小伝』による)。享年六十五(注:『歴代皇紀』『女院小伝』に出家の年十九歳とある記述に基づいて記した)。

【光嚴】一女

永子内親王は、宮人藤原房子を母として生まれた(注:『歴代皇紀』による)。正応四年、内親王の宣下を受けた(注:『女院小伝』『後宮略伝』による)。永仁五年、准三宮となった(注:『女院小伝』による。『後宮略伝』は正応四年、『歴代皇紀』は延慶二年のこととする)。延慶二年、章善門院(しょうぜんもんいん)の院号を進められた(注:『貴女鈔』『女院小伝』『後宮略伝』による)。正和五年、出家して尼となり、法名を真性寂(しんしょうじゃく)といった。延元三年三月、薨去した(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)。

【光明】二女

貴子内親王は、姈子内親王と同母の妹である(注:『皇胤紹運録』による)。

【後光嚴】二女

(亀山天皇 十二女)

喜子内親王(きしないしんのう)は、典侍(ないしのすけ)藤原雅子を母として生まれた(注:『歴代皇紀』『女院小伝』『後宮略伝』による。『一代要記』は寿子とするが誤りである)。永仁元年、内親王の宣下を受けた(注:『女院小伝』による)。四年、准三宮となり(注:『歴代皇紀』『女院小伝』『後宮略伝』による)、昭慶門院(しょうけいもんいん)の院号を進められた(注:『貴女鈔』『女院小伝』『後宮略伝』による)。徳治元年、出家して尼となり(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)、法名を清浄源(しょうじょうげん)といった(注:『皇胤紹運録』『女院小伝』による)。正中元年三月、薨去した(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による。『園太暦』貞和二年条は十一月とする)。享年五十二(注:『女院小伝』による。『歴代皇紀』は五十五とするが、本書に出家の年三十四歳とある記述に基づいた)。亀山天皇は舒愛門院(じょあいもんいん、喜子内親王のこと)を寵愛し、大井川のほとりの離宮を邸として与え、手厚く扶持した。世に川端殿女院(かわばたどののにょいん)と称され(注:『増鏡』による)、また土御門女院(つちみかどのにょいん)とも呼ばれた(注:『帝王編年記』による)。

睍子内親王(けんしないしんのう)は、藤原皇后を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。

理子内親王(りしないしんのう。注:『一代要記』は班子とする)は、従二位藤原禖子(ばいし)を母として生まれた(注:『皇胤系図』による)。大宮院(おおみやいん)に養育された(注:『増鏡』による)。

皇女某は、京極院(きょうごくいん)に仕える雑仕(ぞうし)の貫川(ぬきかわ)を母として生まれた(注:『増鏡』『一代要記』による)。天皇の乳母である按察二位局(あぜちのにいのつぼね)の家で養育され(注:『増鏡』による)、関白家基(いえもと)に嫁いだ(注:『増鏡』『皇胤紹運録』による)。家基が薨じるに及び、出家して尼となり、法名を遍照覚(へんじょうかく)といった(注:『皇胤紹運録』による)。元徳元年、薨去した(注:『増鏡』による)。

皇女某は、典侍藤原氏を母として生まれた。摂政師教(もろのり)に嫁いだ(注:『皇胤紹運録』『増鏡』による)。

皇女某は、亀山天皇と懌子内親王との間に密かに生まれた子である。按察二位局のもとで養育された。幼くして聡明であった。人がその母が誰かと尋ねると、「それは申せません」と答えたという(注:『増鏡』による。姉妹の年齢順は考証のしようがないため、ひとまずここに記す)。

残る六人の皇女は、その名も母の氏も伝わっていない(注:『皇胤紹運録』による。本書および諸門跡の系譜を調べると、亀山天皇の皇女が後醍醐天皇と通じて僧恒性(こうしょう)を生んだとあるが、その名は記されていない。今、考証のしようがない)。

(後宇多天皇 四女)

弉子内親王(じょうしないしんのう)は、典侍藤原氏を母として生まれた(注:『増鏡』『歴代皇紀』『皇胤紹運録』『女院小伝』『後宮略伝』による)。天皇はこれを寵愛した(注:『増鏡』による)。乾元元年、内親王の宣下を受け(注:『女院小伝』『後宮略伝』による)、徳治元年、伊勢斎宮となった(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)。三年以後、二条天皇(にじょうてんのう)が崩じたため伊勢へは赴かず、任を解かれた(注:『女院小伝』『後宮略伝』による)。元応元年、皇后と尊ばれ、達智門院(たっちもんいん)の院号を進められた(注:『後宮略伝』『歴代皇紀』『女院小伝』による)。母の喪に服して薙髪し(注:『後宮略伝』による)、法名を真理覚(しんりかく)といった。正平三年十一月、崩じた。享年六十三(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による。年齢は本書の元応元年に三十四歳とある記述により訂正した)。

禖子内親王(ばいしないしんのう)は、掄子女王(りんしじょおう)を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。幼くして永嘉門院(えいかもんいん)に養育された。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は皇太子妃として迎え入れた(注:『増鏡』による。本書には年月の記載を欠く)。元応元年、内親王の宣下を受けた(注:『女院小伝』による)。嘉暦元年、皇太子が薨じたことにより出家して尼となった(注:『女院小伝』『増鏡』による)。入道宮(にゅうどうのみや)と称された。宮中に入った当初、腹が膨れて懐妊したかのようであったが、十七か月を経て治まり、結局子はなかった。側室たちの子を、自分が生んだ子のように大切にした。元弘元年、光厳院(こうごんいん)が皇孫の康仁(やすひと)親王を皇太子に立てようとしたため(注:『増鏡』による)、准三宮となり、祟明門院(すうめいもんいん)の院号を進められた(注:『歴代皇紀』による。准三宮については『女院小伝』による)。後醍醐天皇が都へ還ると、内親王に降格された。

愉子内親王は、藤原氏を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某は、藤原氏を母として生まれた。出家して尼となった(注:『一代要記』による。本書には姉妹の年齢順が詳らかでないため、ひとまずここに記す)。

(伏見天皇 四女)

璹子内親王(しゅくしないしんのう)は、藤原季子(すえこ)を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』『歴代皇紀』による)。永仁元年、内親王の宣下を受けた(注:『後宮略伝』による)。延慶二年、准三宮となり(注:『歴代皇紀』『後宮略伝』による)、朔平門院(さくへいもんいん)の院号を進められた(注:『貴女鈔』『後宮略伝』による)。三年十月、薨去した(注:『歴代皇紀』、および『園太暦』貞和二年条による。『後宮略伝』はその前年のこととし、『一代要記』は正和元年とする)。享年二十四(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による。『後宮略伝』は二十五とする)。

誉子内親王(よしないしんのう)は、藤原英子を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』『歴代皇紀』による)。幼くして永福門院(えいふくもんいん)に養育された(注:『院号定部類記』が引く『実躬記』による)。永仁三年、内親王の宣下を受け、准三宮となった(注:『女院小伝』『後宮略伝』による)。徳治二年、章義門院(しょうぎもんいん)の院号を進められた(注:『女院小伝』『貴女鈔』による)。正和二年、出家した(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)。法名を解脱心(げだつしん)といった(注:『後宮略伝』による)。延元元年十月、薨去した(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)。

延子内親王は、璹子内親王と同母の妹である(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)。応長元年、内親王の宣下を受け、准三宮となった(注:『女院小伝』『後宮略伝』による。『歴代皇紀』は正和四年に准三宮となったとする)。正和四年、延明門院(えんめいもんいん)の院号を進められた(注:『貴女鈔』『女院小伝』『後宮略伝』による)。文保元年、出家して尼となり、法名を信正慧(しんしょうえ)といった(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)。

進子内親王は、初めの名を某といい、藤原氏を母として生まれた(注:諸本の『皇胤紹運録』には後伏見天皇の皇女で、慈真親王(じしんしんのう)の同母妹とある。『一代要記』『帝王編年紀』『園太暦』『作者部類』などの諸書はいずれも伏見天皇の皇女とし、母の氏は記していない。刊本の『紹運録』の一説もこれと同じである。今考えるに、伏見宮に仕えた東御方(ひがしのおんかた)に後伏見天皇が密かに通じて慈真を生ませたという。それゆえ諸書に基づき、伏見天皇の皇女と定めた)。永福門院の内侍藤原氏に養育された(注:「藤原」は『作者部類』による)。播磨国賀茂荘(かものしょう)に住み、後に髪を下ろして尼となった(注:法名は伝わらない)。進子は和歌に秀でていた。花園天皇が『風雅集』を撰する際、その詠んだ歌を収めようとして都に呼び寄せ、光明院(こうみょういん)に取り次がせ、特に内親王の地位を授けて今の名を賜った(注:『園太暦』による)。

(後伏見天皇 七女)

珣子内親王(じゅんしないしんのう)は、准三宮藤原寧子(やすこ)を母として生まれた(注:『一代要記』『女院小伝』による)。後醍醐天皇の中宮となった(注:『歴代皇紀』『女院小伝』『後宮略伝』による)。

璜子内親王(こうしないしんのう)は、宮人藤原氏を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』『歴代皇紀』『女院小伝』『尊卑分脈』による)。延元元年、内親王の宣下を受け、准三宮となった(注:『歴代皇紀』『女院小伝』『後宮略伝』による)。その日のうちに剃髪した(注:『後宮略伝』による。本書には法名の記載を欠く)。章徳門院(しょうとくもんいん)の院号を進められた(注:『貴女鈔』『女院小伝』『後宮略伝』による)。

皇女某は、珣子内親王と同母の妹である(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某は、宮人藤原氏を母として生まれた(注:『園太暦系図』『尊卑分脈』による)。

皇女某は、宮人右京大夫局(うきょうのだいぶのつぼね)を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某も同じく右京大夫局を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某は、母の氏が伝わっていない(注:『皇胤紹運録』による)。

(後二条天皇 四女)

便子内親王(べんしないしんのう。注:「便」の字は本来「女」偏に「便」と書く)は、掌侍平氏を母として生まれた(注:『女院小伝』による)。元応二年、内親王の宣下を受け(注:『女院小伝』『後宮略伝』による)、准三宮となり(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)、寿成門院(じゅじょうもんいん)の院号を進められた(注:『貴女鈔』『女院小伝』『後宮略伝』による)。まもなく出家して尼となり、天皇の冥福を祈った(注:『女院小伝』による)。法名を清浄円(しょうじょうえん)といった(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)。

珉子内親王は、新大納言局(しんだいなごんのつぼね)を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。

栄子内親王は、宮人藤原氏を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。

婸子内親王(ようしないしんのう。注:「婸」の字は本来「女」偏に「昜」と書く)は、宮人平氏を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』『平氏系図』による)。

(花園天皇 五女)

皇女某は、藤原実子を母として生まれた。藤原某に嫁いだ(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某は、典侍藤原氏を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による)。

寿子内親王は、第一皇女と同母の妹である(注:『皇胤紹運録』『女院小伝』による)。光厳院に妃として迎え入れられた(注:『皇胤紹運録』『諡号雑記』による)。

儀子内親王は、寿子内親王と同母の妹である(注:『皇胤紹運録』『園太暦系図』による)。

祝子内親王は、母の氏が伝わっていない(注:『皇胤紹運録』による)。

(後醍醐天皇 十九女)

懽子内親王(かんしないしんのう)は、藤原氏出身の中宮を母として生まれた(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)。元応元年、内親王の宣下を受け(注:『女院小伝』『後宮略伝』による)、一品に叙せられた(注:『女院小伝』による)。元徳二年、伊勢斎宮となった(注:『増鏡』『女院小伝』による)。元弘元年、准三宮となり、まもなく斎宮の任を解かれた(注:『女院小伝』による)。三年、光厳院に強いられてその妃となった(注:『歴代皇紀』による。『女院小伝』も参照した)。

祥子内親王は、藤原皇后を母として生まれた。元弘三年、伊勢斎宮となった(注:『歴代皇紀』による)。後に保安寺に入って尼となった(注:『新葉和歌集』による)。

妣子内親王(ひしないしんのう)は、宮人源親子(ちかこ)を母として生まれた。尼となり、今林(いまばやし)に住んだ(注:『皇胤紹運録』による)。

惟子内親王(注:本書には後にも惟子内親王が記されており、母の氏がそれぞれ異なるので、同一人物ではないことは明らかである。名の表記にはおそらく誤りがあると思われるが、今どちらが正しいか考証できないため、両方をそのまま載せる)は、藤原為子を母として生まれた。一品に叙せられた(注:『皇胤紹運録』による)。

惟子内親王は、祥子内親王と同母の妹である。尼となり今林に住み、鷲尼(わしあま)と称された(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某は、一条局(いちじょうのつぼね)を母として生まれた。尼となり今林に住んだ(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某は、左衛門督局(さえもんのかみのつぼね)を母として生まれた。尼となり今林に住んだ(注:『皇胤紹運録』による)。

瓊子内親王(けいしないしんのう)は、藤原為子を母として生まれた(注:『作者部類』による)。出家して尼となった(注:『新葉和歌集』による)。

皇女某も、同じく藤原為子を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某は、権中納言局を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某は、基時(もととき)の娘を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による。基時の官職・姓は伝わらない)。

皇女某は、民部卿局を母として生まれた。関白基嗣(もとつぐ)に嫁いだが、後に離縁した(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某は、宮人藤原実子を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某は、大納言局を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某は、坊門局(ぼうもんのつぼね)を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某は、中宮珣子を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。

皇女某は、権大納言三位局を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』による)。

残る二人の皇女は、その名も母の氏も伝わっていない(注:古い写本の『帝王系図』には後醍醐天皇の皇女として瑜子内親王が載り、『作者部類』にも欣子内親王が載っている。『松岡過去帳』には、ある皇女が尼となって鎌倉の松岡東慶寺に住み、用堂和尚(ようどうおしょう)と称されたとある。応永三年八月に薨じたというが、いずれもその母の氏は詳らかでない。おそらく諸皇女の中に含まれるのであろうが、今は考証のしようがない)。

(後村上天皇 一女)

皇女某(注:『新葉和歌集』を考えるに、後村上天皇が崩じた際、新宣陽門院(しんせんようもんいん)が嘉喜門院(かきもんいん)と歌を詠み交わしている。また百首和歌のうち春の月を詠んだ歌も哀傷部に載せられており、いずれも言葉に深い悲しみが込められ、この上ない哀痛を示している。さらに後醍醐天皇の宮人もまた新宣陽門院に和歌を奉って後村上天皇を悼んでいる。これらから見れば、彼女が後村上天皇の皇女であることに、もはや疑いの余地はない。よって今、これに従うこととする)は、生母が誰であるか詳らかでない(注:『嘉喜門院集』『新葉和歌集』によれば、後村上天皇が崩じた年の五月五日、旧い蒲団に寄せて詠んだ和歌があり、母子の情のようなものが感じられる。その一品に叙せられ、ついに院号を得たのも、あるいは母の身分の高さゆえかもしれない。しかし明確な証拠はなく、今はこの点を措く)。一品に叙せられ、一品宮(いっぽんのみや)と称された。後亀山天皇(ごかめやまてんのう)が新宣陽門院の院号を進めた(注:『新葉和歌集』による。本書によれば、後村上天皇が住吉の行宮(あんぐう)に居た頃、新宣陽門院はすでに一品宮と称されており、また後村上天皇が崩じた翌年にも、新宣陽門院はなお一品宮と称されていたという。これによれば、一品に叙せられたのは、まさに後村上天皇がまだ崩じる前のことである。『嘉喜門院集』は天授三年に成立しており、その中で一品宮と称されている。弘和元年、宗良親王(むねよししんのう)が『新葉集』を奉った際には、集中で新宣陽門院と称されている。天授三年から弘和元年までは五年を数える。院号を進めたのはおそらくこの間のことであろうから、後亀山天皇の代のこととした)。

(付録 北朝皇女)

(光厳天皇 一女)

光子内親王(注:『皇胤紹運録』による)は、母の氏が伝わっていない。

(光明天皇 二女)

残る二人の皇女は、その名も母の氏も伝わっていない(注:『皇胤紹運録』による)。

(後光厳天皇 二女)

治子内親王は、母の氏が伝わっていない。柳殿内親王(やなぎどのないしんのう)と称された(注:『皇胤紹運録』による)。

見子内親王は、母の氏が伝わっていない。入江内親王(いりえないしんのう)と称された(注:『皇胤紹運録』による。考えるに、『後愚昧記』永徳三年正月の除目の記事に、無品智子内親王への叙位として従五位下を賜り、高階経家(たかしなのつねいえ)が無品昭子内親王への当年の叙位として従五位下を源定親(さだちか)に賜ったとある。これによれば、昭子内親王も治子と姉妹であるらしい。しかし他に明確な証拠がないため、この説は採らない)。

(後円融天皇 二女)

皇女某は、通陽門院(つうようもんいん)を母として生まれた(注:『後愚昧記』による)。

皇女某は、母の氏が伝わっていない。尼となり大聖寺(だいしょうじ)に住んだ(注:『薩戒記』による)。