卷之二百卅三 列傳第一百六十
諸蕃二 新羅下
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶新羅(しらぎ)下。文武(もんむ)天皇元年(697年)の冬、新羅の使者である一吉飡(いっきつさん)の金粥徳(きんしゅくとく)、奈麻(なま)の金任想(きんにんそう)らが来朝し貢物を献じた。四年(700年)の夏、佐伯麻呂(さえきのまろ)らを新羅へ使者として遣わした。この年の冬、薩飡(さっさん)の金所毛(きんしょもう)が入朝したが、これは新羅国王の母の喪に弔問するためであった。ところが金所毛は病のため死去したので、朝廷は絁(あしぎぬ)百五十疋、綿九百三十二斤、布百段を弔いの品として贈った。副使であった級飡(きゅうさん)の金順捷慶(きんじゅんしょうけい)らには、それぞれ品物を賜って帰国させた。(注:『続日本紀』による。)大宝三年(703年)、新羅国王の理洪(りこう)が没し、諡(おくりな)を孝昭(こうしょう)といった。弟の金興光(きんこうこう)が王位に就いた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)新羅は薩飡の金福護(きんふくご)、級飡の金孝元(きんこうげん)らを日本に遣わして入朝させ、先王の喪を告げた。これに対して天皇は詔を下した。「新羅の使者である薩飡金福護の上表文には、『わが君は不幸にも去年の秋より病に臥し、この春に薨去され、永遠に聖朝を辞去なさいました』とある。朕が思うに、蕃国の君主とはいえ、異域に住まうとはいえ、天地の恩恵を受ける点ではまさしく我が愛子と同じである。寿命に終わりがあるのは人の世の定めとはいえ、この知らせを聞いて悲しみはひとしお深い。よろしく使者を遣わして弔慰と賻物を届けるべきである。使者の福護らは遠く荒波を越えてやって来た苦労は哀れむべきものである。担当の役所は手厚く品物を賜るように。」そこで波多広足(はたのひろたり)、額田人足(ぬかたのひとたり)を新羅へ遣わして弔祭させ、新羅王に錦二匹、絁四十匹を贈った。慶雲二年(705年)、貢調使(こうちょうし)の一吉飡金儒吉(きんじゅきつ)が入朝した。三年(706年)、金儒吉は本国へ帰った。帰国に際して新羅王に賜った詔書にはこうあった。「天皇、謹んで新羅王に問う。使者である一吉飡金儒吉、薩飡金今古(きんこんこ)らが到着し、献上の調物もすべて受け取った。王が建国して以来、貢物を欠かすことなく、使者の往来も絶えず、その誠実さはすでに明らかであり、まことに喜ばしいことこの上ない。春先とはいえまだ寒さが残るが、変わりなくお過ごしであろうか。国内はきっと平穏無事であろう。使者は今帰国するので、しかるべき意を伝えさせ、別に品物を添えて贈る。」冬、美弩浄麻呂(みののきよまろ)を新羅へ遣わし、勅書を賜った。「天皇、謹んで新羅王に問う。朕は徳の薄い身でありながら、誤って輝かしい国運を受け継いだ。石を練って天を繕うほどの才もないのに、いたずらに鏡を手にして政をあずかる重責を担っている。日が暮れても食事を忘れるほど慎み深い思いはいよいよ積もり、夜半に眠りを中断するほど仕事に励む思いはますます深まる。願わくは天地の恩恵を広く行き渡らせ、遠く天下の隅々にまで及ぼしたい。まして王は代々国境を治め、人民を安んじてきた。同じ舟に乗り合わせたかのような深い誠意を保ち、長らく朝貢の厚い礼を修めてきた。願わくは磐石の基を開き、麕岫(くんしゅう)に盛んな響きを轟かせ、城壁のように固く守り、雁池(がんち)に良き手本を示さんことを。国内は安楽で、風俗も穏やかであろう。寒さの厳しい折、いかがお過ごしか。今、大使である従五位下の美弩連浄麻呂、副使である従六位下の対馬連堅石(つしまのむらじけんせき)らを遣わし、しかるべき意を伝えさせるので、これ以上多くは述べない。」元明天皇の和銅二年(709年)、金信福(きんしんふく)らを使者として朝貢させた。朝廷は朝堂で宴を賜り、新羅王および信福らにそれぞれ品物を賜った。右大臣の藤原不比等(ふじわらのふひと)は信福らを弁官庁に招き、こう述べた。「昔から新羅国の使者が入朝しても、政務を執る大臣と言葉を交わしたことはなかった。しかし今日はあえて対面し、両国の友好をさらに結びたいと思う。」使者たちは皆座を避けて拝礼し、こう答えた。「信福らは卑しい身の者でありながら、幸いにも使命を受けて聖朝に参ることができました。この上さらにお引き合わせいただき、手厚いお諭しを賜り、恐れ多くも喜びに堪えません。」夏、信福らは本国へ帰った。七年(714年)、重阿飡(じゅうあさん)の金元静(きんげんせい)らを使者として入貢させた。元正天皇の養老三年(719年)、貢調使である級飡の金長言(きんちょうげん)らが入朝した。七年(723年)、韓奈麻(かんなま)の金貞宿(きんていしゅく)、昔楊節(せきようせつ)が入貢した。(注:『続日本紀』による。)
¶聖武天皇の神亀三年(726年)夏、薩飡の金造近(きんぞうきん)、金奏勲(きんそうくん)らが朝貢した。秋、金奏勲らは本国へ帰った。このとき新羅王に賜った璽書にはこうあった。「貢調使である薩飡金奏勲らの奏上によれば、『伊飡(いさん)の金順貞(きんじゅんてい)が去年の六月晦日に死去した』という。順貞は汝の国の重臣であり、その領内を鎮撫して、忠実に本朝に仕えてきた者である。哀しいことよ、賢臣は国の基であり、朕にとっても股肱の臣であった。それが今や亡くなり、我が善き臣を失ってしまった。よって弔いの品として黄絁百匹、綿百屯を贈る。その功績を忘れず、もってその霊魂を慰めたい。」天平四年(732年)、韓奈麻の金長孫(きんちょうそん)らを使者として入貢させ、別に鸚鵡(おうむ)、鴝鵒(くいな)、蜀犬(しょっけん)、猟犬、驢馬、騾馬を献上し、あわせて朝貢の周期を定めるよう願い出た。天皇は三年に一度の朝貢を許す詔を下した。六年(734年)、貢調使である級伐飡(きゅうばつさん)の金相貞(きんそうてい)らが太宰府(だざいふ)に到着した。翌年、都に入った。中納言正三位の多治比県守(たじひのあがたもり)に命じて、新羅の使者を兵部省に召し、入朝の理由を尋ねさせた。使者は「国号を改めて王城国(おうじょうこく)とした」と答えた。朝廷は新羅が勝手に国号を改めたことを理由に、彼らを追い返した。八年(736年)、阿倍継麻呂(あべのつぐまろ)を新羅へ遣わした。翌年、継麻呂は帰朝して「新羅王は通常の礼を失し、詔命を奉じなかった」と奏上した。そこで天皇は六位以上の官人にそれぞれ意見を述べさせた。そして大伴三中(おおとものみなか)らを新羅へ遣わした。(注:『続日本紀』による。)この年、新羅王の興光(こうこう)が没し、諡を聖徳(せいとく)といった。子の金承慶(きんしょうけい)が王位に就いた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)十年(738年)、太宰府から「級飡の金想純(きんそうじゅん)ら百五十七人が入貢してきた」との報告があった。彼らは都に入れず、太宰府から追い返された。(注:『続日本紀』による。)十四年(742年)、承慶が没し、諡を孝成(こうせい)といった。弟の金軒英(きんけんえい)が王位に就いた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。原本には憲英とあるが、今は『続日本紀』に従う。)この年、太宰府から「沙飡の金欽英(きんきんえい)ら百八十七人が入貢してきた」との報告があったが、新京の宮室がまだ完成していなかったため、太宰府から送り返された。(注:『続日本紀』による。)十五年(743年)春、筑前国司から「新羅使の薩飡金序貞(きんじょてい)らが入貢してきた」との報告があった。従五位下の多治比土作(たじひのはにし)を遣わして新羅の調物を検分させたところ、土作は「新羅は貢調を『土毛(どもう)』と改め呼び、その文書には品物の数だけを記している。旧来のしきたりに照らすと、大いに通常の礼を失している」と報告した。そこで太政官は「水夫以上の者を都に召して、非礼で無礼な有様を責め、送り返すように」と裁定した。孝謙天皇の天平勝宝四年(752年)、新羅の王子である韓阿飡(かんあさん)金泰廉(きんたいれん)、および貢調使の金暄(きんけん)、王子を送る使者である金弼言(きんひつげん)ら七百余人が入朝した。泰廉は次のように奏上した。「新羅国王が申し上げます。日本の天皇の朝廷を仰ぎ、新羅は代々朝貢し、舟の往来が絶えたことはありません。今、国王自ら朝貢に参りたいと思いましたが、一日でも国に主がいなければ国政が乱れることを顧み、謹んで王子である韓阿飡泰廉を代わりに入朝させました。」泰廉はさらに、「天下のすべての土地は王の臣ならざるはありません。泰廉は入朝し、聖代に巡り会うことができました。私が個人的に用意した、わが国のささやかな品物を献上したく存じます」と奏上し、天皇はこれを許した。朝堂で泰廉らをもてなし、詔を下した。「昔、我が息長足姫皇后(おきながたらしひめのおおきさき)は新羅を鎮め慰めて西方の藩屏とした。しかし先王の承慶や大夫思恭(しきょう)らは、その言辞が怠慢で、通常の礼を欠いていた。そのため使者を遣わして罪を問おうとした。ところが今の王である軒英は前の過ちを改め悔い、自ら朝廷に参りたいと望んだ。しかし国事を顧みて、子である泰廉らを遣わし、代わって入朝させ、あわせて御調(みつぎ)を貢いだ。朕は王の勤めと真心を深く嘉する。今後、王自ら入朝する場合はその旨を言葉で奏上すればよい。もし臣下を遣わして入朝させる場合は、必ず別に上表文を携えさせるように。」泰廉らが帰国するにあたり、難波館(なにわのむろつみ)に滞在している間、勅使を遣わして絁や布、酒肴を賜った。五年(753年)、従五位下の小野田守(おののたもり)を新羅へ使者として遣わした。(注:『続日本紀』による。『三国史記』によれば、この年日本の使者が到着したが、その態度が甚だ傲慢であったため、新羅王は会わなかったという。)
¶廃帝(淳仁天皇)の天平宝字二年(758年)、新羅の男女四十人、尼僧三十四人が帰化してきた。彼らを武蔵国(むさしのくに)に住まわせ、初めて新羅郡(しらぎぐん)を置いた。三年(759年)、太宰府に勅を下した。「近年、新羅からの帰化者が船を連ねて絶えることがない。思うに彼らは苛酷な賦役に堪えかね、遠く先祖の墓のある故郷を離れてきたのであろう。その心情を思いやれば、どうして望郷の念がないことがあろうか。よくよく重ねて事情を尋ね、故郷へ帰りたいと望む者には、食糧を与えて帰らせるように。」また北陸道・山陰道・山陽道・南海道の四道の諸国に詔を下し、船五百艘を建造させ、農閑期を選んで造らせ、三年を期限とした。これは新羅を征討するためであった。四年(760年)、新羅人百三十一人が帰化し、武蔵国に移された。秋、級飡の金貞巻(きんていかん)が朝貢した。陸奥出羽按察使(あぜち)の藤原朝猟(ふじわらのあされ)に命じて使者に事情を問わせたところ、貞巻は「久しく職責としての貢物を修めず、年月を重ねてしまいました。そこで謹んで貞巻らを遣わして御調を貢進いたします」と述べた。さらに、わが国はまだ聖朝の言葉や風俗に習熟していないと述べ、学語生(がくごせい)二人を献上した。朝猟は問うた。「玉や帛を捧げて朝聘の礼を行うのは、忠信を表すためである。先に王子泰廉が入朝した折、『今後は万事すべて古い制度に従います』と奏上した。ところがその後、小野田守が朝命を奉じて使いに出た際、そちらの応対には欠けるところがあった。そのため田守は朝命を告げずに帰ってきた。そちらの王がすでに忠信の礼を捨てたのであれば、玉帛による聘礼などどうして見られようか。」貞巻は答えた。「田守が来朝した折、貞巻は地方の官に出ており、また身分の低い者は国事に関与できません。」朝猟は言った。「王子の言葉でさえ信用できないのに、使者が身分の低い者では、共に語るに足りない。本国へ帰るがよい。ただし、忠信の礼、旧来通りの調物、確かな証拠となる言葉、そして応対のできる人物、この四つを備えて再び参るように。」五年(761年)、美濃・武蔵両国の少年各二十人に新羅語を習わせた。これは西方の新羅征討に備えるためであった。藤原朝猟を東海道節度使(せつどし)とし、管内十二か国の船と兵を検定させたところ、船百五十一隻、兵一万五千七百人、水夫七千五百二十人を得た。従三位の百済王敬福(くだらのこにきし・きょうふく)を南海道節度使とし、管内十二か国を検定させたところ、船百二十一隻、兵一万一千五百人、水夫四千九百三十人であった。正四位下の吉備真備(きびのまきび)を西海道節度使とし、管内八か国を検定させたところ、船百二十一隻、兵一万二千五百人、水夫四千九百三十人であった。いずれも三年間の田租を免除して、兵法の訓練にあたらせた。七年(763年)、級飡の金体信(きんたいしん)ら二百余人が朝貢した。左少弁の大原今城(おおはらのいまき)に命じて、「先の使者金貞巻は朝廷との約束を受け、朝聘の礼を改めるはずであった。そちらは今回どのように参られたか」と問わせた。体信は「使者である私は国王の命を受けて、通常の調物を貢進するのみで、それ以外のことは存じません」と答えた。乾政官(太政官)は「体信らを都へ召し、先例に従って饗応し品物を賜るように」と裁定した。そして体信に「そちらへ帰って王に伝えよ。今後は王子が来朝するのでなければ、政務を執る臣を入朝させるように」と告げた。八年(764年)、大奈麻の金才伯(きんさいはく)らが到着した。太宰府から次のような報告があった。「唐の使者である韓朝彩(かんちょうさい)が来て、『唐がかつて日本の僧である戒融(かいゆう)を送り届けたが、無事に到着したかどうかは分かっていない』と述べ、本国(新羅)に命じてその消息を尋ねさせた。朝彩はすでに出発し、今は新羅西部の港にいる。本国の謝恩使である金容(きんよう)は太宰府からの返書を得て朝彩に届けようとしているが、まだ本国を出発していない。」乾政官は「太宰府に命じて文書で返答させよ」と裁定した。太宰府は才伯に、「近頃新羅からの帰化民が『本国は兵を発して日本に備えている』と言っているが、その実情はどうか」と尋ねた。才伯は答えた。「そうしたことがないわけではありません。ただ、無知な民がその理由を知らずにそう言っているだけです。近年唐国が乱れており、わが国はその余党の賊が侵攻してくることを懸念しております。そのため甲冑を着けた兵を徴発し、沿海を守らせ、思いがけない海賊の襲来に備えているのです。」(注:『続日本紀』による。)称徳天皇の天平神護元年(765年)、軒英が没し、諡を景徳(けいとく)といった。子の乾運(けんうん)が王位に就いた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)
¶光仁天皇の宝亀元年(770年)、級飡の金初正(きんしょせい)ら百八十七人が対馬島(つしまのしま)に到着した。右中弁の大伴伯麻呂(おおとものおじまろ)を太宰府へ遣わし、初正を召してその使いの目的を尋ねさせた。初正は「本国の王子である金穏居(きんおんきょ)が唐から帰国する際、遣唐大使の藤原清河(ふじわらのきよかわ)や留学生の晁衡(ちょうこう)らが書状を託しました。そこで本国王は初正らを遣わしてその書状を届けさせ、あわせて土毛(どもう)を貢進させました」と答えた。伯麻呂は「新羅が調物を貢いできたのは古くからのことである。今なぜ土毛と改め呼ぶのか」と問うた。初正は「今回の使いは貢調ではないので、土毛と称しております」と答えた。朝廷の議論では、この使いが通常のしきたりに反しているとして、都への入京を許さなかった。太宰府に命じて初正らをねぎらい、新羅王に絁・綿・糸などの品物を賜って帰らせた。五年(774年)、礼部(れいぶ)清の沙飡(さたん)である金三玄(きんさんげん)ら二百三十五人が太宰府に到着した。河内守の紀広純(きのひろずみ)が新羅の入朝使を検問する役についた。三玄は「本国王の命を受け、旧来の好誼を修め、聘問を篤くすることを願い、あわせて国信物(こくしんぶつ)、および遣唐大使藤原清河の書状をお届けします」と述べた。広純はこれを問い詰めて言った。「『旧好を修め、聘問を篤くする』とは、対等な隣国同士の言葉であって、職責を果たす者の礼ではない。しかも貢調を改めて国信と称するのは、昔からのしきたりを変えるものであるが、その理由は何か。」三玄は答えた。「本国の上宰(じょうさい)である金順貞の時代には、船の往来が相次ぎ、常に職責としての貢物を修めておりました。今その孫の邕(よう)が即位し、政を執る者として先祖の名声を追い求め、奉仕することに心を寄せております。それゆえ旧好を修めると言い、たびたび互いに聘問しているのです。また三玄はもともと貢調使ではなく、たまたま使いのついでに、いささか土毛を進上したまでで、それゆえ御調とは称しておりません。」検問使は「新羅が臣と称して調物を貢いできたのは、古くからのことです。それを今、みだりに新しい考えを持ち出し、旧来のしきたりを変えております。調を信物と称し、朝聘を旧好を修めるものと称するのは、道理にもとり無礼であり、かえって古くからの典礼に背くものです。食糧を与えて、すぐさま帰らせるべきです」と奏上し、天皇はこれに従った。太宰府に勅を下した。「近年、新羅の流浪の民が船で相次いで渡来している。その事情を調べると、実際は帰化したいわけではない。中には風に流され、船が壊れて帰る術を失い、そのままわが民として留まった者もいる。その本国の主は朕をどう思うであろうか。おおよそ漂流民で船や食糧を持たない者には、担当の役所が物資を与えて送り返し、寛大な仁徳を示すように。」十年(779年)、下道長人(しもつみちのながひと)を新羅へ使者として遣わした。これは遣唐判官の海上三狩(うなかみのみかり)らを迎えるためであった。冬、太宰府から「新羅の使者である金蘭孫(きんらんそん)らが到着した」との報告があった。勅には「諸蕃が入朝するには通常のしきたりがあるとはいえ、太宰府はさらに繰り返し検問すべきである。上表文がある場合は、渤海(ぼっかい)の蕃国の例に準じて写しを作り、奏上せよ」とあった。続いて太宰府に勅して、「唐の使者である高鶴林(こうかくりん)ら五人、および新羅の貢調使を、共に入京させるように」と命じた。翌年の春正月、天皇は大極殿に出御して朝賀を受けた。唐の使者および新羅の使者である薩飡金蘭孫らは拝賀して方物(ほうもつ)を献上し、次のように奏上した。「新羅国王が申し上げます。新羅は建国以来、聖朝にお仕えし、代々皇化を受け継ぎ、職責を欠かしたことはありません。しかし近年、国内に奸賊が起こり、道が塞がれて交通が絶え、久しく貢調を欠いておりました。そこで謹んで薩飡金蘭孫、級飡金厳(きんげん)らを遣わして御調を貢進し、あわせて元正の賀を申し上げます。また先例に従い学語生を進上し、あわせて遣唐判官の海上三狩らを送り届けます。」天皇は詔して薩飡金蘭孫に正五位上、副使の級飡金厳に正五位下、大判官の韓奈麻薩仲業(さつちゅうぎょう)、少判官の奈麻金貞楽(きんていらく)、通事の金蘇忠(きんそちゅう)の三人に従五位下を授け、朝堂で宴を設け、それぞれに品物を賜った。新羅王に賜った璽書にはこうあった。「天皇、謹んで新羅国王に問う。朕は徳の薄い身でありながら、事業を継ぎ基を受け、民を治め養う立場にあり、内外を隔てることはない。王は遠い先祖より、代々海の彼方の藩屏を守ってきた。上表して調物を貢いできたのは、古くからのことである。ところが近頃は蕃国としての礼を欠き、何年も朝貢しなかった。軽い使者を寄越すことはあっても、上表文はなかった。そのため、泰廉が帰国した際にはすでに約束を明らかにし、貞巻が来た時にも重ねて諭し告げた。その後も度々使者が来たが、いまだかつてこれに従わなかった。今回、蘭孫らはなお口頭で奏上するのみである。道理からすれば先例に従って国境から追い返すべきである。ただし、三狩を送り届けたことは、決して軽いことではない。それゆえ賓客の礼を修めて、来朝の意に応えることとする。王はこれをよく理解されよ。今後の使者は必ず上表文を携え、礼をもって進退するように。今、筑紫の太宰府や対馬などの防人に勅して、上表文を携えない者は入境させないこととする。よく理解されたい。春の景色は麗しく穏やかであり、王もお元気であろうと思う。今、帰る使者に託して返礼の品を添える。書面ではこれ以上多くは述べない。」(注:『続日本紀』による。)この年、乾運はその臣下である金良相(きんりょうしょう)に殺され、諡を恵恭(けいきょう)といった。良相は自ら王位に就いた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)
¶桓武天皇の延暦四年(785年)、良相が没し、諡を宣徳(せんとく)といった。国人は金敬信(きんけいしん)を王に立てた。十四年(795年)に没し、諡を元聖(げんせい)といった。孫の俊邕(しゅんよう)が王位に就いた。二年後に没し、諡を昭聖(しょうせい)といった。子の重熙(じゅうき)が王位に就いた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)十八年(799年)、正六位上の大伴蜂麻呂(おおとものはちまろ)を遣新羅使に任命したが、まもなく取りやめとなった。(注:『日本紀略』による。)平城天皇の大同四年(809年)、金彦昇(きんげんしょう)が重熙を殺し、諡を哀荘(あいそう)といった。彦昇は自ら王位に就いた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)嵯峨天皇の弘仁四年(813年)、新羅人百十人が船五艘に乗って肥前国の小近島(おちかのしま)に到着した。島の住民は九人を射殺し、一清(いっせい)ら百一人を捕虜とした。五年(814年)、詔があった。「新羅の王子が来朝する場合は、渤海の蕃国の例に準じるように。もし対等な隣国の好誼を称する者であれば、丁重にもてなす必要はなく、そのまま帰らせよ。もし船や食糧がない者については、所在の官司が相談してこれを与えるように。」冬、商人三十一人が長門国(ながとのくに)に漂着し、辛波古知(しんはこち)ら二十六人が博多津(はかたのつ)に到着した。七年(816年)、清石珍(せいせきちん)ら百八十人が帰化した。八年(817年)春、金男昌(きんだんしょう)ら三十三人が、夏には遠山和(えんざんか)ら百三十四人が、それぞれ帰化した。九年(818年)、張春(ちょうしゅん)ら十四人が来て驢馬を献上した。十一年(820年)、これより先、新羅からの帰化民七百人を遠江国(とおとうみのくに)・駿河国(するがのくに)の二国に移していた。この年の春、この二国の新羅人が反乱を起こし、民家を焼き討ちして略奪し、伊豆国の倉の穀物を盗み、船に乗って逃げ去った。相模・武蔵の兵がこれを追捕し、ことごとく捕らえた。(注:『日本紀略』による。)淳和天皇の天長三年(826年)、彦昇が没し、諡を憲徳(けんとく)といった。子の景徽(けいき)が王位に就いた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)
¶仁明天皇の承和元年(834年)、新羅人が太宰府に到着した際、沿海の住民がこれを射て傷つけた。太政官は「府の役人を譴責し、負傷者には医薬を与え、食糧を給して帰らせよ」と裁定した。(注:『続日本後紀』による。)三年(836年)、景徽が没し、諡を興徳(こうとく)といった。敬信の曾孫である悌隆(ていりゅう)が王位に就いた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)この年、藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)を唐へ使者として遣わした。太政官は旧例に準じて新羅に文書を送り、こう伝えた。「今、使者を遣わして大唐との聘問を修めることとした。海が穏やかな時であれば無事に渡海できると分かっていても、風波が急変することもあり、なお不測の事態を懸念している。もし使いの船がそちらの領内に漂着した場合は、これを助けて送り届け、滞ることのないようにしていただきたい。」そこで武蔵権大掾(むさしのごんのだいじょう)の紀三津(きのみつ)にこの文書を持たせて遣わした。冬、紀三津が新羅から帰ってきた。三津は臆病で使命の趣旨を取り違え、新羅に着くと「好誼を通じ聘問を修めたい」と述べてしまった。新羅側は太政官の文書の内容とかけ離れていることを疑い、繰り返し問い詰めた。三津は弁が立たない上に口が吃(ども)り、いよいよ困惑して申し開きができなかった。新羅は太政官に次のような文書を送ってきた。「紀三津は朝聘を詐り称し、あわせて贈答の品も携えていた。そこで正式な文書を検分したところ、偽りであって事実ではなかった。三津の申し立てによれば『王命を奉じて、もっぱら好誼を通じるために来た』というが、函を開いて文書を見ると、ただ『大唐との聘問を修めるにあたり、もし使いの船がそちらの領内に漂着した場合は、これを助けて送り届け、滞ることのないようにしていただきたい』とあるのみである。担当の役人が改めて専任の使者を出して問い詰めたが、口頭の申し立てと文書の内容の真偽が見分けられなかった。そもそもこれは隣国との交誼のための使者ではなく、必ずしも心からの贈り物でもない。事実が明らかでない以上、どうして偽りを受け入れられようか。しかも太政官の印影は明らかであり、小野篁(おののたかむら)の船の帆はすでに遠く飛び去っている以上、重ねて三津を遣わして唐国に聘問させたはずはない。おそらく島嶼に住む者が、あちこちで利を窺い、ひそかに官の印を学んでまねし、公文書を偽って、斥候の困難に備えるとともに、自ら金銭を得る便宜としたのであろう。しかしながら両国が交流するにあたっては、決して欺きがあってはならず、応対にふさわしくない使者であれば信を置くに足りない。担当の役所は再三、法律の条文をもって処罰することを求めたが、姦悪な輩とはいえ、担当の者は大局を保つことに努め、過ちを見逃してその功を求め、小人の慌てふためいた罪を許し、大国の寛大な道理を示すべきであり、それは双方にとって何の差し支えもない。まして貞観年間に高表仁(こうひょうじん)がそちらに至って以来、我が国はひとえに頼りにされてきた。唇と歯のように互いに依存し合ってきたのは、その由来が久しい。この件は太政官に文書を送り、あわせて菁州(せいしゅう)にも文書を送って、事情を考慮して海を渡る道中の食糧を与え、本国へ送り返すよう取り計らっていただきたい。」との内容であった。裁定を受けてその通りに太政官へ文書を送り、詳しく取り計らってほしいと求めてきた。そこで天皇は「三津を厳しく責めよ」との詔を下した。(注:『続日本後紀』による。)五年(838年)、悌隆はその臣下である金明(きんめい)に殺され、諡を僖康(きこう)といった。翌年、金陽(きんよう)が金明を誅殺し、金祐徴(きんゆうちょう)を王に立てた。その年のうちに没し、諡を神武(じんぶ)といった。子の慶膺(けいよう)が王位に就いた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)翌年、その臣である張宝高(ちょうほうこう、注:『東国通鑑』には張保皋(ちょうほこう)とある)が使者を遣わして方物を献上した。八年(841年)、太宰府に勅して、「新羅の張宝高が昨年、馬の鞭などを献上してきた。宝高は外蕃の一臣下でありながら、私的に方物を貢いできた。旧来のしきたりに照らせば、物の性質に適っていない。礼をもってこれを防ぎ、早々に返却すべきである。ただし随行の者が携えてきた品物で交易を望む者があれば、それは許可せよ。さらに道中の食糧を与えて送り返すように」と伝えた。九年(842年)、新羅の李少貞(りしょうてい)ら四十人が筑紫の大津(おおつ)に到着した。太宰府は人を遣わして取り調べさせた。李少貞らは、「張宝高が死んだ後、その副将である李昌珍(りしょうちん)らが叛乱を企てましたが、武珍州(ぶちんしゅう)の将である閻文(えんぶん)が兵を発してこれを討ち平らげました。ただ、誅殺を逃れた残賊が突然貴国に押しかけて辺境を騒がすことを恐れます。もし船がこちらに到着した際、公文書を携えていない者があれば、所在の役所に厳しく命じて取り調べ捕らえていただきたい」と述べた。さらに、「交易のための使者である李忠(りちゅう)・楊円(ようえん)は張宝高の子弟が遣わした者ですので、速やかに送り返していただきたい」とも述べた。彼らは閻文が筑紫の太宰府に宛てた文書を携えて来ていた。朝廷の議論では、「少貞が携えてきた文書を見ると、太宰府に宛てた正式な文書がない。これによって、少貞が偽りをもって行き来し、国家を欺いている者であることが分かる。今もし李忠らを少貞と同行させれば、これは迷った獣を飢えた虎の前に投げ与えるようなものである。まず少貞らを責めて退け、その後で李忠を送り返すべきである」とされ、天皇はこれに従った。張宝高が治めていた島の民である呂糸(りょし)らが帰化してきて、筑前国司の文室朝臣宮田麻呂(ふんやのあそんみやたまろ)が李忠の携えてきた雑物を奪ったと告げた。そこで太宰府に詔して取り調べさせ、奪った雑物を記録してことごとく返還させ、食糧と資財を与えて帰らせた。この年、太宰府は次のように奏上した。「新羅が朝貢してきたのは、古くからのことです。しかし聖武天皇の御代以来、今の御代に至るまで、旧例に従わず、常に悪心を抱いて貢物を貢がず、商売にかこつけて国の情勢を窺っております。今、民は困窮して食糧も乏しい状況であり、もし不測の事態があれば、どうしてこれを防げましょうか。伏してお願い申し上げます、新羅人の渡来を一切禁じ、入境させないでいただきたい。」これに対して勅があった。「天皇の恩徳は遠くまで及び、外蕃の者が帰化してくるのに、これを専ら禁じて入境させないのは、不仁に似た仕打ちである。こうした渡来者には、食糧を与えて帰らせるがよい。商人の輩が船で渡来した場合は、携えてきた品物を民間で交易することを許し、事が終わればすぐに送り返すように。」十二年(845年)、新羅はわが国の漂流民五十余人を送り届け、太宰府に到着した。(注:『続日本後紀』による。)
¶文徳天皇の斉衡三年(856年)、漂流民三十人が太宰府に到着し、食糧を与えて帰らせた。(注:『文徳実録』による。)天安元年(857年)、慶膺が没し、諡を文聖(ぶんせい)といった。金誼靖(きんぎせい)が王位に就いた。清和天皇の貞観三年(861年)、誼靖が没し、諡を憲安(けんあん)といった。金膺廉(きんようれん)が王位に就いた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)五年(863年)、僧の無著(むじゃく)・普嵩(ふすう)・清願(せいがん)ら三人、漂流民五十七人、および細羅国(さいらこく)の人五十四人が、丹後(たんご)・因幡(いなば)・博多などの地に到着した。細羅の人々とは言葉が通じなかったが、その頭領である頭屎烏舍(とうしうしゃ)がわずかに文字を知っていたので、書いて「新羅の東方にある別の島、細羅国の者である」と答えた。天皇は担当の役所に道中の食糧を与えて帰らせるよう命じた。八年(866年)、太宰府は駅馬を馳せて奏上した。「肥前国基肆郡(きいぐん)の擬大領(ぎだいりょう)である山春永(やまのはるなが)が、同郡の人である川辺豊稲(かわべのとよいね)に、『新羅人の珍宝長(ちんほうちょう)とともに新羅国に入り、兵器や弩(いしゆみ)などの器械を作り、対馬島を攻め取ろうと企てている。共謀者は四十余人に及ぶ』と語りました。」十一年(869年)、太宰府から「新羅の賊が船二艘に乗って博多津に到着し、豊前国の田租として納められた絹や綿を盗み取った。ただちに兵を発してこれを追ったが、ついに賊を捕らえることはできなかった」との報告があった。十二年(870年)、対馬島の人である卜部乙屎麻呂(うらべのおとしまろ)が鵜(う)を捕らえるために新羅の領内に入ってしまった。新羅は彼を捕らえて牢に入れた。乙屎麻呂は大きな船が造られているのを目にし、こっそり守衛の兵に尋ねたところ、「対馬島を攻めるつもりだ」との答えを得た。乙屎麻呂はひそかに監禁を脱して逃げ帰り、その事情を告げた。そこで勅が下された。「新羅の凶悪な賊は、商売にかこつけて、侵略や暴虐を働こうとしている。サソリの尾のような害を取り除かなければ、その毒を振るうことになるだろう。沿海の諸郡および因幡・伯耆などの国に、厳重に守備を固めさせるように。」続いて太宰府に命じて、「新羅人の潤清(じゅんせい)・宣堅(せんけん)ら三十人、および管内に居住する新羅人に、食糧と馬を与えて入京させよ」とした。太宰府の役人は次のように奏上した。「小さな新羅ではありますが、凶悪で邪悪な性質を持っております。先に対馬島の卜部乙屎がその国に捕らえられ、牢を脱して逃げ帰り、彼らが兵士を訓練している様子を告げました。彼らはその計略が漏れたことを疑い、そこで七人を差し向け、漂流者と偽って、ひそかに我が方の情勢を探らせております。おおよそ仁徳を垂れて帰す(放還)のは通常の典礼ではありますが、もし狡猾で奸悪な者が往来するようであれば、はっきりと処罰を加えるべきです。加えて、潤清らは長年こちらに寄留しており、国家の事情をよく知っております。今もし彼らを帰国させれば、敵に弱みを見せることになります。また管内に居住する新羅人の口、およびその後帰化と称してやって来た者は、皆内心に反逆の企てを抱いております。もし外からの危難があれば、必ず内応するでしょう。天長元年の格(きゃく)に準じて、新旧を問わず、皆睦奥(むつ)の空き地に移し、彼らの狙う奸心を断ち切っていただきたく存じます。」天皇はこれに従った。この年、潤清ら二十人を分けて諸国に移した。筑後権史生(ごんのししょう)の佐伯直継(さえきのなおつぐ)が新羅国からの文書を手に入れてこれを差し出し、太宰大弐(だざいのだいに)の藤原元利万侶(ふじわらのもとりまろ)が新羅国王と文書を通じていたと告げた。そこで直継を検非違使(けびいし)に引き渡し、太宰府に勅して元利万侶および浪人の清原崇継(きよはらのたかつぐ)・中臣年麻呂(なかとみのとしまろ)らを捕らえさせた。都に至って、大内記(だいないき)の安倍興行(あべのおきゆき)がこの密告を取り調べる使者となった。十五年(873年)、新羅の船一艘が対馬島に到着したが、即座に追い返した。十六年(874年)、金四(きんし)・金五(きんご)ら十二人が対馬に到着したが、速やかに帰らせた。(注:『三代実録』による。)十七年(875年)、膺廉が没し、諡を景文(けいぶん)といった。子の金晸(きんてい)が王位に就いた。光孝天皇の仁和元年(885年)に没し、諡を憲康(けんこう)といった。弟の金晃(きんこう)が王位に就いた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)太宰府から、「新羅国使の判官である徐善行(じょぜんこう)、録事の高興善(こうこうぜん)ら四十八人が船一艘に乗って肥後国天草郡(あまくさぐん)に到着した」との報告があった。その来訪の理由を尋ねると、「先年、漂流していたところ、たまたま海岸に漂着し、手厚く官の食糧を賜って本国へ帰ることができました。今、その仁恩に感謝申し上げたく、国からの文書と贈答品を携えて参りました」と答えた。そこで太宰府の役人に検分させたところ、次のように奏上した。「徐善行らは感謝を伝えることにかこつけておりますが、文書と品物を兼ね備えて携えております。しかしあるのは執事省(しつじしょう)からの文書のみで、国王からの書状はありません。その文書は箱に納めず、紙で包んだだけのもので、表書きには『新羅国執事、日本国に牒し上る』とあり、その上に印が五字押されています。先例に照らして調べたところ、事実に反しております。よって文書と品物の内容を記録して奏上いたします。」勅には、「新羅は害意を胸に秘め、辺境を狙っている。その奸悪を懲らしめ、重い法に従わせるべきである。しかし朝廷は仁を好み、彼らを処罰することに忍びないので、その首領を釈放して罪を全うさせる。太宰府は速やかに彼らを送り返すように」とあった。(注:『三代実録』による。)四年(888年)、晃が没し、諡を定康(ていこう)といった。妹の曼(まん)が王位に就いた。この頃、弓裔(きゅうえい)・甄萱(けんけん)らが反乱を起こし、国内は騒然としていた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)甄萱は自ら新羅西南都統指揮兵馬制置持節都督(せいなんとうとうしきへいばせいちじせつととく)と称した。(注:『東国通鑑』による。)
¶宇多天皇の寛平六年(894年)、新羅の賊船四十五艘が対馬島に来襲した。対馬守の文室善友(ふんやのよしとも)がこれを撃破し、賊三百余人を射殺し、船十一艘、および甲冑・太刀・弓矢・矛・盾などの品を奪い取った。醍醐天皇の延喜二十二年(922年)、甄萱の使者である輝嵒(きがん)が対馬に到着し(注:『扶桑略記』による)、太宰府に文書を奉って次のように述べた。「思いますに、わが国が貴国を仰ぎ見ることは、礼においては父に仕えるように篤く、情においては幼子のようなものです。ひたすら車を助け鞭を執るがごとく仕えることを望んでおり、どうして深い航路や浅い桟道を渡ることを厭いましょうか。しかし人質であった者が逃げ去って以来、隣国からは偽りの言葉が伝えられ、千年の盟約はこれによって崩れ、百年にわたる人々の命がここに至っております。『春秋』にも『仁に親しみ隣国と善くするのは、国の宝である』と言うではありませんか。『論語』にも『昔の悪事を根に持たない』とあります。それゆえ深い恩情をもって過去のわだかまりを含み、徳による感化によって慕い寄る心を招くべきです。今、専任の使者を遣わし、ささやかな贈り物を捧げたいと願います。」そこで太宰府に勅して文書を送らせ、こう伝えた。「都統である甄公は内にあっては国の乱を治め、外にあっては盟主としての立場を守っている。その功績と賢明さを聞けば、誰が親しみ称賛せずにいられようか。しかし、その土地の産物を貢ぐのは藩主が朝廷に対して行う礼である。陪臣たる身で、どうして専ら大工に代わって刀を採ったり、料理人にあやかって肉を割いたりするようなことをするのか。まことに龍にすがるほどの切なる思いがあるとはいえ、なお『相鼠(そうそ)』の詩の戒めを忘れているのではないかと懸念される。たとえ太宰府があえて朝廷にこの旨を伝えたとしても、朝廷の法をつかさどる役所としては、その通りに認めるわけにはいかない。よって上表文と方物は、そのまま送り返すこととする。よろしく典章に照らし合わせ、疎遠な扱いにしてはならない。過ちを改めなければ、その先どうなるであろうか。ただし輝嵒は遠く波濤に疲れて渡ってきたので、時節も移ろっていることでもあり、量って官の食糧を与え、いささか帰路の助けとする。以上、文書をもって伝える。」(注:『本朝文粋』による。)曼が没し、諡を真聖(しんせい)といった。金嶢(きんぎょう)が王位に就いた。この頃、弓裔は自ら泰封(たいほう)と号し、甄萱は後百済(こうひゃくさい)を称した。嶢が没し、諡を孝恭(こうきょう)といった。子がなかったため、国人は朴景暉(ぼくけいき)を王に立てた。景暉が没し、諡を神徳(しんとく)といった。子の朴昇英(ぼくしょうえい)が王位に就いた。泰封の諸将は王建(おうけん)を主に立てて王とし、国号を高麗(こうらい)と改めた。弓裔は殺された。昇英が没し、諡を景明(けいめい)といった。朴魏膺(ぼくぎよう)が王位に就いた。甄萱は兵を率いて魏膺を攻め、これを殺した。諡を景哀(けいあい)といった。金傅(きんふ)が王位に就いた。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)延長七年(929年)春、新羅の船が耽羅島(たんらとう)に至り、海藻などの品を交易した後、対馬島に漂着した。対馬島司の坂上経国(さかのうえのつねくに)は手厚く物資を給付した。検非違使の秦滋景(はたのしげかげ)、通事の長岑望通(ながみねのもちみち)がこれを全州(ぜんしゅう)まで送り届けた。このとき甄萱は数十州の地を有し、自ら大王(だいおう)と称していた。甄萱は滋景に、「私(萱)にはかねてからの願いがあり、三韓が職責として貢物を納めた先例に倣って、日本にお仕えしたいと思っている。先年すでに方物を献上し、忠誠を尽くしたが、陪臣の身での貢調であったため、送り返されてしまった。今はすでに寡人(かじん)と称する身であるので、重ねて真心を陳べ、以前の貢納を修めたいと思う。今そなたたちがここに来られたのは、私にとって幸いなことだ」と述べた。その言葉と表情はたいへん喜びに満ちており、望通を留め置き、滋景だけを先に帰らせた。甄萱はその臣である張彦澄(ちょうげんちょう)に経国へ書状を贈らせ、漂流民を送り届けたことへの謝意を伝えた。夏、再び張彦澄を遣わして来させ、あわせて太宰府にも書状を贈った。彦澄が太宰府へ向かおうとしたところ、経国はこれを引き留めて行かせなかった。彦澄は懇願して、「本国が貴国の徳を慕う思いは切実であり、それゆえ重ねて彦澄を遣わして誠意を伝えに参りました。それなのに貴府がこれを引き留めて行かせないのでは、使者である私はどのようにして復命すればよいのでしょうか」と述べた。経国はこれを聞き入れず、人を遣わして書状を太宰府に送った。太宰府はこれを太政官に申し上げた。太政官は、「太宰府および対馬島司に命じて返書を送り、これを断るように」と裁定し、その返書のあらましはこうであった。「人臣たる者の礼として、国境を越えた交誼などあろうはずがない。先に溺れかけた危難を助けたのは、たまたま手を差し伸べる恩恵を施したまでのことであり、隣国との好誼を求めたものではなく、ただ人命を重んじたからにすぎない。貢調の礼に至っては、藩王が修めるべきものであって、臣下が私的に行えることではない。たとえ幾度言葉を交わそうとも、その趣旨をどうして受け入れられようか。ここに典章の法を守り、贈られた品はそのまま送り返すこととし、決して受け取ることはできない。」彦澄らには食糧を与えて帰らせた。(注:『扶桑略記』による。)金傅が王位に就いてから八年、ついに高麗王の王建に降伏し、新羅は滅亡した。(注:『三国史記』『東国通鑑』による。)この年は、朱雀天皇の承平五年(935年)に当たる。