卷之二百卅四 列傳第一百六十一
諸蕃三 高勾麗、高麗
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
高勾麗
¶高勾麗(こうこうり)は、高麗(こうらい)とも称される(注:『康富記』『隋書』による)。古の朝鮮の地である。朝鮮のはじまりには、まだ君主というものはなかった。神人が天より降って生まれ、国人はこれを推し立てて君主とし、檀君(だんくん)と呼び、国号を朝鮮とした。周の武王は箕子(きし)を朝鮮に封じ、その血統は四十一代続いたが、箕準(きじゅん)の代になって、燕(えん)の人・衛満(えいまん)に追われ、韓の地へ逃れた。衛満は朝鮮の地をことごとく手中に収めた。その孫の衛右渠(えいうきょ)の代に至って、漢の武帝がこれを滅ぼし、その地を郡とした。衛氏が滅びると、高氏が扶餘(ふよ)に興り、次第に朝鮮の地を領有するようになった。高氏の先祖は扶餘王・金蛙(きんあ)から出ている。金蛙がある女を得て室内に閉じ込めておいたところ、日の光に照らされて卵を生んだ。その卵から男子が殻を破って生まれ出て、朱蒙(しゅもう)と名づけられた。その土地の言葉で朱蒙とは弓の名手を意味する。朱蒙は卒本扶餘(そつほんふよ)の沸流水(ふつるすい)のほとりに都を置き、国号を高勾麗とし、姓を高氏と称した。国内には内部・東部・西部・南部・北部の五部が置かれた。官職には大対盧(だいたいろ)・大使・小使・大相・乙相・位頭・大兄・主簿があった(注:『三国史記』『東国通鑑』『隋書』を参照し取りまとめた)。この年は崇神天皇六十一年にあたる。朱蒙はやがて沸流・荇人(こうじん)の二国を攻め取り、東沃沮(とうよくそ)を滅ぼし、靺鞨(まっかつ)を退けた。即位十九年で世を去り、東明聖王(とうめいせいおう)と号された。三人の子があり、長子を沸流、次子を温祚(おんそ)といった。温祚は百済の始祖である。朱蒙はかつて北扶餘にいたころ、類利(るいり)という子をもうけており、これを後継に立てた。類利が没すると瑠璃明王(るりめいおう)と号された。その子・無恤(ぶじゅつ)が即位した。このころ梁貊(りょうはく)・蓋馬(がいば)・勾茶(こうた)・楽浪(らくろう)などの地を攻め取り、高勾麗の領土は次第に広がった。無恤が没すると大武神王(だいぶしんおう)と号された。弟の解邑朱(かいゆうしゅ)が立ち、没すると閔中王(びんちゅうおう)と号された。その子・解憂(かいゆう)が立ったが暴虐であったため、国人がこれを殺し、類利の孫にあたる宮(きゅう)を立てた。宮は九十余年にわたって在位し、国を弟の遂成(すいせい)に伝え、太祖大王(たいそだいおう)と称した。遂成も即位後は無道であったため、臣下の明臨答夫(めいりんとうふ)がこれを殺し、次大王(じだいおう)と号された。宮の弟・伯固(はくこ)が立ち、没すると新大王(しんだいおう)と号された。その子・男武(だんぶ)が立ち、没すると故国川王(ここくせんおう)と号された。弟の廷優(ていゆう)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。この年は仲哀天皇六年にあたる。仲哀天皇九年、神功皇后が西征を行った。高麗と百済はともに降伏を願い出て、これにより内官家(うちのみやけ)が定められた(注:『日本書紀』による)。廷優が没すると山上王(さんじょうおう)と号された。その子・憂位居(ゆういきょ)が立ち、平壌に城を築いて都を移した。没すると東川王(とうせんおう)と号された。その子・然弗(ぜんふつ)が立ち、没すると中川王(ちゅうせんおう)と号された。その子・薬盧(やくろ)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。
¶応神天皇七年、朝貢した。大臣・武内宿禰(たけうちのすくね)がその人夫を使役して池を造らせたので、韓人池(からひとのいけ)と名づけられた(注:『日本書紀』による)。薬盧が没すると西川王(せいせんおう)と号された。その子・相夫(そうふ)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。応神天皇三十七年秋、使者を遣わして朝貢したが、その上表文に無礼な言葉があった。皇太子はこれに怒り、上表文を裂き破って使者を叱責し送り返した(注:『日本書紀』による)。相夫はおごり高ぶって猜疑心が強く、国相の倉助利(そうじょり)に廃されて自ら首をくくって死に、烽上王(ほうじょうおう)と号された。薬盧の孫・乙弗(いつふつ)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。応神天皇三十七年、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)が呉に使いした際、高麗を経由して道を取った。高麗は久礼波(くれは)・久礼志(くれし)の二人を遣わしてこれを呉まで送らせた。仁徳天皇十二年、使者を遣わして鉄の盾と鉄の的を献上した。朝廷は使者を宴でもてなし、群臣の中から弓の名手を選んでこれを射させた。盾人宿禰(たてひとのすくね)が鉄の的を射抜くと、高麗の使者はその精妙で強力なことに感嘆した(注:『日本書紀』による)。乙弗が没すると美川王(びせんおう)と号された。その子・釗(しょう)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。仁徳天皇五十八年、使者を遣わして朝貢した(注:『日本書紀』による)。仁徳天皇五十九年、百済が平壌城を攻め、釗は流れ矢に当たって没し、故国原王(ここくげんおう)と号された。その子・丘夫(きゅうふ)が立ち、没すると小獣林王(しょうじゅうりんおう)と号された。母を同じくする弟の伊連(いれん)が立ち、没すると故国壌王(ここくじょうおう)と号された。その子・談徳(だんとく)が立ち、没すると広開土王(こうかいどおう)と号された。その子・臣璉(しんれん)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。雄略天皇八年、高麗は新羅と誼を通じ、兵百人を遣わして新羅の守備を助け、百済に備えさせた。ところが新羅は誤ってその援軍を殺してしまい、高麗は怒って新羅を攻めた。新羅は任那(みまな)の日本府に助けを求め、膳斑鳩(かしわでのいかるが)らが救援に赴き、高麗軍を大いに打ち破った。雄略天皇二十年、高麗は百済を攻めた。七日七晩にわたる攻防の末、ついにこれを陥落させた。百済の王および王妃・王子を生け捕りにし、ことごとく殺した(注:「七日七晩」以下は、本書の注に引く『百済記』による)。高麗の兵はさらにその遺民を殲滅し、百済を完全に併呑しようとしたが、臣璉は「百済は日本の官家(みやけ)である。その王が日本の朝廷に仕えていることは、周辺諸国が皆知るところだ」と言ってこれを許さず、事は止んだ。雄略天皇二十三年、天皇は末多(また)を百済王に立て、兵を付けて護衛させ本国へ送った。また別に筑紫の安致臣(あちのおみ)・馬飼臣(うまかいのおみ)に詔して、水軍を率いて高麗を討たせた。清寧天皇三年、使者を遣わして朝貢した。仁賢天皇四年、臣璉が没し、長寿王(ちょうじゅおう)と号された。その孫・羅雲(らうん)が立った(注:「臣璉卒」以下は『三国史記』『東国通鑑』による)。仁賢天皇六年、日鷹吉士(ひたかのきし)を高麗に遣わした。高麗は工匠の須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)らを献上した。継体天皇十年、安定(あんてい)らを遣わして朝貢させた(注:『日本書紀』による)。継体天皇十三年、羅雲が没し、文咨明王(ぶんしめいおう)と号された。その子・興安(こうあん)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。継体天皇二十五年、高麗が興安を殺した(注:『日本書紀』の一説に引く『百済本紀』による。ただし『三国史記』『東国通鑑』を調べると殺害されたとは記されていない)。弟の宝延(ほうえん)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。
¶欽明天皇元年、使者を遣わして朝貢した(注:『日本書紀』による)。欽明天皇六年、宝延が没し、安原王(あんげんおう)と号され、その子・平成(へいせい)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。もともと高麗王には三人の夫人がいた。正夫人には子がなく、中夫人はその舅の一族が麤群(そぐん)であり、小夫人は細群(さいぐん)の娘であって、この二人にはそれぞれ子があった。宝延の病が重くなると、細群・麤群はそれぞれ自らの夫人の子を王位に立てようと争い、宮門で大いに戦った。細群方は敗れ、死者は二千余人に及んだ。欽明天皇十二年、百済が高麗を攻め、平壌などの六郡を奪い取った。高麗はこれを機に新羅と結んだ。欽明天皇十四年、百済の王子・余昌(よしょう)が高麗を攻め、東聖山(とうせいざん)の上で高麗王を撃って敗走させた(注:『日本書紀』による)。欽明天皇二十年、平成が没し、陽原王(ようげんおう)と号された。その子・陽香(ようこう)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』には陽成とあるが、ここでは『日本書紀』の一説に従う)。欽明天皇二十三年、大将軍・大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が高麗を討ってこれを破った。高麗王・陽香は塀を乗り越えて比津留都(ひづるつ)へ逃げた。狭手彦は兵を放って王宮に入らせ、七織帳(ななおりのとばり)・鉄屋(くろがねのや)などの品々と諸々の財物を得て帰った。欽明天皇二十六年、高麗の頭霧唎耶陛(ずむりやへ)らが帰化した。欽明天皇三十一年、越(こし)の人・江渟裙代(えぬのもしろ)が都に参上して奏上した。「高麗の使者の船が漂流して我が国に着きましたが、郡司の道君(みちのきみ)がこれを隠して報告しませんでした。それゆえ私が申し上げます。」天皇は詔して「高麗の使者は道に迷って越の海に至った。風波に苦しんだとはいえ、なお命は無事であった。役人は山城国相良郡(さがらぐん)に使館を築き、手厚くもてなすように」と命じた。膳傾子(かしわでのかたぶこ)を越に遣わし、高麗の使者をもてなさせた。当初使者が到着した際、道君は自ら国主と称してその貢物を奪っていた。傾子が到着すると、道君は出迎えて拝伏し、高麗の使者は事の次第を詳しく語った。傾子は奪われた物をすべて取り返して返した。欽明天皇三十二年、天皇は体調を崩し、まもなく崩御した。そのため高麗の上表文と献上物はまだ奏上されないままであった。敏達天皇が即位すると、高麗の使者は上表文と貢物を献上した。天皇はこれを憐れみ、深く哀悼した。その上表文はカラスの羽に書かれていたが、王辰爾(おうじんに)が羽を飯の上で蒸し、絹布に羽を押し当てて写し取り、すべての文字を読み解いた。高麗の大使は副使に向かって「お前が私の言うことを聞かず、勝手に国からの貢ぎ物を分けて、求める者にすぐ与えてしまったのは、お前の過ちだ。国王がこれを聞けば、必ずお前を誅するだろう」と告げた。副使は恐れて、大使を殺して口を封じようとした。大使はその計略を聞き知り、身支度を整えて、ひそかに使館の庭に出て、なすすべもなくさまよっていた。にわかに一人の男が現れ、杖で大使の頭を打って去った。続いてもう一人が進み出て、頭と手を打ち破った。血が顔中に流れたが、大使はなお倒れず、立ったままその血を拭った。さらにもう一人が進み出てその腹を刺し、ついに殺してしまった。翌朝、客人の接待役である東漢坂上子麻呂(やまとのあやのさかのうえのこまろ)がその事情を問いただした。副使は「天皇が大使に妻をお与えになったのに、勅命に背いてこれを受けなかった。無礼のはなはだしいものであった。それゆえ私どもは相謀ってこれを殺したのです」と答えた。天皇は役人に命じて礼をもって遺体を葬らせた。敏達天皇二年、高麗の使者が越の海に至ったが、風にあって溺死する者が多かった。朝廷はたびたび道に迷うことを疑い、船と食糧を与えて送り返させた。吉備海部難波(きびのあまのなにわ)を送使とした。難波は風波を恐れて行くことを望まず、高麗人二人を捕らえて海に投げ込み、帰ってから「海中に鯨が多く、船を通すことができませんでした」と奏上した。天皇はその偽りを見抜き、官の奴婢に落とした。翌年秋、高麗の使者が到着し、「私どもは去年、船頭の大島の碁日(ごひ)とともに送使の船と一緒に出発しました。私どもはすでに本国に帰り着きましたが、送使の船は今年になってもまだ着きません。それで磐日(いわひ)の船に乗って帰ってきました。あらためて私どもを遣わし、送使が来ない理由をお尋ねするものです」と奏上した。天皇は難波を召してこれを詰問したが、難波は答えることができなかった。天皇はその罪を数え上げ、ついに刑に処した(注:『日本書紀』による)。崇峻天皇三年、陽香が没し、平原王(へいげんおう)と号された。その子・元(げん)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。
¶推古天皇九年、新羅が任那を攻めた。大伴嚙(おおとものかみ)を高麗に遣わし、兵を出させて任那を助けさせた。推古天皇三年、皇太子および大臣に詔して丈六(じょうろく)の仏像を造らせた。高麗王・大興(たいこう)はこれを聞き(注:『三国史記』『東国通鑑』によれば、この時の高麗王の名は元、号は嬰陽王(えいようおう)であるが、ここでは『日本書紀』に従い、みだりに改めない)、黄金三百両を貢いだ。推古天皇十八年、僧の曇徴(どんちょう)(注:徴は微とも書かれる)・法定(ほうじょう)を遣わして入朝させた。推古天皇二十六年、使者を遣わして朝貢し、あわせて「隋の主が三十万の大軍を興して攻めてきましたが、これを撃退しました」と奏上した。そして隋の捕虜である貞公(ていこう)・普通(ふつう)の二人、および鼓吹(こすい)・弩(いしゆみ)・投石機など十種の品、また土産物の駱駝を献上した(注:『日本書紀』による)。この年、元が没し、嬰陽王と号された。弟の建武(けんぶ)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。推古天皇三十三年、僧の恵灌(えかん)を遣わして入朝させた。舒明天皇二年、宴子抜(えんしばつ)・若徳(にゃくとく)らを遣わして朝貢させた(注:『日本書紀』による)。皇極天皇元年、使者を遣わして朝貢した。使者は「昨年六月、弟王子が亡くなりました。秋九月、大臣の伊梨柯須弥(いりかすみ)が国王を殺し、あわせて伊梨渠世斯(いりこせし)ら百八十余人を殺しました。そこで弟王の子である臧(ぞう)を王に立て、その一族の都須流金流(つするこんる)を大臣としました」と述べた(注:『日本書紀』による。ただし『三国史記』『東国通鑑』によれば、高麗の蓋蘇文(がいそぶん)がその主君・建武を殺し、王の甥の臧を立てたとある。蓋蘇文は別名を蓋金といい、東部大人であった。策略をもって諸部の大人百余人を殺し、自ら莫離支(ばくりし)となったといい、本書の記述と合致する。しかし両書ともこの事件を今年の十月のこととしている。本書によればこの使者の来朝は今年の二月であるから、「去年」というのは疑わしい。本書二年の記事に「太宰府が『高麗の使者が到着した』と報告し、群臣が語り合って『高麗は己亥の年以来朝貢していなかったのに、今年になって入朝してきた』と言った」とある。この記述によれば、この使者の来朝はおそらく二年のことであろう。これを「是歲(この年)」とするのは誤りと思われるが、ここではひとまず原文のままとし、みだりに改めない。己亥の年は舒明天皇十一年にあたる。しかし本書には高麗の入貢が記されておらず、おそらく脱文であろう)。皇極天皇四年、高麗に学んだ僧たちが「同学の鞍作得志(くらつくりのとくし)は高麗にあって虎を友とし、不思議な術を身につけた。あるときは枯れ山を青山に変え、あるときは黄色い土地を白い水に変えた。虎はまた鍼術と鍼を授け、治療して治らないことはなかった。得志は常にその鍼を柱の中に隠していたが、後に虎は柱を折ってその鍼を取り去ってしまった。高麗は得志が帰国しようとする意図を知り、毒殺してしまった」と語った。孝徳天皇大化元年、使者を遣わして朝貢した。これ以後、毎年のように朝貢が続いた(注:『日本書紀』および本書の一説による)。孝徳天皇白雉五年、天皇が崩御すると、使者を遣わして弔問に来た(注:『日本書紀』による)。
¶斉明天皇元年、使者を遣わして入貢した。斉明天皇二年、大使の達沙(たっさ)、副使の伊利之(いりし)らを遣わして朝貢させた。膳薬積(かしわでのくすりつみ)・坂合部磐鍬(さかいべのいわすき)らを遣わして返礼の使者とした。斉明天皇五年、また入貢した。この時、高麗の使者が羆(ひぐま)の皮一枚を持って市場で売ろうとし、その値を「綿六十斤に相当する」と称した。画師の子麻呂(こまろ)はもともと高麗の出身であったが、この話を聞いて、官の羆皮七十枚を借りて敷物とし、同郷の使者を家に招いて宴を催した。羆皮を売ろうとしていた者は大いに恥じ入って帰っていった。翌年、乙相(おっしょう)・賀取文(かしゅもん)ら百余人を遣わして入貢させた。斉明天皇七年秋、唐の将軍・蘇定方(そていほう)は突厥の契苾加力(けいひつかりき)とともに、水陸二方面から高麗の城下に迫った。冬、高麗は使者を遣わして次のように伝えてきた。「この冬は寒さが厳しく、川の水が凍りつきました。唐軍は雲車や衝棚といった攻城の道具で城に迫りましたが、城兵は奮戦してこれを退けました。さらに唐の陣二か所を奪い取り、今は残る二つの砦のみとなり、すでに夜襲の計略を用いています。唐軍は鋭気も尽き力も屈し、兵士たちは膝を抱えて泣いております。」その頃、斉明天皇が崩御し、皇太子は喪服のまま海外の軍政を執り行った。そこで兵を発して高麗を救援させ、軍は百済の加巴利(かはり)の浜に停泊した。兵士が火を焚いたところ、灰の下が突然穴となって陥没し、鳴鏑(なりかぶら)のような響きが起こった。人々は皆「これは高麗・百済が滅び去る前兆だ」と言い合った。壬戌(みずのえいぬ)の年、唐人と新羅人が高麗を攻めた。高麗は援軍を乞い、日本は軍将を遣わして疏留城(そるじょう)を守らせた。これにより唐人はその南の国境を侵すことができず、新羅もその西の砦を越えることができなかった。癸亥(みずのとい)の年、唐軍が百済を滅ぼし、百済王・豊(ほう)は高麗へ逃れた。甲子(きのえね)の年、高麗の大臣・蓋金(がいきん)が死んだ。死にあたり子らに遺言して「お前たち兄弟は水と魚のように仲睦まじくし、位を争ってはならない。もし私の言葉に従わなければ、必ず隣国の物笑いの種になるだろう」と告げた(注:『三国史記』『東国通鑑』によれば、蓋金の死は丙寅の年のこととされる。『日本書紀』ではこの年のこととしており、ここではひとまずそれに従う)。丙寅(ひのえとら)の年、前部(ぜんぶ)の能婁(のうる)・乙相の奄鄒(えんすう)を遣わして朝貢させた。丁卯(ひのとう)の年、斉明天皇を小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に葬った。高麗の使者は道すがら哀悼の意を表した。この年、蓋金の子で大兄(たいけい)の地位にあった男生(だんせい)が、諸部を巡察に出た。その二人の弟である男建(だんけん)・男産(だんさん)は、人にそそのかされて国内城(こくないじょう)に拠り、兄を拒んで受け入れなかった。男生は唐に亡命し、高麗を滅ぼす策を謀った(注:男建・男産および国内城の名は『三国史記』『東国通鑑』による。両書によれば男生が唐に降ったのは丙寅の年のことであるが、本書ではこの年のこととしており、ここではひとまずそれに従う)。天智天皇元年、使者を遣わして入貢した。この年、唐の将軍・李勣(りせき)は男生を道案内として高麗を攻め、これを滅ぼした(注:男生の名は『三国史記』『東国通鑑』による)。かつて高麗の仲牟王(ちゅうぼうおう)(注:仲牟とは朱蒙のことである)が建国した際、国を治めることは千年に及ぶであろうと言われていた。その母は「よく治めれば千年に達することもあろうが、もし千年に届かなければ、せいぜい七百年であろう」と語っていたという。今、高麗が滅びたのは、まさに七百年の末にあたっていたという。天智天皇四年、高麗の使者・上部(じょうぶ)の大相(たいしょう)・可婁(からう)が朝貢した(注:『東国通鑑』によれば、この時すでに高麗は滅んでおり、新羅が私的に高安勝(こうあんしょう)を高麗王に封じていた。ここに高麗が朝貢したとあるのは、おそらくこのことであろう。新羅が別に人を遣わしてその使者を送らせていたため、新羅の送使については記載しなかったのであろう)。弘文天皇(大友皇子)元年、前部の富加抃(ふかべん)らを遣わして朝貢させた。天武天皇元年、上部の位頭大兄(いとうたいけい)・邯子(かんし)、前部の都大兄(とたいけい)・碩干(せきかん)を遣わして朝貢させた。天武天皇三年、大兄の富干(ふかん)、大兄の多武(たぶ)が朝貢した。天武天皇四年、後部(こうぶ)の主簿(しゅぼ)・阿干(あかん)(注:「簿」は「博」の誤りかと思われる)、前部の都大兄・徳富(とくふ)が朝貢した。天武天皇七年、上部の大相・桓欠(かんけん)(注:本書では富干を富于、阿干を何于、桓欠を桓父と書くが、ここでは『釈日本紀』によって訂正した)、下部(かぶ)の大相・師需婁(ししゅる)が朝貢した。天武天皇八年、南部の大使・卯間(ぼうかん)、西部の大兄・俊徳(しゅんとく)が入貢した。天武天皇十年、下部の助有卦婁毛切(じょゆうけるもうせつ)、大古昻加(たいこごうか)を遣わして朝貢させた。これ以後、朝貢は絶えた(注:『日本書紀』による。『東国通鑑』によれば、唐の弘道元年、新羅は高安勝を蘇判(そはん)の位に落とし、姓を金氏に改めさせ、ここに高麗は絶えたという。これは天武天皇十一年にあたる。また『文献通考』には五部それぞれの別称が詳しく記されており、前部はすなわち南部、後部はすなわち北部であるという。ここに見える「尚(じょう)」「下部」については典拠が見当たらないが、おそらくこれも部内の別称であろう)。
高麗
¶高麗(こうらい)。高麗王・王建(おうけん)は、その血筋の出自が詳らかでない。その父は隆(りゅう)といい、新羅の漢州松嶽郡(かんしゅうしょうがくぐん)の人である。隆はその国が大いに乱れているのを見て、ひそかに三韓(さんかん)を併呑しようという志を抱いていた。隆は建をもうけ、建は幼くして聡明で、並外れた人相を持っていた。年十七のとき、ある僧がこれを見て奇異な人物だと評した。当時、弓裔(きゅうえい)・甄萱(けんけん)がそれぞれ新羅の州郡を割拠して、各自王を称していた。建はそこで弓裔に身を投じた。弓裔は建を鉄円(てつえん)の太守とした。隆もまもなくこれに帰順し、金城(きんじょう)の太守となった。弓裔は国号を泰封(たいほう)と称していたが、その人となりは猜疑心が強く殺戮を好んだ。そのため将士は心服せず、ついに弓裔を追放し、建を推し立てて王とし、国号を高麗と定めた。こうして新羅を滅ぼし、その旧領をことごとく手中に収めた(注:『東国通鑑』による)。朱雀天皇承平七年、使者を遣わして書状を奉り(注:『日本紀略』による)、あわせて入貢を願い出た。朝廷の議では、その願いを許さず、返答の牒状を送った(注:『経信記』承暦四年の条による)。天慶二年、使者を遣わして再び願い出た(注:『経信記』による。年次は『日本紀略』による)。結局これも聞き入れず、太宰府に命じて高麗の広評省(こうひょうしょう)へ牒状を送らせた(注:『日本紀略』による)。ただし商人の交易については、従来どおり禁じなかった(注:『朝野群載』『日本紀略』天延二年の条による)。建が死ぬと武(ぶ)が立った。武が死ぬと堯(ぎょう)が立った。堯が死ぬと昭(しょう)が立った(注:『東国通鑑』による)。円融天皇天禄三年、高麗の南凉府(なんりょうふ)の使者が牒状を携えて対馬島に至った(注:『日本紀略』による)。太宰府に命じて返答させた(注:『百錬抄』による)。昭が死ぬと仙(せん)が立った。仙が死ぬと治(ち)が立った(注:『東国通鑑』による)。一条天皇長徳三年、高麗が使者を遣わして来たが、その牒文が通例に反していた。朝廷はそこに謀略があるのではと疑い、返答をせず、沿岸の郡に警備を命じて備えさせた(注:『百錬抄』による。本書には「この冬、高麗の賊が西の辺境を侵し、翌年太宰府に命じて高麗を撃たせた」という記述があるが、『日本紀略』ではこれを南蛮の賊としているため、ここには記さない)。治が死ぬと誦(しょう)が立った(注:『東国通鑑』による)。長保四年、高麗の民は苛政に苦しみ、その命令に耐えかねて、多くが流浪して九州の地に逃れてきた(注:『百錬抄』による)。寛弘元年、高麗の属民である芋陵島(うりょうとう)の人が漂流して因幡(いなば)に至った(注:『権記』による。「高麗蕃徒」は『本朝麗藻』に、「芋陵」は『東国通鑑』による。本書では「芋陵」を「于陵」としているが、ここで訂正した。『公任集』には「新羅の宇流麻島(うるまじま)の人が至った」とあるが、宇流麻島とはすなわち芋陵島のことである)。食糧を与えて本国へ帰らせた(注:『本朝麗藻』による)。誦が死ぬと詢(じゅん)が立った(注:『東国通鑑』による)。
¶後一条天皇寛仁三年、女真(じょしん)の賊が西の辺境を侵した。太宰権帥(だざいのごんのそち)・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)が兵を発してこれを撃退したが、捕虜となった者の中には高麗人が多く含まれていた。そこで通訳を使ってその事情を尋ねさせたところ、皆「賊がまず我が本国を侵したため、私どもは出てこれを防ぎましたが、逆に賊に捕らえられた者です」と述べた(注:『朝野群載』『小右記』による)。まもなく、高麗の商人・末斤達(まつきんたつ)が漂流して筑前の志摩郡に至り、「私は先に宋へ交易に赴き、今帰国しようとしたところ、漂流して貴国に至りました」と述べた。府の役人はもとより捕虜たちの言葉を信じておらず、斤達が来たときも同様に疑った。そこで捕虜たちと斤達をともに監禁した。そもそも賊が来襲した当初、沿岸の住民には多く捕らえ連れ去られた者があった。対馬島の判官代(ほうがんだい)・長岑諸近(ながみねのもろちか)は一家ともども捕らえられたが、まもなく諸近一人が脱出して戻った。ところが再び出奔し、二十日ほどを経て、諸近は伯母および婦女十人を率いて戻り、島司に次のように告げた。「私は先日家に戻った際、ひそかに老母や親族が独り取り残されていることを案じました。人の道に背いてまで自分だけ安穏としているよりは、賊地に身を委ねてでも母の生死を確かめようと思い、ひそかに禁を犯して海を渡り、高麗へ赴きました。刀伊(とい)の地に着こうとしたとき、たまたま高麗の通事(通訳)の仁礼(にんれい)に出会いました。仁礼は『賊がまず本国を侵したため、役人が兵を発してこれを撃ちました。賊は逃げて日本へ向かったので、郡県に命じて千余艘の戦艦を用意させ、交代で賊に備えさせました。賊が再び侵入してきた際には、これを襲撃して打ち破り、殺害・捕獲した数は数え切れないほどでした。ただし賊船の中には日本人が多数おり、これをことごとく収容したところ三百余人となりました。今これを貴国へ送り届けようとしています。すでに議も定まりましたので、あなたは早く帰国してこの事情を告げなさい』と語りました。それから金海府(きんかいふ)に至り、我が国の人に会って母の生死を尋ねたところ、『あなたの家族は伯母を除いてみな海に沈んで亡くなりました』とのことでした。そこで伯母とともに帰ろうとしましたが、すでに禁を犯して海を渡った身であり、証拠となるものがなくては帰るわけにもいきません。そこで我が国の婦女十人を求めて連れ帰ることを願い出て許され、今率いているこの女たちがそれです。」島司はさらに諸近が率いてきた女たちにも尋ねた。女たちの中に事情をよく説明できる者が二人おり、一人は筑前の人・内蔵石女(くらのいわめ)、一人は対馬の人・多治比阿古見(たじひのあこみ)といい、次のように答えた。「賊と官軍とが対峙している間、矢に当たって死ぬ者が次々と絶えませんでした。それから高麗へ移り、毎夜上陸しては人や物を略奪しました。昼間は島々の間に隠れ、捕虜の中から屈強な者を選んで船に留め置き、その他はみな海に投げ込みました。二十日余りが過ぎたころ、高麗の船数百艘が現れて賊を攻撃しました。その勢いは非常に猛烈で、賊も力を尽くしてこれを防ぎました。高麗の戦艦の作りは、普通とは異なり非常に高大でした。屋根の上に幾層もの楼があり、楼の上には櫓が立てられ、左右にそれぞれ四本ずつ、一本ごとに水手が五、六人ついていました。乗り込む兵士は二十余人。船の下方にも櫂が下げられ、左右にそれぞれ七、八本ありました。備え付けの武具には鉄の甲冑や鉄の撘(たつ)などがあり、兵士はそれぞれこれを身に着けていました。また船の舳先には鉄で角を作り、賊の船を突き破りました。さらに大きな石を積んでおり、これで賊の船を打ち破りました。賊の船は次々と転覆し、死者はたいへん多く出ました。賊はついに防ぎきれず、捕らえて連れていた男女をことごとく海に投げ込み、船を走らせて逃げていきました。まもなく、高麗の船が漂流していた者たちを助け上げ、それによって蘇生した者が三十余人おり、私たちもその中にいました。戦いが終わると、私たちを金海府まで送り届けてくれました。道中では駅ごとに馬を与えられ、食事も駅ごとに与えられ、いずれも銀の器が用いられ、たいへん手厚くもてなされました。役人は『我が国は日本を敬い重んじているので、あなたがたを厚くもてなすのです』と語りました。府に着いてからは白い布で衣服を仕立ててもらい、また美味な食事も与えられました。府に三十日ほど滞在していたところ、長岑諸近が到着し、私たち十人を連れて帰ることになりました。船出の日、国の役人は食糧を支給するよう命じ、また『近いうちに専使を遣わして、日本人をすべて送り届けるつもりです。あなたがたは先に帰ってこの事情を伝えなさい』と告げました。私たちはこうして諸近に従って帰ってきたのです。」島司は諸近と石女らをまとめて太宰府へ送った。太宰府はことの次第を詳しく記録して朝廷の議を求めたが、議は決しなかった(注:『小右記』による)。高麗の使者・鄭子良(ていしりょう)が対馬に到着し、男女二百七十人を送り返した(注:『小右記』『左経記』による。『左経記』には新羅とする箇所もあるが誤りである)。朝廷の議により子良を太宰府に召し、事の次第を詳しく述べさせた。これによって諸近および先に拘留されていた高麗人はみな釈放された。当初子良が来た際、高麗の安東護府(あんとうごふ)が対馬に送った牒状を携えており、「本国はこの安東護府を東方を鎮める総攝府としており、その他の府はすべて府の名を州に改めて、この府に統属させています。それゆえこの府から牒状を送ったのです」と述べた。朝廷の議では「高麗が賊を撃って我が国の人を返したことは、まことに一国を挙げての大事であるから、本来ならば国の官庁から特別に牒状を送るべきである。それを一地方の府が対馬に牒状を送ってきたのだから、我が方もまた太宰府に命じて牒状を移させるべきである」として、そのように決した(注:『小右記』による)。翌年、鄭子良を本国へ帰らせた。特に子良に黄金三百両を賜り、また食糧を与えて、拘留していた高麗人をすべて帰した(注:『日本紀略』『左経記』を参照し取りまとめた。黄金三百両については『大鏡』による)。詢が死ぬと欽(きん)が立った。欽が死ぬと亨(こう)が立った。亨が死ぬと徽(き)が立った(注:『東国通鑑』による)。
¶後冷泉天皇永承六年、高麗が牒状を送り、日向(ひゅうが)出身の女で高麗にいた者を送り返してきた(注:『百錬抄』による)。そこでこれに返答の牒状を送った(注:『経信記』による。『八幡愚童訓』によれば、天喜年間に高麗が壱岐島の僧・常行(じょうぎょう)の母を送り返したとあり、これはかつて刀伊に捕らえられて高麗にいた者であろう。事情が似通っているので、参考として付記する)。白河天皇承暦四年、商人が高麗と交易し、帰国するにあたって高麗の礼賓省(れいひんしょう)から太宰府への牒状と、献上の品を携えてきた。その牒状にはこうあった。「当省は謹んで聖旨を承りましたところ、貴国には風疾(ふうしつ)を治療できる名医がいると伺っております。今、商人の王則貞(おうそくてい)が故郷へ帰るのに便乗して牒状を通わせ、あわせて王則貞のもとで風疾の由来を説明させますので、そちらで上等な医者を選び、来年の早春に派遣していただき、風疾を治療していただきたく存じます。もし効果が見られましたなら、必ずや軽からぬ謝礼をいたします。今はまず華やかな錦、および大綾・中綾各十段、麝香十臍を王則貞に託して持たせます。太宰府の官吏に渡し、まずは信義のしるしとして受け取っていただければ幸いです。」牒状の内容はおおよそ以上の通りである。「当省が承りました聖旨は、以上に詳しく記した通りです。貴府にもし確かに風疾を治療できる良医がいらっしゃれば、こちらへ派遣していただけますようお願いいたします。あわせて反物と麝香をお納めください。謹んで牒します。」(注:『続本朝文粋』『朝野群載』『経信記』による)。太宰府はこれを朝廷に上表して議に付し、牒文が無礼であるとして、太宰府に牒状を送らせ、贈られた品物は送り返させた。その返牒にはこうあった。「貴国と誼を結んでより、すでに千年を超えます。親善の義は代々の帝の御代にわたって続いてまいりました。ところが今、寝所にあって霧や露に冒され、遠い海の彼方に医療を求められるとのこと、その風聞に思いを馳せ、まことにお気の毒に存じます。しかしながら牒状の文言は、いささか従来の慣例に反しております。『処分』を改めて『聖旨』と称するのは、藩国の王が用いてよい言葉ではありません。辺境の地にありながら上国と肩を並べようとするのは、まことに秩序の道に背くものです。ましてや商人の旅の船に託し、異国風の簡単な書状を寄せられただけで、正式な使者は到着せず、封書としての礼も欠けております。魚に託した書状すら宮中の月にはなかなか届かないもの、まして名医が鶏林(けいりん、新羅・高麗の異称)の雲の彼方まで赴けましょうか。それゆえ贈られた品々はすべてお返しいたします。以上、書状をもってお伝えいたします。」(注:『続本朝文粋』『朝野群載』『水左記』による)。徽が死ぬと運(うん)が立った。運が死ぬと昱(いく)が立ち、国を顒(ぎょう)に伝えた。顒が死ぬと俁(う)が立った。俁が死ぬと楷(かい)が立った。楷が死ぬと晛(けん)が立った(注:『東国通鑑』による)。二条天皇永暦元年、百済(高麗)の金海府(きんかいふ)が対馬島の民を拘留し(注:『百錬抄』による)、まもなくまた対馬の商人を拘留した(注:『百錬抄』『山槐記』による)。晛が死ぬと晧(こう)が立った。後鳥羽天皇文治元年、対馬守・藤原親光(ふじわらのちかみつ)は平宗盛(たいらのむねもり)に追われて高麗へ逃れた。高麗の王は食邑を与えて厚遇した。まもなく源頼朝(みなもとのよりとも)が使者を遣わして親光を迎えると、高麗王は船三艘を用意させ、珍しい品々とともに送り返した(注:『東鑑』による)。晧が廃されると晫(たく)が立った。晫が死ぬと韺(えい)が立った。韺が廃されると呉(ご)(注:実際には「呉」の字に衣偏がつく字である)が立った。呉が死ぬと徹(注:「彳」偏は「日」偏に改めるべき字である)が立った(注:『東国通鑑』による)。後堀河天皇貞応二年、高麗人が漂流して越後の寺泊浦(てらどまりのうら)に至った(注:『東鑑』による。『百錬抄』には白石浦とある)。生存者はわずか四人で、船の長さは十余丈であった(注:『百錬抄』による)。持っていた品としては、弓二張(革を弦としており、蝦夷の弓によく似ていた)、矢を入れる胡籙(やなぐい)一口、大刀二振り(それぞれ紐で組まれ、中央に長さ七寸・幅二寸ほどの銀の板があり、四文字の銘が刻まれていたが、字体が異様で読めなかった)、その他食器の類があった(注:『東鑑』による)。翌年、京に入り六角堂のそばに住んだが、所持していた器物には銀を用いたものが多かった。見物に集まる者が非常に多かったため、朝廷は六波羅(ろくはら)に命じてこれを追い払わせた(注:『百錬抄』による)。嘉禄二年、肥前の松浦党(まつらとう)が対馬島の民を誘い、数十艘の戦艦に乗って高麗の全羅州(ぜんらしゅう)を侵し、人や物を略奪した(注:『明月記』『百錬抄』による)。高麗の国人が出て戦い、松浦の兵は半数近くが討ち死にし、残りの者は銀器などの品を略奪して帰った(注:『明月記』による)。翌年、高麗の使者が太宰府に至り(注:『百錬抄』『皇帝紀抄』『東国通鑑』による)、前年の侵略を非難した。少弐(しょうに)の武藤資頼(むとうすけより)はこの事情を詳しく鎌倉に報告する一方、乱暴を働いた民九十人を捕らえて斬り、独断で返答の牒状を送った。これに対し朝廷の議では「高麗の牒文は無礼であるが、資頼が朝廷の議を経ずに島の民を捕らえて斬り、私的に返牒を送ったのは、国家の体面を大いに損なうものである」として、役人に命じてその罪を裁かせた(注:『百錬抄』による。事情を鎌倉に報告したことは『東鑑』の脱漏によって補った)。寛喜三年、筑前の鏡社(かがみしゃ)の神民が高麗に至り、夜に民家を襲って器財を略奪した。北条泰時(ほうじょうやすとき)は守護に命じてこの犯人を捕らえさせた(注:『東鑑』による)。四条天皇仁治元年、高麗の牒使が対馬に至った(注:『百錬抄』『平戸記』による)。徹が死ぬと楨(てい)が立った(注:『東国通鑑』による。「徹」の字は「日」偏とすべきである)。
¶亀山天皇文永五年、楨(てい)は臣下の潘阜(はんふ)を遣わして書状を奉らせ、方物(名産品)を献上させ、あわせて蒙古の国書も届けさせた(注:『一代要記』『帝王編年記』『五代帝王物語』『関東平定伝』による)。その書状にはおおよそ次のようにあった。「我が国は蒙古国に臣従して仕えており、その帝王は仁徳厚く聡明で、貴国との誼を通じようとしておられます。私は詔を奉じましたが、その趣旨はまことに厳格で切実であり、やむを得ずして某官を遣わし、皇帝の書を捧げて参らせる次第です。貴国からもお一人使者を遣わして、様子をご覧になってはいかがでしょうか。貴国においてご検討ください。」(注:『五代帝王物語』『関東平定伝』による。この二書に載る高麗の書状はいずれもごく簡略であるため、ここでは『東国通鑑』を参照し取りまとめた)。これには返答せず、太宰府から使者を送り返した(注:『五代帝王物語』による)。文永六年春、高麗の使者が蒙古の使者に従って対馬に至ったが、受け入れなかった(注:『帝王編年記』『五代帝王物語』による)。秋、また金有成(きんゆうせい)・高柔(こうじゅう)らを遣わして高麗の国書および蒙古の国書を持たせ、太宰府に至らせたが、これにも返答しなかった。高柔は不思議な夢を見て感じるところがあり、毛皮の冠を安楽寺に奉納して去った(注:『関東平定伝』による)。文永八年、高麗が書状を奉り、蒙古が近く攻めてくるであろうという情勢を告げてきた(注:『吉続記』による)。西の辺境の将士に命じてあらかじめ備えさせた(注:『島津文書』による)。文永九年、蒙古の張鐸(ちょうたく)が高麗の書状を持って来たが、これにも返答しなかった(注:『関東平定伝』による)。文永十一年、高麗は八千の軍勢で蒙古を助け、壱岐・対馬・太宰府などの地を攻めてきた(注:『帝王編年記』『関東平定伝』『日蓮註画讃』による。高麗軍の兵数は『東国通鑑』による)。この年、楨が死んで昛(かい)が立った(注:『東国通鑑』による)。後宇多天皇建治元年、昛は通訳の郎将・徐賛(じょさん)らを、蒙古の使者・杜世忠(とせいちゅう)らとともに遣わしてきたが、鎌倉で捕らえて斬った(注:『帝王編年記』『関東平定伝』による。徐賛の名は『東国通鑑』による)。そこで沿岸の国々に命じて戦艦を造らせ、諸国の兵を募って高麗を征討しようとした(注:『島津文書』『野上文書』による)。まだ出兵しないうちに、弘安四年、高麗は船九百艘、軍勢一万、水夫一万五千、兵糧十一万石をもって蒙古軍を助け、金方慶(きんほうけい)らにこれを率いさせて鎮西(ちんぜい)に攻め寄せた。ところが折しも暴風に遭い、人も船も覆没して溺れ、軍勢七千余人が失われた(注:『八幡愚童訓』『日蓮註画讃』を参照し取りまとめた。人名・軍勢の数は『東国通鑑』による)。伏見天皇正安四年、高麗の金有成がまた国書を持って来たが(注:『東国通鑑』による)、そこには用兵をほのめかす言葉があった(注:『公卿勅使参宮次第』による)。北条貞時(ほうじょうさだとき)はこれを拘留した。そもそも高麗の趙彝(ちょうい)が蒙古に「我が国と通交できます」と説き、忻都(きんと)・洪茶丘(こうさきゅう)らがこれに誘われた。用いる船・食糧・軍器はすべて高麗に命じて用意させた。高麗は小国でこの厳しい取り立てに耐えられず、公私ともに苦しんだ。花園天皇延慶元年、昛が死んで璋(しょう)が立ち、国を燾(とう)に伝えた。燾は禎(てい)に伝え、禎は昕(きん)に伝えた。昕が死んで胝(し)(注:「胝」の字はもともと「日」偏である)が立った(注:『東国通鑑』による)。後村上天皇正平年間の初め、西の辺境の浮浪の徒が数千艘の船で高麗および元の地を侵し、しばしば人や物を略奪することを常としていた。当時は戦乱の世にあって、朝廷の統制も遠方までは及ばず、これを禁じることができなかった。数年の間に、かの沿岸の郡や邑は荒れ果て、住民もほとんどいなくなってしまった(注:『太平記』による)。正平六年、胝は国を顓(せん)に伝えた(注:『東国通鑑』による)。正平二十二年、顓は臣下の中請大夫(ちゅうせいたいふ)・前典儀令(ぜんてんぎれい)の金一(きんいつ)、および千戸左右衛保勝中郎将(せんこさゆうえいほしょうちゅうろうしょう)の金龍(きんりょう)、検校左右衛保中郎将(けんぎょうさゆうえいほちゅうろうしょう)の於重丈(おじゅうじょう)らを遣わし、国書および元の中書省の書を持たせて摂津の兵庫津に至らせ、辺境の民による侵害を禁じるよう求めてきた(注:『善隣国宝記』『太平記』による。『鳩嶺雑事記』も参照し取りまとめた)。足利義満(あしかがよしみつ)はこれを天龍寺に宿泊させ、僧の妙葩(みょうは)に接待させた(注:『善隣国宝記』『太平記』『普明国師行状』を参照し取りまとめた)。帰国にあたっては贈答の品を交わしたが、返書は送らず、当時本国が乱れていて統制が行き届かないことを理由とした(注:『太平記』による。『善隣国宝記』には返書を送ったとあるが、これは義満自らが答えず妙葩に返書を送らせたことをそう記したものであろう)。顓が死ぬと辛禑(しんぐう)が立った。禑は姓を異にしており、顓がかつて自分の子として育てていた者であったが、この時に至って王となった(注:『東国通鑑』による)。
¶後亀山天皇天授元年、高麗は臣下の羅興儒(らこうじゅ)を遣わして来聘させ(注:『東寺文書』による)、海賊の禁圧と国交を求めてきた(注:『東国通鑑』による)。足利義満はこれを京へ召し(注:『東寺文書』による)、拘留して帰さなかった。もともと高麗の僧で日本に身を投じてきた者があり、興儒はその釈放を願い出た。義満はこれを聞き入れ、本国へ放ち帰らせた。天授四年、また鄭夢周(ていぼうしゅう)を使者として遣わしてきた。九州探題の今川貞世(いまがわさだよ)は捕らえられていた民数百人を放ち帰らせた。天授五年、また李自庸(りじよう)を使者として遣わしてきた。今川貞世はその民二百三十人を帰らせるよう命じた。元中五年、辛禑(しんぐう)が廃された。子の昌(しょう)が立った。翌年、高麗の諸臣は昌を江華(こうか)に追放し、主氏(しゅし)の宗室である瑤(よう)を立てて王とした。瑤は四年在位した後、原州(げんしゅう)に退いた。臣下の李成桂(りせいけい)がこれに代わって王となった(注:『東国通鑑』による。成桂については『明史』による)。後小松天皇明徳三年、高麗が僧を使者として遣わし、重ねて海賊の禁圧と国交を求めてきた。足利義満は僧の中津(ちゅうしん)に命じて返書を送らせたが、そのおおよそは次のようであった。「海辺の民が教化を乱し、法度を尊ばなかったことは、まことに我が君臣の恥じるところであります。鎮西の守護に命じて賊船を禁圧させ、捕虜を放ち帰らせるつもりです。国交を通じ誼を結ぶことについては、我が方も望むところであります。しかしながら我が国の将臣は、古来より海外と直接文書をやり取りする慣例がないため、御来書に直接お答えすることができません。僧に代わって返答させるのは、決して礼を怠るものではありません。」(注:『善隣国宝記』による)。応永四年、高麗は国号を改めて朝鮮とした(注:『和漢合運』による)。応永五年、高麗は特に使者を遣わして来聘し、重ねて先の願いを申し出た。足利義満はこの時初めてその願いを聞き入れた(注:『善隣国宝記』による)。その後も使者の往来は絶えなかったが、これらはもはや高氏の朝貢によるものではなく、いずれも地方の将帥による境界を越えた私的な交わりに過ぎなかった。