卷之二百八十五 志第卌二

國郡一

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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はるか太古、伊弉諾・伊弉冉の二神が国土を創り出した。天祖天照大神はこれを継いで天下を照らし治め、その徳化の及ぶところ、あらゆる生きものが生育し、五穀は豊かに実った。それゆえ大八洲の霊を称えて「生国足国(いくにたるくに)」と呼んだ。歴代の天皇がその神を祭るにあたり、祝詞に「皇神の治めたまうところ、数多の国島は、狭きは広げしめ、険しきは平らかにせしめ、国の大小によらず余すところなし」と唱え、天祖に対しては「日神の照らしたまうところ、天の極み地の果てに至るまで、馬蹄の至るところ、舟楫の通うところ、来たり王とならざるはなし」と唱えた。これは神聖な建国の壮大な謀(はかりごと)であって、歴代の朝廷はこれを奉じて政治の指針としてきた。太祖(神武天皇)は龍のごとく興り、大和に都を定めて中原(国の中心)を治められた。崇神天皇は軍を四方に出して遠征させ、遠い夷狄もその教化に従った。景行天皇は東西を平定し、神功皇后は三韓を降伏させ、斉明天皇は蝦夷を平定し粛慎を征討し、桓武天皇は異民族を海の彼方へ駆逐した。こうして天下統一の功業が成し遂げられたのは、いずれも祖先の訓えに従い天の職務を奉じた結果にほかならない。そして聖なる子・神なる孫が代々受け継ぎ、今に至るまで二千三百年、あたかも一日のごとくである。皇室の徳は広大で、あまりにも広々として名状しがたいほどである。加えて臣・連・伴造から国造・県主に至るまで、文武の臣や官人はみな皇統・神統の裔(すえ)から出ており、その一族は繁栄して国中に満ちている。人心は純朴で一つにまとまり、風俗は義に篤く勇ましい。万民が皇室を戴くさまは、まことに神明を敬うがごとくである。たまに外夷が辺境をうかがう者があっても、一度敗れれば息をひそめ、二度と侵犯しようとはしない。これは天険の地の霊、上に仁あり下に忠あることが、そうさせているのである。そもそも大八洲の地は、山河が秀麗で霊気に満ち、周囲を大海に囲まれている。西は三韓に臨み、南は隋国に通じ、北は靺鞨を控えている。太祖が封建の制を定めて以来、代々国造を置いてきた。継体天皇の頃には国の数はおよそ百四十四に上り、県主・邑君がこれに属した。その後、国造の名は史書に見えることが少なくなった。思うに、微弱な者は自立できず、強大な者は分をこえて乱を起こし封地を失い、また大臣・大連の権勢が強まりすぎて、県邑を併呑し山沢を独占するに至り、その弊害は言い尽くせないほどであった。大化の改新はこれらをことごとく停止・廃止し、国郡の制を創始した。国司・郡司の功績を考課して昇進・降格を定め、国中は清らかに治まり、民はこれに頼って安んじた。そもそも太祖以来、皇都はしばしば移されたが、おおむね大和の地を出ることはなかった。しかし天下の形勢は西が軽く東が重く、西南に居して東北を制するのが宜しいとされたのは、蝦夷が長く王化に逆らっていたからである。中大兄皇子(天智天皇)は即位に際し都を近江に移し、天武天皇は信濃への遷都を図ったが果たせなかった。これらはみな志が東方にあったからである。桓武天皇は一挙にこれを平定し、北の辺境に碑を建てて「日本中央」と刻ませ、皇祖・皇宗の志を成し遂げた。ああ、何と勇壮なことであろうか。これより先、三韓は臣属し、日本府を建てて鎮めた。欽明天皇以後は羈縻の国となり、太宰府に隷属させた。南海には琉球があり、島司を置いて治めさせ、のちに大隅国に属させた。嵯峨天皇に至って陸奥に鎮守府を置き、特にその任を重んじて民・夷を鎮めさせ、事あれば坂東の兵を発してこれを討たせた。こうして東方を顧みる憂いはなくなった。しかし威信ある人物が要害の地に臨み、士馬が精強でその郷里を武断するようになると、時が経つにつれて自立の計を図らざるを得なくなった。源頼朝に至って鎌倉に拠って覇府を開き、勲功ある旧臣・将士を守護・地頭に任じ、私に荘園を割いてこれに与えた。ここに国郡の制は崩れ始め、守護・地頭の権は次第に重くなった。荘園の廃立や郷保の変遷は、天下の大勢に関わるものであり、決して軽々しいことではない。それゆえその名称に基づいて、変遷のさまを観るのである。そもそも図籍の編纂は大化に始まり、延長年間に完成した。諸国が風土記を進上し、民部省がこれをまとめて図帳を作ったことは、備わっていたと言えよう。惜しいことに、中世の乱離によって記録・典籍は失われ、その詳細を今考証することはできない。今は延喜式・和名抄などの諸書に拠り、五畿七道の制を本として、傍らに史籍を徴して本編を著し、西蕃および南北の二島を付して、「国郡志」を作る。

太古の初め、伊弉諾・伊弉冉の二神は天神の命を奉じて初めて国土を開き、まず磬馭慮島(おのころじま)を得た。次いで淡路洲、次に伊予二名洲、次に隠岐洲、次に筑紫洲、次に壱岐洲、次に対馬洲、次に佐渡洲、次に大日本豊秋津洲を得て、これらを大八洲と呼んだ。さらに吉備児島・小豆島・大島・女島・知訶島を得て、その他にも小島が付属した。そこで穂之狭別・飯依比古以下、河海・山野・草木の神々にそれぞれ分担して治めさせた。【日本書紀・古事記。○考えるに、日本書紀に挙げる諸説では、八洲の順序が互いに一致しない。要するに大同小異であるので、ここでは詳しく注記しない。また古事記では、八洲以下それぞれに別名を挙げている。たとえば伊予を愛比売、讃岐を飯依比古、大日本豊秋津洲を天御虚空豊秋津根別というが、詳しくは神祇志に見える。すでに諸神にそれぞれの地を治めさせたことからすれば、いわゆる封建の制はすでに神代に始まっていたのであろうか。ひとまず参考として付す。】そこで天照大神には高天原を治めるよう、素戔嗚尊には天下を治めるよう詔した。素戔嗚尊は初め韓地に降ったが、その地の形勢を見て出雲に立ち返り、暴れる者を誅し従う者を撫で、皇化を宣布して、山沢の材木を育て舟楫の利を通わせた。その子孫である五十猛命・大国御魂神・土之御祖神らは、いずれも国土に大きな功績があった。大己貴命に至って、国土開拓の事業を大いに広げ、少彦名命と力を合わせ心を一つにして天下を経営し、ついに大いなる基盤を築く功績を成し遂げた。そこで天祖(天照大神)は太子天忍穂耳尊を降して中国(葦原中国)の主とさせようとしたが、太子は服従しない者がいることを憂えて降ることを承諾しなかった。そこで天祖は経津主神・武甕槌神の二神を遣わして大己貴神を招き諭させた。大己貴神は国土を献上して誠意を示した。そこで二神は天下を巡り、恭順しない者を誅し帰服する者を撫でたので、東の果て北の辺境に至るまで服従しない者はなくなった。太子はそこで天祖に願い出て、皇孫彦火瓊瓊杵尊に代わって中国に降らせることとした。大己貴神はその一族を率いてこれを守護した。【日本書紀・古事記を参照して取る。「帥其」以下は延喜式の大意による。】皇孫は西州を鎮撫しようとして、日向の襲(そ)の高千穂峰に降り、そこから槵日(くしひ)の二上(ふたがみ)の地から国土を求めて巡り、吾田の長屋の笠狭碕に至って居を定めた。【日本書紀。】その後三代を経て太祖(神武天皇)に至るまで、皆高千穂宮にいた。【古事記。】

もともと西州は伊弉諾尊が経営した地であって、神々の子孫が多く住んでおり、大山祇神・事勝国勝神・綿津見神などは、あるいはその娘を差し出し、あるいはその地を献上して、それぞれ誠意を尽くした。【日本書紀。古事記を参照して取る。】この頃になると天孫の一族は繁殖し、薩摩・大隅・日向などの地を領して藩屏となった。【日本書紀・続日本紀・姓氏録。】皇室の事業は実にここに基づくのであるが、当時は西州はすでに服したものの、東国はまだ平定されていなかった。饒速日命は天孫の一族として久しく大和に居住しており、土豪の長髄彦はこれを主として奉じていた。そのほか諸々の首長が各地に割拠して統一されていなかった。太祖(神武天皇)は憤然として天下を平定しようとする志を抱き、大業を広めるには大和に都するのが最も良いと考えた。そこで水軍を発して東へ向かい、速吸の門(はやすいのと)に至って珍彦(うづひこ)を道案内に召し、筑紫の菟狭より崗(おか)の水門を経て安芸に至り、さらに吉備に進んで高島宮に三年留まった。ついで東へ難波を過ぎ、河内から中国(大和)に入ろうとしたが、皇軍は戦いに利あらず、進路を転じて茅渟・紀伊・熊野・菟田・吉野・磯城を巡り、長髄彦を討伐した。饒速日命は長髄彦を殺して帰順し、諸々の首長はことごとく服した。別に将を遣わして伊勢を平定させた。【「別遣」以下は釈日本紀が引く伊勢風土記による。】そこで大和に都を定め、橿原宮に居して国県の制を創始し、国造を定め、県主・県直を置いた。【県直は旧事本紀による。】東は総・結城・安房にまで及び、【「東」以下は古語拾遺による。】天下統一の大業はここに定まり、始馭天下天皇(はつくにしらすすめらみこと)と号した。歴代の朝廷は相継いでここに都したので、後世には国中を総称して大和とも呼び、あるいは日本の字を用いた。【日本書紀。】これは日神の子孫が国を建てて民を撫育し、太陽の照らすところことごとく皇化を被ったことによる。【日本書紀・延喜式の大意による。】それゆえ別に国号を立てなかったのである。この国を豊葦原瑞穂国と呼び、葦原千五百秋瑞穂国とも呼ぶのは、皇室の基が窮まりなく、土地が穀物の実りに適していることを称えたものである。また葦原中国とも呼び、【日本書紀・古事記。】あるいは単に中国とも呼んだ。【日本書紀・続日本紀。】そもそも八洲の地は東方に位置し、天日が最初に照らし臨むところである。神聖がこれを開創して天下を統御したので、西の蕃国は天朝を神国と呼び、日本と呼んだが、これもまた自然の形勢によるものである。

崇神天皇は大彦命らを将軍として、兵を四道に遣わし、未開の風俗をなつけ従わせ、不逞の者を誅除した。皇子豊城命に詔して東国に出て治めさせたところ、教化が大いに行われ、国中が安寧となり、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称された。晩年に至り任那が朝貢し、三巳汶(みつのこもん)の地を献じて、役人を遣わして鎮め治めるよう請うた。【「献」以下は姓氏録を参照して取る。】西蕃が内附したのはこれが始めである。景行天皇の時、熊襲が叛いたので、天皇は自ら親征し、西州に八年留まって帰還した。さらに武内宿禰を遣わして北陸および東方諸国を検分させ、初めて蝦夷の形勢を明らかにした。まもなく熊襲がまた叛いたので、皇子日本武尊を遣わしてこれを平定させた。ついで東方征討を命じ、陸奥・常陸・武蔵・甲斐・上野・信濃・越などの地を平定し、その平定した地は合わせて十二道であった。【「凡」以下は古事記による。】皇子は東国に四年在って、帰途伊勢に至り薨じた。天皇は大いに悼み惜しみ、自ら皇子の平定した国々を巡幸しようとして、伊勢から東海に入り、年を越えて帰還した。天皇はさらに豊城命の孫である彦狭島王を東山道十五国の都督に任じたが、任地に到る前に薨じた。そこでその子御諸別王が職を継ぎ、早くから善政を行ったので、民も夷もその徳に心を寄せた。天皇は晩年、都を近江に遷したが、これは三道の要衝を押さえるためであった。成務天皇はその遺業によって山河を境として阡陌(田畑の区画)を定め、東西を日縦(ひたて)、南北を日横(ひよこ)とし、山陽を影面(かげとも)、山陰を背面(そとも)と呼んで、国境が初めて定まり、百姓は安堵した。【日本書紀。○考えるに、本朝月令が引く高橋氏文には、景行天皇の詔として「日竪日横」「陰面背面」の語が載っており、これは旧来の呼称によって国県を分けたものであろう。】

そもそも大八洲の領域は、四方を海に囲まれ、西北は朝鮮および粛慎・靺鞨に対し、東北には千島があり、東南は大洋に面し、西南には琉球諸島があって隋国と相望んでいる。長さはおよそ三千里、広さは百八十里、あるいは三百六十里に及び、面積は八十五万四千六百四十方里である。地形は南北に長く、山脈は北から起こり、陸奥・出羽の間で最も奥深く険しくなり、そこから数脈に分かれて西へ蜿蜒と連なり、東海・東山・北陸の三道の境をなす。その一脈は信濃に至って浅間山となり、甲斐・駿河の間に至って富士山となって東海に聳え立ち、分かれた脈は南に出て天城山となり、海南の群島に連なる。北陸の一脈は加賀・越中の間に至って白山・立山となり、近江に至って二支に分かれる。その一つは伊勢・大和を経て吉野山に集まり、紀伊へ向かう。もう一つは西へ向かって山陰・山陽二道の境をなし、西海道に至り、筑前・豊後を経て南に折れ、阿蘇・霧島の諸峰となって肥後・日向の間に蟠踞し、琉球・台湾の群島に至る。山陽および紀伊の余脈は淡路島となり、ついに四国に連なって雲辺寺山・石鎚山などの山々となる。淡路より西、山陽と四国の間には島々が碁石を並べたように点在し、これを瀬戸内海と呼ぶ。東海・北陸の諸河川は、みな東山に源を発する。東に流れるものは利根川となり、北に注ぐものは信濃川となり、南に奔るものは天竜川といい、西に下るものは木曽川といい、近江の湖(琵琶湖)に発するものは淀川という。山陰には江川があり、南海には吉野川があり、西海には筑後川があって、いずれも国内の大きな河川である。武蔵・総・常陸・野(上野・下野)のあたりは平坦で肥沃であり、まことに千里に及ぶ沃野の地である。【延暦輿地図・拾芥抄・大日本実測図を参照して取る。】

そもそも太祖が封じた国造は合わせて八つで、倭・葛城、【○この二国はのちに大和に属した。】凡河内、【○すなわち河内。】山代、【○すなわち山城。】伊勢・素賀、【○のちに遠江に属した。】紀伊・宇佐である。【○のちに豊前に属した。】県主は二つで、猛田・磯城である。【○この二県はのちに大和に属した。】県直は一つで、津島である。【日本書紀・旧事本紀。○すなわち対馬。】開化天皇は三野前国造を封じた。【○のちに美濃に属した。】崇神天皇は十一を増封し、東では知知夫、【○のちに武蔵に属した。】科野、【○すなわち信濃。】北では久比岐・高志深江、【○この二国はのちに越後に属した。】西では出雲・石見・吉備中県、【○のちに備中に属した。】波久岐、【○今は不詳。】火、【○すなわち肥前・肥後。】阿蘇、【○のちに肥後に属した。】南では波多である。【○のちに土佐に属した。】景行天皇はさらに七国を定め、東では甲斐・上毛野、【○すなわち上野。】那須、【○のちに下野に属した。】西では吉備穴、【○のちに備中に属した。】穴門、【○すなわち長門。】阿武、【○のちに長門に属した。】葦北である。【旧事本紀。○のちに肥後に属した。】さらに皇子を国造・和気・稲置・県主に封じた者は七十余人に上った。【日本書紀・古事記。】成務天皇の時、新たに封を受けた者は合わせて六十四国で、中国(畿内近国)では山背、【○すなわち山代。考えるに、太祖がすでに国造を定めていたのに、この時さらに置いたのは、おそらく廃置があったのであろう。】東では伊賀・島津、【○すなわち志摩。】尾張・参河・遠淡海、【○すなわち遠江。】珠流河、【○すなわち駿河。】廬原、【○のちに駿河に属した。】相武、【○すなわち相模。】師長、【○のちに相模に属した。】无邪志、【○すなわち武蔵。】須恵・馬来田・上海上・伊甚・武社・菊麻、【○この六国はのちに上総に属した。】阿波、【○すなわち安房。】新治・筑波・仲・久自・高、【○この五国はのちに常陸に属した。】淡海、【○すなわち近江。】額田、【○のちに近江に属した。】三野後、【○のちに美濃に属した。】斐陀、【○すなわち飛驒。】阿尺・思・伊久・染羽・浮田・信夫・白河・石背・石城、【○この九国はのちに陸奥に属した。】北では高志、【○すなわち越後。】三国・角鹿、【○この二国はのちに越前に属した。】能等、【○すなわち能登。】伊弥頭、【○のちに越中に属した。】佐渡、西では丹波・但遅麻、【○すなわち但馬。】二方、【○のちに但馬に属した。】稲葉、【○すなわち因幡。】伯岐、【○すなわち伯耆。】針間、【○すなわち播磨。】針間鴨、【○のちに播磨に併合された。】吉備品治、【○のちに備後に併合された。】阿岐、【○すなわち安芸。】大島、【○のちに周防に属した。】筑志、【○すなわち筑前・筑後。】筑志米多、【○のちに筑前に属した。】豊、【○すなわち豊前・豊後。】国前・比多、【○この二国はのちに豊後に属した。】末羅、【○のちに肥前に属した。】天草、【○のちに肥後に属した。】葛津、【○のちに肥前に属した。】南では熊野、【○のちに紀伊に属した。】長、【○のちに阿波に属した。】伊余、【○すなわち伊予。】都佐である。【○すなわち土佐。】その後新たに置かれたものとしては、仲哀天皇の時に久努、【○のちに遠江に属した。】神功皇后の摂政の時に伊豆・怒麻がある。【○のちに伊予に属した。】応神天皇はさらに二十国を建て、東では印波・下海上、【○この二国はのちに下総に属した。】茨城、【○のちに常陸に属した。】道奥菊多・道口岐閉、【○「道口」は古事記に「道尻」とある。この二国はのちに陸奥に属した。】西では意岐、【○すなわち隠岐。】明石、【○のちに播磨に併合された。】大伯・上道・三野、【○この三国はのちに備前に属した。】下道・加夜・笠、【○この三国はのちに備中に属した。】周防・日向、南では粟、【○すなわち阿波。】讃岐・久味・小市・風速である。【○この三国はのちに伊予に属した。】仁徳天皇はさらに七国を置き、東では下毛野、【○すなわち下野。】北では加宜、【○今は不詳。】西では都怒、【○のちに周防に属した。】松津、【○今は不詳。あるいは肥前に属するという。】大隅・薩摩、南では淡道である。【○すなわち淡路。】反正天皇の時には江沼、【○のちに加賀に属した。】允恭天皇の時には若狭、雄略天皇の時には穂、【○のちに参河に属した。】賀我、【○すなわち加賀。】羽咋があった。【○のちに能登に属した。】継体天皇の時には伊吉島があった。【○すなわち壱岐。】前後して定められた国は、合わせて百四十四国である。【旧事本紀。日本全図を参照して取る。○考えるに、本書はこのように総数を挙げているが、実際にはこの数と合わない。詳しくは職官志に説く。】そのほか君・直・別・稲置なども、代々増やして置かれた。思うに当時の制度では、国造から県主に至るまで大小の別、尊卑の等級があり、【日本書紀・古事記。】互いに連なり属し合って、それぞれ封疆を守り、藩屏の任にあたった。【日本書紀・旧事本紀。常陸・肥前・豊後風土記・和名抄を参照して取る。】しかしその詳細は今考証することができず、その子孫の興亡もまた知ることができない。そもそも臣・連の二造で朝廷に仕えた者は、みな田荘を賜り品部を分け与えられ、それぞれ世襲の職を持った。【日本書紀。】およそ王土を食み王事に仕える者は、上は貢職を奉じ、下は祭祀を承け、それぞれ祖神に仕えてその民に臨んだ。大小相連なり内外相保ち、土地には世々の主があり、民には常の君があった。これが歴代の天皇が民の規範を立てられた所以である。【日本書紀・古事記・旧事本紀の大意を参照して取る。】

仲哀天皇は皇后とともに角鹿(つぬが)に行幸し、皇后に勅して「この地は海陸の要衝にあたり、海外を制するに十分である。朕は八州を巡狩したのち、宮室を造り永くここに居して新羅を征討しようと思う」と仰せられた。その後南に巡幸し、紀伊の徳勒津宮(ところつのみや)に居した。その時熊襲がまた叛いたので、筑紫に行幸した。【「仲哀」以下は気比社記を参照して取る。】神が皇后に託して「まず新羅を取れば、熊襲は自ら服するであろう」と告げた。天皇が崩御されると、皇后は決断して直ちに新羅を征討した。新羅王は図籍を封じて降伏し、高麗・百済も風聞を望んで降服し、世に西蕃と称されて職貢を奉じるようになった。これより三韓はみな隷属した。応神天皇は兵を遣わして新羅を討ち、その七国を平定して任那に隷属させた。日本府を建てて行軍元帥を置き、諸韓を統治させてその封疆を定めた。国ごとに官家を置いて海外の藩屏とし、もし朝貢しない者があれば兵を発して討伐し、あるいはその地を削り、あるいはその主を入れ替えた。これ以後、西蕃が藩屏の任を守ったのは二百余年に及んだ。履中天皇は初めて諸国に史(ふびと)を置き、言葉や事柄を記録させて四方の事情を通じさせた。【日本書紀。】允恭天皇は諸国に標(しるし)を立てるよう詔し、疆界を定めさせた。【姓氏録。】清寧天皇は諸国に使者を遣わし、風俗を巡察させた。欽明天皇二十三年、新羅が任那府を滅ぼした。天皇の崩御に及んで、これを回復するよう遺詔したが、ついに果たされなかった。崇峻天皇二年、東海・東山・北陸の三道に使者を遣わし、蝦夷および諸国の境を巡検させた。推古天皇以後、朝廷の政治は次第に衰え綱紀もやや緩み、大臣・大連として代々政権を執った者は田荘・民部を非常に多く領有するようになった。臣・連の二造もまた争って併合を事とし、互いに侵略し合ったので、富める者はますます富み、弱い者は自立できなくなり、争訟がこれによって盛んになった。蘇我馬子は権勢を専らにし、ついには歴代天皇の御県まで請い受けて自らの財産を増やすに至った。その後中大兄皇子(中宗=天智天皇)が蘇我入鹿を誅し、孝徳天皇を輔けて改新の政を布き、国内を統一して国郡の制とした。【「混一」以下は常陸風土記・延暦儀式帳による。】屯田および王臣が入手した部曲・田荘をすべて停止して公民公田とし、国は郡を統べ、郡は里を統べ、国には守を置き、郡には領を置き、里には長を置いた。東国にある国司は、良家の大夫をもってこれに任じた。郡領は国造で人柄が清廉で時務に堪えうる者を選んで任じ、おおよそ五十戸を一里とし、四十里以下を大郡、三十里から四里までを中郡、三里を小郡とし、京師および畿内の制を定めた。また東海・東山・山陰・山陽・筑紫・南海などの諸道の名目を定め、山河を境として関塞を置き、国司にその疆界を巡視させ、図籍を作らせて進上させた。蝦夷の地に接するところには柵を要衝に置いて備えとした。太祖が国造・県主を置いて以来、ここに至るまで千三百余年、その制度が初めて変わり、天下はことごとく郡県となったのである。

これより先、推古朝には隋国と通聘し、国書に「日出づる処の天子」と称し、【「日出処天子」は善鄰国宝記が経籍後伝記および隋書を引くところによる。】あるいは「東の天皇」と称したが、まだ別に国号を立てるには至らなかった。大化元年に至り、蕃国に詔を宣して初めて「明神御宇日本天皇」と称し、【日本書紀。】これを永式とした。【令義解。】かつて皇孫が筑紫に降った際、朝日の光と夕日の輝きが照らし合う地を相して皇居を営んだ。【古事記。】成務天皇が境界を定めた際にも、天日をもって天下の経緯とし地の名を定めたが、その意図はおそらく日の出づる国に居してその根本に処し、海外の諸蕃にその余光を仰がせようとするものであった。すなわち日本の号は実に古くその萌芽があり、ここに至ってあらためて天下を治める大号として定められたのである。【○考えるに、日本という大号がいつの世に起こったかは詳らかでない。日本書紀の垂仁朝には、加羅の王子阿羅斯等や新羅の王子天日槍の帰化の記事があり、神功皇后の三韓征討の際の新羅王の降伏の記事にも、彼らはみな天朝を日本と称している。応神朝には高麗王が上表して、やはり日本国と称している。すなわち外蕃が天朝を日本と称したことは、その由来がすでに久しいのである。参考として付す。】斉明天皇が再び即位すると、中大兄皇子(中宗)がこれを輔け、越国司の阿倍臣比羅夫を遣わして渡島を招撫させ、海を越えて島夷を経略し、粛慎を討ってこれを降した。当時新羅はますます猖獗をきわめ、唐兵を導いて百済を攻め陥れた。天皇は皇太子とともに筑紫に行幸して百済回復を図ったが、たまたま天皇が行宮で崩御されたので、皇太子は喪服のまま軍政を決した。しかし百済はわが計略を用いず、ついに唐に滅ぼされ、高麗もまた唐に没した。そこで筑紫に太宰府を置き、水城および諸々の城砦を築いて唐の侵攻に備え、ついには唐と修好して西方への憂いを取り除いた。皇太子は即位の前年、都を近江に遷したが、これ以後は専ら東方への経略を図ったのである。天武天皇七年、多禰島に使者を遣わし、年を越えて帰還してその国の図を献上させた。多禰はまた掖玖(やく)ともいい、【「又曰」は南島志による。】推古天皇の時に初めて通交した。この時に至ってその風俗・物産を明らかにし、島司を置いて付近の諸島を管させ、壱岐・対馬とともに太宰府に隷属させて三島と称した。【「乃置」以下は令集解・類聚三代格による。】十二年、信濃に使者を遣わして地形を観察させ、図を作らせて献上させたが、これは遷都を計画したものであったものの、実現しなかった。十三年、東海・東山・山陽・山陰・南海・筑紫に使者を遣わし、国郡の政績を巡察させた。【○考えるに、本書には崇峻天皇の時すでに北陸道の記載があるのに、ここでこれを言わないのは、おそらく脱文であろう。また考えるに、本書および古事記には、上古に四道・十二道・八道などの呼称があるが、そのいわゆる道とは、命を奉じて赴いた先について言ったものであって、後世のいわゆる道が国を統べるものとは自ら別である。】持統天皇九年、またも多禰島に使者を遣わして検察させた。この頃、山陽には吉備太宰があり、南海には伊予総領があった。【日本書紀。】文武天皇四年には、筑紫総領・周防総領・吉備総領があり、いずれも数か国を兼ねて管轄した。【続日本紀。】大宝元年の制で、五十戸を一里とし、郡は合わせて五等とした。二十里から十六里までを大郡、十二里以上を上郡、八里以上を中郡、四里以上を下郡、二里以上を小郡とし、一郡は二十里を上限とした。もし五十戸を超える場合は隣接する郡に分け属させ、六十戸に満つれば十戸を割いて一里を置き、十戸に満たない場合は大里に属させて余戸とした。国は合わせて四等とし、大・上・中・下といった。国は五十八、島は三で、【「為国」以下は続日本紀・令集解を参照して取る。】畿内・七道を建ててこれを統べた。七道とはおそらく北陸道を加え、筑紫を改めて西海道としたものである。駅は合わせて三等とし、山陽を大路、東海・東山を中路、その他を小路とした。三十里ごとに一駅を置き、地勢が険阻であったり水草のない所であれば、便宜に応じて配置した。伊勢・美濃・越前を関国と定め、鈴鹿・不破・愛発の三関を置いて国司にこれを管掌させ、国ごとに軍団を置いた。およそ関を置いて守り固めるべき所には兵士を配置し、烽(のろし)を置く間隔は四十里とした。もし山岡に隔てられている場合は便宜に応じて配置し、互いに見通せるようにした。要路の渡し場で渡ることのできない所には船を置いて渡らせた。渡し場・橋・道路は境界に応じて修理させ、堤防のある所は国司・郡司が検分して、人を差し向けて修理させた。【令義解。】三年、七道に使者を遣わし、政績を巡省させた。和銅二年、東海・東山の二道に使者を遣わし、関を検め風俗を視察させた。四年、山背・河内・摂津・伊賀の四国に都亭駅を置いた。【○「都亭」は、ある本には「郵亭」とある。】六年、次のように定めた。「畿内・七道の諸国の郡里などの名は、すべて二字を用い、必ずよい意味の字を選ぶこと。その産する銀・銅・彩色および動植物の類は、詳しくその品目を記録すること。土地の肥沃・痩せ具合、山川原野、地名の由来、古老の伝えるところ、古くから聞き伝えられた珍しい事柄を記載して奏上せよ」と。風土記の編纂は実にここに始まったのである。【「六年」以下は延喜式・扶桑略記・仙覚万葉抄を参照して取る。】八年、陸奥・出羽の蝦夷、および南島の奄美・夜久・度感・信覚・球美などの人々が来朝し、正月の賀に物を献じた。天平年間に至って、太宰府は役人を南島に遣わし、島ごとに牌を立てて島名および津泊の路程を記させ、航海の便に供した。養老三年、初めて按察使を置き、国司に二国あるいは三、四国を兼管させた。その制では、伊勢は伊賀・志摩を管し、遠江は駿河・伊豆・甲斐を管し、常陸は安房・上総・下総を管し、美濃は尾張・参河・信濃を管し、武蔵は相模・上野・下野を管し、越前は能登・越中・越後を管し、丹波は丹後・但馬・因幡を管し、出雲は伯耆・石見を管し、播磨は備前・美作・備中・淡路を管し、伊予は阿波・讃岐・土佐を管し、備後は安芸・周防を管して、不正を巡察し治績を考察した。のちに畿内使を加え、八道巡察使と名づけた。四年、南島がまた入朝し、位を授けられる者にそれぞれ差があった。神亀元年、陸奥の蝦夷が叛き、大掾の佐伯児屋麻呂を殺した。天皇は藤原朝臣宇合に命じてこれを征討させ、また小野朝臣牛養を遣わして出羽を鎮めさせた。この年、初めて多賀柵を築いて辺境の侵寇に備えた。【「是歳」以下は多賀城碑による。】これより先は、蝦夷が叛けば兵を発してこれを討ち、平定すれば兵を引き上げるだけで、わずかに渟足・石船などの柵があるのみであった。【「渟足」は日本書紀による。】二年、里を郷と改め、村を里と改めた。郷里の制はここに初めて定まった。【令集解。出雲風土記を参照して取る。】元明天皇の時、新たに出羽柵を置き、のちにこれを征狄所と呼んだ。和銅五年、さらに出羽国を置いて民を移し配し、陸奥の鎮所と並べて二道を経略させた。夷俘の性質は蜂や蟻のように群れ集まり、攻めれば山沢に逃げ込み、緩めれば深く侵入して掠奪した。そこで初めて城柵を置き、互いに呼応させて衝突を防いだ。天平五年、出羽柵を秋田郡に遷し、のちに修築して城とした。九年、鎮守将軍大野東人は、陸奥・出羽の間の行程が遠回りであることから、雄勝村に城を築いて直路を通すことを請うた。兵を発して多賀柵から出羽の大室駅に達し、数十里の道を開いて比羅保許山まで進んで引き返した。のちに雄勝城を置き、さらに桃生柵および伊治城を設けて進撃・討伐を図った。こうして要害の地には概ね城柵が置かれ、初めて防守の便を得た。付近の諸国の民に、便宜に応じて農耕や養蚕を行わせ、人々を喜んで移住させて辺境の備えに充てさせた。宝亀年間、陸奥の蝦夷が再び乱れた。十一年、兵を発して賊地に進入し、覚鱉城を作って膽沢の地を守らせた。当時膽沢は衣河の東にあって、蝦夷の奥地であり、最も攻略の難しい所であった。桓武天皇が即位すると、大伴弟麻呂・坂上田村麻呂を征夷大将軍とし、前後にわたって徹底的に討伐させた。弟麻呂は七十五か所の集落を平定し、田村麻呂もまた奥地を討って広大な地を開き、北は衣川を越えて膽沢城を築いた。さらに北へ百六十余里を攻略して志波城を築き、西北は津軽郡に通じた。【日本紀略。日本後紀・類聚三代格・陸奥国図を参照して取る。】異民族を荒れた辺境へ駆逐し、東山の夷地をことごとく収め、海をもって国境とした。【蝦夷志序。】これ以後、蝦夷は跡を潜め、渡島は出羽の管轄となり、やがて秋田城を廃して郡とし、保呂羽(河辺)府に遷った。天皇は遠方の経略に努め、その規模は大きく広がり、かつて三関を廃止し、南海道の新路を通じさせた。【続日本紀・日本紀略。】弘仁二年、陸奥に残った賊が乱を起こしたので、文室朝臣綿麻呂を遣わして征討させ、余すところなく平定し、辺境の憂いはここに初めて収まった。翌年、膽沢城を鎮守府とし、将軍以下の官を置いた。【日本後紀。「明年」以下は和名抄・建武二年記を参照して取る。】陸奥は辺境の要地にあり、その地がとりわけ広いため、国衙と鎮府を並べて置き、民と夷とを治めさせた。【職原抄。】太宰府と東西相対峙して、国内を威圧・制御したのである。これより先、按察使を廃止したが、陸奥だけはこれを存続させ、出羽を兼管させ、常に国守・鎮将を兼官とし、【続日本紀。】特にその任を重んじた。【日本後紀・類聚三代格。】淳和天皇の天長の初め、多禰島司を廃止して大隅に隷属させた。【類聚三代格。】仁明天皇は「天下の諸国・郡・郷・山川などの名で、御名(諱)に触れるものは、すべて改めよ」と定めた。【続日本後紀。】陽成天皇の時、出羽の夷俘が乱を起こしたので、藤原保則を権守として招撫させた。保則は任地に至ると、順逆の理を説き諭し、威信を示した。夷俘は喜んで服し、北辺は大いに治まり、渡島の蝦夷で前代に帰順していなかった者もみな内属した。【三代実録・藤原保則伝。】延長三年、諸国に『風土記』を進上するよう命じた。【類聚符宣抄・朝野群載。】民部省にはまた図牒があり、国郡の榜示を詳しく記録した。【職原抄。】

そもそも大化の改制以後、五畿・七道の諸国は、時に応じて廃置があった。天平年間には六十一国三島となり、天平宝字元年に三国を加え置き、弘仁十四年に一国を加えた。天長元年に至って多禰を廃止し、六十六国二島と定まって以後は変革がなかった。【日本書紀・旧事本紀・続日本紀・延喜式・和名抄。】ただしその郡郷は、戸口の増減に応じて、時に応じて増減があった。【令義解・続日本紀。】延暦年間には、郡が五百五十五、郷が四千十二、里が一万二千三十六であった。【律書残編。○この書は南都東南院に伝わったもので、首尾が欠けており、誰の著作かわからない。編中に延暦元年・十七年などの記述があるので、その年代は知ることができる。】その後、郡が三十五増え、【延喜式。】郷が二十六増えた。【和名抄。○考えるに、高山寺本に載る郷の名は合わせて三千七百三十五あり、本書とは合わない。参考として付し、後考を待つ。】五年、式を頒布して、五畿および七道の諸国を近国・中国・遠国の三等に分けた。畿内、伊賀・伊勢・志摩・尾張・参河・近江・美濃・若狭・丹波・丹後・但馬・因幡・播磨・美作・備前・紀伊・淡路を近国とし、遠江・駿河・伊豆・甲斐・飛驒・信濃・越前・加賀・能登・越中・伯耆・出雲・備中・備後・阿波・讃岐を中国とし、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥・出羽・越後・佐渡・石見・隠岐・安芸・周防・長門・伊予・土佐および西海九国を遠国とした。陸奥・出羽・佐渡・隠岐の四国、壱岐・対馬の二島を辺要とした。【延喜式。】延暦年間、京畿および七道の諸国に勅して兵士を停廃させ、労役を省いた。ただし陸奥・出羽・佐渡、および太宰府は、地がいずれも辺要にあたり、備えがないわけにはいかないので、その兵士は旧のままに置くべきであるとした。【類聚三代格。】

およそ西南諸国の公私の往来は、多くは舟楫によった。【類聚三代格・延喜式。】東北の地は広く険しいため、【日本書紀。】水草に最も適していた。当時牧を置いたのはおよそ六十余か所で、東国にあるものが四十五を占め、【延喜式。】良馬を多く産し、人々は馳駆を習わしとした。それゆえ後世に「西船東馬」の語があり、東国の民の風俗は勇猛で気概と義理を重んじた。諺に「坂東八か国は天下の大軍に匹敵しうる。鎌倉の兵は八か国に抗しうる」という。【源平盛衰記・平家物語。】それゆえ朝廷は常にその地の人を徴発して禁兵とし、意を用いて手厚く扱った。蝦夷を討伐し西辺に備えるのも、もっぱらここから兵を取ったのである。【続日本紀・東大寺正倉院文書・万葉集。】風俗歌謡を採集して民の心を察した。【万葉集。】先代の聖天子が東国に心を用いたことはこのようであった。やがて朝政が廃れて弛み、荘園が盛んに興ると、郡郷の制は崩れていった。各地の豪民は権貴に依托して郷里を併合し、争って荘の名を立てて自ら荘司となり、あるいは私に領主と号した。僧徒もこれに倣い、土地を占有して私党を養い蓄え、勢いはやや強盛となって国務に従わなくなった。こうして国内は分裂し、おおむね巨族大姓によって占拠されるようになった。【類聚三代格・本朝文粋・朝野群載・中右記・台記。】坂東・奥羽の地は、ほとんどその最たるものであった。【尊卑分脈・陸奥話記・後三年軍記。】朱雀天皇の時、平将門が乱を起こすと豪族がこれに呼応し、朝廷は震え驚いてこれを討つことができなかった。平貞盛・藤原秀郷がそれぞれ兵を率いてこれを討滅した。【日本紀略・扶桑略記・将門記。】もともと朝廷が東国の国司・郡司を選任する際には、常に武芸に熟練した者を選んでおり、【江家次第。】平氏がその選に当たることが多く、子孫がその地に留まり住んで一族が繁栄し、かなりの強宗となった。【平氏系図・尊卑分脈。】この頃に至って秀郷の威名もやや振るい、坂東の子孫で鎮将に任じられる者が多かった。【尊卑分脈。】もともと朝廷が国司・郡司に任命した者は、大方は天皇や神々の血筋を引く者であって、その地に本籍を移し荘園を占領し、また軍団が廃止されると武器を執って軍事に従事した者は、みなその子孫であった。いわゆる住人すなわち武門・武士とはこれである。【類聚三代格・源平盛衰記・尊卑分脈・諸家系図纂の大意を参照して取る。】長元年間、平忠常が叛いて上総・下総の二国に拠った。源頼信は子の頼義とともに坂東の兵を率いてこれを撃ち平定した。【陸奥話記・今昔物語。】これ以後、東国にあった平氏・藤原氏は次第に源氏に属するようになった。【尊卑分脈・東鑑。】後冷泉天皇の時、陸奥の俘囚の首長安倍頼時が、伊沢以北の六郡に拠って叛いた。頼義は子の義家とともにこれを討ち、連年にわたる攻防の末についにこれを滅ぼした。この時出羽の俘囚の長清原武則が頼義に従い、功によって鎮守府将軍に任じられた。【陸奥話記。】その子孫は代々陸奥・出羽の間に居住し、その一族はとりわけ栄えた。堀河天皇の時、武則の子武衡・孫の家衡らが乱を起こすと、義家は私兵を発してこれを討った。この時藤原清衡は秀郷の子孫として代々陸奥に居住していたが、【「藤原」以下は尊卑分脈を参照して取る。】この時義家に属して武衡を討ち、ついに六郡を領有した。【東鑑。】清衡の子基衡は奥羽押領使となり、【古事談・東鑑・尊卑分脈。】基衡の子秀衡は鎮守府将軍に任じられた。【玉海・東鑑。】一族は強盛で、十余万の兵を擁して威勢は北の境まで振るった。【東鑑。】そもそも奥羽の地域は広漠として険阻であり、土地は肥沃で物産も豊かであった。【藤原保則伝・東鑑。】歴代の朝廷が力を尽くして経略し、ようやく版図に帰した所である。【続日本紀・日本後紀・日本紀略。】しかし摂関家が政治を専らにするようになると、都から遠く隔たっているために外地のように見なし、ひとえに土豪に任せて束縛を加えなかった。【台記・東鑑。】そしていったん事が起これば、坂東の武士を使役し、代々の武将にこれを委ねて征伐を専らにさせ、功罪や刑賞には意を用いることがなかった。【陸奥話記・後三年軍記。】これによって国内屈指の要害の地が、英雄の武を用いる地へと変わり、坂東の兵馬の権はついに源氏に帰したのである。後朱雀天皇の寛徳年間、勅して新たに荘園を立てることを停止させた。後冷泉天皇もまた改めて禁令を申し渡したが、勢いを止めることはできなかった。【勘仲記。】後三条天皇が即位すると、憤然としてこれを矯正しようとする志を抱いたが、その道半ばで崩御された。【扶桑略記・百錬抄・古事談。】白河・鳥羽の二上皇が院中で政務を聴断すると、御荘を置いて自らを養い、上下がこれに倣って私利をひたすら営んだ。荘園はほとんど天下に遍く広がり、租税を課さず物を納めさせない土地が十のうち九を占めるに至り、国郡の政治は施すすべもなくなった。【百錬抄・神皇正統記。】崇徳天皇の時、平忠盛は備前守となって盗賊を捕らえる功があり、その名声はやや西南に広まった。【朝野群載・中右記。】子の清盛は安芸・播磨の守を歴任し、太宰大弐となった。【公卿補任・源平盛衰記。】かつて日向の乱を平定し、西海の人々は次第に平氏に服するようになった。

これより先、嘉承年間に、清盛の祖父正盛は源義親を撃って功があった。【百錬抄・中右記。】義親は義家の子である。【尊卑分脈・中右記。】これによって平氏はついに西国の人心を収め、源氏と互いに対抗するようになった。当時、諸国の豪雄で土地と兵甲を持つ者は、それぞれ家子・郎党を養い、互いに弓馬をたのんで雄を争った。そして源平二氏は、屹然として東西に対峙した。【東鑑・源平盛衰記・神皇正統記。】もともと藤原氏は代々政権を専らにし、多くの荘園を領有して、その富は皇室をしのぐほどであったが、ただ驕奢に耽るのみで、【日本紀略・愚管抄・栄華物語。】軍事のことはひとえに源・平二氏に委ねていた。【今昔物語・中右記。】保元・平治の乱に及んで平氏は大いに興り、源氏は衰えた。清盛は功によって太政大臣に昇り政権を掌握し、まず源氏の荘園を没収し、院宮・王臣の領地を侵し奪った。【玉海・東鑑・源平盛衰記。】一門の多くが要職に居り、私有の邑はほとんど国内の半ばを超え、その驕り高ぶり傲慢暴虐なさまは、もはや藤原氏の比ではなかった。【源平盛衰記・平家物語。】治承四年、源頼朝は以仁王の令旨を奉じ、平氏討伐を名目として東国で兵を起こした。かつてその父祖に属していた東国の家人たちは、争って先を競って来附し、鎌倉に居を定め、侍所を置いて旧臣を招き集めた。源義仲もまた北陸で挙兵し、京師に進み入った。平氏は支えきれず、安徳天皇を奉じて西へ逃れた。これは父祖がかつて西州をなつけ治めたことを頼みにしたのである。やがて頼朝は弟の義経を遣わして義仲を滅ぼし、自らは関東に拠って根本を固め、私に家人を遣わして要害を守らせた。そしてついに院宣を請うて平氏を討ち、平氏は西海で殲滅された。【東鑑・源平盛衰記。】文治元年、頼朝は「畿内・七道の諸国に、すべて守護・地頭を置いて一族の家人をこれに任じ、自らは天下総地頭となってこれを統べる」ことを奏請した。朝廷の議はこれを許したが、名目は盗賊を鎮め叛乱に備えるということであって、その実は天下の大権を収めるものであった。【東鑑・保暦間記。】こうして国衙はその国を制することができず、領家はその荘を専らにすることができなくなり、土地の権はことごとく鎌倉に帰した。いわゆる守護・地頭なる者は、それぞれ城邑に拠って近隣の地を侵し占めた。国府・郡家はついに廃れ、郷里の制もこれに従って乱れ、天下は再び次第に封建の勢いをなしていったのである。【東鑑・承久記・神皇正統記・太平記・但馬大田文・豊後日向大隅薩摩図田帳を参照して取る。】もともと南島は大隅に隷属していたが、【類聚三代格。】のちに薩摩の管轄となった。【源平盛衰記・平家物語。】頼朝は鬼界島を撃つことを願い出たが、朝廷の議は許さなかったので、ついに私にこれを撃って降し、南島はみな平定された。この時藤原秀衡が没し、子の泰衡が跡を継いで奥羽にまたがる地を領し、関を閉じて自守した。頼朝もまた私に兵を発してこれを討ち、陸奥の人橘実俊が地理に精通していたので、これに図を作らせて命じ、形勢を明らかにして地頭を定め、郡を割いて戦功に報い、渡島を流罪の地とした。ついで蝦夷管領を置いて夷人を鎮めさせた。【「置」以下は保暦間記・諏訪社縁起絵詞による。】東北はことごとく平定された。これより先、頼朝はその将士を遣わして禁闕を守らせ、鎮西奉行を置いて西南を制した。こうして海内外を問わずその威に服さぬ者はなくなり、天下の大勢はこれより一変したのである。建久三年、ついに頼朝を征夷大将軍に任じたが、別に鎮守府を置くことはなかった。これはその任を重んじたためである。【「不別」以下は職原抄による。】順徳天皇の時、頼朝の嗣が絶えると、北条義時は陪臣の身でありながら異姓の者を擁立して武人を統御した。【東鑑。】後鳥羽上皇は「源氏がすでに絶えた以上、皇室の権を一挙に回復することができる」と考え、近畿および尾張以西の兵を徴発して鎌倉を討とうとした。ある者が「東方は地が広く兵も多い。軽々しく事を起こして一敗すれば、その禍は測り知れない」と諫めたが、上皇は聞き入れなかった。義時はその子弟に命じて大軍を率いて京都を犯させ、ついに三帝が配流される禍を招き、武人はますます専横になった。【東鑑・承久記・保暦間記。】これより先、蒙古の鉄木真(チンギス・ハン)は燕京を取り、ついに金を滅ぼし、忽必烈(フビライ)に至って宋の地を併合した。【元史。】文永年間、対馬を犯し筑前を侵したが、直ちにこれを撃退した。【関東評定伝・八幡愚童訓。】建治元年、蒙古はまた使者を遣わして国書を呈したが、北条時宗はこれを斬って返書しなかった。【帝王編年記・関東評定伝。】弘安四年、蒙古は大挙して侵寇したが、再びこれを大いに打ち破った。【保暦間記・八幡愚童訓。】蒙古の兵十万のうち、生きて帰った者はわずか三人であったという。【元史。】これ以後、再び侵寇することはなかった。後醍醐天皇は後鳥羽上皇の志を継いで大権の回復を図り、近臣数人を東国に遣わして密かに将士と結んだ。【「遣」以下は増鏡による。】北条高時は兵を挙げて宮中を犯し、天皇を隠岐に遷した。こうして勤王の士が四方に競って起こった。新田義貞は上野で義兵を挙げ、一挙に鎌倉を滅ぼした。高時は誅に伏し、国内は統一に帰した。天皇はまず功臣を抜擢して国司・守護とし、皇子に命じて関東・奥羽を鎮めさせ、家人の称を廃止して武人を抑制しようとした。しかし武人は怨みを抱き、乱を思う者が多かった。足利尊氏・直義は、もとより異心を抱き、頼朝の故智を踏襲して天下を統御しようと望んでいた。ひとたび朝廷に帰順して北条氏を覆したが、この時に至って密かに武人と結び、その野望を遂げようとした。しかし朝廷はこれを察せず、護良親王に命じて鎌倉に出て鎮めさせ、直義を相模守としてこれを輔けさせた。【「以直」以下は公卿補任による。】まもなく北条氏の残党が叛くと、朝廷の軍はこれを討って利あらず、賊は進んで京師を陥れた。折しも鎮守府大将軍源顕家が奥羽の兵を率いて援軍に入り、ようやく勝利を得た。尊氏は西へ敗走した。これより先、尊氏は密かに西国の豪族と結んで党与としていた。【「先是」以下は島津文書による。】そこで西海・南海・山陰の兵を集め、水陸ともに進んで京師を犯した。天皇は叡山に行幸し、尊氏は北朝の天皇を擁立してこれに対抗した。天皇の御輿はついに大和に移り、吉野の行宮に拠った。尊氏は京師に幕府を開いて官軍に備え、子の基氏を関東管領に任じた。【「命子」以下は喜連川系図による。】こうして根本を固め、ますます武人と結んで四方を略奪し、将士に数か国を授けて、なおも守護と称させた。【太平記。】もともと頼朝が守護を置いた時、その職掌は大犯三条を出るものではなく、税務のようなことはひとえに地頭に委ねていた。【貞永式目。】尊氏に至っては人心を収めることに努め、法制にこだわらず、これを守護に委ねた。これより守護は地頭を奴隷のように見なし、あちこちの荘園を奪って自分の所有とし、割拠して争奪することはほとんど統制がなくなった。【太平記・建武式目追加・明徳記・梅松論。】

孝徳天皇が制度を定めてより、ここに至るまでおよそ七百年、国郡の制はことごとく崩壊した。そもそも太祖が都を定めて以来、天下の形勢は東が重く西が軽いため、西南を制することはできても、東北を征討することは難しかった。【日本書紀・続日本紀。】その東軍が京師を陥れたのは、寿永の乱であり、承久・建武の変である。西軍が志を得たのは、ただ尊氏の反乱のみである。【日本書紀・東鑑・源平盛衰記・太平記の大意を参照して取る。】それゆえ武将が国内を制するには、常に東北に拠ることが天下に重んじられたのであり、これは思うに、その地の形勢の雄大さと、士馬の精強さが、そうさせたのである。おおよそ延元以後、朝廷はわずかに南山(吉野)を保つのみで、その支配の及ぶ地は大和・河内・紀伊・伊賀の数か国にすぎなかった。しかしながら五十年もの長きにわたって、厳然として神器を奉じ、四方に号令した。四方の義軍は敗れてもまた奮い立ち、足利氏は三代にわたっても、ついに志を得ることはできなかった。【太平記・花営三代記。】後亀山天皇の元中九年、足利義満は北朝の天皇に和を乞うよう勧め、天皇はこれを許した。御輿は京師に還り、神器を後小松天皇に伝えた。ここに国内は統一されたが、天下の大権はことごとく足利氏に帰し、皇室はいよいよ衰微したのである。

京師

太古、天祖(天照大神)のいらっしゃった所を高天原という。思うにその地の形勢が最も優れており、四方を照らし治めるからであろう。皇孫が西州に降って治めた際にも、やはり地形の優れた所によって宮地を定め、三代にわたって日向の高千穂宮に居した。【「三世」以下は古事記を参照して取る。】およそ宮城のあった所は、上代には総じて皇都と称された。大化の改新に至って、これを定めて京師とした。もともと太祖が中国(大和)に都してより、代々遷り移って一定の邑ではなかったが、いずれも大日本豊秋津洲の域内に居した。太祖は橿原に都を定め、畝傍橿原宮と号した。【宮の名は古事記を参照して取る。】それより後十一代は、みな大和に居した。綏靖天皇の葛城高丘宮、安寧天皇の片塩浮穴宮、懿徳天皇の軽曲峡宮、【○古事記には境岡宮とある。】孝昭天皇の掖上池心宮、【○古事記には掖上宮とある。】孝安天皇の室秋津島宮、孝霊天皇の黒田廬戸宮、孝元天皇の軽境原宮、開化天皇の春日率川宮、崇神天皇の磯城瑞籬宮、垂仁天皇の纏向珠城宮、【○古事記には師木玉垣宮とある。】景行天皇の纏向日代宮が、これである。景行天皇は晩年近江に遷り、志賀高穴穂宮と号した。成務天皇もまたここに居した。【「成務」以下は古事記による。】仲哀天皇は角鹿の笥飯宮、【○今の越前敦賀郡。】紀伊の徳勒津宮、【○今の紀伊名草郡。】また穴門の豊浦宮、【○今の長門豊浦郡。】筑紫の橿日宮に居したが、【○今の筑前糟屋郡。】いずれも行在所である。応神天皇は大和に都し、軽島明宮に居した。【「軽島」は古事記による。】仁徳天皇は難波に居し、高津宮といった。【○今の摂津東生郡。】履中天皇は大和に居し、磐余稚桜宮といった。反正天皇は河内に居し、丹比柴籬宮といった。【○今の丹比郡。】允恭天皇もまた大和に居し、遠飛鳥宮といった。【「允恭」以下は古事記による。】これより後十五代も、また大和にあった。安康天皇の石上穴穂宮、雄略天皇の泊瀬朝倉宮、清寧天皇の磐余甕栗宮、顕宗天皇の近飛鳥八釣宮、仁賢天皇の石上広高宮、武烈天皇の泊瀬列城宮、継体天皇の磐余玉穂宮、安閑天皇の勾金橋宮、宣化天皇の檜隈廬入野宮、欽明天皇の磯城島金刺宮、【○古事記には師木島大宮とある。】敏達天皇の百済大井宮、【○今の河内錦部郡。】訳語田幸玉宮、【○古事記には他田宮とある。】用明天皇の磐余池辺雙槻宮、【○古事記には池辺宮とある。】崇峻天皇の倉梯柴垣宮、【○柴垣宮は古事記による。】推古天皇の豊浦宮・小墾田宮、舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮が、これである。孝徳天皇は難波に居し、長柄豊碕宮と号した。【○今の摂津東生郡。】斉明天皇はまた大和に居し、後飛鳥岡本宮と号し、のちに筑紫に行宮を営んで朝倉橘広庭宮と号した。【○今の筑前上座郡。】中大兄皇子(中宗)は近江に遷り、大津宮に居した。弘文天皇(大友皇子)もまたここに居した。【○今の滋賀郡。】天武天皇は大和に居し、飛鳥浄御原宮と号した。持統天皇は藤原宮に居し、【日本書紀。】文武天皇もこれによった。元明天皇は初めて平城宮を営み、元正・聖武・孝謙・廃帝(淳仁)・称徳・光仁の六代の天皇が相継いでここに居した。【続日本紀。】京邑は添上・添下の二郡にまたがり、【三代実録。】宮城はその中央にあって、方八町ほどの広さで、左右に二京を置き、条があり坊があり町があって、区画は整然としており、碁盤の目のようであったという。【西大寺田畠目録・中条氏実測南都図。】

桓武天皇は都を山城の長岡に遷したが、【日本紀略。○乙訓郡にある。】まもなく宇多の邑に地を相して、大いに土木の工事を興した。宮が完成すると、平安京と号した。【日本紀略・帝王編年記。】その地は葛野・愛宕の二郡にまたがり、左に賀茂川、右に葛野川があり、東西北は山々に囲まれ、南方は平坦で広々と開けており、形勢は雄大で山水は秀麗で、まことに万世不易の大都というべきである。【山城志・京城図。】その宮殿・門楼、官司の曹署、および京邑の条里の制も、前代に比べて規模が大いに増した。【三代実録・本朝文粋・拾芥抄・京城図。】詳しくは礼楽志に見える。後世には造営が頗る多く、公卿の邸宅から神社・仏寺に至るまで枚挙にいとまがないので、今は詳しく記さない。もともと延暦年間に皇都を営んだ際には、規模は宏壮で費やした財貨も非常に多かったが、これは一時の労苦に堪えて万世の基を建てようとしたものである。四方から人が集まり物資も豊かで、京師の盛んなさまは古今未曾有であった。【日本後紀・日本紀略・本朝文粋その他の書の大意を参酌する。】しかし外戚が政治をほしいままにするようになると、争って驕り奢ることを事とし、邸宅の造営を競い、その甚だしきに至っては皇居になぞらえるほどであった。【古事談・栄華物語。】官職や俸禄を世襲し、【公卿補任。】富貴を貪り声色に耽り、【栄華物語。】衣服や調度品は日ごとに贅沢に流れ、【今鏡。】宮城も次第に荒廃していった。至尊(天皇)の時にはご在所が仮住まいのようになり、【中右記・扶桑略記・百錬抄の大意。】上下ともに安逸をむさぼり、淫らな風俗が世に広まって、廉恥の気風は地に落ちた。【春記・小右記・栄華物語。】ついには保元・平治の禍を招くに至り、京師はこれ以後衰えていった。【保元物語・平治物語。】応和以降、貴賤を問わず争って左京の四条以北に居住し、右京はほとんど荒れ果てた廃墟のようになった。【本朝文粋。】平氏が引き続いて興ると、またも藤原氏の顰みに倣って、その驕り高ぶり暴虐なさまはいっそう甚だしくなった。車や衣服、冠や車の飾りは、華麗の極みを尽くした。しかし大内裏は、治承の火災の後、そのまま放置されて造営されなかった。清盛は都を福原に遷したが、【○摂津八部郡。】まもなくその旧に復したものの、京師はますます衰えたのである。【源平盛衰記・平家物語。】

大権が源氏に帰するに及んで、鎌倉が繁華の地となり、京師の名はここに空しくなり始めた。ただ幕府は表向き恭順の態度をとり、皇居を修営し、貢賦の進上を催促し、大番役の法を設けて武士を交代で宿衛にあたらせたので、都の内は静かに治まり、上下ともにこれに頼って安んじた。【東鑑。】公家たちは、すでに衰えた礼楽を補い繕って、わずかにその典型を存続させた。【愚管抄・吉続記・新抄・弘安礼節。】足利尊氏が反するに及んで、朝廷はわずかに南山(吉野)に安んじる身となり、尊氏は京師に居して倨傲で恥知らずにふるまい、公卿を侮り凌いだので、名家・大家はほとんど没落し尽くした。先代の天皇の定めた法は、この時に至ってもはや存するものがなくなったのである。【太平記。】