卷之二百六十七 志第廿四

氏族一

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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氏族の制度は、身分の尊卑を明らかにし、人間関係の秩序を正すためのものであり、その由来は実に深く遠いものである。天祖(あまつみおや)が天下を治め、その威光は八方の隅々にまで及び、聖なる子・神なる孫が代々受け継がれてきた。天照大神の血統は天地とともに永遠であり、その光り輝く神々しい徳は、千年万年を経てもなお一日のように変わらない。当時、天祖を補佐し守護した神々は、みな祭祀の記録に列せられ、天と地の間を行き来しながら、あらゆる霊的な力の禍福を司った。その子孫は盛衰こそ一様ではないものの、時に大きく興隆することがあった。先祖の功業を受け継ぎ修めることで、その精神は絶えず流れ通い、一つの気として滞ることがなかった。天の明命と民の道徳的規範とを支え育てるという役割は、実に永遠に変わることがなかったのである。それゆえ垂仁(すいにん)天皇・允恭(いんぎょう)天皇以来、歴代の天皇はみな人倫の秩序に意を用いてきた。延暦(えんりゃく)・弘仁(こうにん)の御代に至って、あらゆる氏姓を校訂・勘定し、皇別・神別・蕃別の三つの区分に整理して記録した。こうして皇統の血筋と神々の血筋とがここに大いに明らかにされたのである。思うに、太古以来、公卿や将帥の家柄から国司・郡司に至るまで、この三別の子孫でない者などいるだろうか。それゆえ天下の人々は、天皇が地上に生まれた者たちとは異なる存在であることをはっきりと理解し、神器の厳かな重みは人の力で狙い得るものではないと知り、身分の尊卑には定まった秩序があって等級や権威が侵されることなく、上下の心が一つにまとまって風俗も純朴で篤いものとなった。皇位が天地とともに窮まりなく栄え続けているのは、まさにこうした理由によるのではないだろうか。しかし今、その本末を詳しく検討してみると、時代を経ること久しく、その制度にも変遷がなかったわけではない。そもそも天地開闢以来、天子には姓というものがなく、万世一系である。一方で皇族や神々の子孫は、あるいは国や県を治め、あるいは品部(しなべ)を管掌した。天子はその都度、事績に応じて氏姓を授け、子孫はこれを受け継いで世襲の職務を定めたので、姓と官職とは異なるものではなかった。大化の改新によって旧来の職掌はことごとく廃止され、新たに百官が設けられて、ここに官と姓とが初めて分かれることになった。天武天皇の御代に至って新たに八色の姓(やくさのかばね)が制定され、氏族の尊卑が定められた。氏姓の制度はここで初めて変化したのである。弘仁・天長以後になると、皇族に姓を賜る場合は源氏・平氏の二氏に限られるようになり、昔のようにそれぞれ別の氏を賜ってその一族を区別するというやり方ではなくなった。その制度はここでまた少し変化したのである。外戚が権勢を独占するようになってからは藤原氏・橘氏が朝廷で代々権勢を振るい、武人が勢力を得るようになってからは源氏・平氏が日に日に諸国で勢威を強めた。この四つの氏族はついに天下に繁栄を広げた。そして当時の豪族たちは競って郡や郷を占拠し、子弟を各地に配置して、それぞれの土地にちなんだ家号を名乗るようになり、もはや朝廷の制度とは関わりのないものとなった。氏姓の制度はついに大きく乱れてしまったのである。足利氏の謀反に至って天下は大いに乱れ、武士たちは故郷を離れ、家々は系図を失った。誤って他人の姓を名乗り、みだりに名門の血筋を騙り、こじつけて祖先を偽る者は数え切れないほどであった。しかも異なる姓を名乗って家を継ぐことが一時の風潮となり、律令の定める禁令もほとんど行われなくなった。人倫の秩序に逆らい、天性の道を絶つことになり、民の風俗が浅薄になり世の中が衰退していく原因は、みなここに由来するのであって、まことに嘆かわしいことである。そもそも人倫を明らかにして物事を考察し、根本に立ち返って同族を分類することは、王者の政治において重視すべきことである。古の姿に立ち返ろうと志す者は、これを措いて論じないわけにはいかない。現在伝わる『新撰姓氏録』は完全な形ではないものの、なお氏族の淵源を考証するには十分である。そこでこの書に依拠し、さまざまな文献を参照して、確認できるものを定め、要点をまとめて煩雑な部分を削り、建国の当初から明徳年間に至るまでを叙述して、この「氏族志」を作成する。

天祖(あまつみおや)は皇孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を立てて、葦原中国(あしはらのなかつくに)の主とされた。その際、天児屋命(あめのこやねのみこと)・天太玉命(あめのふとだまのみこと)・天鈿女命(あめのうずめのみこと)・天明玉命(あめのあかるたまのみこと)・石凝姥命(いしこりどめのみこと)に付き従わせて守護させ、これを五部神(いつとものおのかみ)と呼んだ。また天押日命(あめのおしひのみこと)・天津久米命(あまつくめのみこと)に軍兵を統率させ、軍備を整えさせた。かつて天の岩戸の変事の際、石凝姥は日の像を映す鏡を作り、天明玉は御統玉(みすまるのたま)を作り、天鈿女は舞楽をなし、天太玉は幣帛の品々を備え、天児屋は祈祷を捧げた。彼らはみな天祖を助け支えて天業を定めたのであり、この時に至ってもそれぞれが一族を率いてその職務を修めた。天児屋は中臣連(なかとみのむらじ)の祖となり、天太玉は忌部首(いんべのおびと)の祖、天鈿女は猿女君(さるめのきみ)の祖、天明玉は玉作連(たまつくりのむらじ)の祖、石凝姥は鏡作造(かがみつくりのみやつこ)の祖となった。また天押日の子孫は大伴連(おおとものむらじ)となり、天津久米の子孫は久米直(くめのあたい)となった。品部(しなべ)や官職・姓の起源は、ここに初めて見えるものである。(注:『日本書紀』『古事記』『古語拾遺』『新撰姓氏録』を参照した。)太祖(神武天皇)が天下を平定されると、功臣に大きく領地を封じ、初めて国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)の称号が置かれた。垂仁天皇の御代になるとさらに県造(あがたのみやつこ)が置かれ、この時に物部(もののべ)・石作部(いしつくりべ)には連(むらじ)の姓が、土師部(はじべ)には臣(おみ)の姓が、鳥取部(ととりべ)には造(みやつこ)の姓が賜られた。氏姓の制度はこれ以来定まったのである。(注:『日本書紀』『古事記』『先代旧事本紀』『新撰姓氏録』およびその序を参照した。県造については伊勢大神宮儀式帳・倭姫命世記による。)景行天皇の皇子たちで領地を授かった者は七十余人に上った。(注:『日本書紀』による。)このとき和気君(わけのきみ)(注:和気は別とも書く)・稲置(いなぎ)の称号も新たに設けられ、国造・県主と並び立った。(注:『古事記』による。)成務天皇はさらに国や県を分割し、国造を賜った者は増えて百四十余の氏族に達した。(注:『日本書紀』『先代旧事本紀』による。)品部については歴代の朝廷で非常に多く設置され、百八十部と称された。それぞれの部の長には造(みやつこ)の姓が命じられ、これを伴造(とものみやつこ)と呼んだ。それゆえ当時、朝廷内外の臣下を総称して臣・連・伴造・国造と呼んだのである。姓には尊卑があり、それによって身分の等級が定められた。臣姓は皇統の血筋から出た者、連姓は神々の子孫から出た者で、そのうち最も尊い家柄の者が国政を任されて大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)と呼ばれたことは、「職官志」に詳しい。おおよそ大小さまざまな氏族は、それぞれの一族で互いに結びつき、部曲(かきべ)を分けて統率し、代々姓と氏族の序列を受け継いで朝廷に仕えた。もし部の長に罪があれば、その姓を落とされたり部曲を奪われたりして、功績のあった者に与えられることもあった。この氏を命じ姓を賜るという仕組みは、いわば後世の官職制度に相当するものであった。(注:『日本書紀』『古事記』『先代旧事本紀』『新撰姓氏録』のおおよその内容を参照した。)

允恭(いんぎょう)天皇の御代になると、氏族が次第に増え、諸氏族の中にはしばしば身分を偽る者が現れ、天皇はこれを憂えられた。四年、次のように詔があった。「上古の政治では、人民はそれぞれ相応の地位を得ており、氏族に誤りはなかった。しかし近頃は諸氏族の人々の中に、誤って自分の姓を失う者や、故意に高貴な氏族を名乗る者がいる。このため上下が互いに争い、人民は安んじていない。朕は不明の身ではあるが、どうしてこの誤りを正さずにいられようか。公卿たちはよく議論して定め、奏上せよ。」群臣はみな次のように答えた。「陛下は誤りと不正を正し、氏姓を明らかにして善政を求められています。臣下たる私どもがどうして励まないことがありましょうか。」さらに次のような詔があった。「公卿百官や諸国の国造たちはみな、『われらは帝皇の血筋、天より降った神々の子孫である』と言う。しかし天地人の三才が分かれてから多くの年月を経ており、一つの氏族が繁栄して枝分かれし、いくつもの姓に分かれてしまったため、その真偽を見極めるのは難しい。諸氏族の人々は、身を清めて沐浴し、盟神探湯(くかたち)を行うがよい。」そこで味橿丘(うまかしのおか)に探湯瓮(くかべ)を設け、「真実を述べる者は無事であり、偽りを述べる者は必ず害を受けるであろう」と告げた。人々はそれぞれ瓮に近づいて熱湯に手を入れ、あるいは無事であり、あるいは火傷を負い、果たして告げられた通りとなった。偽っていた者は驚き恐れて進もうとせず、こうして氏姓は自然と定まり、争いもようやく収まった。(注:『日本書紀』による。)これより先、垂仁天皇は皇子の伊登志和気王(いとしわけのみこ)に子がなかったため、伊都部(いとべ)を置いて子代(こしろ)とされた。(注:『古事記』による。○伊登志は『日本書紀』では膽武と書かれ、読みが近い。また伊都部は伊登志部の誤りかもしれない。『日本書紀』には膽年部とあり、これがそれであろう。)景行天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の功績を記念して武部(たけるべ)を定めた。(注:『日本書紀』による。)仁徳天皇は八田皇后(やたのきさき)に皇子がなかったため矢田部(やたべ)を置いた。(注:『先代旧事本紀』による。)多遅比瑞歯別皇子(たじひのみずはわけのみこ)のためには丹治比部(たじひべ)を置いて御名代(みなしろ)とされた。(注:『古事記』による。)允恭天皇もまた忍坂大中姫皇后(おしさかのおおなかつひめのきさき)のために刑部(おさかべ)を、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)のために軽部(かるべ)を定められた。これ以降、代々にわたって子代・御名代が多く置かれるようになった。天皇の事績を記念する部の民については、雄略・仁賢の両天皇の場合は宮の名にちなんで長谷部(はつせべ)・石上部(いそのかみべ)を定め、清寧・武烈の両天皇は皇嗣がなかったため御名にちなんで白髪部(しらかべ)・小泊瀬部(おはつせべ)を定めた。安閑天皇は三人の妃のために小墾田(おはりだ)・桜井(さくらい)などの屯倉(みやけ)や田部(たべ)を置かれた。(注:『日本書紀』による。)その他は各天皇の本紀に見える通りである。これらの諸部は、多くは高貴な名族を伴造(とものみやつこ)としたが、これは当時の風習として、自分の名を後世に伝えることを名誉としたためである。そのため伴造はその部の名をそのまま自分の氏とし、さらにその部の民を分けて国や県に居住させ、その土地にも部の名を付けた。こうして土地や部の民は、やがて伴造の私有物となっていったのである。(注:『日本書紀』『先代旧事本紀』のおおよその内容を参照した。)このように長い年月を経る中で、旧来の名族大姓は、盛衰の差こそあれ、おおむね代々官職と俸禄を世襲し、先祖の家業を失うことがなかった。推古天皇十一年に至って、初めて冠位十二階が定められた。(注:『日本書紀』による。)しかしこれは特に身分の尊卑を区別するために設けられたものであり、位階を昇進させる制度があったわけではない。ただしこれ以後、官と姓とは次第に分かれるようになり、氏姓を賜る際にも官制によらない場合が出てきた。(注:『日本書紀』『新撰姓氏録』のおおよその内容を参照した。)二十八年、皇太子の厩戸皇子(うまやどのみこ)は大臣の蘇我馬子(そがのうまこ)と協議し、『天皇記』『国記』、および臣・連・伴造・国造・百八十部の公民らの本記を編纂した。蘇我氏が滅びた際、この書は災いに遭って失われた。孝徳天皇の大化元年、次のような詔があった。「およそ人民に訴え憂えることがある場合は、その伴造や尊長がまず取り調べを行い、その後に奏上せよ。もし伴造らが訴えの内容を審査しない場合は、その罪に問う。」また次のような詔があった。「歴代の天皇が定めた標代(しるしろ)の民は、後世にその名を伝えるものである。しかしその臣・連・伴造らは、それぞれ私的に民を抱え、思うままに使役している。あるいは土地を奪い財を貪り、争いが絶えず、大いに民の害となっている。このような行為は、今後一切禁止する。」二年には次のような詔があった。「歴代の天皇が置かれた子代の民、および各地の屯倉、別(わけ)・臣・連・伴造・国造・村首(むらのおびと)が領有する部曲(かきべ)の民を廃止する。」(注:別とはすなわち和気のことである。)続いて次のような詔があった。「臣・連・伴造・国造はそれぞれの品部を分けて御名代部としてきた。さらにその部の民を諸国県に雑居させたため、父子で姓が異なり、兄弟で氏族が違い、夫婦でさえ互いに呼び名を異にするということが起きている。一家が分裂し、争訟が絶えず起こり、国家はこのために治まらないでいる。今後は品部を廃止し、すべて公民とせよ。ただし朕の真意を理解しない者は、あるいは王の名を借りて伴造となったり、祖先の名を受け継いで臣・連となったりした者について、その名がこれによって消えてしまうと思うかもしれない。しかし帝王の称号は日月とともに永く伝わり、祖宗の名は天地とともに長く存続するものである。しかも王の名を土地に付けてみだりに呼び称することは、道理として慎むべきである。朕は今ここに汝らに告げる。すべての臣・連・伴造の人々は、その祖先の代から朝廷に仕えてきた者であるから、今後は旧来の職をすべて改め、新たに官位を授けることとする。」これ以来、官と姓とははっきりと分かれ、二つのものとなったのである。三年には次のような詔があった。「臣・連・伴造・国造の中には、神の名や王の名を氏姓としている者がいる。国中の民が、それぞれの立場に固執し、互いに譲らないため、人心がまとまらない。中でも力の弱い者は、自分の姓の名を軽々しく他人に与え、名目だけのものにしてしまっている。そのため他人の奴婢が清らかな名を汚すという事態も起きている。今後はこの弊害を改めよ。」(注:『日本書紀』による。)『国記』が火災で失われて以来、諸氏族はその由来の根拠を失う者もあり、狡猾な者たちはますます偽りを重ねるようになった。そうしたところ船史恵尺(ふねのふひとえさか)が焼け残った書物を手に入れて献上した。天智天皇の即位三年、「その書物に基づいて戸籍を作成せよ」との詔が出され、人民の氏姓はそれぞれ適正に定められた。(注:『新撰姓氏録』序、『日本書紀』による。)これを庚午年籍(こうごのねんじゃく)と呼び、代々受け継がれて基準とされた。(注:『令義解』による。)これは氏姓の根本として、人民の不正を防ぐためのものであった。(注:『続日本紀』による。)これより先、甲子の年に、諸氏族の氏上(うじのかみ)を定める勅命が下された。大氏の氏上には大刀が、小氏の氏上には小刀が、伴造らの氏上には盾や弓矢が賜られた。

天武天皇が即位すると、「氏族の身分が明らかでない者は、たとえ才能や実績があっても官吏登用の選考の対象としない」との勅が出された。また「諸氏族の中で氏上がまだ定まっていない者は、速やかに定めて太政官に申し出よ。また一族の人数が特に多い場合は、それぞれ分けて氏上を定めて申し出て、朝廷の裁定を仰げ」との詔もあった。十二年に至り、次のような詔が出された。「新たに八等の姓(やくさのかばね)を制定し、諸氏族に授ける。一に真人(まひと)、二に朝臣(あそみ)、三に宿禰(すくね)、四に忌寸(いみき)(注:あるいは伊美吉とも書く)、五に道師(みちのし)(注:思うに薬師・画師の類であろう)、六に臣(おみ)、七に連(むらじ)、八に稲置(いなぎ)である。」(注:『日本書紀』による。)真人は皇別の中でも最上位の氏とされ(注:『新撰姓氏録』序による)、朝臣を賜る者には大刀が、宿禰には小刀が命じられた。忌寸は秦氏・漢氏など渡来系の氏族に賜られた。(注:『古語拾遺』による。○『日本書紀』によれば、この時諸氏族はみな新しい姓を賜ったが、その後もなお旧姓のままの氏族がいた。つまり当時賜られたのは氏上、あるいは京に本籍を置く一族に限られたのであろう。しかしその詳細は今では明らかにできない。)天皇は当初、この八色の姓によって天下の氏族の姓をすべて改めようとされたが、行き届かない部分もあり、諸氏族にはなお君(注:廃帝元年に公と改められた)・首(おびと)・造(みやつこ)・県主・直(あたい)・村主(すぐり)・史(ふひと)・王(こにきし)(注:王はこにきしと読む。百済王・高麗王などがこれに当たる。皇族で王氏と称する者とは別のものである)・勝(すぐり)・祝(はふり)・伎(わざ)・使主(おみ)・我孫(あびこ)・吉志(きし)などの姓が残った。(注:『日本書紀』『続日本紀』『新撰姓氏録』による。)またその尊卑の序列は、おおむねその年の功労によって決められ、天から降ったという本来の功績にまで遡って考慮されなかったため、神々の子孫である旧族の中にも上位に列せられなかった者があった。(注:『古語拾遺』による。)ただこの法制がひとたび大きく定まると、貴賤の区別は明確になった。これ以後、臣下や人民で功労のあった者はその姓を昇格させて一族の名誉とし、罪のあった者は姓を落とされたり奪われたりした。同じ氏でありながら姓が異なる者もあり、同じ一族でありながら姓を持たない者もいた。姓を持たない者は雑戸(ざっこ)・賤隷とされ、雑戸で姓を賜った者は公民とされた。さらに氏上(注:氏長ともいう)・氏助・戸主などの制度が設けられ、一族を統制した。血縁関係の疑わしい者については、官に申し出て戸籍から除かれた。(注:『日本書紀』以下の正史のおおよその内容を斟酌した。)天下の諸氏族に対しては、一代ごとにそれぞれの家系を記した本系帳を提出させ、朝廷に保管させた。(注:『日本紀弘仁私記』序による。)こうして天下の氏族は、長きにわたって乱れることがなかったのである。持統天皇五年、「大三輪(おおみわ)・雀部(さざきべ)・石上(いそのかみ)・膳部(かしわでべ)・春日(かすが)・下毛野(しもつけの)・大伴(おおとも)・紀(き)・阿部(あべ)・穂積(ほづみ)・阿曇(あずみ)ら十八の氏族は、それぞれの祖先の系譜をまとめて提出せよ」との勅が出された。(注:『日本書紀』による。)

そもそも上古以来、諸々の名族はそれぞれ祠を建てて祖先の神を祀り、これを氏神(うじがみ)と呼び、一族を合わせて氏人(うじびと)と称した。祖先を敬う気持ちは実に篤いものであった。やがて仏教が興ると、さらに祖先のために寺塔を営むようになり、これを氏寺(うじでら)と呼んだ。ここに古くからの風習も変化し始めたのである。(注:『先代旧事本紀』『新撰姓氏録』『続日本後紀』『日本三代実録』『天台座主記』『興福寺縁起』を参照した。)文武天皇の大宝律令の制定により治部省が置かれ、氏姓の本源・継嗣・婚姻などの事務を掌ることとなった。その下部組織である大解部・少解部は、系譜に関する争訟の取り調べを行い、氏族の序列を定めた。おおよそ諸氏族で子のない者は、四等親以内で昭穆(しょうぼく、祖先の世代の順序)に合う者を養子とすることが許された。民部省は天下の戸籍と人名の記録を管掌し、戸籍は常に五回分をさかのぼって保管し、それより古いものは順次廃棄されたが、庚午年籍だけは廃棄されなかった。(注:『令義解』による。)奴婢で自ら訴えて良民になった者は元の姓に戻ることができ、解放されて良民となった者については、その都度対応が定められた。(注:『令集解』による。)二年には諸国造の姓を定める勅が出された。また「甲子の年以後に諸氏族が姓を賜りながら、まだ氏上が定まっていない場合は、忌寸以上の者はすべて朝廷に申し出よ」との勅もあった。(注:『続日本紀』による。)元明天皇の和銅七年、若帯日子(わかたらしひこ)という姓が成務天皇の諱(いみな)に触れることから、国造の姓を改めさせた。聖武天皇の天平十七年には、筑前・豊前・肥前・日向など七か国で姓を持たない人々のうち、姓を賜ることを望む者にはすべてこれを許した。孝謙天皇の天平宝字元年、「近頃、人民は礼を知らず、その姓名が天皇や皇后の御名に触れる者がいる。今後はこのようなことがあってはならない。担当の役人がこれを正さない場合は法に照らして処罰する」との勅が出された。(注:「頃者」以下は『政事要略』による。)また「天下の人々は内大臣・太政大臣の名を避けよ」との命令が出され、これにより諸氏族の首(おびと)・史(ふひと)という二つの姓は、みな毗登(ひと)に改められるか、あるいは別の姓を賜ることとなった。(注:毗登はまた人とも書く。おおよそ諸氏族で人という姓を持つ者は、もとはみな首・史の二姓であったが、聖武天皇や藤原不比等(ふじわらのふひと)の諱を避けたのである。『皇胤紹運録』『皇年代略記』『如是院年代記』などの書によれば、聖武天皇の諱は「首」であったとされ、この説は『政事要略』と一致する。『日本書紀』の考証ではこの点に触れていないため、ここに書き加えておく。以上の諸書によれば、天皇の諱が「首」であったことは疑いない。)続いて「高麗・百済・新羅からの渡来人で帰化してから久しく、姓を賜ることを望む者があれば、すべて許可せよ。また戸籍に姓の記載がなく『族』の字だけが記されている者については、道理上穏当でないので改正せよ」との勅が出された。(注:古い書物にはしばしば「某世族某」と記されている例があり、思うにこれは分家の者でまだ姓を賜っていないため、本籍に付記して『族』の字を注記したのであろう。参考までに付け加えておく。)天皇が重祚(ちょうそ)された後の神護景雲二年、「真人・朝臣を名前に用いることを禁ずる」との勅が出された。光仁天皇が即位すると、「史・首を毗登に改めたが、彼と此とが区別しにくく、氏族が混乱して不都合であるので、改めて元の字に戻すように」との勅が出された。(注:『続日本紀』による。)

桓武天皇の延暦四年、「諸氏族で先帝の御諱や御名に触れる者は、すべて改めるように」との制が定められた。これ以後、歴代の朝廷はみなこの制を踏襲し、さらに外戚や大臣の姓名も避けるよう命じられた。(注:『続日本紀』『続日本後紀』による。)十一年には「近頃、京職(きょうしき)がみだりに王の姓を改めて戸籍に記載している。よく検討すると道理に合わない。今後はまずその姓を届け出て、太政官の許可を得て改めるように」との勅が出された。(注:『類聚三代格』による。)十八年、これより先、孝謙天皇の時代から渡来系の氏族が姓を賜ることを許し、申請すればそのまま許可していたため、異なる出自でありながら同じ姓を名乗る者が次々に現れ、系譜の出所が不明瞭となり、身分の低い氏族がみだりに高貴な血筋にすがろうとする事態が生じた。廃帝(淳仁天皇)の時代になるとその争いはますます激しくなった。そこで儒者たちを集めて氏族志を編纂させる詔が出されたが、折しも国難に見舞われ、中断されて完成しなかった。(注:『新撰姓氏録』序による。)この延暦十八年に至り、次のような詔が出された。「天下の臣民の氏族はすでに数多く分かれ、あるものは同じ源から異なる流れに分かれ、あるものは異なる宗族でありながら同じ姓を名乗っている。系譜は改変されて、本家と分家の区別もつかなくなっている。天下に布告し、それぞれ本系帳を提出させよ。漢族・韓族など渡来系の諸氏族もすべて同じ扱いとする。ただし始祖と別祖のみを記載し、分家の継嗣についてはこれを列挙しない。もしその出自が高貴な氏族である場合は、その宗族の中の年長者を立てて署名の上で奏上させよ。おおよそ諸氏族の申告には偽りや誇張が多いので、実態を正確に記すよう努め、偽りを申告することを許さない。」これより『新撰姓氏録』の編纂が始まり、勘系所(かんけいじょ)が設けられ、勘本系使(かんほんけいし)が置かれてその事務を担当した。(注:『日本後紀』による。)やがて氏族の目録が編纂された。しかし担当者は真偽を見分けることができず、勝手な考えで申告を通し、その上神々の子孫を上位とし皇統の子孫を下位とするなど、尊卑の順序が乱れて信頼できるものではなくなり、見識のある人々はこれを憂えた。(注:『日本紀弘仁私記』序による。)平城天皇の大同四年、「民間に伝わる『倭漢総歴帝譜図』は、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)を始祖とし、魯王・呉王・高麗王・漢の高祖などを、その後に連ねて記している。これは倭と漢とを混同するものであり、あえて皇統の系譜を汚すものである。無知な民はこれに気づかず、事実の記録だと思い込んでいる。諸役所が所持しているものは、すべて朝廷に提出せよ。もし命令に背く者があれば、重い罪に処す」との勅が出された。(注:『日本後紀』による。)当時、氏族の記録としてはほかに『諸民雑姓記』『諸蕃雑姓記』などの書物もあったが、おおむね採録が精確でなく誤りが多く、いずれも見識のある人々には採用されなかったという。(注:『日本紀弘仁私記』序による。)嵯峨天皇が即位すると、中務卿の万多親王(まんだしんのう)、右大臣の藤原朝臣園人(ふじわらのあそみそのひと)、参議の藤原朝臣緒嗣(ふじわらのあそみおつぐ)、陰陽頭の阿倍朝臣真勝(あべのあそみまかつ)らに詔して『新撰姓氏録』を完成させるよう命じた。万多親王らは古い記録や史書を広く探索し、系譜を詳しく検討し、煩雑な部分を削り誤りを正して、十年にわたり精力を尽くした。神武天皇の代から弘仁年間に至るまでを扱い、千百八十二の氏族を選定し、三つの区分に分けた。天皇の血筋を受け継ぐものを「皇別」、神々の子孫であるものを「神別」、漢・韓など渡来系の氏族を「蕃別」と呼んだ。系譜が明らかでないものは「未定雑姓」として末尾に付した。全体で三十巻にまとめられた。畿外の諸国については本系帳が提出されなかったため、記載されずに欠けている。弘仁六年、この書は完成して奏上された。氏族の起源は、ここに至って初めて明らかにされたのである。(注:『新撰姓氏録』序による。)これより先、舎人親王(とねりしんのう)は『日本書紀』を奏上した際、帝王系図一巻を添えたが、その書は今は失われている。その後の系譜の書物には『王子枝別記』『神別記』『神別雑氏記』『氏族略記』などがあった。(注:『釈日本紀』『本朝書籍目録』による。)しかし今ではいずれも散逸し、確かめることができない。万多親王らの編纂に至っては、諸説を広く集め、根拠のない俗説を取り除き、公平に判断して取捨選択したのであり、これは人倫の要であり国家の規範であると称された。(注:『新撰姓氏録』序による。)これ以後、歴代の朝廷が姓を賜り氏を定める際には、必ずこの書に照らして考証するようになり、偽りを申告し身分を騙る者があっても、この書によって正すことができた。当時はまた戸籍の制度も重視され、本籍を移す場合には太政官符によらなければ勝手に移すことができなかった。人々の本籍地や氏族については、すべて台帳が作られて朝廷に保管された。こうして天下の諸氏族は、姓を賜っていない者がなく、人民の間に不正が生じることもなかったのである。(注:『続日本後紀』『日本三代実録』のおおよその内容を参照した。)

淳和天皇の天長元年、式部省が次のように奏上した。「諸国の郡司が系譜の台帳を提出するのに、数十年を経る場合もあれば、五、六年ごとの場合もあります。世代の間隔が短いと子孫が記載漏れを心配し、改訂が頻繁だと役所は照合の手間に苦労します。どうか諸国に命じて、一紀(十二年)ごとに提出させ、内容の正確さを保って偽りが生じないようにしていただきたく存じます。」この奏上は聞き入れられた。(注:『類聚三代格』による。)仁明天皇の承和十三年、勘王世(かんおうせ、王氏の系譜を調べる役)が次のように言上した。「王族で諸国に分かれて居住している者は、なかなか人々に認識されておりません。取り調べに際しては、巧みに家系を語る者が本物とされ、そうでない者は偽りとされてしまいます。証人もなく、ただ文書のみに頼っているのが実情です。恐れながら、不正な輩が皇統の枝葉に紛れ込み、逆に愚かな者が皇統の血筋であることを見過ごされてしまう恐れがあります。どうか担当の役所に命じて、このような事例があれば速やかに申し出させ、さらに調査を加えて真偽を明らかにしていただきたく存じます。」この奏上も聞き入れられた。(注:『続日本後紀』による。)これより先、四世以上離れた諸王で姓を賜る者はごくわずかであった。(注:『皇胤紹運録』による。)桓武天皇の代に至って、皇子で母の身分が低い者に初めて姓を賜って臣下の列に加えるようになった。(注:『新撰姓氏録』『皇胤紹運録』による。)嵯峨天皇はさらに親王とならない諸皇子に源朝臣(みなもとのあそみ)の姓を賜り、みな六位で出仕させた。(注:『類聚国史』による。)才能に応じて登用することで、封戸の費用を節約したのである。(注:『神皇正統記』による。)当時、明日香親王(あすかしんのう)が「親王の号を除き、他の臣下と同列にしていただきたい」と奏請したが、これは許されなかった。さらに「子どもたちに姓を賜りたい」と請うたところ、これは許可された。これは王族が次第に増え、費用が賄いきれなくなったためであろう。(注:『続日本後紀』による。)これ以降、諸王の子孫は争ってこれにならい、姓を賜ることを願う者がますます増えた。(注:『続日本後紀』による。)淳和天皇は王孫の高棟(たかむね)に平朝臣(たいらのあそみ)の姓を賜った。(注:『桓武平氏系図』『皇胤紹運録』による。)平氏の始まりはこれである。仁明天皇はさらに嵯峨天皇の弘仁の制にならい、諸皇子に源朝臣の姓を賜り、皇子に源氏を賜ることがついに慣例となった。(注:『続日本後紀』『神皇正統記』『皇胤紹運録』による。)清和天皇の時代に至り、国家財政の窮乏のため、従四位上の豊前王(とよさきのおう)らが「諸王への俸禄を停止し、財政窮乏を救う対策とすべきです」と上申した。公卿たちはこれを受けて審議し、諸王の季禄(きろく)を減額し、俸禄を支給する法を新たに定めた。当時俸禄を受けていた四百二十九人を定員とし、欠員が出た場合にこれを補うこととした。姓を賜ることを願い出た者は、この定員には含まれないこととした。ますます外戚の勢力が盛んになったため、皇族への待遇はそれだけ疎かになっていったのである。(注:『日本三代実録』による。)白河天皇以後、皇子の多くが出家して僧となり、皇族は次第に減少し、姓を賜る制度も廃れていったという。(注:『中右記』による。)

そもそも大化の改新以来、官職と姓の世襲制度は改められ、大宝律令が定められるに及んで旧来の仕組みは次第に廃れていった。ただ中臣朝臣(なかとみのあそみ)・忌部宿禰(いんべのすくね)が神祇を掌り、大伴宿禰(おおとものすくね)・佐伯宿禰(さえきのすくね)が衛門(えもん)を掌り、高橋朝臣(たかはしのあそみ)・阿曇宿禰(あずみのすくね)が内膳(ないぜん)を掌り、采女朝臣(うねめのあそみ)が采女を掌り、水取連(もいとりのむらじ)が主水(もんど)を掌るなど、なお旧来の職務を保っている氏族もあった。(注:『日本書紀』『古事記』『令義解』『新撰姓氏録』『続日本紀』『延喜式』のおおよその内容を参照した。)その他の旧族、例えば猿女(さるめ)・鏡作(かがみつくり)・盾作(たてつくり)・神服(かんはとり)・麻績(おみ)など、神々の子孫で神祇官に属していた氏族は、その後官吏登用の選考の対象から外れることとなった。平城天皇の時代に至ると、これらの氏族はほとんど衰亡し尽くしてしまった。(注:『古語拾遺』による。)物部氏と刑部(おさかべ)、土師部(はじべ)と治部(じぶ)、我孫江人(あびこのえひと)と大膳(だいぜん)、馬飼造(うまかいのみやつこ)と左右馬寮(さゆうめりょう)、酒部(さかべ)と造酒司(みきのつかさ)、爪工部(つめたくみべ)と造兵司(ぞうひょうし)といった関係のように、代々特定の官職に隷属する氏族は品部伴造(しなべのとものみやつこ)と呼ばれたり、あるいは名員人(なつかさびと)と称されたりしたが、そのうち一族の者が散り散りになって絶えてしまい、最終的には他姓の人間を紛れ込ませて補うようになった場合もあった。(注:『令集解』『文徳実録』による。)天長・承和年間以降になると、家の継嗣の法についても、しばしば律令の規定によらず、異なる姓の者を養子として跡継ぎとすることが行われるようになった。(注:『朝野群載』『清原系図』『大江系図』『高階系図』による。)藤原氏が代々摂政・関白・大臣の地位を独占するようになってからは、朝廷は系譜や家柄を何よりも重んじ、姓の高下によって身分の序列を定めるようになった。公卿以下の役人に至るまで、おおむね世襲の家柄が定まり、官吏登用の選考は必ずその家の先例に基づいて行われるようになったため、他の姓の者がその地位に新たに就くことはできなくなった。(注:『公卿補任』『職原抄』『諸家系図纂』による。)これより先、皇族が姓を賜る場合は必ず朝臣を賜っていた。そのため朝臣はついに最も高い姓となり、真人がこれに次いだ。例えば狛氏(こまうじ)のような氏族は、低い姓とされた。(注:『皇胤紹運録』『拾芥抄』による。狛氏以下は『江家次第』による。)諸氏族の分家の者で官に任ぜられた者の中には、自分の低い姓を嫌って本宗の高い姓に改めることを願い出る者が非常に多かった。延喜年間に、これを禁ずる勅が出されたことがある。ただし外記(げき)・史(し)・博士・主計(かずえ)・主税助(ちからのすけ)・近衛将監(このえのしょうげん)に任ぜられた者だけは、特別に改姓して高貴な氏族に列することが許された。(注:『類聚符宣抄』による。)おおよそ朝廷の官人で、源・平・藤原・菅原・大中臣(おおなかとみ)・高階(たかしな)・在原(ありわら)・宮道(みやじ)などの諸氏族、および真人・宿禰・連・公(きみ)・県主・忌寸・首などの諸姓の者は、必ず内階(ないかい)に叙せられた。また「朝外」「異内」という呼び方もあった。車持(くるまもち)氏などのように、朝臣でありながら外階に叙せられる場合を「朝外」と呼び、朝臣でないにもかかわらず内階に叙せられる清原真人(きよはらのまひと)のような場合を「異内」と呼んだ。(注:『江家次第』による。)しかし外戚としての権勢の尊さゆえに、藤原氏の一族は極めて盛んになった。(注:『栄花物語』『藤原系図』による。)橘氏は早くに衰えたものの、その支流はなお諸国に広く栄えた。(注:『扶桑略記』『東鑑』『承久記』『作者部類』『吉野勝光院文書』『太平記』『梶川系図』による。)源氏・平氏の二氏は征討の権限を得て、それぞれの宗家を興隆させた。(注:『今昔物語』『陸奥話記』『中右記』『保元物語』『東鑑』『源平盛衰記』『諸家系図纂』による。)このため藤原・橘・源・平の四氏はともに大きな氏族となり、後世これを「四姓」と呼んだが(注:『下学集』『運歩色葉集』『薩戒記』による)、他の氏族はこれに及ぶものがなかった。氏上(うじのかみ)の制度については、後にはこれを新たに置く例はなくなった。ただ源・橘・藤原・菅原の諸氏だけは、なお氏長者(うじのちょうじゃ)を補任し、一族の叙爵や奏請の事務を掌らせた。源氏は㢡学院別当(かんがくいんべっとう)に任ぜられた者が氏長者を兼ねることとし、橘氏は学館院別当(がっかんいんべっとう)が「是定(これさだ)」としてこれを兼ねた。藤原氏に至っては、摂政・関白となる者は宣旨を待たずとも必ず氏長者の印を得ることとなった。(注:『西宮記』『朝野群載』『外記日記』『山槐記』による。)橘氏が衰えると、その是定の役目もまた藤原氏のものとなった。(注:『玉海』『職原抄』による。)これより先、延暦年間に、僧侶が生ませた子が父の蔭位(おんい)を借りて出仕することが禁じられた。(注:『類聚三代格』による。)しかしその後も僧の子でありながら他の姓を騙って出仕する者があった。(注:『宇都宮系図』による。)官職の世襲制が定まって以降、一般の民の子弟で朝廷に出仕しようとする者は、必ず世襲の家に養われ、その姓を借り蔭位を利用して初めて出仕することができるようになった。これ以降、他の姓を騙る者が非常に多くなり、身分の高下を問わずこれが当たり前の習慣となって、氏族の秩序は次第に乱れていった。(注:『外記日記』『中原系図』『藤原系図』『高階系図』『磯部信貞訴状』による。)やがて朝廷の政治が緩んでくると、国司や郡司たちは私的に田や宅地を占有し、子弟に土地を分け与えて根を張らせた。強大な宗族や豪族は郡や郷にわだかまり根を張り、それぞれ居住地にちなんだ家号を名乗るようになった。武家の家名や氏の乱立は、これに始まるのである。しかし当時の武人はなお家柄を重んじ、家に系図を保存し、それぞれの家は必ず本来の氏を明記してその一族を区別した。また嫡流を「総領」と呼び、これに宗族を統率させた。これは古の氏上・戸主の制度が形を変えて残ったものである。そのため分家は数多く枝分かれしたものの、嫡流と庶流、本家と分家の区別はかなり正しく保たれた。氏族の制度は、この点においてなお存続していたのである。(注:『源平盛衰記』『太平記』『東鑑』『尊卑分脈』のおおよその内容を斟酌した。)

建武年間の争乱以後、世は乱れに乱れ、公家は四方に落ちぶれ散り、武人の盛衰も定まらず、系譜の書物はこのために多く失われた。それに加えて、困窮した武人の中には自分の家系図を売る者もあり、悪辣な民がこれを買い取って、そのまま氏を騙り、武人を名乗る例もあった。こうして氏族の秩序はますます乱れることとなった。(注:『太平記』『保暦間記』『鎌倉大草紙』『諸家系図纂』『文正記』による。)後小松天皇の時代、左大臣の藤原公定(ふじわらのきんさだ)は系譜学に精通し、『皇胤紹運録』および『尊卑分脈図』数巻を著した。いわゆる「四姓」については採録が非常に広く、後世に系譜を論じる者は必ずこれを参照するようになった。しかし古い氏姓や旧族については、ついに詳しく明らかにすることができなかった。それゆえ、古代の皇別・神別・蕃別の三別や八色の姓の子孫については、多くが今では確かめることができないという。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』のおおよその内容を斟酌した。)

皇別

多氏(おおうじ)・志紀氏(しきうじ)・丹羽氏(にわうじ)・雀部氏(さざきべうじ)・紺口氏(こんくうじ)・園部氏(そのべうじ)・三家氏(みやけうじ)・小長谷氏(おはつせうじ)・都祁氏(つげうじ)・船木氏(ふなきうじ)・長狭国造(ながさのくにのみやつこ)・石城国造(いわきのくにのみやつこ)・阿蘇氏(あそうじ)・火氏(ひうじ)・大分氏(おおきだうじ)・嶋田氏(しまだうじ)・小子部氏(ちいさこべうじ)・県氏(あがたうじ)・科野国造(しなののくにのみやつこ)・印波国造(いなばのくにのみやつこ)・伊余国造(いよのくにのみやつこ)・仲国造(なかのくにのみやつこ)は、いずれも神武天皇の皇子である神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫である。

多氏(おおうじ)。(注:多は諸書によっては太とも書き、また意富・意保・於保とも書く。音と訓とはいずれも通じる。ここではすべて原典の表記のまま挙げ、参照の便宜を図る。音訓の通じるものは、以下すべてこれに倣う。)朝臣の姓を持つ者、宿禰の姓を持つ者、臣の姓を持つ者がある。朝臣は左京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。宿禰は『日本三代実録』、臣は『日本書紀』による。○氏はうぢ(宇遅)と読み、姓はかばね(加婆禰)と読む。上古においていう「うぢ」とは、おおよそ職名であって、家が代々受け継いで称号としたものである。「かばね」とは、すなわち尊卑を区別するためのものである。「うぢ」「かばね」は、古い史書では「氏」「姓」の二字をこれに当てている。しかし当時は多くの場合「うぢ」と「かばね」とを併せて単に「氏」と称しており、氏と姓とに大きな区別はなかった。また「かばね」という語は、「姓」という字の本来の意味とはやや異なる。それゆえ古い書物では尸・骨などの字を用いることもあるが、意味は通じにくい。ただ『日本書紀』では諸氏族が真人・朝臣などを賜る際、必ず「賜姓」と書いている。『古語拾遺』では中臣・斎部などを「氏」とし、朝臣・宿禰などを「姓」としており、この書き分けが最も分かりやすいので、ここではこれに従う。古い史書で「氏骨」や「氏姓」と併記しているものについては、いずれも原文のままとする。また後世になると、公家たちはみな家号を持って一族を区別するようになり、諸国の武士もこれにならった。それぞれ居住地にちなんで称号とし、これを世に「名字」と呼んだ。子孫が代々これを受け継いで名称としたので、実質的には「氏」と変わらなくなり、世間ではついにこれを「氏族」と呼ぶようになった。それゆえここでも適宜この呼称を用いることとする。ただし古代の氏姓は必ず天子から授かるものであったのに対し、いわゆる「名字」はすべて私的に名乗ったものであり、古代の氏と混同してはならない。読者はこの点を区別されたい。)景行天皇の時代、多臣(おおのおみ)の祖である武諸木(たけもろき)は西方への遠征に従って功績を挙げた。天智天皇の時代には多臣蒋敷(おおのおみこもしき)がおり、その妹は百済の王子・豊璋(ほうしょう)に嫁いだ。壬申の乱では、美濃国安八磨郡(あはちまのこおり)の湯沐令(ゆのうながし)であった多臣品治(おおのおみほんじ)が天武天皇に従って功績を挙げた。十二年、多臣は朝臣を賜った。(注:『日本書紀』による。)元正天皇の時代、従四位下の太朝臣安万侶(おおのあそみやすまろ)が氏長(うじのかみ)となった。これがすなわち『古事記』を編纂した人物である。(注:『続日本紀』『古事記』序による。)平城天皇の時代には太朝臣入鹿(おおのあそみいるか)がおり、山陽道観察使を務めた。(注:『日本後紀』による。官職は『公卿補任』による。)仁明天皇の時代、右京の人である内蔵大属(くらのだいさかん)の百済連清継(くだらのむらじきよつぐ)が、誤って他の姓を名乗っていたとして、本姓の多氏に戻すことを願い出た。勅により多朝臣を賜った。(注:『続日本後紀』による。)清和天皇の時代、右京の人である外従五位下の多臣自然麻呂(おおのおみじねんまろ)は宿禰を賜り、信濃国諏方郡(すわのこおり)の人で右近衛将監の金刺舎人貞長(かなさしのとねりさだなが)は太朝臣に改め賜った。(注:『日本三代実録』による。)後一条天皇の時代には陸奥権少掾(むつごんのしょうじょう)の於保宿禰公親(おおのすくねきみちか)がいた。(注:『除目大成抄』による。)自然麻呂は入鹿の四世の孫であり、その子孫は代々雅楽の演奏を家業とする伶官(れいかん)となり、朝臣を改め賜った。(注:『多氏系図』『楽人補任』による。○入鹿はもと多朝臣であったが、その子孫が宿禰となり、さらに朝臣を賜ったというのは、事情がはっきりしない。)堀河天皇の時代には多資忠(おおのすけただ)がおり、天皇はこれを師として雅楽の曲を伝授された。資忠の子の近方(ちかかた)、孫の好方(よしかた)はともに名手として知られた。(注:『源平盛衰記』『東鑑』による。○『常陸国風土記』には大臣(おおおみ)の一族である黒坂命(くろさかのみこと)が蝦夷を討って功績を挙げたとある。また『出雲国風土記』には大臣を名乗り本国出雲郡の少領を務めた者がいるとされるが、いずれも年代は明らかでない。そこでここに付け加えておく。)

志紀氏(しきうじ)。(注:『日本書紀』には磯城県主(しきのあがたぬし)とある。『先代旧事本紀』では磯城を志貴と書き、いずれも志紀と音訓が通じる。ただしこの二書がいう大和の地名は、ここでいうものとは異なる。)宿禰の姓、首(おびと)の姓を持つ者がある。首姓は右京および河内に本籍を置いた。県主の姓を持つ者は河内・和泉に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。宿禰は『日本三代実録』による。)仁明天皇の時代、志紀宿禰永成(しきのすくねながなり)がおり、伯耆介(ほうきのすけ)を務めた。同じ頃、河内国志紀郡の人である志紀松取(しきのまつとり)がいたが、これもおそらく同族であろう。(注:『続日本後紀』による。)清和天皇の時代、志紀郡の人である木工助(もくのすけ)の志紀県主貞成(しきのあがたぬしさだなり)、同姓の鼓吹佐(くすいのすけ)福主(ふくぬし)、大初位上の福依(ふくより)は、ともに宿禰を賜り、左京職に配属された。(注:『日本三代実録』による。)

尾張丹羽氏(おわりのにわうじ)。臣の姓。(注:『古事記』による。)聖武天皇の時代、丹羽臣真咋(にわのおみまくい)がおり、外従五位下を授けられた。(注:『続日本紀』による。)

雀部氏(さざきべうじ)。造(みやつこ)の姓を持つ者(注:『古事記』による)、臣の姓を持つ者がある。臣姓は和泉に本籍を置いた。(注:東大寺正倉院文書によれば、聖武天皇の時代、出雲の人である雀部君千主(さざきべのきみちぬし)がいた。君の姓の系統は明らかでないため、ひとまずここに付け加えておく。)

紺口氏(こんくうじ)。県主の姓で、河内に本籍を置いた。

園部氏(そのべうじ)。右京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)光孝天皇の時代、左衛門(さえもん)の門部(もんぶ)である園部禅師麻呂(そのべのぜんじまろ)がいた。(注:『日本三代実録』による。)おそらく同族であろう。

筑紫二家氏(つくしのふたやうじ)。(注:家はまた宅とも書く。)連の姓。(注:『古事記』による。)天武天皇の時代、筑紫三宅連得許(つくしのみやけのむらじとくこ)がいた。(注:『日本書紀』による。)桓武天皇の時代、筑前国那賀郡の人である三宅連真継(みやけのむらじまつぐ)がいた。(注:『類聚国史』による。)

小長谷氏(おはつせうじ)。(注:あるいは小泊瀬とも書く。)武烈天皇がかつて小泊瀬舎人(おはつせのとねり)を置いたが(注:『日本書紀』による)、この氏はおそらくこれに由来する。連の姓、造の姓を持つ者がある。(注:『古事記』による。連は『日本書紀』による。)仁徳天皇の時代、小泊瀬造(おはつせのみやつこ)の祖である宿禰臣(すくねのおみ)がおり、賢遣臣(かたぶきのおみ)という名を賜った。天武天皇十一年、小泊瀬造は連を賜った。(注:『日本書紀』による。瀬の字は『釈日本紀』による。)また直(あたい)の姓を持つ者もあり、淳和天皇の時代には小長谷直浄足(おはつせのあたいきよたり)、および遠江の采女(うねめ)である小長谷直縵(おはつせのあたいかつら)がいた。(注:『続日本紀』による。)おそらくこれも同族であろう。(注:『除目大成抄』によれば、堀河天皇の時代に遠江少掾(とおとうみのしょうじょう)の小長宿禰永宗(おながのすくねながむね)がおり、これも同族で、後に宿禰を賜ったものであろう。)

都祁氏(つげうじ)。(注:あるいは闘鶏とも、また都介とも書く。)直の姓。(注:『古事記』による。)仁徳天皇の時代、闘鶏稲置大山主(つげのいなぎおおやまぬし)がいた。允恭天皇の時代、闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)は皇后に対して罪を得て、姓を稲置に落とされた。(注:『日本書紀』による。)いずれもおそらく同族であろう。(注:『延喜式』によれば、座摩巫(いかすりのみかんなぎ)には都下国造(つげのくにのみやつこ)の一族から七歳以上の童女を選んで充てるとある。座摩神社文書によれば、高倉・安徳両天皇の代に社務の都下国造公義(つげのくにのみやつこきみよし)がおり、同姓の常親(つねちか)がいた。都下はすなわち都介である。これによれば都介稲置の子孫は、後に再び国造の姓を賜ったことになる。その子孫は代々座摩社の神主を務めたという。ただし本来の系図では天津彦根命(あまつひこねのみこと)の子孫とされており、この説には疑わしい点があり、その本末も詳らかでない。そこでひとまずここに付け加えておく。)

伊勢船木氏(いせのふなきうじ)。直の姓。(注:『古事記』による。)また単に船木直(ふなきのあたい)とのみ称する者もあり、おそらく同族であろう。称徳天皇の時代、越前員外掾(えちぜんのいんがいのじょう)の船木直馬養(ふなきのあたいうまかい)がいた。(注:『続日本紀』による。)桓武天皇の時代、越前の人である船木直安麻呂(ふなきのあたいやすまろ)がおり、馬養の子である。(注:『類聚国史』による。)醍醐天皇の時代、雅楽小允(うたのしょうじょう)の船木氏有(ふなきのうじあり)がいた。(注:『吏部王記』による。)朱雀天皇の時代、右近衛将曹(このえのしょうそう)の船木利用(ふなきのとしもち)がいた。(注:『小野宮年中行事』による。)一条天皇の時代、讃岐掾(さぬきのじょう)の船木宿禰種守(ふなきのすくねたねもり)がいた。(注:『除目大成抄』による。)おそらく後に宿禰を賜ったものであろう。

長狭国造(ながさのくにのみやつこ)。

陸奥石城国造(むつのいわきのくにのみやつこ)。(注:『古事記』による。)その一族に於保磐城臣(おおのいわきのおみ)がいる。称徳天皇の時代、陸奥国磐城郡の人である外正六位上の丈部山際(はせつかべのやまぎわ)は於保磐城臣の姓を賜った。桓武天皇の時代、女嬬(にょじゅ)である外従五位下の於保磐城臣御炊(おおのいわきのおみみかしき)がいた。(注:『続日本紀』による。○於保磐城臣は石城国造の子孫であろう。その本宗が多氏であることから、この姓を賜ったものと思われる。そのためここに付け加えておく。)神別の天津彦根命の子孫にも石城国造がいるが(注:『先代旧事本紀』による)、これとは別の一族である。

阿蘇氏(あそうじ)。神八井耳命の子である建磐龍命(たていわたつのみこと)より出た。(注:『阿蘇系図』による。)君の姓を持つ者(注:『古事記』による)、国造を持つ者がある。建磐龍の子孫である速瓶玉命(はやみかたまのみこと)は、崇神天皇の時代に阿蘇国造となった。(注:『先代旧事本紀』による。『阿蘇系図』も参照した。○本書は速瓶玉を神八井耳の孫としているが、神八井耳は綏靖天皇四年に薨じており、崇神天皇の時代まではおよそ五百年を経ている。つまり速瓶玉は神八井耳の数世の孫であろう。)宣化天皇の時代、阿蘇仍君(あそのよのきみ)(注:「仍」の字は衍字ではないかと思われる)がおり、河内国茨田郡の屯倉を管掌した。(注:『日本書紀』による。)朱雀天皇の時代、小判事(しょうはんじ)の阿蘇公広遠(あそのきみひろとお)がおり、後に宿禰に改めた。(注:宿禰については『政事要略』による。○『拾芥抄』によれば朝臣の部に阿蘇氏があり、これによれば後にさらに朝臣を賜ったことになる。)一条天皇の時代、右少史(うしょうし)の阿蘇有隣(あそのありちか)がいたが(注:『外記日記』による)、いずれもその子孫である。建磐龍はすでに明神として祭祀の記録に列せられ(注:『延喜式』による)、子孫は繁栄して末流は大いに広がった。その本宗である宇治氏(うじうじ)は代々阿蘇神社の大宮司を務め、国造を称した。(注:『阿蘇古文書』『阿蘇系図』による。)後醍醐天皇の時代、宇治惟直(うじこれなお)・惟澄(これずみ)は勤王の功を挙げ勇名を馳せた。(注:『太平記』『鎮西古文書編年録』による。)その一族には上嶋(うえじま)・恵良(えら)・土田(つちだ)・坂梨(さかなし)・光永(みつなが)・竹崎(たけざき)・子守(こもり)などの氏がある。(注:『鎮西古文書編年録』『阿蘇家伝』による。)

火氏(ひうじ)。(注:あるいは肥とも書く。)神八井耳の子孫である志貴多奈彦命(しきたなひこのみこと)より出た。(注:『先代旧事本紀』による。)君の姓を持つ者(注:『古事記』による)、直の姓を持つ者、姓を持たない者(注:『新撰姓氏録』による)、国造を持つ者がある。(注:『先代旧事本紀』による。)直姓は大和に、姓のない者は右京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)崇神天皇の時代、火国(ひのくに)に打猴(うちさる)という土蜘蛛がいて命令に従わなかったため、天皇は志貴多奈彦の子である建緒組(たけおぐみ)を遣わしてこれを討たせ、功績があったので火君(ひのきみ)の姓を賜り、国造に任じられた。(注:『先代旧事本紀』による。『釈日本紀』引用の『肥後国風土記』も参照した。○本紀では志貴多奈彦を敷桁彦とも書くが、読みが通じる。建緒組を遅男江と書くのは誤りで、ここでは『釈日本紀』に従った。)欽明天皇の時代、火君を遣わして兵一千を率いさせ百済の要地を守らせたが、これも同族である。(注:『日本書紀』による。)聖武天皇の時代、薩摩の主帳(しゅちょう)である肥君広龍(ひのきみひろたつ)がいた。(注:東大寺正倉院文書による。○本書には郡名が欠けている。)

大分氏(おおきだうじ)。(注:あるいは碩田とも書く。)君の姓を持つ者(注:『古事記』による)、国造を持つ者がある。(注:『先代旧事本紀』による。○本書には「火国造と大分国造は同祖である」とあるが、前後の文を検討しても大分国造についての記述が見当たらない。しかし『古事記』では火君と大分君をともに神八井耳の子孫としており、これによれば大分国造もその同族であることは疑いない。本書ではこれが脱落しているのであろう。そこでここに掲げておく。)天武天皇の壬申の功臣には、大分君恵尺(おおきだのきみえさか)および稚見(わかみ)がいた。(注:『日本書紀』による。)

嶋田氏(しまだうじ)。右京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)朝臣の姓を持つ者(注:『文徳実録』による)、臣の姓を持つ者がある。神八井耳の五世の孫である仲臣子上(なかとみのこがみ)は、成務天皇の時代、尾張国嶋田県(しまだのあがた)の悪神を討ってこれを平定した功績により、嶋田臣(しまだのおみ)の号を賜った。(注:『新撰姓氏録』による。)嵯峨天皇の時代、嶋田臣清田(しまだのおみきよた)は朝臣を賜った。(注:『文徳実録』による。)後に少外記(しょうげき)となった。(注:『類聚符宣抄』による。)清和天皇の時代、少外記の嶋田朝臣忠臣(しまだのあそみただおみ)は文才によって名を知られた。(注:『日本三代実録』による。)宇多・醍醐両天皇の代には、嶋田房年(しまだのふさとし)・良行(よしゆき)が相次いで外記の官を務めた。(注:『類聚符宣抄』による。)

小子部氏(ちいさこべうじ)。宿禰の姓を持つ者は左京に、連の姓を持つ者は和泉に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)神八井耳の末裔である蜾蠃(すがる)は雄略天皇に仕えた。天皇がかつて后妃に自ら蚕を飼わせようとして蜾蠃に蚕の子を集めさせたところ、蜾蠃は誤って嬰児を集めて献上してしまった。天皇は大いに笑って「お前が自分で育てるがよい」と仰せられ、これにより小子部連(ちいさこべのむらじ)の姓を賜った。(注:『日本書紀』『新撰姓氏録』による。)天武天皇が挙兵した際、尾張国司であった小子部連鉏鉤(ちいさこべのむらじさひち)は二万の兵を率いて帰順したが、後に山中で自害した。十二年、小子部連は宿禰を賜った。(注:『日本書紀』による。)嵯峨天皇の時代、武蔵の人である正六位下の小子宿禰身成(ちいさこのすくねみなり)は本籍を左京に移した。(注:『日本後紀』による。)仁明天皇の時代、従五位下の小子連諸主(ちいさこべのむらじもろぬし)が典縫(てんぽう)となった。(注:『続日本後紀』による。)醍醐天皇の時代、雅楽助(うたのすけ)の小子百雄(ちいさこのももお)がいた。(注:『吏部王記』による。)

県氏(あがたうじ)。多朝臣と同祖である。仁明天皇の時代、右京の人である勘解由主典(かげゆのさかん)の県主前利連氏益(あがたぬしのさきとしのむらじうじます)は、県連(あがたのむらじ)の姓を賜った。(注:『続日本後紀』による。)堀河天皇の時代には県信久(あがたののぶひさ)・守貞(もりさだ)がいたが(注:『朝野群載』による)、おそらく同族であろう。

科野国造(しなののくにのみやつこ)。神八井耳の子孫である建五百建命(たけいおたつのみこと)が、崇神天皇の時代に国造となった。(注:『先代旧事本紀』による。○本書は建五百建を神八井耳の孫としているが、実際には数世の孫であろう。上に述べた通りである。)その子孫には金刺舎人(かなさしのとねり)・他田舎人(おさだのとねり)の二氏がある。(注:他田舎人については『万葉集』による。○この二氏は、国造の一族として欽明・敏達両天皇の朝廷に舎人として仕えたことから氏を得たものであろう。そのためこの二氏は大化の改新以後もなお国造と称していたのである。ここに併せて記しておく。)光仁天皇の時代、信濃国水内郡(みのちのこおり)の女孺(にょじゅ)である外従五位下の金刺舎人若嶋(かなさしのとねりわかしま)ら八人が連の姓を賜った。(注:○『拾芥抄』には金刺宿禰とあり、おそらく同族が後に宿禰を賜ったものであろう。)その一族にはまた駿河国に住んでいた者もある。孝謙天皇の時代、益頭郡(ましづのこおり)の人である金刺舎人麻自(かなさしのとねりまじ)がいた。(注:『続日本紀』による。)同じ頃、信濃国小県郡(ちいさがたのこおり)の人で国造である他田舎人大嶋(おさだのとねりおおしま)が防人の役に就いた。(注:『万葉集』による。○『続日本紀』によれば元明天皇の時代に正五位上の他田舎人直刀自売(おさだのとねりのあたいとじめ)がおり、直の姓もおそらく同族であろう。)桓武天皇の時代、駿河国駿河郡の大領(だいりょう)である金刺舎人広名(かなさしのとねりひろな)が国造となった。(注:『続日本紀』による。)清和天皇の時代、他田舎人藤雄(おさだのとねりふじお)がおり、小県郡の権少領(ごんのしょうりょう)を務めた。(注:『日本三代実録』による。)国造の子孫で本国に残った者は「造祝(みやつこはふり)」と呼ばれ、上原氏(うえはらうじ)を称した。(注:当初は神原と称した。)代々諏訪下社(すわのしもしゃ)の神官を務めた。(注:『造祝系図』による。)金刺氏の子孫もまた下社の大祝(おおほうり)となった。(注:『東鑑』『大祝系図』による。)祝部(はふりべ)の金刺盛久(かなさしのもりひさ)は歌人として名を知られた。(注:『作者部類』による。)その一族には諏訪(すわ)・上泉(かみいずみ)・手塚(てづか)などの氏がある。(注:『作者部類』『東鑑』『源平盛衰記』『金勝院本太平記』『関東古戦録』による。)諏訪郡の人である金刺光盛(かなさしのみつもり)は手塚太郎(てづかのたろう)と称し、源義仲(みなもとのよしなか)に仕えて武勇をもって知られた。(注:『源平盛衰記』による。)

印波国造(いなばのくにのみやつこ)。(注:波はまた幡とも書く。)神八井耳の八世の孫である伊都許利命(いつこりのみこと)は、応神天皇の時代に国造となった。

伊余国造(いよのくにのみやつこ)。志貴多奈彦の子である速後上命(はやのちのぼりのみこと)は、成務天皇の時代に国造となった。(注:『先代旧事本紀』による。)

仲国造(なかのくにのみやつこ)。神八井耳の遠孫である建借馬命(たけかしまのみこと)。(注:馬はあるいは間とも書く。)崇神天皇の時代、詔を受けて東国を征し、賊の頭目である夜尺斯(やさかし)らを討った。成務天皇の時代に国造となった。(注:『先代旧事本紀』による。『常陸国風土記』も参照した。○『新撰姓氏録』嶋田臣の条に仲臣子上とあるのは前に見えた通りである。これによれば国造の一族にはまた仲臣という姓もあったことになる。)

茨田氏(まんだうじ)・尾張部氏(おわりべうじ)・豊島氏(てしまうじ)・下家氏(しもつやけうじ)・松浦氏(まつらうじ)・江氏(えうじ)は、いずれも神武天皇の皇子である彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)の子孫である。(注:『新撰姓氏録』では彦八井耳を神八井耳の子としているため、茨田氏以下の諸氏をみな神八井耳の系統に含めている。しかし今は『古事記』に従い、彦八井耳を神武天皇の皇子とする。そして『新撰姓氏録』で彦八井耳の子孫とされる諸氏は、すべてここに序する。)

茨田氏(まんだうじ)。宿禰の姓を持つ者は河内に、連の姓を持つ者は右京および山城に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)彦八井耳の遠孫である衫子(ころものこ)(注:衫子は『新撰姓氏録』では莒呂母能古と書く。一本には野現宿禰とあるが誤りである。)は、仁徳天皇の時代に茨田堤(まんだのつつみ)を築いた功績によりこれを氏とした。(注:『日本書紀』による。『新撰姓氏録』も参照した。)その子孫である茨田連小望(まんだのむらじおもち)には娘があり、継体天皇の妃となった。天武天皇十二年、茨田連は宿禰を賜った。(注:『日本書紀』による。)文武天皇の時代、茨田足嶋(まんだのたりしま)が連を賜った。聖武天皇の時代、外従五位下の茨田弓束(まんだのゆづか)、同姓で従八位上の牧野(まきの)が宿禰を賜った。(注:『続日本紀』による。)清和天皇の時代、右近衛将曹の茨田連真額(まんだのむらじまぬか)がいた。(注:『日本三代実録』による。)三条天皇の時代、左近衛将監の茨田重方(まんだのしげかた)がいた。(注:『小右記』による。)いずれもその子孫である。

尾張部氏(おわりべうじ)。河内に本籍を置いた。

豊島氏(てしまうじ)。(注:豊はまた手とも書く。)連の姓で、摂津に本籍を置いた。

下家氏(しもつやけうじ)。連の姓で、河内に本籍を置いた。

松浦氏(まつらうじ)。(注:豊は一本に津と書く。)首の姓で、摂津に本籍を置いた。

江氏(えうじ)。首の姓。(注:首はまた人とも書く。)河内に本籍を置いた。彦八井耳の七世の孫である来目津彦(くめつひこ)より出た。(注:『新撰姓氏録』による。)

新田部氏(にったべうじ)・猪使氏(いつかいうじ)は、ともに安寧天皇の皇子である磯城津彦命(しきつひこのみこと)の子孫である。

新田部氏(にったべうじ)。宿禰の姓で、左京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)斉明天皇の時代、舎人の新田部連米麻呂(にったべのむらじよねまろ)がいた。天武天皇十二年、新田部連は宿禰を賜った。(注:『日本書紀』による。)陽成天皇の時代、園池正(えんちのしょう)の新田部宿禰安河(にったべのすくねやすかわ)がいた。(注:『日本三代実録』による。)

猪使氏(いつかいうじ)。宿禰の姓で、左京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)天武天皇十二年、猪使連(いつかいのむらじ)は宿禰を賜った。(注:『日本書紀』による。)また伊賀須知稲置(いがのすちのいなぎ)・那婆理稲置(なばりのいなぎ)・三野稲置(みののいなぎ)があり、いずれも磯城津彦の子孫である。

葦井稲置(あしいのいなぎ)・血沼別(ちぬのわけ)・多遅麻竹別(たじまのたけわけ)の三氏は、いずれも懿徳天皇の皇子である武石彦奇友背命(たけしひこおきなうせのみこと)の子孫である。(注:『古事記』による。本書は多芸志比古命(たぎしひこのみこと)としているが、ここでは『日本書紀』に従った。)

大春日氏(おおかすがうじ)・和邇部氏(わにべうじ)・邇宗氏(にそうじ)・壱志氏(いちしうじ)・粟田氏(あわたうじ)・山上氏(やまのうえうじ)・柿下氏(かきのもとうじ)・大宅氏(おおやけうじ)・飯高氏(いいたかうじ)・武射氏(むざうじ)・根氏(ねうじ)・村氏(むらうじ)・度守氏(わたりもりうじ)・壬生氏(みぶうじ)・葦占氏(あしうらうじ)・大坂氏(おおさかうじ)・多紀氏(たきうじ)・知多氏(ちたうじ)・都努山氏(つのやまうじ)・羽束氏(はつかしうじ)・葉栗氏(はぐりうじ)・文部氏(ふみべうじ)・吉田氏(よしだうじ)・真野氏(まののうじ)・安那氏(あなうじ)・額田氏(ぬかたうじ)・野中氏(のなかうじ)・久米氏(くめうじ)・小野氏(おのうじ)・櫟井氏(いちいうじ)・布留氏(ふるうじ)・物部氏(もののべうじ)・櫛代氏(くしろうじ)・井代氏(いしろうじ)・津門氏(つとうじ)・近淡海国造(ちかつあふみのくにのみやつこ)は、いずれも孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の子孫である。

大春日氏(おおかすがうじ)。朝臣の姓で、左京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)また春日朝臣の姓、春日臣の姓、春日倉首(かすがのくらのおびと)の姓、春日部(かすがべ)がある。(注:『続日本紀』による。春日臣・春日部は『続日本後紀』による。)天足彦国押人の子孫である仲臣命(なかとみのみこと)の家は大変富み、糟を積んで垣にするほどであった。仁徳天皇がその家に行幸された際、糟垣臣(かすかきのおみ)の号を賜り、後に春日(かすが)と改めた。(注:『新撰姓氏録』による。○糟垣と春日とは読みが近い。)敏達天皇の時代、春日臣仲君(かすがのおみなかきみ)の娘が天皇の妃となった。天武天皇十二年、大春日臣は朝臣を賜った。(注:『日本書紀』による。○『新撰姓氏録』によれば、桓武天皇延暦二十年に春日臣が大春日朝臣の姓を賜ったとあり、これによればこの時初めて春日を大春日に改めたことになる。しかし本書にはすでに大春日と書かれており、説が一致しない。今後の考証を待ちたい。)文武天皇の時代、僧の弁紀(べんき)に還俗を命じ、春日倉首名老(かすがのくらのおびとなおゆ)の姓名を賜った。称徳天皇の時代、左京の人である従七位下の春日蔵毗登常麻呂(かすがのくらのひとつねまろ)ら二十余人が春日朝臣を賜った。(注:『続日本紀』による。)仁明天皇の時代、越前国丹生郡(にゅうのこおり)の人で大学助教(だいがくのじょきょう)の春日部雄継(かすがべのおつぐ)らが春日臣を賜り、辺境の戸籍を除いて左京に本籍を移された。(注:『続日本後紀』による。)文徳天皇の時代、雄継は大学博士となり、大春日朝臣を賜った。(注:『文徳実録』による。)清和天皇の時代、左京の人である参河介(みかわのすけ)の壱志宿禰吉野(いちしのすくねよしの)が大春日朝臣に改め賜った。(注:『日本三代実録』による。)朱雀天皇の時代、暦博士(れきはかせ)の大春日朝臣弘範(おおかすがのあそみひろのり)がいた。花山天皇の時代、左大史(さだいし)の大春日良辰(おおかすがのよしとき)がいた。一条天皇の時代、少外記の大春日仲明(おおかすがのなかあき)がいた。(注:『外記日記』による。○『日本三代実録』によれば、清和天皇の時代に上総国夷灊郡(いすみのこおり)の人である春日直黒主売(かすがのあたいくろぬしめ)がいた。『拾芥抄』には春日連とある。この二つの氏族については系統がはっきりしないため、今後の考証を待つこととする。)

和邇部氏(わにべうじ)。(注:あるいは丸部とも書く。邇はまた爾、あるいは珥とも書く。)朝臣の姓を持つ者、宿禰の姓を持つ者、臣の姓を持つ者があり、いずれも左京に本籍を置いた。また姓を持たない者もあり、左京・右京および山城・摂津に本籍を置いた。朝臣は天足彦国押人の子である彦姥津命(ひこおけつのみこと)の三世の孫である難波宿禰(なにわのすくね)より出て、宿禰は彦姥津の四世の孫である矢田宿禰(やたのすくね)より出て、臣は彦姥津の五世の孫である米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)より出ている。姓を持たない者のうち、左京の系統は彦姥津の子である伊富都久命(いほつくのみこと)より出て、右京の系統は天足彦国押人の三世の孫である彦国葺命(ひこくにふきのみこと)より出て、山城の系統は米餅搗大使主より出ている。(注:『新撰姓氏録』による。○米餅搗は一本には難波宿禰とある。)雄略天皇の時代、春日和珥臣深目(かすがのわにのおみふかめ)がいたが、これも同族である。壬申の乱では和珥部臣君手(わにべのおみきみて)が天武天皇に従って功績を挙げた。(注:『日本書紀』による。)称徳天皇の時代、左京の人である甲斐員外目(かいのいんがいのさかん)の丸部臣宗人(わにべのおみむねひと)らが宿禰を賜り、従六位下の和邇部臣男綱(わにべのおみおつな)らが朝臣を賜った。(注:『続日本紀』による。)仁明天皇の時代、丹波の人で右近衛将曹の和邇臣竜人(わにのおみたつひと)が左京に本籍を移した。同じ頃、讃岐国三野郡(みののこおり)の人である丸部臣明麻呂(わにべのおみあけまろ)がおり、同郡の大領となって孝行で知られた。(注:『続日本後紀』による。)清和天皇の時代、左京の人で雅楽少允(うたのしょうじょう)の和邇部大田麻呂(わにべのおおたまろ)が宿禰を賜った。陽成天皇の時代、因幡国法美郡(はふみのこおり)の人で左大史の丸部臣百世(わにべのおみももよ)が右京に本籍を移した。(注:『日本三代実録』による。)醍醐天皇の時代、近江史生(おうみのししょう)の丸部安沢(わにべのやすさわ)がいた。(注:『類聚符宣抄』による。)一条天皇の時代、阿波大目(あわのだいさかん)の丸部宿禰秋時(わにべのすくねあきとき)がいた。(注:『除目大成抄』による。)後嵯峨天皇の時代、右近衛少監の和爾部忠棟(わにべのただむね)がいた。(注:『平戸記』による。○『天台座主記』によれば、僧の義真(ぎしん)は姓を丸部連といい、相模の人であった。『除目大成抄』によれば、一条天皇の時代に但馬大目(たじまのだいさかん)の丸部首直高(わにべのおびとなおたか)がいた。連・首の二姓もおそらく同族であろう。そこでここに付け加えておく。)

邇宗氏(にそうじ)。和邇部臣より出た。清和天皇の時代、播磨国飾磨郡(しかまのこおり)の人で播磨博士(はりまのはかせ)の和邇部臣宅嗣(わにべのおみやかつぐ)、同姓で播磨権医師(はりまのごんのいし)の宅貞(やかさだ)らが邇宗宿禰(にそのすくね)の姓を改め賜った。(注:『日本三代実録』による。)

壱師氏(いちしうじ)。(注:あるいは市師とも、また壱志とも書く。)君の姓を持つ者(注:『古事記』による)、宿禰の姓を持つ者がある。(注:『文徳実録』『日本三代実録』による。)垂仁天皇の時代、阿佐賀国(あさかのくに)の市師県主(いちしのあがたぬし)の祖である建呰古命(たけしこのみこと)がいたが(注:伊勢大神宮儀式帳・倭姫命世記による)、おそらくその祖先であろう。聖武天皇の時代、壱師君族古麻呂(いちしのきみやからのこまろ)がおり、外従五位下を授けられた。(注:『続日本紀』による。)醍醐天皇の時代、勘解由判官(かげゆのはんがん)の壱志作範(いちしのさくのり)がいた。(注:『類聚符宣抄』による。)朱雀天皇の時代、女史(にょし)の壱志宿禰篤子(いちしのすくねあつこ)がいた。(注:『外記日記』による。)一条天皇の時代、上野大掾(こうずけのだいじょう)の壱師公倫明(いちしのきみともあき)がいた。(注:『除目大成抄』による。)

粟田氏(あわたうじ)。朝臣の姓で、右京および山城に本籍を置いた。彦国葺より出た。(注:『新撰姓氏録』による。)あるいは春日粟田臣(かすがのあわたのおみ)とも称された。天武天皇の時代、粟田臣真人(あわたのおみまひと)が最も著名であった。十三年、粟田臣は朝臣を賜った。(注:『日本書紀』による。)廃帝(淳仁天皇)の時代、内薬佑(ないやくのじょう)の粟田臣道麻呂(あわたのおみみちまろ)が朝臣を賜った。称徳天皇の時代、近江国坂田郡の人である粟田臣乙瀬(あわたのおみおとせ)、左京の人で従八位上の粟田臣弟麻呂(あわたのおみおとまろ)らがともに朝臣を賜った。(注:『続日本紀』による。)堀河天皇の時代、掃部少属(かもんのしょうさかん)の粟田久倫(あわたのひさとも)がいた。(注:『外記日記』による。)その後には粟田朝臣久盛(あわたのあそみひさもり)がおり、吉野の行宮に仕えた。(注:『新葉和歌集』による。)

山上氏(やまのうえうじ)。(注:上はあるいは於とも書く。)朝臣の姓を持つ者、臣の姓を持つ者がある。朝臣は右京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。臣姓は『続日本紀』による。)神亀・天平年間、筑前守(ちくぜんのかみ)の山上臣憶良(やまのうえのおみおくら)がおり、和歌をもって知られた。(注:『万葉集』による。)称徳天皇の時代、右京の人で従五位上の山上臣船主(やまのうえのおみふなぬし)ら十人が朝臣を賜った。(注:『続日本紀』による。)

柿下氏(かきのもとうじ)。(注:下はあるいは本とも書く。)朝臣の姓で、大和に本籍を置いた。敏達天皇の時代、屋敷のそばに柿の木があったことからこれを氏とした。(注:『新撰姓氏録』による。)天武天皇十二年、柿本臣は朝臣を賜った。(注:『日本書紀』による。)持統・文武両天皇の間には、歌聖として知られる柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)がいた。(注:『万葉集』『古今和歌集』序による。)醍醐天皇の時代、肥後権少目(ひごのごんのしょうさかん)の柿下朝臣利見(かきのもとのあそみとしみ)がいた。(注:『除目大成抄』による。○東寺古文書によれば、後鳥羽天皇の時代に柿本宿禰某(かきのもとのすくねなにがし)がいたとあるが、系統は明らかでないため、ひとまずここに付け加えておく。)

大宅氏(おおやけうじ)。(注:宅はあるいは家とも書く。)朝臣の姓を持つ者(注:『日本書紀』による)、臣の姓を持つ者がある。(注:『新撰姓氏録』による。)また大宅水取朝臣(おおやけのもいとりのあそみ)の姓もある。(注:『続日本後紀』による。)臣姓は山城・河内に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)反正天皇の時代、大宅臣の祖である木事(こごと)がいた。(注:『新撰姓氏録』によれば、米餅搗大使主の子である木事命(こごとのみこと)とはこの人物のことである。)天武天皇十二年、大宅臣は朝臣を賜った。(注:『日本書紀』による。)元明天皇の時代、大宅朝臣豊徳(おおやけのあそみとよとこ)は大神宮の大宮司となった。(注:二所大神宮例文による。)孝謙天皇の時代、大倭国添上郡(そうのかみのこおり)大宅郷の戸主(こしゅ)である大宅朝臣可是麻呂(おおやけのあそみかぜまろ)がいた。(注:東大寺奴婢籍帳による。)仁明天皇の時代、山城の人で遣唐使生の大宅臣福主(おおやけのおみふくぬし)、および典蔵大允(ないぞうのだいじょう)の大宅水取臣継主(おおやけのもいとりのおみつぐぬし)らがともに朝臣を賜った。継主もまた木事の子孫である。(注:『続日本後紀』による。○木事は本書では八腹木事命(やはらのこごとのみこと)とある。)光孝天皇の時代、左京の人である大宅朝臣宗長(おおやけのあそみむねなが)がいた。(注:『日本三代実録』による。)後一条天皇の時代、正六位上の大宅朝臣守光(おおやけのあそみもりみつ)がいた。(注:『朝野群載』による。)鳥羽天皇の時代、淡路大掾(あわじのだいじょう)の大宅朝臣守友(おおやけのあそみもりとも)、正六位上の大宅朝臣守久(おおやけのあそみもりひさ)がいた。(注:『除目大成抄』による。)

伊勢飯高氏(いせのいいたかうじ)。(注:『古事記』による。)朝臣の姓を持つ者、宿禰の姓を持つ者、公(きみ)の姓を持つ者がある。(注:『続日本紀』による。朝臣は『日本後紀』による。)当初は飯高県造(いいたかのあがたのみやつこ)と称した。垂仁天皇の時代、飯高県造乙加豆知命(いいたかのあがたのみやつこおとかづちのみこと)がいたが(注:伊勢大神宮儀式帳・倭姫命世記による)、これがその祖である。聖武天皇の時代、伊勢国飯高郡の采女である飯高君笠目(いいたかのきみかさめ)がいた。(注:あるいは諸高とも書く。)清廉謹直な人柄で称賛された。朝廷はその一族である県造らを記録し、みな飯高君の姓を賜った。称徳天皇の時代、飯高郡の人で正八位上の飯高公家継(いいたかのきみいえつぐ)らが宿禰を賜った。光仁天皇の時代、正六位上の飯高公若舎人(いいたかのきみわかとねり)、同姓で右衛士府生(うえじのふしょう)の大人(うしと)、左兵衛府生(さひょうえのふしょう)の諸丸(もろまる)らがともに宿禰を賜った。(注:『続日本紀』による。)仁明天皇の時代、左京の人で外従五位下の飯高宿禰全雄(いいたかのすくねまたお)、弟の高(たかし)ら五家、および伊勢の人で遠江介(とおとうみのすけ)の飯高公常比麻呂(いいたかのきみつねひまろ)、弟の五百継(いおつぐ)、甲斐目(かいのさかん)の飯高宿禰浜永(いいたかのすくねはまなが)ら二十余人が、みな朝臣を賜り左京に本籍を移された。(注:『続日本後紀』による。)清和天皇の時代、外従五位下の飯高朝臣貞宗(いいたかのあそみさだむね)が内階(ないかい)に改め叙された。越前国敦賀郡の人で右大史の伊部造豊持(いべのみやつことよもち)が飯高朝臣に改め賜り、左京に本籍を移された。伊部造もまた同族である。(注:『日本三代実録』による。)一条天皇の時代、大炊少属(おおいのしょうさかん)の飯高挙用(いいたかのこよう)がいた。(注:『外記日記』による。)

武射氏(むざうじ)。(注:あるいは牟邪とも書く。射はまた社とも書く。)臣の姓を持つ者(注:『古事記』による)、国造を持つ者がある。成務天皇の時代、彦意祁都孫(ひこおけつひこ)が(注:本書は彦立入部都と書くが誤りであり、ここで訂正した。彦意祁都はすなわち彦姥津のことである)武社国造(むさのくにのみやつこ)となった。(注:『先代旧事本紀』による。)称徳天皇の時代、陸奥国牡鹿郡(おしかのこおり)の人で外正八位下の春日部奥麻呂(かすがべのおきまろ)らが武射臣の姓を賜った。(注:『続日本紀』による。)陽成天皇の時代、右近衛将監の武射臣助守(むざのおみすけもり)がいた。(注:『日本三代実録』による。)

根氏(ねうじ)。連の姓で、和泉に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)天武天皇の時代、根連金身(ねのむらじかねみ)がいた。(注:『日本書紀』による。)

村氏(むらうじ)。公の姓で、山城に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)元明天皇の時代、大倭国宇太郡(うだのこおり)の人である村君東人(むらのきみあずまひと)がいた。(注:『続日本紀』による。○本書には元正天皇の時代に渡嶋(わたりしま)の津軽津司(つがるのつのつかさ)である諸君鞍男(もろのきみくらお)がいたとある。「諸」と「村」とは読みが近く、おそらく同族であろう。)醍醐天皇の時代、伊勢権大目(いせのごんのだいさかん)の村君当世(むらのきみまさよ)がいた。(注:『除目大成抄』による。)

度守氏(わたりもりうじ)。首の姓で、山城に本籍を置いた。

壬生氏(みぶうじ)。臣の姓で、河内に本籍を置いた。

葦占氏(あしうらうじ)。臣の姓で、和泉に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)

大坂氏(おおさかうじ)。臣の姓。

多紀氏(たきうじ)。臣の姓。(注:『古事記』による。)朱雀天皇の時代、丹波目代(たんばのもくだい)の多紀朝臣基影(たきのあそみもとかげ)、国老(こくろう)の多紀臣某(たきのおみなにがし)がいたが(注:東寺古文書による)、おそらく同族であろう。

知多氏(ちたうじ)。臣の姓。

都努山氏(つのやまうじ)。(注:都努はあるいは角とも書く。)臣の姓。(注:『古事記』による。)聖武天皇の時代、外従五位下の角山君内麻呂(つのやまのきみうちまろ)がいた。(注:『続日本紀』による。)清和天皇の時代、外従五位下の角山公成子(つのやまのきみなりこ)がいたが(注:『日本三代実録』による)、おそらく同族であろう。

羽束氏(はつかしうじ)。(注:都努はあるいは角とも書く、というのは前条の注。)首の姓で、摂津に本籍を置き、彦姥津の三世の孫である建安命(たけやすのみこと)より出た。また姓を持たない者もあり、山城に本籍を置き、彦国葺より出た。(注:『新撰姓氏録』による。)天武天皇の時代、尾張国葉栗郡(はぐりのこおり)の人で小乙下(しょうおつげ)の葉栗臣人麻呂(はぐりのおみひとまろ)がおり、本郡に光明寺を建立した。(注:『塵袋』による。)光仁天皇の時代、山背国乙訓郡(おとくにのこおり)の人で外従五位下の羽栗翼(はぐりのつばさ)が臣の姓を賜った。(注:『続日本紀』による。)文徳天皇の時代、従五位下の羽栗臣乙貞(はぐりのおみおとさだ)がいた。(注:『文徳実録』による。)

丈部氏(はせつかべうじ)。左京に本籍を置き、彦姥津より出た。

吉田氏(よしだうじ)。左京に本籍を置いた。宿禰の姓を持つ者、連の姓を持つ者がある。彦国葺より出た。崇神天皇の時代、任那(みまな)が国を挙げて内属を願い出、将軍を派遣してその地を鎮めるよう請うた。天皇はそこで彦国葺の孫である塩乗津彦(しおのりつひこ)(注:乗は一本に垂とも書く)を遣わしてこれを鎮めさせた。その地の風習では「宰(つかさ)」を「吉(きち)」と呼んだことから、子孫はこれにちなんで吉氏(きちうじ)を名乗った。(注:『新撰姓氏録』による。)塩乗津彦の八世の孫である達率(だっそつ、百済の官位)の吉大尚(きちのだいじょう)・少尚(しょうじょう)の兄弟は、日本を慕う心を抱き、相次いで朝廷に帰化した。大尚は代々医術を家業とし、あわせて文芸にも通じた。天智天皇は小山上(しょうさんじょう)の位を授けた。(注:「大尚世伝」以下は『日本書紀』を参照した。)子孫は寧楽(なら)の田村里(たむらのさと)に住んだ。文武天皇の時代、僧の恵俊(えしゅん)に還俗を命じ、吉宜(きちのよろし)の姓名を賜り、務広肆(むこうし)を授けた。聖武天皇の時代、その元の姓と居住地の名を取って、従五位上の吉宜には吉田連(よしだのむらじ)、従五位下の吉智首(きちのちしゅ)にも吉田連の姓を賜った。(注:『続日本紀』による。『新撰姓氏録』も参照した。吉宜・吉智首については『続日本紀』による。○『新撰姓氏録』によれば、塩乗津彦の子である従五位下の知須(ちす)は田村里に住んだとある。知須と智首とは音が通じることから、おそらく別人ではないだろう。本書には脱落や誤りがあるのかもしれない。)嵯峨天皇の時代、右京の人で正六位上の吉田連宮麻呂(よしだのむらじみやまろ)らが宿禰に改め賜った。(注:『日本後紀』による。)その一族には興世氏(おきようじ)がある。仁明天皇の時代、右京の人で左京亮(さきょうのすけ)の吉田宿禰書主(よしだのすくねふみぬし)、同姓で越中介(えっちゅうのすけ)の高世(たかよ)らが興世朝臣(おきよのあそみ)の姓を改め賜った。(注:『続日本後紀』による。○『文徳実録』には書主の本姓は吉田連で、その先祖は百済から出たとあるが、これは誤りである。)

真野氏(まののうじ)。右京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)宿禰の姓を持つ者(注:『日本三代実録』による)、臣の姓を持つ者がある。彦国葺より出た。彦国葺は大口納命(おおくちいれのみこと)を生み、大口納は難波宿禰を生み、難波宿禰は大矢田宿禰(おおやたのすくね)を生んだ。大矢田宿禰は神功皇后の新羅遠征に従って鎮守将軍となり、その地に留まって守り、新羅国王の姪にあたる女性を娶って二人の子を生んだ。佐久命(さくのみこと)・武義命(たけよしのみこと)である。佐久の九世の孫である和珥部臣鳥(わにべのおみとり)、務大肆(むだいし)の忍勝(おしかつ)らは近江国滋賀郡真野村(しがのこおりまののむら)に住んだことから、これを氏とした。(注:『新撰姓氏録』による。)清和天皇の時代、右京の人で主計少允(かずえのしょうじょう)の真野臣永徳(まののおみながのり)、同姓の道緒(みちお)らがともに宿禰を賜った。大和国山辺郡(やまべのこおり)の人で上野権少掾(こうずけのごんのしょうじょう)の民首広門(たみのおびとひろかど)、同姓で右京の人である太宰医師(だざいのいし)方宗(かたむね)、無位の方永(かたなが)らが真野臣に改め賜った。(注:『日本三代実録』による。)

安那氏(あなうじ)。(注:あるいは穴とも書く。)臣の姓を持つ者(注:『古事記』による)、公の姓を持つ者(注:『新撰姓氏録』による)、国造を持つ者がある。彦国葺の孫である八千足尼(やちのすくね)は、景行天皇の時代に穴国造(あなのくにのみやつこ)となった。(注:『先代旧事本紀』による。)公姓は右京に本籍を置き、これも彦国葺より出た。(注:『新撰姓氏録』による。)光仁天皇の時代、采女(うねめ)の正七位上の安那公御室(あなのきみみむろ)、および備後国葦田郡屋穴国郷(あしだのこおりやあなくにのごう)の人である穴君弟君(あなのきみおとぎみ)がいた。(注:『続日本紀』『日本霊異記』による。)清和天皇の時代、備後の人である安那君吉売(あなのきみよしめ)がいた。(注:『日本三代実録』による。)

額田氏(ぬかたうじ)。宿禰の姓を持つ者(注:『類聚国史』による)、国造を持つ者がある。彦国葺の孫である大直侶宇命(おおなおろうのみこと)は、成務天皇の時代に額田国造(ぬかたのくにのみやつこ)となった。(注:『先代旧事本紀』による。○本書には彦国葺を彦訓服と書く。)嵯峨天皇の時代、外従五位下の国造額田宿禰今足(ぬかたのすくねいまたり)がいたが(注:『類聚国史』による)、おそらくその子孫であろう。

野中氏(のなかうじ)。右京に本籍を置き、彦国葺より出た。

久米氏(くめうじ)。臣の姓で、大和に本籍を置いた。天足彦国押人の五世の孫である大難波命(おおなにわのみこと)より出た。(注:大難波はおそらく難波宿禰のことであろう。)

小野氏(おのうじ)。朝臣の姓を持つ者は左京および山城に本籍を置き、米餅搗大使主より出た。臣の姓を持つ者は山城に本籍を置き、天足彦国押人の七世の孫である人華命(ひとはなのみこと)より出た。(注:『新撰姓氏録』による。)雄略天皇の時代、春日小野臣大樹(かすがのおののおみおおき)がいたが、これも同族である。敏達天皇の時代、大徳(だいとく)の小野臣妹子(おののおみいもこ)は近江国滋賀郡小野村(しがのこおりおののむら)に住んでいたことからこれを氏とした。(注:『新撰姓氏録』による。○『日本書紀』によれば、雄略天皇の時代にすでに春日小野臣がいたことは前に見た通りであり、妹子が初めて小野村に住んだわけではない。ただし小野氏を称するようになったのは、あるいは妹子から始まったものかもしれない。『続日本後紀』承和四年の記事によれば、この一族は先祖の代から代々小野村に住んでいたようである。)天武天皇十二年、小野臣は朝臣を賜った。(注:『日本書紀』による。)その一族は代々朝廷で栄えた。(注:『日本書紀』以下の国史による。)仁明天皇の時代、小野朝臣篁(おののあそみたかむら)が文才によって名を知られた。もともと小野氏の祖神を祀る社は近江国滋賀郡にあり、春秋二度の祭祀の折には、朝廷は特に小野氏だけは太政官符を必要とせずその社に参ることを許していた。これに至って、「大春日・布留・粟田の三氏で五位以上の者も、小野氏に準じてこれを許す」との勅が出された。(注:『続日本後紀』による。)陽成天皇の時代、山城国愛宕郡小野郷(おたぎのこおりおののごう)の人で勘解由次官(かげゆのすけ)の小野朝臣当岑(おののあそみまさみね)が左京に本籍を移した。(注:『日本三代実録』による。)篁の七世の孫である隆泰(たかやす)(注:一本には孝㳟、また孝泰とも書く)は武蔵守となり、義隆(よしたか)を生んだ。義隆は初めて相模国横山邑(よこやまのむら)に住み、資隆(すけたか)・時資(ときすけ)を生んだ。時資は猪股氏(いのまたうじ)を称し、その支族はこれ以降大いに繁栄した。「横山党(よこやまとう)」「猪股党(いのまたとう)」と呼ばれ、いわゆる武蔵七党(むさししちとう)の一つである。横山党には択田(たくだ)・海老名(えびな)・藍原(あいはら)・平子(ひらこ)・野部(のべ)・山崎(やまざき)・鳴瀬(なるせ)・古郡(ふるごおり)・小倉(おぐら)・大貫(おおぬき)・葛生(くずう)(注:葛は一本に菅とも書く)・糟屋(かすや)・由木(ゆき)・室伏(むろぶし)・大串(おおくし)・千与宇(ちよう)・伊平(いへい)(注:伊は一本に帷とも書く)・樫生(かしお)・古市(ふるいち)・田谷(たや)・八国府(やこくふ)・山口(やまぐち)・愛甲(あいこう)・小子(こごう)・平山(ひらやま)・石川(いしかわ)・古沢(ふるさわ)・小野(おの)・古荘(ふるしょう)・中村(なかむら)・田名(たな)・小沢(おざわ)・小股(こまた)などの諸族がある。猪股党には荏原(えばら)・河勾(かわわ)・太田(おおた)・人見(ひとみ)・甘糟(あまかす)・藤田(ふじた)・山崎(やまざき)・岡部(おかべ)・内島(うちじま)・蓮沼(はすぬま)・男衾(おぶすま)・井沼(いぬま)・横瀬(よこせ)・野部(のべ)・木里(きさと)・瓦園(かわらぞの)(注:瓦は一本に尾とも書く)・無動寺(むどうじ)・友荘(ともしょう)・木戸(きど)・滝瀬(たきせ)・早内(さない)・野内(のうち)・幕土(まくど)・飯塚(いいづか)などの諸族がある。建武年間には、幕土助国(まくどのすけくに)・飯塚能尚(いいづかのよしひさ)がともに新田義貞(にったよしさだ)に従い、いわゆる「十六騎」の一人であった。(注:『小野系図』『佐野本小野系図』『武蔵七党系図』による。○『小野系図』には、その先祖は敏達天皇の皇子である春日王(かすがのおう)から出たとあるが、これは誤りである。)

櫟井氏(いちいうじ)。(注:あるいは壱比韋とも書く。)左京に本籍を置いた。朝臣の姓を持つ者、臣の姓を持つ者があり、米餅搗大使主より出た。(注:『新撰姓氏録』による。朝臣は『日本書紀』による。)天武天皇十二年、櫟井臣は朝臣を賜った。(注:『日本書紀』による。)清和天皇の時代、僧の相応(そうおう)がいたが、近江国浅井郡(あさいのこおり)の人で櫟井氏であり、これも同族である。(注:『帝王編年記』『明匠略伝』による。)朱雀天皇の時代、右馬少属(うまのしょうさかん)の櫟井直幹(いちいのなおもと)がいた。(注:『外記日記』による。)一条天皇の時代、主計助(かずえのすけ)の櫟井恒清(いちいのつねきよ)がいた。(注:『吏部王記』による。)

布留氏(ふるうじ)。宿禰の姓で、大和に本籍を置いた。米餅搗大使主より出た。米餅搗は木事命(こごとのみこと)を生み、木事は市川臣(いちかわのおみ)を生んだ。仁徳天皇がかつて布都努斯神社(ふつぬしじんじゃ)に参詣された際、市川臣を石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)に置いて神主とされた。その子孫が武蔵臣(むざしのおみ)である。(注:武蔵は武射と音が通じる。前に見た武射臣とはこの一族である。ただし本書ではその名が漏れている。)斉明天皇の時代、かつて物部首(もののべのおびと)、また神主首(かんぬしのおびと)と称していたが、ついに臣の姓を失った。天武天皇の時代、正五位上の物部首日向(もののべのおびとひむか)は、社地の名にちなんで布留連(ふるのむらじ)の姓に改めた。十二年、連は宿禰を賜った。(注:『新撰姓氏録』による。天武天皇以下は『日本書紀』を参照した。○『新撰姓氏録』のこの条には誤りがあり、文意もはっきりしない部分があるため、ひとまずその大意を取って記した。今後の考証を待ちたい。)清和天皇の時代、内蔵少允(くらのしょうじょう)の布留宿禰今道(ふるのすくねいまみち)がいた。(注:『日本三代実録』『古今和歌集目録』による。)朱雀天皇の時代、土佐守の布留宿禰有平(ふるのすくねありひら)がいた。(注:『類聚符宣抄』による。)村上天皇の時代、防鴨河使判官(ぼうかもがわしのはんがん)の布留千道(ふるのちみち)がいた。(注:『小野宮年中行事』による。)

物部氏(もののべうじ)。公の姓を持つ者(注:『日本書紀』『続日本紀』による)、首の姓を持つ者がある。(注:『新撰姓氏録』による。)公姓は建安命(たけやすのみこと)より出た。(注:『新撰姓氏録』による。上野国山名村の碑文も参照した。○安は一本に穴とも書く。)首姓は摂津に本籍を置き、米餅搗より出た。また姓を持たない者もあり、摂津・河内・和泉に本籍を置き、いずれも首と同祖である。網部物部(あみべのもののべ)(注:網は一本に納、また細とも書く)は和泉に本籍を置き、布留宿禰と同祖である。(注:『新撰姓氏録』による。)垂仁天皇の時代、春日臣の一族である市河臣(いちかわのおみ)がいて石上神宮の神宝を管掌したが、これが物部首の祖である。(注:○東大寺古文書および正倉院文書によれば、文武天皇の時代に豊前国上三毛郡(かみつみけのこおり)の人である物部首古志売(もののべのおびとこしめ)がいた。聖武天皇の時代には出雲の人である物部首石足(もののべのおびといそたり)がいた。村上天皇の時代には丹波擬大領(たんばのぎだいりょう)で右近衛の物部首惟範(もののべのおびとこれのり)、および同族で検校主帳(けんぎょうのしゅちょう)を務めた者がいたが、いずれもこの一族であろう。しかし『新撰姓氏録』の物部首には二つの系統があり、実際には区別が難しいため、ここに付け加えておく。)景行天皇の時代、物部君(もののべのきみ)の祖である夏華(なつはな)がいた。(注:『日本書紀』による。)聖武天皇の時代、上野国甘楽郡(かんらのこおり)の人で外少初位下の磯部牛麻呂(いそべのうしまろ)らが物部公の姓を賜った。(注:『続日本紀』による。○神亀の碑には鍛冶師である磯部君牛麻呂とあり、これがそれである。また『羅山文集』によれば甘楽郡には貫前神社(ぬきさきじんじゃ)があり、磯部氏が代々その祭祀を務めたとある。おそらく同族であろう。参考までに付け加えておく。)

櫛代氏(くしろうじ)。造の姓で、和泉に本籍を置いた。布留宿禰と同祖である。聖武天皇の時代、釧直諸人(くしろのあたいもろひと)がいたが(注:聖武天皇以下は東寺文書による。○櫛代と釧とは読みが通じる)、おそらく同族であろう。

井代氏(いしろうじ)。臣の姓で、摂津に本籍を置いた。米餅搗大使主の子孫で大和国添上郡井手村(いでのむら)に住んだ者がおり、これにちなんで氏とした。(注:代と手とは読みが通じる。)おそらく同族であろう。

津門氏(つとうじ)。首の姓で、摂津に本籍を置き、米餅搗より出た。(注:『新撰姓氏録』による。)

近淡海国造(ちかつあふみのくにのみやつこ)。(注:『古事記』による。)醍醐天皇の時代、近江の人で右衛門府生(うえもんのふしょう)の国造恒世(くにのみやつこつねよ)がいたが(注:『朝野群載』による)、おそらくその子孫であろう。

高生氏(たこううじ)。孝昭天皇の子孫である。仁明天皇の時代、近江の人で弾正大弼(だんじょうだいひつ)の嶋朝臣真行(しまのあそみまさゆき)(注:嶋朝は一本に嶋腳とも書く)が高生朝臣(たこうのあそみ)の姓を賜った。(注:『続日本後紀』による。○高生氏はおそらく天足彦国押人の子孫であろう。しかし本書にはその系統が記されていないため、ここでは疑いを残しておく。)

高志利波氏(こしのとなみうじ)。(注:利は一本に礪とも書く。)臣の姓で、孝霊天皇の皇子である日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)の子孫である。(注:『古事記』による。)聖武天皇の時代、越中の人である礪波臣志留志(となみのおみしるし)がいて、越中員外介(いんがいのすけ)を務めた。(注:『続日本紀』による。)

葦北氏(あしきたうじ)。(注:北はまた分とも書く。)君の姓を持つ者がある。(注:『日本書紀』による。)国造を持つ者もある。五十狭芹彦(いさせりひこ)(注:五十狭芹彦は吉備津彦(きびつひこ)の別名である)の子である三井根子命(みいねこのみこと)は、景行天皇の時代に葦北国造(あしきたのくにのみやつこ)となった。(注:『先代旧事本紀』による。)敏達天皇の時代、国造である阿利斯登(ありしと)の子の日羅(にちら)がおり、百済で成長した人物であった。天皇はこれを召して任那の事について相談させようとしたが、百済人に殺害されてしまった。天皇はその賊を捕らえ、葦北君に心を尽くした。(注:『日本書紀』による。)

豊国前氏(とよくにさきうじ)。臣の姓を持つ者、国造を持つ者がある。(注:『古事記』『先代旧事本紀』による。)成務天皇の時代、五十狭芹彦の六世の孫である午佐自命(うまさじのみこと)が国造となった。(注:『先代旧事本紀』による。○『古事記』では豊国前臣を日子刺肩別の子孫としているが、どちらが正しいかは分からない。ここでは本書に従っておく。)聖武天皇の時代、豊後国球珠郡(くすのこおり)の領である国前臣竜麻呂(くにさきのおみたつまろ)がいた。(注:東大寺正倉院文書による。)

宇自可氏(うじかうじ)・海氏(あまうじ)は、ともに孝霊天皇の皇子である彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)の子孫である。

針間宇自可氏(はりまのうじかうじ)。(注:『古事記』には牛鹿とある。)臣の姓で、右京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。針間は『古事記』による。)廃帝(淳仁天皇)の時代、画工正(えだくみのかみ)の宇自可臣山道(うじかのおみやまみち)がいた。(注:『続日本紀』による。)朱雀天皇の時代、左近衛番長の宇自加友興(うじかのともおき)がいた。(注:『将門記』による。)一条天皇の時代、雑色長(ぞうしきのちょう)の宇自可春利(うじかのはるとし)がいた。三条天皇の時代、番長の宇自可吉忠(うじかのよしただ)がいた。(注:『小右記』による。)いずれもその子孫である。その一族には春庭氏(はるにわうじ)・笠氏(かさうじ)がある。(注:笠氏については『文徳実録』による。)仁明天皇の時代、右京の人である宇自可臣良宗(うじかのおみよしむね)が春庭宿禰(はるにわのすくね)の姓を賜った。(注:『続日本後紀』による。)文徳天皇の時代、正七位下の宇自可臣武雄(うじかのおみたけお)が笠朝臣(かさのあそみ)の姓に改めた。(注:『文徳実録』による。)清和天皇の時代、正六位上の宇自可臣吉人(うじかのおみよしひと)が笠朝臣の姓を賜った。陽成天皇の時代、右京の人で外従五位下の宇自可臣秋田(うじかのおみあきた)らもまた笠朝臣の姓を賜った。(注:『日本三代実録』による。)笠朝臣にはまた稚武彦(わかたけひこ)より出た系統もあるが、これは後に見える通りである。(注:○『類聚符宣抄』によれば村上天皇の時代に中宮戸座(ちゅうぐうのへざ)の笠宿禰犬丸(かさのすくねいぬまる)がいたとあるが、どの一族か分からないため、ここに付け加えておく。)

海氏(あまうじ)。直の姓。(注:『先代旧事本紀』による。)仁徳天皇の時代、吉備海部直黒売(きびのあまべのあたいくろめ)がいた。(注:『古事記』による。)雄略天皇の時代、吉備海部直赤尾(きびのあまべのあたいあかお)がいた。敏達天皇の時代、吉備海部直難波(きびのあまべのあたいなにわ)および羽嶋(はしま)がいた。(注:『日本書紀』による。)おそらく同族であろう。(注:○吉備海部直については実際にはその系統がはっきりしない。「吉備」と称することから、稚武彦より出たのではないかと思われる。しかし諸書を調べても、稚武彦の子孫に海部氏がいるとは見当たらない。ただ『先代旧事本紀』には彦狭嶋の子孫に海直(あまのあたい)があるとされている。あるいは兄弟であったために、両者が入り混じったのであろうか。下文にある角鹿国造も、本紀では稚武彦の子孫とされているが、『古事記』では角鹿海直を日子刺肩別の子孫としている。今はひとまず本紀に従い、ここに掲げておく。)

笠氏(かさうじ)・三尾氏(みおうじ)・廬原氏(いおはらうじ)・印南野氏(いなみのうじ)・真髪部氏(まかみべうじ)・角鹿氏(つぬがうじ)・吉備氏(きびうじ)・下道氏(しもつみちうじ)・上道氏(かみつみちうじ)・賀陽氏(かやうじ)・三野氏(みのうじ)・苑氏(そのうじ)は、いずれも孝霊天皇の皇子である稚武彦命(わかたけひこのみこと)の子孫である。

笠氏(かさうじ)。稚武彦の孫である鴨別命(かもわけのみこと)より出た。朝臣の姓を持つ者、臣の姓を持つ者があり、ともに右京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。○『日本書紀』によれば鴨別は御友別(みともわけ)の弟であるとされ、「孫」というのはおそらく脱字があるのだろう。詳しくは吉備氏の条に述べる。)また国造を持つ者もある。(注:『先代旧事本紀』による。)鴨別は応神天皇に仕え、天皇が吉備に行幸され加佐米山(かさめやま)に登られた折、つむじ風が起こって御笠が落ちたので、天皇はこれを不思議に思われた。鴨別は「これは山の神が土地の産物を献上しようとしているのでしょう」と申し上げ、そこで狩りを行ったところ大いに獲物を得た。天皇は喜んで「賀佐(かさ)」の名を賜った。(注:『新撰姓氏録』による。)吉備波区芸県(きびのはくぎのあがた)を封じられ、これが笠臣の祖となった。(注:『日本書紀』による。)鴨別の八世の孫である笠三枚臣(かさのみひらのおみ)は笠国造(かさのくにのみやつこ)となった。(注:『先代旧事本紀』による。)天武天皇十二年、笠臣は朝臣を賜った。(注:『日本書紀』による。)元明天皇の時代、笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)は美濃守となり、吉蘇山道(きそのさんどう)を開いた功績により、封戸七十戸・田六町を賜った。称徳天皇の時代、山背国宇治郡(うじのこおり)の少領である笠臣気多麻呂(かさのおみけたまろ)が朝臣を賜り、備前の人で外少初位下の三財部毗登方麻呂(みたからべのひとかたまろ)らが笠臣の姓に改め賜った。(注:『続日本紀』による。)仁明天皇の時代、飛驒の人である三尾臣永主(みおのおみながぬし)、右京史生(ししょう)の三尾臣息長(みおのおみおきなが)らが笠朝臣を賜り、右京に本籍を移された。(注:『続日本後紀』による。)清和天皇の時代、安芸の采女である凡直負刀自(おおしのあたいおうねとじ)が笠朝臣宮子(かさのあそみみやこ)の姓名を賜り、左京職に配属された。宮子は中務少丞(なかつかさのしょうじょう)である笠朝臣豊主(かさのあそみとよぬし)の娘であったが、幼くして落ちぶれ、実の父の氏を失って凡直の籍に入れられ、采女として貢進されていた。その一族である笠朝臣数道(かさのあそみかずみち)らがその事情を証言したため、元の籍に復した。観音寺は「当寺の奴である清貞(きよさだ)らは、従五位下の笠朝臣麻呂の五世の孫です。麻呂は天平年間に造寺使を務め、私的に寺家の女に生ませた子であったため、母の家に従って奴とされました。どうか格式に照らして良民として復籍し、筑後国竹野郡(たけののこおり)に本籍を移していただきたく存じます」と申し出た。これは許可された。陽成天皇の時代、左京の人で左大史の印南野臣宗雄(いなみののおみむねお)が「私の先祖は吉備武彦(きびのたけひこ)の二子である御友別、三子である鴨別から出ており、実に笠氏の祖である兄弟の子孫です。同じ姓を賜りたく存じます」と申し出た。そこで勅により宗雄ら五人に笠朝臣の姓が賜られた。(注:『日本三代実録』による。)一条天皇の時代、少内記(しょうないき)の笠吉仲(かさのよしなか)、左馬属(さまのさかん)の笠為政(かさのためまさ)がいた。後冷泉天皇の時代、主税権允(ちからのごんのじょう)の笠教良(かさののりよし)がいた。近衛天皇の時代、主計少属(かずえのしょうさかん)の笠国政(かさのくにまさ)がいた。(注:『外記日記』による。)いずれもおそらく同族であろう。(注:『類聚符宣抄』によれば、村上天皇の時代に中宮職戸座(ちゅうぐうしきのへざ)の笠宿禰犬丸がいたとあるが、宿禰姓もまた同族であろうか。ここに付け加えておく。)若狭に住んだ一族は、元正天皇の時代から代々若狭彦神社(わかさひこじんじゃ)の社務を務め、後世には牟久氏(むくうじ)と称した。(注:常陸増井正宗寺文書、『笠氏系図』による。)円融天皇の時代、右大史の牟久忠陳(むくのただのぶ)がいたが(注:『類聚符宣抄』による)、おそらくその一族であろう。

三尾氏(みおうじ)。臣の姓で、飛驒に本籍を置いた。笠朝臣と同祖である。(注:『続日本後紀』による。)

廬原氏(いおはらうじ)。(注:あるいは五百原とも書く。)稚武彦の孫である吉備武彦(きびのたけひこ)より出た。朝臣の姓を持つ者、公の姓を持つ者、国造を持つ者がある。公姓は右京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。朝臣は『続日本後紀』、国造は『先代旧事本紀』による。)景行天皇の時代、吉備武彦は日本武尊の東征に従い(注:『日本書紀』による)、阿倍廬原(あべのいおはら)に至った。復命の日、詔によって廬原の地を賜った。(注:『新撰姓氏録』による。)その子である意加部彦命(おかべひこのみこと)は、成務天皇の時代に国造となった。(注:『先代旧事本紀』による。)仁明天皇の時代、右京の人で遣唐訳語(いやくご)の廬原公有子(いおはらのきみありこ)、および兄の柏守(かしわもり)らが朝臣を賜った。(注:『続日本後紀』による。○『古事記』では五百原君を日子刺肩別の子孫としているが、これはここでの記述と一致しない。今はひとまず『新撰姓氏録』『先代旧事本紀』に従う。)

印南野氏(いなみのうじ)。臣の姓。吉備武彦より出た。称徳天皇の時代、播磨守の日下宿禰子麻呂(くさかべのすくねこまろ)が「配下の賀古郡(かこのこおり)の人で外従七位下の馬養造人上(うまかいのみやつこひとかみ)が、『人上の先祖は吉備武彦から出ており、本来の姓は上道臣といいます。仁徳天皇の時代、上道臣息長借鎌(かみつみちのおみおきながのかりかま)が初めて賀古郡印南野(いなみの)に住みました。六世の孫である牟射志(むざし)は馬を巧みに養い、上宮太子(聖徳太子)に仕えて馬司(うまのつかさ)を務めました。それゆえ庚午年籍には馬養造と注記されています。どうか居住地にちなんで印南野臣の姓を賜りたく存じます』と申し出ました。国司が改めて審査したところ、その申し立ては事実でした」と奏上した。そこでこれが許可された。(注:『続日本紀』による。本書では吉備武彦を吉備津彦と書いている。『古事記』も上道臣を吉備津彦の子孫としており同じ説であるが、宗雄自身は吉備武彦の子孫であると述べている。これによれば本書の記述はおそらく誤りであろう。そこで訂正した。)

真髪部氏(まかみべうじ)。もとは白髪部(しらかべ)といった。(注:『続日本紀』による。)右京に本籍を置き、吉備武彦より出た。(注:『新撰姓氏録』による。)桓武天皇の代、光仁天皇の諱に触れることを憚って真髪部と改めた。(注:『続日本紀』による。)陽成天皇の時代、備中国窪屋郡(くぼやのこおり)の人である真髪部成道(まかみべのなりみち)がいたが(注:『日本三代実録』による)、おそらく同族であろう。

角鹿氏(つぬがうじ)。(注:あるいは敦賀とも書く。)直の姓を持つ者(注:『続日本紀』による)、国造を持つ者がある。稚武彦の孫である建功狭日命(たけいさひのみこと)は、成務天皇の時代に国造となった。(注:『先代旧事本紀』による。)称徳天皇の時代、敦賀直嶋麻呂(つぬがのあたいしままろ)がいて、外従五位下を授けられた。(注:『続日本紀』による。)淳和天皇の時代、角鹿直福貴子(つぬがのあたいふきこ)がいて、越前の正税稲五百束を賜った。(注:『類聚国史』による。)清和天皇の時代、角鹿直真福子(つぬがのあたいまふくこ)がいて、外従五位下を授けられた。(注:『日本三代実録』による。)いずれも国造の子孫であろう。(注:○『古事記』には角鹿海直とあり、おそらくこれと同じ姓であろう。しかしそこでは日子刺肩別の子孫とされており、この説とは一致しない。兄弟であったために混同が生じたのであろうか。今後の考証を待ちたい。)後嵯峨天皇の時代、民部丞の角鹿実直(つぬがのさねなお)がいた。(注:『平戸記』による。)後村上天皇の時代、但馬権守(たじまのごんのかみ)の角鹿辰氏(つぬがのたつうじ)がいた。(注:『園太暦』による。)

吉備氏(きびうじ)。吉備武彦の子である御友別命(みともわけのみこと)より出た。朝臣の姓を持つ者は左京に、臣の姓を持つ者は右京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。吉備武彦の子であることは『日本三代実録』による。○『新撰姓氏録』では稚武彦の孫である御友別としているが、下道朝臣の条では「稚武彦の孫は吉備武彦である」としている。『日本書紀』によれば吉備武彦は日本武尊の東征に従っており、これは実際には景行天皇の時代のことであるのに対し、御友別は応神天皇に仕えている。景行天皇から応神天皇まではすでに四世を経ており、つまり御友別はおそらく吉備武彦の子か孫であって、稚武彦の孫ではないだろう。『日本三代実録』の説の方が正しいと思われるので、今はこれに従う。)聖武天皇の時代、下道朝臣真備(しもつみちのあそみまきび)および下道臣乙吉備(しもつみちのおみおときび)・真事(まこと)・広(ひろし)らがともに吉備朝臣の姓を賜った。(注:『続日本紀』による。)真備は後に右大臣となり、備中国下道郡の大領を兼ねた。(注:『本朝文粋』による。)同じ頃、出雲国神門郡(かんどのこおり)の人である吉備部臣子人(きびべのおみこひと)がいた。(注:東大寺正倉院文書による。)称徳天皇の時代、河内国志紀郡の人である岡田毗登稲城(おかだのひといなぎ)が吉備臣の姓に改め賜った。(注:『続日本紀』による。)

下道氏(しもつみちうじ)。御友別より出た。朝臣の姓を持つ者、臣の姓を持つ者、国造を持つ者がある。(注:『日本書紀』による。)朝臣は左京に本籍を置いた。(注:『新撰姓氏録』による。)応神天皇が吉備に行幸された際、御友別が非常に謹んでお仕えしたため、天皇は喜ばれ、吉備の地を分けてその子弟に封じられた。長子の稲速別(いなはやわけ)は下道国造(しもつみちのくにのみやつこ)となり、これが下道臣の祖である。中子の仲彦(なかつひこ)は加夜国造(かやのくにのみやつこ)となり、上道臣の祖となった。末子の弟彦(おとひこ)は三野国造(みののくにのみやつこ)となり、三野臣の祖となった。(注:『日本書紀』による。『先代旧事本紀』も参照した。○本紀には稲速別を「兄彦命」の別名としている。)そもそも稚武彦は兄である五十狭芹彦に従って吉備を平定し、その子孫の多くはこの地に住んだため、この頃までにその一族はますます繁栄していた。(注:『古事記』『日本書紀』による。)雄略天皇の時代、下道臣前津屋(しもつみちのおみさきつや)が罪を得て誅殺され、その一族七十人もあわせて誅殺された。天武天皇十二年、下道臣は朝臣を賜った。(注:『日本書紀』による。)聖武天皇の時代、下道朝臣人主(しもつみちのあそみひとぬし)がいて、賀陽郡(かやのこおり)の大領を務めた。(注:『先覚万葉抄』引用の『備中国風土記』による。)孝謙天皇の時代、下道臣色夫多(しもつみちのおみしこぶた)が朝臣を賜った。(注:『続日本紀』による。)

上道氏(かみつみちうじ)。仲彦の子である多佐臣(たさのおみ)が上道国造(かみつみちのくにのみやつこ)となった。(注:『先代旧事本紀』による。)すなわち上道臣の祖である。雄略天皇の時代、上道臣田狭(かみつみちのおみたさ)が任那国司となり、その妻は宮中に入って星川王(ほしかわのみこ)を生んだ。天皇が崩御されると星川王は反乱を起こし、上道臣の一族は軍船四十艘を率いてこれを助けた。まもなく星川王は事が破れて焼死し、清寧天皇は上道臣らを譴責して、その領していた山部(やまべ)を奪われた。(注:『日本書紀』による。)孝謙天皇の時代、備前国造の上道正道(かみつみちのまさみち)、および上道臣斐太都(かみつみちのおみひたつ)がともに朝臣を賜った。斐太都はまもなく吉備国造となった。(注:『続日本紀』による。)朱雀天皇の時代、左近衛将監の上道守代(かみつみちのもりよ)がいた。(注:『外記日記』による。)後世、その一族には加賀白山神社(かがはくさんじんじゃ)の神主となった者がいる。(注:『白山記』『歴名土代』による。)

賀陽氏(かやうじ)。(注:賀陽はまた香屋とも書く。)すなわち加夜国造の子孫である。朝臣の姓を持つ者、臣の姓を持つ者がある。称徳天皇の時代、備中国賀陽郡の人で外従五位下の賀陽臣小玉女(かやのおみこたまめ)ら十余人が朝臣を賜った。(注:『続日本紀』による。)清和天皇の時代、賀陽郡の人で左大史の賀陽朝臣宗成(かやのあそみむねなり)、同姓で備中権博士(びっちゅうのごんのはかせ)の真宗(まさむね)らが左京職に本籍を移された。(注:『日本三代実録』による。)宇多天皇の時代、賀陽郡の大領である賀陽豊仲(かやのとよなか)、弟で統領の豊蔭(とよかげ)、吉備津宮(きびつのみや)の禰宜(ねぎ)である豊恒(とよつね)がいた。(注:『扶桑略記』による。)後鳥羽天皇の時代、周防在庁官(すおうざいちょうかん)の賀陽宿禰重俊(かやのすくねしげとし)・弘方(ひろかた)がいたが(注:『東鑑』による)、おそらく同族が後に姓を改めたものであろう。

三野氏(みのうじ)。臣の姓。(注:『日本書紀』による。)桓武天皇の時代、三野臣広主(みののおみひろぬし)・浄日女(きよひめ)がいた。(注:『続日本紀』による。)

苑氏(そのうじ)。直の姓。応神天皇の時代、御友別の兄である浦凝別(うらこりわけ)を吉備苑県(きびのそののあがた)に封じ、これが苑直の祖となった。(注:『日本書紀』による。)また臣の姓を持つ者もあり、おそらく同族であろう。持統天皇の時代、園臣生羽女(そののおみいくはめ)がいた。(注:『万葉集』による。)聖武天皇の時代、薗臣五百国(そののおみいおくに)が備中国賀夜郡(かやのこおり)の少領を務めた。(注:『備前国風土記』による。)村上天皇の時代、宮内少録(くないのしょうろく)の薗臣五種(そののおみいつたね)がいたが(注:『類聚符宣抄』による。臣は『除目大成抄』による)、おそらくその子孫であろう。