卷之二百六十六 志廿三

神祇廿三

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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文字

**神官**

神官(しんかん)(注:もろもろの書物を調べると、神祇に専従する者を総称して「神官」「神祠官」「社司」「神職」などと呼び、呼称は一定していない。ここでは仮に「神官」の呼称に従う。)

上古、天子が天祖(あまつみおや)に仕えた際には、天子と神とは同じ床・同じ殿に住み、敬い仕えて怠ることがなかった。中臣氏(なかとみうじ)・忌部氏(いんべうじ)は左右から天子を補佐し、祭祀と政治をともに司った。玉祖氏(たまのおやうじ)・鏡作氏(かがみつくりうじ)・猨女氏(さるめうじ)などの諸氏は、それぞれ祖先から受け継いだ職掌を守り、祭祀に奉仕した。崇神天皇(すじんてんのう)の代に至って、初めて天祖を祭る場を磯堅城(いそのかたき)の神籬(ひもろぎ)に遷した。垂仁天皇(すいにんてんのう)の代には、さらに伊勢神宮に遷した。神を敬う心はいっそう篤くなったものの、神宮と皇宮とはついに分かれて二つになった。(注:『日本書紀』『古語拾遺』による。)このとき初めて祭官(さいかん)・神主(かんぬし)・内人(うちんど)・物忌(ものいみ)・祝部(はふりべ)を置き、神宮に奉仕させた。(注:『倭姫命世記』『皇太神宮儀式帳』による。)ただし常に皇女を天子の代わりとして祭祀に侍らせ、その祭官には政務を執る大夫を兼務させた。祭祀と政治とは、いまだかつて分かれてはいなかった。(注:祭官以下の記述は『中臣氏本系帳』による。)

そもそも太祖(神武天皇)が高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を祭った際には、自ら顕齋(うつしいわい)を行い、上将軍(かみいくさのきみ)を斎主(いわいぬし)とした。崇神天皇が大物主神(おおものぬしのかみ)・大国魂神(おおくにたまのかみ)の二神を祭った際には、貴族で神の血を引く者を祭神の主とした。(注:『日本書紀』による。)仁徳天皇(にんとくてんのう)が布都努斯神(ふつぬしのかみ)を祭った際には、皇族を神主とした。(注:『新撰姓氏録』による。)つまり神主とは、その時々に天子に代わって神祇に祈請する者であって、正式な職名として定められていたわけではない。それゆえ神功皇后(じんぐうこうごう)が大事を起こそうとした際にも、自ら神主となって神の教えを請い、元老・重臣がこれを助けた。(注:『日本書紀』による。)祭祀を重んじることはこれほどであった。下って国造(くにのみやつこ)・伴造(とものみやつこ)・君(きみ)・別(わけ)・県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ)などの氏族に至るまで、みな祖先の祀りを奉じ、祖先の徳を受け継ぎ修めて、それを政治に及ぼした。(注:『日本書紀』『新撰姓氏録』『延喜式』などの大意による。)これが、上において祭祀と政治がともに正しく行われ、下において教化が行き渡った理由である。

大化(たいか)の改制に至って、大神宮司(だいじんぐうじ)を置き、神宮の諸政務を司らせた。(注:『皇太神宮儀式帳』による。)また神官頭(しんかんのかみ)を置き(注:『日本書紀』に「神祇官頭」とあるのがこれである)、王族・宮内の礼儀・婚姻・卜占のことを司らせた。(注:『古語拾遺』による。)ここに至って神官と政官とが初めて分かれた。これより後、祭主(さいしゅ)・宮司(ぐうじ)・禰宜(ねぎ)・内人・物忌・祝部などは、もっぱら祭祀・祈禱・祝詞奏上・神饌供進などの事を司る常設の職となった。これらはみな神官の一部である。(注:『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』による。)朝廷はただ歳時に王族や中臣氏・忌部氏を遣わして幣帛(へいはく)を奉らせるのみとなった。(注:『続日本紀』以下の国史による。)諸国では国司(こくし)に祠社を司らせるようになった。(注:『令義解』による。)国造・県主の子孫は、あるいは郡領(郡司)となって、わずかに祖先の祀りを奉ずるだけとなった。(注:『類聚三代格』による。)あるいは代々その職を世襲し、「神主」「祝部」を姓氏とする者も現れた。(注:『新撰姓氏録』『荒木田系図』『度会系図』『鴨県主系図』による。)祭祀と政治はここに至って完全に分かれたのである。

大宝令(たいほうりょう)の制定に至って、神祇官(じんぎかん)を百官の首位に置き、神祇に関する政務を統括させた。(注:『令義解』による。)官位の叙任にあたっては、必ずまず神宮および諸社の神官を叙し、その後に内外の文武官に及んだ。(注:『続日本紀』『日本文徳天皇実録』による。)これもなお上古の敬神の礼を残すものであった。諸国の社司はおおむね神の子孫が補任され、祖先を尊ぶ気風もいまだ消えてはいなかった。(注:『諏訪神氏系図』『日吉社司家系』『熱田社司田島家譜』『阿蘇大宮司系図』による。)しかし祭祀と政治がすでに分かれてしまうと、人と神との間は次第に遠くなり、みだりな祭祀や礼を汚す風潮もそれに伴って起こった。神宮寺(じんぐうじ)が次第に盛んになるに及んでは、大神宮を除く名神大社(みょうじんたいしゃ)では、おおむね神官と僧侶とがともに祭祀・祈禱を司るようになり、甚だしい場合には神官の職掌が僧侶に侵し奪われることさえあった。歴代の天皇が神を敬った政(まつりごと)は、ほとんど絶えてしまった。古今の移り変わりは、まことに嘆かずにはいられない。(注:『続日本紀』以下の国史、『元亨釈書』による。)いま諸書を考え調べて、大神宮以下諸社の神官、および神祇官・宮主(みやじ)・戸座(へざ)・御巫(みかんなぎ)・神部(かんべ)・卜部(うらべ)など、もっぱら祭祀に関わる職について、その沿革を記し、ここに付す。

**大神宮神官**

**祭主**

祭主(さいしゅ)。初めは「祭官(さいかん)」といった。(注:『祭主補任次第』『大中臣氏文』による。)垂仁天皇二十五年、阿倍臣(あべのおみ)の祖である武渟川別(たけぬなかわわけ)、和珥臣(わにのおみ)の祖である彦国葺(ひこくにぶく)、中臣連(なかとみのむらじ)の祖である大鹿島(おおかしま)、物部連(もののべのむらじ)の祖である十千根(とおちね)、大伴連(おおとものむらじ)の祖である武日(たけひ)の五人の大夫に詔して、神祇を礼祭させた。そして天照大神(あまてらすおおみかみ)を皇女倭姫命(やまとひめのみこと)に託し、伊勢神宮に安置し奉った。(注:『日本書紀』による。)五大夫もまた供奉してこの事に携わった。(注:『皇太神宮儀式帳』による。)ついに大鹿島を祭官とした。(注:『倭姫命世記』『神名秘書』『詔刀師沙汰文』による。○『職員抄』『荒木田系図』はいずれも「祭主」と記すが、これは後から遡って呼んだものであろう。また『大神宮雑事記』には景行天皇三年に初めて祭官を置いたとあるが、おそらく誤りである。)これ以降、中臣氏が代々「前事奏官(ぜんじそうかん)」を兼ねた。(注:『中臣氏本系帳』による。)太古、思兼神(おもいかねのかみ)が御前に控えて政務を執ったという(注:『古事記』による)のが、この奏官の名残であろう。

中宗(舒明天皇または天武天皇)壬戌(みずのえいぬ)の年、祭官を改めて祭主とし、中臣大島(なかとみのおおしま)をこれに任じた。(注:祭官を改めて祭主としたことについては諸説一致しない。文保二年に撰した年代記には舒明天皇がこれを改めたとあり、『大神宮例文』には天武天皇の代に始まるとある。いずれが正しいか分からないので、ここでは両書に従っておく。)大島もまた前事奏官を兼ねた。(注:『祭主補任次第』『大中臣氏文』による。)その後、中臣氏の子孫が代々この官にあり、兼任は行われなくなった。(注:『中臣氏本系帳』『職原抄』による。)延喜の制では、祭主は一人とし、神祇官の中臣氏で五位以上の者をこれに補した。仕丁(しちょう)十人を給し、初任の年には稲一万束を給した。年に四度の勅使が下る際には祭主がこれに供奉し、神祇官符に祭主の署名がないものは、神宮司らはこれを奉行してはならないとされた。(注:『延喜式』による。)祭主の任命にあたっては、上卿(しょうけい)が勅を承って、神祇官に符を下して補充させた。(注:『西宮記』による。)天徳四年、他姓の者が中臣氏を詐称して祭主・宮司に任じられ、しばしば神の祟りがあったため、勅によってこれを糾した。

**大神宮司**

大神宮司(だいじんぐうじ)。禰宜・内人・物忌らを総括して統率し、祭事に奉仕させるとともに、神郡(しんぐん)・神戸(かんべ)の諸政務をも司る。(注:『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』『延喜式』による。)当初、神と天子とは同じ殿に住み、神の物と官の物との区別はなかった。(注:『古語拾遺』による。)垂仁天皇が神宮に神庤(かんだち、神の倉)を設けたのは、神の物を別に貯蔵するためであり、これを管理する司を置いた。大化五年にこれを廃止し、改めて本司(ほんし)を置いて神宮の諸事務を行う所とし、それまで神庤司であった中臣香積連須気(なかとみのかつみのむらじすけ)を新たにこの職に補した。(注:『皇太神宮儀式帳』による。)宝亀元年、中臣朝臣比登(なかとみのあそみひと)をこの職に任じ、後についにその家の世襲の職となった。延暦五年、任期を六年と定めた。(注:『大神宮例文』による。)同十七年、初めて季禄(きろく)を給し、神祇官の神封物(しんぷうもつ)を充てた。(注:『類聚国史』による。)

大同二年、斎部広成(いんべのひろなり)が上奏して、「中臣・斎部の両氏は神代よりこのかた日神(ひのかみ)に奉仕してきており、その職掌は本来分かち難いものであります。しかるに今、伊勢の宮司には中臣氏のみが任じられ、斎部氏は除かれております。これは典礼を失していると申せましょう」と述べたが、聞き入れられなかった。弘仁七年、宮司の清持(きよもち)が仏事を行ったために神の祟りがあり、大祓(おおはらえ)の罰を科され、任を解かれた。(注:『類聚国史』による。)貞観十二年、宮司を一員増やした。同十五年、「宮司はもと一員であったが、年料として絹百匹・米三百斛を給する」と定めた。元慶五年、神祇官が「宮司はもと従六位一人であったが、先に一員を加えたため、大小の別がなく、職掌の区分もない。同じく『受領(ずりょう)』と称するため、互いに争いが生じている。大小の員数と位階を定め、交代の際には受領を引き継がせ、いずれも長官の任用に準ずるようにされたい」と言上した。そこで勅により大宮司一員を正六位上、小宮司一員を正七位上と定め、(注:『日本三代実録』による。)これを恒例とした。(注:『延喜式』による。)延喜二年、大宮司に権官(ごんかん)一員を加えた。(注:『大神宮例文』による。○大宮司・権大宮司・小宮司は、後世には略して「大司」「権大司」「小司」と称した。)式が定められるに及んで、大小の宮司はいずれも雑色人(ぞうしきにん)を補任し、笏(しゃく)を持つことを許された。勤務評定は長上官(ちょうじょうかん)に準じ、六年を任期の限りとして解由(げゆ)を求めた。その季禄は神稅(しんぜい)から給し、国司の交替に準じた。初任の年には稲千束を給し、年料の絹・米は貞観の制のとおりとした。権司に任じられた者には、その絹・米を按分して充てた。元日にはもろもろの宮の禰宜・内人および神郡司らを率いて諸宮を遥拝し、これを終えると朝拝を行った。三日の早朝には斎宮(さいくう)を拝賀した。祈年祭(きねんさい)の幣帛使(へいはくし)が到着すると、使者を導いて内宮・外宮の二宮に参らせた。神衣祭(かんみそさい)・三節祭(さんせつさい)などにおいては、いずれも祝詞(のりと)を宣した。禰宜・大内人以下の勤務評定の文書を作成し、神郡・神戸の諸事務を総括した。(注:『延喜式』による。)

宮司は勅符(ちょくふ)を下して補任した。(注:記録による。)しかしこの後、大宮司・権大宮司・小宮司の三司の補充は、あるいは造営の功績によって、あるいは氏人の推挙による上奏によって行われるようになり、これを望んで争う者が非常に多くなって、その選任は次第に乱れていった。(注:『類聚符宣抄』『朝野群載』による。)安和二年、「宮司の職は、朝廷の公事によるのでなければ、みだりに祈禱を行ってはならない。しかるに今聞くところによれば、朝廷の権威を軽んじ、不義の祈禱を行う者があるという。その職を停めるべきである」との勅が下された。(注:『大神宮雑事記』による。)元永元年、大中臣公隆(おおなかとみのきんたか)が「承暦年中、公隆は斎宮寮(さいぐうりょう)の三院およびその殿舎を造進いたしました。この功績によって宮司に補任されるべきところ、長治の初めにその事由を具さに申し上げましたが、いまだ朝恩を蒙っておりません。先例を検討いたしますに、一院を造進した者でさえ特別な恩賞を受けております。まして三院を造進したのであればなおさらです。今、宮司公衡(きんひら)の任期はすでに満ちておりますので、公隆は旧例により、その欠を補任されますよう願い出ます」と言上し、許された。(注:『朝野群載』による。)応保二年、「神宮からの奏状には、祭主・宮司・禰宜らが必ず解状(げじょう)を副えて進上する例であるが、近頃宮司はその状を進上していない。祭主・禰宜らに事由を弁明させるべきである。もし怠慢があれば督責を加え、もとのとおり副進させよ」との勅が下された。(注:『壬生官務古文書』による。)

**禰宜**

禰宜(ねぎ)。もっぱら祈禱を司り、あわせて内人・物忌らを統率して神饌(しんせん)の供進に奉仕させ、さらに宮中の諸事務や宿直(とのい)による警護を統括する、常設の長上官である。(注:『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』『延喜式』による。)垂仁天皇の時、天児屋命(あめのこやねのみこと)の子孫である天見通命(あめのみとおしのみこと)を禰宜とし、(注:『皇太神宮儀式帳』による。)その職は子孫に伝えられて、これが荒木田神主(あらきだのかんぬし)の祖となった。(注:『神宮雑例集』『皇太神宮禰宜譜図帳』『大神宮例文』による。)同じ頃、天村雲命(あめのむらくものみこと)の子孫である大若子命(おおわくごのみこと)を神国造(かんのくにのみやつこ)とし、あわせて大神主(だいかんぬし)とした。(注:『神宮雑例集』引く『大同本記』『倭姫命世記』による。)その子孫は世襲し、これが度会神主(わたらいのかんぬし)となった。(注:『神宮雑例集』『大神宮例文』『度会系図』による。)雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)が度会宮(わたらいのみや、外宮)を建てるに及んで、大若子の後裔である大佐佐命(おおささのみこと)を内宮・外宮二宮の大神主とした。(注:『倭姫命世記』『詔刀師沙汰文』『大神宮例文』による。)天武天皇は大神主を廃して禰宜二員を置き、荒木田・度会の二氏をこれに任じて、ともに二宮の事を司らせた。(注:『詔刀師沙汰文』『大神宮例文』『禰宜補任至要集』による。)持統天皇(じとうてんのう)は荒木田野守(あらきだののもり)を内宮禰宜に、度会君麻呂(わたらいのきみまろ)を外宮禰宜に任じた。(注:『神名秘書』『詔刀師沙汰文』『大神宮例文』による。)これより荒木田・度会の二氏は「神主」を姓とし、それぞれ二宮の禰宜に補任され、子孫が代々その職を世襲した。(注:『荒木田系図』『度会系図』『大神宮例文』による。)

天平二年、禰宜二人の位を二階進めた。(注:『続日本紀』による。)天平勝宝元年、黄金が初めて産出したことにより、二宮の禰宜に位を授けた。(注:『続日本紀』『大神宮例文』による。)これ以降、慶賀や祥瑞、祈禱などのたびに位階を賜るのが例となった。(注:『続日本紀』以下の国史、『大神宮例文』『禰宜補任至要集』による。)天平神護二年、初めて笏を持つことを許された。(注:『大神宮雑事記』による。)神護景雲二年、季禄を給した。内宮は従七位に、外宮は正八位に準じた。(注:『続日本紀』による。)宝亀十一年の制で、十考(十年の勤務評定)による選叙を改め、長上官に準じて四考(四年)で内位を叙することとした。(注:『小右記』『禰宜補任次第』による。)延暦年中、禰宜の定員を、内宮一人は従七位上、外宮一人は正八位下と定め、いずれも卜占(ぼくせん)で選ばれた者をこれに任じた。(注:『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』による。)貞観七年、これより先、禰宜は誤って外位(げい)に叙されていたが、この時に至って内宮禰宜の願いにより内位に改め叙された。ただし外宮はこれを申請しなかったため、もとのままとされた。(注:『類聚大補任』『禰宜補任次第』による。)同八年、「五位の禰宜の位料は神稅から給し、神郡の人を資人(しじん)に補すことを恒例とする」と定めた。(注:『日本三代実録』『延喜式』『類聚大補任』による。)延喜の制では、いずれも度会郡の人を補任することとし、ただし外宮は雑色人を補任し、笏を持つことを許した。季禄は、内宮は従七位に、外宮は従八位に準じ、いずれも神稅から給した。恩詔による位記は、式部省が神祇官に送り、神祇官は四度の祭使に付してこれを下した。使者は神祇史(じんぎし)一人を率いて、直会院(なおらいいん)の第一殿においてこれを授けた。もし五位に叙される場合は中重(なかのえ)においてこれを行い、内人および神郡の祝(はふり)らも同様であった。近親の喪に遭った場合は穢れに触れることを恐れて四十九日間服喪し、祓い清めた上で任に復した。内人・物忌の父らも同様であった。(注:『延喜式』による。)

天慶五年、外宮禰宜で外従五位下であった神主晨晴(かんぬしのときはる)が初めて内位に叙された。(注:『外記日記』『禰宜補任次第』による。)これより後、まず外位に叙し、後に内位を授けることが永例となった。(注:『禰宜補任次第』による。)天暦四年、外宮に一員を加えた。応和元年、内宮もまた同様にした。天延二年、さらに各一員を加え、いずれも三員となった。永延元年、外宮に一員を増した。正暦五年、両宮とも一員を加えた。(注:『大神宮例文』『禰宜補任至要集』による。)この後、正禰宜のほかに権禰宜(ごんのねぎ)・擬禰宜(ぎのねぎ)・擬権禰宜・官符権禰宜・擬符権禰宜などの属官があり、その数は次第に増えていった。正禰宜・権禰宜は、あるいは「神主」とも称された。(注:『朝野群載』『大神宮年中行事』『禰宜補任次第』による。)寛弘三年、内宮正禰宜を二員増やし、外宮も一員増やして、いずれも従前と合わせて六員とした。(注:『大神宮例文』『禰宜補任至要集』による。)長暦三年、禰宜・権禰宜らが神民(しんみん)を率いて入京し、祭主らの罪悪を訴えた。そこでそれぞれに応じて祓えの罰を科した。これにより、「今後、禰宜らが入京することを停止する。違反した者は解任する。もし訴えるべきことがあれば、権官一人が上京することを許す」と定めた。(注:『大神宮雑事記』『後深心院関白記裏書』による。)承暦三年、内宮禰宜一員が初めて正四位上に叙された。(注:『大神宮例文』による。)寛治三年、「両宮の禰宜が事を奏上する際は、必ず祭主を経て上申し、自ら解状を進上してはならない」と定めた。(注:『禰宜補任至要集』による。)天永二年、外宮禰宜一員もまた初めて正四位上に叙された。(注:『大神宮例文』による。)

当時、内宮の正禰宜は四位が一人、五位が五人、権禰宜は四位が二人、五位が三十二人、官符禰宜(かんぷのねぎ)は六位が三人であった。外宮の正禰宜・官符禰宜は内宮に準じ、権禰宜は五位が二十八人で、いずれも公卿・勅使の禄に与った。(注:『朝野群載』による。)天治二年、両宮の正禰宜・権禰宜に位一階を授けた。すでに四位に叙されている者については、その分を他の者に振り替えて授けることとし、後にこれが例となった。(注:『大神宮例文』による。)当時、三位に叙すべしとの議論もあったが、実現しなかった。(注:『百錬抄』による。)保延元年、両宮の禰宜の交代勤務が煩雑であることから、さらに増やして各七員とした。(注:『中右記』『大神宮例文』『禰宜補任至要集』による。)当時、正禰宜は五位以上の者を宣旨によって補充した。権官には定員がなく、両宮それぞれ百余人に及び、みな大内人(だいないにん)がこれを兼ねた。(注:『新任弁官抄』による。)保延三年、両宮の禰宜以下数千人が入京して訴え事を起こした。(注:『後深心院関白記裏書』による。)翌年、「両宮の禰宜で、長暦の制符に従わず法を犯して入京する者は、その首謀者を注進せよ。もし上奏すべき事があれば、宮司と協議の上、解状を副えて言上せよ」との勅が下された。(注:『壬生官務古文書』による。)治承三年、「両宮の権禰宜の氏人らが、あるいは本姓を改めて他の官職に任じられたり、あるいは神事をなおざりにして権門に趨り、昇進を望んで好んで京に住み着いたりしている。また訴訟のある者が上京して越訴(おっそ)することも、今後はすべて停止する。もし訴訟があれば宮司の解状を副えて天裁を待て。当番の勤めを欠く者は法により解職せよ」と定めた。

建久二年、「禰宜の正官は常勤とし、権官は交替で勤務することは、制度として久しく定まっている。しかるに今、正官が法に違って交替勤務をなし、権官以下は常に当番の勤めを欠いている。あるいは他国に移り住み、あるいはみだりに京官を望む者もいる。今後は必ず旧制を守り、新制に違反してはならない。それでもなお改めない者は、宝亀八年の符に遵って位記を追収し、社務を停止せよ」と定めた。(注:『類聚大補任』による。)建久四年、「禰宜は学問があり、故事に通じた者を任じるべきである。しかるに近年はただ年功だけで昇進させ、才のない者が多くこの職にあって、事の役に立っていない。今後は祭主・宮司が共に協議して、その人物を選挙すべきである」と定めた。(注:『禰宜補任至要集』による。)承久三年、両宮の正禰宜にさらに各一員を加えた。嘉元二年、さらにいずれも二員を加え、十人と定めた。(注:『大神宮例文』『禰宜補任至要集』による。)後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の代に至って、両宮の禰宜各一人に従三位を授けたが、これはまことに特例であった。(注:『禰宜補任至要集』による。)

**大内人**

大内人(だいないにん)。太古、猿田彦神(さるたひこのかみ)は天上にあって日神と幽契(密約)を結び、先立って伊勢の五十鈴川(いすずがわ)のほとりに降り住んだ。(注:『古語拾遺』による。)垂仁天皇が神宮を興すに及んで、その子孫である太田命(おおたのみこと)が宮地を定め神田を献上し、子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称して、代々宇治大内人(うじのだいないにん)を務めた。(注:『皇太神宮儀式帳』『倭姫命世記』による。)その後、両宮にそれぞれ内人三員を置いた。(注:『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』による。)天平二年、六人の位をそれぞれ一階進めた。天平勝宝五年、内人および物忌ら男女六十一人に位階を加えた。(注:『続日本紀』による。)延暦年中、内人の定員を、内宮は三人とし、一人を宇治大内人として三節祭・神衣祭を司らせ、幣帛使が到着する日には太玉串(ふとたまぐし)・天八重榊(あめのやえさかき)を供え、斎王(さいおう)および陪従の座席を設けさせた。もう一人は三節祭における御贄(みにえ)・神酒の検校を司り、もう一人は三節祭における斎王の諸司への供給・儲備の事を司った。(注:『皇太神宮儀式帳』による。)外宮は三人とし、いずれも小内人・物忌らを率いて朝夕の神饌を調え、あわせて三節祭の諸事を司らせた。(注:『止由気宮儀式帳』による。)大内人はすべて卜定(ぼくじょう)によって選ばれた者を任じ、潔斎して職に奉仕させ、交代で宿直させて、常にその長とした。(注:『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』による。)大同三年、「両宮の大内人は、もとは白丁(はくてい、無位の者)であったが、これ以後は外考(げこう)に与らせ、笏を持つことを許す」と定めた。(注:『日本後紀』による。)貞観三年、内宮に副大内人が置かれた。(注:『日本三代実録』による。)おそらく一人を増やしたのであろう。延喜の制では、大内人は両宮各四人とし、度会郡の人を選んで補充し、永く内考(ないこう)に与らせ、みだりにその職を譲ってはならないとした。(注:『延喜式』による。)この後、大内人には玉串(たまぐし)・番検(ばんけん)・宮掌(くじょう)などの属官があり、いずれも公卿・勅使の禄に与ったが、時に応じて増減し、定員はなかった。(注:『江家次第』『朝野群載』『大神宮年中行事』による。)玉串は鬘木綿(かずらゆう)および玉串を供えることを司り、番検は禰宜らの結番(勤務割り当て)を検知することを司った。(注:『新任弁官抄』による。)宮掌は宮中の当番勤務を司った。(注:『大神宮年中行事』による。)いずれも権官を置いたが、これも定員はなかった。両宮それぞれ百余人に及び、六位の者を補任して権禰宜を兼ねさせ、みな祭主が任意にこれを任命したという。(注:『新任弁官抄』による。)

**物忌、物忌父**

物忌(ものいみ)・物忌父(ものいみのちち)。垂仁天皇の代、倭姫命が大神を篠幡宮(しのはたのみや)に奉じた際、伊己呂比命(いころひのみこと)の娘である大宇禰奈命(おおうねなのみこと)を大物忌(おおものいみ)とした。(注:『倭姫命世記』『皇太神宮禰宜譜図帳』による。○「宇禰」は「乎彌」とも書く。)五十鈴宮(いすずのみや)に遷るに及んでは、大若子命の娘である兄比女(えひめ)を物忌とし、大宇禰奈とともに神饌の供進に奉仕させた。(注:『神宮雑例集』引く『大同本記』による。)倭姫命が都に還るに及んでは、伊己呂比命の妹である川姫命(かわひめのみこと)を大物忌に任じ、自らの代わりに祭祀に侍らせた。(注:『皇太神宮儀式帳』による。)雄略天皇は土師物忌(はじのものいみ)を置き、宇仁(うに)の埴土(はにつち)を採って天平瓮(あめのひらか)を造らせ、諸宮を祭らせた。また御炊物忌(みかしぎのものいみ)を定め、御飯を炊いて供進することを司らせた。(注:『倭姫命世記』による。)神亀六年、外宮の大物忌父・物忌子らが穢れに触れて祟りがあったため、大祓の罰を科し、任を解いた。(注:『大神宮雑事記』による。)天平勝宝五年、物忌に位階を加えた。(注:『続日本紀』による。)

延暦年中、内宮の物忌の定員を九人と定め、それぞれに父一人を添えて補佐させ、これを物忌父と称した。大物忌一人は神饌の供進を司った。宮守物忌(みやもりのものいみ)一人は東相殿(ひがしのあいどの)の神饌の供進を司った。地祭物忌(じさいのものいみ)一人は西相殿の神饌の供進を司り、あわせて宮地の地鎮祭を司って、忌鎌(いみがま)で宮地の草を刈り、忌鋤(いみすき)で宮地を掘り起こした。酒作物忌(さかつくりのものいみ)一人は神酒を醸すことを司った。清酒作物忌(すみさけつくりのものいみ)一人は臼で搗いて白酒(しろき)を造ることを司った。瀧祭物忌(たきまつりのものいみ)一人は祭物を供え備えることを司った。御塩焼物忌(みしおやきのものいみ)一人は御塩(みしお)を焼くことを司った。土師器作物忌(はじきつくりのものいみ)一人は神饌の器具を造ることを司った。山向物忌(やまむきのものいみ)一人は太玉串・天八重榊を供え備えることを司り、あわせて山口祭(やまぐちさい)において忌鎌で草木を刈り、木本祭(きもとさい)において忌斧(いみおの)で樹木を伐ることを司った。四所の別宮にはそれぞれ一人を置き、神饌の供進を司らせた。(注:『皇太神宮儀式帳』、参照『延喜式』による。)

外宮は五人とし、これにも父をそれぞれ一人添えて補佐させた。大物忌一人は内宮と同じ事を司った。御炊物忌一人は神稲(しんとう)を舂き炊いて塩・贄(にえ)を儲えることを司った。御塩焼物忌一人は内宮と同じ事を司った。菅裁物忌(すがたちのものいみ)一人は忌鍬(いみくわ)を造って神田を耕すことを司り、あわせて新宮を造る日には宮地の草木を刈り裁つことを司った。根倉物忌(ねくらのものいみ)一人は根倉神田を耕すことを司り、その収穫した稲で神酒を醸した。別宮・高宮(たかのみや)には一人を置き、神饌の供進を司らせた。(注:『止由気宮儀式帳』、参照『延喜式』による。)

物忌はすべて童女(どうにょ)を任じたが、ただ宮守・山向のみは童男(どうなん)を任じ、いずれも卜占で選ばれた者を補充した。内宮の大物忌および地祭・宮守は、宮の後方を流れる川より外へ出てはならず、違反した者は解任された。外宮および諸別宮の物忌父は、あわせて交代の宿直をも司った。(注:『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』による。)物忌は高宮を除き、いずれも月粮(げつろう)を充て、神封物を給した。元慶三年、高宮の物忌にも月粮を与えるようになった。(注:『日本三代実録』による。)この後、伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)の物忌一人を加えた。延喜の制では、諸々の物忌はすべて度会郡の人を用い、ただし伊雑宮(いぞうのみや)は志摩の神戸(かんべ)の人を任じ、いずれもみだりにその職を譲ってはならないとした。父が死んだ場合はその子を解任し、子が死んだ場合は父も解任し、いずれも任に復することはできなかった。(注:『延喜式』による。)

後世、物忌の呼称は一定せず、「物忌子良(ものいみのこら)」あるいは単に「子良(こら)」とも呼ばれた。(注:『江家次第』『朝野群載』『神宮雑例集』『大神宮年中行事』『二十二社注式』による。○諸書にはまた「子等」あるいは「子良子」とも記される。)特に大物忌は「大子良(おおこら)」と呼ばれた。(注:『嘉暦勅使記』『造内宮記』による。)物忌父とは、必ずしもその実の父ではない。また「館母(たてのはは)」という者があって子良を補佐し、あるいは「母良(もら)」とも称されたが、これもその実の母ではない。(注:『江家次第』『朝野群載』『大神宮年中行事』『古老口実伝』による。)大物忌・御炊物忌・御塩焼物忌を「三色物忌(さんしきのものいみ)」と称し、いずれも公卿・勅使の禄に与った。(注:『朝野群載』『江家次第』『公卿勅使次第』による。)

**小内人**

小内人(しょうないにん)。神亀年中、御炊内人(みかしぎのないにん)があった。(注:『大神宮雑事記』による。)延暦年中、内宮の小内人の定員を八人と定めた。御笥作(みけつくり)は神饌用の木器を造ることを司り、忌鍛冶(いみかぬち)は雑金器を造ることを司り、陶器作(すえつくり)は陶器を造ることを司り、御笠縫(みかさぬい)は蓑笠(みのかさ)を縫うことを司り、日祈(ひのり)は風雨の災いを祓い除くことを司り、御巫(みかんなぎ)は祓除(はらえ)・解斎(げさい)を司り、それぞれ一人であった。御馬飼(みうまかい)は二人で、神馬(しんめ)を飼養することを司った。四所の別宮にはそれぞれ一人を置き、ただし月読宮(つきよみのみや)には御巫一人を加えた。(注:『皇太神宮儀式帳』、参照『延喜式』による。)外宮は五人とした。木綿作(ゆうつくり)は木綿(ゆう)を作り儲えることを司り、御巫・忌鍛冶・御馬飼・御笠縫は各一人で、いずれも内宮と同じ事を司った。高宮には一人を置いた。(注:『止由気宮儀式帳』『延喜式』による。)小内人はすべて卜占で選ばれた者を補任し、あわせて交代の宿直をも司らせた。(注:『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』による。)

天安元年、大神宮司が「両宮の大内人は、先に笏を持つことを許されました。しかし五所の別宮の内人はそうではありません。祭祀の日には手をこまねいて事に従うだけで、儀式の場では一般の官吏・民衆と変わりません。同じく笏を持つことを許し、威儀を整えられますように」と言上し、これが聞き入れられて恒例となった。(注:『日本文徳天皇実録』『大神宮雑事記』による。)貞観六年、外宮の御馬飼一人を加えた。同九年、伊佐奈岐宮の内人一人を置いた。(注:『日本三代実録』による。)延喜の制では、内宮に木綿作一人を加え、外宮に陶器作・御笥作を各一人加え、諸別宮にもいずれも各一人を増やし、そのうち一人は八位以上の者およびその蔭子孫(おんしそん)を用いることとした。度会郡および志摩の神戸の人を選ぶことは、物忌の例と同様であった。(注:『延喜式』による。)後世、両宮にはそれぞれ山向・御塩・湯鑰取(ゆのかぎとり)・御麻(みあさ)などの内人があり、いずれも宮卿・勅使の禄に与った。(注:『朝野群載』による。)大神宮に仕える者は、姓が分からない場合は仮に秦氏(はたうじ)と称し、その後に任用されるのが常であった。(注:『古老口実伝』による。)

**諸社神官**

諸社の神官。中古以降、諸社には必ず祝部を置いて祭事を承らせ、あるいはこれに禰宜・物忌を加える社もあり、さらにその上に神主を加える社もあった。あるいはもとから神宮司を加え置いて社務を総攬させる社もあった。おおむねいずれも大神宮に準じたものであるが、格式には軽重の差があった。

神宮司(じんぐうじ)は、また宮司ともいい、(注:『日本後紀』による。)後には大宮司(だいぐうじ)と称された。(注:『類聚符宣抄』『日本紀略』による。)宝亀七年、初めて越前の気比神宮司(けひのじんぐうじ)を置き、従八位相当の官とした。(注:『続日本紀』による。)延暦十七年、「神宮司らは一度任じられれば終身の職であるため、神を侮り穢して不敬となり、しばしば祟りを招いている。今後は氏族の中から清廉謹慎な者を選んで補任し、六年を任期の限りとすべきである」と定め、(注:『類聚国史』『類聚三代格』による。)これを恒例とした。(注:『延喜式』による。)ついで「これまで諸々の神宮司は長上官に準じて四考(四年)を限りとしていたが、今後は番上官(ばんじょうかん)の例に準じるよう改めるべきである」との勅が下され、(注:『類聚国史』による。)これも例となった。(注:『延喜式』による。)同十九年、「諸々の神宮司は、任期が満ちないうちに服喪により解任すべき事情が生じた場合、代わりを補任してはならない。神主・祝らにその職務を代行させ、喪が明ければ任に復して任期を満たさせよ」と定め、(注:『類聚国史』『類聚三代格』による。)後に例となった。(注:『延喜式』による。)同二十年、出雲の神宮司を廃止した。(注:『類聚国史』による。)

同二十三年、「常陸の鹿島(かしま)、越前の気比、能登の気多(けた)、豊前の八幡(はちまん)などの宮司の職は、人々がこぞって望み、それぞれ譜代の家柄であると称している。今後は神祇官が旧記を検討し、氏族の中から職に堪える者を選んで補任するよう朝廷に申請すべきである」と定めた。大同四年、「気比・八幡の宮司の交替は、国司の解由(げゆ)の例に準ずる」と定めた。(注:『日本後紀』による。)後もこの例に従った。(注:『延喜式』による。)弘仁十二年、大神(おおが)・宇佐(うさ)の二氏を八幡宮司とし、(注:『類聚国史』による。)これを永制として、他の氏族を雑多に補任してはならないとした。(注:『延喜式』による。)承和十一年、鹿島に権宮司(ごんのぐうじ)を置いた。翌年、常陸国が「鹿島の権宮司はその職掌が正任の宮司と変わらないのに、奉幣使が下る際には正任にのみ当色(とうしき、相応の装束)を賜い、権任には給されません。祭場に臨んでも、同じ官でありながら装束が異なります。正任に準じて給されるようお願いいたします」と言上し、これが聞き入れられて永例となった。(注:『続日本後紀』による。)

貞観六年、「筑前の香椎廟司(かしいびょうじ)は六年を任期の限りとする」と定め、(注:『日本三代実録』による。)これも永例となった。(注:『延喜式』による。)仁和三年、「旧例では、下総の鹿取(かとり、香取)の神宮司の赴任にあたり、伝符(でんぷ)を給する場合と給しない場合とがあって、定例がなかった。今後は伝符の支給を停止し、官符に食馬(じきば)を給する旨を注記することとし、食馬を給されるべき諸々の神宮司は、みなこれに準ずるものとする」と定めた。(注:『類聚符宣抄』による。)延喜の制では、宇佐・気比の二神宮司は雑色人を補任し、いずれも笏を持つことを許した。気比神宮司の勤務評定は神祇官に属し、諸権宮司は任期が満ちればその年の末に解任することとした。諸神宮司の季禄は、香取・鹿島・気比はいずれも従八位相当とし、封戸物(ふこもつ)をこれに充てた。気多は少初位相当とし、神封を給した。(注:『延喜式』による。)香取・鹿島・気比・気多などの宮司は、太政官符を下して補任し、ただ豊前の八幡宮司のみは、あるいは勅を奉じて補充されることもあった。(注:記録による。)

天延二年、筑前の宗像宮司(むなかたのぐうじ)が言上した。「謹んで旧例を調べますに、天慶より以前、当社にはまだ宮司が置かれておらず、神主を長として雑事を執り行っておりました。藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱の平定を祈願したことにより正一位勲一等に叙せられ、太宰大弐(だざいのだいに)源清平(みなもとのきよひら)が初めて宮司を置くよう命じ、神主にこれを兼ねさせました。その後も引き続き兼任してまいりましたが、いまだ宣旨を蒙ってはおりません。ただ大宰府・国衙において、代わる代わる望みを争っているのが実情です。神田の地子(じし)や歳時の祭料は用いる当てを欠き、無理に労役の代わりとして用いております。神宮の雑務はこれによって次第に衰えております。傍らの先例を重ねて検討いたしますに、筑後の高良大神宮司(こうらだいじんぐうじ)のごときは、以前は国司がそのたびに郎等一人を検校職に補しておりましたが、交替の際にはその職を棄てて入京してしまい、在任中の勤怠については全く問われることがありませんでした。安和年中の官符により、初めて大神宮司が任じられました。それ以来、神威はいよいよ厳かとなり、修理も怠りなく行われております。また当国の住吉・香椎、筑前の竈門(かまど)・筥崎(はこざき)などの社では、大宮司を貫首(かんじゅ)としております。しかるに当社のみは一人がこれを兼任しております。諸社の例に照らせば、職の重みが軽んじられているようです。どうか官符を蒙り、宗形朝臣氏能(むなかたのあそみうじよし)を大宮司職に補されますように」と。天元二年に至って、これが許された。(注:『類聚符宣抄』による。)これ以降、諸社の氏人が先例を援用して功績を述べ立て、宮司職を望む者が非常に多くなった。朝廷はすぐにその願いを許し、おおむねこれを先例とするようになり、その制度は乱れてしまった。(注:『類聚符宣抄』『朝野群載』による。)

**神主**

神主(かんぬし)。上古にも「祭神主(さいしんしゅ)」というものがあったが、(注:『日本書紀』による。)いまだ正式な職名として立てられてはいなかった。(注:上古において祭神の主、すなわち神主と称されたものについては、すでに上に略述したとおりであるが、これは後世でいう神主の類とはもとより異なる。しかしその名称の起こりは、あるいはこれに由来するものであろう。備考として付す。)中世以降、天社(てんしゃ)・地社(ちしゃ)に神主を置くことが次第に多くなった。天武天皇五年、「諸社の神稅は、その三分の二を神主に給する」との勅が下された。(注:『日本書紀』による。)天平十九年、大神神主(おおみわのかんぬし)で従六位上であった大神朝臣伊可保(おおみわのあそみいかほ)と、大倭神主(おおやまとのかんぬし)で正六位上であった大倭宿禰水守(おおやまとのすくねみもり)に、いずれも従五位下を授けた。(注:『続日本紀』による。○「大神神主」は原本には「大神主」とあるが、今は他本によって訂正した。)延暦十七年、「神主・神長(かんおさ)らの補任・任期は、いずれも神宮司に準ずる」と定めた。(注:『類聚国史』『類聚三代格』による。)同十九年、太宰府が奏上して、「筑前の宗像郡(むなかたぐん)の大領(だいりょう)は、補任の際に例として神主を兼ね、すぐに五位に叙されておりました。しかるに今、延暦十七年の勅に『譜代による選任は永く停廃し、才能ある者を抜擢して用いよ。具体的な条目もある』とあります。大領で神主を兼ねていた宗像朝臣池作(むなかたのあそみいけつくり)が没してから、今に至るまで三年、しばしば祭祀の供進を欠いております。才能ある者を歴訪して試みましたが、いまだ適任者を得ておりません。また神祇官の延暦十七年の符を按ずるに、『神主の任には、すでに期限がある。仮に才があって郡を治めることができ、あわせて神主を帯びる者があっても、終身の職に居り、六年の任を兼ねさせよ』とあります。この事は穏便ではありませんので、謹んで官の裁定を請います」と述べた。これにより勅により郡領が神主を兼ねることを停止した。(注:『類聚三代格』による。)同二十年、初めて住吉神主(すみよしのかんぬし)に笏を持たせた。(注:『日本紀略』による。)後にこれを例とした。雑色人をこれに補任した。(注:『延喜式』による。)

大同二年、「神主の服喪の期間は、宮司とまったく同様とする。喪が明けて任に復すことも、どうして異なる例とすることがあろうか。今後は同様に任に復すことを永例とする。ただし解任の間は祝部に職務を代行させよ」(注:「以為」以下は『延喜式』による。)との勅が下された。「また諸社の中には神長(かんおさ)を任じている社もあるが、これは通例に外れている。もし官符によって神長を任じている社があれば、神主に改めるべきである」。(注:『類聚三代格』による。)天長六年、和朝臣宅継(やまとのあそみやかつぐ)を若狭比古神主(わかさひこのかんぬし)とした。(注:『類聚国史』による。)弘仁三年、「諸社の神主が交替する日には、みな解由を与えることを永例とする」と定めた。(注:『日本後紀』『延喜式』による。)

弘仁十二年、大和国が言上した。「国内の名神(みょうじん)、たとえば大和(おおやまと)・大神(おおみわ)・広瀬(ひろせ)・龍田(たつた)・賀茂(かも)・穴師(あなし)などの社は、農耕を祈り災いを祓い、たびたび霊験がございます。しかるに近頃は神主が適任の人でないために、しばしば祟りを招いております。それゆえ国は延暦十七年の符の趣旨により、人を選んで言上いたしましたが、時にあるいは他の人を任用し、符の趣旨に反することがございます。選んで言上した人物を、一切任用されますようお願いいたします」。またこう言上した。「官職を有する者が神主を兼任していると、常に本職に勤め、社務に従事しません。神社が傾き壊れるのは、これが理由です。官職のない者を選び出し、もっぱら神主のみを任じて祈禱に専念させ、あわせて神社の修理にあたらせるようお願いいたします」。またこう言上した。「禰宜・祝らの勤務評定は国司が定めますが、神主だけは国司に属しておりません。それゆえ在任中の功績・過失を検覈する術がございません。神主の勤務評定も、国司がその状況に応じて褒貶を加え、善悪を明らかにされますようお願いいたします」。いずれも許された。後に撰格所の申請により、天下に頒布し施行した。(注:『類聚三代格』による。)

承和十年、肥後の健磐龍命(たけいわたつのみこと)、河内の平岡(ひらおか)の大神神主らは、永く笏を持つことを許された。(注:『続日本後紀』による。)斉衡三年、神祇官が言上した。「調べましたところ、住吉・平岡・鹿島・香取などの神主は、みな笏を持つことを許されております。それ以外の神社にはこの例がなく、祭礼の日には手をこまねいて事に従うのみです。三位以上の社の神主らにも、同様に笏を持たせられますようお願いいたします」。勅により、「入色(にゅうしき、位階を有する者)にはこれを許すが、白丁はこの限りではない」とされた。(注:『日本文徳天皇実録』『類聚三代格』による。)貞観二年、下野の二荒神社(ふたらじんじゃ)に、初めて神主を置いた。同七年、これより先、平野・梅宮の神主には春冬の当色(相応の装束)料の絹布などを給していたが、この時に至って平岡の神主一人にもこれを準じさせた。同八年、大和の三歳社(みとせしゃ)に新たに神主を置いたところ祟りが生じたため、これを停止した。(注:『日本三代実録』による。)

同十八年、石清水八幡宮護国寺(いわしみずはちまんぐうごこくじ)が言上した。「当宮では以前、紀御豊権(きのみとよごん)を神主として祭事に奉仕させておりました。今、宇佐宮に準じて、常置の職とされますようお願いいたします」。これが聞き入れられた。(注:『日本三代実録』『類聚三代格』による。)元慶二年、春日神主(かすがのかんぬし)に従五位下を授けた。(注:『日本三代実録』による。)同五年、大和の宗像社(むなかたしゃ)の氏人である高階忠峯(たかしなのただみね)が言上した。「当社は清御原朝(きよみはらのちょう、天武朝)より今日に至るまで、氏人らが奉じてきた神宝・園地は種類も数もかなり多く、氏人が相継いで代々その事を掌ってまいりました。しかし今、年月を経ること久しく、人の心もゆるみ、あるいは神宝を失い、あるいは祭事を欠くことがございます。このような怠慢のため、しばしば神の祟りを招いております。それゆえ去年、『筑前に準じて神主を置かれますように』と上奏いたしましたが、いまだ裁下を蒙っておりません。伏してお願い申し上げますに、早く神主を補任し、社事を掌らせられますように。ただしその交替・補充は氏の長の推挙を待ち、任期はもっぱら格式の制によることといたします」。これが聞き入れられた。(注:『日本三代実録』『類聚三代格』による。)

延喜の制では、諸社の神主は、八位以上で年齢六十歳以上、祭事に堪える者を選んで補任することとした。氏人および神戸(かんべ)の百姓であっても、まずこの例に従い、その後に壮年の白丁にも及ぼし、その場合は課役を免除した。(注:『延喜式』による。)その補任には上卿(しょうけい)の宣旨を用いた。(注:記録による。)諸社に神主を置いた例は、おおむね上に述べたとおりである。その他、宇奈太利(うなたり)・村屋(むらや)・巻向(まきむく)・池(いけ)・恩智(おんち)・意富(おお)・葛木鴨(かつらぎかも)・日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)・伊太祁曾(いたきそ)・鳴神(なるかみ)・大原野(おおはらの)・山科(やましな)・当麻(たいま)・杜本(もりもと)・当宗(まさむね)などの神主は、いずれも延喜以前に置かれたものである。(注:『令義解』『令集解』『貞観儀式』『延喜式』を参照して記す。)

延久二年、吉備津彦社(きびつひこしゃ)の氏人が言上した。「諸社の神主が在京している間は、例として代官を置き、祀り事を勤めさせております。今、当社の神主である賀陽貞政(かやのさだまさ)は、用事で在京しているため、例祭が廃絶しております。傍らの先例に依り、氏人一人を代官とされますようお願いいたします」。(注:『壬生官務古文書』による。)いわゆる「神主代(かんぬしだい)」とはこれである。当時、諸社には大神主・中神主(ちゅうかんぬし)、あるいは権神主(ごんのかんぬし)・総神主(そうかんぬし)などを置くところもあり、(注:『津守系図』『紀伊文書纂』による。)あるいは一つの社に正・権あわせて八、九員を置くところもあった。(注:『日吉社記』による。)後にはついに社務を執行する者を、おしなべて「神主」と称するようになり、古の制度は廃れてしまった。

**禰宜、祝部**

禰宜(ねぎ)(注:「念義」「禰義」「禰奇」とも書く)・祝部(はふりべ)(注:単に「祝」とも書く)。禰宜はもっぱら祈禱を司る。(注:『類聚三代格』の大意による。○古くは祈禱そのものを「ねぎ」と言い、後にその行為をもって職名としたものであろう。)祝部は祭主のために言葉を述べることを司る。(注:『令義解』による。○「祝」を「はふり」と読むのは、なお「羽挙(はぶ)り」というに等しい。おそらく神に仕える者が衣の袖を軽やかに挙げ、進退に威儀があったことから、この名がついたのであろう。備考として付す。)この職の見えるのは非常に古い。(注:『日本書紀』には、太祖(神武天皇)の東征の際に居勢祝(こせのはふり)・猪祝(いのはふり)などを誅したとあるが、これはいわゆる土蜘蛛(つちぐも)の類を指すのであって、祝部を指すのではない。)崇神天皇は鴨県主鹿島(かものあがたぬしかしま)を日吉社(ひえしゃ)の祝とした。(注:『日吉社禰宜口伝抄』による。)垂仁天皇の時、尾張の吾鬘社(あづらしゃ)の祝を置いた。(注:『釈日本紀』引く『尾張国風土記』による。)同じ頃、倭姫命が大神宮の摂社二十社の祝を定めた。雄略天皇はさらにその三摂社の祝を置いた。(注:『皇太神宮儀式帳』による。)仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は倭(やまと)の菟田(うだ)の人である伊賀彦(いがひこ)を祝とし、大倉主(おおくらぬし)・菟夫羅媛(つぶらひめ)の二神を祭らせた。皇極天皇(こうぎょくてんのう)の時には祝部が非常に多くなり、大小の祠社に祝のないところはなかったという。持統天皇八年、祥瑞があったことにより、祝部らに絁布(あしぎぬ)を賜った。(注:『日本書紀』による。)

大宝の制では、神祇官が祝部の名帳を管掌した。祝部は、国司が神戸の中から選定し、太政官に申請した。もし神戸に適任の人がいなければ、広く庶人から取ることとした。(注:『令義解』による。)天平九年、諸神の祝部に爵位を授けた。同十九年、八幡大神(はちまんおおかみ)の女祝(めはふり)二人に、いずれも従八位上から外従五位下を授け、その一人は後に禰宜となった。天平宝字四年、諸社の祝部に爵一級を賜った。これは皇太后の不豫(ふよ、病気)を祈禱したことによる。天平勝宝八歳、河内に行幸した際、国中の諸社の祝・禰宜ら百十八人に、それぞれに応じて正稅(しょうぜい)を賜った。神護景雲元年、めでたい瑞兆があったことにより、諸国の祝部に位一級を授けた。(注:『続日本紀』による。)

宝亀六年、「四度の班幣(はんぺい)の日に、諸国の祝部で神祇官に参会しない者は、それぞれ責罰を加える」と定めた。弘仁年間に至って、またこの制を申し重ねた。宝亀七年、「諸社の祝が掃除・修理を勤めず、それによって損壊させた場合は、その位記を追収し、交替させて本の身分に戻すことを恒例とする」と定めた。(注:『続日本紀』『類聚三代格』による。○『類聚三代格』では宝亀八年とする。)同十一年、常陸の鹿島杜(かしまのもり)の祝で正六位上であった中臣鹿島連大宗(なかとみのかしまのむらじおおむね)に外従五位下を授けた。桓武天皇(かんむてんのう)が即位した際、諸社の禰宜・祝らに位一階を給した。(注:『続日本紀』による。)これ以降、即位や災異・祥瑞のたびに禰宜・祝に位を賜ることは、枚挙にいとまがない。(注:『類聚国史』『日本紀略』による。)ついで「賀茂の二社の禰宜・祝らに、初めて笏を持たせよ」との勅令が下された。(注:『続日本紀』による。)後にこれを例とした。(注:『延喜式』による。)

延暦十六年、「祝部に犯罪があり、潔斎の作法が正しくない者は、道理により解任せよ」との勅が下された。(注:『類聚国史』による。)弘仁三年、「諸国の封戸のない祠社は、今後禰宜・祝らに修理させよ。違反した者は解任し、位のある者は位記を追収し、白丁は杖一百の罰とする」との勅が下された。(注:『日本後紀』による。)同十一年、鹿島社の祝・禰宜に笏を持たせた。(注:『類聚国史』による。)天長二年、次のように定めた。「以前の例では、諸国の小社は、あるいは祝のみを置いて禰宜を置かず、あるいは両職をともに置き、あるいは女祝(めはふり)のみを置いて祭りを主宰させるなど、もともと定まった例がなかった。今後、両職をともに置く場合は、女を禰宜とすることとする。ただし先に置かれていた者は、その身が終わるまで務めさせよ」。(注:『類聚三代格』による。○女子が神事に関わることは、上代よりそうであった。天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神楽を供奉したことは、その最も古いものである。太祖(神武天皇)が顕齋を行った際、道臣(みちのおみ)に「厳媛(いつひめ)」の号を授けたのにも、必ず理由があったのであろう。崇神天皇以後、天祖を祭る際には必ず皇女にこれを承けさせた。しかしこの礼は、おそらく崇神天皇に始まったものではなく、天子と神とが同じ床・同じ殿に住んでいた時代から、常に天姫(あまつひめ)に侍らせていたために、このような制度があったのであろう。『古語拾遺』には、大宮売神(おおみやのめのかみ)が天祖の御前に侍り、今の世の内侍(ないし)のように、善い言葉・美しい言葉をもって君臣の間を和らげ、天子の御心を悦ばせたとある。これはまことに貴重な職であって、女巫(めかんなぎ)・女祝の類とは比べものにならない。皇女を祭祀に侍らせたのは、あるいはこれに由来するのであろう。そして諸社でしばしば女子に祭りを承けさせたのも、あるいはまたこれらの例によるものであろうか。備考として付す。)

承和元年、能登の気多社(けたしゃ)の禰宜・祝二人が、初めて笏を持つことを許された。同二年、越前の気比社(けひしゃ)の祝・禰宜もまた同様であった。同三年、下総国が「香取社(かとりしゃ)の禰宜は鹿島社に準じ、代々相続して同じく笏を持たせられたい」と言上し、許された。嘉祥二年、松尾社(まつのおしゃ)の禰宜・祝にも、笏を持つことが許された。(注:『続日本後紀』による。)仁寿三年、健御名方富命前八坂刀売命社(たけみなかたとみのみことさきのやさかとめのみことしゃ)の祝に、笏を持つことが許された。斉衡元年、越中の高瀬(たかせ)・二上(ふたがみ)などの社の禰宜・祝もまた同様であった。(注:『日本文徳天皇実録』による。)同三年、「諸国の神社の禰宜・祝らは神主に準じ、いずれも笏を持つことを許す」との勅が下された。(注:『日本文徳天皇実録』『類聚三代格』による。)

貞観七年、「諸社の祝部は白丁を補任することを停止し、八位以上および年齢六十歳以上で職務に堪える者を選んで補任することを恒例とする。ただし先に置かれていた者は、その身が終わるまで務めさせよ」と定めた。(注:『日本三代実録』『類聚三代格』による。)翌年、「先に祝部への白丁の補任を停止したが、諸国はもっぱら氏人・神戸と称して課丁(かちょう、課役対象の男子)を補任しようとしており、政治の道理を大いに害している。今後は氏人・神戸であっても、必ずまず八位以上および六十歳以上の者を尽くして用いよ。もし適任者がいなければ、年少者を用いよ。そして諸社に神主・禰宜・祝などの氏を勘申させ、国司がこれを検覈し、帳簿を作成して送付し、照合に備えさせよ」と定めた。同十年、撰格所(せんきゃくしょ)が言上した。「天長の制には『諸社に禰宜・祝をともに置く場合は、女を禰宜とする』とあります。しかるに斉衡の格には『三位以上の社の祝・禰宜は、同様に笏を持つことを許す』とあります。今、諸国の神社はその数が非常に多く、国司はこぞって霊験があると称して爵位の加増を願い出ており、二、三年のうちにたやすく三位に叙されております。諸国の雑色人はみな禰宜・祝に補され、笏を持たない者はなく、使者に差し立てる人材が乏しくなっております。これというのも、そもそも諸社の祝はもっぱら祭事を主宰するものであり、禰宜は職はあっても実務がないためです。伏してお願い申し上げますに、今後、諸社で新たに三位以上に叙される社は、天長の符により、女を禰宜に補し、笏を持つ者を減らされますように」。これが許された。(注:『類聚三代格』による。)

元慶五年、伊予国が言上した。「諸社の祝部の氏人帳は、毎年作成して朝集使(ちょうしゅうし)に付して太政官に進上しておりますが、期限に定めがなく、あまりに頻繁に作成しております。郡司の譜図に準じて、一紀(十二年)に一度進上されますようお願いいたします」。勅により「三年に一度進上することとし、諸国はみなこれに準ぜよ」とされた。(注:『日本三代実録』『類聚三代格』による。)延喜の制では、「禰宜・祝の補充は、もっぱら神主の例に従う。一度補任した後は、みだりに交替させてはならない。他人と喧嘩・殴打し、その他の犯罪があった場合は神祇官に移送し、国司はみだりに処罰してはならない。祝部の名帳は毎年作成して太政官に送り照合させ、事実を確認すれば返鈔(へんしょう)を付す。賀茂の両社の禰宜・祝は雑色人を補任する。もし五位を帯びる者があれば、節会(せちえ)への参列を許す。宇佐宮の祝は雑色人を補任し、笏を持たせる」とした。(注:『延喜式』による。)大治二年、宇佐宮の女禰宜が、三年の功労により爵位を授けられた。(注:『中右記』による。)後世、禰宜・祝にはいずれも正・権・大・小・副・擬などの呼称があり、諸社は事情に応じて加え置くことを例とした。(注:『類聚符宣抄』『諏訪神氏系図』『東鑑』、鹿島・香取・吉田・薩都の諸社文書、『気比社記』『日吉神社社司家系』『加茂注進雑記』を参照して記す。)日吉社(ひえしゃ)のごときは、正・権の禰宜・祝二十余人があった。(注:『日吉社記』による。)

**物忌**

物忌(ものいみ)。また「忌子(いみこ)」とも称し、やはり童女をこれに任じた。鹿島・香取・加茂・平岡・春日・大原野・平野・松尾・園韓神(そのからかみ)・山科・当麻・杜本・当宗などの社には、いずれもこれを置いた。(注:『貞観儀式』『延喜式』を参照して記す。)平岡社では大中臣氏の女(むすめ)を用いた。(注:『類聚符宣抄』による。)延喜の制では、諸社の物忌にはいずれも祭服を給した。(注:『延喜式』による。)治承年中、鹿島の物忌に、平広常(たいらのひろつね)と結託して虚偽を構え、神主の領地を奪おうとした者があった。(注:『鹿島社文書』による。)おそらく童女ではない者もいたのであろう。近世、鹿島の物忌は、十歳以下の童女二人を選び、百日間齋戒させ、その後、天葉若木(あまのはわかぎ)を薪として亀甲を焼き、卜占によって一人を定めてこれを用いた。祭祀の時以外は、殿から出ることを許されなかった。(注:『鹿島斎女由来略記』『鹿島社文書』による。)諸社にはまた、社預(しゃよ)・炊女(かしぎめ)・別当(べっとう)・検校(けんぎょう)などの職を置くところもあったが、(注:『日本三代実録』『類聚三代格』『貞観儀式』『類聚符宣抄』による。)いまは詳しく記さない。

**神祇官隷屬六職**

神祇官(じんぎかん)に隷属する六職。

**宮主**

宮主(みやじ)。太古、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が奇稲田姫(くしいなだひめ)を妃として娶った際、その父母である脚摩乳(あしなづち)・手摩乳(てなづち)を宮主とし、「稲田宮主神(いなだのみやぬしのかみ)」と号した。(注:『日本書紀』による。)宮主の始まりはここにある。(注:『釈日本紀』による。)天子の御所および中宮・東宮には、それぞれ一人を置き、いずれも卜部(うらべ)の中から職務に堪える者を選んで任じ、御禊(ごけい)・御卜(みうら)などの事を司らせた。(注:『延喜式』による。)天子の御所のものを「大宮主(おおみやじ)」、また「内宮主(うちのみやじ)」と称した。東宮のものは「坊宮主(ぼうのみやじ)」と称し、皇太子を立てると必ずこれを補任した。天子が践祚(せんそ)する日には、そのまま大宮主に転じた。(注:『仁徳天皇実録』『宮主秘事口伝』による。)慶雲元年、大宮主は長上官の例に加えられた。養老三年、宮主に初めて笏を持たせた。天平九年、大宮主に爵位を賜った。(注:『続日本紀』による。)延喜の制では、宮主の季禄・馬料は神稅から充て、その月粮は官田をもって給した。伊勢の斎宮(さいくう)・賀茂の斎院(さいいん)にも、いずれも宮主一人を置き、解除(げじょ、祓い)・卜占の事に奉仕させた。(注:『延喜式』による。)天子の御所・中宮などの宮主は、神祇官の解状により、上卿の宣旨をもって補任した。天子の御所のものは、あるいは勅を奉じて補任することもあった。(注:『西宮記』による。)後世、宮主が幼少の時や喪に遭った時には、仮に他の人にこれを代行させ、「宮主代(みやじだい)」と称した。(注:『類聚符宣抄』『宮主秘事口伝』による。)

**戸座**

戸座(へざ)。これも宮主に準じてそれぞれ一人を置き、いずれも童男(どうなん)をこれに任じた。(注:『延喜式』による。)阿波・備前・備中の三国から貢進された。(注:『類聚三代格』『類聚符宣抄』による。)天子の御所には阿波の阿曇部(あずみべ)・壬生(みぶ)・中臣部(なかとみべ)の三氏から選び取り、女帝の場合には備前の壬生・海部(あまべ)・壬生首(みぶのおびと)・壬生部の四氏から選び取り、中宮には備中の海部首・生部首(いくべのおびと)・笠朝臣(かさのあそみ)の三氏から選び取った。天平三年、戸座に時服(じふく)・月料(げつりょう)を給した。(注:『類聚三代格』による。)延喜の制では、七歳以上の童男で卜占により選ばれた者を充てた。婚姻の時期になれば弁官に申し出て交替させ、斎宮にも一人を置いた。(注:『延喜式』による。)この後、備中・阿波が戸座を貢進することは、長和年間に至るまで絶えなかった。(注:『類聚符宣抄』による。)

**御巫**

御巫(みかんなぎ)。すでに上に略述したとおり、その職は天鈿女命(あめのうずめのみこと)に起こる。鎮魂祭(ちんこんさい)の御巫は、まさにその名残である。(注:『日本書紀』『古語拾遺』『貞観儀式』による。)神祇官の御巫は五人、倭国巫(やまとのくにのかんなぎ)は二人、左京の生島巫(いくしまのかんなぎ)は一人、右京の座摩巫(いかすりのかんなぎ)は一人、御門巫(みかどのかんなぎ)は一人で、それぞれに廬守(いおもり)一人を給し、戸の調役を免除した。(注:『令集解』による。)大同年中、斎部広成が、鎮魂の御巫に猨女氏(さるめうじ)が任じられていないことを理由に、これを復するよう上言した。(注:『古語拾遺』による。)延喜の制では、御巫(注:また「大御巫(おおみかんなぎ)」ともいう)・御門巫・生島巫、および中宮・東宮の御巫各一人は、庶女(しょじょ)で職務に堪える者を選んで充てた。ただし勤務評定は散事宮人(さんじのくうにん)に準じ、座摩巫は都下国造(つげのくにのみやつこ)の氏の女で七歳以上の者を選び、嫁ぐ時期になれば交替させた。御巫が交替するごとに、神殿以下を改め換えた。ただし座摩・御門・生島などの巫が祭る所は、神殿のみを改め、装束は供えなかった。新たに任じられた御巫には、みな屋(いえ)一宇を給した。また諸々の御巫にはそれぞれ畿内の田一町を給し、衣服は神稅から充てた。夏には時服として絁(あしぎぬ)一匹を給し、冬は給しなかった。食事はそれぞれ米・塩を給した。(注:『延喜式』による。)御巫は神祇官の解状により、上卿の宣旨をもって補任した。(注:『西宮記』による。)喪に遭った場合は他の人に代行して奉仕させ、「御巫代(みかんなぎだい)」と称した。(注:『類聚符宣抄』による。○『日本書紀』には、巫覡(ふげき)らが神の言葉にかこつけて妖言を作り、百姓を惑わし財物を貪り取ったことなどが記されており、巫覡による害もまた古くからあった。しかしこれらはみな『類聚三代格』にいう芻狗(すうく)・符書(ふしょ)・厭魅(えんみ)・呪詛(じゅそ)の類である。歴代の朝廷がしばしば勅を下してこれを禁遏したのであって、『和名抄』が巫覡を乞盗部(こつとうぶ)に収めているのは、官の巫とは大いに異なるものである。)

**猨女**

猨女(さるめ)。これもまた天鈿女命の遺業を伝え、代々祭事に奉仕する者である。(注:『日本書紀』『古語拾遺』『貞観儀式』による。)中古以降、稗田氏(ひえだうじ)の女をこれに任じた。(注:『西宮記裏書』による。)稗田氏は天鈿女命の後裔である。(注:『日本紀弘仁私記』序による。)猨女は縫殿寮(ぬいどのりょう)の解状により、内侍(ないし)が奏上して補任した。(注:『西宮記』による。)朝廷はその養田(ようでん)を近江の和邇村(わになむら)・山城の小野郷(おののごう)に置いた。弘仁年中に至って、小野・和邇部の二氏が私にその田を利用し、その氏でない者を猨女として貢進し、氏族を紊し神事を乱した。そこで勅によって二氏が猨女を貢進することを停止し、猨女君氏(さるめのきみうじ)の女一人を定めて縫殿寮に進めさせ、欠員のたびに補任することを永制とした。(注:『類聚国史』『類聚三代格』による。)貞観の制では、猨女四人は大嘗祭(だいじょうさい)に奉仕し、鎮魂祭でも御巫に続いて舞を奏した。(注:『貞観儀式』による。)延喜の制もこれに従った。(注:『延喜式』による。)天暦九年、縫殿寮の奏上により、大和・近江の二国の氏人に符を下し、猨女三人を貢進させて死没・欠員に備えて交替させた。(注:『西宮記裏書』による。)後嵯峨天皇(ごさがてんのう)の即位大嘗祭に至って、猨女で祭事に奉仕する者がいなくなり、神代からの故事は廃れてしまった。(注:『平戸記』による。)

**神部**

神部(かんべ)。中臣・忌部・猨女・鏡作(かがみつくり)・玉作(たまつくり)・盾作(たてぬい)・神服(かんはとり)・倭文(しとり)・麻績(おみ)などの氏人で、神代よりこのかた祭祀に奉仕してきた者を、神部と称する。(注:『日本書紀』『古語拾遺』による。)大宝の制では、神部三十人を置いた。(注:『令義解』による。○『令集解』には、衛禁律にいう「神部」とは祝を指すもので、これとは別であるとある。)大同年中に至って、中臣・忌部などの二、三氏を除いては、諸々の神部は勤務評定に与らなくなり、神々の裔は散亡して絶えようとした。斎部広成はこれを憂い、上言して古に復することを請うたが、(注:『古語拾遺』による。)用いられなかった。貞観の制では、幣帛を執り、神饌を舁(かつ)ぎ、歌舞を奏し、神殿を設営することなどは、みな神部の管掌するところとされた。(注:『貞観儀式』による。)延喜の制もまたこれに従った。(注:『延喜式』による。)

**卜部**

卜部(うらべ)。およそ神に仕える者は、必ず占いによって事を行った。神代においては、天児屋命が太占(ふとまに)の占いを司った。(注:『日本書紀』による。)卜部は壱岐(いき)・対馬(つしま)・伊豆(いず)に住み、いずれも天児屋命の子孫であって、朝廷はこれを選んでその職に供させ、合わせて二十人であった。壱岐・伊豆および対馬の上県(かみあがた)・下県(しもあがた)からそれぞれ五人ずつで、「四国卜部(しこくのうらべ)」と称した。(注:『新撰亀相記』による。)大宝の制では、卜部は神祇官に属し、卜兆(ぼくちょう)をもって神事に奉仕した。(注:『令義解』による。)卜部は神祇官の解状により、上卿の宣旨をもって補任した。(注:『西宮記』による。)延喜の制では、大神宮にも卜部一人を置き、年中の雑事を占わせた。(注:『延喜式』による。)その他は『職官志』に見える。

**齋服**

齋服(さいふく)。服飾の制度については、『禮樂志』に見える。そもそも上代には礼服(れいふく)と斎服(さいふく)との区別はなかった。ただ太古、天鈿女命が天祖に祈請した際、真辟葛(まさきのかずら)を鬘(かずら)とし、蘿葛(ひかげのかずら)を手繈(たすき)とした。(注:『古事記』『古語拾遺』による。○「真辟葛」は、諸書には「真拆葛」とも書かれ、おそらく「真栄葛」の意であろう。あるいは「冬薯蕷葛(ところづら)」とも書かれ、葛の一種で、その蔓は非常に長く、冬を越しても常緑であるという。これを薜茘(へくそかずら)とする説もあるが誤りである。「蘿葛」はまた「日影葛(ひかげのかずら)」ともいい、蔓草の一種で、強靭で襷とすることができるものである。これを垂苔(さがりごけ)とする説、松蘿(さるおがせ、別名女蘿)とする説もあるが、いずれも誤りであろう。備考として付す。)天太玉命(あめのふとだまのみこと)が大己貴神(おおなむちのかみ)を祭った際には、太手繈(ふとたすき)を着けた。(注:『日本書紀』による。)神語にもまた「忌部の弱肩(よわかた)に太繈(ふとたすき)を着ける」という句がある。(注:『延喜式』による。)神に仕える者には、あるいは特にこのような制があったのであろう。そもそも上古、至尊(天子)は帛衣(はくい、白絹の衣)を用い、(注:『皇太神宮儀式帳』『令集解』の大意による。)群官は青摺衣(あおずりのころも)を用い、紅紐(くれないのひも)を着けて、常服とした。(注:『古事記』による。)その後、沿革は一様ではなく、あるいは隋唐の制を模倣した。(注:『日本書紀』『令義解』、醍醐寺地蔵院所蔵古記の大意による。)大祀(たいし)に至っては、唐制の礼服をも用いた。(注:醍醐寺地蔵院所蔵古記による。)しかし先聖の遺した制度には、にわかに変更し難いものがあったため、いまだ永制として定められてはいなかった。大宝令の制定に及んでも、天子はなお帛衣を用い、ただ皇太子および諸王・諸臣で五位以上の者は、大祀にも新制の礼服を用いた。(注:『令義解』による。)聖武天皇が初めて冕服(べんぷく)を着用し、(注:『続日本紀』による。)帛衣の使用は廃れた。しかし上代の典礼は、すべて廃棄することはできなかった。延いて弘仁の代に至り、折衷して古制を残し、帛衣および青摺衣を斎服とした。すべて大小の祭祀において、天子・皇后は必ず帛衣を用い、皇太子のみ礼服を用い、王臣は青摺衣を用いた。(注:『日本紀略』『内裏式』、『政事要略』引く弘仁式を参照して記す。)

すべて祭祀には大齋(たいさい)と小齋(しょうさい)とがある。大齋はなお散齋(さんさい)というに等しく、小齋はなお致齋(ちさい)というに等しい。小齋の礼が最も重いため、自ら祭祀に関わる者を「小齋官人(しょうさいのかんにん)」と称し、みな斎服を着用した。(注:『内裏式』『貞観儀式』による。)ここにおいて斎服と礼服とが初めて分かれ、貞観・延喜の制もみなこれに従ったので、(注:『貞観儀式』『延喜式』による。)古の制度は幸いにも滅びずに済んだのである。下って近世に至るまで、その文質・精粗には同じでないところがあるとはいえ、これによって上古の遺制を考えることができる。それゆえ、いま大嘗祭・新嘗祭などに用いられる天子の御服および王臣の斎服を蒐集して記録し、ここに付す。

**御服**

御服(ぎょふく)。貞観の制では、大嘗祭において、御服二具、衾(ふすま)三条、繒枕(にぎたえのまくら)二枚、絹幞頭(きぬのぼくとう)三枚、望陀布(もうだぬの)の単(ひとえ)二条、幌(とばり)二具を用いた。(注:『貞観儀式』による。)延喜の制もこれに因った。新嘗祭では、帛袍(はくのほう)二領、襖子(あこめ)・汗衫(かざみ)は、それぞれ上に同じ。袴(はかま)・中袴(なかばかま)・褌(はかま)各二腰、被(ふすま)二条、敷被(しきぶすま)一条、褥(しとね)一条、帛帷(はくのかたびら)二条、帛坂枕(はくのさかまくら)・暴布軾(さらしぬののしょく)各一枚、唾巾(だきん)一条、帛袜(はくのしとうず)二両、帯二条、櫛二枚、履(くつ)一両、牀帊帛(しょうはのはく)二条を用いた。ただし六月の神今食(じんこんじき)では、帛袍の代わりに帛単衣(はくのひとえ)を用い、襖子・汗衫・帛坂枕・帯を除き、褥一条・席一枚を加えた。中宮には被二条、敷被一条、軾一枚、調布(ちょうふ)二端を用い、櫛・履は上に同じであるが、六月には褥をもって敷被に代えた。(注:『延喜式』による。)後世、御服を「帛装束(はくのしょうぞく)」または「白装束(しろしょうぞく)」と称した。(注:『年中行事装束抄』『飾抄』『西三条装束抄』による。)その他は『禮樂志』に見える。

**王臣服**

王臣服(おうしんふく)。貞観の制では、大嘗祭において、参議以上に斎服を頒け賜った。神祇伯(じんぎはく)以下、弾琴(だんきん)に至るまでは、それぞれ榛(はり)で染めた藍摺(あいずり)の綿袍(わたのほう)一領、白袴一腰を用い、史生(ししょう)以下、神服(かんはとり)に至るまでは、それぞれ青摺の布衫(ぬののうわぎ)一領を用いた。御巫・猨女は、それぞれ表(おもて)を縁(みどり)、裏を帛(はく)とした袍一領、両面帯一条、汗衫一領、表を緑、裏を帛とした裙(も)一腰、下裙(したも)・袴各一腰、縹帯(はなだのおび)一条、細布(ほそぬの)の髪髫(はつがみ)一条、表を緋(ひ)、裏を帛とした帔(ひれ)一条、細布の衫一領、線鞋(せんかい)一両を用いた。小齋(しょうさい)にあたる親王以下の群官、および内侍以下女嬬(にょじゅ)に至るまでは、青摺の衫をそれぞれ一領用いた。五位以上は紅染(くれないぞめ)の垂紐(たれひも)を、濃淡を取り合わせて用いた。それ以外の者は結紐(むすびひも)を用い、祭りの日および宴会には、同じく日蔭鬘(ひかげのかずら)を加えた。(注:『貞観儀式』による。)

延喜の制では、大嘗祭における神祇官および小齋の親王以下の服は、いずれも貞観の制と同様であった。門部(かどべ)・語部(かたりべ)・楢笛工(ならぶえのたくみ)は、いずれも青摺の布衫を、物部(もののべ)は紺布(こんぬの)の衫を用いた。稲実卜部(いなみのうらべ)・禰宜卜部(ねぎのうらべ)には、いずれも当色(とうしき)を給した。新嘗祭の鎮魂祭では、神祇伯以下弾琴以上は、それぞれ榛摺(はりずり)の帛袍一領、袴一腰を用いた。猨女は大嘗祭に準じたが、ただし両面帯・細布衫を除き、両面紐・細布の袜(しとうず)を加えた。新嘗祭の小齋の諸司には、青摺の布衫を給した。王卿以下女嬬に至るまで、合わせて三百十二領で、そのうち百三十領は細布を用いた。残りはみな佐渡布(さどぬの)・緋紐(ひひも)・帛被(はくのふすま)・調布被(ちょうふのふすま)などで、それぞれ数があった。中宮職(ちゅうぐうしき)の女嬬以上には、青摺の布衫合わせて八十九領を給し、そのうち四十九領は細布を用い、残りはみな佐渡布・緋紐・帛被・布被で、これもそれぞれ数があった。(注:『延喜式』による。)

後世、青摺衣を「小忌衣(おみごろも)」と称し、その仕立ては白布を用い、山藍(やまあい)で摺って模様とし、梅・柳・雉・蝶や若蕨(わかわらび)・小鳥・水紋などの文様を描き、狩衣(かりぎぬ)のように裁ち縫って裾を長くした。(注:『雅亮装束抄』『飾抄』引く『平治秘記』『西三条装束抄』『世俗浅深秘抄』による。)束帯(そくたい)の上に加え、赤紐(あかひも)二条を、ともに右肩に着けて前後に垂らし、冠は常のとおりとした。日蔭鬘で巾子(こじ)を結び、左右に垂らして、巾子の前に心葉(こころば)を立てた。(注:『雅亮装束抄』による。)これらを総称して「小忌装束(おみしょうぞく)」といった。(注:『左経記』による。)また諸司小忌(しょししょうおみ)・縫掖小忌(ほうえきのおみ)・私小忌(わたくしのおみ)・出納小忌(すいとうのおみ)・如形小忌(にょぎょうのおみ)などの服があり、その仕立てにはそれぞれ小さな違いがあった。(注:『飾抄』『西三条装束抄』『年中行事装束抄』『大嘗会器服図』『装束著用図』を参照して記す。)赤紐は、おそらく蘿葛(ひかげのかずら)の手繈(たすき)の遺制であろう。帛(はく)または紗(しゃ)三条を用い、長さ一丈四、五尺で、編んでこれを作った。一条は濃紅色、一条は蘇芳色(すおういろ)とし、あるいは貼り貝や刺繍の文様を施し、摺り貼ってこれを着けた。事に携わる際には、結んで手繈とした。(注:『雅亮装束抄』『西三条装束抄』『装束拾要抄』『装束図式』『装束著用図』による。)日蔭鬘もまた真辟鬘(まさきのかずら)の遺った姿であり、後にはおそらく羅葛(らかつ)でこれに代えたのであろう。蘿(ひかげのかずら)は古くは「日蔭」といい、後世にはさらに青糸あるいは白糸を用いてこれを作った。あるいは紃(ひも)、あるいは組(くみひも)とし、長さ一丈二尺ほどで、左右各八条、あるいは十二条とし、中央を結んで総角(あげまき)とした。(注:『西三条装束抄』『装束拾要抄』『装束図式』による。)年若い者の中には、紅白の雑色の糸で作る者もあったが、(注:『平治秘記』による。)これは古の趣旨を大いに失ったものだという。心葉は挿頭華(かざし)の類であり、金で梅の枝を作り、長さ三、四寸ほどで、左右各一、二枝とし、銀または貝で花を作った。(注:『平治秘記』『装束拾要抄』『装束図式』による。)