卷之二百六十五 志廿二
神祇廿二 社殿
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶社殿の制度について。上古では神々を祀るにあたり、清浄な土地を選び、その四方に神木を植えて神の宿る場所とし、これを「神籬(ひもろぎ)」と呼んだ。神籬は「ひもろぎ」と訓読みし、「ひもろ」は御室(みむろ、神の居所)を意味し、「き」は樹木を指す。その祭場を石で築いたものを「磐境(いわさか)」と呼んだ。太古、大己貴神(おおなむちのかみ)はその幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を倭(やまと)の青垣東山(あおがきのひがしやま)の上に鎮め、その地を「御諸山(みもろやま)」と称した。御諸とは御室のことである。(注:『日本書紀』『古事記』による。)天祖が皇孫を葦原中国(下界)に降臨させようとした際、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は天津神籬(あまつひもろぎ)および天津磐境(あまついわさか)を建てて皇孫のために祭祀を行った。そして神籬を天児屋命(あめのこやねのみこと)・天太玉命(あめのふとだまのみこと)の二神に授け、皇孫に付き従わせて奉斎させた。神籬の名がはじめて見えるのはこの時であり、また神武天皇(太祖)が皇祖の天神を鳥見山(とみやま)の中で祀り、はじめて霊畤(まつりのにわ)を設けたのも、やはり神籬の類であろう。
¶崇神天皇(すじんてんのう)は天照大神(あまてらすおおみかみ、天祖)を倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に遷して祀り、磯堅城(しかたき)の神籬を建てて御霊を安置した。続いて諸々の神々を祭り、天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)の制度を定めた。天社・国社の制自体は太古に始まっていたが(注:太古に始まったとするのは『延喜式』による)、この時に至ってその制度が一層整った。これ以後、神籬はほとんど見られなくなり、代わって社(やしろ)の制度が興った。(注:『日本書紀』による。)社は「屋代(やしろ)」とも呼ばれる。(注:『出雲風土記』による。)社殿を構え御座所を設けて常に神霊を鎮座させ、事あるごとにそこに赴いて祭りを行う――これは神代の宮室の名残の制度であろう。(注:『日本書紀』『延喜式』による。)天孫(てんそん、瓊瓊杵尊)が宮を構えた際には、棟木は高く大空に接し、柱の礎は深く大地の軸にまで根を下ろすほどであった。柱は高く大きく、板は広く厚く、千尋の栲縄(たくなわ)を結んで百八十もの紐とした。その壮大さはこれほどであった。大己貴命(おおなむちのみこと)が国を譲り帰順した際、皇祖はこれを厚遇し、その願いに従って天孫の住まいと同じように壮大な宮室を築き、これを「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と名付けた。(注:『古事記』『日本書紀』『出雲風土記』の大意をまとめたもの。)大己貴命の霊魂はついにそこに鎮まり、これが社となった。その制度が壮大であることから「大社(おおやしろ)」と称された。(注:『日本書紀』『延喜式』『釈日本紀』による。)天下の神社の設立は、思うにこれをもって始まりとする。
¶垂仁天皇(すいにんてんのう)は天照大神の神宮を宇治(うじ)の五十鈴川(いすずがわ)のほとりに興し、(注:『日本書紀』による。)雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は豊受宮(とようけのみや)を度会(わたらい)の山田原(やまだはら)に遷し建てた。(注:『止由気宮儀式帳』『神皇正統記』による。)この二つの宮を合わせて「伊勢大神宮(いせだいじんぐう)」と通称する。(注:『日本書紀』『延喜式』による。)その宮殿の制度は皇居と変わらない。屋根はすべて茅葺きで、木材に彫刻を施さず、屋上には氷椽(ひぎ、千木)と堅魚木(かつおぎ)を据える。(注:『古事記』によれば、当時の制度では臣下の家の屋上には堅魚木を据えることが許されなかったという。)清らかで質朴、華美でないにもかかわらず、壮大で尊厳に満ち、これに勝るものはない。ただし皇居の制度は代々の年月を経るうちに、華美と質素のどちらを重んじるかがその時々で異なってきたのに対し、神宮だけは万世にわたって決してその制を改めることがない。天下の諸社については、尊卑の等級や規模の大小の違いはあるにせよ、いずれもこの神宮の制度を手本とし、それぞれの事情に応じて加減したものである。(注:『日本書紀』『大神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』の大意を参照した。)
¶おおよそ社地を選定するにあたっては、たいてい山川の清らかで美しい土地、林や谷の霊気秀でた場所を選んだ。これは単に神霊の宿るのにふさわしい場所というだけでなく、そこに神が留まり続けるようにし、また神に仕える者にも汚れを洗い清めさせて、おのずと静粛の心を起こさせるためでもあった。(注:『日本書紀』、『類聚三代格』所引の「名神本紀」、『釈日本紀』所引の「山城風土記」「常陸風土記」による。)思うに上代の制度では、国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)はもとより、臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)もまた代々田荘(たどころ)を領し、それぞれその地に社を建てて祖先の祭祀を奉じていた。それゆえ国内の諸社は、官社でなくともみな修理・造営が行き届き、廃れ朽ちることがなかった。(注:『日本書紀』『古語拾遺』『姓氏録』『延喜式』の大意を参照した。)しかし大化改新以後、国・県や田荘はことごとく朝廷のものとなり、(注:『日本書紀』による。)天下の諸社は社司(しゃし)に修理させ、国司がこれを監督することとなった。そのため神戸(かんべ、神社に付属する封戸)のある社は修理が行き届いたが、封戸のない小社は次第に荒廃していった。社の修理の制度は、これ以後かえって煩雑になった。(注:『令義解』『類聚三代格』を参照した。)
¶天武天皇(てんむてんのう)は挙兵の際、大神宮に祈願したことがあり、その折に造宮の年限を定めようとする意向を持っていた。それ以前は、神宮の殿舎や門・垣などは破損するたびに修理していたにすぎない。持統天皇(じとうてんのう)二年、大神宮を改造し、四年には度会宮(わたらいのみや)を修造した。これ以後、二十年ごとに改造することが永く定制となったが、これは実に天武天皇の遺志を奉じたものである。(注:『寛正造内宮記』『大神宮例文』による。)
¶大宝(たいほう)の制度では、天下の諸社を大社・中社・小社の三等級に分けた。(注:『法曹至要抄』所引の律文による。同書には、伊勢大神宮・八幡宮(はちまんぐう)を大社、賀茂(かも)・住吉(すみよし)の類を中社、その他を小社とするとあるが、何に基づくものかは不明であり、参考として付記しておく。)神宮の修造には、神戸の租・調・庸をその費用に充てた。(注:『令義解』による。)慶雲(けいうん)三年、諸神社を掃き清めさせる命が下された。天平(てんぴょう)六年には地震のため、使者を畿内・七道に遣わして神社を検分させた。九年には使者を遣わして天下の諸社を修造させ、十二年には駅使を発して諸国の神宮を飾り整えさせた。(注:『続日本紀』による。)十九年には大神宮の諸別宮についても本宮に準じて改造することを永例として定めた。(注:『大神宮雑事記』『延喜式』による。)天平神護(てんぴょうじんご)元年、使者を遣わして諸国の神社を修理させた。(注:『続日本紀』による。)
¶宝亀(ほうき)二年、大社・中社・小社について、殿舎・垣・門および社地の四至(しいし、境界)などの制度を定め、天下に頒布した。正三位以上を大社、従四位以上を中社、従五位以上を小社とした。 大社は、四至を九町(ちょう)とする。正殿は一棟、三間で檜皮(ひわだ)葺き、高さ一丈二尺。堅魚木(かつおぎ)は八枚で、それぞれ長さ五尺・径九寸。千木(ちぎ)は四枚で、それぞれ長さ一丈三尺。瑞垣(みずがき)は一重で方三丈、(注:原文には二丈とあり、中社の瑞垣を二丈五尺とするのと比べると誤りであることがわかるため、ここで訂正した。)高さ七尺。珠垣(たまがき)は二重で、一方は五丈、もう一方は六丈、それぞれ高さ八尺。内外の鳥居は二基あり、内側は高さ九尺・径八寸、外側は高さ一丈・径九寸。幣殿(へいでん)は一棟、三間で檜皮葺き、高さ一丈一尺。拝殿(はいでん)は一棟、五間で草葺き。舞殿(まいどの)一棟と直会屋(なおらいや)二棟は、いずれも五間で板葺き、それぞれ高さ八尺。板倉(いたくら)は二棟で草葺き。盛屋(もりや)は二棟、いずれも三間で草葺き。左右の廊(ろう)は二棟で板葺き、それぞれ高さ七尺。外舎(げしゃ)は二棟、いずれも五間でそれぞれ高さ八尺。馬屋(うまや)は二棟、いずれも五間。
¶中社は、四至を八町とする。造りはおおむね大社に準ずる。正殿は高さを一尺減じる。堅魚木は二枚減らし、長さを一尺、径を二寸それぞれ減らす。千木は長さを三尺減じる。瑞垣は方を五尺減じる。珠垣は一重で方三丈五尺。内外の鳥居はそれぞれ高さ八尺・径七寸。幣殿は板屋で高さを四尺減じる。拝殿は三間の板屋。舞殿の間数は大社と同じ。直会屋は三間で、いずれも高さを一尺減じる。外舎は大社と同じ。その他は省略する。
¶小社は、四至を中社の半分とする。正殿は一間減らして板葺きとし、高さを三尺減じる。堅魚木は二枚減らす。千木は長さを二尺減じる。瑞垣は方を五尺、高さを二尺それぞれ減じる。鳥居は一基で、高さ六尺・径六寸。拝殿は草葺きとする。舞殿は二間減らす。雑舎(ざっしゃ)は二棟、いずれも五間でそれぞれ高さ七尺。その他は省く。 国司は正税をもって社殿を修造し、怠ってはならない。もし破損した場合は社司に修理させ、これに違反した者は大祓(おおはらえ)の罪を科し、現任の官職を解く。(注:『造殿儀式』『神祇本源』による。)宝亀七年、諸道の神社の多くが荒れ穢れ、時々の祭祀も廃絶しがちであったため、諸国に勅命を下し、「掃除・修理・潔斎せよ。国司一人を専任の担当者として検分させ、毎年その状況を奏上せよ。違反する者は必ず違勅の罪に処す」とした。続いて、「諸社の祝(はふり)らが掃除・修理に励まず、神社を損ない穢した場合は、その位記を取り上げ、交替させて本籍に戻す」と定め、その旨を記録して奏上し、翌年には天下に頒布して恒例とした。(注:『続日本紀』『類聚三代格』による。)延暦(えんりゃく)二十三年、大神宮司らが内外二宮の神殿・雑舎・門・垣などの制度を詳しく注記し、儀式書としてまとめて奏上した。(注:『大神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』による。)それ以後の造営は、多少の違いはあるにせよ、おおむね旧制に従って改めることはなかった。(注:『延喜式』による。)
¶大同(だいどう)年間、斎部広成(いんべのひろなり)が上奏して言った。「神殿を修造するには、神代からの職掌に従うべきである。斎部の官は御木(みき)・麁香(あらか)の二郷の斎部を率い、斎斧(いみおの)で木を伐り、斎鋤(いみすき)で地を掘り、その後に工人が手をつける。造営が終わった後は、斎部が殿舎を清め、門祭を終えてから御座を安置する。ところが今、伊勢の宮や大嘗祭の悠紀(ゆき)・主基(すき)の宮を造るにあたり、いずれも斎部を関与させていない。これは古の典礼に反するものである」と。(注:『古語拾遺』による。)嵯峨天皇(さがてんのう)の即位に際し、勅が下された。「先に諸国に神社の修造を命じたが、年月を経てもいまだ修理が行われていない。今後は所在の長官に専任で担当させ、修理に努めさせ、神税をもってその費用に充てよ。封戸のない社は正税を用いよ」と。(注:『日本紀略』による。)弘仁(こうにん)二年、勅が下された。「神戸(かんべ)の百姓は課役の対象となる者が多いが、神に奉仕する以外の公役には就かせない。その身を役し、神社を修理させ、破損に応じて修繕させ、荒廃させてはならない。国司は毎年巡検せよ。怠慢があれば、その状況に応じて祓(はらえ)の罪を科せ」と。(注:『類聚三代格』による。)翌年、さらに勅が下された。「封戸のある神社は神戸によって修造されるが、封戸のない社は修理する者がいない。今後は禰宜(ねぎ)・祝(はふり)らに修繕させ、小さな損傷のうちに手を入れ、大破に至らせてはならない。国司はたびたび巡検せよ。もし禰宜・祝らが命に従わなければ、いずれも解任せよ。位のある者はその位記を取り上げ、位のない白丁(はくてい)は杖刑百に処せ。国司が検閲を怠り、社が破損するに至った場合は、交替の際にその解由(げゆ、事務引継ぎ証明)を留め置け。ただし非常の天災に遭い修理できない場合は、奏上してその裁可を仰げ」と。(注:『日本後紀』『類聚三代格』による。)これらはいずれも永制として定められた。(注:『延喜交替式』による。)神祇官(じんぎかん)が言った。「住吉(すみよし)・香取(かとり)・鹿島(かしま)の三社は、二十年ごとにことごとく改造することが慣例となっているが、その弊害は少なくない。今後は正殿を除き、破損に応じて修理することを定例とすべきである」と。これが認められた。(注:『日本後紀』による。)弘仁八年、伊勢国司の願い出によって、多気(たけ)・度会(わたらい)二郡の神社九十三か所について、永く大神宮司に修理させることとした。(注:『類聚三代格』による。)十二年、諸国に神社を修理・清掃させた。災害が頻発し、その年の穀物の実りが悪かったためである。(注:『類聚国史』による。)十三年、大和国が言った。「国は先の符に従って神社を修理しているが、今、封戸のある社はその費用があるものの、封戸のない社にはまったく財源がない。役人が検察・督責しても、それぞれ逃れようとする。その事情を調べると、あながち理由のないことでもない。そこで祖神とその子孫の神々を調べたところ、本家と分家に分かれており、祖神は貴くて封戸があるが、その裔神(えいしん、子孫の神)は身分が低くて封戸がない。そこで封戸のない裔神を、封戸のある祖神の社に付属させ、封戸のある神主に封戸のない祝部(はふりべ)を管掌させることを願いたい。そうすれば社には修理・掃除の勤めが行き届き、国には神の祟りを受ける兆しもなくなるであろう」と。これが認められ、後に撰格所(せんきゃくしょ)の上申によってこの法を諸国に下し、永く恒例とした。(注:『類聚三代格』『延喜交替式』による。)天長(てんちょう)元年、参議橘朝臣常主(たちばなのあそんつねぬし)が言った。「令の規定によれば、神戸の租・調・庸は神宮の造営および神への供物の調達に充てるものとし、いずれも国司が検校して所管の役所に申し送ることになっている。ところが今の実際の運用では、すべて神主に任せきりで、必要な費用を問うこともない。神主が勝手に費用を使い込み、しばしば祭祀に支障をきたし、宮社は頽廃するばかりで修造しようとする意欲もない。今後はすべて国司に委ねることを願いたい。定例の費用以外に不正な費消があれば、その国司の解由を留め置くべきである」と。これが認められ、(注:『貞観交替式』による。)さらに永例として定められた。(注:『延喜交替式』による。)
¶仁明天皇(にんみょうてんのう)の即位に際し、勅が下された。「諸国は神社を修理せよ」と。承和(じょうわ)五年、さらに勅が下された。「天下の神社を修営せよ」と。七年には、「五畿・七道の諸国司に部内を巡行させ、神社を修繕させよ。禰宜・祝らで怠惰な者は格の規定に従って処分せよ。その年に修理した内容は別に記録して言上せよ。もし三年以内に使者を遣わして再検分し、破損があれば、国司・郡司を違勅の罪に処せ」とした。(注:『続日本後紀』による。)貞観(じょうがん)元年、令が下された。「諸国の長官は専任で神社の修理に当たれ。その年中に修理した項目は朝集使(ちょうしゅうし)に持たせて言上せよ」と。(注:『三代実録』による。)五年、勘解由使(かげゆし)が言った。「神社の中破以上の損傷は、前任の国司が費用を出して修理し、毎年官に申告することが格として明確に定められている。しかし今、諸国から上申される解由状にはこれが記されず、神社の破損ばかりが多く記載されている。そこで神祇官に破損の項目を調べさせたところ、神祇官は『諸国が神社帳を提出しても項目が具体的でなかったり、あるいはその帳簿自体を提出しなかったりして、調べようがない』と言う。これはとりもなおさず、責任を問われないことに起因している。そもそも役所が事を調べるには文書記録が基本である。帳簿を検めなければ、どうして真偽を判別できようか。神社帳は弘仁十一年の格に準じて、神祇官が例として照合すべきである。そのうえで諸国に命じて項目を詳しく注記させ、あわせて式部省(しきぶしょう)にも回覧させ、官舎帳と同様に扱うべきである」と。これが認められた。(注:『類聚三代格』による。)六年、勅が下された。「先に畿内および東海諸国に神社の修飾を命じたが、国司たちが勅旨を軽んじ、もっぱら神官らに任せきりにして、年月を経てもまったく修理が行われていない。今後は速やかに修繕を加え、決して怠ってはならない」と。八年、鹿島神宮司(かしまじんぐうじ)が言った。「本宮の六つの院は、二十六年間に一度修造することになっている。そのために用いる材木は五万余枝、工夫は十六万九千余人、費用の稲は十八万二千余束にのぼる。材木を採る山は那賀郡(なかのこおり)にあり、宮から二百余里も離れ、道は険しく、運搬に大変な手間がかかる。おおよそ宮を造る材木には栗の木を多く用いるが、この木は植えやすく、また早く成長する。宮の周辺の空き地に栗五千七百株、杉四万株を植え、神宮司に監督・保護させていただきたい」と。これが認められた。(注:『三代実録』による。)
¶元慶(がんぎょう)四年、勅により宇佐宮(うさぐう)を三十三年ごとに改造する制度が定められた。(注:『宇佐託宣集』『八幡愚童訓』を参照した。)その他、阿蘇(あそ)・白山(はくさん)・伊夜比古(いやひこ)などの社の改造は宇佐宮に準じ、鴨御祖社(かものみおやしゃ)は大神宮に準じることとされた。(注:『阿蘇縁起』『白山記』『賀茂祠官申状』『羅山文集』による。)ただし、これがいつ定められたものかは詳らかでない。元慶六年、勅が下された。「下総国(しもうさのくに)の神税五千八百五十余把(わ)をもって、香取社(かとりしゃ)の雑舎の造営費に充てよ」と。(注:『三代実録』による。)寛平(かんぴょう)五年、大和国の宗像社(むなかたしゃ)の氏人である高階忠峯(たかしなのただみね)らが言った。「本社は以前、筑前国(ちくぜんのくに)の宗像社の氏賤(しせん、社に隷属する賤民)が毎年貢納する物をもって修造の費用とすることを慣例としていたが、年月を経て久しく廃絶している。貞観十年の格に基づき、祖神の封物(ふうもつ)を申請し、修理の費用に充てるべきである。しかし氏人たちは疑い、なかなか物を輸送しようとしない。今、氏賤は繁殖して同類がすでに多くなっている。そのうち十六人を良民として解放し、調・庸を納めさせ、さらに本社近隣の徭丁(ようてい)をもって修理の費用に充て、これを永例としていただきたい」と。これが認められた。(注:『類聚三代格』による。)
¶延長(えんちょう)四年、制が定められた。「神社の修理については格の条文に詳しく定められている。しかし年月を経て法が緩み、小さな破損を修理せずに放置し、ついには大きな損傷に至っている。これはひとえに官による修理を待つばかりで、私的な労力を加えようとしないことに起因する。今後、公の使者を派遣して修理を加える際には、禰宜・祝ならびに社預(しゃよ)らが共同で検分し、その勘文(かんもん)の確認を求めて、揃って署名を加えよ。そのうえで十年を期限とし、その間の小さな破損は禰宜・祝・社預が直ちに修繕することを定例とする」と。(注:『政事要略』『新抄格勅符』による。)延長五年、式が定められた。「大神宮の改造・修理はすべて従来の制度による。天下の諸社は破損に応じて修理せよ。ただし住吉・香取・鹿島の三社は、旧例どおり二十年ごとに正殿を改造せよ。その費用には神税を用い、神税がなければ正税を充てよ。神社の四至の内では、樹木を伐採したり、死者を埋葬したりしてはならない」と。(注:『延喜式』による。)
¶正暦(しょうりゃく)五年、勅が下された。「賀茂社(かもしゃ)の雑舎などは永祚(えいそ)の風災に遭い、藤原貞順(ふじわらのさだのぶ)がこれを修造した。正暦二年には高階助順(たかしなのすけのぶ)がさらに繕治を加えた。昨年も大風で社が破損し、算准得業生(さんじゅんとくごうしょう)の川瀬致光(かわせのむねみつ)がまた修理した。このように頻年修理を重ねているにもかかわらず、破損は少なくない。これは社司が他人の修繕をあてにして、みずから守護に努めないためである。また村里の雑人たちも神の威光を畏れず、好んで損壊を加えている。今後は社司らが厳しく守護に努め、違犯があってはならない。もし天災によらず、重ねて盗難や損壊が生じた場合は、社司に修営させよ」と。(注:『類聚符宣抄』による。)
¶長保(ちょうほう)元年、国司や社司が憲章を軽んじて神社を修理せず、かえって頽廃を招き、中には荒れ果てた廃墟となった社もあったため、勅によって弘仁・延長の制度を改めて申し明らかにし、厳しく戒めた。命に従わない者は法に照らして処罰することとした。(注:『新抄格勅符』による。)長保四年、勅が下された。「時世が澆季(ぎょうき、末世)に及び、役人には勤勉さが乏しく、ついに神社を破損させ、祭祀を欠くに至らせている。今後は国司が専任で巡検に当たるべきである。封戸の有無を問わず、いずれも先の格に準じて修繕せよ。もし怠慢で法を奉じない者があれば、これも必ず格に基づいて処罰する。そもそも神事を侮り怠ることの罪は社司にあるが、朝廷の憲章を軽んじることの責任は国司に帰する。今後は所管の役所に、功課の勘文に旧来の損傷と新たな修理の状況を記載させ、勤勉と怠慢を明らかにして、賞罰を行わせるべきである」と。長保五年、縫殿助(ぬいどののすけ)の大中臣宣茂(おおなかとみののぶしげ)が奏請して言った。「謹んで先例を調べたところ、私財をもって神社を修理した者は、例によって必ず良い官職を得ています。今、大神宮の内外の院が大風によって倒壊しているのを見ました。私、宣茂がこれを修造することを願い出ます。その功績によって民部丞(みんぶのじょう)に遷任していただきたく存じます」と。勅により、「月読宮(つきよみのみや)・伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)の二宮の修繕もあわせて行うことを条件に、その願いを許可する」とされた。(注:『類聚符宣抄』による。)そもそも天暦(てんりゃく)以後、朝廷は国の財政が不足したため、ついに成功(じょうごう、私財による功績と引き換えに官職を与えること)による売官の道を開き、費用に充てるようになった。(注:『本朝文粋』『小右記』による。)こうして天下の諸社もまた、多くが成功を募って造営を行うようになった。(注:『類聚符宣抄』『朝野群載』『外記日記』『厳島社文書』による。)
¶後世になると、大神宮の改造のようなものでは、そのたびに天下から役夫工米(やくぶくまい)を徴収して造営に充てるようになった。(注:『鹿島社文書』『吉田社文書』『東大寺文書』『東寺文書』『醍醐寺雑事記』『中右記』『樵談治要』による。)出雲大社(いずもたいしゃ)については、修造のたびに宣旨を下し、国中の荘園について、神社・仏寺・権門・勢家の所領であるかを問わず、すべてにその役を負担させることが慣例となった。(注:『杵築社文書』による。)
¶永長(えいちょう)元年、勅が下された。「天下の諸社は先の格に従って修造すべきである。しかし近年以降、破損が特に多い。これは国司が督察を怠り、社司がほしいままに怠慢を許しているためである。畿内の神社については、使者を派遣してその全壊の状況を記録させよ。七道諸国の大神宝社(だいじんぽうしゃ)については、国司に速やかに修理させよ。ただし官符が到着してから百日以内に、その勤怠を記録して奏上せよ。もし法のとおりに行わない者があれば、必ず重科に処す」と。
¶康和(こうわ)二年、神祇官が言った。「神社の修理については格の条文に詳しく定められている。宣旨を下さなくとも、法のとおりに修造すべきである。しかし今聞くところによれば、遠国諸国の大小の社は破損が甚だ多く、ほとんど廃絶しようとしており、神事が例に違うのはこれが原因である。畿内の例に準じて宣旨を下し、使者を派遣して修造させていただきたい。もし命に従わない者があれば、その名を記録して奏上する」と。翌年になってこれが許可された。康和四年、さらに言った。「昨年の宣旨に基づき、使者を遠国諸国に派遣して神社を検閲したところ、破損している社が十のうち九を占めていた。しかし宣旨が下されるとすぐに、人々は戒め畏れるようになった。国司の役人の中には修理を願い出る文書を提出する者もあり、社司もまた解状(げじょう)を提出して、次々と修理に着手しようとしている。これを他の道に推し及ぼしても、必ずみな同様であろう。南海道(なんかいどう)諸国についても、この例に準じて実地検分していただきたい」と。翌年になってこれが聞き届けられた。(注:『朝野群載』による。)
¶保延(ほうえん)元年、式部大輔(しきぶのたいふ)の藤原敦光(ふじわらのあつみつ)が上疏して言った。「諸国にある大小の神社は、破損があっても修理を加えず、あるいは倒壊して基礎の跡すら残っていないものもある。社司が修理に努めないこと、これこそが毎年のように風水害や飢饉の災いを招く所以である」と。(注:『続本朝文粋』による。)
¶保元(ほうげん)二年、制が定められた。「神社の修理については格の条文に記載されており、破損に応じてそのつど修理し、大きな損傷を招いてはならない。しかし社司はいたずらに神領の利潤を貪り、祠宇(しう)の破損を顧みない。頽廃した後になって初めて奏聞し、特別な功による修造を申請する。これを朝廷の憲章に照らせば、道理として当然のことではない。社司に修造に努めさせるべきである。もし怠慢に及ぶ者があれば、現任の職を解け。ただし大破して修繕に堪えないものは、状況を記録して言上せよ」と。治承(じしょう)二年、さらにこの制を申し明らかにした。(注:『壬生官務古文書』による。)この年、春日社(かすがしゃ)を修理した。興福寺(こうふくじ)の僧が瑞垣を撤去して回廊に改めることを求めたが、社司はこれに反対した。朝廷の議で吉凶を占わせたところ、不吉と出た。しかし僧徒は「神社を修造するのに、どうして吉凶を問う必要があろうか」と主張し、朝廷はついにこれに従った。(注:『百錬抄』による。)思うに回廊は仏寺に設けるものであり、神社の本来の様式ではない。しかし当時の諸大社には、しばしば回廊や楼門を設けるものがあり、古来の制度は次第に変化していった。(注:『百錬抄』『玉海』『厳島社文書』『吉田社文書』『天台座主記』による。)
¶後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の即位に際し、源頼朝(みなもとのよりとも)が上疏して言った。「諸国の神社で破損・倒壊しているものは、その工程に応じて成功(じょうごう)を募り、修造を終えた者には官爵を賜るべきである」と。しかし朝廷はこれに従わなかった。文治(ぶんじ)二年、頼朝は重ねて奏請した。「神社を修造すべきであり、まずは東海諸国の守護に命じていただきたい」と。上総国(かずさのくに)の社の破損状況を記録し、三善康信(みよしのやすのぶ)・藤原俊兼(ふじわらのとしかね)らにその事を検校させた。しかし朝廷はちょうど仏寺の修理を急務としており、勅で「神社の修造はすでに国司に委ねてある。速やかに諸寺の修繕を行わせよ」とした。これより先、藤原親光(ふじわらのちかみつ)は対馬守(つしまのかみ)であったとき、在任中に八幡宮以下の諸社の宝殿六十余を修営し、あわせて八幡宮の供神の諸道具を調達し、その費用は穎(えい、稲穂)に換算して三万余匹に及んだ。この時に至り、頼朝はその功績を褒め、先例に倣って重任を賜るよう奏請した。
¶建久(けんきゅう)三年、鹿島社を改造した。頼朝は多気義幹(たきのよしもと)らを造宮奉行(ぞうぐうぶぎょう)とした。工事が延び延びとなって翌春に及んだため、頼朝はこれを懸念し、八田知家(はったのともいえ)を派遣して工事を監督させ、七月の祭日より前に竣工させた。(注:『東鑑(あづまかがみ)』による。)これ以後、国司が新任すると、例として必ず本社を修造することとなった。ただし前任の国司が修造していながら、まだ遷宮の儀式を行っていない場合、後任の国司が着任しても改造は行わなかった。(注:『明月記』による。)
¶建暦(けんりゃく)二年、勅が下された。「社の修理の制度は格の条文に記載されている。しかし社司はいたずらに神領を貪り、破損を顧みないまま大破に至らせている。特別な功による修造を奏請するのは、政道に照らせば、ほとんど科条に違反するものである。社司に常に修造に努めさせるべきであり、これに違反する者は現任の職を解いて、功績のある者に改めて補任せよ。もしその社の所領が甚だ少なく、修営する力がない場合は、破損の状況を記録して上申し、特別な功をもって修理を課すべきである」と。(注:『玉蘂(ぎょくずい)』による。)
¶弘長(こうちょう)元年、鎌倉幕府は、その支配下にある国々の封戸を持つ神社の社司が、ひたすら神領を貪るばかりで修造に努めないことを理由に、先の制度を遵奉して社司を戒めた。(注:『東鑑』による。)
¶元応(げんおう)元年、後宇多上皇(ごうだじょうこう)が公卿に勅して「神事の復興について議論せよ」と命じた。藤原宣房(ふじわらののぶふさ)が大神宮以下諸社の修繕について奏上した。(注:『万一記』による。)しかしこれはただ故事を存続させ、即位後の政始(まつりごとはじめ)の儀式に供するだけのものであり、実際には何ら施行されるところはなかった。まもなく南北朝の争乱に及ぶと、朝廷の制度はことごとく廃絶してしまった。(注:『太平記』による。)しかし国々・郡々の武人で義勇を重んじる者たちは、しばしば神祇を崇敬して神の加護を祈り、あるいは神領を寄進し、あるいは社殿を修理することが、おおむね風習となっていた。古い社が今日まで存続しているのは、思うにこうした武人たちの力に頼るところもあったのであろう。(注:『東鑑』『源平盛衰記』『太平記』による。)ただし、みだりな淫祠(いんし)が盛んに興ってからは、神社もまた次第に古来の制度を失っていった。後世に至ると、その造りはますます変化を加えられた。封戸を有する大社で修繕の財力があるもの、および権門・勢家が崇敬するものの中には、棟に彩色を施し柱に彫刻を加え、丹(に)や青緑の色で飾り立て、もっぱら人の目を奪うことに努めるものもあったが、これらはみな仏教寺院の荘厳の風を模倣したものであり、おおむね記録するに値しない。(注:『源平盛衰記』『香取明神祭礼図』『宇佐宮図』による。)
¶今、延暦の式に基づいて、伊勢二宮の制度を記録する。杵築大社(きづきたいしゃ、出雲大社)に至っては、もとより通常の諸社と比較できるものではない。しかしその制度を考証できる古書がないため、ひとまず現存するものに基づいて、その概略を挙げることとする。大嘗宮(だいじょうぐう)のようなものも、時代を経る間に変遷がなかったとは言えないが、必ずや古い様式をとどめている部分もあるはずである。よってあわせて記録しておく。これによって上代の制度もまた、おおよそ窺い知ることができるであろう。
¶伊勢大神宮(いせだいじんぐう)の殿舎について。大神宮はおよそ十九の院からなる。大宮院(おおみやいん)は内院にあたり、正殿一棟がその中央にあって南を向く。これが神座の所在である。長さ三丈六尺、幅一丈八尺、高さ一丈一尺。屋根は茅で葺き、上には堅魚木十枚を据え、それぞれ長さ七尺・径一尺七寸。屋根の両端には比木(ひぎ、千木)をそれぞれ二枚立て、それぞれ長さ二丈八尺、幅八寸、厚さはその半分。階段は一つで、長さ六尺・幅五尺、両側に欄干があり、玉と金の花形の飾りをそれぞれ六枚つける。殿上の四面は高欄で囲み、高さ三尺・幅二尺五寸、こちらにも玉と金の花形の飾りをそれぞれ十八枚つける。おおよそ材木の端にはすべて金の飾りをつける。殿内の中央よりやや北寄りに御床(みゆか)を置き、四隅に柱を立てて天井を張り、帳(とばり)を垂らして、その中に御船代(みふなしろ)を安置する。その前の東西には向かい合わせに配享神床(はいきょうしんしょう)を設け、その上に船代を安置する。御床は南を向き、配享座は北を向いて、神宝を殿の四隅に並べる。(注:「殿内」以下の記述は、内宮の永仁四年の殿内図により、あわせて『正中御飾記』『貞和御飾記』を参照した。)正殿の後方、東西に宝殿(ほうでん、注:また財殿とも幣帛殿とも呼ばれる)をそれぞれ一棟設ける。いずれも長さ二丈一尺、幅一丈四尺、屋根はすべて茅葺きで、比木四枚を立て、堅魚木八枚を置く。東の宝殿には恒例・臨時に奉られる幣物を納め、西の宝殿には往古からの神宝を納める。(注:「東宝」以下は『山槐記』『兵範記』を参照した。)外側は瑞垣一重で囲み、周囲四十九丈、高さ一丈。その南の三方にはさらに玉垣門一重を設け、長さ十四丈。その外側にはさらに内外の玉垣二重と板垣一重を巡らし、一つ目の周囲は六十丈、次は百二丈、板垣は百三十八丈六尺であり、それぞれ一重ごとに南北に一つずつ門を設ける。南の門は、第一を瑞垣門(みずがきもん)といい、屋根を茅で覆い、長さ一丈五尺・幅一丈・高さ一丈。第二を蕃垣門(ばんがきもん、注:また蕃門とも呼ばれる)といい、屋根は設けず、長さ一丈三尺・高さ九尺。第三を玉串門(たまぐしもん、または内玉垣門)、第四を玉垣門(たまがきもん、または外玉垣門)といい、その造りはいずれも瑞垣門と同じ。第五を板垣門(いたがきもん、注:また荒垣門とも呼ばれる)という。また外玉垣・板垣の西側にもそれぞれ一つずつ門があり、その造りはいずれも蕃垣門に準じる。北面の諸門もまたすべて同様である。玉垣門の内側、東に斎内親王侍殿(さいないしんのうじでん、注:また斎王候殿、あるいは御子宿屋、御子殿とも呼ばれる)一棟を設け、長さ四丈、幅一丈六尺、高さ一丈。その北方には蕃垣一重を設け、長さ三丈。西には女孺侍殿(にょじゅじでん、注:また舞姫候殿とも呼ばれる)一棟を設け、長さ四丈、幅一丈七尺、高さ一丈一尺。院内にはさらに宿衛屋(しゅくえいおく)四棟を置き、それぞれ長さ二丈で、これは禰宜(ねぎ)・内人(うちんど)らが交替で宿直する場所である。
¶板垣の外側にある諸々の院を、総称して外院という。幣殿院(へいでんいん)は玉垣一重で囲み、長さ十六丈二尺。その中に殿一棟があり、外幣殿(げへいでん、注:また外幣帛殿とも呼ばれる)と称する。長さ一丈五尺、幅一丈二尺、高さ八尺。春宮坊(とうぐうぼう)および皇后宮の幣帛、ならびに東海道の駅使の幣帛、諸国が貢納する荷前(のさき)の雑物などをここに納める。御倉院(みくらいん)には倉が四棟あり、一つは御稲御倉(みしねのみくら)といい、三節祭(さんせつさい)の御饌(みけ)の料の稲などを納める。一つは調御倉(つきのみくら、注:また庸御倉とも呼ばれる)といい、調の糸および神宮の政印などを納める。一つは塩御倉(しおのみくら、注:また御器御倉とも呼ばれる)。一つは鋪設御倉(しきものみくら)といい、正殿・宝殿・荒祭宮(あらまつりのみや)の鍵、および宮中の鋪設装束の料である筵(むしろ)・畳・坊領(ぼうりょう)の簾(すだれ)などを納める。(注:「御稲」以下は『兵範記』を参照した。)これらはいずれも長さ一丈八尺、幅一丈五尺、高さ一丈で、屋上にはそれぞれ堅魚木四枚を据え、玉垣で囲み、その長さは三十八丈。御輿宿殿(みこししゅくでん)一棟は、長さ三丈、幅一丈四尺、高さ九尺。御厩(みうまや)一棟は、長さ四丈、幅二丈、高さ九尺。船一隻は、長さ三丈、幅三尺。直会院(なおらいいん)は防往籬(ぼうおうり)一重で囲み、長さ六十丈、門があり、長さ一丈三尺、高さ九尺。その中に殿三棟があり、解斎殿(げさいでん)と称する。一つは九丈殿(くじょうでん)といい、一棟で長さ十丈、幅二丈、高さ一丈一尺。一つは五丈殿(ごじょうでん、注:また第一殿とも呼ばれる)といい、一棟で長さ五丈四尺、幅・高さは上に準ずる。一つは四丈殿(しじょうでん、注:また主神司殿とも呼ばれる)といい、一棟で長さ四丈、幅一丈六尺、高さ九尺。いずれも檜皮で葺く。
¶おおよそ神事が終わった後、供奉の官人はここで会食する。斎内親王御膳院(さいないしんのうごぜんいん)は防往籬一重で囲み、長さ二十四丈、その中に屋四棟があり、それぞれ長さ二丈、幅一丈、高さ八尺。御酒殿院(みさかどのいん)は防往籬一重で囲み、長さ三十四丈(注:一説には四十四丈とする)。その中に酒殿(さかどの)一棟があり、長さ四丈、幅一丈七尺、高さ八尺。その一面には庇(ひさし)を設ける。務所庁(むしょちょう)があり、長さ三丈、幅一丈七尺、高さ一丈。倉が二棟あり、それぞれ長さ一丈八尺、幅一丈五尺、高さ一丈。盛殿(もりどの)一棟があり、長さ五丈、幅一丈七尺、高さ八尺。大炊屋(おおいや)一棟があり、長さ二丈、幅一丈、高さ七尺。
¶斎内親王川原殿院(さいないしんのうかわらどのいん)は防往籬一重で囲み、長さ四十丈。その中に四つの殿を設ける。正殿一棟は長さ四丈、幅一丈七尺、高さ一丈で檜皮で覆う。御装束宿殿(みしょうぞくしゅくでん)・御輿宿殿はそれぞれ一棟で、いずれも長さ二丈、幅一丈、高さ八尺。御厠殿(みかわやどの)一棟は、長さ一丈、幅八尺、高さ七尺。御膳宿院(ごぜんしゅくいん)は防往籬一重で囲み、長さ十五丈。その中に殿二棟があり、それぞれ長さ二丈、幅一丈、高さ八尺。直会院(なおらいいん)は北に防往籬一重があり、長さ六十三丈(注:上文にすでに直会殿院が記されているので、この一条はおそらく衍文であろう)。
¶禰宜斎館院(ねぎさいかんいん)は防往籬一重で囲み、長さ五十丈。その中に斎殿(さいでん)一棟があり、長さ二丈、幅一丈、高さ八尺。炊屋(かしぎや)二棟があり、一つを斎火炊屋(いみびのかしぎや)、一つを大炊屋という。いずれも長さ一丈五尺で、幅・高さは上に準ずる。倉一棟があり、長さ一丈八尺、幅一丈五尺、高さ一丈。厨(くりや)一棟があり、長さ二丈、幅一丈、高さ八尺。厩一棟があり、長さ二丈、幅一丈五尺、高さ一丈。
¶宇治大内人斎館院(うじのおおうちんどさいかんいん)は防往籬一重で囲み、長さ三十丈。その中に斎殿および忌火炊屋(いみびのかしぎや)がそれぞれ一棟あり、いずれも長さ二丈、幅九尺、高さ八尺。厨屋(くりやや)一棟があり、長さ三丈、幅一丈、高さ八尺。
¶大内人三人宿館二院(おおうちんどさんにんしゅくかんにいん)は防往籬一重で囲み、長さ四十丈。その中に斎侍屋(さいじおく)二棟があり、それぞれ長さ四丈、幅一丈六尺、高さ八尺五寸。厨大炊屋(くりやおおいや)二棟があり、それぞれ長さ三丈、幅一丈二尺、高さ八尺。
¶物忌(ものいみ)および小内人(こうちんど)の宿館五院は防往籬一重で囲み、長さ七十五丈、その中に屋二十二棟がある。
¶大物忌斎館(おおものいみさいかん、注:また子良館とも呼ばれる)一棟は、長さ二丈、幅九尺、高さ八尺。斎火炊屋・厨屋・大炊屋があり、いずれも一棟で、寸法は上と同じ。
¶宮守(みやもり)・地祭(じさい)・荒祭(あらまつり)の物忌斎館屋は、それぞれ一棟で、いずれも斎火炊屋一棟を伴い、寸法もまた上に準ずる。
¶諸々の物忌・小内人が常に宿る斎館屋は十二棟。そのうち五棟はそれぞれ長さ三丈、幅一丈二尺、高さ八尺。残る七棟は幅を二尺減じ、その他は上と同じ。(注:『大神宮儀式帳』による。あわせて『延喜式』『新任弁官抄』『内宮考定図』を参照した。)
¶度会宮(わたらいのみや、外宮)は、およそ六つの院からなる。大宮院(おおみやいん)はこれが内院にあたる。正殿一棟がその中央にあって南を向く。これが神座の所在である。長さ三丈、幅一丈六尺、高さ一丈。茅で屋根を覆い、比木を立て、堅魚木を置く。階段は一つで、両側に高欄がある。殿上の四面もまた高欄で囲み、玉と金の花形の飾りをそれぞれ十八枚つける。殿内の設えは大神宮(内宮)に準ずる。(注:「殿内」以下は『貞和御飾記』『正中御飾記』、外宮の永禄六年の殿内図による。)正殿の前、東西に宝殿があり、それぞれ長さ一丈六尺、幅一丈二尺、高さ一丈。茅葺きの屋根に比木を立て、堅魚木を置く。外側は瑞垣一重を巡らし、長さ五十丈、高さ一丈。その外側にはさらに玉垣二重、板垣一重を巡らし、一つ目は長さ六十二丈、次は九十六丈、次は百十六丈、いずれも高さ一丈。それぞれ一重ごとに南北に一つずつ門を設ける。南の第一門を瑞垣門、第二門を内玉垣門、第三門を外玉垣門、第四門を板垣門(注:また荒垣門とも呼ばれる)といい、それぞれ長さ二丈、幅一丈、高さ一丈。また内玉垣門の外側には小門もある。東には斎内親王侍殿を、西には女孺侍殿(注:また舞姫候殿とも呼ばれる)を設け、いずれも長さ四丈で、幅・高さは順に半分ずつ減じる。御饌殿(みけでん)一棟は、長さ・幅・高さいずれも一丈。幣帛殿(へいはくでん)一棟は、長さ・高さいずれも一丈、幅一丈二尺。宿直屋(とのいや)三棟は、それぞれ長さ一丈四尺、幅八尺、高さ六尺で、いずれも院内にある。
¶板垣の外側にある諸々の院を、外院と称する。御倉院(みくらいん)には倉が三棟あり、一つは正殿・宝殿の鍵を納め、一つは懸税(かけちから)および御田(みた)の刈稲を納め、一つは鋪設(しきもの)を納める。いずれも長さ一丈六尺、幅一丈四尺、高さ一丈で、玉垣一重で囲み、長さ三十丈、高さ一丈。御輿停殿(みこしとどめどの)一棟は、長さ三丈五尺(注:五尺を四尺とする説もある)、幅一丈五尺(注:五尺を六尺とする説もある)、高さ一丈。御厩一棟は、長さ三丈五尺、幅一丈六尺、高さ一丈。直会所院(なおらいしょいん)には五丈殿(ごじょうでん)二棟がある。一つは長さ四丈、幅一丈六尺、高さ一丈。一つは長さ六丈、幅二丈、高さ一丈。九丈殿(くじょうでん)一棟は、幅二丈、高さ一丈。直会門(なおらいもん)という門があり、長さ一丈二尺、幅・高さいずれも一丈。(注:九丈殿の長さおよび玉垣の記載はいずれも欠けている。)
¶斎内親王御膳院(さいないしんのうごぜんいん)は板垣一重で囲み、長さ八丈、高さ八尺。その中に御膳殿(ごぜんでん)一棟を設け、長さ二丈。御炊殿(みかしぎどの)一棟は、長さ一丈八尺、いずれも幅一丈二尺、高さ八尺。御酒殿院(みさかどのいん)は防往籬一重で囲み、長さ三十五丈。その中に御酒殿一棟があり、長さ二丈五尺、幅一丈六尺、高さ九尺。務所庁一棟があり、長さ三丈五尺、幅一丈六尺、高さ一丈。盛殿一棟があり、長さ三丈、幅一丈六尺、高さ九尺。禰宜斎殿(ねぎさいでん)一棟があり、長さ三丈、幅一丈六尺、高さ九尺。斎火炊屋一棟があり、長さ一丈六尺、幅一丈二尺、高さ八尺。祭大炊屋(まつりおおいや)一棟があり、長さ三丈五尺、幅一丈六尺、高さ九尺。倉が二棟あり、一つは神酒(みき)および御贄(みにえ)などを納め、一つは雑器および米・塩などを納める。いずれも長さ一丈六尺、幅一丈四尺、高さ一丈。厨屋一棟があり、長さ三丈、幅一丈六尺、高さ八尺。
¶斎館院(さいかんいん)は防往籬一重で囲む(注:ある本には長さ十五丈とあるが、おそらく誤りであろう。斎館院の中には殿屋十九棟、倉一棟が列んでいることを考えると、その周囲の垣が十五丈にとどまるはずがないことがわかる。よってひとまず記載を欠いたまま、後の考証を待つこととする)。その中に御饌殿一棟があり、長さ二丈二尺、幅一丈二尺、高さ八尺。大内人・物忌などの宿館屋が合わせて八棟あり、それぞれ長さ二丈、幅一丈二尺、高さ八尺。斎火炊屋が五棟あり、それぞれ長さ一丈六尺、幅一丈、高さ八尺。物忌父(ものいみのちち)・小内人などの宿館屋が五棟あり、それぞれ長さ二丈、幅一丈、高さ八尺。倉一棟があり、木器を納め、長さ一丈六尺、幅一丈四尺、高さ一丈。以上の六院は総じて防往籬で囲まれ、その長さは二百七十余丈。その外側には馬集厩(ばしゅうきゅう)二棟があり、それぞれ長さ四丈、幅二丈、高さ八尺。幣帛御馬隠厩(へいはくおんうまかくしうまや)一棟があり、長さ二丈、幅一丈二尺、高さ七尺。(注:『止由気宮儀式帳』による。あわせて『延喜式』『新任弁官抄』『外宮考定図』を参照した。)後世、殿屋には多少の増減や変遷があったが、(注:『中右記』『兵範記』『類聚大補任』『新任弁官抄』による。)それは内宮の場合と同様である。
¶内院・外院の外側に、さらに中院(ちゅういん)を設けた。御輿宿殿・御厩などがその中にある。また外幣殿および御倉を内院に移した。禰宜・内人などの宿館は増えて六十余棟に至った。(注:『兵範記』による。)外宮は内宮に倣い、その規模をますます広げていったという。(注:『類聚大補任』『新任弁官抄』による。)
¶杵築大社(きづきたいしゃ)は、すなわちいわゆる天日隅宮(あめのひすみのみや)である。太古、天神が天御鳥命(あめのみとりのみこと)らに勅して造営させ、これを大己貴命(おおなむちのみこと)に賜った。(注:『日本書紀』による。あわせて『出雲風土記』を参照した。)その造りはひとえに皇孫の宮に擬したものであるという。(注:『古事記』による。)伝えによれば、上古の正殿の高さは三十二丈であったが、中古にその半分に減じたという。(注:社司の伝説による。)
¶後世の制度では、正殿一棟が瑞垣の中にあり、南を向いて方六間、高さ八丈。その中に大床(おおゆか)を設け、方九間、高さ一丈二尺、高欄で囲む。階段は一つで、両側にも高欄がある。屋根の南北両端には比木をそれぞれ二枚立て、その間に堅魚木を置き、前面には庇を設けて階段を覆う。その殿内には柱九本を立て、中央の一本を巌根柱(いわねばしら)と称する。その東北の一隅には、さらに内殿(ないでん)を構え、西を向いて方六尺、縁があり、高欄があり、屋根は檜皮で葺く。これがすなわち神座を設ける場所である。内殿の東には神宝を並べ、西北には客座(きゃくざ)を設ける。長さ一丈五尺、幅一尺五寸で、区画して五つの社とする。縁があり、高欄があり、檜皮で屋根を葺く。瑞垣は一重で、東西の長さはそれぞれ二十三間、北方は十九間、南方は屈折して内側に入り、その中央に楼門(ろうもん)を設ける。その東西には供祭所(くさいしょ)がそれぞれ一棟あり、その外側にはさらに回廊および板垣一重を巡らし、南面はさらに屈折する。
¶中央には八足門(やつあしもん)があり、門の内側には観祭楼(かんさいろう)および末社五棟を設ける。門外の正面には拝殿があり、その中に神楽所(かぐらしょ)を置く。拝殿の前、東には会所(かいしょ)および舞楽台(ぶがくだい)があり、西には庁舎(ちょうしゃ)および火焼屋(ひたきや)があり、その他宝庫および末社数棟が各所に散在する。さらにその外側は荒垣一重で囲み、門を七つ穿ち、南面には鳥居一基を設ける。その概略はこのようなものである。荒垣の東西には、それぞれ川を隔てて国造館(こくぞうかん)がある。東は北島氏(きたじまし)、西は千家氏(せんげし)の館である。(注:『杵築大社記』『大社金輪造営図』『大社殿舎図』による。)
¶大嘗宮(だいじょうぐう)について。上代の制度は考証することができない。貞観(じょうがん)に至って初めて諸式に著された。その後も多少の増減はあったが、今あわせて記録し、その大要を示すこととする。その殿舎の所在を総称して大嘗院(だいじょういん)という。朝堂院(ちょうどういん)内の龍尾道(りゅうびどう)前の庭に設ける。院は東西二十一丈四尺、南北十五丈で、柴垣で囲み、二つの院に分ける。東を悠紀院(ゆきいん)、西を主基院(すきいん)という。悠紀院には南北に門を開き、高さ・幅いずれも一丈二尺、楉(しもと、小枝)で扉とし、内側には屏籬(へいり)を植え、長さ二丈。正東のやや北寄りにも門を開き、造りは上と同じで、外側には屏籬を植え、長さ二丈五尺。悠紀院と主基院とを区画する籬(まがき)を中籬(なかまがき)という。その南端の通路について、道の南の籬は長さ一丈、道の北の籬は長さ九丈。中籬より東へ一丈五尺ほどのところに悠紀中垣(ゆきのなかがき)がある。その南北両端にはそれぞれ小門を開き、南北の宮垣とはそれぞれ三丈離れている。その南北の門の間には中垣があり、その南に正殿一棟を縦に設ける。おおよそ五間で、長さ四丈、幅一丈六尺、柱の高さ一丈、棁(たるき)の高さ四尺、椽(えん、軒)の長さ一丈三尺で、葛野席(かどのむしろ)をその上に覆う。北の三間を室(しつ)とし、南面に戸を開き、蔀席(しとみむしろ)を扉とする。南の二間を堂とし、黒木(くろき、皮つきの丸太)で構え、青草で葺く。その上には黒木で町形(まちがた)を作り、黒葛(くろつづら)で結ぶ。甍(いらか)には五尺の堅魚木八枚を置き、搏風(はふ)を取り付け、檜の竿(さお)で天井とし、黒葛で結び、小町席(こまちむしろ)を承塵(うけちり、天井裏の覆い)とする。壁の蔀は草を用い、表には伊勢斑席(いせのまだらむしろ)、裏には小町席を用いる。地面には束草(つかくさ)を敷き、その上に播磨簀(はりまのす)を加える。室の簀の上には席(むしろ)を加え、白端御畳(しらはたのおんたたみ)を席の上に加え、坂枕(さかまくら)を畳の上に施し、布幌(ぬののとばり)を戸に懸ける。堂の東・南・西の三面は、いずれも表を葦簾(あしすだれ)、裏を席障子(むしろしょうじ)とする。
¶正殿の東南には御厠(みかわや)一棟を横に設ける。長さ一丈、幅八尺、高さ七尺で、西面に戸を設ける。壁および扉などの造りは正殿と同じ。中垣の北六尺ほどのところに膳屋(かしわでや)一棟を横に設ける。おおよそ五間で、その造りもまた正殿と同じ。東の三間は柴で蔀とし、裏には葛野席を用いる。西・東の壁の下には楉棚(しもとだな)を作り、高さ二尺。西の二間を盛所(もりどころ、注:『延喜式』には盛膳所とある)とする。その西南の間はすべて席と柴で蔀とする。北垣の南六尺ほどのところに、二間の臼屋(うすや)一棟を横に設ける。おおよそ三間で、長さ一丈六尺、幅一丈、盛殿の東の端と向かい合う。その南に神服柏棚(かんはとりのかしわだな、注:原文には「南」を「西」とするが、おそらく誤りであるため訂正した)を縦に設ける。左右にそれぞれ四本の柱があり、長さ一丈五尺、幅五尺、高さ四尺。
¶主基院(すきいん)は、造りや装束はすべて悠紀院に準ずる。ただし東方の門屋を移して西方に立て、悠紀院と向かい合うようにする。大嘗院の北には廻立殿(かいりゅうでん)を横に設ける。おおよそ五間で、長さ四丈、幅一丈六尺、黒木で構え、板で葺き、その上に苫(とま)を覆い、席を承塵とする。西の三間は席で蔀とする。東南に戸を開く。天子が大嘗宮に入る際には、まずここで沐浴し衣を改め、その後に入る。(注:『貞観儀式』による。)
¶延喜(えんぎ)の制度では、神服柏棚を除き、中垣を廃し、膳屋・臼屋の南西にはいずれも籬を植えて、別に一つの院とした。門の制度を減じて高さ九尺、幅八尺とした。(注:『延喜式』による。)長和(ちょうわ)の頃には、さらに減じて高さ七尺、幅六尺とした。(注:『長和大嘗会記』による。)大嘗宮のほかに、悠紀・主基の斎郡(さいぐん)には、いずれも斎場(さいじょう)を占い定めて斎院(さいいん)を設けた。京では北野(きたの)にも斎場を占い定め、内院・外院・神服院を置いた。これらはすべて祭事に奉仕するために設けられたものである。
¶斎郡斎院(さいぐんさいいん)は、方十六丈で、柴垣で囲み、高さ四尺、楉(しもと)でこれを結う。四節および四隅には賢木(さかき)を挿す。東垣の中央には門を設け、高さ八尺、幅一丈、葦の楉を編んで扉とする。門を入って二丈ほどのところに、使政所屋(しせいしょや)一棟を縦に設ける。長さ二丈四尺、幅一丈二尺、おおよそ三間で、東面に戸を開く。その北には抜穂使宿屋(ぬきほのつかいのしゅくおく)一棟を横に設ける。長さ二丈四尺、幅一丈二尺、おおよそ五間で、南面に戸を設ける。東の三間を稲実卜部(いなのみのうらべ)の宿所とし、西の二間を禰宜・卜部の宿所とする。その西には五間の屋一棟を横に構える。長さ・幅は上と同じ。南に戸を開き、葦で扉とする。東の三間を物部男(もののべのお)の宿所とし、西の二間を稲実公(いなのみのきみ)の宿所とする。その西には造酒童女(みきつくりのわらわめ)の宿屋一棟を横に設ける。おおよそ三間で、長さ二丈、幅一丈二尺、戸・扉は上と同じ。その南のやや西寄りに八神殿(はっしんでん)を縦に設ける。おおよそ八間で、長さ二丈四尺、幅七尺八寸、柱の高さ八尺、使政所屋と東西に向かい合い、片廂(かたびさし)とする。内側には竹棚を安置し、高さ四尺、その上に席を敷いて神座とする。東に戸を開いて葦簾を懸ける。これはすなわち御歳神(みとしのかみ)ら八神を祀る場所である。その南のやや東寄りに高萱御倉(たかかやのみくら)一棟を設ける。方一丈で、北に戸を開き、葦で扉とする。内側には竹棚を作り、その上に薦(こも)を敷いて御稲(みしね)を安置する。その東には稲実殿(いなのみどの)一棟を横に置く。長さ二丈四尺、幅一丈二尺、おおよそ三間で、北面に戸を設け、青草を用いる。その東にはさらに物部女(もののべのめ)らの宿屋一棟を横に置く。造りは上と同じで、ただし葦で扉とする。おおよそ諸々の建物は、すべて黒木で構え、青草で葺いて蔀とする。ただし八神殿および使政所ならびに宿屋の部分には葦を用いる。(注:『貞観儀式』による。)
¶延喜の制度では、改めて八神殿一棟、長さ四丈、幅一丈とした。稲実斎屋(いなのみのいみや)一棟は、長さ二丈、幅八尺。使衙屋(しがや)一棟は、長さ四丈、幅一丈二尺。稲実公らの屋一棟。造酒児(みきつくりのわらわ)らの屋は、それぞれ長さ二丈、幅一丈二尺とした。(注:『延喜式』による。)
¶北野斎場(きたののさいじょう)は、外院が方四十丈で、柴籬で囲み、四面に門を開く。北方には内院・神服院を構える。神服院の南には庁屋(ちょうおく)一棟を横に設ける。南門の北三十丈ほどのところにあり、長さ五丈六尺、幅一丈六尺。おおよそ七間で、西北に戸を開き、南北に庇を設ける。その北一丈ほどのところに、酒屋一棟を横に設ける。西南に戸を開き、南方に庇を設ける。間数および長さ・幅は上と同じ。その東には人給屋(にんきゅうおく)一棟を横に設ける。長さ四丈、幅一丈六尺。おおよそ五間で、東の三間を室とし、西側に戸を設け、南に庇を設け、また壁を隔てて西に戸を開く。西の二間を堂とする。その南には料理屋(りょうりや)一棟を縦に設ける。長さ五丈六尺、幅一丈六尺。おおよそ七間で、西面に庇を設けて戸を開き、人給屋の西の軒と向かい合う。さらに南には倉代屋(くらしろや)一棟を縦に置く。長さ七丈四尺、幅一丈六尺。おおよそ九間で、東西の二面に庇があり、さらに南にも同じく一棟を縦に設ける。間数および長さ・幅・庇はいずれも上と同じ。その東もまた同様である。東門の北脇、北へ十三丈ほどのところに、官人宿屋(かんにんしゅくおく)一棟を縦に設ける。おおよそ五間で、長さ四丈、幅一丈六尺、東西に庇がある。南脇、南へ十四丈ほどのところに、五間の屋一棟を横に設ける。長さ三丈五尺、幅一丈四尺。西の二間を稲実公の宿所とし、東の三間を物部男の宿所とし、いずれも南に戸を開く。さらに南にも同様のものがあり、西の二間を造酒童女の宿所とし、東の三間を物部女の宿所とする。酒屋の西には大炊屋一棟を横に設ける。おおよそ七間で、長さ五丈六尺、幅一丈六尺、南北に庇がある。その南四丈ほどのやや西寄りに、雑物を納める屋一棟を縦に置く。おおよそ七間で、長さ五丈六尺、幅一丈六尺。西と東に戸を開き、東面に庇を設ける。その南には筥形(はこがた)を造る屋および漬菜屋(つけなや)一棟を縦に置く。さらに南には抜穂(ぬきほ)の御稲を納める屋一棟を縦に置く。いずれも造りは上と同じで、ただし西面にも庇を設ける。西門の北脇には大多米院(おおたぐいいん)があり、東面に門を開き、その中に四つの屋がある。門の北には酒屋一棟を横に設ける。おおよそ三間で、長さ二丈四尺、幅一丈六尺。南面に戸を開いて庇を設ける。門の南には麹室(こうじむろ)一棟を横に設ける。東側に戸があり、その他は酒屋と同じ。両屋の西の端には大炊屋一棟を縦に設け、東に戸を開き、その他は上と同じ。西門の南脇には造標屋(ぞうひょうおく)一棟を設ける。方四丈、高さ三丈八尺、四面に庇がある。その南には五間の屋一棟を横に立てる。長さ三丈五尺、幅一丈四尺。東の三間を駅使(えきし)の宿所とし、西の二間を禰宜・卜部の宿所とし、いずれも南に戸を設ける。その南にはさらに五間の屋一棟を横に設ける。東の二間を神服長(かんはとりのおさ)の宿所とし、西の三間を神服女(かんはとりのめ)の宿所とし、造りは上と同じ。
¶内院(ないいん)は、西を悠紀院、東を主基院とし、それぞれ方十二丈。悠紀院は、門を東方に設け、その南脇に神座殿(しんざでん)一棟を縦に設ける。おおよそ八間で、長さ二丈四尺、幅七尺八寸、柱の高さ七尺。西面に庇があり、内側には楉棚を構えて席を敷き、席の上に絁(あしぎぬ)を敷く。北脇には高萱片葺御倉(たかかやかたぶきのみくら)一棟を設ける。径八尺、高さ九尺で、四本の黒木を柱とし、薦を壁代とする。内側には楉棚を構え、高さ四尺。その西には稲実殿(いなのみどの)一棟を横に立てる。おおよそ三間で、南面に戸を設け、長さ二丈四尺、幅一丈二尺、柱の高さ八尺、柴で蔀とし、板を編んで扉とする。その南には倉代殿(くらしろどの)一棟を縦に立て、さらに南には御贄殿(みにえどの)一棟を縦に立て、いずれも西に戸を開き、柱の高さ七尺。さらに南には鋪設殿(しきものどの)一棟を横に立て、西側に戸があり、稲実殿と向かい合う。間数・長さ幅・蔀扉はいずれも上と同じ。稲実殿の西には黒酒殿(くろきどの)一棟を横に立て、次に白酒殿(しろきどの)を立てる。いずれも南に戸を設け、萱で蔀とし、薦を壁代とする。間数および長さ幅はいずれも上と同じ。その南には麹室屋一棟を縦に設け、さらにその南には大炊屋一棟を縦に設け、いずれも東に戸を開く。その南には臼殿(うすどの)一棟を横に置き、東側に戸があり、間数・長さ幅・蔀扉は稲実殿と同じ。おおよそ諸々の殿屋はすべて黒木で構え、萱で葺くが、ただし白酒殿だけは白木を用いる。
¶主基院は、門を西方に設け、殿屋はすべて悠紀院に準ずる。神服院(かんはとりいん)は方十丈で、悠紀院・主基院の内院の中間にあり、悠紀・主基二つの殿を設ける。門を東北に開く。北門の東脇には殿一棟を横に設けて悠紀とする。長さ三丈五尺、幅一丈二尺。おおよそ五間で、南面に戸を開く。南垣の下には五間の屋一棟を横に立て、神服殿と向かい合う。長さ三丈五尺、幅一丈二尺。西の三間は壁を隔てて神服女の宿所とし、東の二間は服丁(ふくちょう)の宿所とし、いずれも北に戸を開く。北門より西を主基とし、殿屋の造りはすべて悠紀と同じ。いずれも黒木で構え、萱で葺き、葉柴(はしば)を蔀とする。(注:『貞観儀式』による。)
¶延喜の制度では、外院に多明酒屋(たみょうさかや)・倉代屋・供御料理屋(くごのりょうりや)をそれぞれ一棟、多明料理屋三棟、麹室一棟を新たに造った。内院には八神殿・稲実屋・黒酒屋・白酒屋・臼屋・大炊屋・麹室をそれぞれ一棟設けた。神服院には悠紀・主基の神服殿を立て、神服男女の憩屋(いこいや)をそれぞれ一棟、祝部(はふりべ)の憩屋一棟を設け、その長さ・幅はいずれも事情に応じて定めた。その他さらに大嘗宮の近くの地に食院(じきいん)を設け、御膳を調理し、あわせて小斎人(こさいにん)の食事の場に備えた。四面にそれぞれ門を開き、中には盛屋・酒屋・贄屋(にえや)・器屋・大炊屋・供御膳屋(くごぜんや)・料理雑魚屋(りょうりざこや)・備食屋(びしょくや)をそれぞれ一棟設け、いずれも板で葺いた。ただし屋の数および長さ・幅は、事の繁簡に応じて増減があった。(注:『延喜式』による。)